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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


Captain Immoral

「困ったことになったのよ」
 オカルト雑誌『月刊アトラス』の編集長、碇麗香は小さな溜息をつきながら、そう言った。
 ここは雑然とした『月刊アトラス』編集部の一角、会議用として設けられたスペースのなか。といっても、普通の会社にあるような立派な会議室ではなく、薄い仕切りとドアで外側から見えなくなっているだけだ。室内にあるものといえば、折りたたみ式の長机が1つと、学校などによく置いてあるパイプ椅子が4つだけ。来客用として申し訳程度に、紙コップに淹れられたコーヒーがいくか並んでいる。
 お世辞にも、静粛なミーティングに適している空間とは呼べない。
 麗香が言葉を続けようとした、その時だった。
「編集長ォ! またあの議員の秘書から電話です、至急編集長を出せって!」
 薄いドアの向こうから、悲鳴のような叫び声が聞こえてくる。麗香はと見れば、頭痛を堪えるような姿勢で頭に手を置き、先ほどよりも大きな溜息をついていた。
「編集長会議に出席するために急いで出て行ったから、今日中に戻ってこられるかは難しい。明日の朝イチに折り返し電話をする……そう伝えておいて! もう取り次がないでよ、私はここにいないんだから!」
 ドアの向こうへも聞こえるように大きな声で返すと、麗香は三度溜息をついた。
 それから、仕切りなおしとばかりに机に置いていた書類をトントンと整えると、真剣な表情に戻って切り出した。
「うちの雑誌は読んだことあるかしら? 最近、少しずつ人気が出てきたコーナーがあるの。『ウィアード・ハンター』っていって、こっちが用意した怪奇スポットなんかのネタを元に、読者から情報や調査結果をもらって、それらを元に解明記事にするっていうコーナーなのよ。……投稿がない時はどうするのかって? そこはオトナの事情があるんだから、答えられないわね」
 麗香は久しぶりに、いつものように意地悪そうな笑みを浮かべた。
 そこまで説明してから、麗香は書類の一番上に重ねてあった、『月刊アトラス』を手に取った。ページの角を折ってしおり代わりにしておいた場所を開き、逆向きにしてこちらから見やすいようにしてから、机の上へ置きなおす。
 そのページの見出しには、鋭角なフォントで『ウィアード・ハンター! 怪奇と魔妖の深淵を照らすが我らの使命!』と、読者を煽るようなコピーが並べてあった。
「これ、『月刊アトラス』の今月号なんだけど。新宿にある稲荷鬼王神社って知ってるかしら? そこで数ヶ月前から、刀を打ち鳴らすような音がして、何かを思って見に行ってみると、鬼のような化け物が現れている、っていう噂が流れてるの。最近は噂が広がって、地元の人も参拝するのをためらってるみたい。そこで、うちの出番ってことで、記事にして情報を集めようと思ったんだけど……」
 言葉を切ると、麗香は雑誌の下になっていたファイルから書類を取り出して、そのうちいくつかを机の上に並べた。
 そのうちの1枚には、ダークグレーの背広を着た熟年の男の写真が印刷されていた。何かのメディアで見たことのある気がする顔である。白髪がラインになって混じっている短い髪を、丁寧に後ろへと撫でつけていて、縁のない眼鏡の奥の瞳は鷲のように鋭い。
「黒田益高(くろだ・ますたか)。詳しい経歴までは調べられなかったけど、ヤクザとも繋がりがあるんじゃないかと噂されてる、かなり危険な臭いのする議員ね。今月の『月刊アトラス』が発売されたと同時に、いきなり議員から直々に電話があったのよ。すぐに書店に出回っている雑誌を全て回収し、出版を止めろ。再び出版したいのなら『ウィアード・ハンター』の記事を削除しろ、ってね。ご丁寧にほら、FAXまで」
 新たな紙をファイルから取り出すと、放るようにして机に置いた。無礼なほど慇懃な文章で、雑誌回収と出版差し止めの依頼――という名の命令が書いてある。
「報道の自由……なんてものを主張して、正面から抵抗してもいいんだけど、やっぱり会社としては、議員さんと喧嘩なんかしたくない、っていうことらしいのよ。返事は先延ばしにしてるけど、今のところ社内的に、雑誌の回収は決定。でもね……」
 そこで麗香は唇の端をつり上げて笑い、湯気の消えてしまったコーヒーに口をつけた。
「バカ正直に黙ったままじゃ、マスコミの名前が泣くじゃない? 化け物の噂が流れるようになってから、議員を神社の付近で見たっていう情報もあるし、ガラの悪そうな連中が神社の傍をうろついてるのも目撃されてるの。何か後ろめたいことがあるのは間違いないわ」
 言い切った麗香の双眸には、自信の色が浮かんでいる。
 机の上に散らばった書類をまたファイルにまとめ、それをこちらへ真っ直ぐに差し出しながら、麗香は言葉を続けた。
「さんした君あたりにお願いしてもいいんだけど、彼、正直あまり頼りにならないし。それに、うちの記者に調べさせて、もし議員に見つかったら面倒だから、こうやって部外者にお願いすることにしたのよ。期限は明日。それまでに、黒田議員が頭下げて前言撤回を願い出てくるような、極上のネタを捕まえてきてくれないかしら」


「えっ、私たちがですか?」
 日高晴嵐は琥珀色の瞳をビー玉のように大きくして、やや俯いていた顔を正面へと向けた。その拍子に口につけていた紙コップが揺れて、こげ茶色の液体が唇に飛ぶ。顔をしかめながら、唇についたコーヒーを細い指で拭うと、右隣に座っている妹、日高鶫の表情をうかがう。
「ちょっと危険でかなり刺激的で、しかも割りのいいバイトがあるから来ないか……って言われて、のこのこ来ちゃったのは私たちだから。文句は言えないよ、姉さん」
 鶫はとうに諦め顔だ。吐き捨てたくなるほどまずいコーヒーは、少し口をつけただけで早々に見限り、今は麗香から渡された資料に目を通している。
 晴嵐の視線に気づいて顔をそちらに向けると、眉尻を下げて苦笑した。
「私と姉さんだけでって言われたら、どうしようかと思ったけど……。宮小路さんがいてくれて助かりました」
 晴嵐を挟んだところに座っている、場違いなほど優雅な空気を振りまいている女性のほうへ、鶫は顔を向けた。宮小路綾霞はちょうど通話を終え、市販のものよりやや大きな携帯電話を優雅な手つきで折りたたむところだった。
 決して悪い出自ではない晴嵐と鶫だが、こうして筋金入りの『セレブレティ』を目の当たりにしてしまうと、住む世界の差を感じてしまう。
「部下に指示を出しておいたわ。いくらその議員が怪しくても、裏が取れないことには、いざ動こうとした時に不便ですものね。今夜中に現場を押さえるために、入手した情報を使って議員を陽動しようと思うの。ネットに情報をばらまいてしまえば、そこから人伝に情報は広まるし、いくら有力な議員さんでも、人の口に戸は立てられないでしょ?」
 てきぱきと報告を済ませる綾霞に、晴嵐と鶫はつい見惚れてしまったが、麗香だけは厳しい表情を浮かべていた。
「それ、下手したらウチがやってるって探られるんじゃない?」
 だが麗香の心配などお見通しといった表情で、綾霞は微笑んだ。
「ちゃんと情報元は細工しておくわ。宮小路の出版部の名前をちらつかせておくから、すぐには白水社まで辿り着けないはずよ。時間をかければ探られるかもしれないけど、勝負は今夜決まるんですからね」
「ワールドクラスのセレブはやることが違うわね。念のため断っておくけど、今回の件はそっちから関わってきたんだから、謝礼は出ないわよ? ……あ、そっちのふたりにはちゃんとバイト代は出すから、そこは安心して」
 皮肉めいた麗香の言葉も、綾霞は笑いを浮かべて聞き流してしまう。晴嵐と鶫はといえば、困った表情でお互いを見つめていた。こんなに凄い人がいるなら、自分たちは必要ないのではないか、とすら考えてしまう。
 そんなふたりの頭の中を見透かしたように、綾霞はハンドバッグから名刺を2枚取り出すと、それをふたりに手渡した。
「日高さんたちにだって協力してもらわないと、私だけじゃ厳しくてよ? まずはお互いに行動を把握しておかないといけないから、どこかで食事をとりながら作戦会議をしましょう。あと、何かあったらすぐに私の電話にかけてね。さ、これ以上編集長さんのお邪魔はできませんから」
「あっ、はい」
「……どうも」
 先に椅子から立った綾霞につられ、晴嵐と鶫も立ち上がる。
 挨拶をしながら部屋を出て行く3人の後ろ姿に、麗香は不安そうな視線を向けていた。


  ×  ×  ×


「つぐちゃん、私もう、ハンバーガーなんて食べられないかもしれない……」
 稲荷鬼王神社に向かう途中、さっき食べた人生で最も豪勢で優雅で格別だったかもしれないランチを思い出し、晴嵐は至福の溜息をついた。
 作戦会議というのだから、ファミリーレストランやファストフードなどの、安いお金で長く居座ることのできる場所へ行くのかと思いきや、セレブの考えることは全く違った。連れて行かれたところは、宮小路グループ直営のフレンチレストラン。フランスで三ツ星を獲得した店の主任シェフを引き抜いてきて、日本に店を開かせたという、テレビの高級料理店紹介番組で、ふたりも何度か目にしたことのある超有名店だった。
 予約がなければ水さえ飲ませてもらえないであろう高尚な店に、綾霞は何の連絡も入れず踏みこんでいった。いきなり客に呼ばれ、怪訝そうに顔を出した支配人の慌てぶりといったら、思い出しても笑ってしまう。
 その後はシェフまでも挨拶に来て頭を下げ、通常の席とは離れた位置にある特別席へ案内されると、一度聞いただけでは覚えきれない名前の料理が次々とテーブルに出てきた。辛うじて、キャビアだのフォアグラだの、高級食材の代名詞ともいえる名前を言っていたことが記憶に残っている。
「確かにおいしかったけどさ、姉さん。あの味は早めに忘れたほうがいいよ。二度と食べられるかどうか分からないんだから」
 さっきから何度も溜息をついている晴嵐に苦笑しながら、しかし鶫も内心は同じだった。
 あの味に舌が慣れてしまったら、庶民的な食べ物など口にできないだろう。
「それよりほら、あそこ、見えてきたよ。姉さんは来たことないんだっけ、鬼王神社」
「うん、初めて。本当にビルの間にあるんだね。……あれ、人が集まってるよ?」
 神社の前には数人ほどの人だかりができていた。といっても、集団で参拝に来たようには見えない。何やら話をしているような集団へ、ふたりは近づいていった。
「あのー……どうしたんですか?」
 その集団には、ふたりと同じぐらいの年齢に見える男女が多くいた。あとの数人も、それほど歳は変わらないだろう。晴嵐の声に何人かが反応し、話を中断して振り向いた。
「あんたらも、あれ、ネットで見て来たクチ?」
「ネット? ネットがどうかしたんですか?」
「んだ、違うのかよぉ。失礼しました〜ぁ」
 セルフレームの眼鏡をかけた太り気味の男が、慇懃な態度で頭を下げる。それに反応して前に出ようとした鶫を、男の言葉に思い当たるものがあった晴嵐が押し留め、集団から離れたところに引っ張っていく。
「どうしたの姉さん。あの失礼な男、ちょっと言い返してやらないと気が済まない」
「落ち着いてよ、つぐちゃん。さっきの人、ネットって言ってたよね。もしかしたら、宮小路さんの言ってた情報操作の効果が、もう出てるんじゃないかな?」
「……そういえば言ってたね。でも、こんなに早く効果があるものなの?」
「それは分からないけど、偶然ではないと思うよ。私たちも参拝とか見物のふりしながら、しばらく調査してようよ」
「そうだね、姉さんの言う通りだ。そうしよう」


  ×  ×  ×


 日も傾いてきた午後、宮小路邸、宮小路綾霞の執務室。
 綾霞はチャールズ&レイ・イームズのラウンジチェアに座り、日常の業務をこなしながら、部下からリアルタイムで入ってくる情報や報告をパソコンのモニタで確認していた。黒田議員の事件にだけ集中したいのが本心なのだが、自分の立場がそれを許してくれない。
 その時、テーブルの上に置いておいた携帯電話が遠慮がちな着信音を鳴らす。携帯電話といっても、綾霞のものは特別性だ。地球の裏側にいる彼女のファンから――無論彼らも綾霞に負けず劣らずのセレブである――24時間電話を受けられるようになっている。つまり小型の衛星電話なのだ。もっとも、こんな電話を持つようになったのは、綾霞の望むところではなかったのだが。
 ディスプレイに表示されていたのは、今日知り合ったばかりの、可愛らしい女子高生からのものだった。
「あのっ、もしもし、日高ですけど……」
「もしもし、宮小路です。どうしたのかしら、日高……晴嵐さん?」
 女子高生なら電話ぐらい慣れていそうなものだが、自分のような相手にかけるのは、やはり緊張するのだろうか。もしかしたら、どちらが電話するのか、姉妹の間でちょっとした議論があったのかもしれない。綾霞はくすりと笑ってしまった。
「ええと、神社の調査が終わったので、宮小路さんに報告しようと思ったんです」
「そう、じゃあお願いするわ。こちらもちょうど、議員の情報がある程度集まったところよ」
 パソコンのモニタに、メールの着信を示すウィンドウが開いている。マウスを操作し、その内容を確認しながら綾霞は言った。
「分かりやすいように少し資料を整理しなければいけないから、晴嵐さんのほうから先にお願いできるかしら?」
「はい。まずですね、神社に人が集まったりしていました。ネットを見たと言っている人が多かったので、宮小路さんの部下の人たちがうまくやってくれたんだと思います。足跡とかは、私たちじゃ素人だからよく分かりませんでした。一時間ぐらいはぶらぶらしてたんですけど、いきなりスーツを着た怖そうな人たちが3人ぐらいやってきて、見物客を追い出してました。私たちも目につかないように、すぐに退散してきたんです」
 晴嵐の報告を綾霞は頷きながら聞いていた。派遣した調査部の報告と一致する。
 足跡については既に調査済みだったからいいとして、ヤクザが出張ってきたというのはいい情報だった。調査部から報告がなかったのは、おそらく迅速に仕事を終えて撤収してしまったからだろう。
 これは目論見通り、今夜中に動いてくれるかもしれない。
「あ、ちょっと待って下さい。つぐちゃ……鶫が話したいことがあるって言ってます」
 数秒の無言の後、電話から違う少女の声が聞こえてきた。
「電話換わりました、日高鶫です。あの、実は根拠とか、そういうのがはっきりあるんじゃなんですけど、いいですか?」
 姉の晴嵐と比べて淡々とした口調をしていた鶫が、妙に歯切れ悪く喋る。
「いいわよ、言ってみて?」
「……感じたんです。というより、感じなかったんです。悪意の強い場所って、雲の動きがちょっとおかしくて、空を見ると何となく感じるんです。それが全然なかったので、話に出てきた鬼というのは、この事件には深く関わってないのかもしれません……」
「そう、わかったわ。ありがとう」
 自分の言っていることを信じてもらえるか、不安なのだろう。慎重に語る鶫を安心させるように、綾霞は穏やかな言葉をかけた。
「次はこちらの番ね。後で晴嵐さんにも伝えておいてくれる?」
 そう前置きしてから、綾霞は言葉を続ける。
「黒田議員がヤクザと繋がっている、という疑いは濃厚ね。彼の実家は地元じゃ有数の不動産屋で、元を辿ればそこからヤクザと関係があったらしいわ。しかも近々、議員の組に対する功績を称えて、秘密裏ながら議員を組の重要ポストに迎え入れようってことになっていたらしいの。その功績についてはよく分からなかったけど、麻薬や銃器の密輸入ってあたりが妥当でしょうね。議員は相当に豪胆な性格らしくて、自分で取引に臨んでいたそうよ。誰かに任せるよりも安全、というのもあるんでしょうけど」
「じゃあ、神社はやっぱり取引の場所に?」
「そうだと思うわ。それに最近、彼がとある電子機器メーカーに、匿名でおかしなものを発注しているのよ。鶫さん、なんだと思う?」
「え? 電子機器、ですか?」
「鈴なのよ。しかもただの鈴じゃないわ。スイッチを入れて振ると、“刀を打ち鳴らす音”がする鈴ということなの。どう考えても、日常で使うものではないわよね」
「刀を打ち鳴らす音がする鈴、ですか?」
「あっ、それってもしかして、鬼王神社の伝説じゃ……」
 電話の向こうから、晴嵐のものらしい声が聞こえる。すぐに鶫の声は離れ、換わって晴嵐の声が受話器から聞こえてきた。
「屋敷にあった鬼をかたどった手水鉢に斬りつけたら、家族が次々と病気になった、っていう話ですよね? あそこの神社にある手水鉢は元々は別のお屋敷にあって、そんな怖いことが起こったから、あそこの神社に預けたって聞いてます。神社に来てた人たちが話してました。……つぐちゃん、覚えてないの?」
「そういうこと。刀の音と鬼には繋がりがあったのね。これで議員がおかしな鈴を発注した理由も、何となくだけど想像がつくわ」
「宮小路さん、これからどうします?」
「議員のスケジュールはつかんであるわ、大丈夫」
 言いながら綾霞はマウスを操作し、隠れていたウィンドウを表示させる。それによれば、今日はヤクザとの面会が行われるはずの日だ。
「少し騒ぎ立てられたぐらいで臆するようじゃ、ヤクザに笑われると考えるでしょうね、豪胆さが自慢の議員ならば。だから今夜もきっと面会は行われるはずよ」
「それじゃ、昼間に話した通りでいいんですか? 隠れられそうな場所は見つけました」
「そうね、でもその前に……」
 綾霞は壁にかかっている時計を見た。夕日が差してきているとはいえ、議員が行動を起こすまでには、まだしばらく時間がかかるだろう。いつもより頭を使ったおかげで、程よく空腹も感じている。
「ディナーをご一緒にいかがかしら?」
 電話の向こうで、なぜか言い合っている声が聞こえてきた。


  ×  ×  ×


「どうしよう。もうコンビニなんか行けないな……」
 神社で最も大きな樹の枝に腰かけて、必要以上に満たしてしまったスレンダーなお腹を擦りながら、晴嵐は複雑な表情で呟いた。お腹が一杯になったぐらいで飛べなくなるとは思っていなかったが、飛び立つ瞬間に少し不安だったのは事実だ。
 日はとうに沈んで辺りは闇が包みこみ、月さえも雲が覆い隠している。大通りから外れたところにある神社までは、喧騒もあまり届いてこない。
 辺りが暗いせいでよく見えないが、鶫も境内の影に隠れているはずだった。
「本当に来るのかな。来なかったら碇さんになんて謝ればいいんだろう」
 何でも真面目に考えてしまうのは、晴嵐の長所でもあり、また短所でもある。
 晴嵐はぼんやりとした薄緑の光を放つ、夜光塗料の塗られた時計の針を手持ちぶさたに見つめていた。


「来た……あれかな?」
 黒い風景に溶け込むような黒い姿の男たちを見つけ、鶫はボイスレコーダーのスイッチを入れた。レコーダーは家から持ち出してきたものだが、最大5時間録音が売り文句として通販でも売られているものだから、途中で録音が切れる心配はしなくてもいいだろう。
 その男たちとは別の方向から、恰幅のいいスーツ姿の男が歩いてくる。手に提げている大きめのアタッシュケースが、境内のかすかな明かりに照らされて、鈍い光を反射している。
「あれが黒田議員だね。やっぱり来たのか」
 黒服の男たちと黒田議員は、近づいて一言二言挨拶をし、握手を交わす。
 その会話を聞き取ろうと、鶫は耳を澄ませた。
「誰だか知らんが、わしの邪魔をしようする輩がいてな。まあ警戒する必要もないのだが、今日のところは早めに取引を済ませてしまおう。話はまた次回でもできるだろう?」
「ハッ、ビビッちまったのか、黒田さん。邪魔ってのはさっき電話してきた、人が大勢うろついてるとか、そんなのだろ? さっさと例のものを使っちまえよ?」
「うむ。そうだな」
 黒田議員はスーツの胸ポケットから何か光る小さなものを取り出すと、指でそれを操作した。
 その途端、辺りに異質な音が響き渡る。
 ガィィィィイン―― ギィィィィイン――
 刀を硬いものに叩きつけるようなその音は、虫の声すらしない神社に一気に響き渡った。にも関わらず、その音を聞きつけて、人が集まってくるような気配もない。
「あれは……!?」
 黒田議員や黒服の男たちの視線を追って、鶫は目を疑った。
 神社の入り口付近にある、鬼をかたどった手水鉢から、何か黒い靄のようなものが滲み出ているのだ。その靄は勢いよく膨らんでいきながら、少しずつ異形をかたどっていく。手が生え、足が生え、そして頭が生え……。
 靄が胎動を止めたとき、そこには黒い鬼が姿を現していた。
 鬼に取り込まれなかった靄は神社を包み込み、周囲がさらに暗くなったように感じる。
「これが鬼の正体……。それに、この靄があったせいで、周りから見えなかったんだ」
 神社が漆黒に包まれていくのを満足そうに眺めていた黒田議員は、やがてアタッシュケースを持ち上げて、黒服たちに蓋を開いてみせた。鶫のいる位置から、その中身は見えなかったが、黒服たちの顔がにやついたことから、何となく想像はつく。
 決定的瞬間だ。
 綾霞に連絡を取ろうと携帯電話をつかんだ鶫の目の前で、白光が閃いた。


 シャッターを押すまで、晴嵐はそのことに気づかなかった。最近のデジタルカメラというやつは、どうして余計なことまでしてくれるんだろう。後悔しても罵倒しても、今更どうしようもない。
 カシャッというわずかな音と共に、フラッシュをたいてしまったのだ。
 樹下にいる男たちの視線が、一気に頭上へ集まるのが分かる。
「やだ、気づかれた!?」
 万一のためにと目立たない色の服を選んできたが、そんな用意も無駄になってしまったようだ。
 男たちのうち数人が、スーツの内側へ手を入れる。ブラウン管で頻繁に目にする光景に、晴嵐は素早く反応し、意識を集中して光の羽を広げながら枝から飛び降りた。聞きなれない爆音がしたかと思うと、銃弾に削られた木片がぱらぱらと頭の上に落ちてくる。
「なんであんなところに人がいやがんだ!? テメェら撃てッ、逃がすなよ!」
 リーダー格らしい男の声が飛ぶ。
 飛べるとはいえ空中では機敏な動きはできないし、何より神社にはまだ鶫が残っている。自分だけ逃げるわけにはいかない。そんな迷いが晴嵐の動きを鈍くした。
 黒服たちの銃から放たれた弾が体のすぐそばを掠め、集中を乱してしまう。
「きゃあっ!」
 本物の銃を前に戸惑ってしまっていた鶫だったが、姉の悲鳴で何かが切れた。
「姉さんっ!!」
 銀色へと変貌した髪を後ろになびかせ、神社の影から躍り出ると、晴嵐のほうへ意識の向いている黒服を、背後から一刀の下に切り伏せる。
 鶫の手に握られている得物は、日本刀の形をした、わずかに透き通った光の帯。鶫の動きに気づいた2人目の黒服に振り返る余裕すら与えず、右の脇腹から肩にかけてを逆袈裟に斬り上げる。さらにその回転の力を活かしたまま体を沈め、地面を蹴り3人目の脚を一文字に薙ぎ払った。
 残りは3人。だが、一足飛びで詰められる距離ではなかった。
「なんだ、この娘は。いきなり神社から出てきたが、まさかわしらのことを監視していたんじゃないだろうな?」
 自らも拳銃を取り出した黒田議員が、それを鶫に突きつけながら言う。
 晴嵐から注意を逸らすことには成功したが、今度は自分が追い詰められてしまった。さすがの鶫も、体捌きで弾丸を避けられる自信はない。小さく舌打ちをし、鶫は男たちの隙をうかがった。
「さっき空を飛んでった娘も逃がしちまったしよ、やべぇぜ黒田さん。あんた写真撮られたの気づいたろ? こいつ人質にすりゃあ、さっきの娘も戻ってくるかもしれねぇぜ。よく見りゃあほれ、かなりいい顔してんじゃねえか」
 下卑た笑いを浮かべ、リーダー格の男が拳銃を突きつけながら、一歩ずつ近づいてくる。


「あら。貴方みたいな人には、札束で脚を開いてくれる淫売のほうがお似合いよ?」
 突如としてくぐもった銃声が3発、境内に鳴り響く。
 次の瞬間には、男たちが握っていた拳銃は、あらぬ方向へ弾かれていた。
「鶫さん、晴嵐さん、今よ!」
 その声が聞こえると同時に、鶫は動いていた。地面を前転して体に勢いをつけ、肉食獣のように目の前の男に向かって飛びかかる。腹の中心に光刃を突き立てると、男は声にならない声を上げて前に倒れこんだ。
 次の標的をと視線を巡らせた鶫だったが、もうひとりの男は既にその場に倒れていた。男の頭の半分ほどはあろうかという岩が、その横に転がっていた。
 顔を上げてみれば、晴嵐が空に浮かんだまま、指でピースサインを出している。
「お、お前の顔は知っているぞ! 宮小路の女だな!」
 黒田議員と対峙している綾霞の顔は、いつも通りの余裕の表情だ。背後には黒いサングラス姿をかけた背の高い女が、5人ばかり付き添っている。綾霞自慢のSPチームだ。
「ええ、そうよ。ネタが割れてしまったら、手品も寂しいものですわね、黒田さん。そんな無粋なものは早く捨てて、この鬼さんを自由にしてあげなさいな」
 綾霞がほっそりとした顎をわずかに動かすと、SPのひとりが構えていた銃が火を噴き、黒田議員の手を貫いた。手に握られていた鈴が地面に落ちると同時に、もう一度銃声が響き、その鈴を粉々に砕いてしまう。
「全て貴方には不相応なことでしたのよ。ヤクザに取り入ろうとしたことも、鬼を文明の力で利用しようとしたこともね。さあ、行きましょうか。貴方を待っているのは住み慣れた豪邸ではなく、狭く冷たい留置場ですよ」
 鬼をかたどった靄が消散し、神社を覆っていた暗闇が晴れたとき、空には鋭い刀のような三日月が浮かんでいた。


  ×  ×  ×


「いいのよ、遠慮なんてしなくても。あなたたちはしっかり仕事してくれたんだから」
 昨日と同じ時刻、昨日と同じ部屋で、麗香は不思議そうな顔を日高姉妹に向けていた。黒田益高議員は、晴嵐の撮った写真と鶫の録音した会話を突きつけられ、現在は警察に勾留されている。議員と通じていたヤクザにも捜査の手が及んでいる、というのは現在この場にいない綾霞からの情報だ。
 バイト代を受け取りに来たふたりにお礼をしよう、ということで麗香は食事に誘ったのだが、なぜかふたりしてその誘いを丁寧に断ろうとする。
「いいんです、そこまでしてもらわなくても。お金は貰いましたし……」
「姉さんの言う通りです。時間も時間なので、私たちはこれで……」
「……なんか歯切れ悪くて怪しいわね。まぁ、いいわ。また何か頼むかもしれないから、そのときはよろしくお願いね」
 正午を示している時計を見て、煙草を潰しながら麗香は話を切り上げた。

「姉さん、時間に遅れるよ。急がないと」
「だから、って、私は、つぐちゃん、と、違って、走るの、得意じゃ、な、いの……」
 息の上がっている姉を心配そうに見つめる妹と、呼吸を全く乱していない妹を恨めしそうに見つめる姉。約束の時間は迫っていた。
「電話して遅れるって伝えておくよ」
 携帯を取り出した鶫に、晴嵐は素早く制止をかける。
「だめっ! 礼儀はしっかり守らないと……」
「おふたりさん、こんな日中からジョギングだなんて、若いって素晴らしいですわね?」
 場違いに細長い高級車から、聞き覚えのある凛とした声が聞こえてきた。内側が見えないようにコーティングされたガラス窓が開き、やはり場違いなほど高貴な佇まいの女性が顔を出す。
「けれど、息が上がるほど運動するというのは、淑女らしくないわ。さ、お乗りなさい?」
 運転席から出てきた、長身、金髪、美形と三拍子揃った、映画俳優と言われても信じてしまいそうな外人の運転手が、黒い扉を優雅な手つきで開けるのを、晴嵐と鶫はただ呆然と眺めていた。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)       ■
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[ 2335 / 宮小路・綾霞 / 女 / 43歳 / 財閥副総帥(陰陽師一族宗家当主)/主婦 ]
[ 5560 / 日高・晴嵐 / 女 / 18歳 / 高校生 ]
[ 5562 / 日高・鶫 / 女 / 18歳 / 高校生 ]




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■         ライター通信                 ■
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この度はご参加頂き、誠にありがとうございました。
また、納品が遅れてしまったことを深くお詫び申し上げます。
私にとって初めての募集でしたが、3人もの方にご参加頂けて、本当に嬉しく感じています。
これからも精進を重ねて参りますので、どうぞよろしくお願いいたします。
それでは、またのご縁がございますことを。