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キミと夜を歩く
「……何やってるんだか……」
パソコン画面の下に表示された時計に何度も視線を落としながら、藤井葛は実に複雑な溜息をつく。
まさか3月14日という日付がこれほど自分を落ち着かなくさせるとは思わなかった。
テレビをつけても番組に集中できない。
ネットサーフィンをしてみても、ただカチカチとクリックを延々くり返すだけ。
出かける前に少しでも進めておこうと思った研究論文は、一行も文字を打たれないまま30分が経過している。
もちろん積み上げては広げるだけ広げた参考文献も机に放置中だ。
数分すら持て余す自分がいて、そんな自分をさらに持て余す。
今日会えないか。
藍原一馬がそう言ってきたのは、つい1時間ほど前だ。
それまで平穏そのものだった葛の携帯が突然鳴ったかと思ったら、告げられたのがその一言で。
3月14日。コレの意味するところは分かっていても、ギリギリまで連絡がなかったから『ないもの』と思い込んでいた。
なのにいきなりの連絡では、完全な不意打ちと言ってもいい。
だから何ともいえず落ち着かないし、動揺もしているのかもしれない。
また、ちらりと時計を確認する。
相手の仕事が終わるのは10時半。
約束の時間までがやけに長い。
どう頑張っても深夜としか言いようのない時間帯からの待ち合わせで、余計にすることが見つけられないのだ。
らしくない。
本当にらしくない。
気付くと誰よりも傍にいて、誰よりも自分の思考と時間を占めている存在に、心が揺れて騒ぐ。
何も手につかない微妙な時間帯がちょっとだけ憎らしく思いつつ、葛は手持ち無沙汰のまま無意味にマウスでクリックを繰り返し、書籍をぺらぺらとめくっていった。
結局。
和馬がお馴染みの黒スーツで固めて玄関のチャイムを鳴らすまで、少なくとも50回は溜息をつき、やらなければならないことは何ひとつ進まなかった。
「なんとかギリギリセーフってやつだ」
助手席に落ち着いた葛をチラリと見ながら、ハンドルを握る和馬の声は妙に弾んでいる。
「連絡なかったから、今日は会わないものだと思っていたよ」
「何日も前から予約を取り付けるのは素人のすることだ」
妙に気取ってニヤリと口元を歪める相手に、思わず肩を竦める。
「なるほど」
額面どおりに受け取ったふうに笑いながら、でも、と葛は胸に手を当てる。
「それじゃ出発するか」
「ん」
自分は知っている。
和馬がどれだけ忙しいか。今どこでどんな仕事をしていて、どれだけ時間に追われているか。
もう随分前に思わず口をついて出た「何も言わずにいなくならないでくれ」という自分のワガママを、彼はずっと守ってくれているから。
事前の約束が出来なかったのは、約束を反故にしてしまったらと危惧したせいだとぼんやり考えてしまう。
考えつつ、それにしても、と思う。
こういう思考回路は一体どこで出来上がってくるのだろうか。
そろそろ一度、友人兼恋愛の大先輩に聞いてみるべきかもしれない。これってどういうことなのか、と。彼女はなんて答えるだろう。
「で、どこ行こうか?」
「あ、俺は」
口にしかけた言葉を遮るように、ぐぅっと盛大に和馬の腹の虫が存在を主張した。
「うっわ、カッコ悪ぅ!」
ごまかしようのない音にいつも飄々としている彼が珍しく赤面して、微笑ましくなってくる。
「仕事だったんだから、無理する必要ないのに。ご飯もマトモに食べれてないんじゃない?」
「無理なんかしてねえって。俺の腹の虫はいつだって自己主張が激しいんだ。それに俺は無理も無茶もしない主義。やりたいことだけやり倒すわけ」
何でも屋として跳びわまってるのも趣味の内だと胸を張って、
「俺はしたいと思ったことだけするんだ、葛」
そう言っておどけた表情で軽くウィンクを飛ばす。
「ま、らしい回答だね」
とりあえず呆れた顔で大げさに溜息をひとつ。
「それじゃ無理も無茶もしない和馬の為に、とりあえずは腹ごしらえするか」
「おう、サンキュ。バイト代入ったし、めいっぱい奢れるから好きなだけ注文するがよい」
「はいはい。期待させてもらうよ」
「期待しとけ」
お人よしで頼まれたら嫌と言えなくて、自分がタフだと知っているから平気で誰かの盾になろうとする、そんな一面を葛が直接見ることはない。
それでも傍にいれば垣間見えてしまうから。
でも和馬の言葉を疑うわけじゃない。
和馬の言葉はどんなカタチであれ、本心から発せられたものだ。
だから葛は笑う。
和馬と一緒に笑いながら。
そうして2人で向かった先は――
「しっかし気付くと地味に常連だよな、俺たち」
「そろそろ店員に顔を覚えられててもおかしくないかもしれないとは思う」
煌々とした明かりを周囲に振りまいて佇む深夜のファミリーレストランだった。
どんな時間でも受け入れてくれる場所の有り難味をしみじみと感じながら、店員に誘導されて、葛と和馬は外が見えるボックス席に落ち着いた。
ここはありとあらゆる人種で賑わう一種不可思議な空間となっている。
向かい合って座る自分たちもまた、他の客にとっては不思議な存在と映るのだろうか。
「さてと、めいっぱい食うとするか」
店員が立ち去ってすぐに、和馬がラミネート加工が幾分よれた大きなメニューをテーブルに広げた。
肉を中心とした重めの食事から、魚料理、野菜サラダ、スイーツ、ドリンクと賑やかなラインナップが続く。
「やっぱな、季節モノは押さえとくべきじゃねえかと思うわけ」
「ホント期間限定に弱いね、和馬」
「なあ、いっそ全メニュー制覇するまで日参し続けるか?」
「家計を圧迫するような発言はやめて」
「だがチビすけは喜ぶと思うぞ」
「栄養だって偏るだろ?ヘンなところでゲーマーのコンプリート魂を出さないでくれ」
子供みたいな向かいの男を軽く睨みながら、それでも、いつもどおりと言えばいつもどおりすぎるやり取りにホッとする自分がいた。
ハンバーガー片手に明らかに義理っぽく見える小さな箱チョコから始まって、何故かもうずっと、当たり前にように自分は彼と一緒にバレンタインもホワイトデーも過ごしてきた。
でも当たり前のイベントの意味合いが、今回は微妙に、少なくとも自分の中では変わっている。
どこでどう変わったのだろう。
何が変わったのだろう。
どうして変わったのだろう。
やはり、手作りのチョコレート……だろうか。
驚かれてはじめて意識した、ハート型の意味。
和馬はあの時「ありがとう」と言ってくれた。これ以上ないくらいの笑顔とともに、本気で浮かれて本気で喜んでくれた。
だがそれ以上の言葉はない。
それで?
そんなふうにこちらの想いを言葉に変えさせることだって出来たはずなのに。昨年からずっと先延ばしにして来た答えを聞こうと思えば聞けたはずなのに。
通りがかった店員を捕まえて、メニュー表片手にアレコレと注文をはじめた彼を眺めながら、戸惑いにも似た想いは募る。
和馬は待ってくれているのだ。
そして待つと言った彼は、けして自分の答えを急がせない。
だから、心が傾いていく。さらに強く、惹かれていく。迷う部分が少しずつ減っていくのを感じている。
……答えは多分、もう、とっくに出ているのかもしれない。
「そうだ、葛。これとこれにも挑戦していいか?」
だが、こちらの思いを知ってか知らずか、和馬は何気ない顔で質問をよこしてくる。
「食べ切れるんならね」
「ふ、俺の胃袋は鉄製な上に容量無限大だぜ?」
「アンタのどこにソレが収まっているのか非常に気になるとこだね」
ウェイターがちょっとだけ口元を緩ませたのを視界の端で捉えつつ、葛はとりあえず相棒としてツッコミを入れておく。
「それじゃ、これとこれも追加でよろしく」
無邪気かつ無謀とも取れるオーダーに、店員は満面の笑みで応え、注文を繰り返して去っていった。
「伝票の長さ、凄そうだな……」
「ふ、かつて俺はファミレスのレジで30センチのレシートを弾き出した男だぜ?」
「………そんな記録まで持ってたのか……」
脱力感につい眉間を押さえてしまう。
だが、問題はそれからだった。
大々的にチェーン展開するファミレスの良いところは、均一的な品質とバリエーション豊かな割に料理の提供時間におけるレスポンスが短い点にあるのかもしれない。
ゲームの話をして、近況を報告して、他愛のない会話を交わし、会話が詰まった後にはその沈黙を埋めるようにして、次々とデザートの皿がやってくる。
店側もテーブルの限界に挑戦しているんじゃないかと思いたくなるようなハイペースだ。
「ちょっと、これ避けないと」
だんだんテーブルは食器のパズルとなっていく。
「高級ケーキもいいけどさ、こういうトコのも意外に凝っていて面白いかもね」
「しかもかしこまらないから、気軽に食べられる!すっばらしいしよな」
「……しかし…壮観だね」
色とりどりの皿は鮮やかで、ちょっとしたパーティみたいだ。
ここまで来るといっそ楽しくなってくる。
「うむ……だがこれ以上は乗り切らんから、この辺からとっとと喰わないといかん」
「了解」
ご注文はすべておそろいでしょうか?
その言葉が店員からもたらされるまで、延々と黙々とただひたすらに、まるでタイムトライアルの挑戦者のごとく2人はあふれかえる甘いものたちと格闘し続けた。
空になった皿を適度に下げていく店員の表情も、心なしか清々しげだ。
これはもう、顔だけは完璧に覚えられたかもしれない。
「ああ、そうだ。な、葛……」
「ん?」
ようやく減りつつあるテーブルに並ぶスイーツたちに長スプーンを差し込みながら、葛は僅かに首を傾げて和馬を見上げる。
「これ、な?ホワイトデーってことでひとつ、俺からの愛のお返しだ」
照れもなくニヤッと笑って和馬が差し出してきたのは、色違いの和紙を三重にし組紐を使ってやわらかく包んだ小さな箱だった。
「ここで開けても?」
「もちろん」
どんな反応が返ってくるのか、ワクワクとした気持ちを隠そうともせずに自分を眺める相手の視線にドキドキしつつ。
忘れ掛けていた緊張もよみがえりつつ。
膝の上に置いて慎重にひも解いて行けば、
「あ……」
中から姿を現したのは、葛の瞳を映したような翠の石をあしらった簪だった。
銀を主体とした繊細で滑らかなフォルムは、指で触れると心地良い冷たさを返してくれる。
いつもどこから見つけてくるのかと不思議に感じるけれど、でも、和馬が見つけてきてくれたモノはどれも葛の為だけに用意されたモノのようで。
特別。
そう、彼がくれるのはいつも『特別なもの』なのだ。
さりげなく何気なく差し出してくるけれど、いつでも彼が自分に寄せてくれるものはすべて切なくなるくらいの優しさに満ちている。
「ありがとう」
和馬の瞳を真正面に捕らえて、はっきりと、しっかりと、笑顔で言葉を紡ぐ。
「すごく、嬉しい」
「よかった。葛の着物に絶対似合うと思ったら、どうしても手に入れたくなってさ」
危なく今日中に渡せなくなるトコだったけど。
例えあと数分で14日が終わるとしても間に合わせたかったんだと、そういって心底ホッとしたように頬を緩ませる。
その表情がまた、葛の胸をほわりとさせるのだ。
「そっか。じゃあ、今度はこの簪をつけて着物でデートしなくちゃな」
「おう」
間髪入れずに返答しながらも、一瞬、和馬の瞳がまたたいた。
思いがけない言葉をもらってしまった、その驚きがほんの一瞬だけ瞳に乗ったのだ。
デート。
その単語の意味を改めて噛み締められると、少し照れる。
「じゃ、まずは今日の分を消化しないと」
「だな」
気恥ずかしさを振り払うようにプレゼントをしまってフォークを握った葛に合わせ、和馬もまた並べられたケーキに伸びる。
たった3時間だけ共有する空間。
それでも充分すぎるほどに、心地良い、暖かいと感じる時間。
ファミレスでの食事を終え、高台の公園を経由しながら帰路を辿る車の外では、東京が放つ光から逃れた星たちが降り注ぎそうなほどの近さで瞬いていた。
「すごい……」
思わず窓ガラスに手を添えて、葛は思わず呟きをこぼす。
「車、停めるか」
ガラス越しじゃもったいないからな。
「さあ、どうぞ」
騎士のごとくエスコートしてくれる和馬に従ってヒヤリとした夜気を孕む深夜の公園に降り立ち、もう一度、葛は空を見上げた。
プラネタリウムとは違う、天井のない、果てのない空。
「綺麗、だよな」
「ん」
「何百年も前から変わらねえし、きっと何百年先でも変わんねえんだろうな……」
「ん、たぶん、ね……多分ずっと、変わらない」
どこまでも繋がっていきそうな広大な色に、眩暈にも似た感覚に囚われ、よろめき、そして互いの指先が触れ合う。
引き合うようにそっと絡み合い、繋がれる手と手。触れた先から伝わる温度。
ああ、と思う。
傍にいたい。声が聞きたい。思っていたい。見ていたい。ずっと、これからもずっと、当たり前にように、まるで呼吸をするような自然さで時間を重ねていきたい。
ずっと一緒にいたい。
ずっと、これからも、ずっと、もしも永遠が許されるなら、永遠のその先までずっと……
自分の内側から声がする。
「ずっと、一緒にいられますように……」
流れ落ちる星へ、願いを込めて。
「そうだな」
「え」
無意識にこぼれ出た葛の想いをそっと拾いあげて、和馬は頷き、微笑み掛ける。
「ずっと、一緒にいよう」
愛しげに、静かに、優しく穏やかに微笑み掛けてくれるから、和馬の温度に心を寄せて、葛は包みこむような深い夜を彼と歩く……
END
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