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<東京怪談ウェブゲーム あやかし荘>


『嗚呼、大人嬉璃よ永遠に』
◆プロローグ◆
 恵美の住む管理人室に備え付けられた巨大鏡。その前で嬉璃は愕然としながら、大きく目を見開いた。
「お、大人になれん……」
 平日の昼下がり。テレビショッピングで見つけた可愛い水着を気に入り、似合うかどうか鏡の前で確かめようとした時だった。
 いつもならあっと言う間に視界が上昇し、足下までもある自慢の銀髪を掻き上げながら、すらりと伸びた白く美しい手足を感嘆の溜息と共に見つめているはずだ。しかし――
「変化……できん……」
 鏡の中から絶望的な顔つきの自分が視線を投げかけてくる。
 耳元で揃えたショトーヘアー。頼りなさげな紅い瞳に、ぷっくりと膨らんだ小鼻。丸みを帯びた顔立ちと、頭にした大きなリボンが子供っぽさに拍車を掛けていた。
「そんな馬鹿な……!」
 叫んで目を閉じ、意識を集中させる。そして大人の姿へと変貌していくイメージを頭の中で強く描いた。
 数秒後、大きく息を吐いて恐る恐る目を開ける。
 しかし鏡に映っているのは小学生ほどの背丈の、着物を身につけた童女。手など完全に袖口に呑まれてしまっていた。
「う……」
 熱いモノが目元に込み上げてくる。
 このままでは柚葉を見下ろすことも、三下をからかうことも、天王寺綾と高笑いを上げることも出来ない。
「うわあぁぁぁぁぁぁん!」
 あやかし荘全体に響き渡る大声で泣き叫び、嬉璃は涙の海に体を沈めた。

◆PC:加藤忍◆
 まぁ、キッカケはと聞かれれば『目に付いたから』と答えるのが一番妥当だろう。もっと端的に言えば『見ざるを得なかった』。更に言うならば『どーやっても目に入る』だ。
 それ程、彼の挙動は極悪なほどの不審さを醸し出していた。
「おい、ブラックマン」
 電柱相手に鷹揚に頷いたり、指先をキザっぽく振って見せたり、口の端を妖しくつり上げてウィンクしたりしている男に加藤忍は半眼になって話しかける。
 天気のいい昼間だというのに、何故かそこだけ太陽の祝福を拒絶しているかのように深い闇が鎮座していた。
「む。誰だ。私のイメーヂトレーニングをぢゃまするのは」
 目の掛かる程度に切りそろえた黒い髪、黒いネクタイ、黒いスーツ。がっしりとした体つきに、忍よりも頭一つ分高い身長。
 闇の残像を残して、彼――ジェームズ・ブラックマンはこちらに振り向いた。
「おお、忍ぢゃないか。丁度良いところに。どうだ、今度は嬉璃に喋り口調も合わせてみたんだが。イケてるか?」
 どうやら嬉璃の事をまだ諦め切れていないらしい。蓮に紹介された大人変化の嬉璃がよほど気に入った様子だ。確かに以前、『恋愛のチャンスは一度きりではない』と言っていたが、まさか本当にリベンジするつもりだとは思わなかった。
(子供姿の嬉璃さんを見せたら……)
 面白いかもしれない。
 果たしてこの男がどんな反応を示すのか。非常に興味深いモノがある。
 なにせ、このブラックマンという男。今まで忍が会って来た人物の中でも間違いなくトップクラスに入る変わり者だ。
 なおかつ自分と互角以上に渡り合う実力の持ち主でもある。
(試してみるか)
 狡猾そうな笑みを浮かべ、忍はブラックマンに近寄った。
「ブラックマン。こんなところで練習しているよりも、今すぐ本人にあって直接言った方がいい」
 耳の下辺りまで伸ばしたストレートの黒髪を梳きながら発した忍の提言に、ブラックマンは目を黒く輝かせた。
 以前、忍はブラックマンと嬉璃が良い仲になることに関して否定的だった。それは嬉璃のためを思ってのことだ。勿論、その考えは今も変わらない。
 しかし今なら問題ないと断言できる。
(嬉璃さんは今間違いなく子供の姿だ)
時計を見る。午後の二時過ぎ。
 嬉璃が毎日楽しみにしているテレビショッピングの放送は午後の一時からだ。それから約一時間、嬉璃は大人変化を行い自分に似合う物を探す。
(だが大人の姿になるには霊力を使う。そういつまでもなり続けていられる訳ではない)
 忍の記憶だと連続でせいぜい一時間。その後はしばらくのインターバルを挟んで霊力を蓄積しなければ大人変化はできない。
 あくまでも子供の状態が嬉璃の自然体なのだ。
 だがブラックマンはそのことを知らない。
「忍! そうか! 私と嬉璃を応援してくれる気になったか!」
「共に生死をかけた仲じゃないか。お前のことは私なりに認めているつもりだよ」
 変人としてな、と胸中で付け加える。
 そして二人は互いの思いを胸に、意気揚々とあやかし荘へと向かった。

 嬉璃は確かに子供姿だった。
 そこまでは忍の計算通りだった。
「ああぁぁぁぁぁぁぁん!」
 因幡恵美の胸の中で号泣していることを除けば。
「め、恵美さん? どうかしたんですか?」
 恵美の部屋から漏れる聞き慣れない叫声に、思わずノックもせずに開けてしまった。
 八畳ほどの管理人室。そこは恵美と嬉璃が同居する部屋。もう夏も間近だというのに、相変わらずコタツは出されたままだ。
 十五インチのテレビの隣に置かれているのは、嬉璃が大人変化した後にいつも使っている姿鏡。その前で恵美は、泣きじゃくる子供姿の嬉璃を困った顔でなだめていた。
「ああ、忍さん。それが……嬉璃さんが……」
「びええぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
 何か言おうとした恵美の声が嬉璃の号泣によってかき消される。
「忍、嬉璃がどうかしたのか? 姿が見えないようだが」
 部屋の扉の前に立っている忍の後ろで、ブラックマンはキョロキョロと辺りを見回しながら嬉璃の姿を探していた。
「え、えーっと、嬉璃さん、どうかしたんですか?」
「だから忍、嬉璃はどこだ」
 取りあえずブラックマンの事は置いて、忍は恵美の前に正座する。
「あの、あたしにもよく分からないんですが。なんか大人になれなくなったみたいで……」
 大人になれない。『なっていない』ではなく『なれない』。
「ど、どうしてまた」
 ソレが分からないから、こうして泣きじゃくっているのだろう。
 分かってはいたが聞かずにはいられなかった。
「あたしも詳しいことは知らないんですけど、昼間にテレビを見ていて、それで大人になろうとしたらなれなくなっていた、と……」
「そうですか」
「忍、嬉璃はどこなんだ」
 頭の上から聞こえてきた野太い声に、忍は溜息をついた。
(面倒なことになった……)
「あのー、忍さん。そちらの方は?」
 恵美は目線だけを上げて、ブラックマンの立っている方を見る。
「おおっと。自己紹介が遅れた。私の名前はジェームズ……いや、ヂェームズ・ブラックマン。通りすがりの黒紳士です。どうか今後ともよろしく、ミス……」
「ああ、恵美です。因幡恵美と申します。どうも初めまして」
 怪しさ特上大盛りのブラックマンの自己紹介に、恵美は苦笑いを浮かべながら返した。そしてブラックマンに座布団をすすめ、「ゆっくりしていって下さい」と優しく言う。
「恵美さん、安心してください。ここに居合わせたのも何かの縁です。この加藤忍、責任を持って嬉璃さんを元に戻してみせますよ」
 忍の力強い言葉に嬉璃の泣き声が止まり、恵美の表情が幾分和らいだモノとなる。
「忍……なるほど。これは一種の謎掛けだな。私に隠れている嬉璃を見つけろと。いいだろう、その挑戦受けて立つ」
 ブラックマンのやる気満々の言葉に忍は後ろ頭を掻きながらあさっての方向を向き、子供姿の嬉璃を指さした。
「紹介が遅れたな、ブラックマン。嬉璃さんだ」
 言われてブラックマンは口元に手を当てながら考え込み、何か思索を巡らせるように天井を見上げる。あぐらを掻いて座った自分の足の上を、人差し指で数回トントンと叩き、突然手の平を打って閃いたように声を上げた。
「嬉璃はどこぞの黒ずくめに薬を飲まされて子供になった名探て……」
「黒ずくめは貴様ぢゃああぁぁぁぁぁ!」
 嬉璃の放ったドロップキックは見事にブラックマンの顔面を捕らえていた。

 一通り嬉璃の説明をし終えた後も、ブラックマンは納得行かない表情で嬉璃の姿をまじまじと見つめていた。
 嬉璃は気分悪そうな顔で、露骨に敵意剥き出しの視線をブラックマンにぶつけているが、当の本人はまるで気にした様子もない。そして一言、
「貧相だな」
「このうつけがあぁぁぁぁぁぁぁ!」
 嬉璃の体――特に胸の辺り――を見ながらブラックマンが漏らした言葉に、嬉璃の鉄拳が飛ぶ。しかしブラックマンは宙を舞って華麗にかわすと、髪を掻き上げてニヒルな微笑を浮かべた。
「嬉璃よ、心配するな。確かに今の幼児体型でぺちゃぱいでチビ助でほっぺたみたらし団子の嬉璃も趣があって悪くない。いや、マニアにはバカウケするだろう。しかし私はどちらかと言えば清楚で可憐でスタイル抜群のボン・キュ・ボンの嬉璃が好きだ。だからこの件に関しては命を懸けて協力するぞ」
 罵詈雑言で挑発しているのか、それでも美辞麗句で褒めているのか。いまいち分かりかねる忍だったが、ブラックマンに頭を撫でられて涙を浮かべている嬉璃を見る限り、言われた本人は嘲弄と取ったらしい。
「とにかく嬉璃さん。詳しい話を聞かせてください」
 このまま放って置いても話は進まない。
 短い手を振り回してブラックマンに一矢報いようとしている嬉璃に、忍は出来るだけ穏やかな口調で話しかけた。
「嬉璃さん。一番最後に大人変化が出来たのはいつですか」
 忍の単刀直入な質問に、嬉璃の注意がこちらを向く。そして忍の真剣な目を見て本気で解決しようとしている事を汲み取ったのか、ブラックマンから離れて不機嫌そうに座った。
「昨日ぢゃ。昨日の昼間は大人になれた」
「ソレが最後ですか?」
「そうぢゃ」
 ならば単純に考えてこの二十四時間の間に起こった出来事が大きく関わっている可能性が高い。
「では、その時から今までに何かいつもと変わった事はありませんでしたか。例えば、普段食べない物を食べたとか、妙な物を見たとか」
 忍の言葉に、嬉璃は腕組みして「う〜ん」と考え込む。
「まぁ強いて言うならテレビショッピングが面白くなかったことくらいか。ワシ好みの品物が全くなかった」
 全くなかった、か……。確かにいつもと違う点ではある。
「それでは他に、寝る時間や起きる時間などはどうですか。例えば寝付けなかった、逆に気持ち悪いくらいグッスリ眠れた、とか」
「昨日かぁ……ああ、そうじゃ。昨日は犬の遠吠えが五月蠅くてのぉ。あと恵美が寝言で、三……」
「嬉璃さん!」
 嬉璃の言葉を、恵美が顔を真っ赤にして遮る。
 何を言おうとしたのかは知らないが、取りあえず睡眠不足気味と考えても良いだろう。
「そうですか……。では、嬉璃さんではなく他の方。このあやかし荘の住人の方に何か変わった点はありましたか。嬉璃さんに関係のあることでもないことでも」
「ココの住人は変なヤツばかりぢゃからのぅ。まぁ昨日はいつも通り、綾と柚葉が三下の馬鹿を……からかっておったぞ」
 ん? 今、何か違和感があった。それに心なしか嬉璃の顔色が悪いように見える。
 喋りの調子が僅かに狂ったのは『綾、柚葉、三下』の名前が出た下りだ。
(探ってみるか)
 手がかりは多い方がいい。どんな些細な手がかりでも解決の糸口になることは多々ある。
「分かりました。嬉璃さん、どうも有り難うございます」
 質問は終わったとばかりに忍は分かり易い形で話を区切った。
「そう言えば最近綾さんと会ってないですねぇ。やっぱり贅沢三昧なんですか?」
 先程までとは違い、軽い口調で嬉璃にではなく恵美に話しかける。視線は嬉璃に向けたままでだ。
「え? ええ、そうですね。この前も二千万円もするとか言う花火を派手に打ち上げていましたけど」
「綾はまさに歩く身代金。博多弁になってくれれば完璧なのだが」
 ブラックマンのコメントは無視して忍は嬉璃の瞳を注視する。変化はない。
「ここに入ってくるときに柚葉ちゃんも見ましたけど、相変わらず活発ですね。私も元気を分けて欲しいですよ」
「知っているか忍。妖狐の毛を煎じたお茶は強力な精力増強剤になるらしい。お前がそちらに悩みを持っているのなら相談に乗るぞ」
 ブラックマンの横やりを咳払いで一蹴し、嬉璃の双眸に傾注する。やはり変化はない。
「三下は相変わらず忙しいんですか? 麗香さんにこき使われているみたいですけど」
「三下のことなら私も知っているぞ。眼鏡の奥は美貌の輝き? ベタ過ぎてツッコむ気にもなれん」
 やれやれ、と隣で肩をすくめるブラックマンがゾウリムシ並にどうでも良くなるくらいの変化が目の前で起きた。
 嬉璃の瞳孔が収縮して顔は青ざめ、一方恵美の顔がほのかに桃色がかる。
(そうか……そういうことか……)
 確証はない。だが忍の第六感が告げる。
 ――間違いない、と。
 しかし、このことを確認するためには恵美には席を外して貰う必要がある。
 忍はブラックマンに目配せして小声で要件だけを告げた。
 一度は斬り合った仲だ。ソレも真剣勝負となれば築いた信頼関係は大きい。言葉以上の意思疎通は出来てもおかしくないはずだった。
「ふ……承知」
 ブラックマンは軽笑を浮かべ、理由も聞かずに立ち上がると恵美の元に歩み寄る。
(よし、いいぞ。そのまま恵美さんを連れだしてくれ)
 突然、黒い壁に立ちはだかられた恵美は戸惑いの色を濃く浮かべていたが、ブラックマンの紳士的な笑みで少し安心したような表情になる。
「ミス恵美。よく聞いてくれ。むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいたんだ。おじいさんは山にシバカレに。おばあさんは皮の選択にいそしんでいた。つまり、二人は歪んだ倒錯愛に陥っていたわけだな」
 が、突然始まったブラックマンの昔話に恵美の表情がものの見事に崩壊する。
「あ、あたし、お茶いれてきますね! あは……あはははははは!」
 引きつった笑いを浮かべて、恵美は逃げるように管理人室を後にした。
「さぁ、忍。言われたとおりミス恵美を追い払ったぞ」
 自慢げにふんぞり返るブラックマンに、忍は頭を抱えた。

「率直に言います。嬉璃さん、大人変化出来なくなった理由をすでに御自分で分かってらっしゃいますね」
 恵美がしばらくたっても戻ってこないことを確認して、忍は話を切りだした。
「な、何を馬鹿な! そんなことが分かっていたら……!」
「そして理由は三下と深く関係ある。違いますか?」
 極力言葉の修飾を排除して弾劾した忍に、嬉璃は言葉を詰まらせた。
 その反応だけで十分だった。忍は自分の考えが間違いないと確固たる自信を持つ。
「恐らく今の嬉璃さんの状態を解決するためには三下にとって不利益となることをしなければならない。しかし恵美さんは三下に気がある。さらに嬉璃さんは恵美さんに対して恩義を感じている。だから言い出せなかった」
 この事件、三下に痛い目を見て貰えば済むかもしれない。だが三下に何かをすれば恵美が悲しむ恐れがある。そしてそんな恵美の姿を見るのは嬉璃にとっても辛い。
 実に複雑な三角関係だ。
「話して貰えませんか、嬉璃さん。貴女が大人変化出来なくなった理由を」
 嬉璃はしばらく戸惑っていたが、忍は何もかも見通していると諦め、元気のない声で語り始めた。
「ワシが昔このあやかし荘から男共を追い出していた事は知っておるな」
 蓮から聞いたことはある。あやかし荘に男の住人が来ようモノなら、ありとあらゆる手を尽くして追い出していたとか。
 しかし、その嫌がらせも恵美が管理人になってからは一切行わなくなったと聞いている。
「ワシはな女から漏れる特有の霊気を吸って生きておる。正確に言えば女『だけ』のな。女と男の霊気は種類が違うんぢゃ。女は甘みがあって栄養になるが、男の霊気には苦味や渋味等の雑味が多く混じっておって不味くて食えん」
「だから追い出していた、と」
 忍の言葉に、嬉璃は静かに頷き話を続けた。
 嬉璃は男だけを追い出すつもりだった。しかしそう都合良く事は運ばず、中には突然現れる嬉璃の姿を見て逃げだす女もいた。幽霊と勘違いして。
 人は徐々に減り、嬉璃があやかし荘と運命を共にしようとした時、恵美が管理人としてやってきた。
 彼女はあやかし荘を建て直すために、色んな宣伝活動を試みてくれた。張り紙、チラシを始めとして不動産への売り込み、人脈を使っての広報。
 数年の歳月を掛け、殆ど人のいなかったあやかし荘に少しずつ活気が戻り始めた。そして天王寺綾が移住して来てからは彼女の経済支援も加わり、あやかし荘には多くの人が集まった。勿論、男も混じっていたが彼らの霊気の不味さよりも、恵美一人の霊気の美味さの方が遙かに上回った。
「恵美には本当に感謝しておる。ぢゃがワシが姿を現して怯えさせてしまっては元も子もない。ワシは恵美達の行動を影ながら見守るつもりぢゃった」
 しかし、様々な面々が集まるにつれ一つの欲が頭をもたげ始めた。
 ――彼女たちと話をしてみたい。
 元々何百年も人とろくに話すことなく過ごして来た嬉璃だ。一度そう思い始めると寂しさはあっと言う間に心を支配した。
 だが拒絶されるかもしれない。そうなればまた、あやかし荘は衰退し始め、今度こそ潰れてしまうかもしれない。
 嬉璃は思い悩んだ末、まずは恵美の夢枕に立ってみることにした。そこで少しずつ自分の存在を知らしめ、慣れてきた頃に姿を現せばいい。
 そう考えて管理人室に足を踏み入れた時、嬉璃は思わぬ言葉と対面した。

『やっと、お話しする気になってくれたんですね』

 そこには満面の笑みを浮かべて自分を迎え入れてくれた恵美がいた。
 どういう訳かは知らないが、彼女には最初から嬉璃が見えていたのだ。その上で平然と日常を送り続けていた。戸惑う嬉璃に、恵美はさも当たり前のように言ってくれた。

『恥ずかしがり屋さんだと思っていましたから。話しかけてくれるのをずっと待っていました』

 待っていた。妖怪で幽霊かもしれない自分を。
 これまで驚かれ、拒絶されたことはあっても、受け入れられたことはまずなかった。
 恵美はそれからも柚葉、歌姫といった物の怪の類を普通の友達のように温かく迎え入れ、嬉璃にとってあやかし荘は素晴らしい環境に成りつつあった。
 三下がやって来るまでは。
「あやつの霊気の不味さは群を抜いておった。コレまで他の男共なら何とか我慢してきたワシぢゃったが、三下だけはさすがに追い出そうと思った」
 だが、ちょっとやそっとの嫌がらせに彼は屈しなかった。会社でよほど鍛えられているのだろう。そしてある日、恵美に自分のやっていることがバレた。
「あの時、恵美の見せた顔が今でも忘れられん」
 悲しさで泣き出しそうなのに、それをじっとこらえてあくまでも優しく注意してくれる恵美。
 それだけで嬉璃には恵美が三下に普通とは違う感情を抱いていることが分かった。
 恵美には莫大な恩がある。
 あやかし荘を救ってくれた事、豊潤な味わいの霊気を吸わせてくれる事、そしてなにより自分を受け入れてくれた初めての人間である事。
 嬉璃は三下を追い出すことを断念し、じっと耐え続けた。
 そんな生活にもだんだんと慣れ、このままでも大丈夫かと思っていた。
 しかし――
「大人になれなくなった。その原因は三下の劣悪な霊気が嬉璃さんを弱らせているから。こう言うことですね」
 忍の確認に嬉璃は黙って頷く。
 三下に事情を説明すれば彼は出ていくだろう。なんなら忍が資金的な手助けをしてやっても良い。勿論、嬉璃のために。しかしソレでは恵美が悲しむ。
 かといって恵美に話せば、彼女の優しい性格だ。苦悩の末、嬉璃のためにとんでもない行動に出るかもしれない。
(例えば、駆け落ち……。だがそうなればあやかし荘は誰が管理する。嬉璃さんだって恵美さんが出ていく事なんて望んでないだろうし)
 唇を指先でいじりながら忍が思案していると、ブラックマンの自信に満ちた声が響いた。
「私なら出来るぞ、全てを丸く解決することが」

◆PC:ジェームズ・ブラックマン◆
 草木も眠る丑三つ時。
 三下忠雄の眠る部屋、通称『ぺんぺん草』の間の前に、ブラックマンは音も立てず闇から降り立った。黒い染みの付いた木製の扉を開けることもなく、ブラックマンは体を透過させて室内に入り込む。
 中には遅くまでこき使われて爆睡してる三下がいた。
 暑くて寝苦しいのか、黒い短髪を汗で額に張り付かせ、三下は布団の冷たい箇所を求めて寝返りを打った。
(ふ……よく寝ておるわ)
 足を動かすこともなく、ブラックマンは偉そうに腕を組んだまま三下の枕元へと滑るように移動する。
 ブラックマンはその場にしゃがみ込むと、三下の額に手を当てて頭の中で思い描いたイメージを送り込み始めた。
 青い空。白い雲。さんさんと降り注ぐ太陽の光に、白く瑞々しい肌を惜しげもなく晒す水着姿の嬉璃……。
(おおっと違う違う。コチラではない)
 慌てて妄想を振り払い、ブラックマンは改めて別の念波を三下の体に送り込んだ。
(悪く思うな。コレも私と嬉璃の輝かしい将来のため。そのためなら私は悪魔にでも魂を売ろう……って、私も悪魔の仲間か。売り手と買い手が同じでは商売が成立せんな、はっはっは)
 満足げに一人でツッコむと、ブラックマンは闇に溶けて消えた。

「ああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
 『ぺんぺん草の間』の屋根裏で一夜を過ごしたブラックマンの目覚ましは三下の絶叫だった。
 顔半分だけを透過させて屋根の下をのぞき見る。そこでは自分の姿を鏡で見て青ざめている三下の姿があった。
「こ、これが僕、の……体……」
「朝っぱらでかい声出すなや! このドアホー!」
 絶望に浸っている三下に追い打ちを掛けるように、ピンクのネグリジェに身を包んだ天王寺綾が室内へ押し入ってくる。そして金に近い茶髪を振り乱し、暴言を吐こうとした顔が一瞬で硬直した。
「あ、あんた……誰や……」
 安眠を邪魔され、憤怒に染まったはずの顔からはすぐに毒気が抜け、綾は呆然として三下を見つめている。
「さんしたぁ! ボクとの勝負に負けた嫌がらせかぁ!」
 綾の後ろから、三角帽のナイトキャップを被った柚葉が金色の尻尾を大きく振って『ぺんぺん草の間』に入り込んだ。
 が、彼女も綾同様、三下の姿を見て口を開けたまま停止する。
「さん、した……? じゃないよね」
 三下は二人に蒼白の顔を向け、抑揚のない声で呟いた。
「僕……女の人になったみたいです……」

 管理人室。
 ブラックマンは忍と嬉璃に事の成り行きを説明し終え、満足げにお茶をすすっていた。
「そうか、巧く行ったのか。じゃあ取りあえずは様子見と言うことになるな」
 忍は更に先のことまで考えているのか、目を細めて思索に耽っている。
 ブラックマンの提案は実に単純な事だった。
 三下を追い出せない、恵美に真実を開かすわけにはいかない、嬉璃はこれ以上男である三下の不味い霊気を吸っていられない。
 この状況を一気に打破する方法は一つ。
 三下を女にしてしまえばいい。
 彼が変になってしまった体を呪って自分から出ていくとなればそれも良い。自分の意志である以上、恵美も了承するしかない。
 また、三下が居座ることになり、恵美が彼の体のことを知って愛想を尽かせばそれでも良い。その時には遠慮なく追い出せる。もっとも、恵美は三下の体を何とかしようとするだろう。しかしブラックマンの術はブラックマン自身にしか解けない。何をやっても無駄だ。
 嬉璃自身も三下が男ではなくなった以上、コレまでのように不味い霊気を吸わなくてもすむはず。その事は三下が女体化してすぐ、嬉璃に確認してあった。
「どうだ、嬉璃。霊気は戻りそうか」
「ああ、心配ない。三下が女になってからは順調そのものぢゃ」
 意地の悪そうな笑みを浮かべ、嬉璃は両の手の平を握ったり開いたりしている。
「それより三下のことは恵美に出来るだけバレないようにしろよ」
 嬉璃も恵美の悲しむ姿など出来るだけ見たくはない。三下の体もいずれは元に戻すつもりだ。嬉璃がしばらく大人変化に困らないほどの十分な霊力をため込めた時が来れば。だからそれまでの間、恵美が何も知らずに済めばそれに越したことはない。
「心配ない。三下を見た者の記憶は全て消しておいた。あとは三下自身がミス恵美に喋らなければ問題ないはずだ」
「ブラックマン、それも心配ない。三下も恵美さんに好意を寄せている。いくらアイツがマヌケでも、自分から墓穴を掘るような事はしないだろう」
 忍の言葉に嬉璃とブラックマンは邪悪に笑う。
 三下は今、胸にさらしを巻いて出社している。女になったくらいでは会社を休めないらしい。よほど上司が恐いと見える。
「しばらくは静観だな」
 と、低い声でブラックマン。
「まぁ、心配いらんぢゃろう。ワシを脅かす最大の要因が消えたのぢゃからな」
 子供とは思えないほど大人びた笑みを浮かべて嬉璃が続ける。
「いえ、嬉璃さん。いくら何でも三下を買いかぶりすぎです。ここは『最低の害虫』くらいに留めておいた方がよろしいかと」
 爽やかな、しかしどこか歪な表情で忍が嬉璃の言葉を捕捉した。
「なかなか言うじゃないか忍。では私は『ド低脳の役立たず』と言わせて貰おうか」
「ほほぅ。ならワシは『単細胞以下の多細胞生物』と行こうか」
「そう来ましたか。逆にこういうのはどうですか。『史上最高に希薄な存在価値』」
 三人は言い終えてクック、と低く笑う。
 まるで悪の組織の如き雰囲気が辺りに漂い始め、嬉璃はそれに酔ったように陶然とした笑みを浮かべた。
「これで大人になれればのぅ……最高なのぢゃが」
 言いながら嬉璃は目を瞑る。そして何かに集中するように顔を上げた。
 恐らく大人変化しようとしているのだろう。だが三下が女になったのはついさっき。さすがに早すぎる。
「おお……」
 しかし思わず声が漏れる。
 目を閉じ天を仰いだ嬉璃の背が徐々に伸び始め、丸い子供の顔から細く怜悧な大人の表情へと変貌していった。
「テキメンだな」
 隣で忍が感心した声を上げる。
 これ程の即効性があるのならば、三下を女にしておく期間も短くて済むだろう。
「な、なんぢゃ」
 しかしブラックマンと忍が見守る中、嬉璃の変化が急速に解けていく。そして数秒と立たない内に元の子供姿へと戻った。
「……まぁ、いくら何でもな」
「しかしこれで遅くとも数日の内には嬉璃さんに十分な霊力が溜まる」
 落ち込む嬉璃のそばで二人は冷静な意見を述べる。
(とりあえず、幸先の良いスタート、か……)

 三下が女となって一週間。
 依然として嬉璃の姿は子供のままだった。
「どーゆー事ぢゃ、いったいどーゆー事なんぢゃ! 説明せい! 黒男! 忍!」
 いつもの管理人室。夕方近くのこの時間は、恵美はいつも庭掃除で部屋にいない。ソレを見計らって来るようにブラックマンは蓮を通じて嬉璃からお達しが来ていた。恐らく忍も同じだろう。
 嬉璃はコタツの上にあぐらをかき、両手でバンバン! と机を叩きながら憤慨している。
「何で一週間も経ったのというのに、ワシの体は元に戻らんのぢゃ!」
 正座させられているブラックマンと忍を高い位置から見下ろしながら、嬉璃は声を荒げた。どうやら嬉璃の辞書には『世話になっている』という文字はないらしい。
「まぁ落ち着くんだ嬉璃。もう少し気長に待ってみれば大丈夫なんじゃないのか? それに安心しろ。最近はガキンチョ嬉璃もなかなか良いのではないかと思い始めたから」
「貴様の嗜好なんぞ聞いとらんわ!」
 コチラに投げつけてきた湯飲みをブラックマンは無駄のない動きで受け取り、そっと畳の上に置く。
「短気はいかんな嬉璃。ますますガキに見えるぞ」
「貴様が怒らしとるんだろーが!」
 怒声と共に飛んできたテレビのリモコンを指先で弾き、華麗に元の位置へと返した。
「嬉璃……私が好きならハッキリ言ってくれればいいのに」
「貴様の思考回路はどーなっとるんぢゃー!」
 視界を覆い尽くすコタツ机。ちゃぶ台返しの要領で宙に舞った木の板はブラックマンの手間で静止すると、緩慢な動きで音も立てずに着地する。
「子供は元気が一番だな」
 ぜぃぜぃと肩で息をする嬉璃に、ブラックマンは朗らかに笑って返した。
「ブラックマン、じゃれ合うのはその辺にしよう。確かに嬉璃さんの言うとおりおかしいぞ、これは」
 横手から忍の声が入る。
 顎先に手を当てて、何か難しそうな顔をしていた。
「三下を女にした直後、嬉璃さんは大人になりかけた。もしあのペースで霊力が溜まったとすれば、とっくに大人変化出来ていてもいいはずだ。ソレが出来ないと言うことは何か他に理由があると考えた方がいい」
 コレまでの状況を冷静に分析して、忍は客観的な意見を述べる。
「他にとは、例えば?」
「例えば……三下以外にも致命的に不味い霊気を放出している男がいる、とか……」
 言いながらこちらに視線を這わす忍。
 明らかに『お前なんじゃねーの?』と目が語っていた。
「ふ……この私を疑う気か忍。いいだろう、ならば私も女になろうじゃないか」
『ならんでいい!』
 やる気満々ですっくと立ち上がったブラックマンに二人から怒号の様なツッコミが入る。
「三下ならまだしも……貴様の女体変化など考えただけで怖気が走るわ」
 想像してみる。
 ダークオーラを纏った、鋭い目つきのがっしり女。趣味は人間観察。特技は目から怪光線。短所はお酒に酔うと説教するところ。
(なかなか良いではないか)
 妄想上に生まれたもう一人の自分にうっとりしながら目を細める。どうやら二人には見る目がないようだ。
「しょうがないな。では、現状を加速させてみるか」
 ブラックマンの提案に嬉璃と忍は訝しげな顔つきで見返してくる。
「まさか……三下の心まで女にするつもりか?」
 忍の質問にブラックマンは口の端をつり上げ、不敵な笑みを浮かべたのだった。

 夜十時。ぺんぺん草の間。
 そこには手鏡を片手に溜息をつく女性が一人もの悲しげに座っていた。
 切れかけた蛍光灯の光を受け、鮮やかな光沢を放つショートの黒髪。黒真珠を彷彿とさせる双眸に、魅惑的な長い睫毛。キュッと引き締まった唇はうっすら桃色で、通った鼻筋と彫りの深い顔立ちが大人の女性を演出している。
 彼女の名前は三下忠雄。
 ブラックマンの力によって、女性としての人生を歩むこととなった哀れな子羊だ。
「なんで僕がこんな目に……」
 はぁ、と重い溜息をついて三下は体を見下ろす。
 そこにあるのは女性の象徴とも言うべき双丘。大きすぎず小さすぎず、お椀型の造形をしたソレは確かに三下の服の下で息づいていた。
(ふ……君はこれからさらに酷い目に遭うのだよ)
 天井裏から、自らを嘆く三下を見下ろしながらブラックマンはほくそ笑む。忍も部屋のどこかで息を殺して見守っているはずだ。
「みぃのしたぁ!」
 バコーン! とけたたましい音を立てて、外開きの扉が内側に開く。飛んできた蝶番と突然の暴君を交互に見ながら、三下は口を開けたまま目を大きくした。
「貴様、よくもまぁそんな生き恥をさらせたモンぢゃのぅ」
 腕を組み、小さな体で精一杯大きい態度をとって嬉璃は部屋に足を踏み入れる。
「恥ずかしいと思わんのか、そんなブサイク……ではないが女々しい格好で外を出歩くなど」
 あァん? とガンをくれながら、嬉璃は喧嘩腰で三下に詰め寄った。
「そ、そんなこと言われても……僕だって好きでこんな事……」
「やっかましぃ! 貴様のそのウジウジウジウジウジウジしたところが前から気にくわんかったんぢゃー!」
 反論の隙を与えることなく、嬉璃は理不尽な言葉攻めを続ける。
「大体、服装からしてなっとらん! 女の体のクセして、ワイシャツにネクタイなどしおって! マニア層でも狙っておるつもりか!」
「こ、これはさっき会社から帰ってきたばかりで……。それに僕、男だし……」
「言い訳するなー!」
 嬉璃の一喝で三下は縮こまり、マシンガンのように乱射される罵声の嵐に何も言い返すことが出来なくなった。完全に嬉璃の独壇場だ。
(いいぞ嬉璃、その調子だ)
 意識してやっているのか、それとも自然体なのかは知らないが、自分の言った通りの事を実行している嬉璃にブラックマンは一人大きく頷いた。
 ブラックマンが嬉璃に教えたこと。
 それは『三下を人間だと思うな』だ。
 女性になっても効果が無いなら仕方ない。次は人間ですらなく、その辺に生えている雑草か何かだと思って三下の全てを踏みにじってやるしかない。
 病は気から、という言葉がある。
 それが嬉璃の大人変化に当てはまるのかどうかは知らないが、一つの可能性ではある。建前上は。
(まぁ、巧く行く見込みは少ないだろうがな)
 実際に三下が雑草に変わるわけではないのだ。今回の方法は、あくまでも嬉璃の精神的な部分に訴えかけているだけ。これで霊力が戻るとは思えない、が――
(面白いことは確かだ)
 次から次へと嬉璃の口から湧き出す禍々しい毒の言葉。
 よくあれだけのボキャブラリーが備わっているモノだと感心してしまう。ああいうタイプは頭で考えなくても口が勝手に喋ってくれるのだろう。どこか自分と通じるところがある。
(それに嬉璃……今のお前は最高に輝いているぞ)
 本当に活き活きとしている。
 三下に暴言を浴びせることに酔いしれ、恍惚とした表情を浮かべていた。
 これで大人変化できれば嬉璃は間違いなく最高潮に上りつめるだろう。
(まぁ、それはないか)
 あまりに希望的観測な考えに嘆息する。
 今回の本当の目的は、嬉璃の八つ当たりから逃れることにある。自分に降りかかるはずの災厄を三下が肩代わりしてくれれば楽になると言うモノ。
(コレは取引だよ三下。私のみにメリットのある、な)
 思いながら邪悪な笑みを浮かべるブラックマン。しかしその笑みが徐々に弛み、真剣な表情へと変わっていく。
 視界の中で信じられない事が起きていた。
 ヒートアップする嬉璃の姿が大人のモノへと変わりつつあるのだ。
(な、にぃ……!)
 適当な作戦だった。
 理由も根拠もない。ただ嬉璃がワラにもすがる思いで飛びついただけのことだ。成功するなど提案したブラックマン本人ですら考えなかった。
(まぁ、ともあれこれで事件解決、か……)
 釈然としない思いはあるが嬉璃が完全に大人に変化したのは事実だ。この前とは違い、元に戻る様子はない。嬉璃自身は気付いていないのか、相変わらずの調子で三下をこき下ろしているが。
(ふ……嬉璃。やはり君にはその姿が一番よく似合う)
 大声で叫び散らす姿からでさえ、どこか妖艶な雰囲気の感じられる大人嬉璃を、ブラックマンはしばらく天井裏で見守っていた。

◆エピローグ◆
「ストレス?」
 あやかし荘へと続く閑散とした道。ブラックマンは隣で歩く忍に素っ頓狂な声で聞いた。
 二人とも蓮経由ですぐにあやかし荘に行くように言われている。どうやら嬉璃がまた大人になれなくなったらしい。
「ああ。この前、最後に嬉璃さんが三下にやりたい放題やってた場面で大体確信できた。嬉璃さんが大人になれなかった理由は、三下や他の男達の霊気が邪魔してたからじゃない。ストレスが溜まり過ぎて本調子になれなかったのさ」
 そう。恐らく間違いない。
 嬉璃はストレスの影響で大人になれなかった。そう考えれば全て説明が付く。
 最初、何か普段と変わった事が無いかと聞いた時、嬉璃は『テレビショッピングで気に入った物がなかった』『犬の遠吠えと恵美の寝言で睡眠不足』だと言った。
 次に一瞬だけ嬉璃が大人変化できた時、嬉璃は三下の悪口を言って若干ではあるがスッキリしていた。
 そして最後の大毒舌。ここで大幅にストレスを発散できたと考えれば、大人変化できるようになったのも納得がいく。
 そもそも嬉璃は三下の霊気が原因で大人変化できなくなったと言っていたが、彼は平日仕事が忙しくて殆どあやかし荘にいない。ならばもっと他の居住者を疑うなり、平日でもよく話している忍を疑った方が自然という物。それに嬉璃は元々一時間程度の短い間しか変化できないのだ。長いスパンでの影響がここに来て現れるとは考えにくい。
 嬉璃は三下を悪者扱いし、その先入観に捕らわれるあまり冷静な判断力を失っていたとしか思えなかった。
(まぁ、結局三下を超ド級の悪者に仕立て上げる事で大人に戻ることが出来たんだが)
 どちらにしろ、三下を何とかすることで解決できたという事実は変わらない。
「じゃあ何か。今回また嬉璃が大人変化できなくなったのも、変なストレスが掛かっているからなのか」
「だろうな。まぁ理由が分かっているんだ。すぐに解決するさ」
 あやかし荘の門扉はすぐそこまで来ている。
 嬉璃に前回大人変化できなかった原因を最初から説明して三下でストレス発散してくれれば、あっさり大人に戻れるだろう。簡単な仕事だ。
「だからダメです! 嬉璃さん!」
 コレが終わったら報告ついでに蓮の所にでも寄るかと思っていた時、恵美の大声が辺りに響いた。彼女がこれ程の怒声を放つのは珍しい。いや、忍の経験上初めての事かもしれない。
「なぜぢゃ恵美! なぜそんなヤツの肩を持つ!」
 続けて泣き出しそうな嬉璃の声。
 忍とブラックマンは互いに顔を見合わせて頷くと、何も言わずにあやかし荘へ急いだ。その庭先で繰り広げられていたのは、『恵美と三下』vs『嬉璃』という世にも珍しい戦い。そばで綾と柚葉が面白そうに見物している。
「この前、嬉璃さんが三下さんをイジメてたの知ってるんですからね! これ以上三下さんを馬鹿にするのはあたしが許しません!」
「恵美! ワシは本当の事を言っただけではないか! ソレがどうして悪いのぢゃ!」
 小さな体で着物の袖を大きく振り、がーがーとわめき立てる様子は、まるで子供が母親にダダをコネているかのようだ。
「三下さんはそんな人じゃありません! ほら、三下さんもちゃんと言い返さないと!」
 言いながら恵美の後ろで小さくなっている三下を強引に前に持ってくる。
「ぼ、僕は……その……。二人もと仲良くしてくれるのが一番……」
「三下さん!」
 三下の煮え切らない態度に恵美が声を荒げて一喝した。これでは本当に味方なのかも怪しい。
 状況を見ている限り、この前行った嬉璃の三下に対する悪事かバレたのだろう。もしブラックマンが三下を女のままにして置いたらと思うとゾッとする。やはり恵美が三下の事を気に掛けているのは間違いないようだ。
 そして嬉璃は、コレまで最大の味方であり良き理解者であった恵美に怒られるという危機に瀕し、かつて無いストレスを感じている。だから大人変化できなくなった。
 全ての事実が忍の推測を裏付けていた。
「で、ブラックマン。お前はどっちに付くんだ?」
 挑発的な笑みを浮かべ、忍はブラックマンを見上げる。
 どうやら思ったより事は厄介なようだ。この場を丸く収めるのは簡単に出来そうにない。
「当然、嬉璃だ」
 その答えは予測していた。
「なら、私は恵美さんに味方しよう」
 口の端を軽く上げ、忍はブラックマンとは逆の相手を即答する。
 どうせ簡単に収束しないのなら思いっきり複雑にしてしまった方が面白い。それでこそ解決のし甲斐が有るというものだ。
(ま、これも一つの仕事のやり方だな)
 退屈するよりはずっと良い。
(お互いに)
 ブラックマンの方を一瞬盗み見た後、忍は意気揚々とあやかし荘の敷地内に足を踏み入れたのだった。

 【終】
 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【5745/加藤・忍(かとう・しのぶ)/男/25歳/泥棒】
【5128/ジェームズ・ブラックマン(じぇーむず・ぶらっくまん)/男/666歳/交渉人 & ??】

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■         ライター通信          ■
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 加藤様、いつもお世話になっております。前回の『蓮の料理は危険な香り?』では、いつもと違って熱い動かし方してしまったので、今回は冷静なキャラに戻しました。子供嬉璃も素敵とのプレイングでしたので、こういう終わり方をしてみましたがいかがでしたでしょうか。
 さて、このノベルを最後にしばらくお休みさせていただきます。次はいつ戻ってくるか分かりませんが、もし見かけられましたならお声をかけて頂ければ幸いです。
 二ヶ月間どうも有り難うございました。ではでは、またいずれ。

 飛乃剣弥 2006年6月14日