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『武彦に愛人疑惑!?』
◆プロローグ◆
事務所内に鳴り響く呼び鈴を子守歌代わりに、武彦はクッションの弱くなったソファーでまどろんでいた。
休日の昼下がり。ポカポカと春の陽気を感じさせる日の光を体に受けながら、武彦はうっすらと目を開ける。茶色い染みの付いた天井が、ぼんやりとした視界に映った。
「おーい、零ー。お客さんだぞー」
眠そうに瞼を擦り、武彦は事務所内に居るだろう零に声を掛けた。
「すいませーん。ちょっと今手が離せないんですー。兄さん出てくれませんかー」
奥の部屋で掃除でもしているのか、間延びした零の声が返って来る。
仕方ない、と重い腰を上げ、武彦はおぼつかない足取りで出入り口に向かった。
「はーい、どちら様で……」
「ご主人様ああああぁぁぁぁぁ!」
あくびを噛み殺しながら扉を開けた武彦の視界が突然暗くなる。
「ちょ、な、なん……」
自分の首筋に腕を回し、顔にほっぺたを愛おしそうに摺り寄せてくる人物を引き剥がして武彦はどもった声で返した。
「ずっと、ずっとお探ししておりました! ご主人様!」
黄色いリボンを使って頭の後ろでポニーテールにまとめ上げた栗色の髪の毛を揺らし、まだ幼い顔立ちの少女は元気よく叫ぶ。十四、五歳と言ったところだろうか。零と同い年位に見える。
「だ、誰スか?」
目を丸くして上擦った声で答える武彦の両手をぎゅっと握りしめ、少女は熱のこもった瞳で見返してきた。
「そんなぁ……私の事、忘れてしまわれたんですかぁ?」
双眸を潤ませ、少女は消え入りそうな声で呟く。
「どこかで……会った?」
記憶の糸を必死になってたぐり寄せながら、武彦は改めて少女を見た。
首には黒いチョーカー。上質の黒染め生地で作られたエプロンドレスには胸、腰、スカートの裾に白いフリルがあしらわれている。膝下までの黒いハイソックスには同色の紐でリボンが結ばれ、足には厚底の黒いブーツを履いていた。
典型的なゴシック・ロリータの服装をした少女に、武彦は会った記憶がない。
「がーん! せっかく武彦様を訪ねて三千歩、遠路はるばるやって来ましたのにぃー……」
自分で効果音を発し、大袈裟な仕草で落ち込みながら、少女は事務所の前に崩れ落ちた。
「お、おい、ちょっと待っててくれよ。すぐに思い出――」
そこまで言って武彦は後ろから刺すような視線を感じ、慌てて後ろを振り向く。
「にーいーさーんー?」
腕を組んで半眼になり、呆れた様子で冷たい視線を送ってくる零がソコにいた。
「ちょ! 違……! 零! 変な誤解するな!」
「ええー、勿論。私は兄さんをー、心の底から信じていますからー」
ちっとも信じていない口振りで、零はゆっくりと言う。
「思い出してください、ご主人様あああぁぁぁぁぁ!」
「うわあぁぁぁぁん! いったい何なんだあぁぁぁぁぁ!」
下からする少女の絶叫に、武彦はソレを更に上回る大声で返しながら頭を抱えた。
◆PC:黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)◆
草間興信所から聞こえてくる絶叫に、冥月は嘆息しながら自嘲めいた笑みを浮かべる。
(やれやれ、たまにはここで平和な時間を過ごしたいんだが……)
腰まである長い黒髪を掻き上げながら、冥月は奇妙なサボテン事件を思い出した。
(人の幸せ吸い取るなんてろくでもないな……まったく)
切れ長の目を薄く開け、無愛想な鉄筋作りの雑居ビルを見上げる。年経たコンクリート製の直方体。この建物の二階に草間興信所はあった。
冥月は諦観したような表情を浮かべて、二階へと続く鉄製の階段に足をかける。
(私には厄介事か付き纏うらしい。コレも宿命ってヤツ、か)
一段上るたびに乾いた音で返事をする足場を、確かめるようにして上っていく。冥月が足を動かすたびに深いスリットの入った漆黒のチャイナドレスから、陶磁器のように白い足が見え隠れした。
「よー草間。相変わらず繁盛してるじゃないか」
クック、と冥月は底意地の悪い笑みを浮かべ、なにやら事務所の前で悪戦苦闘中の草間武彦を揶揄する。
武彦の前には中学生くらいの女の子が、両目に涙を浮かべて必死に訴えかけていた。どこかの電気街に出没しそうなゴスロリ系の服装をしている。仔犬を連想させる可愛らしい顔と相まって、ロリータ至上主義者達に大ウケしそうな風貌だ。
そんな彼女をどうにか説得しようと困り果てた様子の武彦。そして武彦を氷結の視線で射ぬく草間零。
(修羅場、か……?)
イマイチ状況の飲み込めず、冥月は眉間に皺を寄せた。
「あぁ!」
彼女が居ることにようやく気付いたのか、武彦は素っ頓狂な声を上げて目を剥き、こちらを指さしてきた。
「相変わらすモテモテだな、草間。羨ましいよ」
冥月は腰に手を当てて柳眉を伏せ、嘲笑を浮かべながら小さく鼻を鳴らす。
「テメーは……状況見て物言えよ!」
その不遜な態度が気に食わなかったのか、武彦はいきなり逆上して声を荒げた。
「なんだ、まだ足りないってのか。贅沢者だな。草間零にその女の子、次は私にでもプロポーズするつもりか?」
冥月は器用に片眉だけを跳ね上げ、おどけたように肩をすくめて武彦を睥睨する。
「こ……!」
吃音のような声を発し、武彦は自分にしがみついている女の子に目を落とした。そして膝をついてしゃがみ、彼女の肩を抱いて正面から見据える。その体勢のまま一瞬だけ冥月に視線をやった後、不気味なほどに極上のスマイルを浮かべて言い切った。
「君、俺なんかよりずーっと美形の『オ・ト・コ』があそこに居るから」
「アホかああぁぁぁぁぁ!」
冥月の履いていた高さ十センチはある黒のヒールが、半分ほど武彦の顔面に突き刺さった。
「――で。誰なんだ、そいつ」
クッションの弱くなった年代物のソファーに腰掛け、冥月は零の出してくれたコーヒーを一すすりした。当然ブラックだ。
「なぁ……最初にするべき質問じゃないのか、それ」
赤く腫れ上がった鼻を痛そうに擦りながら、武彦はタバコに火を付ける。安っぽい香りが充満し、狭く汚い事務所を更に陳腐な物へと貶めた。
「貴様が私を挑発するからだろう」
「お前が先だろーが!」
「やれやれ、低脳はすぐに責任を転嫁しようとする。そんなことだから厄介事に好かれるんだ」
「関係ねーだろ!」
「物事の因果律を読み切れない者の、哀れな言い訳にしか聞こえんな」
「テメ……!」
目を伏せ、コーヒーを機械的に口に運びながら淡々と喋り続ける冥月。彼女の挑発に面白いように乗り、勢いよく立ち上がろうとした武彦の体を零が後ろから押さえつけた。
「兄さん、今はそんなコトしてる場合じゃ……」
零の的確な指摘で頭を冷やされたのか、武彦は憤怒の形相を一変させて問題の少女の方に目を向けた。
彼女は今、怯えた視線で冥月の方を見ながら、武彦の腕をしっかりと抱いてソファーに座っている。
「あー、そうだった……。この『色男』のおかげですっかり忘れていたよ」
武彦からイヤミに思わず『影』を使いそうになるが、辛うじて理性で押し込めた。
「そう言えばまだ名前を聞いてなかったな。君の名前は?」
「深那(みな)と言いますぅ」
やたら間延びした少女の声に、冥月のコメカミが僅かに痙攣する。
「深那ちゃん、ね……。じゃ、深那ちゃんはどうしてココに来たの?」
「歩いてきましたです!」
お約束のボケに、持っているコーヒーカップが震え始めた。
「あー、いや……。何が目的で俺の事務所に来たのかな?」
「もちろん、ご主人様のお手伝いをするためです!」
どこぞのメイド喫茶で聞きそうなセリフに、手元だけだった震えが全身に伝播し始める。
「手伝いって……それってどこからか派遣されて来たって事?」
「ががーん! やっぱり思い出して下さらないんですねぇ……。ションボリですぅ」
心臓が早鐘を打ち、殺意に似た灼怒が体の最深から沸き上がってくるのが感じられた。
「ああ、ゴメンネ。ほら、仕事上色んな人と接してるからさ。悪いんだけど、最初から説明してくれないかな」
「うぅ……分かりましたですぅ。それじゃあ深那のお話、聞いてくださいぃ」
――ソコまでが限界だった。
手元のカップが甲高い音を立てて崩れ去ったのを引き金に、それまで伏せられていた冥月の双眸がカッ、と大きく見開かれる。
次の瞬間、深那に被さっていた天井からの薄い影が急激に濃さを増して異様に広がり、まるで意志を持ったかのように彼女の体を覆い始めた。
「はわわぁー! なんなんですかぁ、これぇー!」
さっきまで二次元でしかなかった影は、今や風呂敷のように上から深那を包み、呆然とする武彦の目の前で完全に呑み込む。そして影が音もなく引いていき、元の薄暗い事務所に戻った時には深那の姿は形もなかった。
「な、な、な……」
あまりに突然の事に、武彦は意味を成さない単音を連発する。彼の後ろで、零が絶句して立ちつくしていた。
どうやら二人とも状況を飲み込めなかったようだ。
「よかったな草間。厄介事が片付いて」
目の前のスチールテーブルに落とした自分の手の影から、代わりのカップとコーヒーメーカーを取り出し、冥月は何事もなかったかのようにコーヒーを注ぐ。
「お、お前……まさか……」
その態度で気付いたのだろう。武彦が震える指先で冥月の方を指しながら、口元からタバコを落とした。
「今頃どこの異界に飛ばされたかなぁ」
ようやく取り戻した安寧を味わうように、冥月は惚(とぼ)けた口調で言いながらカップに口を付ける。
冥月の能力。それは『影』を自在に操ること。影を物質化したり、影の中に亜空間を生み出して物品を収納することが出来る。勿論、影と影をつなげて任意の対象物を瞬間移動させることも可能だ。
(まったく……いちいちカンに障る喋り方をしおって)
明からに『狙っている』としか思えない深那の口調を思い出して、背筋に冷たい者が走った。
「お前なんてコトするんだ! あんな小さな子、変な異界に行ったら下手すれば死ぬぞ!」
「別に私は困らん」
武彦の怒声を涼やかに聞き流し、冥月は静かに言う。
「それより、この中身に興味はないか?」
コーヒーカップを置き、冥月は手の影から鞄を取り出した。
さっきまで深那の足下にあった物だ。牛革製の頑丈な作りで、一週間分の生活用品くらいならば軽く入れられる大きさをしている。
「あ! いつの間に!」
「黒さん! ダメです! 人の物を勝手に開けちゃ! そんなことより早くあの子を探しに行かないと!」
なんとか立ち直った零も武彦に加わり、冥月に非難を浴びせた。
しかし冥月は「面白くもない冗談だ」と少し目を細めただけで全く意にも介さず、無遠慮に鞄を開ける。
「なんだ、これは」
中身を見て冥月は訝しげな表情になった。
いったいどんな『ご奉仕グッズ』が出てくるのかと思いきや、中に入っていたのは山盛りのドッグフードと首輪だった。
「あの娘、そういうプレイがお好みだったのか?」
下らん、と蔑視を鞄に向けた後、興味が無くなったのかぞんざいな扱いでソレを放り投げる。零が慌てて鞄の下に潜り込み、体全部を使って受け止めるのが見えた。
「こぉら冥月! 何て事しやがる! 大体お前、何しに来たんだよ!」
立ち上がって激昂する武彦の顔を面白そうに見ながら、真っ赤になった鼻先に「お前をからかいに来たんだよ」と告げる直前、聞いたことのある声が事務所内に凛と響いた。
「武彦さん大声出さないの。外まで丸聞こえよ」
◆PC:シュライン・エマ◆
買い物から戻ってみれば、知らない女の子が事務所の前でしゃくり上げているわ、武彦の大声が聞こえるわで、やはりここ草間興信所はトラブルには事欠かないとシュラインは改めて思った。
軽くウェイブの掛かった黒髪はうなじの辺りで纏められ、吸い込まれそうな程の瞳の色は蒼。目元には薄くアイシャドウが引かれている。完璧に整えられた眉と、形の良い唇。色素の抜け落ちたような白い肌が織りなす均整の取れた体つきはモデルと比べても遜色ない。
(コレがちょっとでもお金に結びついてくれればねぇ)
首に巻いたシルバーアクセサリーをいじりながら内心苦笑し、シュラインはすすり泣く少女の手を引いて事務所に入った。
「武彦さん大声出さないの。外まで丸聞こえよ」
諭すような口調で言いながら、シュラインは事務所内を見回す。
鼻息を荒くして今にも食ってかかろうとしている武彦。
巨大な鞄に押しつぶされて呻き声を上げている零。
そして――
「あら、また貴女なの」
武彦の前のソファーに偉そうに座っている女性を見て、シュラインは目に力を込めた。
艶やかな光沢を放つ黒髪に、漆黒のチャイナドレスと闇色のハイヒール。まるで影そのものを背負ったかのような黒いパーツとは裏腹に、肌の色は新雪を思わせる純白。
意志の強そうな切れ長の目からは、どこか男性的な雰囲気すら感じ取れた。
「最近よく会うわね」
買い物袋を適当な場所に置き、黒冥月をじっと見据える。
事務所の大掃除の時といい、化け猫事件の時といい、訳の分からないサボテンの時といい、顔を合わせる事が妙に多い気がする。
(まさか、この事務所に居着く気じゃないでしょうね)
草間興信所の正式な事務員であり、住み込みとして火の車状態の家計をあずかっているシュラインにしてみれば、冥月の存在は厄介者以外の何でもない。
(ただでさえ変なのが住み着いてるっていうのに……)
『彼』が居ないか事務所内をキョロキョロと見回すが、それらしい気配は感じ取れない。珍しく散歩にでも出かけているのだろうか。
シュラインは少しホッとして冥月に視線を戻した。
何度見ても感心させられる彼女の美貌。女性であるシュラインですら、初めてあった時には見惚れてしまった程だ。もし武彦が誑(たぶら)かされでもしたら思うと、気が気ではない。
クールな喋り方やキツめの性格など、どこか自分に似通ったの点の多い彼女をシュラインはあまり快く思っていなかった。
(ま、同類嫌悪ってヤツのなのかもしれないわね)
胸中で嘆息し、シュラインは冥月の方に一歩近づく。
「なんだ? この私になに、か……あー!」
挑発的な視線だけをこちらに向けて来た冥月の両目が、叫び声と共に突然大きく見開かれた。彼女は幽霊でも見たような顔つきで、自分の横にいる少女を凝視している。
「あら、貴女の知り合いだったの、この子」
「そんな、馬鹿な……」
えぐえぐ、と喉を鳴らしている少女をまじまじと見ながら、冥月は立ち上がった。
「ええぃ! そんなハズはない! かくなる上はもう一度!」
裂帛の叫び声を上げ、冥月が右手を振り上げた次の瞬間、鈍い音と共に彼女の体が崩れ落ちる。
「もぅ、少し寝ていて下さい」
白目を剥き、ソファーに吸い込まれるように気絶した冥月の後ろから表れたのは、フライパンを持った零だった。たった今、冥月をあっちの世界に誘(いざな)った得物を下ろし、零は少女の元に駆け寄った。
「さ、もう大丈夫よ。一緒に甘いお菓子でも食べながら、お話聞かせてね」
柔和な笑みを浮かべ、少女に優しく語りかける零。
(零ちゃん、いつの間にかたくましくなっちゃって……)
そんな零をシュラインは、目元をひくつかせながら見守るのだった。
武彦と零から一通り話を聞き終え、シュラインは納得したように頷いた。
「なるほど。それじゃこの深那ちゃんが自分のことを話そうとした時に、あの人が暴走し始めためた、と」
冷たいタオルを後頭部にあてられ、ソファーにうつぶせの状態で苦悶の呻き声を上げている冥月を見ながらシュラインは抑揚のない口調で言う。
「そうなんです。ホントにもぅ……」
ほっぺたを可愛らしく膨らませ、零は珍しく怒った表情を浮かべて見せた。
「恐かったよねー。でも恐いお姉ちゃんは今寝てるから。ゆっくり喋っていいよ」
深那の頭を撫でてやりながら、零は彼女の落ち着きを促す。
「はぃ……どうもすいませんですぅ」
よほど恐い目にあったのか、深那は溢れ出る涙を拭い続けている。
「えーっと、取り込み中申し訳ないんだが、出来れば早く話してくれないかな。またコイツが目を覚ますと厄介なんでな」
「確かにそうね。深那ちゃん、どう? 喋れる?」
武彦とシュラインの言葉に、深那は栗色のポニーテールを文字通り尻尾のように揺らしながら小さく頷いた。そして思い詰めた表情で呟くように言葉を発する。
「実は私……犬又(いぬまた)なんです」
事務所内を支配する静寂。
聞き慣れない単語に居合わせた三人が三人とも互いに顔を見合わせ、目で相手の意思を確認する。そして三人は同時に頷き、同時に口を開いた。
『何ソレ?』
「え、えーっと……」
自分に向けられた六つの視線と三種の声に耐えかねてか、深那は困ったように頬を掻きながら微妙な笑みを浮かべる。
「わ、分かり易く言えば、猫又の犬バーションです」
『ああ』
と三人は同時に得心したような顔になって、ポンっと手を打った。
「それじゃあ何? あなた元々は犬なの?」
猫又とは年経た猫が妖力を持ち、尻尾が二本に分かれた化け猫の事である。一般的には人間に化けて人を騙し、悪行を働くとされている。
ならば犬又とは尻尾が二本に分かれた犬で、深那は今人間に化けているのだろうか。
「はい、そうです」
ようやく落ち着きを取り戻してきたのか、深那のリクエストで零が用意してくれたホットミルクを一口ふくむ。
「なるほど。それで冥月の影から脱出する事が出来たって訳か」
「はい。……でも、まだまだ未熟なので旨く行くか分からなくて……凄く恐かったですぅ」
冥月の能力はシュラインも知っている。確か化け猫騒動の時も、大掃除の時もその能力を使って無茶苦茶やってくれていた。アレに自分が呑み込まれたらと思うとゾッとする。
「でもまー良かったわね、零ちゃん。武彦さんがロリコンじゃなくて」
「べ、別に私はそんなこと……。ただ、兄さんがひょっとしたら私にも毒牙を……」
「思いっきり勘違いしとるじゃないか!」
はにかんだ表情で武彦の方をチラチラと見る零に、容疑者Tは歯を剥いて反論した。
「そーやってムキになるところがまた」
「だーから違うっつってんだろーが!」
シュラインのじと目に、武彦は右の中指をおっ立てながら大袈裟なゼスチャーで潔白を訴える。
「ほら、あんまり騒ぐとその子が怯えるし、冥月さんが目を覚ますわよ」
深那と冥月を交互に見ながら発したシュラインの言葉に武彦は観念したのか、肩を大きく落として目元を押さえた。
「くそぅ……ここの女共はなんでこう……くうぅ」
(ちょっと、からかい過ぎたわね。でもまー、こういう武彦さんも可愛くて好きなんだけど)
真剣に消沈する武彦に熱い視線を送りながら、小悪魔的な思考を浮かべるシュライン。慈愛に満ちた笑みを浮かべて、よしよしと武彦の頭を撫でながら深那に視線を移した。
「それで? あなたが武彦さんと知り合ったキッカケは?」
気落ちしている武彦の代わりに、シュラインが話を進める。
「あ、はい……。あれは、二年ほど前のことでした」
嬉しそうに顔を紅らめ、深那は武彦との出会いを語り始めた。
――深那と武彦が初めて出会ったのは今から約二年前。
変身能力への目覚めの第一歩として、尻尾が二股になり始めた深那を見た元飼い主は、気味悪がって彼女を捨てた。
元々そんなに優しくなかったご主人様だったが、エサは毎日ちゃんと一食ずつくれたし、月に二回は散歩に連れて行ってもくれた。苛立ちのはけ口に蹴飛ばされたこともあったが、次の日のエサにはドッグフードの他に夕飯の残り物を付けてくれた。
しかし親戚に半ば押しつけられる形で飼い始めた深那への愛情は深くならず、人気の無い川縁に置き去りにしてくるのに戸惑いはなかった。
唐突に訪れた別れ。
一人で生きていく術(すべ)など全く持たない深那は途方に暮れて、アテもなく彷徨い続けた。
空腹と孤独に押しつぶされそうになりながらも、食と寝床を求めて何日も歩いた。
そしてある日、夜の公園のゴミ箱をあさっていた深那は別の犬に見つかった。その公園は他の犬のなわばりだった。
深那を取り囲む何匹もの犬。逃げる気力や体力など殆ど残っていなかった深那は、あっけなく恐怖に呑まれて放心した。
低い唸り声を上げて威嚇する犬達。その中の一匹が深那に襲いかかろうと大地を蹴った瞬間、彼女を庇う形で入り込んだ人影があった。
それが草間武彦だった。
彼は次々と跳びかかってくる犬を素早い身のこなしで蹴散らし、見事深那を守り抜いた。
『大丈夫か?』
頬の擦り傷を乱暴に拭いながら、武彦は人なつっこい笑みを浮かべて深那の頭を撫でた。そして犬又である深那には武彦の言葉が理解できた。
――ありがとう。
そう言いたいのに口から発せられるのは、か細く弱々しい犬の啼き声だけ。もどかしさを感じて、深那は武彦の大きな手に自分の顔を摺り寄せる。それを感謝の意と受け取ってくれたのか、武彦は破顔してポケットを探り始めた。
しばらくして深那の前に一つのあめ玉が置かれた。
『ゴメンな。今こんな物しかないんだ。食べるか?』
見たことはあっても食べたことはない。深那は恐る恐る舌を伸ばして、あめ玉を一舐めした。そして口の中に広がる甘い感覚。
飼い主に捨てられ、天涯孤独の身となった深那の心の中が少しだけ温かくなった。
他人からの暖かさ。もう何年もソレを感じていないようにすら思えてくる。それほど捨てられてからの数日は深那にとって過酷なものだった。
『飼ってやりたい気もするけど……金銭的な事情でペットを置いておく余裕はないんだよ。悪いな』
深那の喉を指先でくすぐりながら、武彦は気落ちした表情を浮かべた。
――この人と一緒にいたい。しかし、今は迷惑が掛かる。
『また縁があったら会おうな。その時には事務所の方も大分楽になってるかもしれないし。ま、お前にこんな事言っても分からないか』
その時に武彦が向けてくれた表情はハッキリと脳裏に灼き付いている。
底抜けに明るい笑顔。誰かを無条件で元気にしてくれる。そんな顔だった。
いつか自分もこんな風に笑うことが出来るだろうか。
――この人と一緒にいられれば。
心の底から願いを込め、深那は自分を守る時に傷ついた武彦の手から滲み出る血を舐め取った。
「――と、言うわけでして。あれから無事、変身能力に目覚めた私はバイトをしてお金を貯め、ご主人様の匂いを追いかけてココに来たわけです」
長広舌を終え、深那は冷たくなりかけたホットミルクをすする。
「うぅ、良いお話ですぅ」
エプロンドレスの裾で目元を押さえ、零は涙混じりの声を上げた。
「なるほど。大体分かったんだけど、あなたはどうしてそんな格好してるの?」
深那のゴシック・ロリーターな服装を指さしながらシュラインは目を細める。
「ああ、これは一番割りの良かったバイトの制服を真似てみたんです。この服装だと一部の人に超絶な人気が出ましてですねぇ。写真を撮って頂いているのに、お金を貰えるなんて事もありました。だからご主人様にも気に入っていただけるかなーって」
八重歯を覗かせて可愛く笑って見せる深那。
そういうことか、と半眼になりながらも海より深く納得するシュライン。結構この子は世渡り上手なのかもしれないと思えてくる。
「そうか、お前あの時の……。だったら最初から言ってくれれば」
「うぅ、出来れば気付いて欲しかったんですぅ。そうすれば契約が強く……」
「契約?」
と、聞き返す武彦の声に重ねて、野太い声が事務所内に響き渡った。
◆PC:ジェームズ・ブラックマン◆
「ふ……話は全て机の下で聞かせてもらったよ、諸君」
ブラックマンはスチールテーブルの下にある僅かな隙間から這い出し、前髪を掻き上げてキザっぽい笑みを浮かべた後、胸に手を当てて慇懃(いんぎん)に礼をした。
耳に掛かるくらいで切りそろえた髪の毛は黒。着ているスーツも黒ならば、ネクタイも黒。ついでに言えば纏う雰囲気も黒だ。長身で骨格の大きいブラックマンが立っていると、それだけで事務所内が暗くなったように感じる。
冥月と良い勝負をするであろう黒の貴公子は、魅惑的な銀色の双眸でその場にいる全員に一回ずつ目線を預けた。
「これはこれは、武彦以外全員女性とは。無礼な登場、誠に失礼」
「……出たわね」
短く言いながら、シュラインは嫌そうな視線をこちらに向ける。
「うむ、おかげさまで今朝のお通じも……」
「そんなこと聞いてない!」
真顔で返すブラックマンに、シュラインが顔を紅くしながらツッコミを入れた。
「それはそうと武彦。その少女、ここに置く気か?」
「それはそうとクロ。お前どーやってこの下に居たんだ?」
さり気なく武彦の珈琲に口を付けるブラックマンに、武彦は呆れた顔で見返しながら聞いてくる。
「質問に質問で返すとは感心しないが……まぁいいだろう」
珈琲カップを持ったまま器用に冥月をどかし、優雅な身のこなしで武彦達の前のソファーに腰掛けた。
「で、その少女のことだが」
「だからどーやって居たんだよ! 十センチくらいしかないような隙間に!」
スチールテーブルは上段と下段の二段で構成されており、主に荷物などを置く下段と床との隙間は十センチくらいしか開いていない。ゴキブリでもない限りは入り込むことなど不可能だ。
「武彦。紳士たる者、秘密の一つや二つは常に抱えているものだ」
「……ケタを二つ程間違えてるんじゃないのか?」
渋く返すブラックマンに武彦は諦めたように息を吐いた。
「先に言っておくが武彦。私はその少女をココに置くことには断固反対する」
いつになく強い口調で言い、ブラックマンは腕組みをして深那を見下ろす。
「ど、どうしてですかぁ……?」
追いつめられた仔犬のような視線をブラックマンに向けながら、深那は助けを求めて武彦の腕にしがみつく。
「当然。私の居場所が縮小されるからだ」
『お前が出て行け!』
武彦とシュライン、そして零までもが声をはもらせてブラックマンを責め立てた。だがまるで気にした様子もなく、ブラックマンは小さく鼻を鳴らして瞑目する。
「『嫌よ嫌よも好きよの内』、か……。この国にある素晴らしい言葉を思い出したよ」
『どれだけプラス思考なんだよ!』
と、またも三人が同時にツッコミを入れた。
「ま、まぁ、ソレはともかくとして。武彦さん、私もこの子を置くことには反対だわ」
話が進まないと見たのか、シュラインが脱線しかかった会話を本筋に戻す。
「ふえぇ。ダメなんですかぁ?」
今にも泣き出しそうな顔になってシュラインを見る深那。武彦の腕を掴む手が微かに震えている。
「ゴメンナサイね。貴女がココにいたいって気持ちも分かるんだけど……ほら、やっぱりこの商売って信用が第一じゃない。身元不明な人を二人も置いておくわけには行かないのよ」
さり気なく武彦の腕から深那を引き剥がし、シュラインは落ち着いた口調で言った。
「身元不明……ああ、零のことか」
『お前だよ!』
ポツリ、とこぼしたブラックマンの言葉に三たび三人がツッコむ。
「そ、それにね。この事務所狭いから貴女が居るスペースもないし、食費とかだって……」
「どんな場所でも構いません! 台所のスミだって、物置の中だって、ガスメーターの設置場所だって、ご主人様の側にいられればどこでもいいいです! それに食費だってちゃんと自分で払いますから!」
またもやギュッ、と武彦の腕を強く抱きかかえ、深那は早口でまくし立てた。
「シュラインさぁん。私のお部屋に一緒にいて貰ってもいいですし、食費も兄さんのタバコ代を削れば多分何とかなりますよ」
零の言葉に武彦は大きく体を震わせ、ぎこちない視線を深那に向ける。そしてシュラインに目を移し、最後に零を見た後で「うぅーん」と呻き声を上げた。
深那を置いやりたい良心と、タバコを減らされる事への恐怖がせめぎ合っているだろう。
「でもねぇ……」
それでも納得しないのか、シュラインは釈然としない表情で深那を見つめ、やはり武彦の腕から彼女を引き剥がす。
(フ……この困ったさんめ。要するにこの少女に武彦を独り占めされそうで恐いのだろう)
零は深那を置きたい派。シュラインと冥月は出したい派。そして武彦は中立。
戦況は圧倒的にブラックマンに味方している。
(しょうがないな。この私が止めを刺してやるか)
こっちも生活がかかっているんでね、と胸中で付け加えてブラックマンは口を開いた。
「猫又や犬又といった動物由来の物の怪が、人型となって人間と共に生活するには条件がある」
唐突に始まった自分の語りに、四人がこちらを見たのを確認してブラックマンは続ける。
「『血の契約』という物を結ばなければならない。なに、話は単純だ。物の怪が自分の主となる人間の血を舐め取ればいい。その少女は武彦に助けられた時、手の甲の傷口から血を舐めた。つまり、二年前から契約は締結されていたわけだ」
長い足を組みかえ、ブラックマンは目を細めて深那を見据えた。
「その契約がある限り、どれだけ離れていても主の場所を知覚できる。熟練者になれば瞬間的に側まで移動することも可能だ。さっき冥月の影で飛ばされた時に戻ってこられたのも契約のおかげというわけだ。だからシュライン、今追い出したとしても契約を解かない限りこの少女は何度でも現れる」
深那の体が震え始める。恐らく直感的に察知したのだろう。ここまで知っているブラックマンならば契約解除の方法も知っている、と。
「契約の強さは主との心の繋がりに依存する。お互いの理解が深まれば深まるほど、より強固な物として確立されていく。この少女が自分の事を武彦に思い出して欲しかったのは、契約を強めるためだ」
そこまで言って話を句切り、ブラックマンは珈琲を一口含んでシュラインの方を見た。目が早く先を話せと言っている。契約解除の方法を。
口の端を軽く上げて微笑を浮かべて見せ、ブラックマンは先を続けた。
「契約を解く方法は一つ。犬又本来の姿を主以外の人間の前で晒すことだ」
「なるほど、よく分かった」
突然、隣で気絶していたはずの冥月が浮かぶように立ち上がる。
「犬っコロの姿に戻してもう一度影で飛ばせば、二度と戻って来られないわけだな」
低い声で言った冥月の足下から、影が不自然に長く伸びた。それは何本もの細いロープとなり、深那の体を捕縛する。
「み、冥月! お前起きてたのか!」
「ああ、この黒野郎が得意顔で話し始めた辺りからね」
ブラックマンの方を一瞥して冥月は右手を深那の方にかざした。
「は、うぅぅぅ……」
深那から苦悶の声が漏れる。体を拘束している黒いロープがどんどん食い込んでいくのが見た目にもハッキリと分かる。
「さぁ! 妖力か何かで抵抗しないとバラバラになるよ!」
「や、止めてください黒さん! 深那ちゃんが死んじゃいます!」
「死にはしないさ。犬又なんだろ? コレくらいで参るような力しかないんなら、最初に飛ばされた時に帰ってこられるはずがない」
悲鳴じみた声を上げる零に、冥月は酷薄な笑みを浮かべて返した。
「いくら何でもやり過ぎよ! 武彦さん、止めさせてあげて!」
切迫したシュラインの声。言われるまでもなく武彦は勢いよく立ち上がるが、すぐに座ってしまう。
「じっとしてるんだ草間。すぐに私が厄介払いしてあげるから、良い子で待ってな」
この薄暗い事務所ならば影には事欠かない。殆ど冥月の独壇場だ。武彦だけではなく、シュラインや零も重力が何倍にもなったかのように身動きできないでいた。
「やれやれ乱暴な女性だ。私は貴女の味方だというのに。同じ黒ずくめ同士、仲良くしようではないか」
そんな中、ブラックマンだけが影からの束縛を受けず、優雅に珈琲を啜っている。
「お前! どうして!」
普段閉ざしている目を大きく開け、驚愕の眼差しでコチラを射抜く冥月。ブラックマンの周りの影が更に濃密さを増していくが、相変わらず平然としている。
「うーむ、珈琲が冷めてしまった。やはりコクと旨味を味わうには熱いのが一番」
言いながらパチンと指を鳴らすと、冷め切っていたはずの珈琲から湯気が上り始めた。
「貴様も妖魔の類か!」
「当たらずも遠からず、と言ったところか」
とぼけた口調で言いながら、深那の方を指さす。
冥月の生み出した影の紐が、力負けして押し戻されていた。
「チッ。お前とは後でゆっくり話をしないとな」
自分の能力によほど自信があったのだろう。悔しそうな顔つきで深那に顔を向け直し、手に力を込める。
「あうぅぅぅぅ……」
弛みかけていた紐が力を取り戻し、再び深那の体に食い込んでいった。
「うーむ束縛される美少女。可憐でいて繊細。今にも壊れそうな構図はどこか淫靡。芸術性の高い物に仕上がりつつあるな」
訳の分からないところに感心しながら、ブラックマンは熱い珈琲から立ち上る香りを楽しんでいる。
「おいクロ! お前動けるんなら冥月を止めろ!」
「悪いな武彦。それは出来ない相談だ」
勿論、生死に関わる様な事になれば当然止めるが、と心の中で呟き、ブラックマンは冷静に状況を見守った。
「も、もぅ、限界ですぅ……」
深那から弱い声が漏れる。
そして二呼吸ほど置き、ポンッというコミカルな音を立てて深那の頭から犬の耳が飛び出した。
「ハハッ! ついに人型を保てなくなってきたか!」
歓喜の声を上げる冥月の目の前で、深那の姿がどんどん変化して行く。
頬にはピンと張った髭が生え、手は茶色の毛に覆われて肉球が盛り上がった。黒いゴシックドレスは柔らかそうな栗色の毛で覆われ、体に吸い込まれるようにして一体化していく。
そして空気が抜けたように体が縮んでいき、自然と影の紐から解放された。
「お……」
完全にただの犬となった深那を見て、冥月が声を漏らす。
「これは……」
「あら……」
「わあ……」
武彦達も影の束縛から解放されたのか、自由になった首を動かして深那をのぞき見た。
「クゥン」
高い音域で鳴き声を漏らした深那の姿は、珠のように可愛らしいという言葉がピッタリな仔犬だった。
栗色の体毛は磨き上げられたように艶やかで、肉付きのいい丸いフォルムの体が健康美を引き立てている。渦のように折り畳まれた二股の尻尾を申し訳なさそうに垂らし、愛くるしいクリクリとした黒い瞳で武彦を見上げていた。
「可愛いーっ」
零が黄色い声を上げながら両手で深那を抱き上げ、顔に頬ずりする。
「武彦さん、この事務所ってペットオッケーだったわよね」
「へ?」
シュラインの質問に武彦は素っ頓狂な声を上げて返した。
「草間、いくらお前でもドッグフード代くらい捻出できるだろう」
「へぇ?」
冥月の意外すぎる言葉に、武彦は目を丸くして声を高める。
「大丈夫ですよ黒さん。兄さんのタバコ減らしますから」
「そうか。なら安心だ」
「これで殺伐とした事務所が大分和むわ。良かったわね、武彦さん」
女性陣三人の中で、深那をココに置くことはすでに決定されているようだった。
(……しまった。可愛い物に弱いというのは、全女性に共通だったのか……)
一瞬で寝返ったシュラインと冥月を交互に見ながら、ブラックマンは胸中で悪態を付く。
(だが私には私の主張がある。これを曲げるわけにはいかん)
珈琲カップを置き、ブラックマンは流れる動きで立ち上がる。突然せり出した巨大な黒柱に四人の視線か集まった。
「武彦。その犬、ココで飼うつもりか」
声のトーンを落とし、真剣な表情で聞く。
「え? あ、ああ。まぁ、みんな異論はないようだし。仔犬くらいだったクロの居場所を無くすようなことはないだろ」
その言葉にブラックマンは深い溜息をつき、
「実は、もう一つ別に極めて深刻な問題が浮上してしまった」
この世の終わりを垣間見たような顔を上げた。
「なんだよ」
「私は犬アレルギーなんだ」
鼻の奥の痛痒感から生まれた鼻水を、大袈裟に吸い込んで咳き込む。武彦は呆れた顔つきで見返した後、何故か痙攣するコメカミを押さえながら頷いた。
「そうか。なら、しょうがないな」
「分かってくれたか武彦」
自分に理解のある男に心の中で賞賛を送り、ブラックマンはホッとして胸をなで下ろした。
「冥月、頼む」
「うむ」
武彦の声に応えて冥月が立ち上がる。
「貴様ほどの男だ。私がフルパワーでやったとしても問題ないな」
「何故私を見る。ターゲットは向こうだろう」
ボキボキと両手を鳴らしながら、壮絶な視線をこちらに向けてくる冥月。
「クロ、短いようで長い付き合いだったな」
武彦の別れの言葉でようやく彼の真意を理解した。
「武彦待て、早まるな。お前と私との心の繋がりはその程度モノだったのか」
言われて武彦はニッコリと微笑み、
「俺と契約したかったら、可愛い小動物に生まれ変わってこいよ」
ひらひらと片手を振って見せた。
「そぉら行って来い、暗黒界!」
自分の周りの空間がだけが黒一色に塗りつぶされていく。それは意志を持っているかのようにブラックマンの手足にまとわりつき、拘束していった。
(フ……この程度で私から逃れられると思うなよ、武彦)
必ず戻ってくる、と自分に固く誓い、ブラックマンは瞳を閉ざした。
◆エピローグ◆
徹夜で翻訳の仕事を終えたシュラインがリビングに出てきてみると、深那にじゃれつく零と、ソレをじっと見守る冥月の姿が目に入った。
「……貴女、また来てたのね……」
欠伸を噛み殺しながら、シュラインは冷蔵庫を開けて栄養ドリンクを取り出す。慣れた手つきでキャップを開け、一気に飲み干した。ニンニクエキスの放つ独特の匂いが鼻から抜け、高濃度のアルコールのように熱い塊が喉を通っていくのが分かる。
「なんだ、悪いか」
ソファーの上で長い足を組みかえ、冥月は艶やかな黒髪を手で梳いた。
「別にそんなこと言ってないでしょ。ちょっと意外だっただけよ」
深那が犬の姿となり、草間興信所のペットとして飼われ始めてから早一週間。冥月は殆ど毎日のように顔を出していた。
(もっとツンツンした嫌な性格とかと思ってたけど、どうやら思い違いだったようね)
服装は相変わらず黒一色だが、表情が以前より格段に柔らかい。深那の前足を持って、よちよち歩かせている零に向ける視線は、まるで子供を見守る母親のようだ。
「さっきから人をジロジロと見て。私の顔に何か付いているのか」
「ええ、目と口と鼻と……あと気持ち悪いくらいの微笑みがくっついてるわ」
「馬鹿なことを……」
茶化して言ったシュラインの言葉に、冥月は少し顔を赤らめてそっぽを向いた。
そんな仕草を見ていると、ますます最初とのギャップがあり過ぎて戸惑いすら覚えてしまう。
「あら、そう言えば武彦さんは?」
いつもならこの時間帯は、コーヒーでも飲みながらタバコを吹かしているはずだ。
「兄さんなら散歩に行きましたよ。ココにいるとタバコが吸いたくなるって、ライターとか全部置いて行っちゃいました」
見れば武彦が座っている事務用のデスクには、雑然と積み上げられた書類の上にマルボロが三箱と百円ライターが放置されていた。
(ふふ……結構頑張ってるわね。いいことだわ)
深那の食費を捻出するためにも武彦は進んでタバコの数を減らしている。今まで当たり前のように一日三箱以上カラにしていたが、今では『多くて三箱』にまでなった。微妙ではあるが、ヘビースモーカーの武彦にしては大きな進歩だ。
「ういー、ただいまー」
そんなことを思っていると事務所の出入り口から聞き慣れた声がして、武彦が入ってくる。
「お、冥月。また来てたのか」
羽織っていたジャケットをクローゼットに戻しながら、武彦はソファーで拗ねたような顔をしている冥月に声を掛けた。
「……悪かったな」
シュラインと同じ事を武彦にも言われ、冥月は口を尖らせる。
「そんなことよりその趣味の悪いリボンはなんだ。貴様のブームか」
「リボン?」
冥月の指摘に、武彦は眉間に皺を寄せて返した。
確かにシュラインも気になっていた。武彦の頭の後ろで黒いリボンが揺れている。
(……揺れてる? 風もないのに?)
室内なので当然無風だ。しかしリボンはまるで蝙蝠の翼のように揺れていた。
「ふはははは。よーやく帰ってこられたぞ」
そしてリボンから聞きたくない低い声が響く。直後、リボンは武彦の頭を離れて飛び立った。
はたして、蝙蝠の翼のように揺れていたリボンの正体は、蝙蝠が翼を揺らしていただけだった。
「こ、この声は……!」
武彦の上げた驚愕の声に応えるように蝙蝠から黒い影が伸び、人型を取って安定してた。
「これはこれはレディー。またお会いできましたな」
冥月に体を向け、胸に手を当てながら恭しく頭(こうべ)を垂れたのはブラックマンだった。
「お、お前! どうして……!」
「はっはっは。貴女が異界どころか魔界にまで飛ばしてくれたおかけで、流石の私も帰還するのに一週間も掛かってしまったよ」
ありありと狼狽の色を浮かべながら冥月はブラックマンから距離を取る。
「帰ってこられない、帰ってこられるはずないのに……」
よほど自分の技に自身があったのだろう。酸欠の金魚のようにパクパクと口を動かしながら、冥月は力無い足取りで後ずさった。
「貴女の技は素晴らしいモノだった。この私が、亜邪界のリンクを介して間接的に物質界に干渉しなければ使い魔すら表に出せなかったのだからな。しかしまぁ、外部とのチャンネルが繋がってしまえばこちらのもの。使い魔には武彦の匂いを覚えさせているから、ヤツが武彦を捕捉したのを見計らって私の精神体を引っ張って貰えばいいだけのこと。肉体の再生はこちらに浮遊している亜粒物質でどうにでも補完できる」
自分が魔界という場所から戻って来たいきさつを事細かに説明するが、シュラインにはサッパリ理解できない。
「クソ! そんな事認めん! 絶対に認めんぞ!」
肩幅に足を開き、冥月が戦闘態勢を取った。
「ほほぅ。この私に二度も同じ技が通用するとでも?」
冥月を見下ろしながら不敵な笑みを浮かべるブラックマン見て、シュラインは自分でも理解できることを一つだけ思い出した。
(まだまだ、厄介事は続くって事ね……)
休日、午後の昼下がり。
天気は快晴、ぽかぽか陽気の小春日和。
なのにシュラインの心の中は雹が土砂降りだった。
【終】
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【2778/黒・冥月 (ヘイ・ミンユェ)/ 男/25歳/泥棒】
【5128/ジェームズ・ブラックマン (じぇーむず・ぶらっくまん)/男/666歳/交渉人 & ??】
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■ ライター通信 ■
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どーも、シュライン・エマ様。お久しぶりです。三カ月ぶりに帰ってきました(笑)。
今回シュライン様は皆のまとめ役のような位置付けで動いていただきました。シュライン様のプレイングに「仔犬みたい」とあったので「よし、じゃあホントに仔犬にしよう」と閃いて今回のお話ができあがりました(笑)。そう言った意味でもまとめ役……。
そして恐らくは初共演となるブラックマン様とのやり取り、こんな感じでよろしかったでしょうか。ソコだけが心配です(汗)。
また次の草間興信所の調査依頼でお会いできることを願って。では。
飛乃剣弥 2006年4月30日
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