コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


たぐいまれなただの一日

「ん、いいわ。やっぱいい仕事してくれるわね」
 ここは白王社 月刊アトラス編集部。
 編集長の碇・麗香は、シュライン・エマから手渡された原稿をチェックしながら、満足げに頷いた。
 翻訳家でありゴーストライターでもあるシュラインは、普段アトラスに出す原稿はデータでやりとりしているのだが、今日は麗香と久しぶりに顔を合わせようと思い編集部まで原稿を持って来ていた。部内は編集者やライターでいつものように忙そうだ。シュラインは手みやげに持ってきた水ようかんを渡しながら、麗香に向かって微笑む。
「麗香さんも相変わらず忙しそうね」
「まあね…あなたみたいにいい記事を書いてくれるライターばかりならこんなに忙しくもないのだろうけど、生憎そうも行かなくて」
 麗香のその言葉に、何人かの動きが止まる。だが、麗香はそんなことは意に介せず箱を開けながら、応接セットにシュラインを招いた。
「せっかく来たんだからお茶でも飲んでって。一緒に食べながら話でもしましょ…ちょっと、お皿二つとお茶用意して」
 その声が上がるか否かという間に、周りにいた者達がてきぱきと皿とお茶を差し出した。いっけん横暴にも見える仕草だが、皆麗香を慕っていると言うことをシュラインはよく知っている。だからこそ月刊アトラスは怪奇本というジャンルの中で、異例の売り上げを誇っているのだ。
 出されたお茶を飲みながら、麗香は足を組み替える。
「私が忙しいのはいつものこととして、あなたはどう?」
「いつも通りね…しいて言うなら、ゆっくりできるお店が欲しいかなって感じ。最近のお店はどこもうるさくて」
 特に毎日の生活には不満はない。本職の方も適度に仕事があり、プライベートも充実している。
 ただ、翻訳仕事などをしていると、夜中に一杯だけカクテルなどを飲みたくなることがある。そんな時に気軽に行けるバーがあればいいのだが、自分が知っている店は何となくイメージが合わない。静かで、美味しいカクテルがあって落ち着ける、そんな場所があればいいのだが…。
「そうね、それなら最近見つけたいいお店があるわ『蒼月亭』って言うんだけど…」
 そう言いながら、麗香は分厚いシステム手帳を開いた。
「蒼月亭?」
 名前だけ聞くと昔の洋食屋のようだ…とシュラインは思った。バーの名前にしてはずいぶん古めかしい。麗香は手帳をめくりながら眼鏡を少し直す。
「そう。この前ちょっと寄っただけなんだけど、お酒のラインナップはなかなか良かったわ。知る人ぞ知る名店って感じね」
「ふーん…それだけじゃないんでしょ?」
 ただ飲みに行っただけではないのだろう。それだけなら麗香の頭の中に入っていて、わざわざシステム手帳を開くような事はない。シュラインがそう言うと、麗香の口元が笑う。
「うちの編集もあなたぐらい察しがよければいいんだけど」
「だってただのいいお店情報なら、手帳を見なくても教えてくれるもの」
「それが出来ないのよ、うちの子達は」
 パーテーションの隙間から麗香がキッと睨み付けると、盗み聞きしようとしていた皆がわざとらしく仕事に戻っていく。いつもの光景なのだが、何だかそれが可笑しくて、シュラインはクスクスと笑った。
「もう、さぼるのだけ得意になっちゃって」
「まあいいじゃない。ところでその蒼月亭に何かあるのかしら」
 シュラインが笑いながらそう聞くと、麗香は手帳を見ながら話をし始める。
「『幽霊のいないバーはモグリだ』…って、この言葉、あなたなら知ってるわよね」
「知ってるわ。イギリスのパブやバーではそう言われてるわね。向こうは歴史が古いから」
 麗香の話はこうだった。
 投稿情報で『幽霊の出るバー』を募集したところ、その『蒼月亭』の名が出たのだそうだ。その近辺に霊が出ると聞き麗香自身行ってみたのだが、幽霊より店の雰囲気の方が印象に残ったらしい。幽霊を探すどころか、そこのマスターお勧めのカクテルまでサービスしてもらい、すっかりいい気分で帰ってきたそうだ。
「私が見たところでは蒼月亭は多分外れだと思うのよね…でも、念のため昼間に確認して欲しいのよ。あなたなら冷静に取材してくれるし、お願いしてもいいかしら」
 断る理由はない。それに自分の住んでる場所からさほど離れてもいないし、住所や場所を確認しがてらの取材もいいだろう。シュラインはお茶を一口飲んでそれに快諾する。
「いいわよ。ついでだから帰り際に調べて連絡入れるわ。携帯でいい?」

 麗香に教えてもらった住所を見ながら、シュラインは辺りの人に聞き込みをしていた。
 今日は春先だがずいぶんいい天気で、少し歩くと汗ばむぐらいの陽気だ。そんな中、ここ十年の間に近所で起こった事件などについて調べ、建物の陰に入り携帯のメモリから麗香の電話番号をプッシュする。
「もしもし、麗香さん?シュラインだけど」
 すぐ電話に出た麗香にシュラインは、やはり蒼月亭近辺の情報は人為的に作られた噂らしいことを告げた。しばらくこの辺りで事件も起こっておらず、肝心の幽霊を見たという者も全くいなかった。
 麗香が電話の向こうで溜息をつく。
「やっぱりね…ごめんなさい、手間掛けさせちゃって」
「いいのよ、じゃあ次の仕事はまたメールで、ええ…」
 電話を切りハンドバッグに入れると、少し小腹が空いたような気がした。編集部で麗香と一緒に持って行った水ようかんを食べてから何も食べていない。
「何処か開いてるお店…えっ?」
 そんなことを思いながら歩いていると、目の前に『蒼月亭』と書いてある看板が目に入った。窓から店の中の様子は覗けないが、入り口には「営業中」の札が下げてある。
「バーじゃなかったのかしら…」
 麗香から聞いた情報ではバーだという話だったのだが、店の中からは美味しそうな匂いがし、入り口に置いてある黒板には「マスターの気まぐれランチ」と書いてある。シュラインは何だかそれに惹かれ、蒼月亭のドアを開けた。
「いらっしゃい、蒼月亭にようこそ」
 色黒で長身のマスターが、そう言いながらカウンターに水を置く。他にもランチを食べに来ている客はいるが、確かに中は落ち着いたたたずまいだった。
 シュラインは水が置かれたカウンターに座り、辺りを見回す。
 酒が置いてある棚にはたくさんの種類のウイスキーやリキュールが並んでいた。音楽はマスターの趣味なのかジャズだ。最近の店には珍しく、奥にレコードプレイヤーがある。
 珍しいと言えばここのカウンターには全席灰皿が置いてあった。全面的に喫煙可らしく、煙草をゆっくり吸っている客がいるが、それが何だか嫌ではない。
 目の前に出された水を飲むと、ほんのりとレモンの香りがした。
「『マスターの気まぐれランチ』を一つ」
「はい、少々お待ち下さい。雑誌は置いてないんで、メニューでも見て待ってて」
 そう言って指さされたメニューはかなり厚かった。シュラインはそれをパラパラとめくる。メニューには色々な名前が書かれてあった。コーヒーの種類も多く、入れ方もドリップ式、サイフォン式と分かれている。だからといって値段が高いという訳でもない。
「儲かっているのかしら…」
 そう思いながらページを後ろに進めていくと、今度はカクテルの名前がたくさんあらわれた。ベースにする酒ごとに分けられたカクテルメニューは相当古く年季が入っている。後ろの方にはお酒を飲んだ後に少し食べられるデザートや、ノンアルコールカクテルの名前が並んでいた。
「はい、まずはサラダ…レタスと水菜、細いこんにゃくを梅肉ベースのドレッシングで」
 すると別の席から声が上がる。
「それ美味しそうですね。今度私にも作ってください」
「ああ、気が向いたらな」
 その言葉にシュラインは思わず顔を上げてマスターを見た。
「えっ?もしかして一人一人メニューが違うの?」
「ああ、『気まぐれ』だから。外暑かったみたいだし、さっぱりとした物の方がいいかなと思って」
 そう言って人懐っこく笑うマスターを見て、シュラインもつられて笑う。
 そしてそのサラダを口にして、また自然に顔が笑ってしまった。
「美味しい…」
 それは暑かった場所からやってきたシュラインにとって嬉しい味だった。梅肉ソースの絡むこんにゃくがさっぱりとしていて食欲をそそる。そういえば、外から入ってきたのだが石造りの壁のせいか、中はひんやりしている。かといって涼しすぎないいい温度だ。他の客も皆それぞれゆっくりとコーヒーやランチを楽しんでいる。
「はい、メインの白身魚のソテー春野菜添えとバターライス。ご飯少なめに盛ったけど、おかわりあったら遠慮なくどうぞ」
「ありがとう…ここ、バーだって聞いてたんだけど、昼もやってるのね」
 少なめ…といった量はシュラインにとってちょうどいいぐらいだった。普段外でランチを食べるときもライスは少なめにしてもらうのだが、ここではマスターが客の顔を見て合わせているらしい。付け合わせのほうれん草にソースをかけていると、マスターがカウンターの下で煙草に火をつける。
「ああ、昼間はカフェで夜からバーなんだわ。昼より夜の方が客多いよ」
「そうなの…あら、このソースお醤油入ってるのね」
 ソテーについていたソースの隠し味を思わず言うと、マスターは嬉しそうに笑う。
「そう、やっぱ白身魚に醤油って合うし。気付いてもらえると嬉しい…食後デザートと飲み物選べるけど、どっちにする?」
「うーん…飲み物かしら。またこれから外に出なきゃならないから」

 食後に出された飲み物はスパイスのたっぷり入ったチャイだった。それを飲み、シュラインは会計を済ませ外に出る。
「うん、風が気持ちいい」
 スパイスでほんのりと温まった体に風が心地よかった。そして、マスターから渡された名刺サイズの店の案内を大事に財布のポケットにしまう。
 近くに寄ったらまた来よう。マスターとの話も楽しかったし、ランチも美味しかった。夜どんな雰囲気になるかも確かめたい。何ならコーヒーを飲みに誰かを誘ってもいい。
 こういう出会いもいいだろう…たぐいまれだけど普通の一日。
「『蒼月亭』…ね。ちゃんと覚えとかなくちゃ」
 次にここに来るのが楽しみだ。シュラインはそう思いながら街へ向かって足を進めた。

fin

◆ライター通信◆
ご指名ありがとうございます、水月小織です。
蒼月亭の初めての来店時…ということで「気まぐれランチとマスター」みたいな感じにしました。これを初めに夜飲みに来たり、ランチに来たり、事件に巻き込まれたりするのでしょう。
初来店時は、まだ一人で店を切り盛りしていた設定です。
お気に召しましたら、また蒼月亭にお茶やカクテルなどを飲みに来てくださいませ。