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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


号鐘は波濤へ誘う

 無機質な医療機器が空間を満たす白い病室で、榊紗耶は規則正しく呼吸を続けていた。
 常にモニターされる脈拍と血圧、心拍数、脳波は正常で、紗耶が深い眠りにいる事を示している。
 しかし彼女が横たえられてから、長い時が流れていた。
 通常の眠りが半日と続かないというのに、紗耶はある事故以来数年に渡り眠り続けている。
 紗耶は『夢見』を課せられた娘だった。
 夢見は瞳を閉じて眠りの中、夢を渡り過去と未来の全てを知る。
 全ての事象の真実を知る能力は、彼女にとって幸か不幸か――それを判断する者は、彼女を含めて……ここにはいない。
 額に刻まれた文様がある限り、紗耶は夢見の巫女として生かされる。
 それでも眠りの中、紗耶は自由だった。
 矛盾しているようだが、眠りの中にいれば、紗耶は夢見の責務という足枷から解き放たれる。
 心だけは、自由に。
 幾つもの夢、精神領域と呼ばれる場所、過去の現実、未来のまだ形を成さない可能性のありか。
 それらの間を紗耶は漂っていた。
 いや、その光景が紗耶の前に次々と広がる、といった方が正しいかもしれない。
 ――沈んでゆく……私も、船も。
 紗耶の精神はある過去に留まっていた。
 冷たい水の感触はただ肌に痛く、乗客たちの悲鳴が聞こえなくなった海中は静寂で満たされている。
 ――何も見えない……でも、それも良いかもしれない。
 紗耶が目にする世界は両目を通して見た物ではなく、第三の目を通じ認識された世界だ。
 それ故に偽り無くあるがままを映し出してしまう。
 一時だが視界が暗転した状態に、紗耶はどこかで安堵した。
 ――このまま、何も見えない場所まで沈んで行ければ……。
 夢見の枷から逃れられるような気がして、紗耶はそっと微笑み、思いを打ち消した。
 何度も願っては諦めた事だった。
 そのまま紗耶はしばらくの間、静けさに身を任せる。
 ふと、静寂の中、紗耶は鐘の音を聞いたような気がした。
 鐘の音が引き金となって、過去に経験した光景が甦る。
 おぼろげに連なる映像は船出を見送る人々の姿、そして傍らにいた父。
 出港を告げる鐘の音を共に聞いた父はもういない。
 暗い海の底を覗けば父の姿が見えるだろうかと紗耶は目をこらしたが、それは叶わなかった。
 そのかわり流れ行く潮の狭間に揺らいだ影は、兄の遠夜の姿だった。
 ――兄さん……?
 鐘の音は兄の姿を見つけた紗耶の耳に、一層強く、大きく響き渡る。
 遠夜はアンティークショップらしき店を出て家へと戻り、手にした鐘を持ち上げて眉根を寄せている。
 ――そんな顔をしないで、兄さん……。
    私が兄さんの力になるから。
 そう願った時、紗耶の意識は遠夜の傍らへと舞い降りた。


 マリンベルを持ち帰った遠夜は、改めてその表面に浮く水滴に目をこらした。
 材質は真鋳製のようだが、輝きは薄れ、まだらに腐食した表面はどこか海底の植物を思わせた。
 ――曰くを調べろ、か……。
 アンティークショップ・レンで手にしたマリンベルに遠夜が感じたものは、好奇心から来る探求の欲求ではなく、涙を連想させる雫を止めたいと感じたからだ。
 涙を連想してしまうのは、遠夜にとって海と船につながる思い出が決して明るいものではないからかもしれない。
 ――紗耶……。
 双子の妹は海での事故以来病室で眠り続けている。
 数年が流れ、横たわる紗耶の面影が少女から大人びたものへと変化しても、遠夜にとっての紗耶はあどけなさを残したままだった。
 ――紗耶の聞いた鐘の音も、こんな音だったのかな。
 紗耶と父を乗せた船が港を発つ時にも、マリンベルは鳴り響いたはずだった。
 目の前のベルがその船に付けられた同じ鐘のはずはないが、不思議な巡り合わせを遠夜は感じる。
 もしかしたら、この鐘は自分を待っていたのではないか……とすら思えてくる。
 ――買いかぶりすぎだな。
 今はマリンベルを元に戻すのを優先しよう。
 そう考え直しベルにそっと触れると、冷やりとした水の感触が伝わってきた。
 アンティークショップ店内で最初に感じた映像や音は、今は見えない。
 ――どうして、あの時だけ……?
 疑問に思う遠夜のすぐ傍らに、紗耶の意識が寄り添った。
 しかし遠夜は妹の存在に気付く事なく、思考を続けている。
 ――兄さん……。
 霊的に特出した遠夜が繋がりの深い関係である紗耶を感知できないのは、紗耶自身が表に出る事を望んでいないからかもしれない。
 どんなに強く深く遠夜を思っていても、紗耶はそれを押し付けたりはしない。
 いつでも願えば傍に居られる。
 言葉を直接交わす事はなくとも。
 ――そんな顔をしないで、兄さん……。
    私が兄さんの力になるから。
 伏せた瞳を上げた遠夜と紗耶の意識が重なる。
 そして、遠夜は『神霊眼』をマリンベルに向けた。


 『神霊眼』は遠夜の能力で、全ての気の流れを読む。
 流れを読むのみなら陰陽師の誰もが多少持ち合わせた力だが、更に気を自分の意思で行使・使役するのが遠夜だった。
 マリンベルの周りには逆巻く波のような気の流れが感じられた。
 荒々しく全てを飲み込み、形を失わせる荒波。
 神霊眼を通してマリンベルを見る遠夜と、その傍らに佇む紗耶の耳に鐘の音が響く。
 かつて船にあった時と同じ音色でも、それは悲しげに感じられる。
 ――前に聞いた音……でも、もっと悲しい……。
 紗耶は吐き出した息が細かな泡となって水面を目指し上っていくような気がした。
 最後の息が海面に出た時、それは残された者に何を伝えるのだろう。
 瞬間、紗耶の夢を渡る能力が発動する。
 神霊眼を通してマリンベルを見ている遠夜にも、過去の光景は共有の映像となって眼前に広がった。
 遠夜は視界のままならない海中で目をこらした。
 ――沈んでいく船の窓に、誰かが。
 暗い水の奥底に切なさを残した人々の姿が見える。
 息の続かない苦しさはもうその顔から消え、残されているのはただ地上と海底、生と死、二つの世界に分けられた乗客たちの悲しみだけだ。
 それが沈んだ船を満たし、崩れつつも更に重さを増して海の奥底へと降りていく。
 ――船が沈んでいくのは、悲しみが重いからなのかもしれない……。
 ベルから滴る水が、乗せられたテーブルの上を伝い、床に水溜りを作った。
 ごく僅かな音だったが、それが遠夜の意識を現実へと引き戻す。
「……まだ、この鐘は海の底にあるのかもしれないな」
少しでも彼らの悲しみを癒したいと遠夜は思った。
 それが例え肉体を失い、意思だけが残された過去からの遺物であっても。
 こうしてマリンベルを通して彼らは泣いている。
 鐘は嗚咽を奏でる物ではないのに……。
 ――そうね、私も彼らを……ううん、あの人を思い出させるこの鐘を……ただの鐘に戻してあげたい。
 遠夜の影で紗耶も思った。
 一度は海底の暗さを垣間見た紗耶にとって、乗客たちの苦しみは我が身のように感じられたのだ。
 どうか穏やかに。
 苦しみに苛まれるのはもう終わりにしてあげたい。
 ――……兄さんもそう思ってるわよね?
 返るはずのない言葉をそっと紗耶は呟いた。
 自分自身にしか聞こえない声で。


 マリンベルに手を置き、遠夜は浄化の呪を唱え始めた。
 遠夜は声を出すのがひどく久しぶりのように感じられた。
 ――ついさっき、家に戻ったばかりなのにな。
 それはマリンベルを通して見た光景が、あまりにはっきりとしていたからかもしれない。
 見えるはずのない海底に沈む船の映像と、水の冷たさすら伝わってきたのだ。
 感じた息苦しさを思い返すと、自然と喉元に手が伸びる。
 ――僕にできる事で、少しでも彼らの苦しみが和らぐなら……。
 雨だれのように床に落ちる滴の音に、遠夜の声が低く、穏やかに重なってゆく。
 静寂を破るのではなく、柔らかに満たしていくように。
 辛い記憶の全てをなかった事にはできない。
 それを知っている遠夜だけに、今はただ彼らと、彼らが残してしまった苦しみを取り除きたいと遠夜は思った。
 朗々と呪を詠唱する遠夜の姿を後ろから見守りながら、紗耶も温かな波が自分を包むのを感じていた。
 ――兄さんの願いはきっと伝わるわ……。
 兄は誰よりも優しい人だと紗耶は思っている。
 それは共に死のうと言った父の持つ優しさとは異なっていたけれど。
 全ての人間の望みが叶う世界などないのかもしれない。
 けれど、それでも人は願わずにいられないのだ。
 親しい相手の幸せを。
 ――私も兄さんの平穏を祈っているもの……。
 紗耶はマリンベルに手を置く遠夜の手に、自分のそれを重ねた。
 決して兄には自分の指の温もりは伝わらないだろう。
 兄の温もりがどうしても自分に感じられないように。
 それでもいいと紗耶は思った。
 見返りを求めての願いではないのだから。
 遠夜の口から最後の呪が放たれる。
 語りかけるように続いていた呪が途切れ、ベルからも最後の滴が落ちる。
 その滴が床に落ちた時、一度だけ澄んだ鐘の音が部屋に響いたように遠夜は感じた。
 意識だけの紗耶にはもっと多くの物が聞こえていた。
 旅立ちに浮き立つ心だけを胸に、悲しみから開放されていく人々の喜びの声。
 ――私もそろそろ行くわ、兄さん。
    でも、私はずっと兄さんの傍にいるから……。
 だから一人で悲しみを背負わないで。
 紗耶はそう胸のうちで囁いて、遠夜から離れた。
 夢の中では時間も距離も意味を成さない。
 紗耶は再び眠りの世界へと戻っていった。


 紗耶は遠夜から離れた後、しばらく海のように感じられる場所を漂っていた。
 それが過去なのか未来なのか、紗耶自身にもわからない。
 どこまでも沈んでいく感覚は、いつか上下の方向感覚が麻痺してしまう。
 沈んでいくと感じていた紗耶だったが、額より上に明るさを感じて目を上げる。
 ――海面が近いんだわ。
 水底から見上げる海面は波もなく穏やかで、その上の太陽の明るさは初夏を思わせる。
 紗耶は視線を海底へと向けたが、マリンベルによって呼び起こされたような悲しい光景はもう再現されない。
 乗客たちは次の船旅へと出かけて行ったのだ。
 ――もう、ここにはいないのね。
 兄の願いは届いたのだろう。
 そう思うと紗耶も喜びに顔をほころばせる。
 ごく親しい相手にしか見せていない、紗耶の夢見以外の表情だった。
 ――私もここからどこかへ……?
 それが望む場所ばかりではないと、紗耶はわかっている。
 紗耶が夢見である限り、それは避けられないのだ。
 けれど、兄の残した温かな思いが残るこの場所に、まだしばらく漂う時間はありそうだった。
 ――もう少し、このまま……。
 紗耶は目を閉じ、瞼に映る光を感じながら両手を広げ波間を漂う。
 束の間、次の夢が紗耶を呼ぶまで。

 
(終)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【 整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業 】
【 0642 / 榊・遠夜 / 男性 / 16歳 / 高校生/陰陽師 】
【 1711 / 榊・紗耶 / 女性 / 16歳 / 夢見 】

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■         ライター通信          ■
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榊紗耶様
ご参加ありがとうございます。
しかしPCトラブルのため納品が大変遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
直接触れたり言葉を伝えられなくても、大切な相手を思う気持ちは伝わると思いながら書きました。
『見守る』形のノベルは変則的でありますが、少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。
ご注文ありがとうございました!