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<東京怪談ノベル(シングル)>


ELM ―空を鎖す―



 部屋の中は、アルコールの臭いで占められていた。
 あちこちに転がったビール缶が、部屋の主の現状を訴えている。
 まだ中に少し残っているビール缶を片手に、成瀬冬馬は机にうつ伏せになっていた。
 酒の力でも借りなければ、とてもではないが耐えられない。
 冬馬は、すぐ横に居たのに護れなかったのだ。―――― 一ノ瀬奈々子を。
 一瞬で掻き消えた彼女を止める暇など、実際なかった。だがそれでも、冬馬は自分を許せない。
 落ちてきた天井に押し潰された奈々子。
 あれから……あんなことがあって、でも自分たちの力では瓦礫を片付けられなくて……その日はそれぞれ重い足取りで帰宅した。
 冬馬は一睡もできず、ただ夜明けを待った。
 あの冷たい瓦礫の下に奈々子が放置されていると思うといてもたってもいられなかった。
 だが。
 朝一番に行くと、瓦礫は綺麗さっぱりなくなっていたのだ。
 一体何が起こったのかわからず、冬馬は慌てた。
 掃除したように、綺麗に何もなかった。
 困惑して、いつもあの三人が居た店に行ったが彼らは現れることはなかった。
 なぜか?
 冬馬は冷やりとしたものを感じた。
 それはもう……一週間も前のことになる。
 持っていたビール缶を握り潰す。
 冬馬は顔をあげた。どこかで携帯が鳴っている音がしたが、出る気はない。そういえば……何度か鳴っていたような気がする。まあ、どうでもいいことだ。
 缶に残っていたビールを飲み干すと冬馬は立ち上がり、よろめく足でベッドに倒れ込んだ。
(奈々子ちゃん……)
 脳裏によぎる、奈々子の笑顔。それを思い出すと胸が締め付けられるような痛みが走った。



 冬馬はぼんやりと、座っていた。ここはあの三人組がよく来ていたファーストフード店の二階だ。
 いつも陣取っていた三人組がいないため、ここは空席だ。そこに冬馬は座っていた。
 窓からは行き交う人々の波が見えていた。
 ここにいつも居た三人がいなくなっても……世の中は変わらない。
「あの、相席……いいですか?」
 ぼんやりとした瞳でそちらを見遣り、冬馬はぎょっとしてのけぞる。
「なっ、奈々子ちゃん!?」
 目の前に立つのは、制服姿の、冬馬が見慣れている奈々子だ。
 腰までの長い黒髪といい、整った顔立ちといい、間違いない。見間違えるわけがない!
 でもどうして奈々子が……?
「無事だったんだね?」
「……お酒臭いですね、成瀬さん」
 眉をひそめている奈々子に、冬馬は照れたように後頭部を掻く。
「身なりも少し汚いですね。お風呂に入ってないんですか? 顔も洗ってないとか?」
「だって……」
 それは、キミが。
 言いかける冬馬の向かい側に彼女は腰掛けた。
 どこもケガなどない。良かった。彼女は無事だったのだ。
 そう安堵する冬馬は奈々子を見つめる。冬馬の視線に彼女は怪訝そうにした。
「どうしました?」
「えっ? いや……やっぱり奈々子ちゃんは美人だなあって」
「そうやっていつもおだてて……。あなたは誰にでもそう言っているんでしょう?」
 呆れたように目を細める奈々子。
 冬馬は少し視線を伏せ……それから彼女をまっすぐ見た。
「今は奈々子ちゃんだけだよ」
「…………」
 奈々子は少し目を見開き、頬を微かに染める。彼女はすぐにぷいっと顔をそらした。
「嘘ばっかり!」
「まあでも、奈々子ちゃんはモテそうだし……望みは薄い?」
「……本気で言っているならどうかしています」
 耳まで赤くして奈々子は唇を噛んでいる。
「そっ、そんなたわ言に私が騙されるわけないでしょう!?」
 にっこり微笑む冬馬を見て、彼女は眉を吊り上げて口を閉じた。
 いつものようにざわめく店内。だがそんな雑音など気にならない。奈々子がこうして目の前にいるだけで、冬馬は嬉しいのだ。
「……本当に良かったよ。奈々子ちゃんが無事で」
「…………私が、美人だから?」
 ふいに奈々子は静かにそう尋ねてきた。
「こうして無事に、元のままだから成瀬さんは安心しました?」
「え……」
「もしもあの事故で……私の顔がぐちゃぐちゃになって……植物人間みたいになっていたら……。今のようには言わないでしょう?」
 悲しそうに微笑む奈々子。
「それとも……あちこちの骨が粉砕されて、ろくに動けなくなっていたり……。
 ――成瀬さんは今の私の姿が、好きなんでしょう?」
 冬馬は呆然とし、それからテーブルを強く叩いて立ち上がった。イスが弾みで倒れる。
「違うっ!」
 奈々子は驚きもせずに、じっと冬馬を見つめた。
 なんてことを言うんだ! なんてことを……。
 冬馬がそんな姿の奈々子を想像しなかったとでも!?
 あの瓦礫の山を見つめ……全身を震わせて、どんなことを考えていたと思う?
 こんな重みの下敷きになったのだから……きっと無残な姿だとか。
 それこそ、奇跡的に生きていても後遺症が残るだろうなとか。
 いつ――――コンクリートの破片の下から彼女の血がこちらに流れてくるかと怯えていたこととか。
「なにが……違うんですか?」
 まるで穏やかな海のような瞳だ。
「姿が変われば、見方も変わります。そういうものです」
「違う! オレは違うっ」
 冬馬は必死に首を横に振った。
 確かに、最初に奈々子が気になったのは彼女が美人だからだ。だが今は違う!
「では……私がどんな姿になっても……例えば物凄い肥満状態でも、あなたは今のように言えると?」
「…………どんな姿でも奈々子ちゃんは、奈々子ちゃんだ」
 低く、抑えるように言うと冬馬はイスを立てて腰掛けた。
 重い空気の中、奈々子は微笑する。
「そうですか」
「…………意地悪だ、奈々子ちゃんは」
「あら。今さらですか?」
 くすくす笑う奈々子は立ち上がった。
「もしも私が死んでも……私を想ってくれますか?」
「……そんなこと言わないでくれ」
「成瀬さんはすぐに浮気とかしそうなので、私は心配なんです」
 楽しそうに言う奈々子の声に、冬馬は苛立つ。
 奈々子は歩いて、冬馬の横にそっと立った。
「私は……実はかなりですね、嫉妬深いわけです」
「…………」
「なので、死んだら私を忘れて、新しい恋を探してとか……そういうことは言えないタチでして」
「…………」
「でも、成瀬さんが私を好きとは限らないわけなので、まあそこは、考慮します」
 冬馬は奈々子のほうを見上げる。
 彼女はやっぱり、まだ幼さは残るが綺麗な少女だ。
「私の恋人になる人は、とっても苦労するなってずっと思ってたんですよ。死んでも想って欲しいなんて……なんてワガママなんだろうかって」
「……キミは死んでない。目の前に居る」
「そうですね。――――だったら、諦めないでください」
 店内の雑音が全て消え、奈々子の声だけ響いた。
「私を諦めないで」
 冬馬は目を見開く。
 すると奈々子は突然眉間に皺を寄せた。ぐっと冬馬に近づく。
「それから!」
「な、なに?」
「お酒は二十歳になってから! 成瀬さんはまだ二十歳になってません! わかりましたか!?」
「は……はぃ」
 つい、反射的に小さく呟く。すると奈々子は片眉をあげた。
「返事は大きくはっきりと!」
「は、はいっ!」



 瞼を開けるとそこは見慣れた天井だった。
 ゆっくりと起き上がり、周囲を見回す。静かに音をたてる時計の秒針だけが、大きく聞こえた。
 散らばったビールの缶。それに、部屋に充満したニオイ。
「………………夢、か」
 意気消沈する冬馬は苦笑する。夢までみるなんて、重症だ。
「………………」
 冬馬はぐ、と唇を引き結んだ。

 ボストンバッグを抱え、冬馬はとうとう戻って来た。ここへ。
 母方の実家……蛍雪の家。
 彼は屋敷の玄関をくぐった。
 二度と悲劇を繰り返さないため……夢の中の奈々子に心配をかけないため…………新たな道を歩くために。
「蛍雪冬馬……只今」
 静かにそう言った彼は、成瀬冬馬の時の面影はない。
「帰参しました――――」