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水辺の戯れ
そっと下ろした足に触れる水は冷たかった。
初夏の陽射しは眩しい程に感じられたが、クライバー邸のプール全てを温めるにはまだ弱かったようだ。
一瞬の冷たさをやり過ごして、膝頭、太腿と水の中に沈めてしまえば、後は時間と共に身体が水温に慣れていく。
プールの中、白い肌に水をまとわせながら進むのはエリス・シュナイダー。
常日頃はクライバー家のメイドとして主人にかしずくエリスだったが、今その身にまとう物は禁欲的な紺のエプロンドレスではなく、プールサイドに似つかわしいビキニスタイルだ。
クライバー家の敷地内に散在するプールの中でも、そこはやや屋敷から離れた場所に設けられていた。
もちろんプールサイドには庭師が細やかに手をかけた薔薇が繁り、不躾な視線から水に戯れる者を隠している。
エリスがこのプールを選んだのは、誰にも邪魔されたくなかったからだ。
屋敷で働く者には行き届いた躾が施されているとはいえ、不意の来訪者によって遊戯に興じる貴重な時間を削がれたくはなかった。
プールの中ほどまで進み、エリスは自らが立てた小波が静まるのを待った。
今日はここに新しい玩具を呼び寄せるのだから。
エリスの興味を引いた新しい『玩具』は、その国の大統領の名前を冠した航空母艦だった。
進水式から数ヶ月が経ち、就役した航空母艦はある海域で洋上演習を行う予定だった。
小さく水の跳ねる音がし、傍らの水面にミニチュアサイズの艦隊が出現した。
全長三百メートル余りの空母も、手のひらにおさまるサイズまで縮小されている。
その気になれば、コーヒーカップでもタイタニック号の惨劇を再現できる能力だ。
少し小さすぎたか、とエリスは思った。
遊ぶ前に壊れてしまっては、玩具の意味がない。
が、その時はまた新しい物を呼び寄せれば良いだけの事。
私の手から逃れる術は、誰も持っていない。
そう思いなおし、喉の奥でエリスは笑い声を立てた。
メイドとして屋敷の仕事をこなす時はいっそ無表情に、淡々と業務にあたるエリスが笑っている。
新しい玩具を手に入れた時はいつでも楽しくて仕方がないのだ。
エリスは水に浮かぶ航空母艦を目の前まで持ち上げ、これから有意義な時間を自らにもたらす玩具に向かって囁いた。
「みんな私のおもちゃです」
突然1ミリ以下まで縮尺されてもなお冷静な判断力を持った人間がまだいれば、その声は絶望への最後通告に聞こえたかもしれない。
エリスは確かな鑑定眼を具えた目利きの鑑定士のように、航空母艦を観察する。
しかしこの玩具は全てが本物で、まがい物は存在しない。
と、エリスは顔に何かが当たるような感覚を覚えた。
にわか雨の最初の一粒が頬を濡らすような、些細な感触。
見れば顔の周りを何かが飛び回っている。
斜めにした甲板から何機かの艦載機がプールに落ちてしまったが、かろうじて幾つか飛び立つ事ができたようだ。
しかし羽虫よりも小さな艦載機の向けるミサイルは、エリスの肌に赤みさえ与えられない。
肌に止まった蚊でさえ痒みを残して不快にさせるというのに。
照準を合わせる彼らから見れば、私はどんな風に見えるのだろう。
エリスは自分の意識を艦載機の内側までめぐらせてみる。
お決まりの演習から、突然勝ち目のない攻撃を巨大な人間を相手に仕掛けなければならない理不尽さ。
私は気が狂うだろうか。
それとも、最後までその女を観察するだろうか。
今の私がこうして彼らを見ているように。
痛みは感じなくとも顔にまとわり付く動きが鬱陶しくなり、エリスは手を払った。
一瞬赤く炎が上がったが、それも水に落ちて消えた。
何てあっけない幕切れ。
エリスはその無情さに――それを与える者が自分だと重々承知した上で……笑い出した。
声を立てて笑うのはいつぶりだろう。
膝の周りに集まった駆逐艦や手の平の航空母艦から、一斉に攻撃が始まる。
しかし身じろぐエリスの立てた小波に駆逐艦は飲まれ、沈んでいった。
まだ遊び足りないというのに。
エリスはプールの底から駆逐艦を拾い上げるが、すでに何の反応も返って来ない。
これではただのミニチュアと一緒。
それならば壊しても同じ事。
エリスは砲台を一つずつはがし、くしゃりと手を握った。
鉄の塊に戻った駆逐艦に興味を失ったエリスは続いて巡洋艦にも手を伸ばす。
水に浮く巡洋艦を拾っては潰すその遊びは、子供の頃蟻の行列を潰した時の感覚に似ているとエリスは思った。
動いていた物が、私の手で動かなくなる。
単調な遊びだが、退屈紛れにはちょうど良かった。
蟻と同じように、世界は私の手で壊しても壊しきれない物で溢れている。
気まぐれにでも興味を持った対象を手中にする、その能力がある限りエリスは退屈しないで済みそうだ。
ふと濡れた身体に寒さを覚えて、エリスは手を止めた。
プールに射す太陽の光は西に傾き始めている。
時が経つのも気が付かず没頭していたエリスは、握り潰した艦隊の数に満足を覚えた。
非力で脆い、私の玩具。
私の力に抗えず、あとは壊れるしかないその愛おしさ。
エリスは屋敷の自室に艦隊全てを転移させ、プールから出た。
今朝は洋上演習に抗議するデモの様子を流していた報道番組が、夕方の今は艦隊が忽然と消失したと困惑気味に伝えていた。
デモ参加者の一人は「神の御技」と興奮した様子でマイクに喋っている。
見る者のいない、エリスの自室。
ゆったりとバブルバスに浸かり、甘い果物の香りを楽しんだエリスがバスルームから現われた。
エリスはバスローブを羽織り、髪に残る水滴をタオルで丁寧に拭う。
アンティークなドレッサーの鏡、エリスの肩越しにあらゆる種類のミニチュアが並んで映っていた。
その中には今日プールで遊んだ航空母艦も並んでいる。
優美な曲線を描く家具たちの間にあって鉄製のそれは少し異質に映ったが、エリスのお気に入りには違いない。
エリスは形も歪んだ航空母艦を手に載せ、どこに飾ろうか思案し始めた。
(終)
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