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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


新宿ニヴルヘイム

「誰かニヴルヘイムというのを聞いたことはあるかしら?」
 デスクでパソコンに向かっていた麗香が不意に顔を上げて言った。編集部にいた人間は、誰もが疑問符を浮かべたまま麗香のほうを見た。
「あなたたち、それでもオカルト雑誌の編集者なの?」
 やれやれ、とため息混じりに言って、麗香はパソコンのモニターに目を戻した。画面には読者から送られてきた電子メールの内容が表示されていた。
 新宿区、靖国通りの地下を走るサブナード地下街に別の世界が存在する。それは現世と常世をつなぐ通路のようなもので、通称『ニヴルヘイム』と呼ばれている、という内容であった。
 ニヴルヘイム。麗香の知識によれば、北欧神話において凍った霧と暗闇の王国のことで、その片隅に死者の国があるとされている。
 ありふれた都市怪談ではあるが、調べてみる価値はありそうだ、と麗香は思った。
「ちょっと、誰か新宿に行ってちょうだい」
 室内に麗香の声が響き渡った。
 だが、麗香の言葉に応える人間は編集部にいなかった。いつもはいるはずの三下も今日は別の取材に出かけていて不在だ。
 編集部の女帝の怒りが爆発するかと思われた瞬間、編集部のドアが開いて一人の女性が部屋に入って来た。
「こんにちは。お久しぶりです」
 長く美しい黒髪の女性――雨柳凪砂が言った。
 だが、編集部を包んでいた微妙な空気を感じ取り、彼女は思わず首をかしげる。
「雨柳さん、ちょうどいいところに来たわね」
 編集部の入口に立っている凪砂を見つけ、麗香が手招きをした。凪砂は訳がわからないまま麗香のデスクに近づく。
「なんでしょうか?」
「雨柳さん。面白そうな情報が読者から寄せられたのだけど、コラムにしてみる気はないかしら?」
 そう言って麗香はパソコンの液晶画面を凪砂のほうへ向けた。
 画面に表示されたメールを読んだ凪砂は、その内容に好奇心がうずくのを感じた。北欧神話になぞらえた名称は、まるで自分のために用意されたものであるような気もした。
「喜んで書かせていただきます」
 麗香の申し出を凪砂は快諾した。その後、一応のギャラ交渉をしてから、凪砂は編集部を後にした。

 一度、自宅へ戻った凪砂はウエストバッグに必要になりそうな物を詰め込み、電車に乗って新宿駅で降りた。人込みを縫うようにして歩き、西武新宿駅方面から階段を下りてサブナード地下街へと向かった。
 まず感じたのは空気の悪さであった。特に西部新宿駅側の一丁目にはレストランが多い。空調が完備されていても、油の臭いを完全に取り去ることができていなかった。
 凪砂は聞き込みから開始することにした。最近、この辺りでおかしなことは起きていないか、変な噂などは聞かないか。そうしたことを訊き歩いていると、雑貨店の女の子が気になることを言ってきた。
「そういえば、このところ黒服の変な人をかなり見るような気がするわ」
「どういうふうに変なのですか?」
「うーん……なんて言うのかな、別になにが怪しいってわけじゃないんだけど、見るときは一日に何人もお店の前を通ったりするのよね」
「それは、すべて同じ人ですか?」
「多分、同じだと思うけど、はっきりと見たわけじゃないから……」
 その後もいくつか質問をしたが、たいした情報は得られなかった。黒服の人物に関しては、複数の店の店員から話を聞くことができたが、最初の話と大差はなかった。
 また、別の店で聞いた話によると、真夜中に通った人間がうめき声のようなものを聞いたという噂もあるということだった。だが、問題の『ニヴルヘイム』に関するものは噂すらなく、それぞれの店を見て回ったが場所を特定することはできなかった。
 地下街のコーヒーショップでベーグルサンドとカフェ・ラテを注文し、窓際の席に座って遅めの昼食を摂っていると、目の前を黒服の女性が通り過ぎた。あまりにもタイミングが良すぎることに驚き、思わずベーグルサンドを喉に詰まらせそうになりながら、カフェ・ラテで流し込んだ凪砂は、昼食もそこそこに店を飛び出した。
 女性は三丁目広場の先にある女性用トイレへと入って行った。相手が男性でなくて良かった、と思いながら凪砂も後に続いた。しかし、トイレに女性の姿はなかった。女性の姿を探してトイレの中を見ていた凪砂は、奥にある壁に違和感を覚えた。
「なるほど、ここが入口ということでしょうか?」
 思わず独りごちながら凪砂は壁に触れてみた。すると、水面に波紋が広がるように凪砂の触れた箇所から円状の波が起き、壁は液体のように揺れた。
 凪砂はウエストバッグからカメラを取り出し、もう一度、壁に触れて波紋が広がる様子を写真に撮った。
(これは普通の人でも見つけられるのかな?)
 ふと、そう考えたが実際にはありえないと思い直した。なんの能力も持たない一般の人間でもわかるような現象であれば、もっと騒ぎになっているはずだ。騒ぎになっていないということは、これを見つけられる人間は限られるということではないのか。
 しかし、これはいったいなんなのだろう。そして、なにが原因で発生したのだろうか。
 凪砂は、もしかしたら先ほどの女性がなにかを知っているかもしれないと考え、トイレの外で女性が出てくるのを待つことにした。
 トイレの前にあるファッションショップで、しばらく夏物の服を眺めていると、黒服の女性が何事もなかったかのようにトイレから出てきた。
「すみません」
 店から飛び出し、四丁目方面に向かおうとする女性へ声をかけた。
 凪砂の声に女性は振り返った。ミラーシェードのサングラスをかけているせいか、どこか冷たい印象を受けた。
「なに?」
 まるで凪砂をなめ回すように見詰めながら女性は言った。
「少し、お話を聞かせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「あなたに、話すようなことはなにもないわよ?」
「いえ、あのトイレにあるものについて、お聞きしたいのです」
 その言葉に女性が反応を見せた。女性がサングラスを外した瞬間、凪砂は思わず息を呑んだ。そこにあるべきはずの右目がなく、眼窩には蒼い球体が収まっていたからだ。
「そう。あなたも関係者ということね」
「どういう意味でしょうか?」
「今日、こうして出会ったのも、運命というものかもしれないわ。ついていらっしゃい。あなたにも知る権利はあるはずだから」
 女性は意味深に言って先ほどのトイレへと戻って行く。なにを言っているのか理解できなかった凪砂だったが、女性から敵意を感じなかったのでついて行くことにした。
 トイレへ入ると、すでに女性の姿はなかった。凪砂は奥の壁に手を触れた。まるで泥濘の中に埋まって行くかのように、手が徐々に壁の中へと進んだ。試しに腕を引き戻そうとすると、たいして力も入れずに手は壁の中から引き戻された。
 意を決し、凪砂は壁の中へ入った。

「ニヴルヘイムへ、ようこそ」
 突然、声が聞こえて凪砂は閉じていた瞼を開いた。辺りは暗闇に包まれ、周囲になにがあるのかすら判別できない状態であった。その中で凪砂と隻眼の女性の姿だけが暗闇の中に浮び上がり、まるで全身がほのかに発光しているかのようにも見えた。
「ここは?」
「ニヴルヘイムよ。闇と氷の国。死者の国ヘルの入口でもあるわ」
 淡々と告げて女性は歩き出した。凪砂も慌ててそれに続く。上下左右の感覚がなく、自分がどこを、どのようにして歩いているのかも定かではない。三半規管が麻痺して凪砂は乗り物酔いに似た感じを受けて気持ち悪くなった。
「あなたは、ラグナレクを知っている?」
「え? あ、はい。北欧神話において、神々と巨人族の間に起きる終末的な戦争のことですよね。すべての生物が戦いに巻き込まれ、あらゆる命が死に絶えるとされています」
「そうね。そして世界は滅ぶ。世界中の神話、宗教に見られる終末思想ね」
「それが、どうかしたのですか?」
「もし、世界が滅亡したら、この世は本当に無になるのかしら?」
「え?」
 疑問の声を漏らした瞬間、凪砂の目の前に光が現れた。それは闇の中で今にも消えてしまいそうな弱々しい光であった。その光が列をなし、何列にも亙って並んでいる。
 女性に連れられ、その光に近づいた凪砂は再び息を呑んだ。光の中には人間がいたからだ。目を閉じ、眠っているような姿で光に包まれている。その光景は、まるで光の繭の中で羽化の時を待っているかのようにも見えた。
 そうした光の繭が何百、何千――いや、もしかしたら何万という数が並んでいる。周囲の濃い闇に押し潰されないように、弱々しい輝きを湛えて。
「これは?」
「死んだ人間の肉体よ。ここは、ラグナレクの後に現れる世界に住む人間を保管しておく場所なのよ」
「どういうことですか?」
「力の滅亡、終末の争い、ラグナレクが起き、世界が滅亡したとしても、ムスペルヘイムとニヴルヘイムが残ってさえいれば、新たな世界が創造される。その時、新たな世界に生きる人間や他の生き物を保管しておく場所、それがニヴルヘイムの役割」
 北欧神話における世界の創造とは、北のニヴルヘイムの氷と、南のムスペルヘイムの炎がギンヌンガガップの広大な裂け目で混ざり合い、その融合から最初の生命が生み出されたとされている。最初の生命は霜の巨人ユミルと牝牛アウドムラで、アウドムラが氷から舐め出して創造した男の息子が、神話に名高いオーディン、ヴィリ、ヴェーの三兄弟。この三兄弟が霜の巨人ユミルを殺し、その屍から九つの世界を作り出した。
 凪砂も古物の収集や執筆活動の関係、そしてなによりも自身と同化した魔狼フェンリルの影のため、北欧神話についてはそれなりに学んだつもりでいたが、女性から聞くことは初耳であった。だが、フェンリルが存在するのであれば、北欧神話における世界体系が実在してもおかしな話ではないと納得できる面もあった。
「死んだ人間とおっしゃいましたが、亡くなられた方は火葬にされたりして、肉体がなくなるのではありませんか? 魂を保管する、というのならわかりますが」
「もちろん、魂も保管するわ。戦士の魂はヴァルハラに、戦わざるして死んだ人間の魂は死者の国ヘルに、そして悪しき者たちは転生ができないようにナーストレンドの岸で悪竜ニドヘグに魂と肉体を食わせてしまうのよ。ここは肉体――あなたがたにもわかりやすい言葉を使えば、幽体や霊体とでも言えば良いのかしらね」
「では、厳密には肉体ではないのですね?」
「一般に肉体と呼ばれているのは、人間を形成するために神々がそこにある物から造った器でしかない。ラグナレクの次に訪れる世界が、今と同じ次元で創造されるとは限らない。もっと高次元な世界へと移行するかもしれない。そこで必要とされるのは、魂であり、幽体なのよ。器は様々な物体からいくらでも造ることができる」
「つまり、ここに保管されているのは、次の世界に住む人間や生き物の幽体、ということになりますね」
「そうね」
 なるほど、と凪砂は思った。この女性が言っていることが正しければ、ここがニヴルヘイムと呼ばれていると呼ばれている理由も納得できる。確かに暗闇の世界だ。そして繭の中で眠る人間は冷凍睡眠でもされているかのようだ。
 しかし、なぜ新宿の地下に出入口がるのか。凪砂の目の前に立つ女性は何者なのか。そしてアトラス編集部にメールを送ったのは誰なのか。多くの疑問が残る。
「なぜ、あのような場所に出入口があるのですか?」
「なにも、出入口は一つ、というわけではないわ。世界中のあらゆる場所にニヴルヘイムへの入口は存在している」
「新宿だけでなく?」
「ええ。そして今も増え続けているのよ。ラグナレクが近くなればなるほど、その数は増え、ラグナレクが起きると同時か、起きた後にここで眠る人間は目覚め、次の世界へ旅立つ準備を始めるのよ」
「普通の人は、あの出入口に気づかないのですか?」
「気づかないわ」
「なぜです?」
「資格がないから」
「資格とはなんですか? わたしが気づけたのは、資格があるということですか?」
「そうよ。あなたには資格がある。それ――」
 そう言って女性は凪砂の首に巻かれた首輪を指差した。
「グレイプニルでしょう? あなたの中にはフェンリルが眠っているのね。だから、ラグナレクの関係者というわけ。ここを知る資格があるのよ」
 そのことは凪砂にとって驚きであった。
「いずれ、あなたが死に、肉体が滅びた時は、ここで他の人間と同じように眠ることになるでしょう。あなたの魂はヴァルハラへ導かれるか、ヘルへ送られるか、それともナーストレンドの岸へ堕とされ、二度と転生できなくなるか。それは、あなたの心がけ次第。勇気を持って善き行いをするか、悪しき者となるか。すべて自分自身が決めることよ」
「あなたは、何者なのですか?」
「わたしは、ここの管理者。それだけよ」
 それだけを言うと、女性の体が足元から周囲の闇に溶け込み始めた。
 凪砂は慌てたように言葉を続ける。
「編集部にメールを送ったのは、あなたですかッ?」
「なんのことかしら? わたしは知らないわ。多分、小人が送ったんじゃないかしら。彼らは悪戯好きだから」
 そうして、女性の姿は闇の中に消え去った。
 それと同時に凪砂も意識を失った。

 気がつくと先ほどのコーヒーショップにいた。窓際の席に座り、目の前には食べかけのベーグルサンドと冷めたカフェ・ラテが置かれている。
 まるで白昼夢を見ていたかのような感覚に凪砂は襲われた。すべてが幻で、自分はここで寝てしまったのでは、という疑いをも抱いた。凪砂は店を出て問題のトイレへと向かった。そして、奥の壁に恐る恐る手を伸ばす。
 彼女の指先が壁に触れた瞬間、まるで水面のように波紋が起きた。
 幻ではなかった。ニヴルヘイムも、あの女性も。
(でも、これって記事にできるのかな?)
 指先に感じる奇妙な感覚を受けながら、ふと凪砂はそんなことを思った。

 完


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
 1847/雨柳・凪砂/女性/24/好事家(自称)

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■         ライター通信          ■
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 大変、お待たせしてしまい申し訳ありません。
 今回、参加者が雨柳様お一人でしたので、シナリオのほうを大幅に変更させていただきました。結果、動きのないストーリーとなってしまいましたが、気に入っていただければ幸いです。