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<東京怪談ノベル(シングル)>


最後の舞台




 “依頼人が望む薬品を創る”。
 それが私の薬師としてのお仕事だった。
 このお仕事の掟は二つ。依頼は絶対に引き受けること、そして出来上がった薬を使用するかどうかは依頼人に任せること。薬師の家系に生まれた私にとって、この掟は絶対だった。
(だから、引き受けるしかないの)
 戸惑いを抱えたまま、私は新しくきた依頼のことを考えていた。
 断ることは出来ない。
 たとえ私が薬を使って欲しくないと思っても。
 たとえその相手が――憧れているお姉様でも。


「清香〜、早く帰ろうよ」
「ごめんね。今日は用事があるから残るの」
「さっきのレッスンで質問でもあるの?」
「うん」
 バレエのレッスンが終わって、帰り支度を始めた友達たちに私は謝った。
 ここは更衣室。踊りを注意されて落ち込んでいる子の声や、逆に褒められて喜んでいる子の話し声などが飛び交っていた。
 中心になっている話題は、今度演じる『白鳥の湖』について。こういう言い方をすると、まるで私たちが中心に立って踊るみたいだけど、そうじゃない。ここのバレエ教室の経営者が主宰するバレエ団があって、その舞台に私たちも出してもらえるのだ。日ごろ尊敬している団員さんと一緒の舞台に立てるということで、はしゃいでいる子が多い。特に主役を演じるお姉様はみんなの憧れの的で、更衣室のあちこちからその名前が聞こえてくる。
「清香に用事があるんじゃ仕方ないね。でもあんまり気負わない方がいいよ。お姉様と違って、私たちはコールドなんだから」
「ん……」
 曖昧に微笑んだ私。
 レッスンのことで質問があるから残るなんて、嘘だった。本当は、これから“依頼人”と会う約束がしてある。
 去っていく友達たちの背中を眺めながら、私は黙り込んだ。
(お姉様と違って、か……)
 ――そう。同じバレエをやっていても、私とお姉様では大きな違いがあった。
 端で踊る目立たないコールドと、プリマとしての将来を期待されている一人の美少女。

 バレエが好きだけど、才能はない私。まだ主役を取れる立場じゃないし、今は憧れの人の傍で踊れることだけで凄く嬉しいと思っている。
(『白鳥の湖』でお姉様の後ろで踊れると知ったときだって、胸が高鳴って……)
 お姉様の近くにいられる。
 同じ舞台に立てる。
 笑顔で声をかけてもらうことも、場合によっては叱られることも出来る――お姉様と会える日は早くレッスンに行きたくてソワソワしていた。
 そして私とは対照的に、ずっと前からその才能を見込まれていたお姉様。
 実力があって、容姿も優れていて。来年からは海外にバレエ留学することも決定している。一緒の舞台に立てなくなることは寂しいけれど、お姉様が世界に羽ばたいていくのは当たり前のことだと思っていた。
 海外に行くのも、今度やる舞台で主役を踊るのも当たり前――。みんなはそう考えていた。
 だけど、お姉様は一人、違うことを思っていたのかもしれない。
(私は、)
 確かめなくちゃいけない。


 時は夕刻。
 二人きりのスタジオ内。
 窓からオレンジ色の光が零れてきて、寡黙に時刻を知らせてくれる。
(大分日が長くなったみたい)
 開けた窓から風が入ってきた。さっきまで髪をアップにしていために少し癖がついてフワフワになった髪を、微かに揺らす。
「…………」
 お姉様が私を見て小首を傾げた。
(依頼をした相手が私だとまだ知らないみたい)
 私は頭を下げて、改まって挨拶をした。
 二人きりでお話をするなんて、初めてかもしれない。
 緊張しつつも、私は自分が薬師であることを話して、お姉様の依頼が自分のところにきたことを伝えた。
「どんな薬をお創りしましょうか?」
「……鳥になりたいの」
 鳥……と口の中で呟く私。
(どうして?)
「羽が欲しいとかではなくて、完全な鳥になりたいということですか?」
「ええ。創れる?」
「勿論です。……でも」
 私は俯いた。
「薬を飲んだらもう人の姿に戻ることは出来ません……」
 それはつまり、今までの生活が送れなくなるということ。
 お姉様は踊ることが出来なくなる――。
(舞台のお姉様を見ることも……)
 だけど、私の沈んだ表情とは逆に“依頼人”の意志は固いものだった。
「かまわないわ。人間には戻らない」
 ――その言葉が胸に突き刺さる。
 憧れてきた人が、心の中でそんなことを思っていたなんて。
「お姉様、どうしてですか……?」
 涙が出そうになる私の耳に、聞こえてきた話。
 バレエ界の中で注目される存在でいることのストレス、自分の家族でさえ自分がプリマとして活躍することが当たり前だと思われていることの辛さ。
 だから鳥になりたいのだ、と。
(お姉様……本当にそれで良いんですね)
 迷いのないお姉様の眼を見たら、私には何も言えない。
「わかりました。私、お姉様の願いを叶えてみせます」
 引き受ける他なかった。
 薬師の掟なのだし――それがお姉様の希望なのだから。


(もうお姉様を見ることも出来なくなる)
 だけど、お姉様の願いを叶えたい。
 私は複雑な気持ちで薬を創り、『白鳥の湖』公演の日の朝を迎えた。


 まだ人のいない舞台。
 薬をお姉様に渡して、私は説明をした。この薬は即効性のものではなく、飲んでから鳥になるまで少し時間がかかるものだということ。そして、もう一度言った。「飲んだら最後、もう人の姿に戻ることは出来ません」
 こくり、と美しい依頼人は頷いて。その細い指が私の頬に触れた。
「お姉……様……?」
 顔を赤らめる私。
 少し上にあるお姉様の顔がゆっくりと近づいてきた。
 胸が高鳴って――私は思わず瞳を閉じた。
「ん……」
 私の唇へお姉様の唇が覆いかぶさってくる。柔らかくて熱い感触に、背中がゾクっとした。
 薄く目を開けると、憧れの人の顔が間近にあった。
「薬を創ってくれた御礼よ。……有難う」
 そう声が聞こえて。
「あ……」
 私の目の前で、憧れの依頼人は薬を飲み干したのだった。
「さあ、準備しなくちゃね。今日は今までで一番綺麗に踊れる気がするわ」


 こうして『白鳥の湖』の公演は始まった。
 結婚式のシーンで、私はコールドとして舞台に立った。いつもと違って、あまり緊張はしていない。
(お姉様と一緒にいられるのはこれで最後――)
 指一本一本がのびのびと動く。私は全身で音楽を感じていた。
(このまま舞台が終わらなければいいのに――)
 時間を惜しむように、踊って。
 ――お姉様の踊りは完璧だったと思う。
 自分の踊りもあったし、全てを観ることが出来た訳ではなかったけれど――自分の出番が終わってからは、後ろから舞台を覗いていた。
 主役のオデットだけが着られる純白のチュチュをつけて、最後の心中のシーンまで、乱れたところがないお姉様。
(綺麗に踊れる、と言っていたけど)
 それは人間でいることの肩の荷がおりたからなのだろうか。
 ――胸が痛んだ。


 舞台が終わって、私たちは小さな個室にいた。
 私の目の前にいるのは、一羽の白鳥。
 窓を開けて、さぁ、と合図した。
 白鳥は窓から飛び立つ際、一度振り返って私をじっと見つめた。
 その目には哀しみの色はなくて。満たされたような、幸せそうな表情だった。
「お姉様……」
 真っ白な羽を広げて、白鳥は遠くへ飛び去っていく。
 ドアの向こうで主役が見当たらないと騒ぎ始めるのを余所に、私は窓の外を眺めていた。
 お姉様の見えなくなった空は、二人で依頼の話をしたときと同じ色をしている。
 唇に指を当てたら、あのときの余熱がまだ宿っているかのように温かかった。


 ……さよなら。





終。