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暗鬱を祓うもの
映画を観に行こうと思うに至ったきっかけは、その朝に見た夢に、少しばかりの不安を覚えたためだった。
不安。否、それとはわずかばかり違うものであるような気がしなくもない。焦燥、疑心、――そういったものであるようにも思える。
ともかくも、弧呂丸は、ひとりで劇場へと向かった。
憂鬱な夢の残り香を更に色濃いものと染めてゆくような、気鬱な雨雲が空を覆っている日の事だった。
明け方に見た夢は正夢になるのだとは、果たして誰が謳っていた言葉であっただろうか。
頭をもたげくる悪い予感を、弧呂丸は、強くかぶりを振る事で、自らの腹の底へと押し込めた。
いつ降り出してくるともしれない雨雲を上目に見つめ、平日の、決して混み合っていない劇場の中へと足を寄せる。
そう。今日は平日で、時間帯も昼よりほんの少しだけ前。重ねて、この天候。通された座席ががらがらに空いていたのは、おそらく、上映されている映画のタイトルがさほど有名なものではないといった事情も、もしかしたら手伝っているのかもしれない。
通された座席に腰を落とすと同時に、劇場内の照明がふつりふつりと落とされ始めた。幕が開き、そうして音楽が響きだす。劇場内にいる客の数がまばらなためもあってか、あるいは音響の設備が良いためかもしれないが、アコーディオンかと思われる音は、ゆったりとした譜を奏でつつ、劇場の隅々までをも染めていく。
――夫が妻の存在を忘れていく。
若年性アルツハイマーを描いた邦画は、ドキュメンターめいた構成がなされているためもあってか、どこか生々しい感触を覚える――という評価をくだされていた。
弧呂丸はわずかに身を震わせて、しかし、食い入るようにして映画の中へと没頭していった。
愛する者を忘れていく。
愛する者に忘れられていく。
失われていく記憶。重ねてきた時間も、積み上げてきた思い出も、何もかもが崩れていく。
弧呂丸は目を細めて眉根を寄せた。
忘れていく側と、忘れられていく側と。――果たしてどちらが辛いのだろうか。
(お前は誰だ、俺に触れるな!)
銀幕の中で、俳優が叫ぶ。
(おまえなんざ知らねえ。俺に触るなよ)
俳優の声に重なるように、夢の中で聞いた言葉が脳裏をかすめる。
夢の中で、銀色の双眸が、氷の温度をもって弧呂丸の心を踏みつけた。思い出せばそれだけで全身が凍りつきそうなほどに、夢の中で、弧呂丸の心は微塵に砕け散ったのだった。
(ねえ、わたしを忘れないで)
銀幕の中で、女優が泣き崩れていく。
肘掛に肘をつけ、こめかみの辺りを強く押さえ込んで、弧呂丸は自分でも知らぬ間に息を呑みこんでいた。
銀幕の中の俳優達の演技はとても素晴らしく、弧呂丸の気鬱など素知らぬ顔で熱演を続けている。
弧呂丸は、明け方に、気鬱な夢を見たのだった。
双子の兄にまつわる夢だった。
双子であるという事実を、にわかには信用してもらえないような、まるで正反対といってもいいような兄弟だ。その兄が、夢の中で、弧呂丸を冷ややかに一瞥した後に去っていってしまったのだ。
俺に触わるな、おまえなんざ知らねえ。そう言い残して。
――と、劇場内に、刹那、眩い光が放たれた。突然訪れた光に目をしばたかせ、弧呂丸はふと小さなため息を漏らす。
途中から入場してきたらしい客人は、弧呂丸の後ろの席に腰を下ろしたようだった。どっかりと座り込んだ客人の所作で、弧呂丸が座っている席までもが小さく揺れる。弧呂丸は肩越しに後ろをちらりと見やってみたが、再び訪れた暗闇が、客人の姿をすっかり覆い隠してしまっていた。
再び訪れる静寂。
しかし、弧呂丸は、ふと、自身の心が微妙な変化を迎えていた事を知った。
映画の内容に取り込まれようとしていた陰鬱な予感が、束の間差し込んだ光によって、すっかりと解けて消えてしまったような軽さを感じる。
映画のテーマとなっているものは確かに切実なものであるのだけれど、しかし、弧呂丸の心を覆い隠していた暗鬱は――あれは夢に過ぎないのだ。おそらくは、弧呂丸が日頃恐れている部分を色濃く着色して創られた、心の暗闇を覗き込んでしまったのかもしれない。
――――否。夢は夢だ。私は私なのだし、あいつはあいつだ。夢と現実とは異なるものなのだから。
そう思えば、心は不思議と軽やかなものを取り戻すのだ。
弧呂丸はそっと身じろぎをして座り直し、買い求めてきていた缶コーヒーを口にした。
ミルクと砂糖の甘さが、暗鬱を取り払った心の中にじわりと染み入ってきた。
二時間弱の上映時間が過ぎ、映画はゆったりとしたエンディングを迎え、終わった。
明るさを取り戻した劇場の中には、改めて見れば、案外と多い客の姿が確認できる。
飲み終えたコーヒーの缶を持ち上げて席を立ちかけた弧呂丸を、聞き慣れた声が呼び止める。
「おう、コロ助。てめえも観に来てたのか」
「――燎、か?」
なんの前触れもなく耳を撫でてきたその声に、弧呂丸は咄嗟に振り向き、そして思わず目を見開いた。
弧呂丸が座っていた座席のすぐ後ろの席――つまりはあの時途中から入場してきたあの客人こそが、弧呂丸の兄である燎であったのだ。
燎は驚きに目を見開いている弧呂丸を見上げ、ニヤついた表情で目を細めている。
「お、おまえこそ、――おまえが映画を観にくるなぞ、珍しい事があるものだな」
咄嗟に告げた弧呂丸の言葉を、燎は、席に腰掛けたままの体勢で受け止める。
「ああ。今の女がな、この映画観に行きたいっつってな。俺ぁこういう映画は好きじゃねえんだが」
「女? また交際相手を変えたのか」
眉をしかめる弧呂丸に、燎はわざとらしいくらいに大仰なため息を吐いてからかぶりを振った。
「交際っつうほどでもねえよ。まあ、あれだ。遊びたいときに遊ぶ、みたいな」
「それはもっと悪いだろう」
へらへらと笑う兄を強く睨みつける弧呂丸に、燎はようやくのそりと腰を持ち上げて首を鳴らす。
「おめえにだって女の友達ぐらいいるだろうが。それと同じだ。――ところで、コロ助」
身丈の違う弟を見下ろし、燎は、ふと神妙な表情を浮かべた。
「おまえ、なんかあっただろ?」
「――なにかとは」
「んーん、おまえ、あんまりにも暗い顔でふらふら歩いてたからな。あんだけふらふらしてたら、俺じゃねえヤツでも気になるっての」
青い頭髪をわしわしと掻きまぜながら、燎はそう告げてポケットを探り、タバコを取り出した。
「俺タバコ吸いに行くけど、コロ助はどうすんだ? もう帰んのか?」
「いや、今日は急ぎの仕事も入っていないからな。……そういえば燎、おまえ、店はどうしたんだ? 今日は休みの日じゃないだろう」
「――あぁー、うーん、まあ、適当にな」
訊ねた弧呂丸の視線を受け流すようにして、燎は不意に睫毛を伏せる。
「適当にだと? おまえ、経営はきちんと」
「あー、んな事より、おまえ、具合悪いとかじゃねえんだろうな? 熱とかねえか?」
言うが早いか、燎は片手を持ち上げて弟の額に当て、熱の具合を確かめた。
思わぬその行動に、弧呂丸は再び目を見開き、そしてすぐに顔一杯を赤く染める。
「熱なぞあるわけがない!」
咄嗟に身をよじらせて燎の手を離れるが、弧呂丸の顔は既に赤く火照っていた。
弟の心を察してか、あるいは知らずか。燎はふと頬を緩め、かすかに頷いて、そして告げた。
「急ぎじゃねえなら、この後、昼飯でもどうよ。たまには兄弟そろって昼飯っつうのもいいだろ」
頬をゆったりと緩め、大きな手のひらで弧呂丸の頭を軽く叩く。
明け方に見た夢の暗鬱たる影が、燎の手のひらによって打ち消されていくのが判る。
弧呂丸はわずかに俯いて視線を細め、兄には見られないようにと配慮しつつ、――満面の笑みを浮かべた。
「今日は奢らないからな。そのつもりでいろよ、燎」
俯いたままでそう述べる。
燎が小さく笑っているのが分かった。
「任せとけって。今日は俺が奢ってやるよ」
心を染めていた暗鬱が消えていく。
劇場の外では、きっと、空までもがすっきりと晴れ渡っていることだろう。
―― 了 ――
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