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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


『廃病院の謎を解け!』
◆プロローグ◆
 深夜の廃病院。
 不気味なほどに静まりかえり、辺りには誰もいない。にもかかわらず、そこかしこで何かの気配が漂っていた。
「碇さぁん……帰りましょーよぉ……」
 側で情けない声を上げる三下忠雄の顔面に蹴りを一発見舞い、碇麗香は鋭い視線を周囲に向け続ける。
 かつて白かっただろう壁は泥で黒く汚れ、廊下には砕けたコンクリートが散乱していた。窓は殆どがひび割れ、抜け落ち、所々に設置された鏡は顔が映らないほどに劣化している。受け付けカウンターに置かれた黒電話が時代を感じさせた。
「ちゃんと裏取るまで帰れる訳ないでしょーが」
「ひゃ、ひゃいぃ……」
 麗香の叱咤にやはり情けない声で返す三下。彼女の持つ小型ライトで照らされた院内を、怯えた表情でキョロキョロと見回す。
 麗香達がこの廃病院に来た理由――それはこの病院が潰れた真相を明かすこと。
 今から三十年ほど前、当時では珍しい五階建ての総合病院だったココは、医療ミスがあったと報道されて経営を圧迫された。そして人は少しずつ居なくなり、院長の自殺という形で幕を引かれたのだ。
 だが、医療ミスがあったという証拠は結局見つからなかった。
 病院が巧妙な手口で隠蔽したのか、それとも……。
「ああ……桂クンが変な情報持ってくるから……」
 麗香の体に隠れるようにして廊下を歩きながら三下が小声でグチる。彼の鳩尾に肘鉄を一発食らわせて、麗香は注意深く辺りを探った。
『最近、御乃寺(おのでら)病院に”出る”って噂聞いたんだ』
 アルバイトの桂が得意そうに言ったのは二日前のことだ。
 普段なら珍しくもないと聞き流すところだが、出た場所が御乃寺病院となれば話は別だ。ここで実際に治療を受けて死んでしまった人の霊に話を聞けば、事の真相は明らかになる。医療ミスを隠していたというならば証拠を誰か知っているかもしれない。最悪、彼らの誰かを三下にでも乗り移らせて証言させればいい。時間を掛けて当時のことを事細かく語れば、いずれ信じてくれるだろう。 
 どちらにせよ三十年前に闇に葬られた事件が人外の協力によって明らかになる。ベタではあるが、面白そうなオカルト記事になることは疑いようがなかった。
「碇さぁん……僕達だけじゃ絶対に危険ですって。他の人達と合流しましょうよぉ……」
 タイトなスーツに包まれた胸を張り、高いヒールを鳴らして二階の廊下を歩く麗香の背中に三下が泣き声で懇願する。
 ココに来ているのは麗香達だけではない。調査効率を上げるためにも『専門のスタッフ』を二人雇い、バラバラに行動して貰っていた。
「本当に危険になったら、ね」
 後ろを振り向くことなく麗香は返す。
 彼らには専用の携帯を持たせてある。いざとなったら呼び出すが、それまではバラけて行動して貰わねば高い金を払って雇った意味がない。
「わぷ!」
 前以外に注意が行っていたのか、三下が奇妙な声を上げて、急に立ち止まった麗香の背中にぶつかった。
「出たわよ」
 空白の間。恐らく三下は麗香の言葉がすぐに理解できなかったのだろう。
 今、麗香の目の前が不自然に歪み、何かが実体化しようとしていた。流石の麗香も背筋に冷たい物が走る。だが強靱な精神力で恐怖心を律し、集中力を上げるようにスッと目を細めた。
「貴方に聞きたいことがあるの。いいかしら?」

◆PC:月代慎(つきしろ しん)◆
 夜闇に月が冴え渡る。
 もう夏は間近だというのに空気は冷たく、重く、まるでこの三十年間の時の流れを物語るかのように足下に堆積していた。
 心霊スポットとして取り上げられれば、間違いなくナンバーワンをの座を欲しいままにするであろう夜の廃病院。当然、人影は自分とパートナーを除いて他にいない。
 こんな時は――
「ねーねーシュラちゃーん。コレ片付いたらシュラちゃんのおうち、行ってもいーい?」
 不気味な雰囲気を見事にブチ打ち壊し、月代慎の甲高い声が院内に響いた。
 軽くウェイブの掛かったセミロングの黒髪に、月光を鮮やかに照り返す金色の瞳。大袈裟なファーの付いたジャケットと、全身に散りばめられたシルバーアクセサリー。動き易さよりもファッション性を重視した服装に包まれた体は小学生のように小さく、顔には色濃くあどけなさを残している。
「一晩だけ、一晩だけ泊めてー。シュラちゃーん」
 今回の仕事のパートナーであるシュライン・エマの周りを仔犬のようにぐるぐると周りながら、慎は猫なで声で媚びた。
「月代君、真面目にやって。こういう場所でいつまでもふざけてると命に関わるのよ」
 しかし声を掛けられたシュラインはいつも通り冷静に返す。
 長い黒髪と気の強そうな切れ長の目、モデルと肩を並べるほど抜群のスタイルを誇る妙齢の女性。今回の仕事で初めて会ったが、彼女の冷たい貌(かお)の内側に慎の大好きな『優しいおねーさん』が眠っていることはすぐに分かった。
「だーかーらー、俺のことは『慎ちゃん』って呼んで」
 頭の後ろの手を回し、小さな胸を張って拗ねたような表情を浮かべる。
「……そう呼んだら、真面目にやってくれる?」
「うんっ」
 声に弾みをつけて慎は答えた。
 シュラインが疲れたような表情を浮かべて溜息をついた後、口を開こうとしたその時だった。突然、横手の病室内からけたたましい音が響き、粉塵を巻き上げて扉が廊下側に吹き飛んでくる。
「月代君!」
「もー、『慎ちゃん』だってのにー……」
 一気に緊迫した表情になるシュラインとは裏腹に、慎は相変わらずやる気のない視線でで灰色の煙が撒き上がる前方を見ていた。
「コレは……」
 シュラインは中から現れた物を見て驚愕に目を見開く。
 それは一匹の異形だった。上半身の筋肉だけが異様に発達し、ドクンドクンと脈打つ赤黒い体には無数の口が縦に開かれている。頭部はなく、代わりに巨大な眼球が不自然に乗せられていた。
「おやおや、恐いおにーさんの登場かぁ。俺、あーゆーのきらーい」
 しかしソレを見ても慎はまるで動じる様子もなく、面倒臭そうに黒髪を指先で弄んでいる。
「月代君! 来るわよ!」
 悲鳴に近いシュラインの絶叫。その声を合図にしたかのように異形は廊下を蹴り、異常な跳躍を見せて慎達に襲いかかった。
「……ったく、雑魚のクセに」
 低く呟いた慎の目つきが変わる。
 金色の目を僅かに細め、錐のように鋭い視線で跳びかかってくる異形を射抜いた。
「避けて!」
 すでに後退していたシュラインの声が背中に掛かる。
「避ける? 冗談でしょ?」
 小さく鼻を鳴らして、相手を馬鹿にしたような表情を浮かべる慎。頭上から振り下ろされる異形の凶撃に会わせ、慎は右手を差し出した。その掌から僅かに青白い燐光が漏れる。
 そして異形の腕と慎の右手が交わった。
 全身を襲う膨大な空気の塊。直後に大気を鳴動させる爆音が撒き起こる。共振を起こした廊下の窓ガラスが、乾いた音を立てて次々に粉砕されていった。
「バイバイ、恐いおにーさん」
 柔和な微笑を浮かべ、自分以外には聞こえないだろうと思いながら慎は軽い口調で言った。
 慎の右手が触れた部分を始点に、異形の体が紅い線で覆われる。次の瞬間、ソレを切れ目にして異形の体は原形をとどめないまでに細切れになった。
「憑依霊か……それも複合タイプ。これだけハッキリと具現化出来るって事は、相当溜め込んでいたはず。恐らくどこかに封印の術具が……」
 単なる肉塊と化した異形のなれ果てを靴の裏で踏みつけながら、慎はいつになく神妙な顔つきで言葉を漏らす。
「い、今……何をしたの?」
 ようやく我に返ったのか、シュラインの声が後ろからした。
「わーん、恐かったよー、シュラちゃーん」
 先程までの真剣な表情を一変させ、慎は甘えた声でシュラインの所に戻る。
「ねーねー、俺さっきの悪者やっつけたよ。褒めて褒めてー」
 そしてここぞとばかりにシュラインの長い足に抱きつき、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら頬ずりした。
「貴方……何者、なの……」
 呆然としたシュライン声が、静かになった院内に響いた。

◆PC:シュライン・エマ◆
 慎の話では、さっきの化け物は悪霊が死体に取り憑いた物らしい。とうの昔に白骨化しているであろう死体の肉を自ら補い、ああいったハッキリと目に見える形で動けるというのは滅多に無いと言う。
『ま、よっぽど強い結界で呪縛されていたんだろーね』
 本来成仏するべき霊を、何らかの力で強引に押さえ込んでいればその場所に怨念が蓄積させていく。そしてその力が消え去った時、溜め込まれた力は一気に放出してたタチの悪い悪霊と化す。
 飄々と語る慎の言葉に耳を傾けながら、シュラインは事前に調べてきたこの御乃寺病院についての評判を思い出した。
『三十年前のある時を境に医療ミスが発覚して以来、次々と過去の汚点が明らかになった』
『テレビや新聞で大々的に報じられ、すぐに経営困難に追い込まれた』
『取り壊すと祟りがあると噂され、殆ど手つかずのまま残されている』
『最近、夜中に不気味な呻き声が聞こえる』
『昔は人体実験をしていて、それで死体が増えたために隠しきれなくなったらしい』
『死体を使って黒魔術を行っていたようだ』
『院長は狂人で、気に入らない看護婦や看護士は事故に見せかけて毒殺したと言われている』
 聞けば聞くほどこの病院の悪評ばかり飛び込んでくる。
(けど、何かおかしい……)
 だがそこにシュラインは違和感を感じていた。
 三十年前にこれだけの大病院になったのだ。少なくとも最初の頃の経営は順調だったはず。ならば一人か二人くらいは、この病院にはお世話になったと言う者がいてもおかしくない。
(みんながみんな口を揃えて叩くっていうのは不自然だわ)
 そう。これではまるで――洗脳でもされてしまったかのようだ。
 瓦礫の降り積もる廊下に視線を落とし、物静かに続けていたシュラインの思考は後ろで起こった爆音で中断された。
 慌てて神経を緊張させ、シュラインは体ごと後ろを向く。ソコには先程と同様、異形の姿をした化け物が牙を剥いて立っていた。
「あーもー、またかー。メンドくさいなー」
 しかし慎は相変わらずペースを崩さないまま、自分のジャケットに付いているファーを左手で何本かむしり取り、強く握りしめて念を込める。
 それに軽く息を吹きかけ、真っ正面から向かってくる異形に振りまいた。
 たったそれだけで甚大なエネルギーを伴った異形の突進が嘘のように止まる。そして重力が何倍にもなったかのように異形は地面に這いつくばり、標本にされた昆虫の如く縫い止められた。
「さー、行こー」
 底抜けに明るい声が、静まりかえった院内に木霊する。
(違和感……と言えばこの子も十分おかしいわよね……)
 無邪気な仕草でずんずんと行進する慎を見ながら、シュラインは胸中で嘆息した。
 月代慎――現在アトラス編集部でやっいになっている小学生。数多くの有能な霊能力者を輩出した名家から家出してきたらしいが、それ以外のことは一切不明。
 最初に見せた右手で”モノ”を斬る能力、そしてさっき見せた左手で”モノ”を繋げる能力。この力が慎の能力のほんの一端でしかないことは、霊的な力を持たないシュラインでも分かった。
(底の知れない子だわ)
 だが頼りにはなる。
 最初、破格の報酬に釣られて碇麗香から話を聞いた時は正直不安だった。そして一緒に行動するという慎を紹介されて更に不安になった。しかし草間興信所を建て直すため、と自分を鼓舞して気合いを入れた。
 だが今は違う。無意味に気負う必要はない。
 焦ったり、別なところに神経をやったりすれば冷静な判断力が削がれるが、この慎という少年と一緒にいれば自分の考えに集中できる。自分の最大の武器を遺憾なく発揮できる。この少年と――
「シュラちゃーん。今度一緒にケーキ食べに行こーよ」
 一緒に居るとペースを崩されるのは間違いないようだ。

 病院の地下にある霊安室。
 アンティークショップ・レンの店主、碧摩蓮に頼んで取り寄せた御乃寺病院の見取り図を見て、手っ取り早く話を聞くならばとシュラインが最初に思った場所がココだった。
「ひゅー、さっすがに薄気味悪いねー」
 隣で口笛を吹きながら、慎が黄色い声を上げる。
 ココに来るまでに異形を何体か倒してきたが、息切れどころか顔色一つ変えていない。
「行くわよ」
 他とは違い重厚な造りの扉を押し開き、シュラインはペンライトを片手に室内へと足を踏み入れた。
 すぐに鼻腔を突くカビ臭い匂い。静寂と停滞の気配。
 濃密な死の香りが、六畳ほどの狭い室内に立ち込めていた。
 光を周囲に飛ばす。壁際には取っ手のついたコインロッカーのような扉が規則正しく並んでいた。
(この一つ一つに死体が収められていたのね……)
 底冷えするような何かを感じながら、シュラインは恐る恐るロッカーの一つに手を掛ける。
「あー!」
 そして取っ手を引こうとしたその時、慎の大声が上がった。
 堪らず体を大きく震わせ、シュラインは批難の視線を投げかける。
「ほーらほらほらほら! 見て見てシュラちゃん!」
 仔犬のようにチョコチョコとした動きで、慎は闇の深い部屋の隅に駆け寄った。
「な、なんなのよ……!」
 体の内側から爆音を響かせる心臓に手をあてながら、シュラインはペンライトを慎の方に向ける。
「ほらほら! 結界符!」
 まるで獲物を勝ち取ったかのように慎が高々と掲げて見せたのは、ボロボロになった布きれだった。黄色く変色した表面に紅い文字で術的な紋様が書き記されている。
 埃にまみれ薄汚れてはいるが、三十年前からココにあった事を考えると、非常に綺麗な状態と言えた。
「なに、それ?」
 眉間に皺を寄せ、先程慎が『結界符』と言った布をまじまじと見つめる。
「まー簡単に言えば霊を呪縛するためのお札だよ。きっとコイツが風化して効力が無くなっちゃったんで、”出る”ようになったんだろーね」
 ”出る”と噂され始めたのは最近の事だ。
 三十年もたった今になってようやく言われ始めたのは確かに不自然だったが、何か人為的に押さえ込まれていたのだとすれば納得がいく。
 そして問題は押さえ込んでいた人物の目的。
(万が一にでも聞かれたくないことがあった。そう考えるのが自然よね)
 悪評ばかり囁かれる病院。そこに押さえつけられていた数多くの霊。
 もう少しでシュラインの頭に何かが閃きそうだった。
「あー!」
 しかし彼女の思考を、またもや慎の叫び声が中断する。
「今度は何よ」
 もう一度目のように驚くことはない。腰に手を当て、呆れた視線を向けながらシュラインは静かに言った。
「シュラちゃん。う・し・ろ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、慎はつつくような仕草でシュラインの後ろを指さす。つられて振り返ると、すぐ鼻先に人の顔があった。
「――!」
 思わず息を呑む。これだけの至近距離では流石に攻撃をかわせない。
 シュラインは反射的に顔を腕で覆い、腰を低くしてガードの姿勢を取った。
「……あれ?」
 しかし体に衝撃は来ない。目線だけを上げると、人の顔は先程と全く変わらない位置で停滞していた。
「なーんだ。ちっとも驚かないんだね。『キャー!』とか言うかと思ったのに……つまんないのー」
 唇をとがらせ、慎は拗ねたような口振りでシュラインの横に並ぶ。
「この人は大丈夫だよ。邪悪な波動は感じない。多分、ココの患者さんの霊だね。ねぇ、俺の言葉、分かる?」
 慎の呼びかけに、青白い顔をした人影は黙って頷いた。
 人影、と言ってもハッキリと人の形が見えるわけではない。恐らくここが頭で、多分ここから下が体だろうといった程度の曖昧なモノだ。
 集中力を少しでも弱めると、青白い霧のようにしか見えなかった。
「へー、なるほどねー。うんうん、それでそれで?」
 慎が人影と何かを話している。
 だがシュラインには雑音混じりにしか聞こえなかった。まるで古びたテープの再生音を聞いているような錯覚に陥る。
「二〇五号室ね。分かった、行ってみるよ」
 納得した慎の言葉と同時に、青白い人影は空気に溶け込むようにして消えた。
「いったい、何を話してたの?」
 完全に話が終わったのを確認して、シュラインは慎に声を掛けた。
「んふふー。聞きたい?」
 猫のように目を細め、慎は金色の双眸を上目遣いによこしてくる。
 それだけで、何を言いたいのかすぐに分かった。
「はいはい、分かったわよ月代君。今度一緒にケーキ食べに行きましょうね」
「ぶー。シュラちゃんのおうちに泊めて欲しいのにー。そ・れ・か・ら、俺のことは『慎ちゃん』って呼んでってばぁ。あ、なんなら『慎しん』とか『しんタン』でもいいよー?」
 不満の声を上げる慎に、シュラインは半眼になって視線を向けながら困ったように額を押さえる。
(まったく……本当にお子様なんだから)
 仕方ない貴重な情報を得るためだ、とシュラインが覚悟を決めて口を開きかけた時、縦揺れの地響きが霊安室を襲った。

◆PC:月代慎◆
「コイツは!」
 とてつもない邪気を上から感じる。
 一瞬で顔を引き締め、慎は両足でしっかりと床を捕らえて天井を見た。
「危ない!」
 シュラインに体を強くあて、崩れ落ちて来る瓦礫からなんとか庇う。
「外に出るよ!」
 この揺れの中、いつまでも地下にいるのは自殺行為だ。
 巨石が鼻先を掠めたことで放心しかかっているシュラインの手を引き、慎は廊下に飛び出した。
「なにやってんだシュライン! しっかりしろ!」
 怒声に近い声を飛ばし、慎はシュラインの意識を引き戻す。
 体を小さく震わせた後、目の焦点のあったシュラインはペンライトを持ち直して一階へ上る階段を照らした。
「崩れる! 早く!」
 慎達の目の前にあるコンクリート剥き出しの階段は、老朽化からか振動に耐えきれず、今にも崩れ落ちてようとしていた。
(クソ! 間に合わない!)
 慎の頭の中に、自分達が階段に到達した時のイメージが構築される。
(このまま走ってたんじゃダメだ!)
 瓦礫に押し潰される自分達の姿。
 ソレを払拭するように頭を振り、慎は両目をカッ、と大きく見開いて力を込めた。そして階段に意識を集中させる。
「な、なに!?」
 狼狽したシュラインの声。
 当然だろう。今、目の前で階段の崩落が緩慢なモノへと変わりつつあるのだから。
「一気に抜けるよ!」
 目から力を抜くことなく、慎はシュラインの腕を掴んだまま足のバネを爆発させた。一歩で階段の大きさが倍に、二歩で四倍に。
 視界の中で加速度的に大きさを増していく灰色の脱出口。階段の一番下に足をかけ、慎は飛ぶように跳ね上がった。耳元でうねりを上げる大気の流れに、シュラインの叫び声が混じった。
「っしゃー!」
 まるで空気を求めて水中から這い上がったように、慎は快哉を上げて一階の廊下を踏みしめる。そして視界から階段が消えた直後、本来の物理法則を取り戻した瓦礫が轟音を上げて崩れ落ちた。
「やー。キキイッパツって感じたったねー、シュラちゃん」
 四つん這いになり、肩で息をするシュラインに視線を向けながら、慎はいつも通りの口調で言う。震動は収まりつつあった。
「あれ? 何か鳴ってるよ?」
 何とか一息ついた慎の耳に、携帯の呼び出し音が聞こえる。
 音の発信源はシュラインはポケットからだ。
「も、もしもし……?」
 深呼吸を二、三回した後、シュラインは息を整えて電話に出た。
『何やってるのよ! さっきから何度も電話してたのに!』
 携帯を耳元に近づけなくとも十分に聞こえる大声。碇麗香だ。
「す、スイマセン。コッチもちょっと立て込んでいまして」
『言い訳なんか聞きたくないわ! 高い金払ってるんだから! さっさと二階に来てこの状況を――』
 そこで麗香の声は途絶えた。携帯からはツーツーという電子音しか聞こえなくなる。
「なんだったんだろ」
「とにかく二階に行って――」
 そこまで言ったシュラインの言葉が、耳をつんざく破砕音によってかき消された。そして激しい揺れと同時に一階ロビー真上の天井が踏み抜かれる。
「なんとかしなさいよー!」
 叫声を上げ、ぽっかりと出来た穴から颯爽(さっそう)と舞い降りる麗香。ハイヒールを鳴らし華麗に降り立つ彼女の後ろで、三下忠雄が無様にも顔面から着地した。 
「ど、どうなってるの!?」
 突然の出来事にうろたえるシュラインを後目に、慎は怜悧な視線で穴の開いた天井を睨み付ける。
(地下での地震は偶然にしてはタイミングが良すぎた。多分トラップか何かだろう。恐らく、事の真相を知る者を排除する……)
 穴から身を躍らせ、一階に降り立った虎のような異形を視界に収め、慎は口の中で小さく詞(ことば)を紡ぎ始めた。

 ――瞳に宿りし退魔の力 汝、鳳天冥王(ほうてんみょうおう)の庇護をうけ 我に仇(あだ)なす敵を討て

 ィン、という金属糸を爪弾いたような甲高い音と共に、慎の周囲の空気が異質なモノへと変貌する。時間の流れが緩やかになり、視界に映る全てがスローモーションでも見ているかのように鈍い動きで流れていった。

 ――其は我が血に 我が血は古(いにしえ)に 古は暗黒に 暗黒は汝の元に 万象を輪廻せしめる太古の土より生まれし虚無の力 我が瞳に集いて恵刃(けいじん)の焔と化せ 

 シュラインの叫声、麗香の怒声、三下の悲鳴。そして異形の上げる怪吼。
 耳元にまとわりつく音が、ノイズ混じりの不協和音を経て細切れに斬り刻まれていく。
 腹の底からマグマの如き灼熱を伴って沸き上がる『力』の塊。まるで脳内に直接香草を塗り込められたかのように、神経が異常に研ぎ澄まされて行った。

 ――闇を孕みし紅蓮の炎を受け 金色の剱は我が力を解放する

 自然と口元が笑みの形に曲がる。
 久しぶりだ、封印を解くのは。
 体毛の全くない二足歩行の巨大な虎を前に、慎は言い知れぬ昂揚感に酔いしれていた。
「バイバイ。わんちゃん」
 普段カラーコンタクトで隠している右眼の模様が、白い光によって浮かび上がる。
 それはわすが三歳にして月代流と照日流の術を極めた天才児に刻まれし絶対霊力の証。
 兇悪な牙の立ち並ぶ口を大きく開けて、異形は慎に狙いを定めて跳びかかった。しかし、全てが遅い。
 ――もうすでに、お前の死は決まっているのだから。
 憐憫の視線を向け、ゆっくりと右手を異形にかざす。
 まばたき一回で首か跳ね飛んだ。二回で四肢が吹き飛んだ。そして三回目で胴体が破裂した。後に残ったのは物言わぬ肉の塊。
 全てが終わった後、慎の瞳から放たれていた光が消える。
「よーし、おしまーい」
 大きく伸びをし、慎はいつも通りの人なつっこい笑みを後ろの三人に向けて見せた。

 霊安室で慎が聞いたのは、御乃寺病院の正当な評価だった。
 彼はかつてこの病院で治療を受けた一人。院長は人当たりがよく、急がしい身で患者一人一人に優しく接してくれた。看護婦や看護士も非常に親身で、御乃寺病院の評判は上々だった。
 しかし、ある少年の入院をキッカケに病院は評価は大きく変わることになる。
 少年は末期性の癌だった。現代であればともかく、当時の技術では彼の余生を長引かせることすら出来なかった。
 結局、病院側は最良の手段を講じたものの少年は十歳という若さでこの世を去った。
 本来ならば、仕方ないで終わる悲しい病死。だが、彼の父親がそれを許さなかった。
 父親はマスコミ界の重鎮だった。高い金を払って最先端の技術を駆使した手術を受けさせたというのに助からなかったで済むかと憤慨し、マスメディアを通じて世間に与えられる情報を操作することで御乃寺病院の悪評を広めたのだ。
 言いくるめてしまえば虚も事実。
 病院側の必死の弁明も虚しく、医療ミスで数多くの死者を出したと弾劾され、御乃寺病院は廃業へと追い込まれた。
 しかしなんとか真実を伝えるため、病院で寿命によって天寿を全うした人や、不治の病でやむなく命を落とした人達は霊魂としてこの場に留まり続けた。
 だが結界を張られ、それすらも出来ない状況だった。
 そして三十年たった今、結界の効果が薄れてようやく表に出ることができたのだ。ただし、その間病院という霊気のたまり場に引き寄せられ、蓄積した悪霊解放のおまけ付きで。
「よっぽど念入りに結界張ってたみたいだねー。多重式の結界なんて今でも張れる人は限られてるよ」
 病院内を歩き回って集めてきた結界符をピラピラと見せびらかしながら、慎は砕けた口調で言った。
 多重結界だけではない。真相を語る言霊に反応し、病院中の悪霊を集結させて異形を生み出すという離れ業的なトラップまで用意してあったのだ。これだけの事をするのにどれだけのお金をつぎ込んだのか、想像も出来ない。
「キミ、よっぽど愛されてたんだねー」
 月明かりだけで照らし出される、御乃寺病院の出入り口前。
 雑草の無法地帯と化したこの場所で、慎は麗香達の連れてきた少年を指さした。
 黒い直毛は眉の上で見事に切りそろえられ、典型的なお坊ちゃまカットを持つ彼は現在の日本では希少な人種だ。クリクリとした大きめの瞳と、赤みがかった頬が育ちの良さを際だたせている。
 着ている物が病院服などではなく蝶ネクタイ付の正装ならば、そのまま写真館の見本写真として額に飾られてもおかしくない。
「つ、月代さぁん……。本当に、ここに幽霊がいるんですかぁ?」
 麗香の後ろでビクビクとこちらを盗み見ながら、三下が震える声で聞いてくる。
 霊力の弱い彼には見えていないのだろう。そして恐らく麗香やシュラインの瞳にも、慎ほどハッキリとは彼の姿が見えていないはずだ。しきりに目を細めて凝視していることからも、ぼんやりと何かが居る程度の認識でしかないことがうかがえる。
「うん、勿論。俺に負けず劣らずかわいいー男の子がいるよー」
 それを聞いて三下は慌てて麗香の後ろに隠れてしまった。
「で、さっきの貴方の話で大体事情は分かったけど。ソレを証明するにはやっぱり……」
 三下の脳天に拳を一発入れた後、麗香は記者としての顔つきになって鋭い視線を宙空に向ける。
「そうね。この子に直接訴えかけて貰うしかないわね」
 麗香の言葉を引き継いで、シュラインは言いながら慎の方を見た。
「な、なに……?」
 タダならぬ気配を感じたのか、慎は腰を浮かせて後ずさりする。
「やっぱり、背格好の似た子の方が同じ事言っても説得力あるし……きっとお父様だって喜ぶと思うわ」
 両目にハンターの光を宿し、シュラインは手を握ったり開いたりしながら慎に詰め寄った。
「ちょっ、ちょっと待ってシュラちゃん。俺なんかより忠雄くんの方がずっと適役だと……」
「あーあ、せっかく一晩くらいなら泊めてあげようと思ったのにー」
 シュラインの殺し文句に慎の体が止まる。
 幽霊に自分の体を預ける不安感と、シュラインの『優しいおねーさん』像を見る絶好の機会が同時に到来し、慎の中でドス黒い葛藤を生み落とした。
「わ、かったよ……」
 しばしの苦悩の末、慎は絞り出すような声でシュラインの提案を呑んだ。

◆PC:シュライン・エマ◆
 日登秀一郎(ひのぼり しゅういちろう)、御歳七十二歳。
 かつてのテレビ業界でこの人有りと言わしめた殿上人(てんじょうびと)だ。彼が監修を勤めた番組は八割以上が長寿番組となり、莫大な利益を生み落として来た。それだけにその権威に媚びへつらう者は多く、また逆らった者は業界内での戸籍を抹消されるとまで言われ、絶大な支配力を誇っていた。
(ここ、ね……)
 都内の中心部から僅かに離れた場所にある古風な武家屋敷。冗談じみた敷地面積を持つこの平屋の豪邸が日登秀一郎の城だった。
「さ、謙太君。行くわよ」
 隣で縮こまっている慎に、シュラインはそう声を掛ける。麗香と三下はいざという時に危険だからと言って連れてきてはいない。
 今、慎の体には御乃寺病院で見つけた日登謙太という少年の意識体が入り込んでいた。いつもの慎が持つ軽い雰囲気は微塵もなく、年相応の可愛い男の子にしか見えない。
(月代君もこんな風だったらいいのに……)
 そんなことを考えながらシュラインはインターホンを押した。 
 程なくして女性の声が返ってくる。
『はい』
「先日お話ししたシュライン・エマという者ですが」
『……少々お待ち下さい』
 今から二日前、ようやく日登秀一郎の居場所を突き止めたシュラインは早速アポを取った。
 御乃寺病院の事、謙太の病気の事、そして結界が解けたことを話すと、今日のこの時間に来るように言われたのだ。
 謙太と実際に話をしたかどうかは未だに仄めかしてある。こちらがどれだけの情報を握っているのか、相手に悟られないようにするのは交渉術の基本だ。
(まさか謙太君本人を連れてきてるなんて思わないでしょうね)
 内心ほくそ笑んでいると、再びインターホンから女性の声が聞こえ、中に入るように言われた。
 厳かな雰囲気を持つ枯山水。砂利の海に橋渡された石畳の上を慎の手を引いて歩き、シュラインは玄関口にたどり着いた。そこから使用人に案内され、紅い絨毯に沿って足音も立てずに歩く。
 気を抜けば呑まれてしまいそうな重苦しい空気を胸を張ることで跳ね飛ばし、シュラインは堂々とした足運びで重厚な彫り細工の施された扉の前まで通された。
「旦那様、お客様がお見えです」
 丁寧な物言いで使用人が部屋の中に声を掛けると、低い声で一言「入れ」と返って来る。
 扉を開けられ、吸い込まれるようにして中に一歩足を踏み入れた。
「初めまして。シュライン・エマと申します」
 完璧にコーディネートされたスーツに身を包み、シュラインは深々と頭を下げる。
「何の用だ」
 上げきらない頭に、不機嫌そうな声が降りかかった。
「用件は、先日電話でお話した通りです」
 凛と通る声で言いながら、シュラインは目の前の老人を見据える。
 薄くなった頭を覆う僅かばかりの白髪とは裏腹に、顎には貫禄を感じさせる白髭がたわわに実っていた。古風な着物に身を包み、樫の木製の杖に半身を預けながら座っている様は上流階級としての格を雄弁に物語っている。
「御乃寺病院について色々と嗅ぎ回っているようだな。雌犬風情が」
 左手で顎髭を弄びながら秀一郎は剣呑な視線をコチラに叩き付けた。
「私からの要求は一つです。貴方があの病院にかけた汚名を返上してください」
「何を馬鹿な……。ワシは事実を伝えたまで。妙な言いがかりはやめて貰おうか」
 予想通りの返答だった。何か決定的な物的証拠でもない限り、彼は自分の非を認めようとはしないだろう。
「そうですか。なら、この子の言葉を聞いても同じ事を言えますか?」
 言いながら軽く慎の背中を後押しする。
「お父ちゃん……」
 慎の口から出た声。しかしそれは明らかに慎のモノとは違っていた。
 慎の持つ高く甘く、媚びるような声色は影もなく、どこかしゃがれていて掠れた声だった。
 それを耳にした秀一郎の顔にありあり同様の色が走る。
「僕はあの先生にいっぱい優しくして貰ったよ。体が痛くて眠れない時も、ずっと側にいて昔話をしてくれたんだ」
「な……! なんだその小僧は! ワシの息子を愚弄する気か!」
 椅子の肘起きを乱暴に叩いて立ち上がり、秀一郎は憤りも露わに額に血管を浮かべた。
「お父ちゃん。僕に言ってくれたよね。僕の体が良くなったら一緒に釣りに行こうって。それで釣った魚をすぐに焼いて食べようって」
「な、な……」
「そしたら、僕はお礼に肩叩きをしてあげるって。約束したよね」
 恐らくは謙太本人しか知らない内容なのだろう。
 先程まで険しかった秀一郎の顔つきは、今や泣き出しそうなほどに崩れてしまっている。
「み、認めん! ワシは認めんぞ! 息子は、謙太は死んだんだ! あのヤブ医者に殺されたんだ!」
 それでも大声を上げ、杖をがむしゃらに振り回す姿はだだをこねている子供の様だった。
 人が受け入れがたい現実に直面した時に陥る一種の錯乱状態。
「そうだよ! 僕は死んだんだ! でも病気で仕方なかったんだよ! お父ちゃんだって、お父ちゃんだって分かってたでしょ。毎日お見舞いに来てくれていた時に、もう……ダメだって……」
 その言葉で秀一郎の手から杖が転げ落ちた。まるで魂を抜かれたように目から焦点が消失し、口を開けたまま呆けている。
 そう。秀一郎は知っていたはずだ。息子がもうどうやっても助からないことを。だが認めたくなかった。欲しい物は何でも手に入れてきた自分が、息子の命一つ救えないことを受け入れたくはなかったのだ。
 だから院長のせいにした。
 医療ミスで息子が死んだことにして、自分だけの責任ではないと言い訳をした。同時に院長を心の底から恨むことで、大切な物を無くした悲しみを紛らせようとした。
 愚かだということは分かっていた。そんなことをしても息子が帰ってくるわけではない。だが何でもかんでも理性で割り切って感情を押し込められるほど、人間は都合良く出来ていない。
 秀一郎もいつシュラインのような者が現れるのか、怯えていたに違いないのだ。だからアッサリと招いた。贖罪をするために。
 自分が間違ったことをしていないと断言できるならば、何の繋がりもない赤の他人を秀一郎のような大富豪が直々に迎えるはずがない。
 それをしなかったのは、やはり後ろめたさを感じていたからなのだろう。そして謝罪するキッカケを探っていた。
 それが今この時なのだ。
「……スマンが、この子としばらく、二人だけで話をさせてくれんか」
 力無く、秀一郎が呟く。
 その姿からは威厳も貫禄も感じられない。ただ、年老いて憔悴しきった男が立ちつくしているだけだった。
「分かりました」
 シュラインは短く言い、一礼をした後部屋を後にした。

◆エピローグ◆
「凄いぞシュライン! この通帳見てみろ!」
 事件から一週間ほど経った日の昼下がり。
 草間興信所で武彦が銀行通帳を片手に大はしゃぎしていた。
「どうかしたの? 武彦さん」
 洗い物を終えたシュラインは手を拭きながら武彦に視線を向ける。タバコから灰がこぼれ落ちるのも気にせずに、武彦は大口を開けて叫んだ。
「五百万だ五百万! 俺の通帳にどっかの足長おじさんから五百万もの大金が振り込まれてる!」
「まぁ……」
 シュラインはわざと驚いた顔をして見せ、ゆっくりと武彦の元に歩み寄った。
「武彦さん。それを記帳したのって、いつ?」
「へ? 一時間ほど前だが……」
 その言葉に武彦は素っ頓狂な声を上げて返す。
「あー残念。実は私、三十分前にその五百万、カードで元の持ち主に振り込みなおしておいたのよ」
 大袈裟に肩を落として見せ、シュラインは芝居がかった仕草で落胆した。
「な、なぬ!?」
 目を白黒させながら、信じられないといった顔つきで武彦は通帳とシュラインの顔を交互に見比べる。
「な、何でそんなことを……。せっかく神様が、この事務所の赤貧状態を哀れんで救いの手をさしのべてくれたというのにー!」
「武彦さん。お金って言うのは勤労の対価として支払われるものなのよ? そんな天から振ってきたようなお金じゃあ有り難みがないじゃない」
 シュラインの講釈に、武彦はこの世の終わりを垣間見たかの如き絶望的な表情を浮かべ、よろよろと後ずさった。
「そ……そんな難しいこと言われても分かんないよー!」
 両目から滝のように涙を垂れ流しながら、武彦は事務所を飛び出した。多分、諦めきれずに再度記帳しに行ったのだろう。
「まったく……碇さんからもらった報酬がまだあるのに」
 凄い記事が書けそうよ! と鼻息を荒くしていた碇麗香の姿がハッキリと思い浮かぶ。
 ――あの後。
 慎と一緒に出てきた秀一郎の顔は憑き物が落ちたかのようだった。
『今、ワシに出来る精一杯の事をさせて貰うよ』
 それだけ言い残して秀一郎は再び部屋へと戻ったのだ。
 そして二日後、御乃寺病院の再建設がニュースで大々的に取り上げられた。これから丸三年掛けて最高の医療設備と人材を取り揃えるらしい。勿論、出資者は日登秀一郎だ。
 彼は自らテレビ局に出向き、三十年前の報道が誤報であったことを全国ネットで公表した。そして被害にあった人達には必ずお詫びをすると宣言した。
(七十過ぎて人生の山場を向かえた感じよね……)
 苦笑しながら、掃除でもしようかとシュラインが部屋の隅に置き去りになっている掃除機に手を伸ばした時、事務所の扉が乱暴に開けられる。
「しゅ、シュラちゃん! お願いかくまって!」
 顔面蒼白になって飛び込んできたのは慎だった。
 珍しく額に汗を浮かべて焦った表情を張り付かせている。
「あ、あのじーさんに追われてるんだ」
 ぜぃぜぃ、と肩で息をしながら慎は手頃な隠れ場所を探し、キッチンの下にある収納スペースに潜り込んだ。
 慎が姿を消した直後、事務所の呼び鈴が鳴り響く。
「スマンが、ここに十歳くらいの可愛い男の子が来なかったか?」
 シュラインがドアを開ける前に老人の声が扉越しに聞こえた。
「いえ、ここには来ていませんが」
 扉を開けながら、シュラインは笑顔で応対する。
「おお、貴女は……」
 そしてシュラインの顔を見た老人、日登秀一郎の顔がほころんだ。杖を横に持って両足だけで体を支え、深々と頭を下げる。
「この度は誠にお世話になりました。せめてもの感謝の印として、少ないですが貴女の雇い主の口座にほんの気持ちだけ振り込ませていただきました」
 先程武彦が狂喜乱舞していた五百万の事を言っているのだろう。それにしてもこの短い期間でシュラインの背後関係を調べ上げるとは、恐ろしい情報網だ。
「ああ、そのお金でしたらお返ししておきました」
「なんと……」
 にこやかな顔で返すシュラインの言葉に、秀一郎は意外そうな顔になって目を大きくした。
「私は別にあれだけ巨額の報酬を頂くような事はしていませんし、他の依頼者から受けた仕事を遂行する上での成り行きですから」
「そう、ですか……」
 残念そうに俯く秀一郎に、シュラインは言葉を続ける。
「それに、ここにはどれだけ大金があってもすぐに出ていってしまうんですよ。どういう訳かね」
 武彦がいつも愛用している事務机にチラリと視線を向けながら、シュラインは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「分かりました。それでは何も言いますまい。お仕事、頑張ってくだされ」
「ええ、日登さんも。これから大変でしょうけど」
「なぁに。これくらいしとかんと、あの世で息子に合わせる顔がありませんからな」
 そう言って朗らかな笑みを浮かべた後、軽く一礼をして秀一郎は事務所から去っていった。完全に姿が見えなくなったのを確認して、シュラインは静かに扉を閉める。
「ほら、もう出てきても大丈夫よ」
 慎が隠れている場所に向かって、シュラインは笑いを含ませた言葉を掛けた。
「っふー、助かったー。だってあのじーさん、『謙太を出してくれー』ってしつこいんだもーん」
 謙太の霊は成仏してもうこの世に留まってはいない。だから、たまに慎が謙太の”フリ”をして秀一郎の相手をしていた。慎のことだから、何らかの方法であの世と通じているのかもしれない。
(ふふ……結構良いトコあるじゃない)
 まぁ、屋敷にいる『優しいおねーさん』が目当てなのかもしれないが、動機は不純であっても秀一郎の寂しさを紛らせていることは事実だ。
「あ、シュラちゃーん。今日ここに泊めてよー。ほら、あの約束まだ使ってないしー」
 謙太の霊を憑依させる時に慎が取り付けた約束。それはココ、草間興信所に一泊させること。
(ま、いっか。この子も頑張ったしね)
 最初会った時はただの甘え盛りなお子さまだったが、異形に対して驚異的な霊力を見せつけ、謙太と秀一郎の仲介役も担った。そして今は人の気持ちを思い遣れる少年であることも分かった。
「それじゃーもうすぐ零ちゃんが買い物から帰ってくると思うから、どこで寝るか相談しましょう」
「やったー!」
 両手を上げ、無邪気な仕草で喜ぶ姿は小学生そのものだ。
 結構可愛いかも、と思っていると呼び鈴が鳴った。
「噂をすれば、ね。きっと零ちゃんだわ」
 シュラインは足早に出入り口に向かい、「はーい」と言いながら扉を開ける。
「あースマンスマン。ちょっと聞き忘れたことがあってな。お前さんの雇い主のことなんじゃが……」
 だが、ソコにいたのは去ったはずの秀一郎だった。
 背後で慎の硬直する気配が伝わってくる。
「なんじゃ! やーっぱりココにいたのかー!」
 そして目の前で老人が破顔し、杖を放り出して事務所内に入り込こんだ。
「うわーん! じーさん勘弁してよー!」
「まーそー言うな。最高級の茶菓子と、とびっきりの美女を取り揃えておるからのー!」
 シュラインを中心にして、二人は漫画のようにグルグルと回った後、怒濤の勢いで事務所を飛び出す。そんな後ろ姿を見ながら、シュラインは独り言のように呟いた。
「頑張ってね。――”慎ちゃん”」
 未だ謎の多い少年に、シュラインの言葉は届いただろうか。
 きっと聞こえてなどいないだろう。
 事務所の扉を開けたまま、シュラインはしばらく慎が走り去った後を見つめていた。
 一人の男として認めた、彼の背中を。

 【終】
 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【6408/月代・慎 (つきしろ・しん)/男/11歳/退魔師・アイドルの卵】
【0086/シュライン・エマ (しゅらいん・えま)/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】

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■         ライター通信          ■
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 初めまして月代様。飛乃剣弥(ひの けんや)と申します。生まれたてのキャラクターということで、こんな感じにいじってみましたがいかがでしたでしょうか。退魔師設定のキャラを見るとどうしても能力をハデに演出してみたくなりますね(笑)。
 私の作風は大体こんな感じで、とにかく描写や人物の掘り下げ大切にすることをモットーにしております。気に入っていただけましたら、又どこかでお会いしましょう。ではでは。

 飛乃剣弥 2006年5月7日