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<東京怪談・PCゲームノベル>


秋ぞかはる月と空とはむかしにて


 夜が広がっていた。
 時折聴こえる足音は、遠く近く響き、さわさわと静かな夜風を生みながら、再び夜の闇の中へと失せていく。
 気付けば、皐月は、それまで目にした事もない大路の上にいた。――否、正しく云うならば、眼前にある風景は、時代劇やらといったものの中で目にする事の出来るようなものだった。
 目算する限り、道幅は四十メートルほど。舗装は成されておらず、車の往来が残す軌跡すらも見受けられない。
「……ふぅん」
 独りごちながら頷き、皐月は、一度は止めていた歩みを再び、何事も無かったかのような調子で進ませた。
 これは、恐らく怪異に属する現象なのだろう。そう思いつつ、夜の薄闇の中にある大路と大路の両脇にある草木の存在に目を向ける。
 しっとりと吹く夜風は皐月の髪を梳きながら流れ、大路の脇に立つ柳やら梅やらといった樹木の葉を静かに揺らしているのだ。
 見上げれば、そこには墨汁を引っくり返したかのような真黒な空が広がっていた。照らす月も瞬く星の一つですらも窺えない、真実、闇の一色きりで塗りこめられた漆黒の空なのだ。
 皐月は自宅の台所で煮物を作っていた。その工程の中で、ついつい――そう、本当に些細なミスで、醤油のボトルを倒してしまったのだった。急ぎ拾い上げたのはいいが、時既に遅し。半分ほど残っていたはずの醤油はその大半がシンクの中に流れこんでしまっていた。煮物には全ての調味料を投入し終えていたが、何しろ、夕食の献立の中には焼き魚も組まれていたのだ。醤油は必然的に必要となる。結果、皐月は近所のスーパーまで買出しに行かねばならなくなったのだ。夜が訪れた街中を、ひとり、徒歩で。
「まいったな。……スーパーが閉まる前までには帰れるかしら」
 眼前にある怪異には、皐月の心は僅かにも驚きを覚えない。怪異は日常的な現象だ。
 うっかりと知らない道に折れ曲がってしまった時のような口ぶりで、皐月は小さな溜め息を一つ吐く。
 肩越しに振り向いて、自分が歩んできた方へと視線を向ける。が、そこにはやはりひっそりと広がる夜の気配があるばかりで、皐月が歩いていたはずの道路はどこにも見当たらなくなっていた。が、その代わり、薄闇の中に、古い日本を思わせるアーチ型の木造の橋があるのが見えた。
「あれを渡れば、もしかしたら帰れるのかな」
 溜め息混じりに呟くも、皐月は肩を竦ませてみせただけで、今まで歩いてきたであろう大路を引き返そうとはしなかった。
「うっかりと面倒事に巻き込まれてもなんだしね」
 肩越しに振り向いていた顔を再び前へと向けなおす。
 行き過ぎていく道すがら、横目に大路の両脇を確かめる。そこには日本家屋と称するに相応しい家がぽつりぽつりと建っていた。が、その中には人の気配といったものはまるで感じられず、むろん、明かりが漏れてきているといったような事もない。
 そういった風景を目にしながら、躊躇する事もなく歩き続けていくと、大路はやがて大きな四つ辻へとぶつかった。
 四つ辻の真ん中に立って、初めて足の動きを止めた。それから、皐月が歩いてきた大路とはさほどに見目の変わらない、他の三つの大路を見遣る。
「……どれを進んだものかしら」
 表情に思案を浮かべ、皐月ははたりと首を傾げた。
 この、夜で埋め尽くされた世界が、果たしてどういった場所であるのかは、未だに知れていない。聴こえ来ていた足音を思えば、この世界には確かに何者かが住んでいるのだろうという事は容易に知れる。が、それらが果たして人間であるのかどうかまでは、実際に確かめてみない事には、杳として知れないままなのだ。
 広がる三方向への路。どれを選べばどこへ通じるものなのか、まるで検討もつかない。
「どうしたものかしら」
 呟き、再び溜め息を漏らした、その時。
 皐月の視線が、四つ辻の角に建っていた一軒のあばら家を捉えた。そして、そのあばら家の中から、何やら愉しげな話し声や唄声が漏れ聴こえてきているのを。それに気付くのと同時、皐月の足は再び迷う事なく歩みを進めていた。
 あばら家は、半ば半分崩れかけているような見目をした建物だった。到底人の住めるようなそれには思えなかったが、入り口であるらしい木戸を前にすると、その中から確かに何者かの気配が漂い流れてきているのが分かる。数筋の明かりが漏れ出ていて、ひっそりと広がっていた夜の闇を薄らぼうやりと照らしだしているのだ。
 皐月は、しかし、その木戸を前にして、ふと視線を横手の方へと向けやった。
 ふつりふつりと流れ来る夜風に紛れ、覚えのある花の香りが流れ来ているのだ。
 鼻先をくすぐるその芳香に、皐月はふと目をしばかたせ、木戸に伸べかけていた手を止める。
「……百合の香り、よね」
 そうごちながら頷き、気付けば、皐月はあばら家を後にして、再び大路の上を歩き出していた。
 今しがたまで歩んできた路と真向かいの位置にあたる大路を歩き、しっとりと広がる夜露の気配に目を細ませる。
 さらさらと静かに流れる水音が耳を撫ぜ、鼻先を水の匂いがかすめていった。
 さほどには変わらぬ見目をもった大路だとばかりに思っていた皐月は、漂いだした水と花の香りとに、ふと小さな笑みをこぼし、前髪をふわりとかきあげる。
 程なくして、皐月の視線が木造の橋を見とめた。大きなカーブを描いたそれは、初めに見た橋と同じく、古い時代を彷彿とさせる姿をしていた。
 皐月はじわりと歩みを進め、ふと笑みを浮べて軽い会釈を一つ。
「こんばんは。――ええと、こんばんはでいいのよね。私が家を出た時にはもう夜だったし、ここも――これ、どう見ても夜だものね」
 辺りを見渡しながら言葉をかける。
 皐月の視線の先にいたのは、学生服を身につけた少年だった。少年は学生帽を目深に被り、その鍔の下から、うっそりとした眼差しで皐月の視線を確かめている。
「……こんばんは」
 ぽつりと落とすようにそう述べた少年に、皐月は懐こい笑みを浮べて近寄り、首を傾げた。
「ねえ、きみ、ここで何してんの? 学生さんだよね。見た事のない制服だけど――っていうか、なんかちょっとレトロな感じ?」
 訊ねつつ、少年の足元に視線を移す。
「下駄……!」
 驚きに、束の間瞬きをする。それから再び少年の顔を確かめた時には、皐月の目は少年に対する好奇心で満ち溢れたものとなっていた。
「ねえ、きみ。名前は? 私は皐月。由良皐月っていうんだけど、皐月って呼んでくれて構わないわ。きみよりは多分年上だと思うんだけど――それにしても、きみ、なんだか老けてる感じがするわよね」
 怒涛のように訊ねかけて、少年の顔を覗きこむような姿勢をとった皐月に、少年は少しばかり唇を結び、睫毛を伏せた。
「俺は……萩戸」
「それは苗字? 下の名前は?」
 間を置かず、皐月は少年に微笑みかける。少年はしばし皐月を見遣った後に、どこか観念したような表情を浮かべて、小さな息を一つ吐いた。
「則之と」
「則之くんね。ね、ここで何をしてるの? ここって普通の場所じゃないでしょ? きみも人間じゃないのかしら」
 畳み掛けるように問いを続け、それから、皐月は則之の腕の中に視線を向けた。
 則之の腕の中には数本の百合が抱えられており、さらに、よくよく視線を凝らしてみれば、則之の後ろ――少年は橋の手前に立っていた――に流れているのであろう川の傍らに、風に揺らぐ数本もの白百合があるのが見えた。
 夜風に乗って流れてきたのは、この百合が放つ香りであったのだろうか。
 皐月は、ふむと小さな頷きを見せた後、改めて則之の顔を見定める。
「ま、いっか。きみが誰であっても、ここがどんな場所であっても。これ以上の詮索はやめとくわ。好奇心は猫も殺すって言うしね」
 そう告げるも、皐月の眼差しからは、好奇に満ちた光が失せる事はない。
 則之は皐月の視線を受けて目を細め、それからゆっくりと口を開いて応えた。
「俺は、橋の守りをしています」
「橋の守り? へえ。橋ってそれよね。どこに繋がってるの?」
 訊ねながら、薄闇の向こうへと繋がる橋を行方を確かめる。が、その向こうはどうにも確かめようがないようだ。ぽっかりと口を開けた夜の闇が橋の真ん中より向こうを呑みこみ、その姿を覆い隠しているのだ。
「この橋は黄泉へと通じています」
 低く呟くように則之が答える。
「へえ、黄泉へ? 黄泉ってあの世よね。へえー。じゃあ渡っちゃいけないのね」
 訊ねると、則之は無言で小さく頷いた。
 皐月はそれから一頻り橋の向こうを確かめようとしてみたが、その向こうが一向に知れないのを知ると、くるりと踵を返して則之の方へと歩みを寄せる。
「ね、きみ、現代の子じゃないわよね。なんでここにいるのかとか、その百合はなんなのかとか、そんな野暮な事は訊かないから、その代わり、きみがいた時代の事を話してよ。私、なんでこの場所に来ちゃったのか、その理由もきっかけも分からないし。ついでって言ったらなんだけど、せっかくだから、知る事が出来るんなら見聞きしておきたいじゃない」
「……俺は」
 皐月の言葉に、則之は重たげに口を開ける。
「高等学校に通っていました」
「高等学校? へえ、じゃあ、いつぐらいの時代になるのかしらね。まあ、いいわ。ね、きみ、東京に住んでたの?」
「浅草に住んでいました」
「浅草! じゃあ、観光名所とかもいろいろあったのかしら。ねえ、どういった場所が好きだった?」
 皐月の問いに、則之は、今度は少しばかり目を輝かせて顔を持ち上げた。
「――陵雲閣という塔は知っていますか」
「陵雲閣? うーん、知らないなあ」
 首を捻った皐月に、則之は小さな瞬きを一つつき、それから再び口を開けた。
「十二階と呼ばれている塔です。今の帝都にはないのですか?」
「十二階? うーん……どんな建物なのかが分かればいいんだけど」
 小さな唸り声と共に返し、ゆったりと首を傾げた。――それと同時に。

 夜の一色きりで覆われていたはずの視界が、刹那、真昼の明るさを得たのだった。――否、なんの前触れもなしに、眼前に、真昼の風景が広がったのだ。

「……え、これって」
 呟き、息を呑む。
 皐月の眼前を路面電車が走って行く。モダンな服装に身を包んだ女性や男性が行き交い、レトロな街並みが広がっている。洋風看板や色とりどりののぼり、そして御影石の石畳が続くその風景に、皐月は数度ばかり目をしばたかせた。
「帝都の風景です。皐月さんは電気館に行った事はありますか」
 則之の言葉と同時に、風景は再び一変する。そこには電気館という看板を掲げた軒先があった。
「電気館? ええと……ああ、映画館なのね、ここって。映画は好きよ」
「俺は何度かしか見た事がなくて。……ああ、あそこに見えてきたのが」
 言いながら、則之はすいと片手を持ち上げた。皐月がそちらに視線を向けると、そこには――遠目ではあったが、辺り一面にある建物に比べ、随分と背丈の高い建物が姿を見せていた。
「十二階」
 皐月がぼうやりと呟き、則之が満足そうに頷いた。

 その刹那。風景は再び一変し、辺りは一面の夜で覆われたのだった。

「あ、……もう終わりなのね、残念」
 首を竦め、皐月は則之の顔を一瞥する。
「残念だけど、十二階っていう建物も、電気館も、今の東京には残っていないわ。でも素敵な建物ね。今度は昇ってみたいわ」
 微笑み、首を傾げた。
 則之は、口許に、小さな笑みを滲ませている。
「……それでは、皐月さん。もうそろそろ、お別れです」
 微笑みながら告げた則之に、皐月もまた小さな笑みを滲ませる。
「そう? 残念。でも、そういえば、私、お醤油を買いに行く途中だったのよ。お店が閉まっちゃう前には帰らないとね」
 そう返して則之の視線を覗き見た後に、皐月はくるりと踵を返して歩みを進めた。
 そして、ふと、肩越しに則之を振り向き、
「また会えるかしら? 私、またあの風景を見てみたいんだけど」
「――ええ、縁があれば、また」
 返された言葉に、皐月は笑みを零して目を細ませた。
 
 歩き出した大路は、夜の薄闇で覆われている。
 だが、皐月は、まるでそこが歩き慣れた場所であるかのような足取りで、軽やかに進んでいく。
 さわさわと流れる夜風が百合の芳香を運び、辺り一面を染めていた。







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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  
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【5696 / 由良・皐月 / 女性 / 24歳 / 家事手伝】



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         ライター通信          
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初めまして。このたびはゲームノベルへのご参加、まことにありがとうございました。

大正時代の風景ですが、今回は皐月様と則之とは初の対面という事もあり、チラ見程度のものとさせていただきました。
このシナリオは一話完結という形をとらせていただいていますが、二度三度と続けてご参加いただけることで、新たな展開を開いていくことが可能となっています。
もしも今回のこのノベルがお気に召されましたら、そして今後またご縁をいただけるようなことがございましたら、よろしければまたお会いできればと思います。

それでは、またご縁をいただけますようにと祈りつつ。