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<東京怪談・PCゲームノベル>


商物「夜の衣」

 人の噂にあちらこちらと引っ張り回された末に見つけた店舗、路地の奥に入り口を構えた陰陽堂で、烏丸織は暖かな玉露を前に正座していた。
 店内には、織の他に人の姿はないが、見回す店内は興味深く、手持ち無沙汰な居心地の悪さは感じない。
 入り口から奥へ、膝から腰へと順に高さを変える台には駄菓子や子供だましの籤が並ぶかと思えば妙に古びた本が積まれ、ガラスケースに真贋を問いたくなる無頓着さで装飾品の類が並び、壁かと思う高さで左右に聳える棚の小さな引き出しに和紙に墨でひとつひとつ、納められた薬種の名が記されている。
 正面に視線を戻せば、先まで店員の……店主の座した脇には古風な煙草盆が置かれ、渋みのある色合いに変じた煙管が緩く紫煙を立ち上らせていた。
 昔、祖父が好んで吸っていたのも煙管だったと、懐かしく思い起こしながら玉露を口に含めば、爽やかな香気が口中に満ちて上質のそれである事を知らせる。
「すっかりお待たせしちまいましたね」
のんびりと和んだ所で、台場の奥の戸口から声をかけながら戻ったのは藍の和装を纏った男である。
 無精髭の浮いた顎を下から見上げる形に、腰を浮かせかけた織だが、重力に端を垂れさせた帖紙を捧げ持った手で、器用に制されてその場に留まる。
「こちらがお求めの、その品に御座います」
言って店主は織の前に片膝を付き、畳の上に置いた和紙を広げて見せた。
「そうです、確かに」
噂を聞きつけて求めた着物は単、と呼ばれるそれ。下着のように和装の一番下に纏う薄い生地の黒は、絹の手触りでさらりと水のような光沢を持っていた。
 一目で求める品と解る漆黒。
 墨染めの黒は最も染めの難しい品なのだ。染料に浸し、乾かし、水と天日に晒してまた染める。それを幾度となく繰り返し、染めを重ねる毎に深まる黒は色濃い程に価値が高い。
「これは……糸から? 布から染めたにしては深い」
独言の声音ながら確かな問いで、織は染織師としての目で検分しながら生地に触れる。持ち上げれば、強張ることもなくつるりと流れる生地に半身が拡がり、仕立の確かさもまた目に止まる。
「さぁて。あたしゃ商うばかりで、品の造りようまではとんと」
商売人にあるまじき気の無さで、店主は笑うばかりで答えない。しかし確かに色素を定着させる為に如何なる技法を要したのか、他人にそう明かすはずもなく、店主が知り得ないのも道理かと、臍を噛む思いながら織は追求を諦める。
 しかし糸を痛めた様子もなく、独特の光沢がなければ新月の闇を切り落としたような、布地の色の視線を吸い込む深さは、そう見る事の出来る代物ではない。
 常ならばこの染料には橡を、この色は媒染剤に銅を、とおおまかながらあたりがつけられるのだが、織にしては珍しくそれが判じられずに頭を振った。
 ただ黒いばかりなら、最近の技術で染める事も可能だが、自然物からそれを為すのは墨染め以外にはない。
 しかし今までに見たどれとも違う……と、知識と経験の訴えに、目の当たりにしたそれは織から見当すら奪う。
「……これを染めた方を、お教え下さいませんか」
「残念ながらとうに鬼籍の方でして。しかし何処でお聞きなすったか知らないが、とんだ耳巧者も居たモンだ」
とことん、技を知る術はないらしい。ただ、黒々として其処にある単を前に、腕を組んで考え込む織に店主は笑い、広げた薄衣が自然に作る波を、手で払うように伸ばしながら品の曰くを口上する。
「こちらの単、布から仕立から、紛う方なき上物で御座いますが、それだけでない。寝間に使えば夢に恋しい人と会える、そんな謂れを持ちますが……」
僅かな沈黙に続いて、店主の声がひそりと低められた。
「二度は会おうと思わない。そんなお品で御座います」
そう思えば、そんな話を聞いたような気もする……が、染織家の間での流布している噂は、怪談めいたそれよりも布自体の色合いが重視されていたように思う。
 織が興味の強さから、そう捉えただけかも知れないが。
「折角求めていらしたんですから、実際にお使いになってみては如何でしょう?」
店主に商い人としては至極全うに勧められるが、織はその布地の質を見るに高価と判じて躊躇した。
 手持ちの現金ではまず足りないとの憶測に、値だけを聞いてこの場は引き下がって、後日出直そうという織の胸中の目論見知るはずもない店主は手際よく着物を畳む。
「身を包んでみればそれ、染めの不思議が解けるやも知れず」
言いながら、再び帖紙に納めて更に風呂敷に包んだ。
「丈はぱっと見難はないかと思いますがそこはそれ、寝間着に使う品。細かいコトを気にしてちゃ安眠も出来ないってモンで」
店主は明るい口調で続け、織の返答を待たずに風呂敷包みを差し出した。
「そうそう、大事なコトを忘れるトコだった。この着物はね、裏返して使って下さいましね、あぁ、お代はお使いになってみてそれからで」
とりあえず、無料。
 懐内の問題を見透かされたようで気恥ずかしいが、やはり興味は逸しない……織はせめて、と己の号『戒香』と連絡先をを記した名刺を手付け代りに渡し、再来を約して風呂敷包みを受け取った。


 それから数日。
 幾つかの変更の打ち合わせと依頼の期日、予定とそれ以外の事柄が重なって、織は多忙を極めていた。
 日によっては企画を煮詰める為に京都に向かったついでに奈良に足を伸ばし、染料を仕入れて東京にとんぼ帰りする等、帰宅が深夜に及ぶ事もあり、件の衣の事は正直、忘れかけていた。
 思い出したのは、軽くシャワーを浴びた後で久方ぶりに戻った寝室……それまでは新幹線の中で仮眠を取るかか、作業場で夜を明かすかで、漸く仕事に目途が付いた深夜、纏まった睡眠を取ろうと先に部屋に灯りを点せば、衣桁屏風にかけた単に迎えられた次第である。
 電灯の光すら吸い込むような黒。薄暗い店内で見た折とは別に、絹独特の光沢はそうと見れば光を反射してではなく生地が更なる陰影を作っているのだと知れた。
「……寝間に使えば夢に恋しい人と会える」
歌うような言い回しの店主の言が、口を突いて出る。
「二度は、会おうと思わない」
織は手を伸ばし、衣桁屏風から衣を下ろした。
 掲げた掌を支点に、絹は滑らかに重みに垂れ、肌に触れる箇所が心地よく、織は一つ、息を吐いた。
 恋しい人と問われて、先ず浮かぶ面影は決まっているが、二度目はないと断言されればやはり躊躇が先に立つ。
 そこで織ははったと顎を上げた。
 そもそも、染めを見る為に借りてきたのであって、謂れを確かめる為ではない。
 余程疲れているらしい、と苦笑して、織は衣を寝台の上に放り投げた。
 織は祖父母の影響に寝間着に浴衣を愛用しており、湯上がりに既に着替えを済ませて居た為、余計に着替えるのも億劫だ、と。
 己の内に理由をつけて、織は早々に布団に潜り込む。
 横になれば身の内に凝る疲れが顕著に感じ取れ、意識に先んじて重い手足から眠りに落ちる気怠い感覚に目を閉じる。
 恋しい人……会いたい人。しかし今生では決して逢えない、その面影。
 知らず瞼の裏に思い描く人影は、必ず織にその笑顔を向ける。
『ただいま、織――』
駆け寄る自分に大きく手を広げて迎える、いつでも、いつまでも変わらぬ情景をこの日は妙に鮮明に思い出しながら、織は意識を手放した。


 その家はいつでもセピアがかったような空気を纏い、時の流れすらも重みを持ってゆったりと流れるような独特の気配を持っていた。
 織は嘗ての幼い姿で、育った家の瓦屋根の庇をぼんやりと見上げる。
 此処は祖父母の家だ。
 男の子は育ち難いと言われるその通り、季節の変わり目には熱を出し、夏や冬の温度変化に負けては体調を崩し、人混みに外出すれば風邪や折々の流行病を貰ってくると、幼子らしい抵抗力の無さが特に顕著だった織は、幼少の砌より京都の祖父母の元に預けられていた。
 家の中に、人の気配はない。
 染織家である祖父が染めた糸を祖母が機で織り、更に刺繍を施して仕上げた衣装が能舞台で使われる様を観劇に行ったのだと、思い出す。
 織も行きたかったのだが、今日は父と母が東京から戻ってくる休日で、両親を家で迎えるのだと、一人で留守番をしていた日だ。
 待ちきれなくて、車の音がする度に何度も何度も家の外に出て、父と母が帰ってくる道を心待ちに見つめていた。その幾度めか。
 織は霞んでぼやけ、遠くまで見通せない向こうを見遣ってから、家の中に駆け込んだ。
 玄関口できちんと靴を揃えて上がり、祖父が紺に白い丸を染めて……曰く、水に映った月だから歪んでいるのだと主張する暖簾に廊下と仕切られた茶の間に入る。
 庭に面した縁側を有して実際より広く感じる空間、真ん中に据えられたちゃぶ台の脇に所在なく座った織は、手持ち無沙汰に電気ポットの湯量を確かめた。
 本を読んでも頭に入らず、雑誌の付録に手を出しても集中出来ない。
 祖父が買ってくれた、古代紋様の本を眺めて潰す時間は長く、織は柱時計に目をやっては遅々として進まぬ針に息を吐く。
 ……待っている。ずっと此処で待ち続けているのに、父と母は帰ってこないのだ、まだ。
 そして自分は柱時計が三つの時を打つのを、怖れている。
 不安はじんわりと泥のように胸の底に澱み、織は動きを止めて長針が天を指すのを見つめた。
 時計の振り子が左右に揺れる。カチコチと時の流れを示すそれに同期する鼓動に、織は胸を押さえる事で不安を封じ込めようとする。
 秒針のない時計の動きを針の角度だけで読み、もうすぐ電話のベルが鳴る、と確信的な予感が緊張に変わるのに、織はきゅっと唇を噛みしめた。
 十秒……九、八、と心中に数を数えてチッ、と長針が動きを見せた瞬間。
「ただいまーっ!」
時を告げる鐘の代りに、思わぬ声が鼓膜を貫いて織はビクッと身体を強張らせる。
「何、誰も居ないの? お父さん、お母さーん。織ー? ただいまー」
廊下を歩く軽い足音が近付き、暖簾を両手で軽く支えて覗き込む顔を、織は硬直したままで迎えた。
「何よ、居るんじゃない。ただいま織、いい子にしてた?」
全ての不安を払拭する笑顔が、ふわりと織を包み込む。
「おかえりなさい……お母さん」
呆然と呟く織に、続いて覗き込んだ顔が目を丸くする。
「ただいまーっと、どうしたんだ織、狐につままれたような顔をして」
大荷物を両手に下げ、置き場所を求めて部屋の隅に移動するのを目で追って、織はうん、と頷く。
「おかえりなさい、お父さん」
問いの答えにはなっていないが、それだけで通じるものがあるらしく、父もまたうん、と頷いて応じた。
 待っていた両親の帰宅、事実その姿が目の前にあるのに、その筈はないと織は再び柱時計を見上げた……針は三時をさしかけて動かず、振り子も斜めに傾いだおかしな位置で止まっている。
 本当ならばこの日は、三時と同時に電話が鳴り、織はそれで両親の事故の報を知るのだ。
 しかし報せより先に、確かな姿で織の前に姿を現わした二人の姿に、そうであるべき記憶との齟齬に織は面食らう。
「なぁに、男同士だけで解り合っちゃって。はぎれっこにするなら私にも考えがあるわよ」
考え、の部分で母は織の傍らに膝を付き、しっかと彼の身体を抱き締めた。
「あ、母さん独り占めはずるいぞ」
手の塞がっている間に先手を打たれた父は本気で抗議し、荷物を漁ってチチチと舌を鳴らして織を呼ぶ。
「ほーら、こっちおいで織ー。欲しがってた配色辞典だよー」
「あなた、猫じゃないんだから」
織に逃げられないよう、腕の力を込めた母の諌めに父が笑った。
「そうだな、猫は辞典より猫缶だもんな」
ずれた部分で納得した父は、よいせと織と母の対面の位置に座る。
 京都での織の生活は、祖父母の年齢もあるだろうが落ち着いたものだったが、ここに父母が混じると途端に忙しくなる。
 京都出身者は、観光戦略の影響のせいか、はんなり、というイメージばかり先行しているが、実の所はそうでもない。
 父母は共に明朗快活、会話のテンポも歯切れ良く、織が遣り取りに混じれない事もしばしばである。
 両者は共に東京に職を持っていたが、週末毎、時間が空く毎に織に会う為、京都との間を行ったり来たり……時にはたった五分の為の逢瀬の為に訪れたりもして、まるでつむじ風のようだ。
 そしていつものように織に会いに来る、道中に事故に見舞われて揃って逝ってしまうあたりまで、終始一貫、最期まで慌ただしい人達だったと今更ながらに織は感心してようやく、これは夢だと認識する。
 疲れた時に時折見る、帰らない両親を待ち続けている夢。
 裏切られる事を知っているからこそ、いつまでも時を告げない時計を見上げている、夢。
 本当に長い間。会いたくても逢えない望みばかりが蓄積していた事に、初めて気が付き、織は沢山の想いを言葉にしようとするが、告げたい、伝えたい気持ちが多すぎて却って声が出ない。
 黙り込む織を抱いたまま、母は頭を軽く撫でて、頬を擦り寄せた。
「遅くなってホントにゴメンねー。元気にしてた? 何か面白い事はあった?」
会えなかった間の会話を埋めようとしてか、いつでも母は矢継ぎ早に自分達が居ない間の様子を、織の口から聞きたがる。
 祖父が居れば先ずは落ち着けと窘め、祖母が横からお茶を差し出して娘の、母の勢いを逸らしてくれるものだが、如何せん今ここは自分だけしかいない。
 その上、不在の間を語るには……両親の不在は長すぎた。
 何処から何から話せばいいのか。口を開けばどうしても、恨み言になってしまいそうで悩んだ織は不意に立ち上がった。
「織?」
その動きに自然と腕を解いた母が見上げ、父は自分の番だと両手を広げて息子を待つが、織は二人を見比べて逡巡にそれ以上動けないで居る。
「大丈夫よ、ちゃんと此処にいるから。いってらっしゃい?」
居間から出たい織の気持ちを察して母が微笑んで請け負う。
「……とーさんの番は?」
次に抱かせて貰えるものと思っていた父が拗ねるのに、母のツッコミ代りの布巾が宙を舞った。
「直ぐに戻ってくるから」
そんな両親の遣り取りにほっと肩の力を抜いて、織は部屋を出て直ぐの階段を駆け上がる。
 屋根裏的な二階の空間は昔は母の私室だったのだが、今は織の部屋として与えられていた。
 屋根の傾斜が見える少し低い空間は、不思議な落ち着きを持っている。
 文机や箪笥など母が使っていた家具もそっくりそのまま譲り受け、その中にある行李の前に織は膝を付いた。
 祖父母に預けられてから、染色や織物に興味を持ち、祖父母の仕事を手伝うようになった。
 手伝い、とは言っても子供に出来る仕事は限られ、掃除や荷物運び、祖父母間の伝令などの他愛ないものだったが、その合間に祖父が染める糸の色、祖母が織り上げる生地の美しさを目にして知らず学ぶ事が多い。
 そんな織を、邪魔するなと引き離す事も、遊びじゃないと叱る事もなく、母はただ見てくれていた。
 最も、「粋ねぇ」と笑っていたあたり、面白がっていた感が否めない。
 その母と、約束をしたのだ。
 いつか母の日に着物を作ると――直後にずるいとごねた父に、ネクタイを作る約束を取り付けられたりもしたが。
 あの日、織は祖母に貰った端切れを祖父に染めさせて貰った初めての作品を、二人に贈るつもりで待っていたのだ。
 その端切れを大事に入れた行李を開けると、中には着物とネクタイが納まっていた。
 ……それは今年の春に仕上げた織の作品。夢の、道理に合わない展開を、夢の中だからこそすんなりと受け取って、織は捧げるように着物を持ち、その上にネクタイを置いて何の疑問もなく立ち上がった。
「あいたッ」
ゴツッと音を立て、低い天井の梁に頭をぶつける。勿論、子供の頃はそうでもなかったが、成人を経て伸びきった身長は部屋の規格を超えていた。
「あたた……」
身を縮め、それ以上のダメージを被らないように気を付けながら階段まで辿り着く。
「どうかしたのか織?」
音に気付いたのだろう。すぐ下からかけられる父の声に急いで階下に戻った。
 階段に手をかけて待っていた父と、座ったまま暖簾の下から顔を出して見上げる両親が目を丸くする。
「これは父さんに、こっちは母さんに。私の作品です」
端切れをただ染めただけの子供の遊びではなく、それは織が精魂を込めて……毎年、父と母の為にと思いながら作る、『戒香』の誇りを込めて作る一作だ。
 それが織の一年の集大成であるように、それまでに得た技法、経験を生かして現時点での最高傑作である事を意識して、毎年糸から染め、織り上げる一反の紬。
 今年の布は良質の茜を使い、染め色を変えた糸を織り込む事で独特の模様を描き出した。
 父のネクタイには一番幅の広い部分から放射状に色合いを濃く織り上げて、ぼんやりと白い円が濃い茜色の中に主張しすぎることなく浮かんでいる。
 そして母の着物は左肩にも同じように。しかし大きく白い程に薄い丸みを置き、右の膝元に捩るように立ち上る幾つもの模様を織り込む。
 人目に対為す事が解るそれに、父が唸った。
「これを……お前が? すごいな織」
紛れもない賞賛の響きに、織は肩の力を抜いた。
 言葉に出来ないならば、今の自分を見て貰うが最善と、墓前に供えるつもりだったそれを持ち出したのに間違いはない。
 大きくなった、良く頑張ったと。褒めて欲しいと子供のままの気持ちで、高低差のなくなった背丈に父と視線が合わさるのに気付く。
「なぁ、母さん。すごいな織が頑張って作ってくれたんだぞ」
着物を羽織って見、肩の円と膝の模様に手で触れていた母が悪戯っぽく目を上げた。
「……柿本人麻呂でしょ」
母の曰くその通り、万葉集に記載されたひむがしの、に始まる最も有名な和歌を題材としている。
 父と腕を組んだ際、ネクタイに沈みつつある月を、肩の白い円は陽を、そして立ち上る陽炎を配した意匠をあっさりと見破られ、織は母の慧眼に流石と感心する間もなく、次の瞬間に落とされた。
「57点」
「母さん!」
染織家と織物師の子供とはいえ、シビアすぎる採点を頂き、織は思わず蹌踉めいて階段に縋る……そう、こういう人だった。大人の余裕などに縁がなく、子供と対等に喧嘩が出来る人だったのだと、今更ながらに思い出す。
「折角織が作ってくれたのになんてことを! 織、父さんは満点をやるぞ? 百点満点でも足りない万満点……?」
繋がる音に、何が言いたいのかよく解らなくなったらしい父が考え込むのに、母が笑う。
「やぁね、今の織には確かに満点よ。でもあなた、これが織の最高傑作じゃないでしょ?」
笑って織の肩を叩く、母の頭の位置は織の背より低い。
「母さん……」
最高傑作を寄越せというのは、あまりに欲張りな、との言外の非難を込めた父の呼びかけに母はそちらを向いた。
「毎年、前のよりイイのを作って寄越してくれるんだから、今のこれで満足して貰ったら困るんじゃない。この子はこれからずっと創り続けて行くのよ?」
そして自信を込めた笑みで、母は織を見上げて請け負った。
「それこそおじいちゃんになるまで。その時には、この着物が57点だったって解るから」
言って頭を撫でる手の優しさが、織の全てを認めている。
「だから慌てずに、こちらにはゆっくりお出でなさい。私達はずっと待ってるから」
掌の温もりと、優しい約束に安心を覚えたせいか、織は不意に覚えた眠気に抗せず目を閉じた。
 父の腕に抱き上げられる、自分が彼等と別れた時の姿に戻っている事を感じながら。


 織は布団の中で、眠りが及ぼした思わぬ充足感に息を吐いた。
 最近の睡眠不足も手伝ってか、寝足りた、という満足感に床の中で伸びをし……飛び起きた。
「今、何時?! 今日は午後から納品が……ッ」
そんな短時間では有り得ない爽やかさに、目論んでいた起床時間を過ぎてしまったかと時計を見るが、それよりも30分早く目覚めている事に気付いてホッと落とした息に視線を下に向け。
 布団の上に重ねたその形のままで、黒い単が其処にある事に気付く。
「……これ、こんな色だったかな」
陽の下に見るそれは奇妙に褪せた感触で、織の意識にあった滑るような闇色ではない。
 衣を手に、しばし考え込んでいた識だが、頭を軽く横に振るとそれを帖紙に包み直した。
 今月は父母の命日に京都に出向く予定がある。店に返しに行くのはそれが済んでからでもいいだろう、と胸中に予定を立てて織は東の窓に目を遣り、朝日の眩しさに目を細めた。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【6390/烏丸・織/男性/23歳/染織師】

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■         ライター通信          ■
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 お初にお目にかかります、闇に蠢く駄文書き、北斗玻璃に御座います。
 ご参加、真にありがとうございました!

 北斗の資料棚のラインナップをご存知でしたか、というような御依頼でした! ちゃんとあります、染めと織の本!(笑) とはいえ、資料の存在を思い出すのは大概執筆が終わってから、書いた事柄が破綻していないかを只今慌てて確認していました……うん、染めから織までお忙しい織さんお一人では無茶だと思いますが、一年がかりの作業且つ、お一人だからこそイメージが活かせたという事でご理解頂きたく存じます。修行に力を入れてらっしゃる織さんならきっとやれるさ!(待て)
 お任せ頂きました事を幸いに、かなり弄らせて頂いております。勝手気ままな設定の取捨選択はお任せするとして、少しなりと楽しんで頂けましたら幸いです。
 それではまた、時が遇う事を祈りつつ。