コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


漆黒の飛翔

 鴉は都市に棲む鳥である。
 それではまだ、人が都市というものを持たぬ頃は、鴉はどうしていたのだろうか。
 それを知るすべはないけれど、生きるものすべてがそうであるように、ただ長らえるべく、喰っていたのだろう。
 生きるものは何かを喰わねばならぬ。
 だから都市に棲む鴉たちは、ゴミを散らかし、小鳥を脅かし、時には人の頭上をかすめてさえ、この人間たちの築いた石と金属の森を、縦横に飛び回って餌を探しているのである。
 そうこうしているうちに、鴉はどこかで、ひと粒の石を呑み込んだ。
 あるいはそれは、まだ都市というものが築かれていない時代のことだったかもしれない。
 だがそのときの鴉は、その仔細な経緯をとどめておけるほどの記憶を支える知性を備えていなかった。
 鳥類の中ではもっとも賢いとされる鴉であったけれども、ただ日々を、喰うことだけで過ごしていたのである。
 しかし、呑み込まれた石は、鴉の中で脈打つように昏い光を放ち始めていた。
 そして鴉はそれと知らぬ間に――、ただ内なる餓えの命じるままに、喰うことだけを続けていたのだ。
 永い永い月日が流れた。
 人の都市は、どんどん様変わりしていったけれど、鴉は変わらず、黒い翼でその建物のあいだを飛び回り、餌をもとめていた。
 本来なら、とうに老い、死して、朽ちていなければならないはずの歳月を越えて、なおも鴉が生きていることに、当人を含めて気づくものも、注意を払うものもいなかった。
 ただ、体内の石だけが、低く含み笑いをするように、人知れず明滅を繰り返していたのだった。

  † † †

 ばさり――、と。
 鴉は舞い降りる。
 それは路傍に集積しているゴミの山だ。
 路地裏の、ビルとビルの狭間に、ビストロの調理人が残飯を捨てる場所がある。
 鴉は誰よりもはやくそれを察して、黒い翼で舞い降りてくる。
 まれに、野良猫に先んじられることもあるが、かれが降りてくると、向こうは怖れをなして逃げていってしまう。
 そしてかれは、悠々と、黒い嘴で、餌をつつくのである。
(……)
 ふいに、丸い瞳が、路地の奥へと視線を投げた。
「…………く、そ……」
 低い、人の声。
 暗がりの中に、男がひとり、倒れている。
 まだ若い男だ。身なりからして、かれが残飯を得ているビストロで食事をするような層のものではない。このへんの裏町をほっつきあるく、素行のよくない若者のひとりと知れた。
 男は……その腹から、ナイフの柄をはやしている。
 シャツを染める赤黒い、血。
 なま暖かい血液は、ねっとりと流れてゆき、徐々に地面を染めてゆく。
 鴉はじっと、その様を眺めている。
「畜――生……」
 男は呻いた。
 誰の目にも、男が死に瀕していることはあきらかだった。
「…………俺……は……」
 男は憤っていた。その死の瞬間を、おそらくは、彼の命を奪った相手にであろうか、最後の怨嗟と呪詛に費やしていたのである。あるいはそれの他は、苦しむことしか、彼にできることは残されていなかったのだ。
(……)
 どくん。
 鴉の身のうちで、なにかが蠢いた。
 と、思ったときには、すでにちいさくはばたいて、男のほうへと、鴉は飛び立っていた。
 すでに光を失いかけた男の瞳に、鴉はどう映っただろうか。
 それは死を告げる天使か、はたまた地獄への案内人か。
 その答もないままに、男は絶命している。
 その骸の上に、かれは降り立つ。
 突き動かすもは、はげしい饑餓。
 しかし、背後の残飯には目もくれず、かれはその骸から…………どくどくとあふれ、しみ出してくる、極上の《闇》をついばんだ。
 すなわち、絶望という、心の《闇》を。

  † † †

 ばさり――、と。
 鴉は舞い降りる。
 それは累々とよこたわる屍体の山だ。
 時はさらに流れ、人の都市はさらに姿を変えていた。
 曇天に、どこか遠くで、まだ町を焼いている火の色が、不吉に映り込んでいる。立ち上る黒煙と、焦げ臭い匂いが、町中に充満していた。
 そしてそれに混じる、嗅ぎなれぬ、異様な臭気。
 それは、硝煙の匂いであり、血の匂いであり、腐り始めた屍体の匂いであった。
 耳を澄ませば、かすかに銃撃の音や、戦車や軍用ジープの走行音が聞こえてくる中、その地域はすでに戦闘が終了し、落ち着いていたらしかった。
 ……と、いうよりも。
 すでにその場所に、生きている人間はいない。
 無慈悲にして絶対な、死神が通り過ぎた跡なのだ。
 なにが原因で、このような争いごとが起きたのか、鴉にはあずかり知らぬこと。ただかれは、いつものように、餌をもとめて、そこに降り立つ。
 それをもう、何百年と繰り返している。その何百年を境に、鴉がついばむ餌の種類は変わった。
 この場所には、今のかれにとっての餌が、文字通り、山積みだ。
 かれは夢中で、屍体の山の上に立ち、それを餌を食みはじめた。
 すなわち、嘆きを。
 すなわち、怒りを。
 すなわち、恐怖を。
 すなわち……、屈辱を、侮蔑を、不遜を、強欲を、頽廃を…………。
 戦場の街には、ありとあらゆる《闇》が、屍のかたちをとって、積み上がっていた。
 黒い嘴がそれをつつくたびに、体内の石は、あやしい愉悦にふるえ、どこか淫らな脈動を繰り返した。まるで狂喜の哄笑を迸らせるように。
 そのときだ。
 突然、鴉の上に、どさりと何かが降って来た。
 それは新しい屍体だった。
 一台の軍用トラックが、どこからか、荷台にたくさんの屍体を積んで、やってきたのである。兵士たちが、まさにゴミのように、屍体を荷台から捨ててゆく。人の体重を受けて、鴉は身動きもとれず、そこに埋まった。何百年もはばたいてきた翼は、たやすく、鳥類の軽い骨を折られてしまう。
 しかし、苦痛はなかった。
 むしろ、新しくもたらされた《闇》が、あとからあとから流れこみ、窒息しそうなほどの快楽があった。
 兵士たちが、陰鬱な作業を受けて、立ち去ろうとしたとき……。
 ひとりの兵士が、驚いた声で何事かを叫び、屍の山を指さした。
 死骸を押し退けて、ゆらり、とそこから立ち上がった影。
 屍が息を吹き返したのか、と思ったがそうではない。
 それは……男の裸身であったが、まるで、今、生まれ出たかのように、産褥の血と粘液にまみれていた。
 兵士たちの口から恐怖の叫びがほとばしる。
 そしてそれがそのまま、断末魔の悲鳴に変わった。一瞬にして生命を奪われた肉体が、ごろりと戦場の大地に転がった。
 さらなる恐怖という《闇》を糧として、それは完全なヒトの五体を獲得する。
 ゆっくりと目を開く。
 次の瞬間!
 曇天に、雷鳴が轟いた。
 ばさり――、とはばたく翼……いや、違う、翻ったのは漆黒のマントだ。
 黒い手袋を嵌めた手が、アスコットタイのずれをなおし、シルクハットをかぶりなおす。
 誰に見られているわけでもないのに――いや、あるいは、そこによこたわる死者たちへのものだったのか――優雅に一礼。
 かたちのよい唇の端が吊り上がり、嘲笑めいたアルカイックスマイルをつくる。
 雷光が、その横顔をあやしく照らし出した。

 無限の闇を父に、絶対の死を母に、かれはふたたび生まれ、ヒトの姿でそこに立つ。
 そして漆黒の翼を広げ、かれは曇天へと飛び立つのだった。

(了)