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<東京怪談ノベル(シングル)>


水無月(みなづき)の午後




 さして大きいとは云えないギャラリーの展示ブースで突然、小さな子供が泣き叫ぶ声が響き渡れば、彼──烏丸織でなかったとしてもびっくりして、声の主を探そうとするだろう。
 現にブースのそこかしこでそれぞれの作業を進めていたほぼ全員が、搬出口の近くでわあわあと喚いている少年に釘付けになっている。
 彼の足下には、明日からの展示で壁掛けにしようとしていたパーテーションがくしゃりと床に投げ出されており、透明ワックスのボトルがごろごろと今も慣性のままに揺れていた。
「お母さんが、お母さんがやったんだ! 僕はちょっと触っただけだもん!」
 少年の横では、何が起きたのかはかろうじて理解しているものの、それでもそれをどう対処したら良いのかがわからずにおろおろしているだけの女性──おそらくは少年の母親──が、すみません、すみません、と何度も繰り返し、周囲に向けて頭を下げている。織は足早にそちらの方へ歩み寄ると、ふたりの足下でべったりとワックスに濡れたパーテーションを掴んで搬出口の方へと走っていった。
「ほら、ちゃんとお兄さんにごめんなさいしなさい……」
「やだ! お母さんがやったんだもん! 僕は何もしてないもん!」
 淡い青紫に染めた厚口和紙のパーテーションを勢いよく振りかざし、織はワックスのしぶきを何度か飛ばした。粘度の高いそれは流れるような跡を和紙の上に残していく。
 ようやく、あらかたのワックスを払い落とすことに成功したとき、ふう、と織は安堵の息を吐き、室内の方へと向き返った。
「……──、いやあ」
 織がそう呟くと、彼の様子をじっと見守っていた母子がビクリと震え、半歩を後ずさる。ふたりの脅え様に、あまり注目していてもかわいそうだと考えたのか、他の主婦たちはさりげなく自分たちの作業に戻り始めていた。が、その背中で、ことの次第をじっと見守り続けているのは明白である。
「あの、すみません、本当にすみません、あの……」
「いえいえ、」
「お母さんがね、僕に──」
 母親の謝辞を拒んでそっと差し出された織の手のひらが、次いだ少年の言い訳にきゅっと拳の形になる。
 そのまま、ゴツン、と。
 少年の頭頂部へと真上から、さして強くはないがしっかりとした重みのあるげんこつが降り下ろされた。
「あ」
 思わず、母親が小さく声を出す。拳を受けた本人が1番びっくりしたようで、喚くことも忘れ、ぽかんと織の顔を見上げて口を開いていた。
「男の子だろう。みっともない、お母さんが困ってるじゃないか」
「………………」
 織の手には、今もタペストリーが掲げられていて、ほのかなヒノキの匂いを放つワックスが少年に抵抗を許さなかった。見ず知らずの男の拳は、今も少年の頭頂部にあって、それはおそらく、彼が今までに知ったことのなかった類いの感触で、温度だったことだろう。
「あの、本当に申し訳ありませんでした……弁償──」
「いえ、だから、本当に良いんです。それより、」
 頭を動かさず、ぐっと神妙な面持ちを作ったままで、少年は、織と、自分の母親を目だけで交互に見つめ続けている。
「良かったですか、ここで。……このランプシェード、作られた方ですよね?」
 織の視線の先には、薄い乳白色の和紙で作られた、少し形のいびつなランプシェードがある。細かな花びらの形がいくつもくりぬかれていて、ちょっと見では分かりづらかったが、数歩離れて見てみるとそれは紫陽花を象ったものだと分かる。
 突然に向いた話の矛先に、母親は手製の作品を見つめ、はい、と小さく高い返事をした。「この手作りサークルに入って、最初の作品で、あの……」
「紫陽花がお好きなんですか?」
「…………」
 織の言葉に、少年が、あ、の形に小さく口を開いて、まじまじとランプシェードを見つめる。あじさい。その言葉を聞いてようやく、シェードに開いていた小さなつぶつぶのくりぬきが何だか分かったと云うような表情で。
「おい、ダメだろう、こんな優しくて素敵なお母さんのこと、困らせてちゃ。……ワックスのボトル蹴っちゃった時、やばい、って思った?」
「…………」
 コクン、と少年が、織の拳の下で小さくうなずく。
「きゅっ、て心臓、痛くなった?」
 コクン。さっきよりも少しだけゆっくりと、少年はまたうなづく。
「そういう時は、なんて云うんだっけ? なんて云いなさいって、お父さんとお母さんに云われた?」
「・‥…──、ごめん……なさい……」
「良い子だ」
 ようやく、少年を戒めていた織の拳が解かれて、細く長い指先を持つ手が彼の頭を何度も撫でた。「今日は準備の日だから少し退屈だったろうけど……明日からが本番なんだよ。またおいで、お母さんと一緒にね」



 明くる日。
 朝からしとしとと、細かな雨が降り続いている。
 陰暦で「6月」を指す「水無月」とは、「水の無い月」と書くが、その字面は本来の言葉の意味からかけ離れているように感じられるため、きちんとした意味でそれを説明できる者は少ない。
「無」の文字は、連体助詞の「な」を示したものであり、「水の無い月」ではなく「水の月」と云う意味の言葉なのである。
 そして、その「水」も、梅雨時の雨を指したものではない。水無月は恵みの予感を感じさせる月である。すべからく田園に水が張られ、稲穂の子を植え込む準備をする月であるから、「水の月」なのだ。

 少年はギャラリーにやってきた。
 母親に連れられて嫌々と云った様子は微塵も見せずに、むしろ母親の半歩先を歩み……昨日、自分に生まれて初めての拳を打った男、織の言葉を胸の中に反芻させながら。

 昨日のうち、ペンキがこびりついたはしごやら、畳み掛けの緞帳やらが散らかしてあったギャラリーの展示ブースの中は綺麗に片づけられていて、淡くも鮮やかな紫色の色彩を放っており、まぶしさを感じさせた。
 入り口には、少年の母親が入っているサークルの名前が刻まれた小さな看板が立て掛けてあった。『水無月の午後』と書かれているのは展示会の名前なのだろうか。水無月、の横には小さくひらがなが振ってあったので、意味までは分からなかったものの、少年にもそれを読むことができたのだった。
 大小、素材、さまざまな存在感を持つランプシェードたち。実際に中に電灯を灯され、ランプとして点灯しているものもあったが、シェードの部分だけでレイアウトされているものも何個かある。
「みて、この白い糸、雨みたいじゃない?」
 母親がそう語りかけてきたので、少年は彼女の指し示すパーテーションを見上げた。なるほど、空調設備が吐き出す柔らかな風になびく白糸はまるで雨のようで、家からここまでの道のりを思い出す。静かな雨が降り続ける住宅街の道のりを母とふたり、言葉も交わさずに歩いてやってきたのだった。
 ブースの中を真ん中あたりまで歩いたところでやっと、パーテーションの濃淡が、入り口ほど濃く、そして奥に進むほどに薄くなっていることに気がついた。
 深い青紫から、鮮やかな赤紫、そして薄い色へ。
 昨日の男が母親に、「あじさいは好きか」と訊いていたのは、もしかして、この綺麗な布のせいなのではないか。
 さして見たいとも思わなかった、誰が作ったのかもわからないランプシェードの前で、いちいち母親が立ち止まってはそれを眺めるのを、少年は黙って待ち続けていた。

「いらっしゃい、来てくれてありがとう」
 そんな気さくな声に振り返ると、そこには濃い紺色のスーツを着た男──織が立っていた。一瞬どきっとしたのは、まだ昨日の自分の悪事を何より自分の身体が覚えていたからだった。
「今日の雨は冷たいな──きちんと傘をさして歩けたかい?」
 うん、とただ、うなずいて返すだけだったが、それでも昨日ほどの固さはそのしぐさにはなかった。
 妙な包容感と安堵感が、この男にはある。
「昨日はどうも……」
「とんでもないです。実は、私の方も助かってしまいましたから」
 助かった、とはどういう意味だろうか。自分と母親に気を使って、この男はそう云っているのだろうか。そう考えると、不意に居心地が悪いように感じて、少年は母と織の傍を離れてブースの奥へと歩いていった。
 自分がワックスをこぼしてしまった、あの綺麗な布が、どうなったかを知りたかったのだ。
「あ、待ちなさい──」
 母親の制止もきかず、少年は歩いていく。
「喜んでくれるといいんだけどな……」
 母子の後ろ姿に、織はぽつりと、そう呟く。

「……………」
 そして、少年が見たのは、『雨上がりの景色』、だった。
 奥に進めば進むほど、天井からたらされていた白糸は少なくなっていき、それは少しずつ止み始めるしめった雨空をイメージさせる。そして最後の白糸の雨をくぐり終えたときに、そこには後光差すしとやかな紫陽花のランプシェードが飾られていた。
 少年の母親が作った、いびつな紫陽花のランプシェードが。
「まあ……」
 ブースの再奥にある搬入口は開け放たれていて、外からの緩やかな外光が室内に差し込む形となっている。その光を受けながら、風に揺れていたパーテーションは、昨日、少年がワックスをこぼして汚してしまった淡い薄紫の布だった。
 滴のように跡を残して乾いたワックスが、紫陽花のシェードに透明な影を落とす。
 花びらが雨の滴に濡れて、光っているように見えた。
「これを、もともとやるつもりで……昨日あそこにワックスを置いておいたんです。皆さんが帰られてから、レイアウトのバランスを見て、ワックスを流すつもりだったんですよ」
「…………」
「だから、昨日も云いましたけど、本当に大丈夫だったんです。私、ついげんこつが出てしまいましたけど──それは、わかるね?」
 言葉の最後は、少年へ向けて。両手の平を膝の上に、上半身をかがめて少年と視線と同じくさせると、織は穏やかに笑ってみせた。「男の子は、お母さんを守ってあげないとな」

 長雨の続く季節は引きこもりがちで、室内に留まる機会も多くなる。
 だからこそ、共に在る存在とその時間を分かち合い、互いの信頼関係を深めることができる。
 実用性ばかりを要求されやすいランプのシェードになど、日の光のもとで刮目する者は少ないだろう。
 が、それに着目するときに、それまでに得られなかった安らぎを得られるかもしれない。
 それまで、感じなかったことを感じる。
 それまで、見なかったものを見る。
 搬入口からのぞく空は雨上がり、明るい午後の予感が空気を煌めいている。
 相変わらずの憮然さで口唇を結んだままの少年の表情が、昨日までとは少し違っているのを織は知り、優しげな目元をひとり、細める。

(了)


──登場人物(この物語に登場した人物の一覧)──
【6390/烏丸・織(からすま・しき)/男性/23歳/染物師】