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『神聖都学園が消える日』
◆プロローグ◆
『三日後、この学園は消滅するわ!』
幼稚園から大学まで、幅広い教育を包括する神聖都学園。
白い壁で塗り固められた数多くの巨大な校舎を揺るがさんばかりに、拡声された鍵屋智子(かぎや・さとこ)の声が鳴り響いた。
『よく聞きなさい、下劣で脆弱な下等生物共! 貴方達が助かる道はただ一つ。私の言う通り行動してジェルジュマージ式の高位次元シールドを多重展開するしかないわ!』
腰まである闇色の髪の毛を振り乱し、モノクルの奥で紫色の瞳を爛々と輝かせながら智子は拡声器片手に叫び続ける。
『今から有志を募る! 私に協力して、共にこの学園を救おうという者はすぐに校門前に集合しなさい!』
拡声器を持っていない方の手で指示棒を振るい、ビシッと力強く校舎を指しながら智子は校門前で持論を繰り広げていた。
(まったく、いったい何をチンタラやっているのかしら。一刻の猶予も無いというのに)
苛々しつつも、もう一度最初から説明しようとした時、遠くの校舎に現れた人影がこちらに向かってくるのが見える。ようやく一人目が出てきたかと、モノクルをいじりながら彼の方に視線を向け、目を凝らした。
「コラー! 貴様、何をやっとるかー!」
顔を真っ赤に染め、怒りも露わに出てきたのは中等部の教頭だった。はげ上がった頭から煙のように怒気を噴出させ、もの凄い形相で迫ってくる。
「たまに学校に来たかと思ったら宗教活動か貴様!」
「貴方が輝かしき最初の協力者ね。賢い選択だわ」
腕を組み、ふんぞり返る智子を見て教頭のボルテージが更に上がった。
「ええぃ! やかましい! 良い機会じゃ。お前に教育とは何たるかを、みっちり叩き込んでくれるわ!」
憤怒を惜しげもなく智子に叩き付け、教頭は彼女の腕を掴むと校舎の方へ引っ張っていく。
「こ、こら! 離しなさい! 貴方、下賎の分際で自分が何をしているのか分かっているの!?」
「その言葉、そっくりお前に返してやるわ!」
いくら年老いているとはいえ大人の男性。片や頭脳は超人的であっても肉体は女子中学生の智子。力の軍配はアッサリ教頭に上がった。
「ちょ、ちょっとおぉぉぉぉ! 本当にヤバいんだからあぁぁぁ! 私のメタ・カオティック理論を舐めんじゃないわよおぉぉぉ!」
◆真閻の六芒星 ―ジェームズ・ブラックマン―◆
蟻の行列は続くよ。どこまでも、どこまでも。
神聖都学園中等部の校舎裏。ジェームズ・ブラックマンは三角座りで熱心に蟻を観察していた。先程大声で変な事をほざいているヤツがいたが、自分の世界に浸りきっているブラックマンには関係ない。
「この暑い日に君達はよく働くねぇ。頭が下がるよ」
校舎の日陰に涼を求め、臨時として招かれたにもかかわらず生徒達に自習させてサボっている自分とはえらい違いだ。
「お、そこの君。良い黒してるねぇ。きっと出世できるよ」
数いる蟻の中でも一際黒の深い蟻を見つけてブラックマンは呟いた。
(やはり黒い物はいい。無条件で共感できる)
それは自分が黒という色を好むからに他ならない。
無数の影が重なり合ったような漆黒の髪に、同色のネクタイとスーツ。ブラックマンの周りだけは夜かと思えるほど纏う空気も黒かった。
「はあぁぁぁぁ〜。くつろぐなあぁぁぁぁぁ〜……」
暗い日陰に包まれて黒い蟻達を見ていると無性に癒される。
「――!」
しかしくつろぎ時間と空間をあっけなく崩壊させる嫌な気配を、中等部の校舎内から感じた。
(これは……闇の眷属の波動?)
闇の眷属――それは異界に棲み着き、人間達に害為す魔の者達の総称。
その気配を神聖都学園内から感じる。臨時の教師とは言え、この学園に世話になっている身だ。あまり良い気分はしない。
(確かめるか)
やれやれ、と思い腰を上げ、ブラックマンは波動を追って校舎内に戻った。
気配を感じたのは中等部の三階からだった。
しかしブラックマンがその階にたどり着いた途端、闇の波動は綺麗に消え去り、何も感じなくなった。
(妙だな……)
気配が消えた辺りを探って、三階を練り歩く。
黒の革靴でリノリウムの床を踏みしめ、ゆっくりと。休み時間なのか、生徒達の談笑が教室から聞こえてくる。しかし、その声に混じって明らかに異質の金切り声がブラックマンの耳に届いた。
(この声は……)
女性の甲高い声が聞こえてくる教室の前でブラックマンは足を止める。そこは進路指導室だった。
「だーから何回も言ってるでしょ! わっかんないハゲオヤジね!」
「分かる訳ないだろ! 昼間っからそんな戯言ばっかりほざきおって! いいか! ワシが納得できる説明をするまで今日は帰さんからな!」
中ではすでに激しい応酬が繰り広げられているようだ。
(やれやれ。しょうがない、な)
声の主には覚えがある。ここで会ったのも何かの縁だ。
「たのもー」
ブラックマンは無意味に胸を張って、進路指導室に足を踏み入れる。
何では予想通りの人物が、歯を剥いて教頭に噛み付いていた。
「おや、智子じゃないか。君がココの生徒だったとはな。フ……運命のイタズラとは恐ろしいモノだ」
髪を掻き上げ、キザっぽい仕草でブラックマンは言う。
「ブラック!?」
長いストレートの黒髪を揺らしながら、智子は驚愕の表情で振り返った。
「な、何ですか、ブラックマン先生。お知り合い、ですか?」
「まぁ、暗い部屋で時間を共有した仲、とだけ言っておきましょうか」
「学会の会場で知り合っただけでしょ!」
意味深な言葉を吐くブラックマンに、智子が間髪入れずにツッコむ。
ブラックマンと智子が知り合ったのは二年前の学会でだった。
当時、異端の論理として色んな意味で注目を浴びていた智子のメタ・カオティック理論。しかし内容があまりに荒唐無稽であったのと、用意されたスライドが幼稚園児の落書き並に陳腐であったこと、そしてなにより智子の話が想像もしていなかった方向に飛びまくるので誰も理解できなかった。
しかし、ブラックマンだけは違った。
智子の発表が終わった後、質問時間に手を挙げたのはブラックマン一人だった。二人はその場で激しく議論し合ったが互いに納得行く結論は得られず、居合わせた大勢の聴講者の混乱を一層深めてお開きとなった。
「いやぁ懐かしいなぁ、智子。君のメタ・カオティック理論。実はあれから私も色々考えていたんだがね、やはりアメリカ研究所にある特殊DNAを用いた無限わんこソバの開発というモノはなかなか興味深いんだが、いかんせん洗濯機が昨日壊れてしまって、危うく南極にワープして筋トレをするハメになりそうだったんだよ」
「何言ってるの! 大地と天空の繋がりを一切排除した亜無重力空間において、貴方の家庭のエンゲル係数は限りなく甚大。そこでシュレディンガーの波動方程式と三角形面積の和を電子レンジでチンすると、プラズマ液晶テレビができあがるに決まってるわ!」
「いいや、それはどうかと思うぞ。なにせモノトーンで塗りつぶされた犬や猫の団体さんは今朝、大陸横断ミサイルに乗って妖精の国に行ったっきり、熱帯魚の水換えもしていない始末だ。これではいかに強力な下剤を発明したとしても、ペンタゴンのクマさんプロテクトを破るのは難しいだろうな」
「……確かにそうね。腹時計と大きなのっぽの古時計のアンチと信者が対立しても、フェルマーの最終定理にはほど遠い。ならばマターリしてる悪役プロレスラーに、国会議事堂をあぼーんして貰うのが合理的というモノ。そうか! そこに山があるから登る、メイド喫茶があるから第四次世界大戦が勃発するのと同じ理論! さすがね、ブラック!」
そして二人は満足げに笑う。
すぐ隣で聞いていた教頭は青い顔で力無く立ち上がると、
「それじゃ、ブラックマン先生……あと、頼みます……」
口元を手で押さえながら教室を出た。
恐らく理解が追いつかなかったのだろう。不可解なやり取りを延々と聞かされていれば、吐き気を催すのも無理はない。学会の聴講者達もそうだった。
「さて、と。邪魔者は消えた。智子、本題に入るとしようか」
智子の掲げるメタ・カオティック理論。それはココ物質界と、異世界である亜邪界(あじゃかい)とのリンクが強まる周期を公式化した周期論。
月齢を智子の導き出した公式に当てはめ、それによって算出された日に『真閻(しんえん)の六芒星』が描かれると亜邪界との巨大チャンネルが開き、強力な闇の眷属があふれ出す。
(闇の眷属。ならば私がさっき感じたのは、やはり……)
不吉な予感程良く当たる。智子に出会う前から自分はすでにこの事件に一枚噛んでいたようだ。
「『真閻の六芒星』は私達の街に散らばる六つの地点で、闇の眷属が特殊な儀式を行うことで完成するわ。彼は三日後、亜邪界とのリンクが最も強力になる日を狙って完成させ、自分の仲間を喚ぶつもりよ。強大な力を持った闇の眷属をね」
「なるほど。それで最後の六つ目の地点がここ、神聖都学園と言う訳か」
「そうよ」
六芒星の内、五つ目の星まではすでに儀式が終了しているらしい。
智子が自分の発明品、『閻魔君ゴーゴー!』で闇の眷属の動きを感じたのは一ヶ月前だった。三つ目の星までは全く位置が予測できなかった。四つ目の星は予測した場所が大雑把すぎて間に合わなかった。五つ目の星は智子だけでは阻止できなかった。
「智子、あまり無茶はするなよ。死んではなにもならんぞ」
五つ目は自分一人で闇の眷属に向かっていたという。生身の人間が勝てるわけもないのにだ。恐らく気まぐれで殺されなかったんだろうが、智子は自分がした事の危険さを分かっていない。
「だってしょうがないじゃない。私一人しか居ないんだから。事情を説明したところで、どーせさっきのハゲ頭みたいに頭ごなしに否定されるだけだわ。まったく」
まぁ、あんな言い方をされれば誰だって協力したくなくなるだろう。あれは少なくとも人にモノを頼むときの態度ではなかった。
「お前は昔から何でも一人で出来たんだろうが、今回ばかりはそうも行かなくなった訳だ。私でよければ協力するぞ」
やれやれ、と肩をすくめてブラックマンはパイプ椅子の上で足を組み直した。
放っておけば智子はまた一人で何とかしようとするだろう。無理をして無茶をして、他の連中から白い目で見られても。そして今度こそ最後には闇の眷属の餌食となる。
知り合いのそんな姿を見るのは御免だ。
「貴方なら私の考えに賛同してくれると思っていたわ」
ようやく得た一人の協力者に、智子は紫色の双眸を輝かせた。
「で、具体的に何をすればいい」
「方法は二つ。儀式に来た闇の眷属を葬るか、ソイツが入ってこられないようにこの学園に結界を張るか。私は後者が現実的だと思っているわ。貴方が闇の眷属に太刀打ちできるとは思えないから」
ふむ、とブラックマンは腕組みして頷く。
智子はどこからか引っ張り出してきたホワイトボードに、赤いサインペンで何かを書き込んでいく。
「結果を張るのに必要な材料はこの六つよ」
そして左手に持った指示棒でホワイトボードを叩き、六つの材料を強調した。
「……智子。申し訳ないが、さすがの私も象形文字は解読できない」
ミミズののったくったような赤い線の羅列に、ブラックマンは憐憫の視線を向けながら溜息をつく。
「う、『牛の生き血』に『蝙蝠の羽根』、『鶏の死体』と『タロタロの花』! それに『満月草』と『女神の涙』よ!」
智子は顔を真っ赤にして、上から順番に読み上げていった。
「なるほど、了解した。最初の三つは心当たりがある。後の三つは手間が掛かるかもしれないが三日以内には揃えると約束しよう」
「それじゃあ、貴方に任せて大丈夫なのね」
ブラックマンは口の端をつり上げて、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「それじゃあ私は結界を張る準備をしておくから。三日後、遅くとも夜の八時までにはこの校舎の屋上に来て」
「承知した」
◆生まれながらにして負った業 ―鍵屋智子―◆
ブラックマンと別れ、智子は特殊方陣を描くために一人屋上に来ていた。一応、立入禁止にはなっているが殆どの生徒は守っていない。教師も注意するのが面倒臭くなって黙認しているのが現状だ。きっと何か大事件でもないとココは閉鎖されない。
授業が始まってしまったのだろう。智子の他には誰もいなかった。
智子一人だ。
(いつもと同じ)
どこに行っても智子は一人だった。両親ですら智子の事をあまり理解してくれていない。神聖都学園の教師や生徒など論外だ。
彼らと一緒にていても孤独感は決して拭い去れなかった。自分はいつも周りから浮いた存在。みんなに合わせて溶け込むことなど出来はしない。
一人でいても、みんなといても同じ事だ。だったら自分だけの世界を作り上げて、そこに籠もった方が楽だ。周りに気を使わない分、自分のことに集中できる。
《お前は昔から何でも一人で出来たんだろうが――》
ブラックマンの言った言葉が脳裏に蘇る。
(そうだ。私は何でも一人で出来る。今回がちょっと特別なだけだ。下らない群衆共の下らない価値観。そんな愚劣で唾棄すべき無意味なモノに振り回されるくらいなら、疎外されて迫害されても私は自分の意志を貫く。昔からそうして来た。それはこれからも変わらない)
いつからだろう。こう考えるのが当然だと思い始めたのは。
智子は生まれすぐに両親の言葉が理解できた。生後僅か三ヶ月で読み書きが出来るようになった。一歳の時には灘中学の入試問題を解けたし、三歳の時にはハーバード大学に入学できる学力を備えていた。
小学校に入ってすぐに『機械と生物の融合による安定的な人工生命体』というテーマで論文を書き始め、三年生の時に博士号を取得した。その後、世界中の様々な学会で『超常現象と科学の統一理論』について発表したが誰も理解できず、逆に学会の学風を著しく損ねると反感を買って追放された。
智子を擁護してくれる者は誰もいなかった。
(ま、そんなヤツいてもいなくても同じだわ。私は強い。この天才的な頭脳と卓越した行動力があれば、どんな苦境も一人で乗り越えることが出来る)
生ぬるい夏の風で長い黒髪を宙に舞わせながら、智子は屋上の中心にしゃがみ込み、『執筆君カリカリ』で特殊方陣を描き始める。
インクの色は黒。智子が最も嫌いな色だ。
この色を見ていると嫌な過去を思い出す。まだ未熟で、今のように精神が完成されていなかった自分を。
真っ暗な部屋。漆黒の雰囲気。黒い感情。闇の中の孤独。
(黒は嫌いだ)
しかしあのジェームズ・ブラックマンという男は、黒が人間の姿をして歩いているような輩だ。もし智子のメタ・カオティック理論の理解者でなければ、ブラックマンは智子にとって無条件で忌み嫌うべき存在となるはずだった。
《私でよければ協力するぞ》
だが、不覚にも少し嬉しいと思ってしまった。
よく考えれば初めての仲間かもしれない。生まれてすぐに周囲から異端視されてきた智子にとって、もしかしたらブラックマンは唯一の――。
「馬鹿馬鹿しい」
自嘲めいた笑みを浮かべ、智子は軽く首を左右に振った。
今はそんなどうでもいい事を考えている場合ではない。自分にはやらなければならないことがある。自分にしかできないことがある。何も考えずにソレを遂行するだけだ。
神聖都学園を守るという使命を。
そして三日後の午後七時。
紫のロングコートに身を包んだ智子は、屋上でブラックマンを待っていた。
(何してるのかしら、あの馬鹿)
結界は完全に機能し始めるまでに時間が掛かる。ブラックマンに注文した六つの触媒を用いて、早急に立ち上げる必要があった。
苛々しながら親指の爪をかんでいると、屋上の出入り口が錆び付いた音を立てて開く。
「やっと来たの、ブラ――」
振り向いて見るがブラックマンの姿はない。確かに誰かに開けられたはずなのに、扉の向こうには虚ろな暗い空間が広がっているだけだった。
「待たせたな、智子」
声は後ろからした。
「……! ――ッキャアアアァァァァ!」
体がビクン、と大きく震えた後、少し遅れて喉の奥から悲鳴が迸る。
「ビンタとは、また随分丁重な歓迎だな」
気か付けば右の掌が熱を持っていた。自分がブラックマンの頬を叩いたことを理解するまで少し時間が掛かる。
「貴方が変な登場の仕方するからでしょう!」
「おいおい見くびられては困るな。こんなモノまだまだ序の口だ。今度はもっと凝った演出を……」
「せんでいい!」
「はい、スイマセン」
小さくなったブラックマンを未だかつて無い剣幕で見下ろしながら、智子は鼻を鳴らして奥歯を噛み締めた。
(ひ、人の前で『キャアァ!』なんて……恥ずかしい、はしたない。私とした事が)
自分の失態を胸中で深く反省し、智子は必要以上に胸を張って気丈な態度で続ける。
「で、ちゃんと持ってきたんでしょうね」
「ああ、心配するな。ほらコイツだ」
屋上のコンクリートに並べられる六つ触媒。
血のように紅い緋色の花弁を十枚有する『タロタロの花』。
満月の夜に銀色の光を放つと言われる『満月草』。
時間によって屈折率を変えるガラスで出来た『女神の涙』。
どれもそう簡単には手に入らない貴重な代物ばかりだ。
「よく集めたわね」
「ふ……『ブラック・ダイブ』を使えば造作もないことだ」
「ブラック・ダイブ?」
「何ならやって見せようか?」
どこかに飛び込もうとしているのか、準備体操を始めたブラックマンに智子は苦悶の表情を浮かべて止めるように言った。
「後の三つは?」
「ああ、ちゃんと買ってきた」
「『買って』きた?」
ブラックマンはスーパーの袋を取り出すと、それを智子に渡す。
中に入っていたのは『アメリカ産の牛肉』と『トリのササミ』だった。
「なに、これ」
「ああ! スマン! 出来れば『国産の牛肉』と『トリのモモ肉』を買いたかったんだが、不定期収入の私にはややハードルが高かったのだよ」
「そんなこと聞いてない!」
的外れな答えを返すブラックマンに、智子は鼻に皺を寄せて憤慨する。
確かに扱いの荒い外国産の牛肉には血が付いたままになっているし、トリのササミも見ようによっては鶏の死体だ。
「ったく、まぁいいわ。これで。一応使えるから。で、最後の『蝙蝠の羽根』は?」
「ああ、コレだよ」
言いながらブラックマンは自分の髪に手をやり、中から何かを取り出す。
「さ、どうぞ智子」
まるで花を渡すような仕草で差し出しのは正真正銘『蝙蝠の羽根』だった。
「変なトコから出すな!」
「失礼な。これは私の躰の一部だ。摘みたてホヤホヤだぞ」
やっぱり変なヤツだ。
前々から思っていたが今確信した。このジェームズ・ブラックマンという男は、とんでもない阿呆だ。もしかしたらメタ・カオティック理論も理解しているフリをしているだけかもしれない。
「……じゃあ、始めるわ」
疑念を残したまま、智子は描き終えた特殊方陣の中心に六つの触媒を乗せる。
その前に立ち、智子は両手を大きくかざして神経を集中させた。
「精霊の呼び名、永遠の黄昏、悠久の回廊……流転する万物を司る深淵の縁に棲みし冥界の王……」
「ほぅ、冥界の力を媒介とした怨行術『琥珀の盾』か。なかなか高度な結界だな」
詞(ことば)の出だしを聞いただけで術の正体を言い当てたブラックマンに、智子は目を細める。
(ふん、このくらいは知ってるいるのね)
かざした両手を目の前で交差させ、右手を上に、左手を下に移動させて自分の手で大きな顎を形作った。
「汝、胎内に内包せし混沌の力。百鬼に勝る金剛の力もて、鋭星の煌めきを鎮める不動の盾を成せ」
次の瞬間、智子の体が一気に重くなる。まるで自分の周りだけ重量が何倍にもなったのような錯覚。視界に映る屋上の鉄柵が歪み、給水塔がねじ曲がっていく。巨大な力が智子の体を介して、産声を上げようとしていた。
「……っく! わ、我、生け贄に捧げるは鮮血の花弁、暗天にたゆたう隻眼、罪深き聖女の雫……」
片膝が折れる。ブラックマンが遠くの方で何か叫んでいるが、反響して何を言っているのか分からない。
「……獣が宿す命の水、鳳凰の生の証、暗黒の従者……」
激しい嘔吐感が智子を襲う。喉の奥から熱い塊がせり上がり、目の前で紅い華を咲かせた。口の中に広がる鉄錆の味。圧倒的な脱力感が全身に伝播しきった。
だが、詞を止めるわけにはいかない。
「虚無に従う負界の支配者……わ、我の呼びかけに応え、琥珀の壁と成れ!」
両手を力一杯、特殊方陣の中心部に叩き付け、智子は最後の詞を言いきった。特殊方陣が淡い燐光を放ち始め、ソレが智子に集中して行く。そして彼女の体から拳大の茶色い球体が生み出され、天高く舞い上がった。
遙か上空で弾けた球体は無数の帯を撒き散らし、半透明の琥珀のドームとなって安定する。
「智子!」
ブラックマンが智子の体を抱き上げる。もう突き放す余力など残っていない。
「お前、この術使ったこと無いだろ!」
「あ、当たり前、じゃない……。私は、か弱い、女子中学生よ……」
口の中が気持ち悪い。胸がむかむかする。きっとこの男に抱きかかえられているせいだ。
「もう少しで冥界に引きずり込まれるところだったんだぞ! 分かってるのか!」
用意した生け贄で足りない場合は、不足分として術者の命を要求される。そんなことは智子にも分かっていた。しかし例え無謀とは分かっていても、自分にしかできないのだからやるしかない。
神聖都学園を救うにはこれしかなかった。
「み、みなさい……やってやったわ。私の、理論通りよ。多重展開した……ジェルジュマージ式の高位次元シールド……。これで闇の眷属だろうが何だろうが……入り込めない」
「まったく。恐れ入るよ。ぶっつけ本番で『琥珀の盾』を成功させるんだからな」
ブラックマンは銀色の双眸で慈しむような視線を投げかけてくる。ソレが妙に気恥ずかしくて、智子は無理矢理身をよじった。
「ちょ……! いつまで触ってんの! エッチ!」
幾分体力に余裕が戻っている。
一瞬このまま死んでしまうかと思ったが、思ったより自分の体は頑丈に出来ているらしい。
「おおっと失礼。しかし大した体力だな。喰われそうになったのに、もうそれだけ動けるのか」
「凡人とは全てにおいて出来が違うのよ」
智子の叩いた憎まれ口に、ブラックマンは苦笑する。
「それだけ元気なら安心だ。しかし随分と必死だったな。血を吐いてまでやり遂げるとは。なんだかんだ言ってもこの学園が好きなんだな、智子は」
意地悪く言ったブラックマンの言葉に、智子の顔が見る見る紅潮していった。
「そ、そんな訳ないでしょ! ただ中学もまともに卒業してなかったら、私の経歴に傷がつくって思っただけ! それだけよ!」
まるでブラックマンを罵倒するかの勢いで、智子は唾を飛ばしながら強く否定する。
「本当か?」
「当たり前でしょ! 私の事を理解しない愚図共がいる学園なんて、卒業証書さえくれればどうでもいいんだから! まだ利用価値があるから残して置いてあげただけよ!」
言い切る智子にブラックマンは肩をすくめて見せ、やれやれと首を左右に振った。
「分かった分かった。それじゃあ今回はそう言うことにしておこう。では帰るか、智子。私が特別に送って行ってやろう」
「うっさいわね! 貴方の助けなんか借りないわよ! 私はココを片付けて一人で帰るから、とっとと消えなさい! 私、黒って色が大嫌いなのよ!」
まったく、この黒男はどうして人の神経を逆撫でするのが巧いのか。
全身から攻撃のオーラを噴出させながら、智子は壮絶なモノを瞳に宿してブラックマンを睨んだ。
「ソレは残念だ。しかし黒は素晴らしいぞ。あれは完成された色だ。それ以上何物にも染まらないという意味でな」
「聞いてない!」
叫んでモノクルを投げつける。
しかしブラックマンは華麗に受け取ると、ポケットにしまった。
「コレで智子に会う理由が出来たな。いつか機会があれば、私が黒の素晴らしさをゆっくりと教えてあげようじゃないか」
はっはっは、と脳天気に笑いながらブラックマンは屋上の出入り口に向かう。
「また会おう」
「二度と来るな!」
錆び付いた音を立てて屋上の扉が閉められた。辺りに静寂が戻る。
智子は荒く息をしながら、しばらくブラックマンが消えた扉を睨んでいたが、本当にいなくなった事を確認すると張っていた肩を大きく落とした。
「おわっ、た……」
後はここで夜が開けるのを待ち、亜邪界とのリンクが弱くなるのを待つだけだ。
緊張感が安心感と虚脱感へと変わり、それに大業をやり遂げた充実感が加わる。
守りきった。母校である神聖都学園を。自分の手で。
ブラックマンにはあんな事を言ったが、やはりこの学園が好きなのだろう。幼稚園から中学二年生の今まで過ごしてきたこの学園が。
「ばっかみたい……」
浮かんだ考えを否定してみる。だが完全には無理だ。心のどこかで智子は神聖都学園を必要としている。第二の故郷と言ってもいいかもしれない。
いつも周りから変な目で見られるのが嫌で敬遠しがちだが、久しぶりに来てみると実感できる。
ここにいると、何故か心安らぐ。
「ご苦労様でした。見事な怨行術でしたよ。鍵屋智子さん」
突然背後でした声に、智子は体を震わせて振り返った。
そこには闇に溶けそうな黒い服装の男が立っていた。一瞬、ブラックマンが戻って来たのかと思ったが違う。今目の前にいる人物からは、体の底から沸き上がってくる純粋な恐怖を感じた。
「でもビックリしました。ボクが力を分け与えなければ、今頃良くて昏睡状態、下手すれば死んでいるところでしたよ」
ストレートの黒髪を短く切りそろえた品の良さそうな男だった。一見、女性にも見間違えそうなほどの中性的な顔立ちに、華奢な体つき。大きめの黒のレインコートを、『着ている』というよりは『着られている』という印象がある。身長は智子と同じくらいだった。
「貴方は……」
智子は彼を知っていた。
五つ目の星の場所で儀式を行っていた人物。つまり――
「これでお会いするのは二度目ですね。闇の眷属と直に話すのは初めてですか?」
不気味なほど穏やかな口調だった。だが言葉の一つ一つに抑えきれない程の殺意を感じる。
「あなたが動いていることは知っていました。放って置いても大丈夫かと思ったのですが……五つ目の儀式を邪魔されそうになって気が変わりましてね」
体が動かない。声も出せない。
完全に射すくめられていた。悲鳴が出るのはまだまだ余裕のある証拠だと思い知らされた。
「今夜は大切な日だ。ボクの仕事の総仕上げなんですから。邪魔をされてはたまったモノではない。今日という日を逃せば、また三百年以上待たなければならなくなる」
――恐い。
男から膨れあがる漆黒の気配に絡め取られ、智子は気を失いそうになるのを耐えるだけで精一杯だった。
「あなたを殺せればソレが一番手っ取り早かったんですが、残念ながらできなくてね。だって儀式の前に生け贄を殺してしまったら意味がないでしょ? 光栄に思ってくれていいですよ。あなたはボクが選んだ六人の内の一人なんですから」
男は智子を受け入れるように両手を広げて、ゆっくりと近寄ってくる。瞳に妖しい光を灯して。
「あなたは結界を張ろうとした。さすがのボクでも『琥珀の盾』を完成されちゃあ手が出せない。けど最初から中に入っていたなら別だ」
男の背中に黒い羽根が生える。それは巨大な蝙蝠の羽根だった。
「ボクはあなたの体に取り憑き、事の流れを見守った。あなた無事結界を張り終え――と言ってもボクがいなければどうなっていたか分かりませんが――そして邪魔な男も消えた。彼から大した力は感じなかったが不安要素は少ない方がいい。つまり、今はボクにとって最高のシチュエーションと言うわけですよ」
瞳の輝きが増す。それに呑まれるように智子の意識は混濁していった。
さあ。あなたは『真閻の六芒星』を完成させる名誉ある生け贄です。
男の声がどこか遠くの方から聞こえてくる。視界が大きく揺れ、まるでいつ崩れてもおかしくない不安定な足場に立たされているようだった。
あなたはこれから大切な人と対面します。彼らの言うことをよく聞いて下さい。
△▼△▼△▼
体の感覚は無かった。ただ視覚と聴覚のみが生きている。
周囲は黒一色に染め上げられた空間。何も見通すことは出来ない。
流れるような漆黒の中に躰を埋没させ、智子は目の前の闇が突然盛り上がるのを見た。それは徐々に人間を象り、良く知っている人物となる。
闇の中から生み出みされた者。それは智子の両親だった。
彼らは疲れた表情で重く口を開く。
「智子……父さんはな、もう疲れたんだ。これ以上、お前とはいられないよ」
「今まで黙っていてごめんなさいね。母さん達決めたの。母さんの実家でのんびり暮らすって」
――だったら私も……!
実際に声が出たわけではなかった。智子の耳には自分の声が入らない。ただ両親には聞こえたのか、彼らはゆっくりと首を振って続ける。
「言っただろう。お前といるのは疲れたって。毎日お前の意味不明な行動に付き合ってたら気がおかしくなりそうだよ」
――そんな! だってノーベル賞を取った時は褒めてくれたじゃない! もっと、やりたいようにやりなさいって言ってくれたじゃない!
「でも学校をサボっても良いとは言ってないわ。智子に足りないのは社交性なのよ。でも母さん達、今からあなたにソレを教えられる自信ないの。本当にごめんなさい」
――わかったわ! 学校にはちゃんと行くから! みんなと仲良くするように努力するから!
「本当にソレが出来るのかしら」
横手から声がする。
見ると音楽教師の響カスミが立っていた。長い栗色の髪を触りながら、悲しげな瞳でコチラを見つめている。
「私も鍵屋さんには特に気を遣ったわ。でもダメだった。あなたの心を開く事は出来なかった。だから……もういい? 諦めても」
――先生……。
「鍵屋さん。僕も鍵屋さんのオモチャにされるのは嫌なんだ」
更に後ろから声が聞こえる。
振り向くと三下忠が立っていた。
女の子と見間違えそうな程の整った顔に、線の細い体。黒い瞳の奥にはありありと疲弊の色を宿している。
「鍵屋さんの実験台にされる身にもなって欲しいよ。だから、できれば縁を切りたいんだけど、いいかな……」
――三下……。
そして視界が暗転した。
何も見えない暗い場所で、たった独り。昔よく見た光景、よく置かれた状況。
幼い頃、自分の事を分かってくれない人に辛辣な言葉を浴びせられた時には、暗い部屋で一人閉じ籠もって朝まで泣いていた。
自分が周りから浮いていることは智子自身よく分かっている。だから智子も周りに合わせようと思った時期があった。しかし何度言っても理解してくれない周囲に苛立ち始め、知らず知らず暴言を吐いてしまうのだ。そして最後にはお互いに拒絶しあい、二度と口をきかなくなってしまう。
私は一人で大丈夫だ。一人で何でも出来る。なぜなら自分は強い人間なのだから。
そう何度も自分に言い聞かせ、強固な城壁を心に作った。おかげで部屋で泣く回数は減っていった。
しかしそうではなかった。智子が強くいられたのは、数少ない理解者がいてくれたから。彼らが支えてくれたからこそ智子は自信を持つことが出来た。
両親は理解してくれている方だった。これ以上のことを望むつもりはなかった。カスミや三下は本当にお人好しで、智子の話をいつも真剣に聞いてくれた。聞いてくれるだけで十分だった。
彼らだけは味方でいてくれると信じていた。どれだけ大勢の人が敵になっても。
だが、その彼らにまで見捨てられたら自分はどうすればいい。何を支えに頑張っていけばいい。
彼らがいたから街を救おうと思った。彼らがいたから神聖都学園を好きになれた。消されてたまるもんかと思えた。
両親が、カスミが、三下が――。
「智子。お前は必要とされていない」
――やめて。
「智子ちゃん。お母さん達のために消えてちょうだい」
――やめて、やめて。
「鍵屋さん。もう、ずっと休んでてもいいのよ」
――やめてやめてやめてやめて!
「鍵屋さん。僕、二度と鍵屋さんに会いたくない」
――やめてヤメテてやメてやメテやめテヤめてやメテヤめテえエえぇェェェぇぇ!
壊れていく。躰が。心が。
バラバラなって、ボロボロになって、グチャグチャに潰れていくのが分かる。
もうダメだ。目を開けたくない。このまま、暗い世界でずっと……。
▽▲▽▲▽▲
◆漆黒を司る闇の王 ―ジェームズ・ブラックマン―◆
耳元で風がうねりを上げる。
驚異的なスピードで後ろに流れていく学園内の風景を横目に、ブラックマンは屋上へと疾駆していた。
(くそ!)
自分の詰めの甘さに反吐が出そうだ。
闇の眷属が学園内にいることは最初から分かっていた。そして智子は彼のしようとしている事を邪魔している。ならば何らかのアクションを取ってくるのは明白だ。
智子の『琥珀の盾』があまりに巧く行きすぎたので冷静な判断力を失っていた。これで智子を護れなかったら完全に自分の失態だ。
(見えた!)
視界がようやく屋上の出入り口をとらえた。
古い鉄製の扉の向こうからは、ハッキリと闇の眷属の波動を感じる。ついさっきまでは全く感じなかった。ところが突然、異様なまでに知覚できるようになった。
つまり誘っているのだ。向こうから。
早く来いと。
ガン! と、大きく鈍い音を立てて扉を蹴り開ける。
そこには蝙蝠の羽根を背中からはやした小柄な男と、目から涙を流して放心している智子の姿があった。
「やぁ、やっと来ましたね」
「貴様……智子に何をした」
「『真閻の六芒星』を描くための生け贄に。もうすぐ彼女の心が完全に壊れます。そうすれば儀式は完了する」
両手を広げ、彼はおどけたように肩をすくめてみせる。
「是非あなたにも立ち会っていただきたくてね。心が壊れ、自我が崩壊して行く様は非常に美しいんですよ。脆く儚い物ほど、散り際は華麗だ。そして、ただ為す術も無くソレを見守る友人の顔もまた一興。どうです? 特等席に招待された感想は」
ドクン、と血が脈動する。ドス黒い塊が躰の最深が吹き出し、ブラックマンの心を黒く黒く染め上げて行った。
「為す術が無い? 本当にそう思っているのか?」
猛獣の呻き声のように低く、重い声で言いながら、ブラックマンはゆっくりと歩み寄る。
「……気に入らないね、その目。ボクはもっと絶望に染まった顔が見たいんだ」
闇の眷属の顔から薄ら笑いが消え、不愉快な顔つきになってコチラを睨み付けた。
「気が変わった。お前の心も壊してあげるよ」
彼の双眸に異質な気配が宿る。
(精神干渉か)
闇の眷属が人間を自らの栄養とする際に、より美味しくするための『調理法』の一つだ。
さぁ、お前はどんな顔で泣くのかな。
そしてブラックマンの意識は闇に包まれた。
△▼△▼△▼
闇の眷属の精神干渉は、対象の大切なモノを打ち砕くことに特化している。
そうやって精神的なよりどころを無くし、心を崩壊させるのだ。
ブラックマンの前に現れた人物もやはり、自分にとって最も大切な人だった。
「クロ、お前に言わなければならないことがある」
――何だ。
彼は短く切りそろえた黒髪を掻き上げながら、剣呑な視線でコチラを射抜いた。
「ようやく分かったんだよ。この躰を治す方法が」
――ほぅ、どうするんだ?
「お前の命さ。親友の命を闇の眷属に捧げれば、俺の躰は元に戻る」
――なるほど。
「随分前から狙ってたんだ。こうして、お前と二人きりになれる機会をな」
いつの間にか、彼の右手には黒光りするナイフが握られていた。
「苦労したよ。お前の警戒を解くために、虫酸が走るような演技をし続けるのは」
――そうか……。
「けどそれもコレで終わりだ!」
彼はナイフを振り上げ、ブラックマンの剥き出しの意識に襲いかかる。そしてナイフが振り下ろされた直後、ブラックマンは闇から自分の右腕を抜いてソレを受け止めた。
「っな!?」
彼の顔に驚愕が走る。当然だろう。自分の支配空間で自由に動ける者を、今までに見たことは無いのだろうから。
「残念だったな」
言いながら左腕も抜いて彼の目の前にかざす。
「やめ――」
「さようなら」
そして彼に代わってこの世との別れを代弁した。
次の瞬間、ブラックマンの指先から伸びた細く長い影が、彼の頭蓋を割って闇を切り裂いた。
▽▲▽▲▽▲
「ば、馬鹿な……。貴様、親友をアッサリ……」
鼻に皺を寄せ、悔しそうに睨んでくる闇の眷属を、ブラックマンは冷笑混じりに一瞥した。
「私の親友は不老不死なんでね。アレで死ぬと言うことは彼は親友ではないという証明だ」
「くそ!」
彼は叫んで自分を鼓舞すると口を大きく開く。その奥で黒い光が灯り、一条の線となってブラックマンに放出される。
「私怨で動くのは実に二百年ぶりだ」
右手一本で黒い光線を受け止め、力の奔流はブラックマンの掌に吸い込まれた。
「吸収……そ、そうか。お前も闇の眷属か……。だ、だったら仲間じゃないか。脅かすなよ」
「仲間?」
双眸に危険な輝きを孕ませ、ブラックマンは一歩前に出る。
「闇の眷属とはいえ、劣性種族風情が私を仲間だというのか」
「へ、へっ。ハッタリ言うなよ。真性種族が物質界に具現化出来るわけないだろ」
どうやらまだ分かっていないらしい。
いや、分かっているのか。だからこんなにも怯えている。ついさっきまで自分より格下だと思っていた者の力が、一瞬で激的に変化したのを感じ取ってはいるのだ。しかし認めたくはない。これから訪れるであろう自分の死を。
「真性種族の中でも一部の限られた者にだけ、『影』を物質界に生み出すことが出来る。『本体』の力には遠く及ばないが、それでも雑魚を葬るのに苦労はしない」
ダークスーツのポケットに手を入れ、ゆっくりと、そして確実に目の前の虫けらとの距離を詰めていく。
「見えるか。貴様ら劣性共とは次元の違う力が」
「あ……あ、あ……」
呆けた顔で意味を為さない吃音(きつおん)を発しながら、彼は後ずさる。
「貴様も闇の眷属の端くれだ。黒が終焉を現す色だということくらいは知っているだろう。それ以上何者にも染まらない、という意味でな。だから私も貴様も黒を好む。なら、貴様の黒を染めるにはどうすればいいか」
右手をポケットから出し、緩慢な動きで彼の額の高さにあわせた。
「簡単なことだ。より濃い黒で塗りつぶしてしまえばいい。真閻とも呼ぶべき暗黒の色でな」
一呼吸、いや――僅かなまばたきの内に、ブラックマンの右手は獲物の頭部を捕らえていた。高速移動などという生易しいモノではない。瞬間的な空間の跳躍だ。
「この世界は気に入ってるんだ。勝手に汚すな」
そして力任せに地面に叩き付ける。
「智子と同じ目に遭わせてやりたいんだが、あまり時間がないんでね。闇に喰われて漆黒の獄炎に灼かれてこい」
その声に応え、ブラックマンの右肩から巨大な黒い顎が生えた。ソレは上顎と下顎が一直線になるくらいに大きく口を開けると、目の前にあった餌を丸飲みした。
後には何も残らない。彼がさっきまでそこにいたという痕跡をすべて消し去り、顎は満足げな笑みを残して空気に溶けた。
「さて、と」
軽く息を吐き、ブラックマンは智子の元に歩み寄る。
両目からは止めどなく涙を流し、全身を脱力させて焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。
そっと彼女の髪を撫でる。壊れやすいガラス細工を扱うように、慎重に丁寧に優しく包み込むように。そのまま自分の額を彼女の額と重ね、ブラックマンは静かに目を閉じた。
「智子……お前は一人じゃない」
◆エピローグ◆
気が付くとそこは白い天井の部屋だった。薬臭い独特の匂いが智子の鼻腔を刺激する。
「わた、しは……」
キョロキョロと周りを見回していると、横手のカーテンが開けられた。
「あら、やっと目が覚めたのね」
立っていたのは保険医の先生だった。白衣のポケットに手を入れて柔和な笑みを浮かべている。
「朝ここに来てみたら、いきなりあなたがベッドにいるんだもん。ビックリしちゃった」
「そう、ですか……」
とりあえず上半身だけを起こして記憶の糸をたぐった。
頭が妙にスッキリしている。適度に運動した後、たっぷり睡眠を取って目が覚めた時みたいだ。
「鍵屋さんって寝顔は可愛いのね」
「寝顔『は』ってどういう意味ですか」
棘のある口調で言い返すと、保険医の先生はしまったといった仕草で口を塞ぐ。
「ご、ゴメンナサイね。ほら、鍵屋さんっていっつも怒ってるみたいな顔してるから。今だって。せっかく美人なのに台無しよ。寝てる時みたいに笑って笑って」
必死にフォローにもなっていないフォローを入れるがすでに遅い。
(どーせ私は無愛想ですよ)
智子は口を尖らせてそっぽを向いた。
その視界の隅にプリント用紙が一枚映る。紙には『屋上への立入禁止について』というタイトルが印刷されていた。
(屋上……! 結界!)
「ねぇ、屋上はどうなったの!?」
ようやく思い出し、智子は声を荒げて先生に詰め寄る。
「あ、ああ、屋上は何か柵を塗装しなおすとかで立入禁止になったみたいだけど……どうかしたの?」
彼女の答えに体の力がどっと抜けた。フルマラソンを走り終えた直後みたいだ。
(そうよね。冷静になって考えれば『真閻の六芒星』が完成したわけないんだわ。完成してたら、今頃こんなにのんびりしていられないもの)
窓の外を見る。
夏の到来を予見するかのように、生命力溢れる木々が青々と茂っていた。その枝に小鳥がとまり、心地よいさえずりを紡いでいる。
平和そのものだ。
「あ、先生。ブラックマンって教師、今どこにいるか分かりますか?」
「ブラックマン先生? ええ、ちょっと待っててね」
面倒臭いけど、お礼を言わなければならない。
絶望のどん底に突き落とされ、一人泣いているところを助けてくれたのはブラックマンだった。
《智子……お前は一人じゃない》
確かに聞こえた。彼の声が。
それがキッカケでみんな来てくれた。お父さんもお母さんも、カスミ先生も三下も。みんな智子のことを励ましてくれた。
一人じゃないって。いつでも支えてあげるって、言ってくれた。
ブラックマンが何をしたのかは分からない。でも別にそんな事どうでも良い。
ただ確信だけがあるのだ。最初に手を差し伸べてくれたのは、彼に間違いないという確信が。
「鍵屋さん。ブラックマン先生当分来ないんですって。ほら、あの人臨時の教師でしょ? なのにあんまり真面目じゃないし。だからよっぽど授業に余裕のある時くらいにしか呼ばれないみたいよ。あらやだ、こんな事生徒に言ってもいいのかしら」
思わず笑いが零れる。
不真面目であまり学校に来ない。それでは自分と同じではないか。
そう、同じだ。あの黒一色の阿呆と。
「ちゃんと、返してくれるんでしょうね」
誰に言うでもなく呟きながら、右眼に手を持っていく。いつもそこにあるはずのモノクルの感触は無かった。
再開を約束した証として。
「黒って色、ちょっとは好きになかったかな……」
以前は黒を見て思い出すのは辛い思い出ばかりだった。しかし、これからはブラックマンの事も一緒に思い出す。なら、悪くはない。
(今度会う時までに、笑顔の練習でもしててあげようかしら。とびきり邪悪で真っ黒なヤツをね)
目を瞑り、大きく息を吸って肺の奥に新鮮な空気を送り込む。
口から吐き出す細い風の流れに乗って、《期待してるよ》と彼の声が聞こえた気がした。
【終】
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【5128/ジェームズ・ブラックマン(じぇーむず・ぶらっくまん)/男/666歳/交渉人 & ??】
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■ ライター通信 ■
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こんちには、ブラックマン様。『神聖都学園が消える日』お届けいたします。
最初はブラックマン様以外のPC様をお待ちして、二人でドタバタさせようとしていたのですが、その前に気に入ったプロットが立ったのでブラックマン様お一人で書かせていただきました。
智子を掘り下げる過程でブラックマン様を絡ませ、良いとこ取りをしようと思って書いていたのですが……読み返してみると思いっきり智子が主人公になってますね(汗)。
いや、参加PC様がブラックマン様だけなのでのびのび書けるなーと思っていたら、こんな事になっていました(滝汗)。
さて、次の『嗚呼、大人嬉璃よ永遠に』でしばらくお別れですね。最後の作品も楽しみにしていて下さい。ではでは。
飛乃剣弥 2006年6月7日
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