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<東京怪談ノベル(シングル)>


海中散歩の罠

 夏のある日、星野清香は学校の友人たちとともにとある海水浴場へとやってきていた。と言っても、遊びに来たわけではない。学校行事の一環、サマースクールで海に来たのだ。
「大丈夫、清香?」
 ほんのついさっき、自由時間のあいだは友達とはしゃいでいた清香であるが、今は少々暗い表情をしている。
「ありがとう、大丈夫よ」
 友達には笑ってみせるが、清香は内心ではため息ばかりついていた。
 さっきまでめいめいに海で遊んでいた生徒たちが、今は浜辺の一角に集合している。これから、遠泳大会が始まるのだ。
 清香は泳ぐのが嫌いというわけではないけれど、水泳はどちらかといえば苦手なほうだ。プールや海で遊ぶ分には問題ないのだが、遠泳は……。
 ちら、と。
 パーカーのポケットに目をむけて、その中に手を伸ばす。中に入っているのは小さな瓶。実を言えば、使おうかどうしようかギリギリまで迷っていた。
「頑張ろうね、清香!」
 ぽん、と背中を叩かれて、清香はふわりと柔らかい笑みで返した。
「大丈夫だよ。競争じゃないんだからさ」
「……そうよね……」
 言われて少し、気が軽くなる。
 最終的に、きちんとゴールにたどり着ければそれでよいのだ。どうせ普通に泳いだって皆からだいぶ遅れてしまうだろうし、ちょっと遊んでから浜辺に向かってちょうど良いくらいだろう。
 手のひらに収まる小瓶をこっそりポケットから出して、パーカーは皆と一緒にそこらの岩の上へ。
「ちゃんと自分でゴールするから。私のこと、待ってなくていいから……」
 いつも相手のことを優先するやさしい性格である清香がそう言っても、誰もその真意には気付かない。
 そう。心配してくれるのは嬉しいけれど、待たれては困るのだ。



 泳ぎはじめて数分もすると、清香は最後尾のさらに後ろ、くらいにまで遅れていた。手を抜いていたわけではないが、自然とそうなってしまったのだ。
 浜辺もそれなりに遠くなり、前方を泳ぐ皆は後ろを振り向く余裕などない。
「ふふっ」
 笑って、清香は右手に持っていた小瓶を飲み干した。
 すると足がひとつに融合して、鱗に包まれ下半身が魚へと変じていく。
 瓶には、人魚になって海中散歩を楽しもう! と意気込んで、家で準備してきた薬が入っていたのだ。
 依頼人の望みどおりの薬品を創り出す薬師の家系に生まれ、幼い頃からその知識と技術を伝授されている清香には、人魚になる薬くらい簡単に作れてしまうのだ。
 もとより清楚なお嬢様然とした雰囲気を持ち、顔立ちの整った美少女である清香の今の姿は、まさしく伝説に語られる人魚姫そのもの。
 パシャン、と小さな水しぶきをあげて、清香は勢いよく海中へと漕ぎ出した。
 ジリジリと照りつける熱い太陽が、幻想的に煌く光となって海中に天使の梯子を創り出す。
 海底にはゆらゆらと揺れる海草たちが波のダンスを踊り、その合間を魚たちが涼やかに通り過ぎていく。
 何に遮られることもなく。尾鰭で海中を思いっきり蹴って、自由自在に海の散歩を楽しみ魚たちと戯れる。
 近づいたとたんにパッと離れていく小さな魚の群れや、逆に、近づいても動じることなくゆったりと泳ぎ続ける魚もいる。
 時間を忘れて遊んでいた清香であったが、ふと見上げると、そろそろ遠泳最後尾の団体がゴールに近づいていた。もう戻らなければと、清香はさりげなく彼らから少し離れた後方につく。薬の効き目もそろそろ切れるころであるし、ちょうど良いだろう。
「清香、もうすぐゴールよ。がんばって!」
 浜辺に先についている友人たちに声をかけられ、清香はクスリと小さく笑った。
 この遠泳中、人魚の姿でいた清香は、まったく疲れていないのだ。


 そうして浜辺につく頃、ちょうど薬の効果が切れた。
 ひょいと浅瀬に足をつけて、そのまま海から上がっていく。
「……」
「清香……っ!」
「ちょ……!?」
「え?」
 驚きに言葉を失い目を丸くする子。ぽかん、としてからいきなり爆笑した子。
 みんなの様子に、清香は首を傾げて――気付く。
「――あっ!!」
 自分が水着を着ていないことに。
 変身した時に水着が脱げてしまったことを、すっかり忘れて浜辺に上がってしまったのだ。
 慌てて海に戻ろうとしたところで、いち早く立ち直った友達の一人がタオルを投げてくれて、清香は急いでそれを受け取り羽織る。
 ちょっと困ったように微笑む清香に、浜辺は楽しげな笑い声に包まれた。