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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


夜の黙示録

 カーテン越しの月明かりは奇妙なくらい蒼くて、部屋はまるで海の底に沈んだようだ。
 時計の針は真夜中を指している。音と言えば秒針のそれしかない静謐さは、ただしんしんとマリンスノーの積もりゆく深海にも似て。
 夏目怜司は、ひとがよこたわっていた跡だけをとどめた、からっぽのベッドをみとめる。
 枕元には読みさしの本。このところ息子が気に入っているらしいSF作家の小説だ。小学生が読むには難しい物語だし、古い本ではあるけれど、往年のSF黄金時代の名作であることは、怜司もみとめている。
 ぼんやりと、そこまで考えてから、はっと目を見開いた。
 息子――、灰は、つい先ほどまで、そのベッドで眠っていたのではなかったか。
 読んでいた本を投げ出したまま……きっとそれを読みながら、怜司の帰りを待っていたのだろうが、眠ってしまったのだ。怜司はベッドサイドにそっと腰を下ろして、しばし、息子の寝顔を眺めていたはずなのだが……。
 だが、灰はベッドにいなかった。
 疲れた身体でついうたた寝をして、そのあいだに灰はベッドを抜け出したのだろうか。
 そうではなかった。
 灰は、家中どこにもいなかったのだから。
 怜司は、家を飛び出す。

  ◎ ◎ ◎

 甦る遠い記憶は雨の色――
 傘の下から、怜司は呆然と、目の前のものを見つめた。
 路地裏で、濡れそぼっているのは、少年だ。
 まるで捨て犬か捨て猫のようだけれど、そうではなくて、人間の少年なのだ。
 こんなことがあるのだろうか。
 あまりに現実感を欠いていて、思わず笑い出しそうにさえなった。
 雨の日に、路で男の子を拾うだなんて。

  ◎ ◎ ◎
  
 通りに差す月明かりは奇妙なくらい蒼くて、部屋はまるで海の底に沈んだようだ。
 町並は、よく見知ったもののはずなのに、どこかデッサンが狂ったような、シュールレアリスムの絵画のような不安定な印象を与える。あるいは、真夜中になって、凡庸な日常が、昼間は隠していた、いつもとは違う顔をそっと見せたような。
 その中を、怜司は小走りに駆けた。
 灰の姿はどこにもない。
 それどころか、街には人っこひとり、猫の子一匹の、動く物の姿とてなかった。
 いかに真夜中とはいえ、東京の市街地でのこと、不自然であったが、今の怜司にそのようなことを問うている余裕はない。
 あの雨の日に偶然出会って――いや、行き当たって、とか、そういう表現のほうがふさわしいが……そして怜司は、きっとそれは偶然ではなかったのだと思っている――それから少年は夏目灰となった。
 事情を知らぬものは、夏目先生にお子さんがいらしたんですね、と目を丸くした。世間的な常識の視点からすれば、怜司の家はきっと「事情のある(たぶんバツイチ)父子家庭」に見えるのかもしれない。そんな視線に苦笑のようなものを浮かべながら、それでも穏やかにゆるやかに過ぎてきた何年間かの父子家庭生活だった。
 いつのまにか、灰がそこにいるのはあたりまえのことで。
 ただその姿が見えないというだけで、自分はこんなにも取り乱してしまうのか。子どもが夜中に目覚めて、親の姿が見えぬことに泣くのはよくあることだが、その逆のようなことがあろうとは。
 怜司は、いつもかけていた眼鏡をとりはずした。
 しかしこれは単なる過保護ではない、と、怜司はどこかで確信している。
 怜司の見えないものを見る眼がそれを告げている。
 何かが起こっているのだ。
 そしてそれは、穏やかな父の子の日常の影に、常にひそんでいたものだったのだ。
(いつか、こんな日が来ることを…………、俺は知っていた――のか?)
 いつのまにか――
 怜司がさまよっているのは、見知った街角ではない。 
(この時を、俺は予知していたのかもしれない)
(朝方の夢にみるまぼろしのように、おぼろげに――)
(でもそれを、心の隅に追いやって否定していた……)
(そんなことがあってほしくないと、願うばかりに……目をそらして――)
 夜とも昼ともつかぬ、言いようもない色合いの空の下、建造物はすべて崩れ去って久しい。
 それが、怜司の眼が見せる幻視の風景に過ぎないのか、なにかの拍子に彼自身が異界にまぎれこんでしまったものかは、判別するすべがなかった。
 怜司は足を止める。
 大気の中に、かすかに溶け込んでいる、音を聴いたのだ。

 Sha・La・La・La―― Sha・La・La・La――

 それは誰かの歌声のようでもあったし、透明感のある楽器の音色のようでもあった。ただ言えるのは、不思議なくらいに澄み切った印象のある、美しい音だということだった。天上の音楽――、そんな言葉が、ふと浮かんだ。

 Sha・La・La・La―― Sha・La・La・La――

 怜司は前方に眼をこらした。
 がれきの、低い山だけが連なる平地の果てに、ひときわ高くそびえているもの。
(城……?)
 それを城と呼ぶなら、そう呼べぬこともない。
 いくつもの尖塔が、無秩序に、しかし、どれも真直ぐに天を向いて屹立している。そのシルエットは、途方もない時を経てなお未完成であり続ける建築として知られる聖家族教会のそれにも似ていた。だが、近付くにつれて、それがかの世界遺産とは似ても似つかぬ、異形であることを怜司は知る。
 それは、機械類で構成されている。がらくたを積み上げているだけなのか、機能しているものなのかはうかがうよすがもないが、とにかく、一見無秩序に、見える限りの部分がギアやシリンダーやスプリングや……金属の部品の組み合わせで出来上がっているのである。
 そして、誘うように口を開けている入口からは、低い駆動音のようなものと、あの天上の音楽とが漏れ聞こえている。
(ここにいるんだな、灰)
 わけもなく確信して、父は、異形の城へと足を踏み入れるのだ。

  ◎ ◎ ◎

「灰!」
 思わず、声を張り上げてその名を呼んだ。
 いらえはない。
 ただ聞こえるのは透明な天上の音楽と……侵入者を排すべく立ちはだかる異形の影が立てる、耳障りな金属音だけだ。
 機械の城の内部は、すべてが金属で出来ていた。工場のプラントの中に迷い込んだように、複雑に路は折れ曲がり、分岐し、急な階段によって上方へと導かれていったが、怜司は迷うことなく上へ上へと進んでゆく。そこに灰がいることは、怜司にとってはもはや事実でしかない。それは眼によって「視た」予知とは、すこし違う。運命の帰結点、とでも呼べばいいだろうか……、とにかく怜司は「そのことを知っている」。自分でもそれと知らぬうちに知っているという矛盾の中を、彼は歩んでいるのだった。
 だが、機械の城は、彼の運命を許さないらしい。
 かろうじて人型をとどめた、しかし、醜い機械の部品をつなぎ合わせただけの衛兵たちが、鋼鉄の腕をふりあげ、燃える単眼に敵意を宿して、怜司に向かってくるのだ。
 それらは、しかし、怜司の瞳が深紅に輝き、その手にふれられと、瞬時にして塵へと分解してゆく。
「灰ー!」
 怜司の声が、彼以外には生きるものがいないのではないかと思わされる空虚な城の中に響き渡った。
 この城はなにもかもが無機物で出来ている。
 怜司を排斥しようとするその敵意さえもが、生命なき、つめたいプログラムの産物なのだ。
 その中を、ただ息子の名を呼びながら駆ける怜司だけが、熱い生命を持つ存在だった。
 熾烈な攻撃が、怜司の着衣を破き、その身体に傷をつけたが、少々の怪我などには構わず、彼は前を目指した。 
「灰――」
 いったい、何体の、機械たちを葬っただろう。
 ようやくたどりついたそこは、城の最上部と思しきところだった。
「…………」
 その異様な光景に、彼は息を呑む。

 Sha・La・La・La―― Sha・La・La・La――

 歌だ。
 ああ、そうか。
 それで、どこか懐かしいような……そんな気がしたのか。

 それは文字通り、天使の歌。
 機械の城の最上部、無機物の玉座に君臨する、天使が唱う歌だったのだ。
 いや……、君臨しているのではなく、それは囚われている――というべきだったのだろうか。
 なぜならそれは、生身の、有機物の肉体を持っていたからだ。
 ほっそりとした、色白の裸身に、鈍色の機械の拘束具がくいこむようにしているのが痛々しい。そしてその背中からは、美しい、半透明の、物質とも非物質ともつかぬ一対の翼が、大きく左右に広がっていた。さらには、そこには無数のコードの束が接続され、それが機能している証に、光りの奔流が、そのコードと翼のあいだに通っているようだった。
 それは城に接続された、生体部品のような存在だった。
 おさなさの残る面差しは、かれが十四、五の少年であることを示している。流れるような髪はきらめく銀色で――。
(灰)
 年齢も髪の色もまるで違うのに、怜司はそれが彼の息子であることを知っている。
 彼はその囚われの天使のもとへ駆け寄った。
 壁や床からあらわれる鋼鉄の腕をなぎはらいながら、怜司は少年のもとへすがるようにたどりついた。
「灰!」
 呼び掛けに、その瞳が、うっすらと開く……。
 ばちばち、と閃く紫電。
 瞬間、怜司の脳裏にフラッシュする何時のものとも何処のものとも知れぬ映像がある。
 白衣の男たち……かわされる低い囁き……分厚いカルテの上の走り書き……ストレッチャーで運ばれて行く少年……輸血パック……注射器……バイタルサイン……そして――
 翼に接続されていたコードが、その身を戒めていた拘束具が外れていった。ぐらり、と支えを失ってくずれる身体を、怜司が受け止めようとした、その刹那――!
 ひゅん、と空を切って飛来したコードの一本が、怜司の片目を突いた。
 それでも彼は悲鳴ひとつあげず、少年を抱きとめた。
 はっ、と、天使はその腕の中で、父を見上げる。
 どくどくとあふれる鮮血は、まるで血の涙だった。
 安堵なのか、不安なのか、泣き笑いのような顔で彼を見下ろ父の顔に、灰は――

  ◎ ◎ ◎

 カーテン越しの月明かりは奇妙なくらい蒼くて、部屋はまるで海の底に沈んだようだ。
 時計の針は真夜中を指している。音と言えば秒針のそれしかない静謐さは、ただしんしんとマリンスノーの積もりゆく深海にも似て。
 夏目怜司は、ベッドのうえに息子が静かに寝息を立てているのをみとめる。
 枕元には読みさしの本。このところ息子が気に入っているらしいSF作家の小説だ。小学生が読むには難しい物語だし、古い本ではあるけれど、往年のSF黄金時代の名作であることは、怜司もみとめている。
「…………」
 夢――、だったのだろうか。
 しかし、いまだここにあらざる未来の姿さえ垣間見るのが怜司の両眼だ。
 あるいは、あれこそ……。
 かぶりを振って、父はその考えを打ち消す。
 今はいい。今はまだ、そのときではない。
 灰の寝顔は穏やかだった。
 ただ、今はおやすみ。何も思わず、眠りに身をゆだねておいで。こわい夢を見たときは、とうさんが、傍に着いていてあげるから。
 ゆっくりと更けていく夜の底で、怜司は何も言わず、眠る息子を見守り続けているのだった。 

(了)