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散るべくもあらぬ
織月とも虚月とも呼ばれる細い月が天に架かる夜、その櫻はその一夜だけの華を開かせるのだという。
春の夜、人知れぬ里の丘の上。樹の命の長さなどに関わらず、口伝されている噂を真ととるならば、櫻はもう既に数百年の歳月を経てその地にあり続けている事になる。
だから、その噂が果たして何時頃から口伝されてきたものなのかを正しく知る者はいないのだ。
織月が夜を照らす時、その櫻の下に一人の女が現れる。しかし、この女は、何をするでもなく、ただ昏々と眠り続けているだけなのだ。
月に照らされたその肌は夢の如くに白く、地に這わせた黒髪は長く、――そして、その黒髪の間を突き破り、象牙のように滑らかな角が二本伸びている。
胸の上で両手を合わせ、ただひたすらに昏々と眠る女。否、春の夜、ただ一夜だけ現れる女鬼。櫻は女鬼の眠りを護るが如くに咲き誇り、そして明くる朝には残さず枯らしているのだ。
何時からか口伝されてきた噂は云う。
いわく、その夜にその場所でその女鬼と共に夢を貪れば、女鬼との邂逅を果たす事が出来るのだ、と。
女鬼は永劫とも言える一夜を眠りの内で過ごし、その夜に幕を引いてくれる者を待っているのだ、と。
ただし、噂はこうとも続く。
夢の内で女鬼との邂逅を果たしたならば、女の望みを果たしてやらねばならぬのだ、と。
さもなければ、女鬼は来客の喉笛を喰いちぎり、その血をもって櫻を新たに染めるのだ、と。
「織月――三日月の形は鋭利な鎌を思わせますよね」
一夜限りの櫻の満開の下、柏木アトリは天空を振り仰ぎながら呟いた。
漆黒の一色きりで塗りこめられた夜の天空には、今、三日月ばかりが薄らぼうやりとした輝きを放ち、揺れている。
「三日月の鋭利な形は、霊力を高めてくれるのだとされてきているのです」
仕立ての良いスーツを身に纏い、マリオン・バーガンディが何度か瞬きをした。
「へぇ、そうなんだ? あー、でも、櫻のある晩って、なんだか不思議な気分になるよな。月のある晩だと余計にそう思えるっつうか」
マリオンの言葉を受け、葉室穂積が小さな頷きを見せる。マリオンは穂積を見やって笑みを浮かべ、それから櫻の樹の下へと視線を移し、金色に光る双眸をゆるりと細め、首を傾げた。
マリオンの傍らでは、物部真言が、言葉も無く、降り積もっていく櫻の花弁を見つめていた。
「……私、思うのですけれども」
真言の傍へと歩み寄り、アトリがふわりと膝を屈める。
「永劫目覚めぬ夢の中に囚われ続けるというのは、……それは、孤独で在り続けるという事ではないのでしょうか」
柔らかな眼差しをふるりと細め、アトリは身に着けていたストールを外した。
櫻の下には鬼が居るのだと謳ったのは、果たして誰であっただろうか。
今、満開を誇る櫻の下には、確かに一人の鬼がいる。
アトリは鬼の上にストールを掛け、それからゆったりとした所作で鬼の指先に触れてみた。
白小袖に紅の単と紅の長袴、白水干を身につけたその鬼は、誰の目にも確かに、白拍子の出で立ちをしている女。立烏帽子こそ着けてはいないが、その艶やかな黒髪の隙間からは、象牙の如くに光る一対の角が伸びているのだ。
「静御前だったっけ? なんか、こんな格好だったよな」
アトリの所作につられたか、穂積もまた膝を屈めて女――女鬼の顔を覗きこむ。
「有名な処では、祗王と仏御前、それに千寿という女性の存在もあります」
穂積の横顔を見つめ、アトリは少しばかり首を傾げて微笑んだ。
「へえ……おれなんか全然知らねえけどな」
関心したように頷きながら、穂積は再び女鬼の顔に視線を向ける。
「皆、最後は出家しているんですよね」
ひょっこりと顔を覗かせたマリオンが満面の笑みを滲ませる。
「……俺は古典には詳しくないが」
自らも膝を屈めて女鬼の傍らに腰を落とし、真言が重たげな口を開いた。
「いばら姫みたいだな」
「いばら姫って、糸巻きの針に刺されて百年の眠りについたとかいう?」
穂積が問い、真言は言葉を返すでもなしに、しかし、深々と頷いた。
「では、いばら姫を起こしてさしあげるとするのです」
「私、お弁当とお茶を持ってきたんです。せっかくの櫻ですし、お花見でもどうかなって思って」
真言とは逆側――女鬼のすぐ横の位置に腰を落としながら、アトリはバスケットと水筒とを示し、更に言葉を続ける。
「私は女鬼さんのお名前を知りたいです。そうして、もしも出来るなら、目覚めた後には、一緒にお花見をしたいです」
「そうですね。随分と綺麗なひとのようですし。それに、女鬼さんの望みを知りたいのです。女鬼さんは本当に幕を降ろしてしまいたいと思っていらっしゃるのかどうか」
告げながら、マリオンはアトリの横に寝そべって夜空を仰ぎ、目を閉じた。
「じゃ、行ってみるとすっか」
最後に、穂積が目を閉じる。穂積は寝そべるではなく、櫻の幹に体を預け、座った姿勢のままだった。
さわさわと風が吹き、夜の、しっとりとした空気が僅かな揺れを滲ませる。
櫻は何を告げるでもなく、ただ押し黙ったままで眠りについた四人の客人達と、そして眠り続けたままの主とを見守っているのだ。
花弁の一枚がアトリの頬を軽く撫ぜて落ちた。
しかし、その頃には、四人の意識は既に現世を離れていたのだった。
吹く風は春を思わせるには充分たるものであり、それは時折悪戯に白い花弁をも運び持ってくる。空には雲雀が飛び、巡り来た季節を謳っているかのように高く高く囀っている。
仰ぎ見た天空には薄く棚引く雲が幾筋か流れているばかりで、他には翳るものの一つもない、ひたすらに真青な色が広がっているのだ。
(春、ですね)
広がった景観の美しさに深い溜め息を漏らしながら、アトリがすうと双眸を緩める。
櫻の下で眠りに就いた四人が目を開くと、そこには一面の春野が広がっていた。
冬を脱したばかりの野は未だ新緑と呼ぶに相応しい色を湛えている。それはどこまでも遠く続き、見れば、その新緑を賑わす菜の花色が紛れ込み、揺れていた。
(ここは……女鬼さんが見ている夢の中なのでしょうか)
(そうだろうな。……見ろ、あそこに家族連れがある)
マリオンの言葉を継いで頷き、真言がすいと片手を持ち上げた。自然、四人の視線は導かれるように示された方へと寄せられる。
新緑を賑わす菜の花の中を三つの人影が歩いていく。
つぼ装束にむしの垂れ衣を纏った女と、直垂姿を纏った男。そしてその真ん中を行くのは三つ四つと思しき女児の姿。
(唐子まげを結ってる。……可愛い女の子ですね)
愛らしい女児の姿を目で追いながら、アトリがふわりと微笑んだ。
(そうなんだ? へえぇ……。詳しいんだね)
(心惹かれるものに関しては、蔵書とか漁ってしまう性質なんです)
穂積の言葉に、アトリは僅かばかり頬を染めた。
(女鬼さんは、あの母親の方でしょうか。それともお子さんの方なのでしょうか)
目の上に手を翳し、燦々と降る陽光を眩しげに見上げつつ、マリオンは三人の姿を確かめる。――が、その顔立ちまでを確かめるには、少しばかり距離が離れすぎていた。
(……しかし、これが女鬼の過去ならば……随分と穏やかなものであるように思えるが)
真言が呟いた、その時。
馬に跨った男と、その部下と思しき数人の男達が家族連れに近付いた。
(――あ……!)
アトリが声を張り上げるよりも先に、男達は腰から刀を抜き取り、それがさも当たり前の事であるかのように、少しの迷いも無くすらりと振り上げたのだった。
父親が、声も上げずに崩れこんでいった。
(助けなくちゃ!)
叫びながら走り出したアトリを追い越し、穂積と真言とが菜の花の中へ走り寄っていく。だが三人の足はまるで泥中にでもあるかのように、杳として進まない。
男達は次いで女児を目掛けて刀を振り上げ、やはり迷う事なく――否、薄い笑みさえ浮かべつつ、一閃を振り下ろした。
菜の花が、そしてそれを囲む新緑が斑な紅をつけていく。
母親が半狂乱で頭を振り乱している。
アトリ達の足は一向に進もうとしない。
叫んだのは母親である女だったのか、或いはアトリ達の何れかであったのか。
気付けば女は男達の陵辱に遭い、その後に身体の至る部分を斬りつけられて、うっそりとした眼で蒼穹を睨めつけていた。――遠目にも、既に生きてはいないだろう事が知れる姿で。
白い花弁がゆらりと流れ、四人の視界をふつりと塞ぐ。
それは、薄い紅色を滲ませたものと成っていた。
次の時、景色は一変していた。
眼前には石が突出した大路が広がっている。空は今にも降り出しそうな曇天。その下を、馬に積んだ荷を運ぶ男が歩いていく。
(――あ、あれを見てくださいなのです)
マリオンが馬借の向こうを指した。
視線をやると、そこには一人の女の姿があった。
(あの女)
走り出しかけていた足が途端に自由を得たせいで、穂積は見事に大きくけつまずいていた。が、すかさず顔を持ち上げて女の姿を確かめると、ぼうやりと呟くようにそう告げた。
そこにいたのは白拍子の装束を身に纏った女だったのだ。下髪に纏めた黒髪が風を孕んで大きくそよぎ、女のその面立ちを露わなものとしていく。
(女鬼だ)
穂積に次いで呟いた真言の後ろで、アトリがふつりと瞬きをした。
(私、お話してきます)
(え、あ、アトリさん……!)
マリオンが呼び止めるも、アトリは足を止めようとはせずに真っ直ぐ女に向かって走り寄っていく。
白拍子の姿をした女――女鬼は、どうやら牛車を降りたばかりであるらしい。大路の向こうから去って行く牛車が軋ませる車輪の音が聴こえてくる。
(あの)
言葉を掛けてみるが、女鬼はアトリの声にはびくりとも反応を示さず、道端に品を並べている薬草売りから何か薬らしいものを買い求めている。
(あの、すみません)
もう一度声を掛けるが、やはり、女はアトリには気付かない。
(これは女鬼の夢の中。――過去の景色なのだから、俺達には恐らく気付かないんだろう)
真言が言葉を掛け、アトリはようやく口を噤む。
(あの薬草は傷の化膿などに効能のあるものなのです。もしかしたら、このひとは)
(斬り捨てられた子供の生死は確認してなかったよな)
言葉を交わし、マリオンと穂積は互いに顔を見合わせて頷いた。
(なるほど。では、女鬼さんの正体は、あの時の子供であったのですね)
手を軽くぽんと打ち、マリオンは更にそう続けた。マリオンが告げたこの言葉に、アトリは心の底から安堵したような表情を浮かべる。
(良かった……と言うのは不謹慎でしょうか。……でも、良かった)
安堵の息を吐き、胸の前で両手を合わせて呟いたアトリに、その時、ふと、女がちろりと一瞥をよこした。
暗い紅色が仄かに浮かぶ昏い眼差しに、四人は刹那言葉を失くす。
女鬼は束の間四人を見遣っているような眼差しをよこした後に、踵を返し、牛車の後を追うようにして大路を歩き進めて行く。
(あ、ちょ、待ってって)
穂積が小走りに後を追い、それに続き、三人もまた足を進めた。
重々しい灰色の空から、先程よりも紅色を色濃いものとした花弁が数枚舞い降りる。
それは再び四人の視界を塞ぎ、そして
次の時には四人の姿は玉砂利が敷き詰められた庭園の上にあった。
鼓の音と笛の音とが玉砂利の上を滑るように響き渡る。櫻の花が庭を彩り、篝火が夜の闇を照らし出していた。
(ここは)
真言が低く呟いたのと同時に、マリオンが指をあげて示す。
(女鬼さんがいるのです!)
一人の白拍子が見事な舞を舞っている。篝火の火の粉がちらりと弾け、しっとりと広がっている闇を照らし、消える。
白拍子が蝙蝠を振るえば、その都度夜風がふわりと流れ、櫻はひらりと玉砂利の上に落ちるのだ。
庭を抱える屋敷の中には朱塗りの杯を片手に持った男が座っている。痩せぎすの、臆病そうな男だった。
(あの男の方……)
アトリが呟きながら半歩程進む。玉砂利が僅かに音を立てた。
(あの時の……馬の上に居た方です)
呟き、眉根を顰める。その視線は真っ直ぐに男を捕らえ、静かな怒りを滲ませている。
(本当か?)
真言が歩むと、玉砂利はまた小さな音を立てて転がった。
男の眼差しが真言の居る方へと向けられる。が、男には四人の姿など映りこんではいないようだった。
白拍子もまたちろりと振り向き――そして、まるで見えているかのように、刹那、目をしばたかせた。
(邪魔をするなと……そう言ってるような気がするです)
マリオンが目を細ませ、足を進める。玉砂利が再び転がった。
「何奴じゃ!」
男が片膝を立てて立ち上がり、脇に置いてあった太刀を手に取った。
同時。
白拍子は蝙蝠を放り投げ、提げていた太刀をひらりと抜き去って、迷う事なく男へと走り寄っていったのだ。
篝火がぱちりと弾け、夜を照らす。
庭には白拍子の姿より他に無い。屋敷の中には男の他にも数名の男が詰めていた。
(駄目!)
アトリが走り出す。玉砂利はじゃりじゃりと音を響かせて転がる。
(復讐は駄目……!)
「いぃぃいいい、あああぁぁあああぁぁ!」
女が声を張り上げる。太刀を振り翳し、集まり来た男達にめがけて構え、そして――
(アトリさん、危ない!)
真言がアトリの腕を引いて止めた。
玉砂利の上に数本の矢が突き立った。
女は翳した太刀を下ろしはしなかったのだ。
その身体には数本の矢が突き立っており、乳白色の玉砂利の上には鮮血が斑な模様を描き、散った。
アトリの叫びが夜の空気を震わせる。
櫻の花弁が雪のように降り出した。
――――人を殺めるのでは、父母の許へは往けぬ
花弁に合わせ、女の吐息が散った。
見上げればそこには満開の櫻の樹があった。朧月が架かり、しっとりとした夜風が吹く。
静かな夜が広がっていた。
初めに目を開けたのは穂積だった。
穂積は幹に寄り掛かっていた体を起こし、女鬼の黒髪に手を置いた。そうしながら軽く目を伏せて、女鬼の心に耳を寄せる。
「おれさ、あんたの声を聞くからさ。――望みも、もう分かったような気がするけど」
女鬼の角を撫でながら、アトリは哀しそうに目を細ませた。
「ご両親の許へ往きたいのですね」
呟いたアトリに、穂積は頭を掻き回しながら頷いた。
「このひとの心は子供の時のまんまなんだよ。だから往く方法が分からないんだ」
「それで今まで彷徨っていたと?」
真言が眉を寄せたのに対し、穂積は再び頷いた。
「あの家族は、都から遥か東――つまりここなんだけどさ、ここの出身だったらしいんだよ。この櫻はこのひとにとっても大事な記憶だったんだ」
「眠り続けていた理由はなんだったですか?」
マリオンが首を傾げる。
「待ってんだよ。親が起こしに来てくれんのをさ」
答えた穂積に、アトリがそっと目を伏せた。
「どうにかして送ってさしあげられないのでしょうか」
「――俺が出来る」
真言はそう呟き、間を置かずに鎮魂の為の言霊を編み出した。
夜が静かにさわめいた。
朧月が天空で揺らめいている。
真言が祝詞を告げ終えた頃には、女の姿は幼い女児のものへと変容していた。
月が緩やかな光を放ち、それを運ぶように、櫻が闇を彩った。
「……あ」
呟いたのが誰であったのか、知れない。
女児は月の光を昇り、ゆっくりと失せていく。
その小さな手は、父と母とに繋がれていた。
残ったのは夜の静寂と、枯れた櫻の樹だけだった。
「この櫻は、あの方を護ってくれていたのでしょうか」
櫻を見上げながら述べたマリオンに、アトリはゆったりと微笑みながら頷いた。
「ええ、きっと」
頷き、櫻の樹に触れる。
「お疲れ様」
応えは無い。
ただ、夜風が流れ、優しく慰めるかのように枯れた枝を揺らしていくばかり。
━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【2528 / 柏木・アトリ / 女性 / 20歳 / 和紙細工師・美大生】
【4164 / マリオン・バーガンディ / 男性 / 275歳 / 元キュレーター・研究者・研究所所長】
【4188 / 葉室・穂積 / 男性 / 17歳 / 高校生】
【4441 / 物部・真言 / 男性 / 24歳 / フリーアルバイター】
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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お世話様です。この度は櫻ゲームノベルへのご参加、まことにありがとうございました。
相変わらずの遅筆っぷりをお詫びいたしますと同時に、少しでもお楽しみいただけていましたら幸いです。
櫻の花が、皆様のお心を優しく撫ぜていきますように。
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