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<東京怪談ノベル(シングル)>


抱擁の温度 ──absolute ego──


■□■

 雨はもうすぐ上がるのだろう、遠い空までを覆い尽くした雨雲の灰色の、その切れる境目が見えるから──神澤慶子はうっすらと汗ばんだ冷たい額を手指でそっと覆い、貼り付いた前髪を静かに掻き上げた。
 境目の向こうの空は綺麗な明るい紫色をしていて、日が暮れかけていることを知らせている。空がそんな色合いに沈み始めれば、日没は早い。藍色の帳に空全体が包み込まれるのにはもう、間も無い。
 肚の底からふつふつとせり上げ、やがて咽喉に到達してしまえば自分は死んでしまうのではないだろうか。そんな不安と焦燥を綯い交ぜにしたような黒い渇望の、神澤はまだ名前を知らずにいた。

 それを知っては、多分、いけない。
 知ってしまっては、後戻りはきかなくなってしまう。
 
 無論、たとえ知らずに過ごしたとて、果たして『後戻り』ができるのかどうかと云えば、それはあやしい。既に起きてしまった過去を変えることはできないことは良く知っている。別れた亭主がつれていった息子とはもう会えないだろうし、外した指輪を付け直すことが別の意味になってしまうことも知っているし、恋人が高校を辞めて働きに出てしまったのが自分のせいだと云うことも知っている──無論、彼はそれを強く否定するのだろうが──。
 でも。
「…………、」
 寒い。体温が急激に下がり始めている。大丈夫ですかと頭上から声がしたので、壁に手を突いたまま顔色の悪い曖昧な笑顔でそれに応じた。大丈夫です。ただちょっと、
「──はい、大丈夫。ありがとう」
 云えない。心配そうにこちらを見下ろしているのは中学生か、それとも高校生くらいだろうか。快活そうな少年の表情が前髪に陰っているのが、なぜかとても眩しく感じられて目を細めた。早く消えて。眼前から、そして気配の届くところから。
「でも……」
 おろおろと掌を彷徨わせながら、神澤に触れて良いものかどうか少年は思案にくれている。
「・‥…──、いいから……」
 ──いなくなって。眼前から。
 そんな語尾をほのめかした神澤の、肩口からしなやかに零れた髪の隙間から彼女の顔を窺い見た少年は、つぎの瞬間、ひっ、と咽喉の奥で呼気を凍えさせ、そして、足早に去っていった。
 細めたままだった彼女の双眸が、鮮やかな緋色に煌めき、まばたきのたびに瞳孔を縮こまらせている。

□■□

 待ち合わせには、駅前の喫茶店を使ったのだった。
 どんな執着や気まぐれが、その男にあったのかは判らなかったが、家事以外には特にやることもない平穏な毎日に、神澤は男の誘いに乗ることにしてみた。
 退屈が嫌いだった。
 幸せを貪欲に求める気持ちと等しいくらいに、退屈を厭い、好奇心を先立たせる女だった。
 だから、互いに言葉少ななまま交した世間話のあとで、ふと男が漏らした言葉に、神澤は鋭利な笑みを崩さぬまま、僅かに目を細めて見せたのだった。
『君はいささか、安穏と云う名の微睡みの中に身を浸しすぎている様だ』
 それはつい最近まで奉職していた高校での元同僚で、その身に纏っている陰気さも、気怠さも、それでいて自尊心を何よりも尊ぶ姿勢そのものも、何もかもが神澤の知っているその同僚のものであったので、少し油断した。
『──幸福と云う言葉が、あなたの国の言葉で安穏と云う言葉に置き換えられるのだとしたら、確かにそうかもしれないわ』
『生憎、私は日本人なんだ、君と同じようにね。生まれながらにして自分が孕んでいる罪悪を君は自覚しているだろうか──ああ、君たちの云うところの、原罪とやらの話ではないよ』
 その手の──宗教や戦争の話題になると水を得た魚のように活き活きとしはじめ、己の知識や展望をひけらかしたがる、そう云った旨の話題かとも最初は思った。自分が破天荒な神学教師と認識されることは1度や2度ではなかったし、そういう神澤と実際に神学について議論をせんとする論客もいないわけではなかったからだ。
 ただ、そんな話をするためだけに、退職した自分のもとへ男が出向いて来るわけはないとも思った。
『ねえ、教師を辞めた今だから云うけれど──私、別にキリストのことなんかちっとも信じちゃいないのよ。教会にも通っていないし、自分の洗礼名だって忘れてしまったわ』
『そう? 君の服の合わせの中から、忌まわしい香りが随分と色濃く漂っているけれど』
 おろしたばかりの、春物のシャツだった。綿素材の白で、細かな絞り皺が小さなレースのようにも見える。
 薄い生地だが、首からさげたロザリオが透けてみえるほどのものではない。
 目に留まる筈のないもの、香るはずのないものを男は見、そして香る。
 ただのプラチナ製の十字を男は差して、忌まわしい、と曰う。
『──出ようか。そろそろ、日が落ちる』

 首筋にかかった男の吐息の感触を、今でもありありと覚えている。
 振り向きしな、男は思い出したような手軽さで神澤の髪を首後ろに掴み、露出させた首筋に己の歯先を宛てがったのだった。
 柔らかな肌に立てられた硬質の痛みより、髪を引かれる痛みのほうが強かった。白いシャツがべったりと濡れる感触がして、それが自分の血のせいだと気付いたのは意識がかなり朦朧としてしまってからのことだった。
 ──その身に余るほどの祝福と呪いを、君に。
 濡れた男の口唇がそう神澤の耳元で囁いたとき、彼女の意識は混沌の中へと落ちていった。
 
■□■

 見えるわけのない空の境目や、今なお首筋に残された鈍痛が、つい先だっての男との邂逅が現実のものなのだと神澤に教え続けている。
 そんなわけはないと理性が云う。
 現実を受け入れなくてはならないと、また別の理性が云う。
 もう後には戻れないことを自覚しろ。
 好奇心が殺した猫は、もう2度と生き返ることはないのだと。
「……嘘、よ」
 あの少年はなぜ自分の目を見て、一目散に駆けて逃げていったのか。
 薄闇が支配し始めるこの時刻に、いつもより鮮明な景色が目の前に広がっているのはなぜか。
 非道く咽喉が渇く。焦燥にも似たこの飢餓感は何か。
「……──見てるんでしょう」
 咽喉が、渇く。
「感じるのよあなたの視線。わざと判る所にいるんでしょう?『あのとき』だってそうだったんでしょう? そうやって人のことを覗き見して、自分勝手な解釈をして──私があなたに傅くとでも思っているの?」
 気配は何も応えなかった。
 紅色に染まった肩口が風に冷やされたが、悪寒はなかった。
 自分の体温の方が、風になぶられる血の乾きよりも低いことを、今の彼女は知っている。
 非道く、咽喉が、渇く。
「応えなさいよ……ッ、──応えてよ……」
 自分をきつく抱擁し、首筋に歯を当てた男の体温は、それまで感じたどんな男の体温よりも冷たくて、彼女の背筋を戦慄させた。
 激情。
 愛情。
 欲情。
 怨情。
 そのどれが孕む温度よりも、凍てついていた。

 男は、何ひとつも、自分に対しての感情を持ち合わせていないのだと感じた。
 もしも何かしらの感情のベクトルが向けられているとしたら、それはただ、興味、と呼ばれる程度のものに過ぎないのだろうと思った。真夏の炎天下、ふと足を止めてアスファルトの上の蟻を見つめる行為とそれは似ている。そこには好意も敵意も介入しない。待ち合わせをしている相手が現れれば、数瞬の後には存在さえ忘れられてしまう程度の意識だ。携帯電話が鳴れば、ポケットをまさぐる間に知らず踏みつぶしてしまうかもしれない。
 その程度の意識で、その程度の、興味。
 そんな思いを男の体温に予感し、その予感が男の気配で確信に至る。
 女としての深い部分が──本能的な『雌』の部分が、自覚していた以上に擦り切れいくのを神澤は感じていた。そんな摩耗が、苛立ちと云う名の激情を押し流していく。
 後に残ったものを、神澤は正視せぬわけにはいかなかった。

 自分はあの男に、捨てられるのだろう。
 女としてではなく、眷族──『親』に抱擁を受けた、新しいヴァンパイアとして。

 そうだ。
 あの男は、自分と云う存在を根本から覆しに、自分の前へと現れたのだ。

「・‥…──もう、良いわ」
 闇の中で溶け、じっと自分を見つめている『気配』に向けて、神澤が呟く。
「私は、傅かない。あなたを求めることもしない。──自分のことは自分でできるもの、だからもう」
 2度とその気配を、私に感じさせないで。

 やがて、ふとかき消えた男の気配と入れ違いに、いまだ冷たさを残す夜の風が神澤の頬を掠めた。
 ──いかなくては。いつしか涙に濡れていた頬をぐっと手の甲で拭ってから、ゆっくりと立ち上がり、歩を進める。
 恋人の体温がひどく恋しいと思った。夜の景色は絶望的なまでに眩しくて、後戻りのきかない道を歩み始めてしまったのだと神澤に強く自覚させる。

(了)


──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【6448/神澤・慶子(かんざわ・けいこ)/女性/27歳/夜間学校講師・ヴァンパイア】