コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


『心霊兵器《氷魅虎―ヒミコ―》』
◆プロローグ◆
「ヒミコ、私を恨んでる?」
 白のフリルブラウスに黒のロングスカート。淑女的な服装の女性は下校途中のヒミコの前に立ち、悲しげな瞳で話しかけてきた。
「……え?」
 一瞬、自分に掛けられた言葉かどうかさえも分からなかった。
 早い間隔でまばたきしながら、影沼ヒミコは黒く大きな目で彼女を見返す。
 途中まで一緒に帰っていた瀬名雫と別れた直後だった。別々の下校ルートを歩み始めて一分も経たっていないだろう。
 一本一本が絹糸のような光沢を放つ長く艶やかな黒髪を揺らし、まるで待ちかまえていたかのように彼女は曲がり角の影から姿を現した。
 殆ど人気のない裏路地。大通りからの喧噪が、どこか遠くの世界の賑わいに聞こえてくる。建設途中で放置された廃ビルを背に、彼女は慈しむような口調で続けた。
「貴女をそんな躰にした、私を恨んでる?」
 体中を冷たい何かが走る。
 触れてはいけない物に偶然触れてしまった感覚。吸い込まれそうな蒼い瞳でコチラを見つめる彼女から敵意は感じられなかった。
 しかし、直感とも言うべき本能が克明に告げている。
 ――この女性は危険だ――と。
「貴女、誰ですか?」
 彼女から少し距離を取り、警戒心も露わにヒミコは聞いた。
「……忘れてしまったのね。無理もないわ。あんな事故に遭ったんじゃ……」
 柳眉を伏せ、小さく頭を左右に振りながら彼女は思い詰めたような表情で続ける。
「貴女の母親、と言ったら信じてくれるかしら?」

◆PC:榊船亜真知(さかきぶね あまち)◆
 夕日が大地に沈んで行く黄昏時。
 茜色に染め上げられた世界の中、榊船亜真知は居候先の元に駆けていた。
(早く行きませんと)
 上質の生地で作られた着物の袖を揺らし、亜真知は言いつけられた遣い事を思い出す。
(えーっと、食材は、おナスさんとーキュウリさんとーニンジンさんにゴボウさん。それにお肉さんもいればバッチリですね)
 顎先に人差し指をあてて目線を上げながら、亜真知は今晩の献立を頭に思い描いていった。本日仰せつかった料理当番。手間は掛かりそうだったが、悲しき居候の身。ワガママは言っていられない。
(ま、それにお料理は楽しいですしねー)
 金色の瞳をクリクリと輝かせ、長く艶やかな黒髪を後ろになびかせながら亜真知は従姉の元へと向かう。
「――!」
 しかし角を曲がろうとしたところで突然戦慄が走った。体を強ばらせ、足を強く踏ん張って急停止する。
(これは……)
 塀の影に身を隠し、亜真知は険しい顔つきになって『力』の発生源をのぞき見た。
 鉄筋の骨組みが剥き出しになった不気味なビルの前で、二人の男女と一人の女性が対峙している。
(あれは、ヒミコ様……)
 中の一人は知っている女性だった。
 黒い瞳に黒い髪。それとはあまりに対照的な肌の色は白。明確なコントラストを華奢な体に生み落とした女性は瀬名雫の親友――影沼ヒミコだった。亜真知にとっては雫と同じくらい大切な友達だ。
(あの方はどなたかしら)
 ヒミコを護るようにして立っているのは小麦色の肌が印象的な男性だった。クセの強そうな茶色の短髪に同色の瞳。長身で骨格の大きい彼は、目の前の大人びた女性に上から剣呑な視線を向けている。
(……ヒミコ様の味方?)
 立っている位置関係からすればそう考えるのが妥当だ。だが確証はない。
「貴方に私の相手がつとまるかしら?」
 冷たい風に乗って女性の声が聞こえる。まるで鈴の音のような、大きくはないが非常に通る声だ。服装も上品な淑女風で、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「へっ、やる気か? 女に手ぇ上げる趣味は無いんだが、事情が事情なんでね。さっきからあんたがこのお嬢ちゃんに向ける目、冷たすぎて風邪ひきそうだぜ」
 ヒミコを背中で庇いながら、彼は一歩前にでた。
「……そぅ。なら、仕方ないわね」
 それに反応したかのように彼女の雰囲気が一変する。
 蒼い輝きを持った瞳孔が縦に開き、獣の気配が宿った。黒髪が不気味に揺れ、まるで漆黒のオーラでも纏っているかのように波打ち始める。
(危ない!)
 思うのと行動は殆ど同時だった。
 気が付けば塀の影を飛び出し、妖怪の類であろう女性とヒミコを護る男の間に割って入っていた。
「我が左手に光魔の輝き! 其を持って欲するは瑠璃色の盾!」
 言霊を乗せた詞(ことば)を叫びながら、亜真知は左手を大きく前に突き出しながら右手で支える。
 直後、甚大な衝撃が左手を襲った。それは肘、肩を通り、胎内に不快な振動となって蟠(わだかま)る。
「へぇ……アレを受け止めるとはねぇ」
 女性はいきなり現れた亜真知にも動じることなく、スッと目を細めて挑発的な笑みを浮かべた。
「あ、あんたは……」
「ヒミコ様を連れて逃げて下さい! 話は後です!」
 後ろでした男の声に亜真知は早口で言い捨てると、鋭い視線で女性を見据えた。
 まだ男の事を信用したわけはないが、それ以上に目の前の女性は危険すぎる。少しでも油断すれば、いくら超高位次元の生命体である亜真知とはいえただでは済まないだろう。最悪、消滅もあり得る。
「け、けどよ……女のあんた一人残してなんて……」
「いいから早く!」
 この男がどれだけの実力者かは知らないが、少なくとも彼を庇っていられるだけの余裕はない。それにヒミコを連れて逃げてもらわないと、間違いなく巻き添えを食らう。
(手加減、出来るような相手じゃない……)
 亜真知の背中に冷たいモノが走る。
 最初の一撃で十分だった。
 アレは『物質変換』。対象物の支配数値を書き換えることで、全く別のモノを生み出す力だ。それを応用して物質が存在できなくなるように変換してしまえば、圧倒的な破壊の力と化す。
 それと似た能力である亜真知の『森羅万象』に比べると力や範囲自体は小さい。しかし彼女の余裕の表情からして、恐らくは連続で使える。せいぜい数分程度しか行使できない亜真知とは大違いだ。
「わ、分かった。あんたも気を付けてな」
「榊船さん……絶対に無事でいて下さいね」
 ようやく納得してくれたのか、男とヒミコが去って行く気配を背中越しに感じる。
「榊船さん、って言うの。貴女」
 双眸に炯々(けいけい)と妖しい輝きを宿し、彼女は唇の端を軽くつり上げて艶笑を浮かべた。
 彼女の一挙手一投足を見逃すことのないよう、注意深い視線を向けながら亜真知は目に力を込める。
(いったい何者……)
 口の中で小さく詞を紡ぎ、彼女を取り巻いている術式を読みほどいていった。薄紅に染まった視界の中で、複雑な紋様が螺旋を描いて取り巻いているのが分かる。
「アヤメ」
 しかし彼女が短い言葉を発すると同時に、古代式の紋様であろう螺旋が霧散した。そして瞳や髪の毛が元の状態に戻る。
「真宮寺アヤメ。私の名前よ、榊船亜真知さん」
「ッ!」
 名前まで呼ばれ、亜真知は小さく体を震わせる。ヒミコがさっき言ったのは名字だけだ。名前はまだ言っていない。彼女が知るはずはないのだ。
(わたくしの中を読まれた……)
 多重型の防御術式でガードしていたはずの精神を、アヤメと名乗った彼女はアッサリ突破した。
(やっぱり……)
 間違いない。彼女も自分と同じ、超高位次元の知的生命体だ。
「そんなに恐い顔しないで、亜真知さん。もう攻撃したりしないわ。貴女とは気が合いそうだから」
 半身を引いて腕を組み、アヤメはおどけたように片眉を上げてみせる。
「ねぇ、私はヒミコを取り戻したいだけなの。そこをどいてくれないかしら?」
「なぜ、ヒミコ様を狙うのですか」
「狙うだなんて人聞きの悪い。あの子は元々私のモノなのよ。分かるでしょ?」
 妙な韻を含んだ声だった。最初とは明らかに声の質が違う。いつまでも耳の奥に残り、鳴り響き続けている。そんな不気味な気配を内包していた。
「どうしてヒミコ様があなたのモノなのです」
「勿論。私が母親だから」
 気を抜けば呑まれそうになるのに耐えながら、亜真知は少しでも情報を引き出そうと口を開く。
「それを証明する物は?」
「ないわよ、そんな都合の良い物。だからあの子に思い出して貰うの。母と子供の絆を信じてね」
 アヤメからの言葉を胸中で反芻し、咀嚼して整理していく。
 ヒミコとアヤメは親子だと言う。しかしヒミコは覚えていない。アヤメが一方的に言っているだけだ。だが、何となく嘘ではない気がしてきた。
「どうして今頃」
「今までかかったのよ。あの子と同じ体にして、あの子を探し出すまで」
 同じ体にした? いったいどういうことだ。ならばヒミコも……?
「亜真知さん。貴女、自分の娘と十数年ぶりに出会えた母親の気持ち、分かる?」
 アヤメの瞳に燐光が灯る。直後に体を襲う睡魔にも似た浮遊感。意識が茫漠とした物へと変わり、恍惚感さえ伴って思考がおぼろげになっていく。
「分かるわよね。だって私と貴女は姉妹みたいなものですもの。私がどれだけヒミコの事を想っているのか、少しでも理解できたならそこをどいてくれないかしら?」
 アヤメの声が脳内で不協和音と共に反響した。
 そうだ。アヤメは嘘を言っていない。自分達は同じ超高位次元生命体。仲良くするのが当然だ。彼女に協力しなければ。彼女に……。
(違う……!)
 目の前で霧のように蠢き始めた黒いモヤを、頭を激しく振って強引に追い払い、亜真知は力のある視線でアヤメを射抜いた。
「よく理解できました。あなたがヒミコ様に害為す者だということを」
 言い切る亜真知にアヤメは舌打ちをして鼻に皺を寄せる。
(危なかった……まさかわたくしの思考回路を乗っ取ろうとするなんて……)
 物質変換の力を生体内部に適応したのだろう。亜真知の体内に張り巡らされた理力結界を易々と突破できる彼女は極めて危険な存在だ。
(わたくし一人で勝てるか……)
 アヤメの戦闘能力を予測しながら、なんとか勝機を見いだそうと無数の戦略を頭に浮かべる。
「ま、いいわ。今日の所は。なにも貴女と戦うのが目的じゃないから。それに、ヒミコにも心の整理をさせてあげなくちゃならないしね」
 アヤメは小さく鼻を鳴らして馬鹿にしたような表情を浮かべると、無防備な背中を向けた。その体勢のまま軽く手を挙げてみせ、
「そう言えば、雫ちゃんって言ったかしら。ヒミコの大切なお友達。その子がヒミコの心から居なくなったら……あの子は私の事、見てくれるかしら」
 独り言のように意味深なセリフを呟く。
 そして後ろを振り返ることなくヒールを鳴らして去っていくアヤメ。彼女を後ろ姿を見つめながら、亜真知はそれ以上何も出来なかった。

◆PC:紫東暁空(しとう・あきら)◆
 西日を一面に浴び、橙の同系色で塗り上げられた公園。
 規則的に水音を撒き散らす噴水の前で暁空は立ち止まり、大きく息を吐いた。
「まー、ここまで来りゃあ大丈夫だろ」
 途中から背負っていたヒミコを下ろし、暁空は軽く肩を叩きながらベンチに腰掛ける。
「あ、あの……ありがとうございました」
 両手を前で揃えて丁寧なお辞儀をするヒミコに、暁空は面倒臭そうに頭をかき、ぶっきらぼうな口調で言った。
「ああ、別に気にすんなよ。たまたま通りかかっただけだ。別に正義の味方でも何でもないから勘違いするな」
 長い脚を組み、ダルそうにクセの強い茶髪を掻きむしる。
 本当に偶然通りかかっただけだった。
 道路工事の助っ人として仕事を終えた帰り、勤めている有限会社『あなたの隣の便利屋さん』に戻ろうと裏路地を歩いていた時、ヒミコの悲鳴を聞いた。
 周りには自分以外人が居ない。そして襲われているのは可憐な少女。さすがに見て見ぬ振りは出来なかった。
(ったく……何でこー俺はいつも貧乏籤引くんだー? こっちゃクタクタだってのによー)
 右手で顔を押さえ、暁空は胸中で悪態をつく。
(しかしあの女、タダモンじゃねーな。気配で分かる)
 ヒミコを襲っていた大人の女性を思い出し、暁空は目を細めた。さらに、助けに入ってくれたヒミコの知り合いだろう女性も脳裏に惹起される。
(榊船、とか言ったか。で……このお嬢ちゃんがヒミコ。まー、美女揃いってのがせめてもの救いだな)
 自嘲めいた笑みを浮かべ、暁空は顔を上げてヒミコを見た。
「それで、お嬢ちゃん。あの熟女とはどういう関係なんだ?」
 言葉の意味が分からなかったのか、ヒミコは大きな目を更に大きくして見返してくる。
「あんたを連れ去ろうとした女だよ。このままほっといたら何かヤバそうだろー? メンドクセーけど俺が何とかしてやるよ」
 ホントに馬鹿だ。ちょっとは考えて物言えよ。
 自分の口から出た言葉に自分でツッコミを入れ、暁空はダルそうに伸びをした。
「で、でも、そんな。関係の無いあなたを危険な事に巻き込むわけには……」
「俺の名前は紫東暁空。ほら、これでもう立派な関係者だ。なにせお互いの名前まで知った仲だからな」
 からかうような笑みを浮かべ、暁空はキザっぽく言ってみせる。
 何故かそれが可笑しかったのか、ヒミコは口に手を当てて小さく笑った。
「なんだよ、笑うことないだろ」
「ご、ゴメンナサイ。そんなつもりじゃなかったんですけど、何だか可笑しくって」
 収まりのつかない笑いを声に混じらせながら、ヒミコは童女のように明るく笑う。さっきまでの重苦しい雰囲気は消え失せ、代わって柔らかく温かい空気が二人を包み込んだ。
 ヒミコが暁空の仕草に笑ったのではないことは分かる。緊張の糸が切れただけだ。
(ま、コレでちったぁ話しやすくなったろ)
 ヒミコから警戒されたままでは聞くものも聞けないし、護るものも護れない。
 鼻先を人差し指で掻きながら、暁空は軽く息を吐いた。
「で? あの女は誰なんだ?」
 ヒミコの笑いが収まるのを待って、暁空はもう一度最初の質問をする。
「……それが、分からないんです」
 暁空の隣に腰掛け、ヒミコは沈んだ声で言った。
「分からない? けどあの女は自分の事、あんたの母親だって言ってたぜ?」
 ヒミコを庇いながら問答していた時、彼女は確かに言っていた。『母子の間に部外者が首を突っ込むな』と。
 暁空の言葉にヒミコは項垂れて顔を伏せ、「でも……」と続けた。
「私は会ったことないんです」
「それにしちゃあアチラさんは随分と必死だったけどなぁ」
 暁空を殺してでもヒミコを奪おうとしていた彼女の姿が鮮明に蘇る。便利屋として色々と仕事をこなしていれば、中には命の危険を伴うモノだってある。しかしあそこまで鮮明な殺意をぶつけられたのは初めてだ。思い出しただけでゾッとする。よほどヒミコを手に入れたいのだろう。
「あの様子だと逆恨みって線も薄そうだし。まー、アレだな。あの女があんたの母親かどうかはともかくとして、だ。あんたの方があの女を事故か何かで忘れてるって可能性が高いな」
 暁空が言い終えた直後、視界の隅でヒミコの体が震えるのが見えた。顔を青くして下唇をきつく噛み締めている。
「おい、どうし……」
 様子のおかしいヒミコに体を向け、暁空が気遣いの言葉を掛けようとした時、頭上の枝をざわめかせて人影が二人の前に降り立った。
「そこから先はわたくしが説明しましょう」
 それは先程、助けに入ってくれた女性だった。
 夕焼けを反射して映える漆黒の長い髪。神秘的で幻想的で、そしてどこか胡乱気(うろんげ)な金色の双眸からは仙人の様な雰囲気が滲み出ている。
 袖元にゆとりを持たせたデザインの白い上着に、紅い袴。いわゆる巫女装束に身を包んだ彼女は厳しい顔つきで暁空とヒミコを見た。

 亜真知と名乗った女性から一通り話を聞き終え、暁空は片目を瞑って後ろ頭を掻いた。
(こりゃあ思ったよりずっとメンドーな事になりそうだぜ)
 そして深く溜息をつく。だが同時に沸き上がってくる昂揚感。決して嫌いではないこの感覚。
(ま、退屈するようはいいさ)
 すでに姿を隠してしまった太陽の跡に何気なく視線を向けながら、暁空は説明されたことをもう一度頭の中で整理する。
 ヒミコは幼い頃、ボロボロの服装で異界を彷徨っていたところを高峰心霊学研究所に保護された。それ以前の記憶はない。『ヒミコ』という名前も高峰沙耶から与えられた物だ。
 ヒミコは保護されてからも発作的に感情を爆発させ、そのたびに彼女に眠る膨大な霊力が野放し状態になっていた。それを防ぐため、高峰沙耶から貰ったお守りで霊力を抑制しているというのだ。
(けっこーキツい過去背負ってんだねー。このお嬢ちゃん)
 ならばアヤメという女性と関係を持っていたのは保護される前ということになる。覚えていなくて当然だ。
「この先、あの人は必ずヒミコ様に接触してきます。恐らくヒミコ様を手に入れるまでは何度でも。わたくしはヒミコ様を護ります。あなたはどうしますか?」
 少し疑わしげな視線をこちらに向け、亜真知は話をふってくる。
「まー、ここまで関わっちまったからな。事情も聞いたし。さすがに『後はヨロシク。俺はベンチで麦茶におはぎ』って訳にはいかねーだろ」
 不敵な笑みを浮かべながら、暁空は茶化すように返した。
「わかりました。ただし相当の危険が付きまといます。残念ながらわたくしに、あなたをかばうだけの余裕はありません。その覚悟は出来ていますね?」
「心配すんなって。自分のケツくらいは自分でふくさ。これでも結構格闘技には自信あるんだぜ」
 軽くジャブを打ってみせながら、暁空は柔和な笑みを浮かべる。
 しかし亜真知は目を瞑って首を横に振り、暁空の両手を握った。
「今回の敵は普通ではありません。普通の武術では歯が立たないでしょう。ですからわたくしの力をあなたに貸し与えます」
 言葉が終わるか終わらないかの内に、亜真知の手が触れた部分が淡い光を帯び始める。それはすぐに青白い炎へと変わり、僅かな熱を伴って暁空の体に吸い込まれた。
「な、んだ? 今のは……」
「わたくしの理力の一部をあなたに宿らせました。これですこしはまともに戦えるはずです。ただし、危険な力でもありますのでくれぐれも使い方を間違えないでくださいね」
 両手を自分の目線まで上げ、掌と甲を何度も見ながら暁空は首を傾げる。特に変わった様子はない。
「実際に戦えば分かります。まぁ、出来るだけ戦わずにすむ方向に持っていくつもりですが」
 力を分け与えたせいか、少し疲れた表情になりながら亜真知はヒミコに顔を向けた。
「ヒミコ様。アヤメという女性は最後に不吉なことを言っておりました。雫様がいなくなればヒミコ様が自分のことを見てくれるかも、と。出来るだけ雫様から目を離さないでください。あの女性の気配は記憶しましたので、ヒミコ様や雫様に近づかせないよう努力しますが何があるか分かりません」
 亜真知の言葉にヒミコは暗い表情で頷く。
「ごめんなさい……こんなにご迷惑をおかけして……」
 公園に備え付けられた街灯が思い出したように輝き始める。頼りない光をスポットライトのように浴び、ヒミコは消え入りそうな声で呟いた。
「気にすんなって。コレも何かの縁だ。明日からはバッチリ護ってやるからよ、巨大船に乗ったつもりでいな」
 暁空の明るい声にヒミコは儚げな笑みを浮かべる。
「じゃあ俺が送って行ってやるよ。今日は色んな事があって疲れたろ。こういう時はさっさと寝ちまうにかぎる」
「それではわたくしもお供させていただきます。送り狼になられても困りますので」
 どこまでが冗談で、どこからが本気かよく分からない顔つきで言う亜真知に、暁空は肩をすくめて小さく笑いをこぼした。

◆PC:榊船亜真知◆
 ヒミコの通う神聖都学園の校門前。
 暁空の車の中でヒミコ達がいるであろう教室の方を見ながら、亜真知はアンパンを小さく千切って口に入れた。暁空が牛乳と一緒に買ってきてくれた物だ。
「まるで刑事の張り込みだな、こりゃ。何やってんだか」
 隣で豪快に自分のアンパンにかぶりつき、暁空はサングラスの位置を直す。その容貌たるや一昔前のドラマに出てきたデカ役にそっくりだ。
(だったらせめてファーストフードで買ってくればいいのに……)
 不平を漏らす暁空に、亜真知は胸中で毒づいた。
 手に持ったアンパンとダッシュボードの上に載せた牛乳の紙パック。そしてアヤメにバレないためにと強引に付けさせられたサングラス。
 どう考えても『狙っている』とか思えない。
(こんな物付けてたら余計あやしいのに……)
 薄暗く染まった視界の中、亜真知はサングラスをいじりながら溜息をついた。
 変装しようとしまいと、見つかればバレる。相手の存在位置は特定の周波数で見分けられるのだから。高位次元生命体とはそう言う物だ。
「ホシがとっとと出てきてくれりゃあ、こんな面倒臭いコトしなくてすむんだが」
 不満げな声とは裏腹に、暁空は楽しげな顔つきで神聖都学園を見上げている。
(『ホシ』って……この人ひょっとして見かけより年なのかしら)
 口に含んだ牛乳を吐き出しそうになりながら、亜真知は運転席に座っている暁空を横目で盗み見た。
 短く切りそろえた茶色の髪。太い眉毛に、意志の強そうな瞳。肌は気力が充実しきっているように張りがあり、服の下から押し上げてくる分厚い筋肉は圧巻だ。
 まるで漲る生命力が服を着て歩いているようなこの男は、どう見ても二十代半ばにしか見えない。
「そう言えばあんた、そんな格好してて暑くないか?」
 本日五つ目のアンパンと三本目の牛乳を開けながら、暁空は亜真知の方に振り向いた。
(に、似合ってる……)
 牛乳片手にサングラスを掛けたままアンパンを頬張る姿は、まるで彼のために昔の俳優が考えましたと言わんばかりにピッタリだった。
(とすると『一見クールに見えるが実は熱い』って感じの人なのかしら)
 思わずまじまじと暁空の顔をのぞき込み、亜真知は過去のデータを頭の中で閲覧しながら考え込んだ。
「なんだよ、人の顔をジロジロと」
「あ、ああ。ごめんなさい。つい……」
「『つい』?」
 無意識に漏らしてしまった失言に、亜真知は内心ほぞをかむ。
「そ、それより、今日は良い天気ですねぇ」
 追及を逃れるため、強引に話題を変えた。
「ああ。だから暑い」
「あ、やっぱり熱いんですか?」
 先程の自分の推理が的中していたことと、彼がベタな人格だったことに僅かな感激を覚える。
「じゃあ、あんたは暑くないのか。まー汗も全然かいてないしな」
「ええ、わたくしはどちらかというと冷静な方で、熱くなることはあんまり……」
「へー、冷静だったら暑くなくなんのか。初耳だな」
「そうですか? この二つは相反する物だと思うのですが」
 冷静で熱いという人物を検索してみるが、該当する者はいない。
「そうでもないだろ。俺はわりと冷静だが暑がりだぜ」
 ならば彼が初めての人物だ。貴重なデータとして、新規作成した『冷静だが熱い』カテゴリーに紫東暁空の名前を登録する。
(……ん? 『熱がり』?)
 亜真知が言葉の端に妙な違和感を覚えて聞き返そうとした時、背筋に冷たい物が走った。
「来ました!」
 カッ、と大きく目を見開き、サングラスを投げ捨てて車を飛び出す。隣にいた暁空も自分以上に素早い身のこなしで外に出ていた。
「どこだ!」
「体育館です!」
 短い言葉のやり取りで目標を伝え、亜真知と暁空は神聖都学園の校門をくぐる。
(は、早い……!)
 さっきまで一緒に走っていたはずの暁空の姿が、亜真知の視界の中で激的に小さくなっていく。足にあてている理力を強めてスピードを上げ、体育館前で何とか暁空に追いついた。
 中では大きな音が立て続けに鳴り響いている。
 ボールやマットが立てている音ではない。低く鈍い重低音。
 これは人が落ちた時の音だ。
「くそ!」
 それを察したのか、暁空は悔しげに叫びながら体育館の扉を荒っぽく開けた。
「な……」
 そして言葉を失う。
 中にはゴミクズのように捨てられたヒミコのクラスの生徒が横たわっていた。辛うじて生きているが、まるで陸に打ち上げられた魚のようにか細い呼吸で喘いでいる。
「あら、意外に早かったわね。もうちょっと遊ぼうと思っていたんだけど」
 綺麗に磨き上げられた体育館の中央。天井に取り付けられた巨大照明の光を受けて黒光りする髪の毛を梳きながら、アヤメは優雅とも思える仕草で生徒の一人を放り投げた。
「テメェ!」
 暁空は歯を剥いて激昂するが、飛びかかることなく拳を固く握りしめて振るわせている。
(この力は本当に危険だわ)
 相手の力を図りかねているのだろう。不用意に飛び込めば返り討ちに会う可能性が高い。その点に関しては同意見だった。
 亜真知がアヤメの力を感じてココに来るまで一分程しか立っていない。その短い間にこれだけの惨劇を生み出したのだ。ただ力が強いと言うだけではなく、目的の為なら手段を選ばない非道さが現れている。
「ヒミコ、思い出した? コレと同じ力が貴女の中に眠っているのよ」
 アヤメの言葉にハッとし、亜真知はヒミコの姿を探して彼女の視線の先を見やった。
 そこでは床に尻餅を付き、顔面を蒼白にして大きく目を見開いているヒミコがいた。あまりの恐怖に放心し、口を半分開いたまま涙を流している。
「かわいそうにヒミコ。でも大丈夫、お母さんが一緒にいてあげるから」
 あやすような口調で言いながらアヤメがヒミコに一歩踏み出した時、暁空が動いた。
 爆発的な瞬発力で一瞬の内にトップスピードに乗り、まばたきする間にヒミコとアヤメの間に割って入る。
「あんたみたいな母親にヒミコを渡すわけにはいかねぇな。ドメスティック・バイオレンスって知ってる? 今の日本社会じゃちょっとした問題になってるんでね」
 相変わらずのとぼけた調子で、暁空は挑発的な笑みを浮かべた。
「貴様に用はない。どけ」
「あんたに無くてもこっちにはあるんだよ。ヒミコを連れて行きたかったら俺を倒してからにするんだな」
 言いながら手をいったん後ろに回して再び前に持ってくる。そこには三節棍が握られていた。どうやら暁空の得物らしい。
「貴様のようなクズがヒミコの名前を軽々しく口にするな」
 声に危険な物を孕ませ、アヤメが凄む。
「あんたがヒミコの母親かなんだか知らねーけど、ヒミコの学園生活を壊すようなマネは感心しねーな。ヒミコは別に不満は無いみたいだし、ヒミコはアンタのこと忘れてるみたいだしな。ここは一つヒミコの意思を尊重して、ヒミコにこれまでの平和を返してやってくれねーかな。ヒミコのお母様よ」
 わざと『ヒミコ』の名前を何度も連呼して強調しながら、暁空は軽い喋りで言い終えた。
「キ、サマ……!」
 アヤメの纏う雰囲気が見る見る変わっていく。
 散漫としたつかみ所のない怒気から、鮮明な輪郭によって浮かび上がる殺意へと。蒼い瞳の奥に眠る瞳孔が縦に開き、黒髪が重力の束縛から逃れて天を突く。
「貴様に何が分かる! 私がヒミコにどれだけ愛情を注いでいたか知っているのか! 子を成せない体だと分かった時の絶望が貴様に理解できるというのか!」
 アヤメの怒声に触発されたように、暁空の目の前の空間が不自然に歪み始めた。
(歪曲空間! いけない……!)
 亜真知は慌てて胸の前で印を組む。
「地霊の叫び、精霊のいざない! 大地を伝いて崩壊の力を喰らえ!」
 そして床に強く手を当て、詞を叫んだ。
 次の瞬間、亜真知の手から光の帯が蔦のように伸び、アヤメの生み出した歪曲空間の下に潜り込んだところで垂直に方向性を変える。
「何!?」
 アヤメから聞こえる狼狽の声。
 光の蔦は歪曲空間を貫いたところで先端が弾け、シャワーのように降り注いで事象数値の書き換えられた空間を呑み込んでいった。
「貴女とは分かり合えると思っていたのに……残念だわ」
 消沈した声と共に、アヤメの髪の毛が力無く下に垂れる。
「ヒミコ様を傷つけようとする人なんかと分かり合いたくありません」
 肩幅に足を開き、戦闘態勢を取った亜真知を見て、アヤメは軽く唇に手を当てて妖艶な笑みを浮かべた。
「同じ女性でも子供を持ったことがない人とは、価値観が全然違うモノなのね」
 その体勢のまま、まるで氷の上を滑るようにアヤメは移動する。
 そして一人の少女の前で止まった。
「ヒミコ、覚えておきなさい。貴女はこのような脆弱で矮小な存在の中にいてはいけない。いずれ貴女自身の手で傷つける時が必ず来る」
 片手で首を持ち、乱暴に掴み上げたのは雫だった。
「雫様!」
 亜真知が悲鳴混じりの叫声を上げる。
 その姿を至福の表情で一瞥した後、アヤメは諭すような口調でヒミコに話しかけた。
「この子を返して欲しかったら明日の夜六時、最初に会った廃ビルに来なさい。その時までにちゃんと答えを出すのよ。貴女がいれば、その周りに迷惑が掛かる。貴女の居場所は私の側しかないと言うことを、言葉でなく体で理解しなさい」
 そう言い残すとアヤメは空気に溶け込むようにして消えた。
「な……!」
 自分の周りの屈折率を変えたのか、それとも自らの存在事象を書き換えたのか。どちらにしろ彼女の力が絶大であることに変わりはない。 
「大丈夫か? ヒミコ」
 呆然とアヤメの消え去った跡を見ていた亜真知だったが、暁空の声でようやく我に返った。
(雫様を、護れなかった……)
 いくらヒミコに注意が行っていたとはいえ、雫の事はアヤメ自身が仄めかしていたことだ。にもかかわらずみすみす逃してしまったのは完全に自分の失態だった。
 自責の念に苛まれながら、暁空とヒミコに近寄る。
「大丈夫だって。人質にしたって事はさっきのオチビちゃんは命を保証されたようなモンだ。明日ヒミコの件と一緒にまとめて片づけちまえばいい」
 そんな亜真知の心中を察したのか、暁空が柔らかい口調で励ましてくれた。
「それよりアリガトな。さっきはフォローしてくれて。助かったよ」
「い、いえ……」
 素直に感謝の言葉を述べられ、亜真知は照れたように頬を掻く。
「とりあえず救急車呼ばないとな。ヒミコは大丈夫。怪我一つない。それよりも他の奴らの方がずっとヤバそうだ」
 半死半生の状態で累々と横たわる生徒や教師。
 だが亜真知の力で傷をふさぐことくらいは出来る。体力までは回復できないが、命に別状が無くなるまでにはなるだろう。
「思い、出した……」
 亜真知が近くにいた生徒の傷口に手をかざした時、掠れた声がヒミコの口から漏れた。

 雫やヒミコの行きつけとなったインターネットカフェ。
 店の隅にあるガラスで仕切られた四人がけのテーブルに陣取り、亜真知は注文したコーヒーを一口含んだ。
 あの事件により神聖都学園の生徒は全員集団下校させられていた。今、学校の中は警察や救急の関係者でごった返している。雫にはすぐに捜索願が出された。
「思い出したって?」
 軽いショック状態に陥っていたヒミコがある程度落ち着いたのを見計らって、暁空はアメリカンドッグを頬張りながら話を切り出した。
「はい……あのアヤメという人は、確かに私の母親にあたります」
 母親に当たる。妙に遠回しな表現だ。
「私は、彼女の手で作られた心霊兵器です」
 それから続けられた内容は、にわかに信じがたいモノだった。
 彼女――真宮寺アヤメは高峰心霊学研究所のライバル研究所、ソウルアーク・ラボの研究所員だった。そしてアヤメの研究テーマは、安定的な人工生命体の開発。
(多分……自分の子供を作りたかった……)
 体育館で感情的になったアヤメが叫んだ言葉が脳裏をよぎる。

『子を成せない体だと分かった時の絶望が貴様に理解できるというのか!』

 どうしても欲しかったのだろう。彼女の研究熱は凄かったらしい。同じ研究仲間の間では有名だった。
 道徳や倫理を省みない、禁断の道に足を踏み入れた者として。
 そしてある日、ついに彼女は完成させた。人間と変わらない思考や感情を持ち、時と共に成長していく人工生命体を。 
 多次元プログラミングによって作られた思考部分を司るバイオチップを優秀な霊能者の肉片に埋め込み、ソレを全能性細胞と融合させて母胎の代わりとなるリアクター内で培養する。
 そうして生み出されたのが『心霊兵器《氷魅虎》』だ。
 勿論、ヒミコは自分が人工生命体である事をアヤメの口から聞いたわけではない。彼女からは本当の娘のように愛され、どこでも見かける仲睦まじい親子だった。よく父親はどこに行ったのかと聞いて、アヤメのことを困らせていたらしい。
 平和で充実した日々。しかし、心ない研究所員の発言により日常は終わりを告げる。
 ヒミコはいつものように父親の事を色んな人に研究者に聞いて回っていた。殆どの人が曖昧な返事で誤魔化したり、苦笑しながら知らないと答える中、一人の男だけが違うことを言った。

『お父さんは知らないけど、ヒミコちゃんのお兄ちゃんやお姉ちゃんなら知ってるよ』

 自分に兄姉がいる。いきなり降って湧いた新事実は、ヒミコから疑念や不安を取り除くには十分すぎた。
 彼について薄暗い地下室に潜り、ヒミコが通されたのは、昔使われていて今は立入禁止になっている旧研究所だった。扉の横に掛けられたネームプレートには『真宮寺アヤメ』と書かれていた。
 この中に沢山の兄や姉がいると言われ、ヒミコは昂奮を押さえきれずに中に駆け込んだ。
 中にあったのは、赤や緑色の液体で満たされた無数のリアクターだった。

『この人達が、ヒミコちゃんのお兄ちゃんとお姉ちゃん達だよ』

 困惑しながら室内の異様な雰囲気に後ずさるヒミコの体を押さえつけ、彼は近くにあったリアクターを指さした。
 中では腹部から腸のはみ出た赤ん坊が浮いていた。

『ヒミコちゃんはね、お母さんに創られたんだ。彼らはヒミコちゃんを創る過程で生み出された失敗作。いわばお兄ちゃんとお姉ちゃんさ。分かるかい?』

 隣のリアクターには顔が半分しかない赤ん坊が、その隣には目玉から触手が生えている赤ん坊。指が十本以上ある者、皮膚が全くない者、足の関節が五個ある者。
 リアクターの中に押し込められた異形の赤ん坊達は、皆虚ろな目をして”生きて”いた。

 ――自分もこうして生み出された。

 どうしようもない黒い感情が、潮騒のように広がっていく。まるで体の中で蟲が蠢き、毛穴から這いだしてくるような感覚。コレまでの常識が根底から覆され、腐臭を放つ汚泥に体が埋もれていく。
 最初に見た赤ん坊が動いたように見えた。だが気のせいではなかった。よく見ると他のリアクターにいる赤ん坊達ものそのそと鈍く動き始めている。

『これは驚いた。きっとヒミコちゃんの気配を感じて反応してるんだね。ヒミコちゃんと彼らは全く同じ周波数を持つ心霊兵器だから』

 兄姉達はゆっくりと顔を上げ、そして――目があった。

「そこから先はよく覚えていません。気が付くと、異界のどこかを彷徨っていました」
 大きく息を吐き、ヒミコは話を一端区切って水を一気に飲み干す。まるで過去を語ることで喉の奥にたまった汚れを清めるかのように。
「ソウルアークっつったら、確か俺がガキの頃に派手なガス爆発とかでブッ壊れた研究所だぜ」
 ミックスジュースをストローですすりながら、暁空は視線を上げて何かを思い出すような仕草をする。
 ソウルアーク・ラボは、もう十年以上も前に謎の爆発事件で完全に崩壊した研究所だ。中にいた研究所員は全員死亡。結局、誰かが跡を継いで復興することもなく、ソウルアークの名前は人々の記憶から忘れられていった。
(あの爆発事故の原因は恐らくヒミコ様の暴走。あまりにショッキングな事実を突きつけられて理性のタガが外れ、心霊兵器としての力が解放された)
 そして記憶を失った。辛い過去から自分の精神を守るために。
「けどアヤメって女は何で助かったんだろーな」
「多分、その頃からすでに自分の体も心霊兵器に近づけていたのだと思います」
 ヒミコと本当の意味で親子になるために。ヒミコを人間に出来ないのならば、自分が心霊兵器になればいい。そう考えたのだろう。
 深い母性愛と、狂気的な倒錯愛が共存する女性。アヤメの病んだ心が、一瞬垣間見えた気がした。
「ま、そこまで思い出したんだ。明日、顔をつき合わせてじっくり話し込めば向こうだって分かってくれるさ」
 言い終えて追加の注文を頼む暁空。
 無責任で無神経な発言だが、亜真知も今はそうなって欲しいと心から願った。

◆PC:紫東暁空◆
 約束の時間の十分前。太陽が寝静まる直前の黄昏時。
 ヒミコ、亜真知と一緒に暁空は廃ビルの前に来ていた。
(このお嬢ちゃんと最初に会った時と同じだな)
 時間、場所、人物。全てが二日前と同じだった。初めてあった時は単に可愛い女子高生という印象しかなかったが、僅か二日の間で随分と印象が変わった。
「じゃー行きますか」
 暁空の声にヒミコと亜真知が頷く。
 扉のない出入り口をくぐり一歩中に踏み入れると、明らかに雰囲気が異質な物になっていた。湿気を多く含んだカビ臭い空気が肌にまとわりつき、不気味な闇が澱(おり)のように沈殿している。コンクリートが剥き出しになった外壁からは、名状しがたい圧迫感が放たれていた。
「ようこそ。あらあら、貴方達も来たのねぇ。招待したのはヒミコだけだったのに」
 一層濃くなった闇の一部が盛り上がり、それが徐々に人の形を取っていく。まるで影の中から生まれ出たように、アヤメは悠然とした足取りでコチラに近づいてきた。
「俺達は招待客じゃないんでね。ヒミコのボディーガードさ」
「招かれざる客は迷惑がられるわ。せっかくのパーティーが台無しね」
 胸の下で外側に腕を組み、アヤメは芝居かがった口調で返す。
「雫様はどこですか」
 ヒミコを挟むようにして立っている亜真知が、険しい顔つきで言及した。
「心配しなくていいわ。ちゃんと、ココにいるから」
 パチン、と指を鳴らすとアヤメが現れた時と同じようにして、闇の中から雫が姿を現した。ピンクの大きなリボンはいつも通りだが、さらわれた時のまま体操服を着ている。雫は薬か何かで眠らされているのか、目を瞑って首を下げたまま何も言わずに立ちつくしている。
「さぁ、ヒミコ。貴女の返事を聞かせて頂戴」
 雫の首筋に左手をあて、アヤメは期待に満ちた声で言った。
 それは質問と言うよりは一方的な要求。雫を人質に取られている以上、ヒミコにアヤメを拒絶するような返事はできない。
(汚ねぇ奴だ……)
 小さく舌打ちしながら暁空はアヤメを睨み付ける。少しでも隙を見せれば、少々強引にでも雫を奪い取るつもりだった。
「私、あなたには感謝しています。あなたが私を生み出してくれたおかげで雫さんや榊船さん、それに紫東さんと知り合うことが出来ました」
「ああ……やっと思い出してくれたのね、ヒミコ」
 アヤメの口から思わず感嘆の声が漏れる。ヒミコが自分を思いだしてくれた事に対して、酔いしれているようにも見えた。
「昨日、一晩中考えました。あなたのこと、大切な友達のこと。あなたの言うとおり、今後私の力が暴走しないという保証はどこにもありません。その時、周りに沢山迷惑を掛けてしまうかもしれません」
 その場に居合わせた全員が、ヒミコの語りに耳を傾けてた。
「あなたと一緒にいれば、私が暴走しても押さえてくれるかもしれない。そうすれば大切な人達を傷つけずにすむかもしれない。でも……」
 そこまで言ってヒミコは言葉を句切る。そして大きく息を吸い込み、意を決してキッパリと言いきった。
「やっぱり、私みんなと一緒がいいんです。力だって貰ったお守りで押さえつけられていますし、みんなと一緒にいれば巧くやっていける気がするんです」
「そぅ……」
 ヒミコの決意に揺るぎが無いことを感じたのか、アヤメは溜息混じりに呟いた。
「でも、この子は反対みたいよ」
 彼女の言葉に応えるように、雫は薄く目を見開いて顔を上げる。
「ヒミコ、ちゃん……やっぱり、お母さんと一緒にいた方がいいよ」
 抑揚のない喋り。明らかに普通とは様子が違っていた。
「雫さん! 雫さんに何をしたんですか!」
 ヒミコの叫びにアヤメは目を細め、虚仮にしたような笑みを浮かべる。
「別に何もしてないわ。ちょっとお話ししていただけ。そしたらすぐに気があってね。私に賛成してくれたの」
「バカな事言ってんじゃねーよ。どー見たってあんたが操ってんじゃねーか」
 少なからず狼狽の色を浮かべたヒミコを自制するため、暁空は声を大きくして会話に割り込んだ。
「そうかしら? それを証明する物は何もないわ。ねぇ? ヒミコ」
 薄暗い廃ビルの中、光源などどこにもないのにアヤメの双眸だけが不気味な輝きを灯し、蒼い燐光を放ち始める。
(なん、だ……)
 まるで脳内が強い酸で浸食されていくような感覚。意識が白み始め、体の制御が失われていく。
「ヒミコ様! 紫東様! あの目を見てはダメです!」
(――!)
 亜真知の上げた声で辛うじて意識を繋ぎ止められた。両手を握りしめ、邪気を追い払うように胸を大きく張る。
 危なかった。亜真知の声が無ければ完全に呑まれていた。
「……そんな、雫さん。どうして、そんな、こと……」
 隣でヒミコが涙混じりの声を漏らす。そのままおぼつかない足取りでフラフラとアヤメの元に歩を進めた。
「ヒミコ! しっかりしろ!」
 ヒミコは自分とは違いアヤメの視線を真っ正面から受けていた。周囲に零れた視線を拾っただけで暁空は意識を奪われそうになったのだ。今ヒミコにのし掛かっている効力は、暁空の比ではない。
「ヒミコちゃん……あたし、ね……本当はヒミコちゃんの事、そんなに好きじゃなかったんだ」
「雫さん……」
 二人とも完全にアヤメの術中に嵌っていた。ヒミコは雫の口から紡がれる辛辣な言葉に、恥も外聞もなく涙を流している。
「クソッタレ! きたねぇマネしやがって! おいヒミコ!」
 離れていくヒミコの肩を強く掴む。
「うお!」
 しかしヒミコの体に触れた左手に激痛が走り、暁空は反射的に手を引いた。
「これは……」
 掌の皮が剥がれ、真皮が剥き出しになっている。ヒミコの体からは白いモヤのようなものが立ち上り、青白い光を内側から覗かせていた。
「ヒミコ様の、封印が解ける……」
 絶望に近い声が亜真知から漏れる。
 確かヒミコは言っていた。体に眠っている膨大な霊力を高峰沙耶から貰ったお守りで押さえつけている、と。
「うふふ……ヒミコ。そんなちゃちなお守りじゃあ、本当の貴女を押さえつけることなんて出来ないわよ」
 アヤメの瞳が発する光が輝きを増した。
「ヒミコちゃん……サヨナラ」
「し、ずく……さん」
 次の瞬間、ヒミコの体を中心に冷気の渦が巻き起こる。ソレは周囲に散乱した瓦礫や木片を巻き込んで天井を易々と砕いた。
「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 ヒミコのエコー掛かった絶叫に大気が鳴動し、窓枠にはめられた強化ガラスを次々と砕いていく。
「ヒ、ミコ……」
 皆が見守る中、ヒミコの姿が変貌し始めた。
 制服を内側から食い破って、両手両足が長く雄々しい四肢に変わる。青白く躍動する筋肉を蠢動させ、四本の足で大地をしっかりと捕らえた。頭は細く縦長い物になり、黒い髪の毛は白く変色して炎のように揺らめいている。背中からは硬質的で透明な羽根が生え、氷で出来た彫刻のように鋭利な断面を晒していた。
「コレが……ヒミコ様の本来の姿……」
 今や一匹の蒼い獣と化したヒミコは、虎を連想させる猛獣の容貌で周囲を見回した。
「そう。これが『心霊兵器《氷魅虎》』の正体。信じていた者に裏切られ、感情が果てしなく崩れれば、いかに高峰沙耶の創りだした封印呪とて氷魅虎の力を押さえておくことは出来ない」
「そんなコトしたってヒミコはあんたの物にはならねーだろーが!」
 暁空の叫びにアヤメは動じることもなく、余裕の笑みすら浮かべて返す。
「いいのよ、もう。ヒミコが私の元に来ないというなら、共に死ぬだけ。あの世で一緒になれればそれでもいいわ」
「ちぃ!」
 完全に狂っていた。自分が巻き添えを食うのを承知の上でヒミコを暴走させたのだ。
(もう話し合いなんて悠長なこと言ってる場合じゃねーな!)
 暁空はベルトで後ろに止めていた三節棍を取り出し、両手に持って構えた。
「亜真知、あの女がヒミコに掛けた暗示みたいなヤツはアイツを倒せば解けるか」
「分かりません。ですが可能性はあります。限りなくゼロに近いかもしれませんが」
「上等! そんじゃあんたは雫を頼む!」
 暁空は膝のバネを瞬間的に爆発させ、一気にトップスピードに乗るとアヤメとの間合いをゼロ近くまで詰める。
「フ……人間の分際で私に挑むか。しかもソレが一縷の望みだと知りつつも」
「何もしないうちから諦めるのは嫌いでね!」
 三節棍を右手に持ち替え、上から大きく振り下ろした。棒状になった黒い棍撃が迅雷のスピードを伴ってアヤメの頭上に狙いを定める。
「愚かな……」
 左の甲を盾のように突きだし、アヤメは易々とソレを弾いた。衝撃が三節棍を通じて自分の手に伝わったのを確認して、暁空は得物から手を離す。支えを失った三節棍はアヤメの左手を中心をとして回転を始めた。
「小賢しいマネを!」
 そちらにアヤメが気を取られた僅かな隙をつき、暁空はアヤメの懐にもぐりこむ。
 最初の一撃は囮だ。決定打など期待していない。
「オラァ!」
 亜真知から渡された理力という名の『力』。それを右拳に集約させて、両足を大きくたわめる。そして伸び上がりざま、腕力に脚力を付加させて渾身の一撃をアヤメの鳩尾に叩き込んだ。
「――!」
 声にならない声がアヤメから漏れる。
 腹部の圧迫により無理矢理肺から空気が押し出され、ソレと共に紅い飛沫が口から吐き出された。
(手応えあったぜ!)
 回転して戻って来た三節棍を器用に受け取り、暁空はアヤメから一端間合いを取る。
「キ、サマ……! 私の腹を! 身勝手な男の手でけがされた私の腹を、まだ嬲るつもりか!」
「悪いな。コッチも必死でね。今、俺はあんたを女と思っちゃいねぇ。一人の敵さ!」
 勝機、と見て暁空は大きく飛び上がり、上空から三節棍をアヤメの目の前にある地面に叩き付ける。破砕されたコンクリートが石つぶてとなり、アヤメの視界を奪っていった。
「男は……男は、いつでも身勝手なものだな!」
 だが石つぶてはアヤメに当たる前に空中で粉々に砕け散り、風と共に霧散していく。その灰色の霧を突き破り、地面で直角に軌道を変えた三節棍の先端の一節がアヤメの顔面を襲う。
(当たる!)
 避けられる間合いではない。
 アヤメの額が割れ、血しぶきが辺りを染める映像が暁空の頭で鮮明に描かれた。
 しかし――
「な……!」
 一節はアヤメに当たる直前で不自然に勢いを失うと、そのまま乾いた音と共に地面に横たわる。そして気が付けば、三節棍とソレを持つ手を巻き込んで不気味に歪んだ空間が形成されていた。
(歪曲空間!)
 以前は亜真知に助けられた。しかし今、亜真知は雫を氷魅虎の暴走から守るので精一杯のはず。フォローは期待できない。
「うおおおぉぉぉぉ!」
 雄叫び上げ、可能な限り直線的に歪曲空間から右手を引き抜く。
 しかし僅かに動かしたところで、朽ち木が折れるような鈍い音と共に右腕が甚大な熱量を帯びた。ソレはすぐに激痛へと変わり、吐き気すら伴って暁空の体を蝕む。
「ぐ、ぅ……」
 恐らく粉々に砕けたであろう右腕を左手で庇いながら、暁空はアヤメから大きく距離を取った。
「ハハハ! 脆いな! だがまだ片腕だけだ。知っているか? 体には二百五十もの骨がある。ソレを一つずつ丁寧に砕いて行ってやろう。あの男と同じようにな!」
 喜々とした表情でアヤメは黒髪を振り乱し、暁空の視界から姿を消す。そして次に現れた時はすでに目の前だった。
「私にもな、昔将来を誓った男がいたのだ。その男といくつもの夜を過ごし、私は子を成した」
 鉤状に曲げた細い右腕が暁空の右肩に添えられる。そして体内にわだかまるくぐもった音。声を上げる間もなく暁空の肩が砕かれた。
「だが所詮は遊びでしかなかったのだ。あの男は私が妊娠したことを告げると、手のひらを返したように冷たくなった。そして別の女の元に走った」
 顔を近づけ、耳元で怨嗟の念を込めて囁くアヤメから少しでも離れるため、暁空は思い切りバックステップを踏む。
「ある日、あの男が私の元に現れた。ヨリを戻したいのかと思ったが違った。男が気になっていたのは私の体の中にあった子供。責任から逃れために堕ろせと言ってきた」
 しかしソレすらも無意味だった。今度は背後からアヤメの声が届き、ソレが冷たい手となって暁空の心臓を鷲掴む。
「私は拒んだよ。するとまるでソレを予想していたかのように、数人の男が現れ私は拘束された。そして薬を嗅がされて眠らされ……その後、奴らはどうしたと思う?」
 左脚から鮮血が噴出する。
 着地の衝撃で傷口が更に開き、赤黒い溜まりを足下に生み出していった。
「腹を殴り続けたのさ。中で息づく赤ん坊を殺すためにな。あまりの痛みで目が覚め、私は泣いて許しを請うた。しかし、その願いが聞き届けられることはなかった」
 片膝を突き、辛そうに顔を上げる暁空を悠然と見下ろしながら、アヤメは忌々しげな表情で吐き捨てた。
「赤ん坊は当然、死産。ソレばかりか、私は二度と子供を産めない体になった。貴様に分かるか? 女として生まれた意味を、男の身勝手な傲慢で奪い取られた気持ちが。だから私はヒミコを生み出した。産声を上げることも出来ずに死んでいった子供のためにも。あの子は私の全てだ。あの子が私の元に来ないと言うならば、私に生きている意味はない」
 だから死を選ぶ。ヒミコと共に。
「へ、へへへ……」
 物事には全て理由がある。
 光があるから影が生まれる。生きる者が居るから時が刻まれる。
 原因と結果、それは二つで一つ。
「あんたが生きる理由はヒミコって訳か……」
 ヒミコが居るからこそ自分は生きている価値がある。
 なる程。気持ちは理解できた。異常な母性愛も、そこまでヒミコにこだわる理由も。
「けどな……俺にも生きる理由ってのがあってね」
「ほぅ」
 アヤメの目が錐のように細く鋭くなった。
「ヒミコをあんたから無事守ること。ソレが今の俺が生きていく理由だ!」
「――!」
 何か言おうと口を開いたアヤメの言葉が詰まる。彼女の背後に突然現れた膨大な質量と力に気圧され、肩越しに後ろを返り見た。
 そこにいたのは暴走して突っ込んでくる氷魅虎の姿。
「紫東様!」
 亜真知が巧く誘導してくれたのだろう。
 どうやら暁空や亜真知がまともに戦ってもアヤメは勝てる相手ではないことは分かった。ならば同質の力を衝突させるしかない。
 心霊兵器《氷魅虎》の力を。
「……ヒミコ……」
 アヤメは避けない。
 まるでこういう結末を予想していたかのように、腕を広げて自分の胸の中へと迎え入れる。
「っく!」
 残った力全てを振り絞り、暁空は何とか動く右脚と左腕で氷魅虎の火線上から体を外した。その直後、湿り気を帯びた音と共に巨大な存在が背中を通り過ぎた。
「……ヒミコ……いい子ね……」
 暁空の耳に僅かに届いた声は、崩壊の爆音と共にかき消された。

◆PC:榊船亜真知◆
 瓦解していく廃ビルの中、氷魅虎は天を仰いで啼いていた。
 理解しているのだろうか、自分の生みの親を殺してしまった事を。
「ヒミコ、様……」
 何とか這いだして来た暁空の傷口に手を当てて止血を続けながらも、亜真知は氷魅虎から目を離すことなく様子を窺っていた。
「おい、ヒミコは元に戻るのか……?」
 苦痛に顔を歪め、暁空は息も絶え絶えに聞いてくる。
「分かりません。高峰沙耶の封印すら効かないのであれば、これは、もう……」
 それでもアヤメを倒せば元に戻ると信じて暁空は身を削った。しかし、ヒミコは未だ氷魅虎のままだ。
 アヤメを押しつぶした場所から離れることなく、悲しげな声で遠吠えを続けている。
「う、ん……」
 暁空を介抱していると、すぐ側で小さな少女が体を起こした。
「あれー、ココどこー?」
 こちらはアヤメが倒れたことにより呪縛から解き放たれだのだろう。
 瀬名雫はピンク色のリボンを尻尾のように振りながら、寝ぼけた顔で辺りを見回している。
「んー……?」
 そして、青白い獣――氷魅虎の前で視線を止めた。
「わぁキレー。ねぇねぇ、アレ何?」
「アレは……」
「ヒミコさ」
 言い淀む亜真知に代わって暁空が言葉を続けた。
「ヒミコ、ちゃん?」
「色々あってな。暴走して変身しちまったんだよ」
 あまりに端的な暁空の言葉に、雫は目を丸くする。
「へぇー、ヒミコちゃんって変身できたんだー。すごーい。それにキレー」
 いつ氷魅虎がコチラに襲い掛かってきてもおかしくない状況だというのに、雫は相変わらずの調子で軽く言いながら立ち上がった。
「でも、やっぱりあたしはいつものヒミコちゃんが好きだなー」
 そして何の躊躇いもなく氷魅虎に向かっていく。
「お、おい!」
「雫様!」
 雫を追おうと亜真知は慌てて立ち上がるが、すぐに膝がおれて座り込んでしまう。
 超高位次元生命体であるため傷を負っても外傷にはならないが、内的なエネルギーを大きく削り取られる。
 先程、雫を抱きかかえながら氷魅虎を誘導し、暁空の邪魔にならないようにしていた時に受けたダメージが、気を抜いた今一気に吹き出してくる。
「ソイツに触るな! 凍り付くぞ!」
 隣で暁空が叫ぶが、やはりアヤメから受けた傷が深いのか動くことは出来ない。
 氷魅虎の体は、絶対零度に近い温度帯で覆われている。雫のように体の小さい者が手を触れれば、一瞬で凍らされてしまうだろう。
「ヒミコちゃーん、どうしたの? そんな悲しそうな顔して」
 そんな二人の心配を余所に、雫はヒミコの前で小首を傾げてみせる。
「ねぇ、もう帰ろ。だから元のヒミコちゃんに戻って」
 足下からした声に反応したのか、天を仰いでいた氷魅虎が下を向いた。
 低い唸り声を上げて、口の端から鋭い牙を覗かせる。
「ヒミコちゃん、明日も学校早いよ。それにゴーストネットOFFの部活だってあるしね。結構面白そうな情報ゲットしたんだー。明日早速行ってみよう」
 氷魅虎の頭が下がり、雫に近づいていく。そして兇悪な口を大きく開けた。
「雫様!」
 喰われる。
 亜真知がそう確信した直後、間延びした声が廃ビル内に響いた。
「あらあら、アクビなんてしちゃって。もうオネムの時間だね、ヒミコちゃん」
 カラカラと陽気な笑い声を上げながら、雫は氷魅虎の柔らかそうな白いタテガミを撫でる。
「あ、くび……?」
「おいおい、何で凍り付かないんだよ……」
 亜真知と暁空がほぼ同時に呆れた声を上げる。
「いつまでもそんなカッコしてると疲れるだけだよ。さー、ヒミコちゃん、元に戻ってー」
 まるで雫の声に応えるかのように、氷魅虎の体が小さくなっていく。逞しい筋肉は見る見るうちに萎縮し、元の白く細いヒミコの体へと戻った。
 だが、服は着ていない。
「ヒ、ヒミコ様!」
 裸のヒミコを見て、亜真知は暁空を放り出し急いで駆け寄る。こんな時はちゃんと足が動く程度に回復しているのだからゲンキンなモノだ。
「おいー、怪我人はもっと丁寧に扱おうぜー」
 後ろから暁空の不満の声が聞こえるが、今はそれどころではない。むしろヒミコの柔肌を彼に見せない為にも、ちょっとだけ気絶させようかとか思ってしまう。
「榊船さん……」
 疲れた顔で雫に体を預けるヒミコを亜真知は巫女服で包み隠しながら、ヒミコの制服を再生していった。
「まさか、こんな形でヒミコの暴走が止まるとはね……」
 制服の再生がほぼ完了したところで、足下から声がした。
 アヤメだ。満身創痍になりながらも辛うじて生きている。もしかするとヒミコが無意識のうちに手加減したのかもしれない。
「ヒミコ……貴女は覚えてないでしょうけど、私も必死で貴女の暴走を止めようとしたわ……。けど、出来なかった……。雫さんには……ソレが出来た。もう、貴女の中に……私の居場所はないのね……」
 途切れ途切れに言葉を紡ぎ終え、アヤメは最後に血を吐いた。
「榊船さん。『お母さん』の傷も、癒してくれますか」
 亜真知の手から放れ、ヒミコは自分の足で立ちながらハッキリと言った。
 ――お母さん、と。
「ええ、分かりました」
 ニッコリと微笑んで返し、亜真知はしゃがんでアヤメの体に手を当てる。
「ヒ、ミコ……」
 信じられないと言った顔つきで、アヤメはヒミコを見返した。
「今はまだ、心の整理がつかないんです。でも……いつか必ず、あなたを心から『お母さん』と呼べる日が来たら、今度は私の方から探しに行きますね」
 月が顔を覗かせ柔らかい光が舞い降りる中、アヤメは静かに頷いた。

◆エピローグ◆
 休日の昼下がり。亜真知は居候先に帰る途中だった。
(この後、お部屋をお掃除してー。それからお洗濯でしょー、それでお買い物に行ってー)
 考えるだけであまりの忙しさに気が滅入ってくる。
 だが相手は自分を住まわせてくれている大切な人だ。毎日少しずつでも恩返ししなければならない。
「あら」
 初夏の陽気を感じさせる青々と生い茂った街路樹。その影でレンガの埋め込まれたお洒落な道路を観察し続けている少女が居た。
 栗色のショートヘアーにピンクの大きなリボン。瀬名雫だ。
「しーずーくーさーまっ」
 後ろからコッソリ近づき、亜真知は雫の肩を軽く叩いた。それだけで雫は跳ね上がり、大袈裟な仕草で振り向く。
「な、なんだ、亜真知ちゃんか……脅かさないでよ、もー」
 唇を尖らせて可愛らしく不満を漏らす雫は、何だかいつもと様子が違っていた。
「雫様……それ、どうしたんですか?」
 様子もそうだが、外見が大きく違う。
 雫には明らかに大きすぎると思われるサングラスを掛け、牛乳とアンパンを左右の手にそれぞれ持っていた。
「ああ、これ。アッちゃんに貸して貰ったの。尾行の基本なんだって」
 アッちゃん、という人物は聞いたことはないが、こんな時代錯誤な事を勧める人ならよく知っている。
「あのー、紫東様と何かしてらっしゃるんですか?」
「あらよく分かったわねー。『アッちゃん』としか言ってないのに」
 感心した声を上げる雫のポケットから、コール音が鳴り響く。
 雫はアンパンを口にくわえ、素早い動きでポケットからトランシーバーを取り出した。
(と、とらんしーばー……携帯電話が当たり前のようにあるこの時代に……)
 本当に暁空はどの時代の生まれなのだろうかと思ってしまう。
「こちら雫、どーぞ」
『こちらヒミコ、ターゲットを二丁目の交差点で目撃しました、どーぞ』
 潰れかけたラジオのように聞き取りづらい音で、ヒミコの声がトランシーバーから聞こえる。
「了解、雫すぐに向かいます、どーぞ」
『了解、暁空もすぐに向かいます、どーぞ』
 どうやら雫、ヒミコ、暁空の三人で誰かをつけているようだった。
「それじゃーねー、亜真知ちゃん。また後でー」
 サングラスの位置を直し、アンパンをくわえたまま喋りながら雫は二丁目の交差点に向かって駆けだす。
 しばらく彼女の背中を見ていたが、自分もやらなければならない事があるのを思い出して振り返った時、怪しい人物と目があった。
 クセの強い茶色の短髪、長身でガッシリとした体躯。顔にはサングラス、両手にアンパンと牛乳を持っているのは雫と同じだ。
「し、とう様……?」
「おおー、よく分かったな」
 言いながら暁空はサングラスを外して、何故か牛乳を一気飲みする。
「……いったい何をしているのですか?」
 半眼になってうさんくさげな視線を向けながら、亜真知はとりあえず聞いてみた。
「まー、ヒミコのアフターケアにと思って色々話ししてたら、あのオチビちゃんになつかれちまってな。今はゴーストネットOFFとやらの手伝いさ」
 アンパンを右手で弄びながら、暁空は困ったような嬉しいような表情を浮かべる。
「傷の方は、もう大丈夫ですか?」
「おおよ、あんたのおかけでバッチリだ」
 暁空の体の傷はもうどこにもない。亜真知が理力で傷口を塞いだり、砕けた骨をくっつけたりしたのもあるが、最後は本人の回復力に依存する。その点では暁空は超人的だった。何せ次の日から引っ越しの仕事をやっていたというのだから驚きだ。
「まー死にそうになったり、ビル破壊の責任取らされそうになったり、色々あったけど、それなりに得るモンはあったな」
「ええ」
 ヒミコは前にも増して活発になった気がする。
 自分の過去が分かり、それを受け入れたこともあるかもしれない。だがそれ以上に雫の存在がヒミコの中でいかに大切かと言うことを再確認できた事も大きいだろう。
 何事にも明るく積極的に取り組むヒミコは、なんだかドンドン雫に似ていっている気かする。
「じゃーな、今ターゲットを尾行中なんで。そろそろ行くわ」
「雫様のお遊びみたいなモノなのに、ちゃんと付き合ってあげるんですね」
 いい大人が自分より一回り年の離れた子供と戯れる光景は微笑ましいモノがある。
「まー貧乏籤引くのは慣れてるからな。それにヤルときゃ、いつだって真剣よ。仕事でも遊びでも命がけだ」
 真顔で返す暁空に亜真知は聖母のような笑みをこぼしながら言った。
「熱いですね」
「ああ、今日も暑いな」
 風に乗ってどこからかセミの鳴き声が聞こえたような気がした。
 夏の息吹は、もうすぐそこまで来ている。

 【終】

□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【6330/紫東・暁空 (しとう・あきら)/男/26歳/便利屋】
【1593/榊船・亜真知 (さかきぶね・あまち)/女/999歳/超高位次元知的生命体・・・神さま!?】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

 初めまして紫東様。飛乃剣弥(ひのけんや)と申します。納品期限ギリギリになってしまい申し訳有りませんでした(汗)。ただそれに見合ったボリュームにはなったかと思います。
 『心霊兵器《氷魅虎》』いかがでしたでしょうか。プロツト段階では半分とまでは行かないまでも、もう少し短めになる予定でしたが紫東様のキャラを色々いじっている内に、アレもしたいコレもしたいと、かなりお話が膨らんで行きました。
 大食いだったり、センスが古かったりと色々コチラで新しい設定を作ってしまいましたが、紫東様のキャラクター成長の一助となれましたならば幸いです。
 今回のようなノベルが私のスタイルでして、戦闘シーン大好き、人間ドラマ大好き、描写大好きです。もしお気に召しましたならば、またお会いできれば幸甚です。ではでは。

 飛乃剣弥 2006年5月21日