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<東京怪談ノベル(シングル)>


刻を見守る人形


 貴方様も、わたくしと、同じなのですね。
 ――それなのに。
 ――だからこそ。

 ***

 それは初めて聴く「声」だった。
 棚の間を進む身を止めて、四宮灯火は音もなく振り返る。光を宿さぬ青の眼差しが注がれたのは、数日前にこの店へやってきたばかりの桐箪笥。相当の年月を経たか、あるいはここへ辿り着くまでの持ち主や場に恵まれなかったものか、本来はすべらかな表面と親しみやすい白色は、まだらに黒や茶色に染まって、欠けた角をそのままに灯火を無言で見返している。
「……わたくしを、お呼びになった、のは……どなたでしょう……?」
 紡がれた声音は人形の口から洩れたものなのか、聴く者があったのならさぞ不思議に思うたであろう。愛らしい少女の声は気を乱すことなくただ染み渡り、ひびく。
 返事は、か細い。
 ともすれば逃してしまいそうになる小さな小さな「声」を、灯火は集中して拾いあげた。
「そこに……いらっしゃるのですね」
 わずかに袖をゆらめかせ、箪笥の上段、小抽斗をそろりと引き開ける。その把手の金具も外れかけていた。慈しむようにひと撫で。覗きこんだ内には、箪笥と同様、毛羽立ちところどころで変色してしまった、けれど鮮やかな韓紅花の布切れが灯火を待っていた。
 ――間もなく戻った店主に許しを得て、灯火は入れ違いに外の世界へと出た。手には振袖に負けぬ、くれのあいの布。久方ぶりの陽光に恥じ入るように、灯火に抱かれたその布地は、ひらと風を避けた。


 ――お嬢さん、わたしの最期の願いだ。どうかどうか聞いておくれ。


 人の姿がないのを確かめて空間を飛んだ灯火は、地に足をつく前に、吹き荒れる“それ”をただじっと眺めた。
 ただの風ではない。
 証拠に、艶のある黒髪は微かに靡くに止まり、周囲の草木にも大きな揺れはない。山間を渡って過ぐる風の流れならば、もっと心地好くあるはずである。“それ”には色はない。形もない。きっと重みさえない。しかし気配なら十分にある。これが感の強い人間であったのなら、その心に芽生えるのは恐怖であろうか、哀傷であろうか。心を持つ人形の灯火も、それらがどういったものなのかわからぬわけではないが、はたして今感じている、想っているものが、人間の持つそれと等しきものであるか。こころというものは己が身の確かさと比して、なんと頼りない。
「……貴方様の古里は、ここで……?」
 問いの言葉は最後まで続かなかった。
 眼の前に広がる風景には違わず里の姿。けれどもはや名残といって差し支えないほど、それは失せかけていた。
 緑の葉に蔦が蔓延り、こんもりといくつかの丘を形作っている。切れ間にやっと加工された痕跡の木や壁が覗いていて、それがかつて家と呼ばれたものであったことを辛うじて伝えていた。同じような数軒が、ぽつりぽつりと見渡せる土地に見られるが、そのうちのいくつかはもう完全に地と一体となって伏せている。
「そちら、ですか?」
 微小な意思を持つだけになった布に視線を落とす。やや強い気の感じられる方向を、布は示しているようだった。
「…………」
 わずかに躊躇う。
 ああ、こちらへ行ってはいけない――人間でいうところの胸騒ぎなるは、これか。
 かくり、と、首を傾けて灯火はその家に近づきながらくるくると変化する己の感情の動きを拾い集めてみては、都度驚きと焦燥に気づく。あるいはこれは、布の持つ意思が齎すものか。人形であるこの身が軋むような、どこかで割れを生じているような、奇妙な圧迫を覚える。これはなんと呼ぶ感情か。
 困惑は、けれど懐かしい。


 ――遠いとおい、記憶なのだ。
 ――わたしには具わらぬ「思い」をお嬢さんは知っているのだね。
 ――けれどこういうときに、人間様が懐く感情の名ぐらいは、わたしにもわかるのだよ。


 名づく感情を、布は灯火には教えなかった。
 きっとこの少女、人形は、知っているだろうものだから。
「……貴方様、も……」
 ――ざ、
 呟きに応えたのは、手のなかの布ではなかった。人の手で作られたものでもない。いいや、人の手が加えられたからこそ、ここに存在するのではあろうが。
 ゆるりと灯火は顔を上げる。この里へ降り立ったときから感じていた気配の一部が、風音にまぎれてやってくる。相手は、灯火と同じ言葉は持たない。意思も持たない。それらまでは至らぬ欠片ぐらいは、あるのかもしれない。
 視線の先で、不意に身を起こしたのは、先に一輪花をつけた樹木のひとつだった。これからが盛りか、既に落ちて身を引いたのか、閉じた蕾が枝々で揺れている。
 花は、赤かった。
 地と足の隙間を埋めるように、ずるりと這い進む枝が葉が、花が、灯火を求めてその手を伸ばす。華紋のあしらわれた草履の先にそれらが到達する前に、灯火は高く空中に身を進めた。追ってくる。永くここに在る樹が、忘れかけた感触に追いすがる。


 ――アア、これは。
 ――あの方、
 ――だろうか。


「違い、ます」
 灯火は空を舞うのをやめた。静止した人形に、枝が嬉々として絡みつく。振袖を千切られぬよう、様を眺めながら灯火はふるり、首を横に振った。
「……けれど、きっと……」
 灯火の前で、赤い花が凜と空を仰いでいる。花の内側には色濃い纈の絞りが散って、どこか作り物めいたその花の名を、灯火はすぐに思い出す。街中でもよく見かけた。
 天を衝くその姿は、どこか素朴で、日常の合間で微笑んで――けれどこの里で咲き続けるこの花は、慟哭する女の横顔に見えて。
「貴方様と……わたくしと、同じ……」
 恋焦がれて、いるのでしょう。
 強く腕を引かれる。首を絞められる。肌の下に潜りこもうと探られる。
 枝の動きでそうと知って、灯火はどこか申し訳なくなる。小さな唇が、珍しく綻びをみせた。


 貴方様の求める血潮は、ここにはないのです。
 もうどこにも、ないのです。


 ――逢いたい。


 紅い絹、赤い花、紅い振袖の日本人形。


「……お逢いしたい」


 絹も花も、ともに主を待ち侘びて、永い月日をそれぞれの場所で過ごしてきた。絹は人の手を渡り歩き、花はずっと人の消えた里でその身を魔性に変えながらも。
 枝葉を覆う薄い毛が、灯火の肌をくすぐる。その感触が、刹那、人の手のそれを想わせる。


 不思議な力を持ったおひとだった、とその絹布はいった。
 力のせいで、ときおり彼女の織った同胞たちのいくつかや、鏡に茶碗、傍を流れる小川の水や、庭に咲いた花たちまで、そう、お嬢さん、あなたのように“こころ”を持つようになったのだ。
 最初は彼女に語りかけるだけだったそいつらは、やがて人間とみると誰彼なしに声を掛け、とうとう自ら歩いたり浮いたりと、蠢き始めた。
 小さな村、そんな力を持つ女の末路は皆までいうこともないだろう。
 それでも、ここへ戻りたかった。せめて主の気をわずかでも感じられる場所へ。戻ることはないとはわかっていても、もしかしたら、……もしかしたら。


 紅い布の願いはそれだけだった。
 灯火に握られていた布が、するりと奪われる。追って手を伸ばしたが、枝はそれが目的だったとでもいうように、灯火と絹を離してゆく。灯火の拘束は解かれて、ざわり、葉を大きく振って樹は収束してゆく。
 ああ、と灯火が声を洩らしたときには、枝は絹を突き破っていた。
 音もなく裂けるのに、空は顫えて、灯火も震えて、これはなんと呼ぶ感情なのかと己が裡にふたたび問う。
 花が、咲く。


 灯火は里とも呼べぬ緑の景を振り返った。
 辺りの気は、ひどく密である。
「……わたくしは」
 貴方様が、羨ましいのかもしれません。
 灯火と同じく、主を求めていた彼のものに感じたのは、羨望も、あった。
 彼の主はもういない。けれどここにはまだ彼の主の気が満ちている。いやはても知らず彷徨いゆく灯火と、たしかな場所を得ている彼のものと。はたして、どちらが――。
 緑に埋もれたくれないが、手招くように、別れを告げるように、ちらちらと笑っている。
 干渉は敵わない。灯火はただ、ひとつのかたちを見届けただけだ。
 また、ゆかねばならない。
 見知らぬ場所へ。
「わたくしは……あとどれほどの刻を渡れば……あの方の、許へ……」
 あかい躑躅に背を向けて、牡丹の大輪は空間にその身を散らした。


 <了>