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『ツツジ燃える里』
ポツポツと軒を叩く音が聞こえ始めた。
「あらいやだ。雨になっちゃったわ」
藤井(ふじい)・せりなは、まだ蛍光灯の必要な早朝のキッチンで、三個目のおにぎりを作り終えたところだった。ひるまず、高菜漬を巻き付ける。作っておいて無駄になるものでもない。
筑前煮は前夜に完成している。汁を切って、さらにペーパータオルで水分を取っている最中である。ピーマンの肉詰めとアスパラの牛肉巻きも、もう冷めただろう。玉子焼きは作らない。夫はコレステロール注意報年齢であった。
「でも、小雨みたいね」
素早く手を洗ってエプロンで拭うと、ダイニングの窓を少し開けてみた。さらりと柔らかい前髪に、小さな銀の粒が止まる。近所の景色が霞むので、青い目を細める。雨でぼやけているのだ。
『まだ、違うわ。雨のせいよ』
誰が聞いているわけでもないのに心で言訳して、老眼の予感を追い払う。
「かあさん、雨だよ・・・」
朝の挨拶も無しに、パジャマ姿の夫、藤井・雄一郎(ふじい・ゆういちろう)が情けない声でキッチンに顔を出した。
「ツツジ見物は、次の定休日に変更だなあ」
そうは行かない。弁当用の食材を買って、ここまで作ったのだ。また早起きして作るのは御免である。
「あら、それだと見頃を逃すわ。小雨だし、それに雨のツツジも風情があっていいのじゃない?」
にっこり。
クレオパトラでも、英雄達を惑わす時にここまで優雅には微笑まなかっただろう。
「そうかぁ。かあさんがそれでいいなら。じゃ、雨天決行、結構ってことで」
雄一郎は自分のギャグにぷぷっと笑いながらテーブルで新聞を広げた。
「おとうさん。店は休みでも、花の世話は休みじゃないでしょ。7時20分の特急に乗るのよ。とっととやることやって下さいね」
「・・・わかってるよ」
夫は渋々立ち上がる。
藤井家はフラワーショップを経営している。二人の娘と妻の次に植物を愛する夫であるが、最近は店をせりなに任せて出歩くことも多かった。娘たちが外に出て夫婦二人きりになってしまったので、家にいても寂しいのかもしれない。だからと言って、無断でぶらりと店から居なくなるのも困るのだが。せりなだって忙しいのだ、いつも店番ができるとは限らない。家事で手が離せないこともあるし、子供相手の空手塾の講師もしている。近所の主婦仲間とランチの約束をしている時もある。
とにかく、次の定休日は、女性同士の寿司バイキングが待っているのだ。ハイキングは何としても今日行かねばならない。
都心から乗るその特急は、平日には楽に自由席に座れた。二人はほっとして座席にリュックを降ろす。しかし車中は閑散という印象は無く、中年婦人の賑やかな観光組や、企業をリタイヤした年代の山男グループも目立った。
雄一郎は、発車するや否や水筒から茶を啜っていた。
「向こうで無くなっても知らないわよ?」
「なあに、飲み物なんて売店で買えばいい」
車内は賑やかなグループが多い中、せりなの親の世代と思える年配の夫婦も2、3目についた。温泉にでも出かけるのだろうか。
二十年くらいたったら、ああして二人で温泉に出かけるのもいいなと思う。今日は・・・まあ、雄一郎が楽しいのだから、いいのだ。夫は『一番年長の子供』。どの主婦友達も口を揃えて言う。母親は、子供が喜ぶ顔を見るのが嬉しいものである。
『あのアベック、絶対不倫だよな?』
耳打ちする夫の視線の先に居たのは・・・白髪の目立つ初老の男と、三十歳くらいの化粧の濃い女性の二人連れだった。
『やめなさいよ、あなた。どうでもいいじゃない』
夫の膝を軽く叩いて窘めた。そう言えば今日はハリセンを持参していない(荷物になるから)。素手で殴るのも、空手家のせりなの場合、危険である。殴らずに済むよう、祈るばかりである。
一時間半ほど快適な車両に揺られた後、ローカル線に乗り換える。同じ目的地の者も多く、ホームでは雨を凌ぐ木造の屋根に皆が寄り集まった。
『あら。さっきの』
夫が不倫だと騒いでいたカップルも一緒だった。女性は男性より20歳以上若いだろう。夫は単に羨ましいのではないか?
ローカル線は15分で目的の駅に着いた。ここからはバスが出ている。一時間も乗るらしいので、夫は駅の売店を覗いた。ペットボトルのお茶を買うのだろう。だが、都会では馴染みのないメーカーのものが並んでいて、夫は首を傾げる。
「何でもいいじゃない。お茶に変わりはないんだから」
「不味かったら、かあさんが飲んでくれよ」
「はいはい」
駅前のバスターミナルへ急ぐ。と、バスはエンジンを派手にふかして『もう行くぞ』と苛立っているようだった。昇降口に居る人影が、片手でドアを抑えている。せりな達が飛び乗ると、その人影は運転手に向かって「ほら、やっぱり乗っただろう?」と笑った。電車で一緒だった初老の男だ。
「まあ。ありがとうございました」
せりなが頭を下げると、男は「よかったですね。このバスを逃すと2時間後ですから」と笑顔を返した。
髪が白いので初老と思ったが、夫とそう変わらないかもしれない。雄一郎が若く見えるのだ。髪は接客も考え軽く茶色に染めている。腹も出ていないし、服装なども大学生が着るようなシャツを好み、せりなから見ても若々しいと思う。
駅前を出発したバスは、軒の低い商店街を抜けると、すぐに見晴らしのいい通りに出た。道路脇に時々並ぶ木造民家、その向こうには山・山・山。ガラスを飾る水滴越しに、濃い緑が霞んでいる。やがて道は蛇行し、耳に軽い痛みを覚えた。高度が上がっているのだ。
乗換も含め一時間ほど。雄一郎が五分おきに足を組み換える。バスに飽きて来たのだろう。切り立った崖が終わり、いきなり視界が開けた。せりなは窓へ顔を近づける。
「雨、止んだみたいよ、よかった。・・・あ、牛!あ、ツツジ!」
降りるバス停が近づいたのだ。広い牧場と、所々に群生する赤いツツジの小山が見えた。乗客の殆どがそこで降りた。道路の両側には芝が広がり、仔牛が草を食む。ツツジは自由に点在し、牛の方が遠慮して避けて座っている。花は赤というより、朱色に近かった。都内の植え込みに多いきついピンクとも違う、みずみずしい赤である。
「きれい!」
せりなは駆け寄り、花に触れてみる。絹のような柔らかな花びらに、さっきまでの雨の粒が乗っている。それはやがてつるんと落ちた。
「ああ」と、雄一郎も、自分が咲かせたかのように得意そうに頷く。
「レンゲツツジだな」
「レンゲ?ツツジじゃないの?」
「名の由来は、レンゲみたいに群生するからだ。蕾の形が似てる説も有る」
「へえ」と、思わず尊敬の眼差しになる。
「ツツジとサツキはどう違うの?」
ついでに、長年の謎を尋ねてみた。
「サツキもツツジだよ」即答である。
「え?」
「サツキは、ツツジの一種なんだ」
子供の頃からの謎が解けた。四十年近く不思議に思っていたことを三秒で解決してくれるなんて、夫ってすごいかもと感心したせりなだった。
雄一郎は、デジカメをいじりつつ、「あれ?接写モードってどこ押すんだっけ?」と眉を寄せている。
「何度やっても忘れるなあ」
仕方なくノーマルモードでツツジをフレームにおさめたようだ。
牧場の先から山道へと入って行く。
「え、こんなに急なの?」
階段にしてもいいのではと思える坂だった。30歩も行くと息が切れた。道は整備されているが、ぬかるんで溶けた土がスニーカーにまとわりつく。左の崖からは樹木が枝を垂れ、右のガード下にはヤマツツジが咲き乱れる。こちらは狂気のピンク。青味を感じさせる魔性の色だ。じっと底を見ていると引きずり込まれそうな。
目眩がして、目を擦ろうとしたら、ぐいと強い力で手首を掴まれた。
「あなた?」
「さっき、レンゲツツジを触っただろ?あの花には毒があるんだよ」
「まあ。・・・ありがとう」
触った時に言って欲しかったと苦笑しつつ、素直に礼を言って濡れティッシュで手を拭いた。
急なのは最初だけで、後はなだらかな登り下りが続いた。
「弁当を半分預かろうか?」
「ううん、大丈夫よ」
これもあの急な登りの前に言って欲しかったと、せりなは笑いを噛み殺す。だが、元々背の荷物はそう多くは無い。子供を連れた頃のハイキングと違い、四十代の二人はもう量は食べられない。不要になってたたんだビニールカッパも軽いものだ。
正午より早い時刻に山頂に着いた。展望台は広場になって、ベンチなども据え置かれていた。既に食事を広げているグループも有る。
せりな達もベンチで昼食を取った。腐敗を気遣い海苔の替わりに高菜漬けを巻いたおむすびは、夫に好評だった。筑前煮にも進んで箸を出した。結婚した頃はまだ青年の味覚で、高菜もれんこんも決して美味いと言わなかったと思う。味の滲みた筑前煮の牛蒡を噛みしめながら、せりなは年月を感じた。
食事があらかた片付いた頃、先程バスでも会った二人が展望台へ辿り着いた。女性は辺りを見渡し腰を降ろす場所を探すが、生憎ベンチは全部塞がっていた。
「おとうさん、そろそろ」
せりなが弁当箱を片付け出す。
「そうだな」と夫も立ち上がり、「ここが空きますよ!」と女性へと声をかけた。
「ありがとうございます。・・・おとうさーん。こっちよ!」
せりなが雄一郎を呼ぶ『おとうさん』と、彼女が呼ぶそれとはニュアンスが違った。
『父娘じゃない!』と小声で夫を批難する。普通に考えればそうである。夫は『あんな冗談、間に受けるなよ』と、下世話な言動を恥じたのか、くいっと唇を曲げて怒るフリをした。
「父娘でハイキングですか?」
雄一郎は羨ましそうに尋ねた。
「はい。今日は亡くなった母の誕生日なので。ツツジが好きな母でした」
ヤマツツジに似たピンクの口紅も鮮やかに、女は微笑んだ。
「まあ・・・」とせりなは一瞬言葉を失った。
「じゃあ、ここの山もお好きだったでしょう。ツツジの名所ですから」
雄一郎は遠くレンゲツツジに染まる山並へと視線を移し、淡々と言う。
「ええ、子供の頃、よく来ました。
あ、ごめんなさい、深刻にならないで。母が死んだのはもう十年も前ですし」
彼女は微笑むと、バッグからレジャーシートを取り出してベンチに敷いた。それは最新のアニメのキャラクターもので。女性にはもう子供が有るのだろう。
「行こうか」
雄一郎が促し、せりなは父娘に会釈をするとその場を後にした。頂上から帰りのバス停までは、来たのと同じ道では無く、ずっとゆるい下りだ。周りの樹も花も、のんびりとした速度で過ぎて行く。
『私達は、もう折り返したのかしら?』
この先も、ゆっくりと下っていくのだろう。それも悪くないと、せりなは微笑んだ。
< END >
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