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<東京怪談ノベル(シングル)>


途中下車

 頭が痛い。
 物部真言は、そっと眉をひそめた。
 風邪でも引いたか、疲れ過ぎか。それとも。
 ずきん、と、響く鈍痛は、我慢できないというほどではないけれど、このまま放置していても去ってくれそうにはなく、不快だった。
 アルバイトの身だというのに、残業をさせられた(店長に残業代は出すから、と手を合わせられては断れない)真言の、帰宅時間は遅かった。
 電車は、帰宅ラッシュはとうに過ぎ、かといって終電にはまだ間があるので、満員ではないが、それなりに混雑していて、真言は座席にはありつけなかった。嘆息まじりに吊革にぐったりと体重を預ける。席を占領しているのは、おおむね、疲れた様子のサラリーマンたち。よれたネクタイと垢じみたワイシャツで、年齢を問わず、その顔には覇気がない。社会において働くということは、こんなにも人を疲弊させるものだろうか、と真言は思った。
 ――と、そんなとき、鈍い頭痛が始まったのだ。
(…………)
 顔をしかめた。
 頭痛はだんだんひどくなってくるような気がする。
 頭痛薬を買おう。
 そう思い始めた頃だった。
(――)
 真言の眉が、ぴくり、と跳ねた。
 ――次は、○○○○。××線はお乗り換えです。
 電車のアナウンスは、最寄り駅はまだ先だと告げている。しかし。
(――……)
 真言は窓の外に、流れる街の灯を睨むように見つめた。
 今日は残業で、ひどく疲れた。早く帰ってゆっくり休もう。そう思っていたはずなのに。
 電車が停まり、開いたドアから、真言はホームへと降りた。
 各駅停車しか停まらない、小さな駅の、うす暗いホームだった。真言の他には降りる客がいない。
 ぷしゅう、と音を立ててドアが閉まり、疲れたサラリーマンたちを載せた車両が動き出す。真言は、羨ましそうに、それを見送った。かれらはあのまま帰宅することができるが、真言はそうではなかった。
 そこは、彼が降りたかった駅ではない。

 駅前だというのに、コンビニひとつない。
 果たしてここが本当に東京都内か、と思うような場所だった。
 いちばん明るいのはうらぶれたスナックのネオンで、中から酔客の騒ぐ声とカラオケの音が漏れ聞こえている。
 真言は、耳を澄ました。
 むろんカラオケにではない。彼が澄ましたのは、聴覚とはすこし違う感覚だ。すなわち、声なき声を拾う耳である。
(何処だ)
 呼び掛けるが、いらえはない。
 だが確かに、真言はその声を聞いたはずだ。 
 常人には聞こえぬものを聞き、見えぬものを見るのが彼の生まれついての資質である。すなわち、死者との交信である。
 そして、そうしたものたちに、救済の手を差し伸べることこそ、彼の本当のなりわいと言えるものなのだ。
(何処にいる。そっちか)
 かすかに、またその声が聞こえたようだ。
 真言は導かれるままに、そちらと思ったほうへ歩き出す。そして、彼の夜更けの散歩が始まったのだ。
(……なぜ俺を呼ぶ)
 生ぬるい風に、かさこそと剥がれたチラシが舞っている。
 商店街の店は軒並みシャッターが降りて、通りは閑散としていた。
(おまえは誰なんだ)
 さっと横切る影があって、どきりと立ち止まれば、野良猫だった。
 再び歩き出す。
 街灯が、彼の影をアスファルトの上に長く引き延ばした。
 どのくらい、あたりをうろうろしただろうか。
(何なんだ)
 その声は、まるですぐ耳元で叫ばれているかのように聞こえることもあれば、はるか遠くにかすかに聞こえるだけになったりした。そして一貫して、何を言わんとしているのかは判然としないのである。それは助けを求めているかのようでもあって、誘っているようでもあった。ただ、確かなのは、それは生者の声ではない、ということだけ。
 それでも、すこしずつはそのもののいる場所に近付いているのだろうか。
 あたりはいっそううら寂しい、暗い路になっている。
 夜風は湿っていて、気温は低くはなかったが、真言は寒気を感じ始めていた。そして相変わらず頭痛にとりつかれている。それが霊的な作用によるものなのか、本当に体調を崩しているのかもわからないのが、また、居心地が悪い。風邪を引いたのなら早く帰って薬を飲んで眠るべきだ。だがそうでないのなら――
「くそ」
 思わず、声に出してしまった。
 こんなことをしていて何になるというのだろう。
 いったい何が言いたいのかもわからない声に誘われて、闇夜の街をうろうろと。
 これまで、彼は東京にさまよう、どれほどの霊を祓い、救ってきただろうか。そのことは誇ってもいいことだと思う。思いはするが……
(俺は何のために、こんなことをしてるんだ)
 それは何度となく繰り返した自問だ。
「…………」
 そのとき。
 彼は音を聞いた、と思った。
 今まで聞いていた呼び声とは違う。なにか、濡れたものを引きずるような音である。

 ズ、ズズ……

 彼は前を見据えた。
 街灯が切れているのか、その先は深い闇に沈んでいる。その向こうに……なにかいる。

 ズズ……、ズ、ズズ……

「おまえなのか、俺を呼ぶのは」
 真言は呼び掛けながら、それを追う。
(もう疲れた)
 それまではっきりしなかった声が、かなりはっきりと聞こえた。
「何がだ。おまえは誰だ」
(どうでもいい)
「姿を見せてくれ」
(もう疲れちゃった。ねえ。……あなたも疲れない?)
 生命を失ったうつろな瞳が、闇の中から真言を見つめ返してきている。
 頭が痛い、と真言は思った。
(疲れ過ぎて、何もかもどうでもよくなっちゃった)
 ぱくぱくと、音にならぬ声をつむぐ唇は、血に濡れていた。
 男――だと思ったが、判然としない。口調からすると女なのかもしれない。いや、あるいは複数なのか?

 ズズズ、ズ……

 もはやそれは、人間のかたちをしていなかった。
 かろうじて、四肢の片鱗をとどめてはいるが、胴体は肉塊に過ぎぬ。ぼろぼろの衣服の残骸がそれに絡みつき、ぐっしょりと血に濡れ、そのきれはしと、ちぎれかかった肉やはみでた内臓を、それはひきずっているのだ。
「苦しいのか」
 真言は、短く訊ねた。口の中がからからに渇いている。だが返ってきたのは否定だった。
(もう会社には行かなくていいから)
(行きたくても行けないものね)
(あなたも、もう休んだら)
「俺――は……」
(休もうよ)
「……」
(疲れてるんでしょ)
 ああ、そうだ。俺は疲れている。疲れ過ぎて、頭が痛い。
 真言は思った。
 バイトなのに残業があったんだ。それなのに俺は、家にも帰らず何をしている。何のためにこんなことをやっている。迷える霊を浄化したからといって……そんなものはあとからあとから、無数に存在するじゃないか。俺はなぜこんなことをしている。誰かに感謝してもらいたいからか。誰かを助けたいからか。誰かを助ければ俺は満足するのか。それは誰かが助けが必要な危機に陥ることを望んでいるということか。俺はその誰かの窮地につけこんでいるだけじゃないのか。人を助けてやったという自己満足のためにやっているんじゃないかのか。
 俺は…………
 
 闇を刺す光――

「……!」
 そして、パァン、と鳴った警笛。
 真言は、すんでのところで身を翻した。
 突風に、尻餅を突く。
 その眼前を、猛スピードで列車が通り過ぎて言った。
「…………」
 哄笑が響く。
 真言は、きっと虚空を睨み付けた。
 電車が通り過ぎたあとの、線路の上に、それはまだ、放置された生ゴミのようにしてわだかまっている。
 それはここを通る列車の乗客を呼び寄せては、おのれの仲間に引き入れていたのだろう。
 真言は容赦なく、祝詞を囁き始めた。


 頭痛は、収まっていた。
 だが、身体の疲労はピークである。
 誰もいない駅のホームで、終電を待ちながら、真言は、明日のバイトの予定のことを考えていた。

(了)