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兄の闘い
「兄貴! 兄貴!」
「なんじゃ騒がしい」
裏社が駆け込んできても、羅火はさして気にとめず、見向きもしなかった。
そのとき彼は退屈な時間を過ごしていて、アトラス編集部で貰ってきた最新号を、別に面白いことも載ってはいなかったが、暇つぶしに眺めながら、壁にもたれていただけだ。
そんな、弛緩した意識の中に、
「今日の夕飯は俺がつくってやるよ!」
という、弟の一言が飛び込んできたのである。
「……何と言うた?」
顔を上げてみれば、弟は、両腕に、はちきれそうなスーパーの袋を提げている。そこから飛び出している長ネギやら大根やらを見るまでもなく、大量に食材を買い込んできたものらしい。見るからに重そうだが、腕の筋肉を見れば大した荷重でもないのだろう。
「メシをつくるじゃと? ……料理なんぞ出来たのか」
「大丈夫。本も買ってきたから」
食材と一緒に袋につっこんであったのは『お家でつくる愛情クッキング★とっておきレシピ50』という本だった。もう一冊、格闘技の雑誌も入っていたが、これはついでに買った趣味の本であろう。
「よくわかんなくてさ、本屋さんの人に『アニキにメシつくってあげたいんですけど』って聞いたら教えてくれた」
「ちょっと待てぃ! ちゃんと実の兄弟だと言ったであろうな!」
「『仲いいんですね』って言われた」
「……」
それで『お家でつくる愛情クッキング★とっておきレシピ50』か。
しかもこの大男は、筋肉質の男たちが汗まみれになっている写真が表紙の雑誌と一緒にこの本を買ってきたらしい。確実に本屋の店員にはなんらかの誤解をされていると思うが、それはもう知ったことではない。
「すぐつくるから待ってて」
いそいそと台所に立つ弟の広い背中を見送りつつ、いったいまたどこで何を吹き込まれて、やつがこんな酔狂を思いついたのかと考えをめぐらせる。
部屋の隅では、狗鷲の姿をした、羅火の使い魔が、とまり木から丸い目できょとりと兄弟を眺めていた。
まあよい、どうせ、そろそろ飯の時間かと思っていたところだ、と羅火は思った。
そういえば今夜は満月。
食後の腹ごなしに、裏社を誘ってひと暴れするのもいいだろう。
欠伸をしながら、羅火は、料理が出来るのを待つあいだ、裏社の買ってきた格闘技雑誌に手を伸ばした。
そのまま、すこし微睡んでしまったようだ。
「兄貴、できたよ!」
「ん……。ああ……眠ってしまったわい…………って、ちょっと待てぇえい!!」
羅火は壁を背にしているので、それ以上後ずさることはできなかったが、そうでなければ、瞬時に5メートルほど後退していたことだろう。
「なにゆえ、ぬしは……、裸エプロンなんじゃあ!」
「えっ? ああ、これ。ちょっと燃えちゃってね。エプロンの替えだけはあったから」
「燃えた! 何をどうしたらそんな目に……!」
と、目をやれば、台所のほうは、台風と火事と雷雨が同時に通り過ぎたような有様になっていて、まあ、ありていに言って、もともと羅火の棲み処は立派な家ではないが、それにしたってひどい荒れ具合であった。
そしてどういう経緯でかはわからないが、裏社は調理中にいちど火だるまになって衣服を失ったらしかった。
だからといって、そのまま、エプロンだけをつけて何事もなくいるというのも、天然の度が過ぎると思うが、この弟に、裸エプロンの何たるかをいちいち説明する気にはならず、羅火はとりあえず、服だけを与える。
「心臓に悪いやつじゃ。どうにかされるかと思ったぞ……」
双児であるはずなのだが、数奇な運命の果てに、いささか違う風貌を獲得した兄弟竜である。裏社のほうが体格が大きいので、フリーサイズの服を出してやって、なんとか巨体をその中に押し込める。
それはそうと、そんな激闘の果てに何をつくったのかと、食卓の上を見てみれば。
「…………」
「なんとか着れたよ。じゃあ、食おうか」
「……で、これは何をつくったのじゃ」
「えーと、『ロールキャベツ』と『エビグラタン』と『ポテトサラダ』だけど?」
「本の通りにつくったのであろうな?」
「ちょっとは追加した調味料とかはあるけど……」
羅火は内心で、頭を抱えた。
だいたい、料理というものは、レシピ通りに味付けをしていれば、そうそう大きな失敗はないのである。それでも難しいメニューというものはあるが、料理が失敗するのは、勝手にレシピをアレンジした結果であることが多いのだ。
だが……。
その日、食卓に並んでいたものは、「レシピを勝手にアレンジした結果、微妙な味つけになってしまった」というような生やさしいものではなさそうだった。その点では、羅火はかなり、弟への点が甘かったというべきか。羅火の気性からすれば、「どう見ても、喰いもんにすら見えんじゃろうがぁ!」と怒鳴ってもおかしくはなかったのだが。
兄弟は仲良く食卓の前に、対面に腰を下ろす。
ふたりの前に並ぶ、『ロールキャベツ』と『エビグラタン』と『ポテトサラダ』……だと、裏社が主張しているもの。
ロールキャベツは、たしかに、何かを何かで巻いているのだな、という形状では、ある。だがどう見ても、キャベツと思われない質感の(むしろなめし革に近い)もので出来ていて、形容しがたい刺激臭を放つ濃厚なソースがどろりとかかっている。味付けは自己流にしてしまったのだとしても、材料くらい本に書いてある通りに作ってくれてもよさそうなものだが……。
エビグラタンは、これは一応、ホワイトソースとチーズをかけて焼かれてはいるようだ。ぐつぐつとまだ煮えている様子は旨そうといえなくもないし、表面の焦げ目は香ばしそうだ。ただ、その中にうずもれているものが、エビとの共通点はおそらく節足動物であるということだけの、得体のしれないものなのだった。あまつさえ、オーブンで相当の高熱を浴びせられたはずなのに、びちびちと尻尾を動かしているほど「新鮮」なのだ。
ポテトサラダについては、たぶん一番ましに見えた。潰したじゃがいもの中に、普通はあまりサラダでは見かけない感じの色あいのものが混ざり込んでいるのが気になるが、野菜は見慣れた様子のものであるし、妙な匂いもしないし、少なくとも動いていない。
羅火は……とりあえず、一分間ほど固まってみた。
これを食え、と。
それはバッドジョークにもほどがある、というような話だったが……。
ちらり、と、弟を見た。
「……」
裏社は、澄んだ瞳をきらきらさせて、兄を見つめている。
どこかで、通りすがりにチワワの出て来るTVコマーシャルを見たことあるが、「純真」とか「健気」とかいう言葉を形にしたような、その輝き。裏切られることを知らぬものの目だった。あるいは自分も、かつてはそんな目をしていたことがあったのかもしれぬ。たがそれは遠い遠い昔の、ここではない別の世界でのこと。
目を閉じて、深呼吸。
そして次に目を開けたとき、羅火のおもてに、ふっと笑みが浮かんだ。
「ふん、では味見してやるか」
そうとも!
喰ってやる。
いかなる強敵にも屈さず、どのような災禍にも負けず、想像を絶する非道にも耐え忍んだ、人造六面王・羅火を、たかだか不味い料理ごときで倒せるものか。
まして、これは、悠久の時間と次元を隔てて再会した、双児のかたわれ、裏社の手ずからのもてなしなのだ。
その想い、しかと受け止めた!
……と、羅火が考えたかどうかはともかく。意を決して、彼は箸をつけた。まずは一番安全そうなポテトサラダから。
まずはひとくち……
「――……」
一瞬、宇宙を垣間見た…………ような気がした。
少なくとも三秒ほどは、意識が飛んだようだ。
戻ってきたとき、裏社が、身を乗り出さんばかりにして、期待に充ちた顔つきで兄をのぞきこんでいる。
「……う、うむ」
唸るように、羅火は言った。
「はじめてにしてはマシなほうじゃ」
「ほんと? やった!」
小さくガッツポーズするさまを見て、でかいなりをして子どものようだ、と兄は思った。
それでいい。
おまえは何も知らず、そのままでいればいい。
これは兄の務めだ。
……でもすこし――、挫けそうだった。
びちびち、と、エビグラタンはまだ尻尾を振っている。
*
満月がもたらす気力と体力の充実がなければ、実際、力尽きていたかもしれぬ。
強靱を誇る竜を肉体をもうちのめす、ひと口、ひと口。
途中、ちらりと横目で、使い魔の狗鷲を見れば、固唾を飲んでなりゆきを見守っていたらしい鷲は、危険を察知して、飛び立っていってしまった。おかげで、口実をもうけて半分は押し付けようと思っていた相手もいなくなり、完食を余儀無くされる。
そして。
「また、いつでも、つくりに来るよ」
洗い物をしながら、裏社がさらりと恐ろしいこと言った。返事がないのに振り向くと、いつのまにか兄の姿がない。さっきまで、満腹で寝転がっていた(本当は違うのかもしれない)ようだが、今夜は満月でもあるし、どこかに腹ごなしに行ったのかもしれない。だったら自分も誘ってくれたらいいのに、と思いつつ、鼻唄まじりに皿を洗う裏社だった。
「…………」
もうダメだ。
肉体がそれを拒絶している。
ドラム缶の中に、全部、戻してしまうのは、ちょっと罪悪感を感じないでもなかったが、背に腹は変えられぬ。
もはやヒトの姿を維持することもかなわず、本性をあらわにして、羅火はよろりよろりとおぼつかない足取り。
猫は死ぬとき、誰にも見られぬ場所へ消えるというが……。
猫ならぬ赤竜は、結界に護られた、地下300メートルの某所へ人知れず逃げ込み、倉庫の暗がりに、その身をよこたえたのだった。
領域内にあらわれた異常な霊的反応に、黒服の職員たちが右往左往することになるのは、また別の話。
今はただ、その身を休めるがよい。
羅火よ、おまえは充分、闘った。
(了)
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