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寄り添う月の淡い道行
既に桜も散って久しい東京の五月。暑いとも寒いともつかない気温の中で大型連休も残り僅かとなった為か、やけに辺りはせわしない。
世間の例に洩れず、高柳月子が勤める小さな和菓子屋もまた、気が遠くなるほど途切れることなく人を招きいれていた。
今年は特に、口コミで広がってでもいるのか遠方からの来客も多く、常にはないほどの盛況ぶりに従業員総出の日々が延々と続いていたのである。
朝の仕込から夜半過ぎの片付けまでを担っていた月子の日常は、まさに忙殺と呼ぶにふさわしかった。
――せめて最後の土日くらいはゆっくりなさいな。
そんな最中に掛けられたのが、店主の奥方からの温かな言葉だった。
ひとり減るだけで作業はずっと大変さを増す。
それでも笑顔で後押ししてくれた同僚たちの声を反芻しながらここに来た。
東京郊外に位置し、みずみずしい新緑で溢れた木々の合間にひっそりと佇む邸宅。静謐な空気に包まれた緩やかな時間の介在する場所。
それを見上げて、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
幾度訪れようと、玄関の前に立ちその呼び鈴を押す時、月子にはある種の決意と勇気が必要となるのだ。
新緑色の爽やかな着物に色彩を合わせた大きめの呂敷包みを抱えなおす。
深呼吸を追加。
それでもまだ自己主張を続ける心臓を宥めるために、今度は帯止めを指でなぞる。
いぶし銀で模られた月と、そこに連なる石のほのかな冷たさにほっと一息ついて、これでようやく一歩を踏み出せそうだった。
「よし」
ひとり小さく呟いて、指を伸ばす。
途端。
主を呼ぶ音が、広い空間をジンと振るわせる。
と、まるでそのタイミングを測っていたかのように、扉はするりと開かれた。
「いらっしゃい」
「城ヶ崎さん」
城ヶ崎由代――物静かな色を湛えた魔術師の穏やかな微笑が心に、やわらかなバリトンの声が耳に、優しく響く。
「一週間ぶりのご無沙汰でした」
知らず口元がほころぶ自分に月子は気付いていない。
「さあ、どうぞ。ちょうどいま昼食の準備が終わったところだから」
「え」
「まずはゆっくりと一週間分の疲れを癒してもらわないと。僕なりのおもてなしを受けてもらえるかな?」
さりげなく月子の手荷物を受け取って家の中へと誘いながら、由代はどこか子供のような笑みで首を傾げた。
「あの、おもてなしって……城ヶ崎さん?」
「おもてなしはおもてなし」
木の香りが鼻先をくすぐる渡り廊下を抜ける間も、彼はナイショ事を楽しんでいるふうに答えをはぐらかす。
そのまま居間に通された自分を待っていたのは、月子の為に用意された茶碗に月子の為に用意された箸が添えられ、月子の帰りを待ち侘びるように少しだけ後ろに引かれていた椅子だった。
「そのままここに座って待っていて。すぐにもって来るからね」
「でも」
「キミの為に用意する楽しさを、僕に独り占めさせてくれないかな」
気の強さではかなりの自信があったはずなのに、口で負けることなんてまずないとすら思っていたはずなのに。
「ああ、そうだ。ね。その帯止め、やっぱりすごくキミに似合っている。……嬉しいよ、有難う」
台所に引っ込む直前のタイミング、振りむきざまのそんな一言で、顔の温度が一気に上がる。
とっさに返せる言葉が見つけられずに、口ごもり。
結局、彼の好意に甘えるみたいに大人しく席に着いてしまっていた。
由代といる時、普段とは少し違う自分の心に気付くことが多くなったと思う。
しかもそれが嬉しいと感じる自分がいて、何となく、そう本当に何となく、意識せずにはいられなくなる。
玄関のチャイムを鳴らす時とは別のドキドキで、しばらく鼓動は治まりそうもなかった。
ほどなくして台所から帰還した由代は、今度は小料理屋の店員のごとき手際の良さでテーブルに次々と料理を並べていく。
「……すごい、可愛くてきれい……」
品の良い陶磁のプレートには大根のきんぴらや厚焼き玉子が並び、小さめの茶碗には黒米を混ぜたご飯がほどよく盛られ、さらに味噌汁のゆったりとした湯気がおり重なり漂ってくる。
和食でありながら、カフェのような小洒落たセンスが光る。
「この間知り合いの店で出してもらったんだが、その時キミの顔がふと浮かんでね。ぜひ食べてもらいたいと思って作り方を伝授してもらった」
さらりと笑ってみせるその言葉に、またしても頬が熱くなる。
「口に合うと嬉しいかな」
「これで口に合わないなんて言ったら罰が当たりそうですけど」
溜息の代わりに目いっぱい強気の笑顔で返し、月子は彼が勧めてくれるままに箸を取った。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
ママゴトのような気恥ずかしさを覚えつつ、それでも久しぶりに2人で向かい合うランチタイムに心が弾まないはずもなく。
気付けば、体のどこかに残っていたらしいこれまでの日々の疲れもすっかり自分の中から消え去っていた。
ふわふわと軽い心地の自分がここにいる。
「ごちそうさまでした。後片付けはあたしがしっかりやらせていただきますね」
しかも俄然やる気がわいてくる、
「繁忙期を乗り越えて来たばかりなんだから、のんびりしないと」
「でも食事と癒しのお礼はちゃんとしなくちゃって思ってますから」
働かざるもの食うべからず、って言いますよね。
そう笑いかけると、由代はくすくすと笑って立ち上がる。
「じゃあ、僕が洗うからキミには拭き上げをお願いしようかな?」
「はい」
台所脇にハンガーで掛けられていた割烹着を取り上げて、月子は弾んだ声で頷いた。
ひとつの流しに2人並んで立って、カチャカチャとこすれ合う食器の音や流れる水の音を聞きながら何気ない言葉を交わす。
そのまま家事の流れを掴むように、洗濯機を回して、掃除を始めて。
けれどソレはけしてバタバタするものではなく、むしろ休日の穏やかな午後といった風情を醸し出していた。
「じゃあ、こっちは僕がするから」
「それならあたしは先にこれを済ませちゃいますね」
籐網の籠に白いシーツなどを入れて、月子は縁側から庭の方へと足を運ぶ。
庭に出れば、見上げた空は抜けるようにどこまでも青い。
春の色をふんだんに含んだ陽光が木々をきらめかせ、風がさわさわと切りそろえた黒髪を撫でていく。
「さ、頑張らなくちゃね」
三角巾の端をきゅっと結んで、たすきをキュッと締めなおして、気合も新たに真っ白な洗濯ものたちに挑む。
掃除をして、洗濯をして、それが終われば、せっかくだからと今度は由代の膨大な蔵書の一部を虫干しに出す。
広い庭に広げられた布の上に次々積み上げられていく古書の山。それらの内容全てが彼の頭に入っており、全てが彼の血となり肉となっているのには驚かされるけれど。
研究者としての彼の顔を見るのも、実はひそかに好きなんじゃないかと月子は思いはじめている。
3時を回る頃には、庭の一角が本で埋め尽くされていた。
「さてと、一段落したからにはお茶会を開かなくちゃね」
いつのまに用意していたのか。
月子が気付いた時には既に、由代はお盆の上に白磁のティーセットを載せて立っていた。
「あ、じゃあ私も」
風を受けてさまざまに表情を変える木漏れ日を浴びながら、大きな木の下に腰をかけてティーセットを広げる。
「これまで手伝ってもらっちゃって……かなり疲れたんじゃないかな?」
「いえ。全然大丈夫ですから、ご安心ください」
事実、月子の体は驚くほど軽い。
その理由のひとつはきっと間違いなく、掃除の時に立ち寄った由代の書斎にある。
由代にとって大切なもの、愛しいもの、その想いに包まれた机の上に置かれていた銀無垢の懐中時計。
こまめな手入れを必要とするソレは、窓から僅かに差し込む光の中で、一点の曇りもなく誇らしげに輝いていた。
「やっぱりあなたに似合ってた……嬉しい…有難う……」
面と向かって言うには恥ずかしくて、月子は先程由代からもらった言葉をなぞるように、彼に背を向けてそっと囁いてみる。
届かないかもしれないけれど、もしかすると届いたかもしれない想い。
彼は振り返らない。
それでも充分過ぎるくらい、月子の心は満たされる。
会えなかった一週間という時間の中で、お互いに何をして、何を考え、何を思ったのか。
そんな大層なものじゃなくても、例えば読んだ本が面白かった、新作の和菓子が美味しかった、たまたま見た映画がすごく泣けた……そんな他愛のない話題が楽しい。
そうして2人だけの時間はゆるゆると空の緑の間で流れたゆたう。
いつしか二人の会話は途切れ、後には小川のせせらぎにも似た葉擦れの音と、遠く聞こえる小鳥のさえずりだけが辺りを包みこんでいた。
由代は、積み上げた本の中から最近購入したばかりの魔術書を引き寄せて閉まった為に、中身を確認するはずがそのままのめり込む形となり。
月子もまた、連休中にはほとんど見ることの出来なかった映画特集の雑誌を見つけて広げ。
だがこの沈黙すらも、月子は心地良いと感じていた。
彼との距離、互いの間に生まれる空気に安らぎを覚えている自分がいる。
こんなふうに誰かと寄り添う自分を想像したことなんてなかった。
こんなふうに誰かに心を寄せる自分を想像したこともなかった。
うっとりとした時間。
やわらかな時間。
やがて誘われるまま、月子の意識はすぅっと眠りの淵に落ちていき……
「ん……?」
最後のページを繰ったところで、由代はようやく自分の肩にもたれかかって眠る月子の重みに気付く。
日は既に西の方へ傾き掛けていた。
あどけない寝顔。
白い肌に彩りを与える、かすかに薄く開いた赤い唇からは安らかな寝息がこぼれている。
いとおしい。
胸に広がっていく淡い想い。
明確な言葉、明確な約束にはいまだ変えていないけれど、それでも確かに自分の中に溢れてくる想いを由代は感じていた。
触れたら彼女は目を醒ましてしまうだろうか。
「月子さん……」
彼女に聞こえないように、彼女の名を呼んでみる。
いつか自然と、『高柳さん』ではなく『月子さん』と呼べるようになれたらいいと思いながら。
そして、いつか自然と、『城ヶ崎さん』ではなく『由代』と呼んでもらえるようになれればいいと願いながら。
「これは……?」
ふと視線を下に向ければ、彼女の膝に広げられた雑誌が目に入る。
大々的に宣伝されているメジャーな映画の斜め下にひっそりと、彼女の心を引きつけた映画のタイトルが赤いペンで囲われていた。
それがいかにも彼女らしい選択だと思える自分がいる。
「……月子さん……明日は一緒に映画を観にいこう……」
いまだ眠りの淵にいる彼女の、艶やかな黒髪のひと房をそっと指に絡め取り、由代はそこに囁き口付けた。
言葉にならない想いがまたつのる。
つのる想いは、いつか彼女に差し出されるその日を待ち詫びる。
待ち詫びたその先を、静かに描く。
そして。
緩やかな風が木々をなぞり、そして2人の間に流れるやわらかな時間を通り抜けていった……
END
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