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<東京怪談ノベル(シングル)>


その角を曲がれば


(あたしたちが暮らしているこの世界は、思ったほど、確かなものじゃないのかもしれない。割れた鏡に、ひとつのものがいくつも映るように、物事にはたくさんの側面があって、「今、ここ」じゃない可能性が、その裏には無数に存在している……。だから、ある日、ふと角をひとつ曲がると、そこはもう、今までいたのとは違う世界だったなんてことも、あるのかもしれない)


 霧が出るとは珍しい。
 なにせ、東京の街中でのことだ。
 葛城ともえは、思わず立ち止まって、その光景をしばらく眺めている。うっすらと霧がかかるだけで、いつもの見知った町並が別のものになったようだ。
(いけない)
 だが、すぐに思い直して、足早に歩き出す。
(はやく帰らなきゃ)
 それはまだともえが、上京して間もない頃のことだった。
 まだ慣れない街に、出掛けて……そしてついつい帰りが遅くなってしまった。
 最寄りの駅を降りたときにはもうすっかり日が暮れており……そして、その行手を包み込むような霧の壁。
 人通りの少ないこんな通りの、日も落ちて、しかも霧が出ている中を歩くのはいい気持ちはしなかったけれど、すぐそこのことだから、と鞄を抱えて通り過ぎようとする。
 そして、角をひとつ曲がったところで、ともえは、《彼》に会ったのだ。

「きゃ」
 どん、と出合い頭に誰かとぶつかった。
「す、すいませ――」
 言い終えるよりはやく……相手の反応はほとんど電撃的なほど素早かった。
 鼻先に突き付けられたのは、黒い銃口。
「……」
 突き付けているのは、黒いコートに身を包んだ、三十前後と思われる男だった。うすく色のついたサングラスの向こうから、鋭い眼光がともえをねめつける。
 帰宅途中に、夜の街で出会う危険といえば、痴漢だとばかり思っていたが、この男は痴漢というわけではなさそうだった。では強盗か? ともえは、思わず両手をあげた。
「あの……あたし」
 お金なんてもってないです、と言いかけたが、声がふるえてそれ以上続けられなかった。
「おまえ……何者だ」
 だが男が発したのは、すこし奇妙な問いだった。
「え――?」
「なぜここにいる」
「な、なぜって……」
 なぜと言われても。
 ただ自分は路を歩いていただけだ。だが男の口調は、彼女がここにいること自体がありえないことだと言わんばかりである。
「一般人か? まさか……」
 男は銃をおろして、胡乱な声を出した。
「迷い込んだっていうのか? そんなことが……」
「あのう……これって一体……」
 そのとき、男ははじかれたように、はっと表情を変えた。そしてともえに向き直ると、
「走るぞ」
 とだけ言い、返事も待たずにその手を引く。
「ちょ――、なに……」
 とまどう彼女の声をかき消すような、爆音が背後で炸裂する!
 ともえは悲鳴をあげた。
 そして、頭上では、なにものかがはばたくような音――
「見るな! 何も考えずに走れ!」
 男の言葉に、ともえは頷くしかないのだった。


 そして、どのくらい走っただろうか。
 路地裏から路地裏へと、何かを撒くように移動して、ようやく落ち着く。へたりこんで、息をととのえるともえの前に、すっと差出されたものは――
「こんなものしかない。冷えてないが、飲むか?」
 缶コーヒーだった。
「……あ、ありがとう」
 ともえにそれを渡し、自分は煙草に火をつける。
「俺は草間だ」
 そして、煙を吐き出しながら、名乗るのだった。
「草間武彦」
「……あたし……葛城――ともえ、です」
「本当に何も知らないんだな」
 ともえはかぶりを振った。
「界鏡現象のことも何も?」
 やれやれ、と嘆息を漏らす。
「ここは東京であって東京でない場所だ。本来なら……何も力を持たないものは足を踏み入れることも……垣間見ることさえないはずの世界だ」
「よく……わからないです」
「だろうな。ひとつ言えるのは、ここはとても危険なところだってことだ」
 それはさきほどの一幕でもわかっている。だが突然のことで、状況も飲み込めないし、なにか感情がマヒしてしまったような気がする。自分は夢でも見ているのではないか、と、ともえは思った。そうだ。あたし、きっと、山手線で眠り込んじゃったんだ。本当は今も、電車の中なの。眠ったまま、夢を見ながら、山手線をぐるぐる回っているんだわ。ぐるぐる、ぐるぐる――。
「もう嗅ぎ付けやがったか」
 草間が舌打ちをして、銃を手にとる。
 彼の目が見据える方向に、なにか、あやしい黒い靄のようなものがあらわれはじめていた。そしてそれが次第に人のかたちをとり、ともえたちの方に向かってくるのである。
「逃げろ」
 草間は言った。
「え。で、でも……」
「すぐに追う。この先だ。はやく行け」
 草間の言葉は短く、有無を言わせないものだった。ともえがいては邪魔だ――、と、あるいはそう言いたいのか。
 ともえは、従うよりなかった。
 もちろん、道などとうにわからない。ただ示された方向へ、狭い路地を駆ける。
「――っ」
 だが。
 思わず、手の中の缶コーヒーを取り落としてしまった。
 前方に、見知らぬ男が立っていたからである。
 男は、あきらかに敵意を……いや、殺意をもってそこにいた。男の手に握られた抜き身の日本刀はすでにして血に濡れている。
 男が踏み出す。
 その口元に、残忍な笑みがにぃっ、と浮かぶ。
 そして白刃が閃き、
 悲鳴――、それだけがともえにできる唯一のことで。
「……」
 目を開けると、しかし、そこにあったのは、草間の背中だった。
「畜生」
 悪態は誰に向けられたものか。草間の腕に刃がくいこみ、そこから血がしたたるのを、ともえは見た。
「い、いや……」
「何してる。あっちは片付けた。反対側へ逃げ――うお」
 ざくり、と肉が裂かれる不快な音。
 日本刀が向きを変えて、今度は草間の身体を袈裟がけに餌食にしようとした――そのとき!

「!?」

「なに」
 刀を持った男は……身をかばった草間の前で、刃を振り下ろした姿勢のまま、ぴたりと静止していた。まるで、その瞬間、時間を止められてしまったように。
「これは――」
 草間がともえを振り返った。
「……?」
「そうか。そういうことか」
 そして、路地裏に響いた銃声。男が、どう、と倒れる。
「助かった」
 また胸ポケットから煙草を抜きながら、草間は言った。
「え?」
「気づいてないのか。おまえの力だよ」
「……ええっ!?」
「ここに来れたんだ。驚くようなことじゃない。だが……一人では発揮されない力らしいな」
「あたしの……力――」
 それから、ともえは、草間の怪我に気づいた。
「その傷……」
「平気だ。こんなもの」
「だめ」
 ともえはハンカチを出すと、それで草間の傷口を縛った。これで、止血くらいにはなるだろう。
「すまんな」
 苦笑めいた笑み。ともえは、その横顔が、思いのほか、やさしいのを知る。
「……さて、これからどうする」
「…………」
「あてはないんだよな。一緒に来るか?」
「でも……」
「いいさ。……さあ、立てよ。行こうぜ」
 草間はともえに手を差出し。
 ともえは、その手をとった。

(あたしたちが暮らしているこの世界は、思ったほど、確かなものじゃないのかもしれない。割れた鏡に、ひとつのものがいくつも映るように、物事にはたくさんの側面があって、「今、ここ」じゃない可能性が、その裏には無数に存在している……。だから、ある日、ふと角をひとつ曲がると、そこはもう、今までいたのとは違う世界だったなんてことも、あるのかもしれない)

 手を引かれ、立ち上がった。
 その行き先は、いずことも知れない夜の街――、知られざる、もうひとつの東京。

(あたし、心のどこかで知ってたかもしれない。いつか、こんな日が来るってこと。その角をひとつ曲がったら、ここじゃない、どこか別の場所へ行けるかもしれないってこと。どこにでもいる、高校生の葛城ともえじゃないあたしになれるところ。そんな世界に)

(そして、そんな場所へ、あたしを連れ出してくれる、誰かがいるかもしれないってことを――)

「わかった。一緒にいくわ。あなたと一緒に行く。……草間さん」
 くわえ煙草のまま、にっ、と微笑んだ探偵のあとを追って、ともえは歩き出すのだった。


(FIN)