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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


二人は、



 あれは、ほんの少しの力で、女子供の力でも、容易く破れてしまいそうな、たった一枚の紙にすぎなかった。まるで半紙だ。まるで、あぶら取り紙だ。
 裏返すとき、折りたたむとき、へらへらへらと、情けない音を立てる紙。
 それは婚姻届。
 シュライン・エマは、今年の春に、それを初めて手に取った。初めて記入欄に名前を書いて、判をついた。
 てっきり婚姻届のインクの色は緑色だとばかり思っていたが、実際は地味な茶色だった。緑色は離婚届であるらしい。テレビや映画をはじめとしたメディアにでしゃばるのは大抵離婚届だ。そのイメージが定着してしまっていた。
茶色だった。
茶色。
さらさらと自分の名前を記していくペンは黒。
 自宅のパソコンの前で、たったひとりで記入欄の『片側』を埋めていく。
 あのひとりの夜を、インクの色を、シュライン・エマは忘れまい。


 入籍というものは、実にあっさりと終わってしまった。役所の職員が笑顔でふたりを祝福したり、クラッカーを鳴らしたり、歌を歌ってくれたりするものではないということはわかっていた。……わかっていたのだが、届け出るまでのすったもんだを思い返すと、やはり、不満が出るほど味気ないものだった。
 シュラインが記入欄を埋めたときよりも、少しばかりシワが増えた婚姻届。記入欄はペンの黒で埋まった。地味な画面の中の、朱色の捺印。どこか賑やかな一枚の紙切れ。無限の可能性が、その薄い頼りない紙切れの中に詰まっているらしいのだ。
 草間武彦とシュライン・エマは、平日の昼下がり、ふたりでそれを届け出た。
「呆気ないものね」
「ん?」
「……」
 シュラインの隣を歩く武彦は、自然体に見えた。シュラインは彼の顔を見る気にならない。どういうわけか、今日は――今は、あまり見たくないのだ。
 婚姻届の上では、自分の左隣にいた草間武彦。
 今も左隣を歩いている。
 今日は涼しい。風が煙草の匂いを運んでくる。武彦がまとう匂いだ。いつ歩き煙草を始めるかわかったものではないので、その点に関しては、シュラインは目を光らせている。
 ああ、自分は恥ずかしいのだろうか、とシュラインは思った。けれどなにも変わらない。
「昨日、興信所の電話代の請求書が届いたわ」
「払っといてくれたか?」
「払っておいたわよ。止められたら商売できないでしょ。でもこうして毎月請求書届くようじゃ、引き落としにしてる意味ないわね」
「口座に金入れとくほどの余裕がなあ……」
「経理のひとを雇う余裕も……ないわよねえ」
 この会話も、変わらない。
 興信所の帳簿の内容を思い出して、シュラインは空を仰ぎ、軽く嘆息した。空をたゆたう雲の流れは、いつものように呑気だった。東京の、灰色とカーキ色の、見慣れた空気の上にある。
 世間は動いていた。どこかのクラクションが鼓膜を焼いた。雑踏が皮膚をつつき、太陽が髪を温める。
 日本の景気は少しずつ上向いてきている、という話を、ふたりはここ数年聞きつづけていた。草間興信所はそんな経済の波に乗り遅れているらしい。いまだにバブルが弾けた直後のような有り様だった。
 そうだ、とシュラインはひらめいた。
 興信所から少し足を伸ばすが、街角にひっそりと佇む神社があるのだ。人々はおろか、東京の街からも忘れられているその神社が祀っているのは、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。俗に言う稲荷だ。
 伝承に関わることも多い職柄であるからか、単にわりとロマンチストであるためか、稲荷神社のご利益が商売繁盛であることを、シュラインはしっかり記憶している。
「こんな日だし、神社にお参りしに行きましょ」
「どこの神社だ? 明治神宮か?」
「近所のお稲荷さんよ。商売繁盛してほしいじゃない」
 に、とシュラインは微笑んだ。彼女の、少し吊った目が笑みを形作れば、どこかその顔はキツネのように――見えなくもない、かもしれない。
「……水天宮とか言い出さなくてよかった、のかもしれないけど、まあせめて明治神宮とか、いや夫婦円満なら神田明神か日枝神社だし、でもシュラインなら鬼子母神も雰囲気に合ってるかもしれないんだ……」
「……なにブツブツ言ってるのよ、武彦さん……」
「いや、『こんな日』に商売繁盛を願いに行くっていうのは――」
「旅行も兼ねて、伏見の総本山までお参りに行くのもいいかもね」
「おいおい、そんなにうちは切羽詰ってるのか?」
 愕然とした武彦の言葉に、シュラインは答えなかった。


 興信所から徒歩10分。普段なら、見向きもしない――それどころか、存在を忘れてさえもいる神社だ。ちいさな鳥居に、ちいさな社。古ぼけた一対の白狐像には、一種異様な迫力があった。
「こいつはボロいな。今までうちにこの神社絡みで依頼来なかったか?」
「来てないわ。……そんな、神社イコール怪奇現象なんて公式つくったらバチ当たるわよ」
「そうか。謝んないとな。祟られると困る」
「ちょっと!」
 シュラインが睨むと、武彦は大げさに肩をすくめた。口元にはうっすらとした笑み。神仏や魑魅魍魎と触れる機会が多い、現実的な男だ。あまり神を崇拝する気はないらしい。彼にとって、神と悪魔と幽霊は、身近なものだ。
 同時に、シュラインにとっても、と言えるのだが。
 むっとした顔のまま、シュラインは蜘蛛の巣が絡みついた鳥居をくぐり、白狐像の間を通る。武彦も大人しくそれにつづいてきた。
 空気は、ただそれだけで一変した。
 灰色の東京と、すぐそばの雑踏やエンジンの唸りは、遥か彼方に吹き飛ばされた。シュラインの聴覚を刺激するのは、葉と枝がずれる音、鳥の声、風の囁き、神と眷属の息吹だ。
 ――異界、なのね。ちいさな次元のずれ。日常の中の、ちょっとした非日常。そういうところよ。私たちは、そういうところに触れてきた。これからもずっと、私たちは異界と一緒なの。それはなにも変わらない。私がこの道を選んだんだから、変わりはしないの。武彦さんが望まなくても、『怪奇ノ類』は武彦さんに寄ってくる。ああ、……忘れるところだった。

 囁きが、はっきりとした音を持って、シュラインのそばを駆け巡った気がした。
 稲荷と、その眷属は言っている。

(さあ、行きなさい、生きなさい、いきなさい。おまえはもうひとりじゃない。おまえはずっとひとりじゃなかった。いっしょにずっと、いきなさい)

「賽銭箱、ないんだな……」
 草間武彦の声は、場違いなように響いた。
 街角の、社務所もないちいさな神社には、賽銭箱がなかった。傾いた木造の手水舎も、ただそこにかたちとして残っているだけで、どうやら機能していない。蛇口は真っ赤に錆び、蜘蛛の巣とカビと枯れ葉と虫の死骸で汚れていた。
「……もともとは、あったみたいね」
「罰当たりな奴が増えたんだろう。俺たちより貧乏な奴の仕業かもしれない。ま、昔から賽銭箱っていうのは、一度はひっくり返されるものだけどな」
「ああ……そうか。情けないわね」
「でも、鈴はあるな。社もある。……えーと……最初に手を打つんだったか……」
「二礼二拍一礼」
「ああ、それだ。さすが」
「『さすが』って……。こんなことだから、伝統は死んでいくのよね」
 ふたりは鈴を鳴らそうとしたが、いくら揺らしても鈴は沈黙していた。鈴も錆びていた。無音の中、ふたりは揃って頭を二度下げ、柏手を打った。


 とん、


「おッ……とと!」
「え、ちょっ……!?」


 出し抜けにバランスを崩した武彦が、シュラインもろとも倒れた。でこぼことした石畳に、ふたりは折り重なっていた。なんというお約束。なんというステロタイプ。なんという偶然。なんという――濃厚な煙草の匂い。
「なにするの、武彦さん!」
「すまん、なにかに足を蹴られて……いや足になにかぶつかっ……おおッ……!」
「キツネがぶつかってきたなんて言わないでしょうね!」
「キツネがぶつかってきた……」
「いたたたたッ、手! 手! 足! どいて!」
「おい、シュライン……! あれ見ろ! あれ!」
 武彦が馬乗りになった状態のまま、シュラインはなんとか首を動かし、武彦が指し示す方向を見た。
 そこには、キツネの輪郭が浮かび上がっていた。白い輪郭だ。鳥居の向こうの景色が透けて見える。キツネは一体や二体ではなかった。じっと武彦とシュラインを見つめて、あるいはくすくす笑って、ものによってはため息をついて――わらわらと、そこに佇んでいる。
 シュラインの耳がとらえる音は、もう、ただの枝ずれと風の音ではなかった。ひとつひとつに息吹があって、意志がある。
(わかっているんだろう、新米の女房さん)
(こんなところにお参りしないで)
(日枝の猿にでも会いに行きなよ)
(商売よりは、円満だろう)
(顔にちゃあんと書いてあるよ)
(お祈りにもちゃあんとあらわれてるよ)
(お金とお米なんかより、ほしいものがあるんだろ)
(ぼくらの主の出番じゃないやい)
 けくけくけく、とキツネたちは笑った。目には見えぬキツネたちは、笑いながら――消えていった。手水舎の後ろへ、木々の後ろへ、石の狐の影へと。

 ざああ、ざあ、
 ざざざざざざ。

 それは、ただの枝と葉がずれる音。風が気ままに通っていく音、鳥の声。
 キツネたちの声など、はなからここにはなかったのかもしれない。
 武彦が呆然としながら立ち上がり、鳥居のほうを向きながらシュラインに手を差し伸べた。
「……なんだ、なんだったんだ、一体……。なんにも言わないで行っちまったな」
「え、武彦さん、聞かなかったの?」
「なにを?」
 むなしく手を差し伸べたままの武彦は、ようやくシュラインに顔を向けた。「キツネにつままれたような」顔をしている。彼はなにも聞かず、なにも感じなかった。それが、草間武彦というものだろうか。
 シュラインは苦笑いしながら、武彦の手に助けを求め、立ち上がった。立ち上がるなり、彼女はちいさく悲鳴を上げてよろめいた。流れるようなすばやさで、武彦が彼女の身体を支えた。
 シュラインの靴のヒールが、取れてしまっていたのだ。
「ああ、もう。買ったばっかりだったのに! 安物はこれだから」
「祟りだ」
「だから、そういう考えはよくないの!」
「で、キツネはなんて言ってたんだ?」
「……」
 武彦はシュラインのすぐそばで笑っていた。
 シュラインは考えた。どう言うべきだろうか。日枝神社に行けと言われた、と素直に言うか。ただの空耳だったと、答えるか。どう答えるのが、草間武彦との時間を共有するものとして、適当だろうか――。
「……こんなところで油売ってないで、仕事しなさい、だって」
「はは」
 にっと笑って言ったシュラインに、武彦は声を上げて笑った。
「まるで、おまえの言葉そのものだ」


 今度は、ふたりで、日枝神社に行くとしよう。地下鉄に乗って、仕事の話でもしながら。
 伏見の稲荷大社に行ってもいいし、北海道の最果てにも、沖縄の暖かい海にでも、どこにでも行ける。どこまでも行きたい。
 武彦の腕にしがみついてけんけんをしながら、シュラインは仕事の話をしていた。
 そして、しがみつく手に、今日初めて指輪がはまっていることを意識した。薬指にはまったガーネットの指輪。ああ、こういうことかと、シュラインは思う。
 なにも意識することはないのだ。これからもずっと一緒だ。たった一枚の紙切れは、本当に、ただの紙切れでしかなかった。
 いつだって高鳴る胸は、そのうち、それが普通になっていく。きっとそれでいいのだろう。今日の夕食は、煙草くさい興信所で作って、みんなで食べることになる。それの、どんなに素晴らしく、どんなに普通であることか。どんなにそれを、シュライン・エマが望んでいることか。


 振り返っても、キツネの姿はどこにもなかった。




〈了〉