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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


思いを掬う掌の形で ──2006 Mother's Day──




 1年のうちで、藤井家にとって最も忙しい1週間が、終わりを告げようとしていた。毎年5月、第2週。母の日がある週の、1週間である。
 今年の第2週は例年にくらべて気温が低く、関東は雨続きだった。おそらくはそのせいだろう、母の日ギフトの王道として名を知られているカーネーションやミニバラの他に、アジサイを買って帰る客も多かった。
 いつもよりも少し広く、そして寂しく感じられる店内を見回して、店主──藤井雄一郎はつるりと己の顎を撫でる。
「カーネーションだろ、バラにベゴニア、アジサイ、それにアンスリューム──お、アイビーと胡蝶蘭も持っていってもらったのか。今年はずいぶん早く完売しちゃったなあ」
 店内のいたるところにレイアウトしておいたはずの『母の日セット』の鉢は飛ぶように売れていった。すべて早朝から、彼の妻である藤井せりなにデコレーションしてもらったものだった。
 籐やワイヤーでできた小さな篭の中に鉢を置き、淡い色の飾り紙を巻き、リボンを飾る。ただそれだけのことだったが、ひとつひとつ丁寧に施していくのは大変な作業であるし、また、あるのとないのとでは花の存在感が段違いである。
 彼女はそういう作業をこよなる愛する女性で、鉢植えも彼女にデコレーションされることを心から喜ぶ。
 雄一郎には、それをありありと感じることができた。
「可愛くしてもらえれば、そのぶん、持っていってくれたお客さんの家でも、可愛がってもらえるもんなあ。おまえたち、やっぱり頭良いんだな」
 がっしりとした身体つきに見合う無骨な指先が、ちょこん、と手元のベンジャミンの葉先をつっついた。つやつやとした葉を3段に茂らせ、細幹をきれいな三つ編みにした豪奢なベンジャミンである。仕入れた初日、売られていくよりもここにいたい、と雄一郎にせがんできたので、値札を貼らずに置いてある。実際、売ってくれと雄一郎に頼み込む客もいないわけではなかったが、そのたびに、『こいつは俺の兄弟なんですよ』と云って断ることにしている。
「今日のブログのタイトルは決まったな。……『完売ありがとうございますo(^0^)o』にしようかな……」
「──ちょっと。店先でブツブツ独り言云ってないでくれる? しかも顔文字つきで」
 ベンジャミンをつっついた人差し指で、宙に顔文字を書いていたときだった。
 はっ、と自動ドアのほうを振り返ると、緑色の双眸を冷たく眇めながら、両腕を組んで溜め息を吐く声の主がいた。
「あ、なんだよおまえ。父さんの中の人が出ちゃってる時は、そっとしといてくれよ」
 店じまいの準備をしている最中に、ふと止めた手だった。外に置いてあった花置き台を店内にしまおうとしたところで、その台が自動ドアのセンサーを開きっぱなしにしていたらしい。
「それに、帰ってくる時は電話の1本くらい寄越せ。母さんが夕飯の準備、困るだろうが」
 声の主──藤井百合枝は、開きっぱなしのドアの前で両肩をすくめ、破顔した。
「忙しいと思ったから遠慮したの。カバン先に置かせてね、そしたら店じまい手伝うから」



 久方ぶりにやってきた長女の姿を見留めると、キッチンで味噌汁を温めていたせりなはあら、と呟き、嬉しそうに目を細めた。
「おかえりなさい、お父さんの店じまい、手伝ってくれたの?」
「手伝ったなんてほどじゃないけどね。忙しかったでしょ、今週」
「ホームページから注文してくれたお客さんも多かったから、ちょっとね」
 バレンタインデー。母の日。クリスマス。フラワーショップが特に忙しくなる3シーズンである。
 女として、『この日はゆっくりしたいだろうな』と娘心にも思う時節に、いつも母はくるくると楽しそうに働き回っていた。そんな母の背中を見て育ったものだから、風邪をひいても、足を折っても、学校と仕事だけは休まない自分に育ったのだと百合枝は思う。少しくらいのことでは音を上げない。美しく儚げな外見の印象とはうらはらに、誰よりも強い精神力と優しさを持ち合わせた女──自分の、母親。
「どうせ独り暮らしで、普段ろくなもん食ってないんだろ。母さん、百合枝の味噌汁、具だくさんにしてやってくれよ」
「そうね、百合枝、お豆腐好きでしょ? お味噌汁に足すのと冷ややっこにするの、どっちがいい?」
「ん、やっこがいいな」
 脱衣所の方から、俺も、と云う雄一郎の声が聞こえた。絹ごしのまるまる一丁を8等分にし、せりなは手早く冷ややっこの器を作る。
「百合枝、これ運んでおいてちょうだい。あとでネギを持っていくから」
「はあい」
 ダイニングにやっこの器を運びがてら、半分ずっこだからね、と脱衣所の方へ声をかけていった。おう、と云う声がしてから、部屋着に着替えた雄一郎が歩いてくる。

 大根と豆腐の味噌汁、ニンジンとさといもの煮付けに、カツオの刺し身。手の込んだ煮物の味は良く良く知っている『母の味』で、懐かしさと安らぎ、それに少しだけ、哀しいような恋しさを呼び起こす。
 それらをつつきながら家族3人、ようやく訪れた週末の気配を味わっていた。
「味噌汁、半分くらい」
「大根多めで良いわね?」
 雄一郎が差し出す椀を両手でそっと受け取り、せりなは台所へと消えていく。少し前までは見慣れていたそんな光景が、家を出てからはなんとなくこそばゆくて、百合枝は淡い苦笑を口許に浮かべてしまう。
「ねえ、今年、けっこう出たの?」
「そうだなあ。けっこうアジサイがな。雨ばっかり降ってたろ、お客さんがそういう気分になりやすかったのかもしれん」
「へえ、意外ね。最近、緑色のアジサイとかも見掛けるもんね、あれ新種?」
「あれなあ……知らないで置いてる花屋もあるけど、ファイトプラズマって病気なんだよ、微生物の」
「えええ?」
「1度罹ると、幹のほうまでびっしり微生物の粒子が回っちゃうから、株ごと焼いて捨てねえと他のアジサイまで病気になる。他の店先で、見掛けるたんびになぁ──かわいそうでなあ……」
 世間話のつもりで、今年の『母の日』の売れ行きを聞いたのがまずかった。雄一郎はいきなり、しゅんとした面持ちになってしまい、寂しそうな箸遣いでカツオを口に運んだ。
「コアジサイなんかも、物珍しいみたいで、人気が高かったわね?」
 そんな夫の気配を察したのだろう。味噌汁を入れた椀を持って戻ってきたせりなが、早百合に助け船を出す。「鉢植えは、可愛がってもらえること前提で送り出せるから、いつも嬉しいわ」
 確かに、切り花よりも鉢花のほうが寿命も長いし、上手に育てれば種を摂れるものもある。そのぶん手間がかかる場合がほとんどだが、『贈る側』が『贈られる側』のことを信頼している気持ちの表れでもある。おいそれと枯らしてしまうような相手ではないと信用しており、なおかつ、自分の贈ったものを長く愛して欲しいと願うからこそ、贈る側は鉢花を選ぶのだから。
「でも……今日みたいに完売しちゃうと……それはそれで、寂しいんだよなあ……」
「毎年毎年、同じことでくよくよするんじゃないの」
 ぴしゃりとせりなが云い放つと、うん、と頷いて雄一郎は味噌汁を啜るのだった。
 不思議な夫婦だ。そして、自分が知っている夫婦の中で、もっとも互いに馴染みあった夫婦だと、百合枝は思う。
 さといもを味わいながら、何気なく目を閉じる。そうして意識を集中すると、父と母──ふたりの揺らがせている、心の炎が透けて見える。
 力強く暗闇を舞い飛ぶほたるのような父の炎と、風のない闇の中で凛と燃える蝋燭のような母の炎。
 ああ、このひとたちは、とても元気だ。
 身体も、そして、何より、心そのものも。
「は──……、良いよね、やっぱり。母の味、って感じ」
 どうしてだろう、共に同じ屋根の下で暮らし、同じ食卓を毎日囲んでいた日々の間には、そんな幸いを今ほど噛みしめることはなかった。
 離れて判る、親の有り難み、と云うやつなのだろうか。
 だから自分は今日、こうしてふらりと、この家を訪れたのだろうか。



「母さん」
 しゃんと背中を伸ばし、流しに向かって皿を洗っているせりなに歩み寄り、百合枝はそっと、声をかける。
 振り返ったせりなはやはり笑顔で、こうして常に笑顔を絶やさない、強い女でありたいと云う思いが百合枝の胸をよぎった。
「今日は泊まっていけるの?」
「ううん、明日からまた仕事──土日はしっかり休ませてもらってるから、父さんと母さんに比べたら全然働いてないけど」
「そうなの……もっと頻繁にうちに寄りなさい? ご飯、自分で作って食べたりはしてないんでしょう?」
「そうでもないわよ」
 心配性で、優しくて、強い母。
 自分は常に、憧れの女の背中を見て育ってきたのだ。
「……、これ、いつもありがとう」
 小さな言葉をそこで区切ると、せりなが振り返り、百合枝の顔を見つめて小首をかしぐ。
 その目の前にそっと、小さな包みを差し出した。
「──いつも、ありがとう。いつも笑顔でいてくれてありがとう。いつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう。……いつもいつも、手間のかかる父さんの面倒をみてくれてありがとう」
「……百合枝……」
 せりなが、差し出された包みと、百合枝の面持ちを交互に眺め、言葉を詰まらせた。
 思えば母の日にかこつけて、せりなにプレゼントを渡したのは今日が初めてだった。家業が家業であったために、王道である生花を贈る機会もなく、両親の忙しさに気圧されてしまうように毎年、沈黙を保ってしまっていたのだった。
「……中身は、たいしたことないの。エプロン──ほら、店に立ってる時にいつもしてるやつ、くたびれて来てるなって……こないだ寄った時、思ったから」
「────百合枝……ありがとう……その気持ちが……1番嬉しいの」
 嬉しい。
 そう云ってもらえることが、さらに嬉しい。
 贈り物の価値が、決して値段で決まるわけではないことを、百合枝は母から──この家から、生まれながらにして教えられ続けてきたのだから。
 古より、あまねく全ての商売は、いかに『生きるために必須か』により成り立ってきた。何もかもが、衣服、食品、住居から派生したもので、商売の歴史から見れば本屋などはかなり後期に生まれたものである。
 しかし、花屋だけははるか昔、有史以前より存在しつづけ、今に至るのだと云う。
 それがなければ死に絶えるわけでも、生活に何の支障をきたすわけでもないのに、だ。
 ──百合枝、花ってすごいんだぞ。幼いころ、雄一郎に繰り返し聞かせられた、そんな言葉は今も百合枝の心の中にある。
「……大切にするわ。本当に、……本当に、ありがとう」
 渡した包みを胸に抱いて、そう呟いたせりなの笑顔も、自分はいつまでも心の中に残していくだろう。
 照れたように前髪をかきあげながら、百合枝はそう思ったのだった。

(了)


──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【1873/藤井・百合枝(ふじい・ゆりえ)/女性/25歳/派遣社員】
【2072/藤井・雄一郎(ふじい・ゆういちろう)/男性/48歳/フラワーショップ店長】
【3332/藤井・せりな(ふじい・せりな)/女性/45歳/主婦】