コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談・PCゲームノベル>


蝶の慟哭〜鼓動の山〜


●序

 聴こえる鼓動は、見に秘めたる躍動か。それとも隠したる慟哭か。


 秋滋野高校という、極々ありふれた高校がぽつりと郊外にある。校則は厳しくなく、それでもある程度の節度を持っている。至極普通の高校である。
 しかしながら、この高校には特殊なものが多数存在していた。その中でも、通常黄色のイチョウの葉がこの高校にある一本は薄紅色をしている事や、山からの湧き水を一部の飲料水として用いている事は、それなりに有名である。
 そんな折、秋滋野高校の生徒たちは、度々不思議な音を耳にするようになっていた。否、生徒たちだけではない。教員や近くに住む地域住人の耳にも聞こえてきていたのだ。
 山から、ドゥン、という空気を震わす音が。
 教師達は「今、調査をするように求めているから、なるべく山には近付かないように」と生徒たちに指導をした。何が起こるか分からないため、危険の原因を少しでも孕んだものには触れさせないようにした方が良い、という見解である。卑しい話だが、学校の責任だと追及されると大変に困るからだ。
 しかし、その原因を突き止めようと何人かの生徒が面白半分に足を踏み入れた。好奇心旺盛な高校生というものは、何処にでもいるものである。
 そして、彼らは帰ってこなかった。たった一人を除いて。
「……ははは……はは」
 唯一の帰還者である彼は、ただただ笑っていた。目を虚ろにし、口元をだらしなく開き、何度も何度も笑いを繰り返す。
 まるで狂人のように。
 警察や彼と一緒に山に入って帰ってこなかった者の親たちは、必死になって彼に何度も尋ねた。
 他の生徒の所在と、山で何があったのかを。
 すると、彼は何度も繰り返すだけなのだ。虚ろな目をした笑いだけを。他の者の生死も分からず、山での出来事も何一つ分からない。
 警察は彼に問いただすのをやめ、すぐに山の中へと入っていった。他の者の救出と、山の中での出来事を知るために。
 そうして、誰も帰って来ることは無かった。


●動

 葉に侵食されしは、歪みし思いの成れの果て。糧となりし、力の姿。


 蒼王・海浬(そうおう かいり)は、アトラス編集部でため息を一つついた。
「また、秋滋野高校か」
「そう。また、秋滋野高校よ」
 碇は苦笑混じりにそう言い、海浬の前にコーヒーを差し出す。海浬はそれを受け取り、口へと持っていく。そっと口に含むと、口いっぱいに独特の苦味が広がっていく。
「これまでに、あの高校では二つ奇妙な事件があったでしょう?どちらも、うち向けの事件ね」
「赤いイチョウの葉と、水への執着か」
「ええ。イチョウは相変わらず赤いままだけど、水への執着はなくなったわ」
 碇の言葉に、海浬は頷く。前者は負の感情を受け取る器の役目を持っているイチョウの葉を使ったおまじないという名の呪に関わった、秋滋野高校の女生徒が起こした奇妙な自殺。後者は秋滋野高校裏山に湧き出る水に異様なまでに執着し、湧き水を飲まない者を攻撃するというものだ。
 いずれの事件に共通するのは、秋滋野高校で起こるという事と、事件の取材に訪れて根本に触れた時に見える、虚ろな目の存在。
 イチョウの木に触れた時は少女を、湧き水に触れた時には少年を見たのだ。
(イチョウは力の糧となると言い、水には力の流れ出させる為の蓋があると言っていたな)
 海浬は今までのことを思い出す。最終的な目的は、いずれも出されていない。根本にあるのが同じものだとして、彼らが一体何をしたいのかが掴めずにいるのだ。
「今回起こったのは、行方不明だったな」
「ええ。数日前から奇妙な音が響いていたらしくて、その原因を掴もうと山に入り込んだみたいね」
「そして、一人しか帰ってこなかった」
 こくり、と碇は頷く。その事に関しては、新聞やテレビのニュースが取り上げていたので、海浬もある程度の事は知っている。
「一連の事には、必ず共通事項があるはずよ。そして、それはきっとあなたじゃないと分からないわ」
「確かに、ずっと追っているからな」
 海浬はそう言うと、すっと立ち上がる。
「ついでに、解決しちゃってもいいわよ?」
 碇が冗談めかして言うと、海浬は口元だけで微笑む。
「都合にあうようならな」
 海浬の言葉に、碇はくすくすと笑いながら資料を手渡す。
「おおよその事は纏めてあるわ。他に知りたいことがあれば、電話ででも聞いてちょうだい」
「分かった」
 海浬がそう言って頷き、くるりと背を向けると後ろから「ネタを、しっかり入手してきてね」という碇の声が追ってきた。
 海浬はそれに手だけで答え、アトラス編集部を後にした。まっすぐに、秋滋野高校へと向かうために。


 秋滋野高校は、前に来た時と特に変わった様子も無くたっていた。あえて違っているのだとすれば、マスコミの存在であった。
 高校生が山に入り、帰ってこなくなった。一人だけ帰ってきた生徒は、気がふれている。その他機動隊などが山の捜索に入ったまま、帰らない。
 そのような状況は、マスコミにはうってつけの話題だ。謎がたくさんあればあるほど、マスコミの目は広がっていく。
 数日前から山に不思議な音が響いていた事まで、きっちり取材をしているのである。
(さすが、というべきか)
 海浬は、妙に賑わっているその様子を見て苦笑する。そんな中、一人のリポーターがマイクを握りしめカメラに向かって喋り始めた。
「こちらは、問題の高校です。現在、高校は休校という措置を取っているそうです」
 それはそうだろう、と海浬は頷く。このようにマスコミがたくさんいる状態で、学校を通常運営できるとは思えない。生徒達は降って湧いた休みに、喜んでいるかもしれない。勿論、行方不明の生徒達の事が気がかりとなっているだろうが。
「しかし、一人だけ帰ってきたという生徒は、未だ学校に残っております。本人が学校から離れるのを酷く拒否し、無理にでも出そうとしたものの体調の劇的変化があったからといわれております」
(劇的変化?)
 初耳だった。碇の調べたファイルにも載っていない。海浬が詳しく知りたいと思っていると、どうやらリポーターが話しているスタジオからその質問が出てきたらしい。リポーターは一つ頷き、再び口を開く。
「はい。最初に帰還した時、病院に連れて行こうとしたですが、その途端白目をむいて痙攣を起こしたそうです。原因はまだ分かっておらず、医者が保健室で様子を見ている状態となっております」
(学校から、離れたくないのか?)
 海浬が考えていると、リポーターは「以上、現場からでした」と伝えてリポートを終えていた。
「帰還した生徒に、直接会えればいいのだが」
 海浬がそう小さく呟き、校内を覗き込む。すると、視界の端に見知った顔が映る。
 玉城だ。
 前回、取材に来た時に様々な情報を与えてもらった教師である。
 玉城は身振り手振りで、通用口の方を指差した。
(そちらに行けという事か?)
 海浬は玉城に向かって頷き、通用口へと向かう。関係者でもあまり通らない、いつもは鍵がきっちりかかっている通用口へと。


●再

 あと少しと囁きし、蓋は流出をも留めぬ。


 通用口で、玉城が海浬を待ってくれていた。
「蒼王さん、こちらです」
 玉城はそう言い、辺りにマスコミがいないことを確認してから海浬を中に入れてくれた。海浬は戸をくぐって入り、玉城に軽く礼をする。
「助かった、すまないな」
「いえいえ」
 海浬は玉城を見、口を開く。
「山から唯一帰還したものが、学校内にいると聞いたのだが」
「ええ。保健室で、休んでいますが」
 玉城は少しだけ言い淀み、また気を取り直すように言葉を続ける。
「ただ、正気とは思えません」
「会えるだろうか?」
 海浬の言葉に、玉城ははっとしたような顔をする。
「正気ではないんですよ?」
「構わない。会うだけ会わせてもらえないだろうか?」
 その申し出に玉城は少しだけ考えてから、一つため息をついてから苦笑交じりに口を開いた。
「分かりました。……どうぞ、こちらへ」
 玉城はそう言い、先導し始める。海浬はそっと頷き、玉城の後ろをついていく。
「山に入っていったのは、うちの生徒4人です。その内、彼だけが山に通じる裏門で倒れているのをあくる日に発見したんです」
「その時の様子は?」
「彼は、倒れたままぶつぶつと何かを呟いていました。私たち教員はひとまず保健室に彼を運び込み、救急車を呼びました。そしていざ担架に乗せて病院に搬送しようとした瞬間、彼は叫び声を上げ、白目を向いてその場に倒れました痙攣を起こしました」
「搬送をやめたのか?」
「はい。動かす事は得策ではないと判断し、とりあえず保健室で様子を見ると決めた途端、彼の様態が安定しました」
 海浬は「なるほど」と呟き、考え込む。
 学校から離れると分かればまさしく全身全霊で拒否をし、それが無くなったと分かると落ち着く。
 離れたくないという、強固な意志が見えるようだ。
「それで、彼は一体何をぶつぶつと呟いていたんだ?」
「フカ、と」
「フカ?」
「ええ。何かと尋ねても、決して彼は答えませんでした。ずっと、フカ、フカ、と」
(柔らかいといいたい訳ではないだろうに)
 海浬は思わず苦笑をもらす。
 そう言っている間に、保健室に辿り着く。玉城は「どうぞ」といい、ドアの前からどいた。海浬は頷き、ドアを開ける。
 保健室の中にはベッドが一つ、ぽつりと置いてあった。そこに一人の男子生徒が寝ており、傍らに親らしい夫婦が寄り添っていた。
「突然ですまないが、ちょっとだけいいだろうか?」
「構いませんが、あなたは……?」
 怪訝そうな顔で尋ねる母親に、玉城が顔をのぞかせる。
「その方は、この学校に正当な取材をされている月刊アトラスの方です。大丈夫、外にいるようなマスコミとは違います」
 玉城の言葉に、母親は渋々という感じで頷いた。海浬は軽く礼をし、男子生徒の傍による。
(記憶を、見せてもらおうか)
 海浬は心の中で呟き、そっと手を頭に当てる。意識を集中し、眠っている彼の記憶を探る。

 彼は、数日前から山から聞こえる妙な音を聞いていた。すぐに収まるかと思われたその音は、ずっと続いているままだ。そんなある日、彼の友人の一人が彼を含む友達に誘いをかけた。
「山に入ってみないか?」と。
 学校から山に入らないようにという注意は言っていたが、それ以上に膨らんでしまった好奇心を抑える事はできなかった。彼は友達と夜中にこっそり山へと言ってみる事にしてしまったのである。
 山に入り、音のする方へと進んでいく。近づくにつれ、空気を震わせる音は大きくなっていく。一定のリズムで鳴り続ける、奇妙な音が。
 そうして、彼らは辿り着く。音の根源ともなっているであろう洞穴に。中が真っ暗で見えない状況であるため、流石の彼らもしり込みをした。
「ここまで来て、確かめないのかよ?」
 勇気ある友人の一人がそう言い、他の友人達も頷いた。ここまで来ておいて、結局何も分からずに帰るというのが勿体無いような気がしたのだろう。
 洞穴に一人ずつ足を踏み入れていく。彼は、最後に足を踏み入れた。洞穴の中はむっとするような暑さがあり、じっとしていると汗が浮かんでくるようだ。
 まっすぐの一本道を、懐中電灯だけで進む。そして、一番前を歩いていた友人がぴたりと足を止めた。
「こ、これは……」
 声を震わせる彼に、後ろに続く友人達は口々に安否を気遣う言葉が投げ交わされる。だが、そのような言葉も聞こえていないように友人は突っ立ったまま。そして、突如走り出した。前へと向かって。
 後に続いていた二人の友人はそれを追いかけたが、彼は追いかけなかった。耳の奥に響いてくる音に、半ば気が狂いそうになっていたのだ。
 ごくりと喉を鳴らし、ゆっくりと後ろへと下がる。じゃり、という土の触感が、自分をなんとか正気に保つ事をさせていた。
「この山に入りしは、力の元か」
 突如聞こえた幼い声に、彼は振り返る。後ろに、いつの間にか少女が立っていた。虚ろな目をし、くつくつと笑っている。
(これは、イチョウを植えていた少女)
「汝が力を、我らに与えよ」
 慌てて前を向くと、今度は少年が立っていた。同じく、虚ろな目をしている。
(これは、水に触れていた少年)
 彼は突然の出来事に叫び声を上げ、一目散に出口へと走り抜ける。既に、頭の中に友人達のことは無い。
 恐怖だけが支配し、死にたくないという切なる願いで一杯になる。
 音だけが追いかけてきて、彼の頭に入り込む。外に出た瞬間、少年と少女の声が重なって聞こえる。
「もうすぐフカと、伝えよ」
 彼はそれを聞き、笑い出した。体の中を流れている心臓が、山の音と重なっているような気がしてならない。
 事実、そうであったのかもしれない。

 海浬はそっと、手を離す。ベッドの上に寝る彼は、虚ろな目のまま横になっている。ぶつぶつと「フカ」と言っている。
 伝えよ、といわれたその言葉を。
(結局、原因となる大元を彼は見ていないのだ)
 海浬は納得する。だからこそ、彼だけが帰ってこられたのだ。他の友人達は、音の大元を見てしまったがために、戻ってこられない。
 ただ、それだけの違いなのだ。
(山に行き、その大元を見る必要がありそうだ)
 海浬はそう判断し、両親と玉城に軽く礼をして保健室を出る。
「どうされるんですか?」
 玉城が海浬に尋ねてきた。海浬は少しだけ考えてから、そっと口を開く。
「何事が起きているかを、今一度確認する」
「そうですか」
「色々と、手助けしてくれて助かった」
 海浬はそう言い、今度は裏門へと向かっていく。山に通じる、もう一つの門へと。
 行く途中、ひらりとイチョウの葉が舞ってきた。
「これは……」
 イチョウの葉は、黄金色となっていた。


●蝶

 山から聞こえる慟哭は、更なる叫びをあげる為。


 海浬は山を登っていく。途中、以前訪れた湧き水の水源地を通った。だが、今はそこに立ち寄っている場合ではない。
(大元を確認しなければ、助かる)
 自我が崩壊したような状態になるとしても、学校から離れる事のできない状態になってしまったとしても。
(だが、大元を確認したらどうなる?)
 帰ってこない、という事は分かっている。ならば、帰ってこない状態が実際にはどういう事になっているのだろうか。
 解決策の一つとして、山に関わらないという事がある。山全体に響くようなこの奇妙な音さえ無視する事ができれば、今までと変わらぬ日々を送る事ができるだろう。
 しかし、この音がいつまでも響くとは到底思わなかった。
 最初に来た時に薄紅で、赤く染まり、今は黄金色に戻っていたイチョウ。
 水に執着する事による力を貯め、水深にある蓋を開けようとしていた存在。
 それらが意図するものがこの山にあるというのならば、このまま放っておく事が得策だとはどうしても思えなかった。これによって何が起こるのかはわからないが、少なくとも何かが起こるということは決まっていることのように思えた。
(両社に共通していたのは、力だ)
 イチョウも、水も。どちらも人の力を得ようとした事によって生じたものであり、今は得ようとする事を止めてしまっているようにも思えた。
(力を得る事は、もういらないという事だ。少なくとも、イチョウや水を媒体として得るということは)
 帰還した生徒の意識を探った時に現れた少年と少女は、彼に「力を与えよ」と言っていた。力としては得たいのかもしれぬ。
 そして、帰還していない者達が力として得られたのかもしれない。
(そこまで力をため、何がしたい?)
 気にかかるのは、生徒が言っていた「フカ」だ。一体何をさしているのか、すぐには浮かんでこない。
 心臓に重なるかのような音、そして「フカ」という言葉。
(そこに何がある?これから多大な被害をもたらすものになり得るのか?)
 もしそうであれば、解決しなければならぬと海浬は考えている。第一の目的である「日と探し」を阻む存在になりえぬというのならば、放置するのが一番良いからだ。音など、放っておいても構わぬ。
 だがしかし、海浬は山に来ていた。被害をもたらすかどうかの判断が、いまいちつかなかったからだ。
「……ここか」
 海浬の目の前に、洞穴が広がっていた。件の生徒達が足を踏み入れた洞穴だ。海浬は注意を払いつつ、その中に足を踏み入れようとする。洞穴の中から、むっとするような湿度の高い、生暖かな風が流れてくる。
「既に、力は足りている」
 突如した声に、海浬は振り返る。見れば、虚ろな目をした少年と少女が立っている。今までの記憶の中で見てきた、実際には会うのが初めてとなる少年と少女。
(何者だ?)
 気配から、彼らが人ではないということは分かったが、それだけだった。彼らは海浬を見、くつくつと笑う。
「フカに必要な力は、既にある」
「後は完全なフカを見届けるのみ」
「フカ、とは何だ?そしてそれが起こればどうなる?」
 少年と少女は顔を見合わせ、同時に口を開く。
「フカとは、我らが神の思し召し」
「神?」
「汚濁した世を立て直すため、作り直すため」
「神は我らの願いに答え、再び姿を現さん」
 ぞくり、と背筋が震えた。
 海浬の背に在る洞穴から、神のような聖なる気配は全くしていない。むしろ、単なる力の塊というようなものの力しか。
 ただ、それだけしか。
「これを、神というのか」
 海浬の問いに、彼らは答えない。虚ろな目のまま、ただ微笑んでいる。
「こんなものを、神というのか」
 やはり、彼らは答えない。ただただ海浬の後ろにある洞穴を見ているだけだ。
「もうすぐ、生まれる」
 彼らの言葉に、ようやく海浬ははっとする。
 心臓に重なる音、フカ、そして生まれる。
「……孵化」
 海浬は呟き、彼らを見つめる。彼らは海浬ではなく、後ろの洞穴をじっと見つめている。
「そうか、孵化。神の孵化をやろうとしていたのだな?」
 神というには、あまりにもおざなりな存在ではあるかもしれないが。
「……ならば、捨て置くわけにもいかない」
 海浬はそう言い、手を掲げる。すると、その手に弓が現れた。太陽の光と炎で出来た、黄金の弓だ。
 どおぉんっ!
 今までの中で一層強い音が響いた瞬間、山が割れた。洞穴の奥から勢いの良い風が吹き、海浬は思わず身を守る。
 そうして、現れたのは蝶だった。
 巨大な蝶だ。羽を広げた大きさは、10メートルくらいはあろうか。きらきらと光るリンプンを撒き散らし、悠然と空を舞い始めた。
「醜悪な神だ」
 ぽつりと海浬は呟き、矢を引く。ぎりぎりと弓がきしむ。
「お前のような存在が、神として名乗り、世界を作り直す力など、持ってはならない」
 海浬はそう言い、矢を放つ。矢はまっすぐに、蝶へと向かっていく。
 少年と少女がそれを見て、慌てて地を蹴って蝶の元へと向かう。そして矢の前に両手を広げて阻もうとするが、矢は彼らの胸を貫く。だがしかし、勢いは衰えることなく蝶へと向かっていった。
「世界は汚濁に満ちている」
 ぽつり、と落ちながら少女が呟く。
「汚濁に満ちた世界は滅ぶべき」
 ぽつり、と落ちながら少年が呟く。
 彼らは落ちる寸前に両手を繋ぎ、抱き合い、そしてふっと空気中に溶けてしまった。
「ぐおおおおお!」
 強大な咆哮が空を覆った。見れば、海浬の放った矢が蝶に命中していた。蝶の身体を貫き、空に留めている。
「世界は、お前がどうこうする立場ではない」
 海浬がそう言った瞬間、再び蝶は咆哮し、そして空気中に溶けていった。後には、リンプンがきらきらと光りながら地上へと舞い降りていくだけだ。
(あれらから、意思など感じなかった)
 少年にも、少女にも、蝶にも。いずれの存在からも、意識の欠片は見られることは無かった。全て虚ろで、ただ力を享受していただけだ。
 ただただ、力を。
 海浬はしばらくリンプンの舞う空を見つめていたが、やがてため息を一つついてその場を後にし始めた。
 目的はまだ、費えてはいないから。


●結

 全てが終わる。終わり、終わりて……また元の通りとなる。


 アトラス編集部に再び訪れた海浬に、最初と同じくコーヒーが出された。編集部の片隅でずっとコーヒーメーカーに入っていたらしい、苦味の強いコーヒーが。
「それで、改めて取材に行ったの?」
 碇が自らのマグカップにミルクを入れながら、海浬に尋ねる。海浬は「ああ」と頷き、コーヒーを口元に運ぶ。苦味の強さに、思わず眉間に皺が寄る。
 あの後、海浬は玉城に後日改めて取材に訪れる事を約束し、秋滋野高校を後にした。そして、約束通りに取材を行ってきたのである。
 結局、行方不明となっていた人々が帰ってくることは無かった。死体すらも見つからず、神隠しにあってしまったのだろうと噂された。
(おそらく、あのおぞましい神の孵化に使われたのだろう)
 推測の域を過ぎないが、海浬はそう考えた。
 そして、ただ一人生還した生徒は、海浬が蝶を射た時にはっと正気に戻ったらしい。だが、何一つとして記憶していなかった。友人の事ですら。
(あの蝶に関わった部分だけ、すっぽりと抜け落ちているようだった)
 消滅、という手段をとった為に生じた事かもしれない。本来ならばあまり手を出したくない事ではあったが、あの場合は仕方が無かっただろうと海浬は判断している。
「これで、元通りになった、って所かしら?」
「どうだろうか。もう、あの山に神はいなくなった。以前は密やかに息づいていたはずの、それがいなくなった」
 依然いたものがいなくなるのならば、それは変化ともいえよう。誰も気付かない、闇なる部分での変化と。
 海浬はコーヒーの入ったマグカップを机に置き、じっと見つめる。真っ黒な液体が、ゆらりゆらりと表面を波立たせている。
『ぐおおおお!』
 耳の奥で、蝶の咆哮が聞こえた気がした。今は聞こえぬはずの、慟哭のように。

<二度と聞こえぬ鼓動を思い・了>


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【 4345 / 蒼王・海浬 / 男 / 25 / マネージャー 来訪者 】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
 お待たせしました、コニチハ。霜月玲守です。この度はゲームノベル「蝶の慟哭〜鼓動の山〜」にご参加いただき、有難う御座いました。
 前回の「水深の蓋」でのヒント、分かりましたでしょうか?正解は、取材の時に話を聞いた三人の母親と今回も出ている教師の名前を繋ぎ合わせたものです。教師の玉城、母親の後藤と野田と深沢。それぞれの漢字の頭を繋げると「玉後野深」となり、音読みをすれば「たまごのふか」となります。つまり「卵の孵化」と。分かりにくくてすいません。
 「蝶の慟哭」全三話、最後までお付き合いくださいまして本当に有難うございました。少しでも楽しんでいただけましたら、嬉しいです。
 ご意見・ご感想等、心よりお待ちしております。それではまたお会いできるその時迄。