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<東京怪談ノベル(シングル)>


匣の中 〜夢裡に獣の名を知る事〜


 此所は何処かと問うなかれ。
 目に飛び込んでくるのは、一面の籠目模様。
 彼瀬春日はゆっくりと身を起こした。ちゃらり、と、身にまとった、民族風の飾りが小さく音を立てる。
 そこは密閉された部屋だった。
 部屋というよりは、匣と言ったほうがよい。
 籠目に囲まれた、まるで虫籠のような、方形に仕切られた空間。広さは六畳ほどと思われるが、あまり窮屈ではない。巨漢の春日をおさめては、どんな場所でも手狭に感じられてもよさそうなものだったが、不思議と、距離感が失われたような空間なのだ。籠目がもたらす目の錯覚かもしれなかった。
 照明にあたるものは見当たらない。
 しかし、部屋の中は、奇妙な明るさである。眩しいということはないのだが、かといって暗くはない。窓の雪が照り返すような……あるいはうす曇りの日のような――、光と陰の境があいまいな風景に似ていた。
「……」
 ぼりぼりと、春日は頭を掻く。
 ここがどこだが、まるでわからぬ。さて、俺はどうしたのだったか。
 記憶をたどるが、そもそも今が昼なのか夜なのかもわからないから、いつのことを思い出せばよいのかもはっきりしない。
 息子や妻とごく最近かわした会話や、自分の行動の断片は思い出すけれど、それと今とがどう繋がっているのかが、どうやっても思い出せないのである。
 これは話に聞く記憶喪失というやつか?
 よくマンガである、「ここはどこ?わたしはだれ?」という症状かもしれない。
 反射的に、気持ちの乱れや心の昂りに効く処方が、頭に浮かんだ。
 自分が鍼灸や薬を扱うものであることは忘れていないようだ。もちろん、彼瀬春日という名も。
 中途半端な記憶喪失だな。
 頬を緩める。
 不安や恐怖はなかった。むしろ泰然とした気持ちだ。
 暑くも寒くもなく、ここはまるで時間がないかのように、なにもかもが静止しているような気がする。
 籠目の向こう――、すなわち、部屋の外はまったくの闇であった。
 いわば漆黒の虚空に、ぽっかりと、匣のような部屋が浮かんでいるというような状態なのだ。
「――」
 ふと気づくと、そこに、一匹の獣がいる。
(虎……か……?)
 最初からそこにいたのだろうか、まるで猫のように、そこに坐っているのだった。
 白い毛並みが艶やかで、まるで高名な彫刻家の作品のように、凛とした気配を漂わせている。
 そしてその目は――磨かれた硝子玉のような、美しいが虚ろな瞳だった。
 その目が、じっと、春日のほうを向いている。
「よお」
 声をかけてみた。
 虎と密室の中に二人きりでも、もの怖じひとつせぬのが春日という男だ。得体の知れぬこの状況を、あるいは楽しんでいるのかもしれぬ。
「……」
 ぴくり、と、白虎は耳を揺らしたが、それ以上の反応は見せなかった。まるで、こちらが見えていないかのようだ。
 春日は、鷹揚に身を起こすと、慎重に――しかし口元には不敵ともとれる微笑を乗せたまま――白い虎に近付いていく。
「!」
 硝子の瞳が、まばたきに遮られた。
 虎はぱっと立ち上がり、すこし、後ずさった。
「なんだ。おまえ俺に今の今まで気づかなかったっていうのか。目と鼻の先に――」
 言いながら、うしろを振り返った春日は、あんぐりと口を開ける。
 そこに扉があったのだ。
「なんだ……こりゃ」
 虎と春日のあいだの空間に、忽然と、扉が立っている。なるほど、虎からはこれが目隠しになって春日が見えなかったというわけか。
 近寄ってみるが、前から見れば普通にそこに扉が立っているとしか見えぬのに、横にまわりこんでみれば、それには厚みがなく、裏側からは何も見えはしないのだ。
「――……」
 足元に、虎が寄り添うように近付いてきた。
「なんだ」
 春日を見上げる様子は、虎というより、迷い猫のようだ。ゆらりゆらりと尾が揺れる。
「おまえ、ずっとここにいたのか」
 腰を落として視線を合わせる。その首元に手をふれて、毛並みの中に指を埋めた。
 すっと虎が目を細める。そんな仕草も、猫に似ていて。思わず春日は表情をゆるめた。
 そんな春日を、虎は見つめ返し、そして、うつむき加減になった。
「おまえ……」
 春日は呟く。
 一瞬――、意識にかかる靄のようなものの彼方に、なにかがちらついたような気がした。
「……俺は……おまえを知ってる――か……?」
 はっとしたように、虎は顔を上げる。
 まるで春日の言葉と思いを解しているかのようだ。
 その顔が、どこか困ったような表情を浮かべたように、春日には思えた。
「教えてくれ。この扉は何だ。ここは一体、どこなんだ」

 嗚呼――。
 此所は何処かと問うなかれ。

 ごう、と、突風が吹く。
 しかしここには窓もなければ、風は春日の赤毛をなびかせもしない。
 風が吹いたのは、春日の頭の中のことだ。あるいはそれは、あまりにも遠大な《時》がたてる音だったのか。
 男が、いた。
 そして、その胸から、大量の鮮血があふれる。どくどくと、赤黒い血が、あとからあとから噴き出す中、えぐりだされたのは……男の心臓、か……?

(何――だ、これは。俺……の……?)

 そして、女がいる。
 湯気が立つほどに熱い血にまみれた、真っ赤な塊。
 男の胸から取り出されたそれが、今度は、女の白い腹の上に血をしたたらせながら、ゆっくりと、埋め込まれていこうとしていた。

(知ってるぞ。俺は、これを……)

 ずぶずぶと、赤い塊が、女の、腹に――

「……っ」
 唐突に、その光景は途切れた。
 白昼夢……あるいは幻、か。
 春日は、傍の白虎を振り返る。じっと彼を見上げる、物言わぬ獣の硝子の瞳は、言い知れぬ哀しみに充ちていた。
「そうか」
 呆然と、春日は自分の唇が勝手に言葉を紡ぐのを感じていた。
「おまえだったのか」
 ぴくん、と虎の髭が跳ねた。
「おまえは……」
 そして春日は、その名を――呼んだ。
「    」



「…………」
 飛び起きた。
 今度は、まぎれもない、自分の寝室の寝床である。
 全身に、びっしょりと汗をかいている。
 コチコチと、夜のしじまを刻む時計は、真夜中と未明のあいだに差し掛かる頃か。
(夢か)
 そう断じてしまうことは、たやすい。だが――
「うぅ」
 低い、呻きを漏らす。
 ふいに感じた焼きごてを押し当てられでもしたような痛みに、春日は顔をしかめた。
 夜着の前をはだけてみれば……、春日の、ぶ厚い筋肉に鎧われた胸板の下、ちょうど心臓の上あたりに、夜目にもはっきりとわかる(あるいは、そうであることを春日が知っていたから見えたと思ったのかもしれない)紅の字の痣が、すうっと浮かび上がってくるのだった。

 汗を吸ってぐっしょりと重い夜着をそのまま脱ぎ捨て、まだ家人の誰も起きだしてこぬ中、春日はシャワーを浴びた。
 鏡の中から見つめ返してくるのは、40年付き合った自分の顔だ。
 だが、それが今日は、見知らぬ男のようにさえ思われる。
「なんだっていうんだよ、おまえはよ」
 その男に、問いかけた。
 確かめるように指をはわせば、不精髭の感触が返ってきた。
 そして、湯が流れ落ちて行く、褐色の肌の上のあやしい刻印――。
 その爪痕を、春日の肉体に残したものは、運命以外の何者でもないだろう。

(了)