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<東京怪談ウェブゲーム あやかし荘>


『嬉璃の恋愛願望』
◆プロローグ◆
「はぁー、やっぱりいいもんぢゃのぅ」
 平日の昼下がり。全国の主婦が釘付けになっている韓流恋愛ドラマを見ながら、嬉璃は熱っぽい吐息を漏らした。
 座敷わらし、嬉璃。年齢不明。だが千年近く生きていることは間違いない。しかし、そんな気の遠くなるような年月を過ごしてきたにもかかわらず、嬉璃には恋愛経験が全くなかった。
「ワシも、なんかこう。身を焦がすような大恋愛がしてみたいものぢゃ」
 テレビを消し、潤んだ瞳で鏡に映った自分を見る。大人に変化している今の姿は美女そのもの。脚までもある長い銀髪と、妖艶な紅い瞳。くねくねとシナを作りながら、嬉璃は鏡の前で様々なポーズを取ってみた。
(やっぱり、ワシって絶世の美女ぢゃのぅ)
 自分に見惚れながらも次の瞬間、重大な事実が嬉璃に重くのし掛かる。
 嬉璃は座敷わらしだ。霊的な束縛により、この姿であやかし荘を出ることは出来ない。
(ふぅーむ。何とかならんものか……)
 頭を捻る。そして閃いた。
(簡単な事ぢゃ。誰かに乗り移ればいい)
 何日もあやかし荘を離れるのは没落の危険性があるが、一日くらいであれば大丈夫だろう。
 勝手にそう思いこみ、嬉璃は乗り移る相手を物色し始めたのだった。

◆PC:加藤忍(かとう しのぶ)◆
 ここ最近、興味を引かれる『仕事』に出会っていなかった。
 加藤忍は金のあるところから盗み、時に貧しいところへ分け与える義賊を生業としているが、彼が仕事をする理由はなにも相手が金持ちだからと言う単純なモノではなかった。
 それは純粋な好奇心。
 障害が多ければ多いほど燃え上がる。
 忍の仕事に対する思いは恋愛のソレとよく似ていた。
(まー、こんな時は……)
 耳元で切りそろえたセミロングの黒髪を掻き上げ、忍はあやかし荘の前で足を止めた。ココにはアトラス編集部のダメ所員、三下忠雄がいる。退屈しのぎにからかうには打って付けの相手だ。
 丁度今日は休日。仕事をためていなければ、彼は自分の部屋――通称『ペンペン草の間』でゴロゴロと羽を休めていることだろう。
 三下忠雄の貴重な休息を根こそぎ奪い去る。ああ、なんて好奇心をそそられる事だろう。
 そんな事を考えながら、忍はあやかし荘の敷地内に足を踏み入れた。
 夏の到来に会わせるように、庭に植えられた木々が力強い緑を惜しげもなく晒している。ここの管理人である因幡恵美の行き届いた清掃のおかげで、年代物のあやかし荘から古びた様子は全くうかがえなかった。
 ジャケットの内側に着ているカッターシャツの襟元を緩め、忍があやかし荘の玄関先に来た時だった。
「おや、忍じゃないか。あんたこんなトコで何してるんだい?」
 良く知った女性が中から出てきた。
 アップに纏められた炎を連想させる紅髪。体にピッタリとフィットしたチャイナドレス。愛用の煙管を指先で器用にクルクルと回しながら、『アンティークショップ・レン』の店主、碧摩蓮が姿を現した。
「蓮さん……蓮さんこそどうしてこんな所に?」
 まさか自分と同じ目的なのだろうか。
「いやぁ、ちょっと嬉璃の嬢ちゃんに頼まれてね」
「嬉璃さん、ですか……」
 嬉璃と言えば、あやかし荘に住み着いている座敷わらしだ。年齢不詳で、容姿も不定。幼稚園児並に小さい時もあれば、思わずドキッとするほど大人の魅力を振りまいている時もある。
「それがさー聞いとくれよ。あの子、千年以上も生きてるってのに恋愛したこと無いんだって」
 ククク、と喉を震わせて笑いながら、蓮は口元を緩めた。
「どういう訳か知らないけど、急に大恋愛がしたくなったみたいでさー。でもあの子、ここから出られないだろー?」
 座敷わらしである嬉璃は、あやかし荘に霊的な呪縛で繋ぎ止められている。嬉璃が居なくなってしまっては没落する恐れがあるからだ。
「そこで思いついたのが他人に乗り移るって方法さ。で、その相手に天王寺綾を選んだみたいなんだけど、コレが手強くってねー。そこでアタシの出番ってわけさ」
 言いながら小瓶を指先で転がして見せる。
 多分、即効性の睡眠薬か何かなのだろう。蓮の短絡的な行動は、付き合いの長い忍にはすぐに分かった。
「でもいいんですか? 嬉璃さんが出て行ってしまって……」
「まー、一日くらいなら大丈夫だろ。ソレよりさ、こんな面白い見せ物、他にないと思わないかい?」
 小悪魔的な微笑を浮かべ、蓮は顔を忍に寄せて囁くように言う。
 そう言うことか……と忍は納得した。
 いくら相手が嬉璃だとはいえ、蓮が無償で動くなど考えられない。これから嬉璃が取るであろう破天荒な行動を見て、笑いのネタにでもするつもりなのだろう。
「……で、嬉璃さんのお相手はもう決まっているんですか?」
「ああ、アタシの知り合いに面白い奴が居てね。ソイツに頼んだんだ」
 チャイナドレスの胸元から中指と人差し指で一枚の写真をつまみ上げ、忍の目線の高さに持っていく。
「彼、ですか……」
 写真に写っていたのは『黒』だった。それ以上、形容のしようがない。
 長身でガッシリとした三十代くらいの男性。目元に掛かった髪の毛も、着ているスーツやネクタイも、そしてバックで立ち上るオーラまでも黒一色。思わず「え? 嬉璃さん死んじゃったんですか?」と聞き返したくなるほど黒ずくめだ。
「ジェームズ・ブラックマン。ま、偽名だろうね。本名はアタシも知らないし、興味もないよ」
 ジェームズ・ブラックマンと蓮に紹介された彼は、写真の中で挑発的な笑みを張り付かせ、銀色の双眸でコチラを見据えている。
「まー、コイツもなかなか面白い奴だから。あんたもアタシと一緒に来るかい?」
 嬉璃が天王寺綾の体を借りて、会ったこともない男と恋愛……。
 正直、忍にとってはあまり気持ちのいい話ではなかった。
「……そう、ですね。それでは、ご一緒させていただきましょうか」
 だからこそ心配になった。こんな取って付けたようなセッティングで、果たして嬉璃は恋愛の本当の良さを味わえるのだろうか。
(ま、ソレを演出するのが、今回の私の仕事かもしれませんね)
 嬉璃には楽しんで欲しい。それは紛れもない本音だ。
 そして同時に知って欲しいこともある。この一件にカタが付いたら、忍はソレを嬉璃に伝えるつもりだった。

◆PC:ジェームズ・ブラックマン◆
 碧摩連から唐突に話を持ちかけられた時には流石に驚いた。
(ふ……まさかこの歳になって、うら若き女性のパートナーを務めることになるとはな)
 自分の隣で映画のスクリーンに釘付けになっている女性、天王寺綾を盗み見ながらブラックマンは苦笑した。
『ちょっとこの子に甘い一時を過ごさせて欲しいんだ』
 蓮から紹介されたのは、足下にまで届きそうな程の長い銀髪と蠱惑的な紅眼をもった大人の女性だった。
 名前は嬉璃。あやかし荘に住む座敷わらしで、今は綾の体に乗り移っている。
 金に近い茶色の髪の毛と、気の強そうな彫りの深い顔立ち。だがブラックマンには嬉璃の姿が綾とダブって見えた。
(出来れば嬉璃本人と居たかったが、まぁコレで我慢しておくか)
 嬉璃の外見は実に魅力的だった。
 それはブラックマンの心を一目で鷲掴みするほどに。
 映画などそっちのけで嬉璃の白い横顔を見ていると、無意識に髪の毛に手が伸びる。そしてブラックマンの指先が綾の巻き毛に触れようとした時、
「おー! 行けー! そこぢゃー!」
 突然、嬉璃が立ち上がって大声を上げた。
 握りしめた拳を高々と付きだし、まるで熱病に浮かされたように顔を紅潮させて昂奮している。
「ちょっ、き、嬉璃……静かにしないと……」
 周囲から突き刺される痛い視線を感じ、ブラックマンは慌てて嬉璃を押さえ込もうとした。
「はぐ!」
 しかし、近づいた彼の顎先に嬉璃の左拳が見事に突き刺さる。脳を大きく揺さぶられ、軽い脳震盪を起こしながらもブラックマンは嬉璃の肩を持って落ち着くようになだめた。
「なんぢゃ黒男! 見えんではないか!」
「く、黒男……」
 確か自己紹介の時に名乗ったはずだよな、と思いながらブラックマンは直訳された自分の呼び名を衝撃と共に受け止める。
「あのー、ちょっと静かにして貰えませんか?」
 後ろから不機嫌そうな男性の声が掛かった。
「す、すまない。すぐに黙らせる」
 彼に低頭しながら、ブラックマンは小声で嬉璃に話しかける。
「いいかい、嬉璃。ここでは静かに見るのがルールなんだ」
「そんなモン知るか。ワシは今『アカンデ・ンナ・コトシターラ』に大昂奮中なんぢゃ!」
 叫びながら力任せにブラックマンをどかせ、嬉璃は再び映画の内容に夢中になり始める。勿論、「そこぢゃー!」「ブン殴れー!」「皆殺しぢゃー!」等の大声付きでだ。
(い、いかん……このままでは警備員ハローって事になってしまう)
 尻餅をついた体勢のまま、ブラックマンは泣き出しそうな顔つきで嬉璃を見上げた。
(大体どうしてアクション映画なんだ)
 そう。今見ている『アカンデ・ンナ・コトシターラ』は血沸き肉踊る狂気乱舞系バリバリのアクション映画だ。
 ブラックマンが紳士的なエスコートで映画館まで案内したまでは良かった。そして清純恋愛映画に招待するつもりだった。しかし、筋骨隆々のマッチョ男が何人も描かれた看板を見た途端、嬉璃は弾かれたようにそちらの上映場へと飛び込んだのだ。
 紳士たる者、当然女性の好みを優先させなければならない。映画が始まった直後は、まぁ嬉璃が楽しんでくれればそれでいい、と余裕を持って一緒にストーリーを追っていたブラックマンだったが――
「お客さん。スイマセンがちょっとよろしいですか?」
 自分の考えが果てしなく甘かったと、厳つい体の警備員を見ながら反省したのだった。

「なんなんぢゃ、あの無礼者は! 万死に値するぞ!」
 ブラックマンが買って来た二つのソフトクリームを両手に持ってわめき散らしながら、嬉璃は映画館外にあるベンチで憤慨していた。
(うーむ、一つは私の分だったのだが……)
 ほっぺたにクリームが飛び散るのもお構いなく、嬉璃は左右交互にかぶりつきながら壮絶な視線で街行く人々を睨み付けている。
「ふぅ……まぁよいわ。おい黒男、次に案内せい」
 コーンまで綺麗に食べ尽くし、お腹が膨れて少し機嫌を取り戻したのか、嬉璃は血走らせていた目を元に戻して大きく息を吐いた。
「分かりました。ではどうぞこちらへ」
 柔和な笑みを浮かべながら、ブラックマンはそっと手をさしのべる。
「ん。苦しゅう無い」
 その手にコーンを包んでいた紙を丸めて置きながら、嬉璃は「どっこいしょ」という掛け声と共に立ち上がった。
(落ち着け、落ち着くんだブラックマン。ここは一つ冷静に。あくまでも紳士的に、だ)
 自分に言い聞かせながら紙屑を適当なゴミ箱に放り投げ、ブラックマンは嬉璃を伴って映画館の前を離れる。
「少し公園を散歩した後、美味しいディナーにご招待いたしますよ」
 様々な店がひしめき合うメインストリートを歩きながら、ブラックマンは隣を歩く嬉璃に視線を向けた。
 あやかし荘から殆ど離れたことがないのだろう。見る物、聞く物、触れる物すべてが新鮮なのか、キョロキョロと辺りを見回している。
「おい黒男。アレは何ぢゃ」
 嬉璃が指さしたのは、古着を主に扱う若者向けのファッション・ショップだった。
「ああ、あそこでは古くなった服を売ったり、その服を本来よりも安い値段で仕入れることが出来るのですよ」
「ほー、誰かのおさがりに金を払うというのか。愚かなものよのー」
 感心したような馬鹿にしたような声を上げ、嬉璃はまた別の店を指さして聞いた。
 ソコでは色とりどりの美しい花が、街行く人々の目を和ませている。
「あれはお花屋さんですよ。どうです? なにか嬉璃にプレゼントして差し上げましょうか?」
「なんと。自然の産物である花を売り物にしておるのか。ボロい商売じゃのう。そんな不逞の輩がおるからこの国はどんどん廃れていくんぢゃ」
 鼻息を荒くして、不機嫌そうに眼を細めながら次の店を指さした。
 全国チェーンのレンタルビデオショップがある。
「ああ、あれはレンタルショップですよ。昔のテレビや映画をまた見たい時に、あそこでお金を払って借りれば家でゆっくりと見られる」
「まったく、そうやっていつまでも過去にしがみついておるから、現状を受け入れられん数多くの愚民共が生まれるというわけぢゃな。なげかわしいことよ」
 大きく息を吐きながら、嬉璃はやれやれと肩をすくめて見せた。
「では、あれはなんぢゃ」
「あれは――」
 その先を言おうとしたブラックマンの顔が硬直する。
「どうした黒男。あの女は何故裸でコッチを見ているのか聞いておる」
 それは成人向けの映画を専門に扱う場所だった。
 嬉璃が指さした大きな看板には、一糸まとわぬ姿の女性が艶麗な視線でコチラを見ている。どうやら歩いている内にいつの間にかイケナイ場所まで来てしまったらしい。
「そうか! ここは風呂屋ぢゃな! ぢゃからあんな格好の娘が看板になっておるのか。最近ではこういう破廉恥な宣伝も受け入れられるようになったのか。進んでおるのぉ」
 妙なところで感心しながら、嬉璃は納得したように大袈裟な仕草で首を縦に振る。
「そ、そうですな……ははは」
 これ以上言及されてはたまらないとばかりに、ブラックマンは急いで十字路を左に曲がった。
「おー! コレは派手な店ぢゃのぅ。これは何をするところぢゃ?」
 興味津々といった様子で嬉璃がはしゃぎながら目を向けたのはラブホテルだった。
 まだ日も落ちきってないというのに煌びやかな電飾に彩られ、独特の雰囲気を醸し出している。
「こ、これは……」
 思わず言葉を濁すブラックマン。この場をなんとかしのごうと、脳味噌が超高速で回転し始めた。
(落ち着け。落ち着くんだ私。成せばなる。考えろ私の灰色の脳細胞。脈動する血液より酸素を受けて。そして最良の答えを導き出したまえ!)
 自分の耳の奥からポクポクという木魚の音が聞こえてくる。それは頭蓋骨で乱反射され、脳内中に鳴り響いた。
「どうしたんぢゃ黒男。貴様でも分からん事があるのか」
 走馬燈のように過去の記憶が惹起されていく。消えては浮かび、浮かんでは消えていく輝かしい栄光の日々。
(ああ……昔は良かったなぁ……ってバカ! 現実逃避などしている場合か!)
 横道に逸れかけた思考を、自己叱咤と共に修正する。 
「あれは……ですね……」
 ブラックマンの言葉の先を、嬉璃が期待に満ち満ちた視線で促す。
「し、心身共に癒される場所です……」
 しかし結局頭の中で鳴り響いたのは高く澄んだ鐘の音ではなく、重く低い銅鑼(どら)の悲鳴だった。
「ほほー、心身共にのー。ならば今度ワシも世話になってみたいモノぢゃ」
 嗚呼……。
 汚れを知らない嬉璃の心に黒いインクを垂らしてしまった罪を、ブラックマンは海よりも深く反省したのだった。

◆PC:加藤忍◆
「……なんだか、ちょっとイメージと違いますね」
 ブラックマンと嬉璃の後をコッソリつけていた忍は、彼らから視線を外すことなく呟いた。
「そうかい? なかなか面白いじゃないか」
 忍同様ラブホテルの壁に背中を付け、蓮は紫煙をくゆらせる。
 二人が突き当たりの角を右に曲がったところで素早く物陰を抜けだし、忍と蓮は無駄のない動きで電柱の生み出す死角に身を寄せた。
 忍はもって生まれた才能から、蓮は面白い物への果てしない好奇心からこの俊敏な動きを可能としていた。
(もっとムードのあるデートを演出しようと思っていたんだが……)
 頭の中で用意していたいくつものデートプランが、忍の中で爆音と共に崩れ去っていく。この状態から甘い雰囲気に転じさせることなど、いくら忍でも不可能だ。
 だが嬉璃は今のままでも十分楽しそうに見える。
(私の心配は杞憂に終わったかな……?)
 そんなことを考えていると、後ろで蓮が小さく声を上げた。
「おおー、なかなか良い店選ぶじゃないか」
 二人は高級そうなフランス料理店の前で立ち止まり、ブラックマンが扉を開けて先に嬉璃を中へと招き入れる。
 汚れ一つない白磁のような外壁。ガラス窓は完璧に磨き上げられ、本当に存在するのかとさえ思える。流れる筆跡で書かれたフランス語の看板の枠には、品を損ねない程度に金色があしらわれ、出入り口へと繋がるレンガ造りの階段が異国的な情緒を生み出していた。
「忍。アンタお金持ってるだろ?」
「へ?」
 何の脈絡の無く蓮から発せられた言葉に、忍は甲高い声を上げる。
「ゴチソウサマ。ほら、アタシ達も行くよ」
 蓮は軽く投げキッスをよこしながら片目を瞑って見せ、目の前のフランス料理店に早足で近づいた。恐らく忍に反論させないためだろう。
「ちょっ、れ、蓮さん?」
 慌てて声を掛けるも、蓮はすでに店内に足を踏み入れている。
 あの人を一人にすると、いつ暴走するか分からない。忍に選択の余地はなかった。
(まぁ、別に良いけど……)
 願わくば別の機会にもう一度誘って欲しいものだと思いながら、忍は蓮を追って店に入った。

 天井に取り付けられた豪勢なシャンデリアから、柔らかい光が紅い絨毯にこぼれ落ちている。完璧な白い光沢を放つテーブルクロス。その中央には儚げな炎を灯す銀の燭台。
 店内を包み込む上質の空気に、訪れた客達は皆酔いしれていた。
「流石の嬉璃もちょっとは大人しくなったじゃないか」
 メニューを見ながら、蓮は目の前の鏡に目線をやる。
 忍達は、嬉璃とブラックマンの座っている席から一番離れた対角に陣取っていた。そこから忍は直接、蓮は鏡を介して嬉璃の行動を見守っている。
 嬉璃はブラックマンの仕草を真似ているのか、行儀良く手を膝の上に置き、料理が運ばれてくるのを静かに待っていた。
(嬉璃さん……)
 そんな姿を見ていると無性に胸が痛む。
 明らかに嬉璃は自然体から逸脱していた。いつもの天真爛漫で無邪気な嬉璃は面影もない。だが忍にとっては嬉璃を楽しませることも仕事の内。他の客同様、嬉璃もこの状況に酔ってくれればそれに越したことはない。
 しかし――
(本当にコレで良いのか)
 やはり引っかかる。
 今の嬉璃は、まるで背伸びをして無理矢理大人ぶっているようだ。
「どうしたんだい忍。浮かない顔して」
 食前酒にと運ばれてきたワインを傾けながら、蓮は艶笑を浮かべた。
「そんな顔するなんてアンタらしくないじゃないか。いつもの飄々とした明るい忍はどこに行ったのさ」
 ポーカーフェイスには自信があったのだが、蓮には見破られてしまった。
 彼女との付き合いが長いせいもあるが、それ以上に蓮は人の本心を見抜く能力に長けている気がする。あんな異境の果てでアンティークショップを営んでいれば、自然と身に付く能力なのかもしれない。
「嬉璃さんの初めての恋愛が、本当にこれで良いのかと……」
 どうせ見抜かれてしまうのならば自分から話してしまった方がいい。
 忍は嬉璃から視線を外し、蓮の方を見据えて小さく言った。
「私たちがどれだけ巧く演出しても、所詮は偽りの恋でしかない。もしこの恋愛が普通なんだと思いこんでしまうと、間違いなく嬉璃さんの傷になる」
 忍の話を聞きながら、蓮はオードブルであるホワイトアスパラガスにフォークを刺した。
「初恋の相手は特別、か……。まぁアンタの気持ちは分かるよ」
 蓮は紅い宝石のような唇にフォークを近づけ、アスパラガスを口に入れる。そしてゆっくりと噛み込んだ後、静かに嚥下した。
「でもね、教科書通りに行かないのが恋愛の醍醐味なんじゃないのかい?」
 口の中を洗うように、蓮はグラスに残ったワインを一気に飲み干す。
「確かに嬉璃は今、与えられた恋愛をしている。けどもし嬉璃があの黒ずくめを好きになれば、それも一つの恋の形なんだよ。アタシ達はほんの少しだけあの子の背中を押しただけって事になるのさ。まぁ、見ている限りそんなことはないと思うけどね」
 苦笑混じりに言いながら、蓮はワインをグラスに注いだ。
「……ある程度割り切って考えろ、と言うことですか」
「そこまでは言ってないけどね。ただまぁ、あの子が楽しければそれで良いんじゃないかって事だよ。それが人工的な物であれ何であれ、ね」
 それは分かっている。
 忍だって同じ考えだ。嬉璃が楽しい一時を過ごしているのならば、別に何の問題もない。そこから本物の恋愛に発展するならば、願ったりではないか。
 だが、やはり不安は拭い去れない。
 先程のやり取りを見ていると、嬉璃は恋愛どころか俗世間の事すべてに関して疎い。いわば、生まれたての赤ん坊のような状態だ。
 刷り込み、という訳ではないが、他人からの意見や見識を無条件で受け入れる可能性が高いのではないか。今も先程までとはうって変わって、妙にかしこまり、大人しくしている。コレもブラックマンからの前情報と、周囲の空気が強い影響を及ぼしていると考えるのが妥当なのではないだろうか。
(嬉璃さんらしくもない……)
「ったく、アンタも心配性だねぇ。それにお節介だ。まぁ、そこがアンタの良いところでもあるんだけど」
 忍の表情から心中を読みとったのか、蓮が茶化したような声で指摘する。
 言われて初めて自分が嬉璃の恋愛に関して過敏な反応をしていることに気付いた。
(そうだ。どんな恋愛をしようと嬉璃さんの自由じゃないか。例えきっかけが恋にした恋であっても、私が直接口を挟むようなことじゃない。最終的に決めるのは……)
 嬉璃本人なのだから、と自分言い聞かせ、目の前の食事に手を付けそうとした時、嬉璃大声が店内に響く。
「さっきから何ぢゃ何ぢゃ! ちまちまと持って来おってからに! こんな物ではワシの腹は満たされんぞ! もっとぢゃんぢゃか運んでこんか!」
 ナイフとフォークを両手に持ち、がーがーとわめき立てる嬉璃の姿はまさしく彼女本来の姿だった。
「ちょっ、き、嬉璃、落ち着いて。クールダウンだ。リラックス、リラックス」
「やかましー! ワシは異国より渡来した横文字は好かん! あーもー、腹の立つ! おい、出るぞ黒男! こんな店二度と来るか!」
 激憤に顔を染め一方的に言い放つと、嬉璃は地響きが聞こえてきそうな程の大股で店を出ていく。ブラックマンは困惑しつつもウェイターにお金を渡し、二言三言詫びの言葉を言って嬉璃を追った。
 忍達を含め、残された客は唖然として二人の出ていった後の扉を見つめている。一瞬にして打ち壊された店内の雰囲気に、茫然自失といった様子だ。
「……ま、まぁ、感情の起伏の激しい子だねぇ」
 蓮の呟きに、忍は黙ったまま頷いた。

◆PC:ジェームズ・ブラックマン◆
 閉園一時間前の遊園地。
 ソコは、ブラックマンが最後に用意して置いたとっておきの場所だった。
 昼と夜を分かつ黄昏時。ほんの僅かな時間しか見ることの出来ない太陽の寝顔。
 茜色に染まっていく園内に人はまばらで、独特の静けさが漂っている。日中の賑わいを忘れ、静かな終焉へと向かう前の限られた時間。
 それは普段楽しく笑っいる遊園地が見せるもう一つの顔だった。
「いかがですか、嬉璃さん……」
「おー! なかなか楽しかったぞ」
 すでに片づけ始めていた園内の露店に無理矢理頼んで――いや、高圧的に命令して作らせたタイ焼きを頬張りながら、嬉璃は上機嫌で笑う。
「そう、ですか……」
 だが返すブラックマンの顔色は冴えない。
 疲労の色が濃く滲みだし、ただでさえ黒いオーラを更に暗くしていた。
 ――それ程までに、さんざんな遊園地巡りだった。
 お化け屋敷では綾の体から幽体離脱してスタッフを逆に驚かせ、ジェットコースターでは「ワシがもっと激しくしてやる」とレールを妙な力でねじ曲げ、コーヒーカップでは「目が回って気持ち悪い」と乗っていたカップを亜空間に葬り去り、ミラーハウスでは湾曲した鏡を見て「コレがワシな訳なかろう!」と鏡を一枚残らず割ってしまった。
 それら全ての尻拭いは勿論ブラックマンの仕事だ。ムードもなにもあった物ではない。
(許しておくれ罪無き人達よ。お前らの記憶を消しさったのは別に悪意があったわけではないのだ。ただ、忘れてしまった方が早く楽になれるということを教えてあげたかっただけなのだよ)
 胸中で運悪く居合わせた客達に懺悔しながら、ブラックマンは震える目元を押さえた。
 少し湿っぽかったのは、きっとの気のせいだろう。
「で、そろそろ帰るのか?」
 少し疲れたのか、嬉璃はあくびをしながら最後のタイ焼きを口の中に放り込む。
「……いえ、本日の締めくくりとしてアレに乗りましょう」
 深呼吸を二、三度し、ブラックマンは最後の気力を振り絞って、高々とそびえ立つ巨大な円を指さした。
(ここで終わるわけには行かない。私のプライドに掛けても……!)
 小刻みに痙攣する指の延長上にあったのものは、この遊園地の目玉アトラクション、超巨大観覧車だった。一周するのに二十分以上掛かる。
 二人きりの閉鎖空間。
 展望の良い個室。
 そして閉園を知らせる『蛍の光』の調べ。
 どれをとっても最高の状況であることは間違いない。
「なんだか刺激に欠けそうな乗り物ぢゃのう。本当に面白いのか?」
「勿論です。私が保証します」
 怪訝そうな顔で不満の声を上げる嬉璃に、ブラックマンは胸を張って答える。
 いまいち納得していなさそうな表情だったが、嬉璃はブラックマンのエスコートのもと観覧車に乗り込んだ。
 乗った拍子に小さく前後に揺れたゴンドラが、ゆつくりと大地をはなれ、空へと登り始める。最初はつまらなそうにあくびを噛み殺していた嬉璃だったが、高度が上がって行くにつれ瞳が大きくなって行った。
 そして頂上に来た時、嬉璃は驚愕に目を見開き、呆けたように口の筋肉を弛緩させる。
「う、わぁ……」
 意識せずに漏れる感嘆の溜息。
 眼下に広がっているのはミニチュアサイズの人や建物。ココにいると、それら全ての支配権を自分が握っているようにさえ錯覚する。山あいの稜線に太陽が身を沈め、そこから放たれる黄金色の光が儚く繊細な物へと変貌していく。極限まで磨き上げられた光の粒子が、雪のように舞い降りているようだった。
「いかがですか、嬉璃さん」
 嬉璃の様子を見て、ブラックマンは勝ち誇ったような声を発した。
 しかし嬉璃は何も答えず、ただただ無言のまま視線を下に向けている。まるで別世界の絶景に魅入られたように。それ程、幻想的な光景だった。
(ふ……勝った)
 一人、勝利宣言をするブラックマン。
 このまま嬉璃といい雰囲気になり、愛について熱く語り合うことが出来れば、とりあえず嬉璃に大恋愛をさせるという目的は達成したことになる。
(まぁ異界人同士。これからも仲良くやっていこうではないか、嬉璃)
 なにも今日勝負を決めることはない。愛とは時間をかけて育むモノ。ゆっくりと着実に、一歩ずつ歩み寄っていけばいいのだ。今日はそのキッカケになってくれれば十分。
「……ん?」
 そんな幸せな妄想に耽っていると、嬉璃の様子がおかしいことに気付いた。
 額をゴンドラの窓ガラスにくっつけ、目を瞑ったまま肩を小さく上下させている。
(寝て、しまったのか……)
 疲れが溜まっていたのだろう。
 無理もない。今日は嬉璃にとって、自分の周りにある全てのモノが初めてだったのだ。肉体的にだけではなく、精神的にも疲労が蓄積していることだろう。
「ゆっくりお休み、嬉璃。私が見守っていてあげるから」
 嬉璃の口元から聞こえる可愛らしい寝息をBGMに、ブラックマンは感慨深げな視線を窓の下に向けた。

 結局、一周し終わっても嬉璃は眼を覚まさなかった。
「やれやれ……」
 苦笑しながら、ブラックマンは両腕に抱きかかえた嬉璃の寝顔を見る。
 天王寺綾の顔とダブって、嬉璃の白い顔と流れるような銀髪が目に映った。
(とりあえず、あやかし荘まで送り届けるか)
 紳士たる者ここで良からぬ考えを抱いてはいけない。
 恋愛とはホフク前進のようにゆっくりと、そして慎重に行わねばならないのだ。
(うむ、我ながら素晴らしい例え)
 自画自賛に浸りながら遊園地を出る。そして駅へと続く噴水公園の中を横切ろうとした時、白いスーツを着た厳つい体つきの男二人に道をふさがれた。
「貴様、お嬢様から手を離せ」
 低い声で言いながら一人が一歩前に出て鋭い目つきで凄んでくる。
(『お嬢様』……? ああ、天王寺綾のボディーガードか)
 彼女はこう見えても大財閥のご令嬢だ。外出時には護身者の一人や二人引き連れていてもおかしくはない。
 恐らく最初からずっと見張っていたのだろう。しかし綾も楽しげだったために手を出さなかった。だが怪しげな黒ずくめが彼女を抱きかかえているのを見て、さすがに危機感を感じ飛び出した。こんなところだろう。
(まぁ、嬉璃本体であればともかく、この娘と私の外見は一回り以上歳が離れているからな)
 少し見方を変えれば援助交際をしているようにもとれる。ましてやこんな街中で、眠っている美女をお姫様だっこ。「私は不審者です。どうか捕まえて下さい」と公言しているようなものだ。ボディーガードが呼び止めなかったら、きっとお巡りさんが職務質問していただろう。
「おい! 聞いているのか!」
 自分達を無視して思索に耽るブラックマンを見て腹を立てたのか、後ろにいたもう一人の男が声を荒げる。
「ああ、失礼ミスター。落ち着いて。フェアに行こうではありませんか」
 あくまでも紳士的な振る舞いを崩さず、柔らかい口調で言うブラックマン。しかし二人にとっては逆にその落ち着いた態度が気にくわなかったらしい。見る見るうちに顔が紅潮していく。
「まぁ、お嬢様を守るためだ。お前も運が悪かったと諦めるんだな」
 両手の骨をボキボキと小気味良く鳴らしながら、二人はゆっくり近づいてくる。
(やれやれ、この私に実力行使か……)
 内心呆れかえっていると、腕の中で嬉璃の呻くような声が聞こえた。
「あー、なんぢゃー。人が気持ちよく寝ておるのにうるさいのー」
 瞼を眠そうに擦りながら、嬉璃は寝起きの声を上げる。
「お嬢様! 早くコチラへ! そいつは怪しすぎます! 何をされるか分かったものではありませんよ!」
「あぁーん?」
 まだ眠気の覚めやらぬ脳味噌に響いた叫び声に、嬉璃は露骨に不機嫌な表情を浮かべて据わった目線を二人に返した。
「お前らの方がよっぽと怪しいわ。おい黒男、殺れ」
 ブラックマンの腕の中から抜け出して立ち上がり、嬉璃は無慈悲な指令を下す。その言葉でガードマン二人に、ありありと狼狽の色が広がった。
「まーまー嬉璃さん。貴女にそんな言葉は似合いませんよ。お互い時間を掛けて話し合えば、自然と和解できるものです」
 先程の暴言は脳がまだしっかりと働いていなかったからだろう。今の嬉璃の口からそんな言葉が出るはずがない。
 観覧車の頂上で嬉璃が見せた透けるほど純粋な美貌。汚れなど何も知らない無垢な笑顔。この世に二つとない至上の宝石。
 ――そう、嬉璃はブラックマンの演出に酔いしれていたはずなのだ。
 自分の言葉を聞けばきっと、穏やかで心優しい……。
「そんなまどろっこしい事してられるかボケが。貴様がせぬというならばワシが直々に地獄の底を見せてやろう」
 だが、嬉璃はいつもの調子で邪悪な笑みを浮かべた。
 次の瞬間、嬉璃の体から膨大な漆黒の妖気が立ち上る。それは中空で悪魔の微笑みを象って安定し、目の前の生け贄二人に襲いかかった。
「わーははははは! ワシに逆らう奴は皆殺しぢゃー!」
 腕組みをして哄笑を上げ、ガードマン二人が苦痛にのたうち回る様を艶然とした貌で睥睨する様子はまさに悪鬼の如し。
(そんな、馬鹿な……)
 さらにヒートアップし続ける嬉璃を見ながら、ブラックマンは自分の足下で何かが崩れていくのを感じた。

◆エピローグ◆
 嬉璃の一日デートコースから二日後。
 忍は嬉璃の様子を確認するために、再びあやかし荘を訪れた。
(まぁ、最後のあの様子なら心配ないと思うが……)
 古びれた玄関をくぐり、ギシギシと不満を漏らす板張りの廊下を歩きながら、忍は二日前のことを思い出す。
 遊園地での最後の締めくくり。嬉璃とブラックマンが乗った次のゴンドラに、忍と蓮は乗っていた。
 二人の会話の内容は読唇術で殆ど把握できている。特に嬉璃が美しい夕焼けに見惚れる様子は、今でも鮮明に思い出せる程だった。
『まぁ、あの子も女の子だからねぇ』
 恍惚とした表情の嬉璃を見ながら、蓮はゴンドラの中でそう呟いた。
 同姓から見た嬉璃への率直な感想。
 そう、確かに嬉璃は高飛車で高圧的で我が儘で荒唐無稽で非常識で自分勝手だが、れっきとした女性だ。しかも奥ゆかしく黙っていれば、誰もが振り向くであろう絶世の美女。
 そんな彼女が美しい物に心を奪われる様子は、見る者すべてを魅了してしまうほど華憐で優美だった。
(あの時は流石にブラックマンの手腕を認めてしまった……)
 レストランに入った時もそうだが、特にあの観覧車での嬉璃の豹変ぶりは、思わず我が目を疑ってしまった。
『あれも嬉璃なんだよ、忍』
 自分の心を見透かしたように呟いた蓮の言葉が、耳の奥で蘇る。
 周囲を巻き込んで大はしゃぎするのも嬉璃の姿ならば、静かに佇んで黄昏の空に目を細めるのも嬉璃の姿。
 そうやって今までに無い自分を発見するのもまた恋愛の醍醐味だ。忍が義賊としての仕事に誇りを持ち、悦びを感じて抜け出せなくなってしまった時とよく似ている。
 当初、こんな与えられた恋愛を先に経験してしまっては、嬉璃が本当の恋に落ちた時に辛いのではないかと思っていた。
 しかし嬉璃の満足そうな顔を見て忍の考えは変わった。コレも一つの愛の形だ、と思っていた……のだが。
(結局、暴走したしなぁ……)
 天王寺綾のボディーガード二人を、何の呵責も躊躇も無く混沌の渦中に陥れた嬉璃の姿が、明確な輪郭を伴って脳裏に浮かび上がる。地べたを這いずり回り、苦鳴を漏らす哀れな二人に向けられた蔑視。綾の外見と相まって、高々と笑い声を上げる姿は女王様そのもの。
 まさにいつも通りの嬉璃だった。
(果たしてアレで良かったのか)
 釈然としない思いを胸に、忍は因幡恵美の部屋の前にたどり着いた。年代物の木製の扉。しかし恵美の手入れが行き届いているのか、古そうな印象は受けない。嬉璃はいつもならここで煎餅などを頬張りながらテレビを見ているはずだ。
「嬉璃さん」
 軽くノックをした後、忍は静かに言う。
 程なくして「誰ぢゃー」という嬉璃の声が中から聞こえた。
「私です。忍です」
「おー、お前か。まー入れ。開いておるぞ」
 とりあえずいつも通りの嬉璃だと一安心し、忍は扉を開けて部屋に足を踏み入れる。
 八畳ほどの部屋の中央には、もう夏も近いというのにコタツが鎮座していた。嬉璃は猫背になってコタツに足を突っ込み、机の上にある木籠に盛られた煎餅を口にくわえている。
「恵美は今裏庭を掃除しておる。もうしばらく待っておれば戻ってくるぢゃろ」
 嬉璃はテレビドラマに向けている視線を外すことなく、横顔のまま忍に言った。
「いいえ。今日は嬉璃さんに用事があって来たのですよ」
 畳に正座して言った忍の言葉に、嬉璃は意外そうな顔を向ける。
「ワシにか? 何の用ぢゃ」
「一昨日の、デートの事なんですが」
 単刀直入に話を切りだした忍に、何故か嬉璃は嫌そうな顔を向けた。
「なんぢゃ。お前もワシを『でーと』に誘いに来たのか。ダメぢゃ。アレは疲れる。人の体を操っとるから余計にぢゃ」
 いきなり予想外の返答だった。
 てっきりブラックマンと過ごした時間を楽しんでいたのだとばかり思っていた。
「『えいがかん』では静かにせんといかんから苛々するし、『れすとらん』では腹が減って死にそうだというのにちょっとしか食い物が出てこんし、『ゆうえち』では歩き疲れて眠たくなるし。散々な一日ぢゃった」
 唐突に見せられた嬉璃の本音。どうやら自分はとんでもない思い違いをしていたらしい。
「で、でもレストランでは最初は静かにしていたじゃないですか」
 あれは高級感漂う雰囲気を味わっていたのではないのか。
「さっきも言ったぢゃろうが。始めは腹が減り過ぎて騒ぐ気が起きんかっただけぢゃ」
 そして料理コースがある程度進み、小腹が満たされたところで不満が一気に爆発した?
「そ、それでは、観覧車で風景に見とれていたのは……」
「それもさっき言った。眠すぎて何か喋るのも億劫だっただけぢゃ」
 確かに眠っていた。眠っていたが、原因は満足感ではなく、純粋な疲労感?
「は、あはは……」
 自然と笑いが漏れる。
 そうか。やはりとんでもない勘違いをしてた。
 嬉璃は最初から何も変わっていなかった。最後の最後まで嬉璃は自然体で振る舞っていたのだ。なのに自分が一人、焦ったり気落ちしたりしていただけだった。
(なんだ……そういうことか……)
 一気に肩の力が抜ける。
 これで嬉璃がもう一度デートをしてみたいと言い出すことはないだろう。身を焦がすような大恋愛などテレビの中だけで十分だと、今の嬉璃の顔がハッキリ物語っている。
(もし、次のデートがあるとすれば……)
 それは嬉璃が本当に誰かを愛した時。
 自分の意志で、心から一緒にいたいと思う人を見つけるその時まで、嬉璃はいつもの嬉璃のままだ。
「ところでお前。何でワシの『でーと』の事をそんなに詳しく知っておる」
 忍が温かい気持ちに浸っていると、底冷えするような嬉璃の声が耳朶を叩いた。冷たいモノが背筋を駆け抜ける。
(し、まった……)
 嬉璃の尾行は勿論極秘裏に行ったことだ。バレれば命に関わることは、赤子と怪獣の力比べより明らかだ。
「じゃ、じゃあ嬉璃さん。ゆっくり体を休めて下さいよ」
 強引に話を締めくくり、忍は素早く立ち上がる。そして嬉璃の返答も聞くことなく後ろ手にドアを開けて、一目散に逃げだした。
「あ、コラ! 待たんか!」
 怨嗟の念を帯びた怒声が後ろから追いかけて来る。しかし防衛本能の成せる技なのか、いつにも増して素早い身のこなしで忍はあやかし荘を飛び出した。
(とりあえず外に出れば大丈夫か)
 嬉璃はあやかし荘の座敷わらし故に、そのまま外に出ることは出来ない。しかし人の体を借りるのはもう懲りたはずだ。とりあえず安全域まで逃げ出して来たと言えた。
「どうやら今回は嬉璃のハートを射止めることは出来なかったようだ。誠に残念だよ」
 息を整える忍の耳元で声が響く。低く重みのある声。ブラックマンだ。
「どこにいる」
 声はすれども姿は見えない。かすかな気配だけ感じる。
「だが恋愛のチャンスは一度きりではない」
 鼓膜近くの空気を直接震動させているようにすら思える、発生源不明の声。いや、実際にそうしているのかもしれない。得体の知れない男だ。
「さて忍。お前の心配事は知っている。だが私も諦めるつもりはない。さて、どうする?」
 こちらを試すような口調。
 答えなど決まっている。
 忍は口の端を小さくつり上げて狡猾な笑みを作って見せ、
「私は自分の仕事をするだけさ」
 迷いのない返答をした。
 空気が音もなく波打ち、まるでブラックマンの笑いが漂っているように錯覚する。
「そうか……。ま、その時はフェアに頼むよ、ミスター」
 声を尻窄みに消していきながら、ブラックマンの気配は完全に無くなった。
(恋愛、か……。実に奥が深い。私もまだまだ勉強不足だな)
 気配の消えた先に視線を向けて考えながら、忍は蓮の顔を思い浮かべる。
 嬉璃以上に謎のめいた魅力を持つ彼女。自分に見せてくれている顔は、氷山のほんの一角なのだろうか。
(……じゃあ、確かめに行きますか)
 土産にお酒でも買っていけば、少しは口が軽くなるかもしれない。
 そんなことを思いながら、忍は軽快な足運びでアンティークショップ・レンに向かったのだった。

 【終】

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【5745/加藤・忍(かとう・しのぶ)/男/25歳/泥棒】
【5128/ジェームズ・ブラックマン(じぇーむず・ぶらっくまん)/男/666歳/交渉人 & ??】

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■         ライター通信          ■
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《注》今回の嬉璃の設定は完全なオリジナルです。公開設定とは全く関係ありません。

こんにちは、加藤様。二つ目の調査結果『嬉璃の恋愛願望』をお届けします。今回、加藤様より頂いたプレイングは非常に私好みでした(笑)。恋にした恋で、それが他人の体ともなれば本当の恋愛と接した時に辛い。なるほどと何度も頷かされました。
 さて今回のジェームズ・ブラックマン様との共演、いかがでしたでしょうか。
 彼の方は割と乗り気で、加藤様がそうでもなかったので、加藤様には傍観者という位置づけてお話を進めました。ただそれだけでは面白くないので、蓮を交えてのダブルデートという形を取らせていただきました。お気に召しましたでしょうか。
 まだ他に未解決の依頼が二つほど残っているもので(汗)、次の調査依頼を出すのは月末になると思いますが、またその時にお会いできれば幸甚です。では。

 飛乃剣弥 2006年5月11日