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時計の止めかた (小判先生 七)
小判先生の家に居候している仔猫のてんはまだ時計が読めない。それでも、あれが刻々と動き続ける不思議な道具だということくらいは理解している。一秒単位まできっちり表示するデジタル時計は見ていて飽きないらしく、時計屋の前に一時間も座り込んで口をぽかんと開けていた。
時計は動いてこそ意味がある。しかし小判先生の家の時計は動かない。薬箪笥の上にちょこんと載った、小さな振り子のついた置時計。
「ねてるの?」
「あれは動かさなくても良いのじゃ」
「ふうん」
けれどてんは気になって気になって、とうとう小判先生のいないときにちょっとだけ振り子を突いてしまった。爪の先でちょっとだけ、だからいいでしょと自分に言い聞かせながら。
しかし、恐れていたことは起きてしまう。歯車の軋むかすかな音と共に振り子が一定のリズムで揺れ始め、慌てたてんは振り子を両手で挟んだのだが手を離すと、また動き出してしまうのだ。止まっていなければならない時計が動き出してしまった。
「にゃあ」
こんな鳴き声ではなく、てんは本当に泣きたくなってしまった。
どうしようどうしようどうしよう。同じ言葉が頭をぐるぐると回る。動かすなといわれた時計を触ってしまったからには、小判先生は怒るに違いない。どうしよう。
罪悪感と絶望感が混じりあっているところへ追い討ちをかけるかのように、玄関の引き戸ががらりと開いた。文字通り心臓の跳ね上がったてんは、慌てて柱を駆け上り天井の梁の上へ身を隠す。
「・・・あら?お留守かしら」
がらんとした家の中を見回して首を傾げたのはシュライン・エマ。誰もいないわと後ろを向いて声をかけているところを見ると、幾人かで訊ねてきたものらしい。が、なぜか返事は犬の鳴き声。嬉しいのか悲しいのかとにかく激しい吠え声は臆病なてんだけでなく鈴森鎮のペット、イヅナのくーちゃんの首をも竦ませる。
「だあれ?」
片目でそっと表をのぞくと羽角悠宇が真っ白な犬、それもかなり大きな犬のリードを門柱のところへくくりつけていた。しかし本当の飼い主は傍に立つ初瀬日和らしく、犬はそちらへ向けてばかり尻尾を振っていた。
「せんせじゃない」
ほっとしたてんはため息をついた。そうだ、冷静に考えれば猫である小判先生が扉を開けて帰ってくるわけがない。
「どうしてだろ」
どうしてそんなことを考えたのだろう。
「それはお主が小判先生へ対し後ろめたい思いを抱えているからであろう」
いきなりてんの間近で声が聞こえた。尻尾を膨らませながら振り返ると、この狭い梁の上に泰山府君が長身をやや丸め込むようにしててんを見下ろしていた。
「にゃあっ!!」
後ろに小判先生がいたとしてもこれほどまではないだろうとばかりに驚いて、てんは勢いよく梁から転がり落ちた。落ちて、受け身も取れないまま落下する。不幸中の幸い、そこは抹茶色の座布団の上ではあったが。
「なんてところにいるんだよ」
呆れる鎮の隣に今度は泰山府君が舞い降りてくる。お前もなんでそんなところにいるんだと重ねて呆れて見せたのは悠宇だった。
「怪我はない?てんちゃん」
落ち着いて、と日和がてんを抱き上げる。白いシャツからは日和の匂いと犬の匂いがして、痛くはないのだけれどまた涙が出てきた。不安なときの優しさほど、涙もろくさせるものはない。
小さな板間に五人が車座で、中央にてんと時計がちょこんと並ぶ。皆、事情は把握していた。そしててんが自分の仕出かしたことに首をすくめてみたり、気持ちがわからなくもないと共感してみたりしていた。
「お前なあ、触るなって言われたら守らなきゃいけないんだよ。約束を破ったら、先生に嫌われるんだぞ」
てんには小判先生から怒られるというより嫌われるというのを使ったほうが効果覿面であった。緑色の目が途端にうるっとして、鎮は自分が悪いわけではないのに傷つけてしまったような気持ちになる。
小さなものに泣かれてしまうと純粋に心が暗くなる。湿った空気を追い払うかのように悠宇が意識して大きな声で喋った。
「ま、まあ俺だってわかるぜ、お前の気持ち。やっぱり気になるもんなあ。触るなって言われちゃ気になるのも・・・って、だから、おい泣くなって」
頼むから泣くな、と悠宇。涙は苦手だし慰めるのも下手なのである。結局は、自分が弱って助けを求めてしまう。
「日和、なんとかしてくれよ」
指名された日和は鞄の中から自分のペットであるイヅナの末葉と、同じくイヅナである悠宇の白露にも出てくるよう呼びかけた。それを見た鎮のイヅナ、くーちゃんも加わり三匹がかりであやしにかかる。
「・・・ま、てんちゃんはあの子たちに任せるとして」
きゅ、きゅと可愛らしい鳴き声を聞きながらも対策会議は続行された、シュラインは時計の文字盤を上下左右の角度から首を傾げつつ見やる。
「止まっていたのは何時何分だったのかしら。針も戻しておかなきゃ、駄目よね」
「我が見たときには既に時を刻んでおったが、針を回してみるか?」
今まで止まっていたのだから歯車になにか異常があって、針を回していけばそこにひっかかるかもしれないといきなり時計に手をかける。しかし時計の華奢な針は、泰山府君がぐるぐると回しているうちにぽっきりと折れてしまいそうな危うさがあり、シュラインは賛成しかねて
「うーん・・・まずは、てんちゃんに聞いてみましょうよ?なにかヒントがあるかもしれない」
ヒントとはなんだ、と泰山府君が真面目な顔で訊ねるので手がかりよと言い直す。
「先生が帰ってこられる前に、手がかりを掴まないと」
「・・・というわけなのだ。てんよ、時計を動かした時刻を覚えてはいまいか?」
「じこくってなあに?」
「・・・・・・」
もの知らずのてんだから仕方のない問いではあったが、質問した泰山府君を含め皆の背中から力が抜けたのは事実だった。こっちは真面目にやっているのに、という憤りが一瞬ではあるが胸を過ぎる。唯一それを受け流せたのはさっき泰山府君から
「ヒントとはどういう意味だ」
と質問を既に受けていたシュラインだった。前例があると、人は打たれ強くなる。
「てんちゃん、時計を動かしたのはいつ?お昼は過ぎてた?」
「えっと・・・ごはんたべて、おひるねして、おきたらせんせがいなかったの」
だからとけいをさわったの、とてん。
「じゃ、何時に起きたんだ?」
「・・・・・・」
「結局何時かわかんねえじゃんか」
やけを起こした鎮がてんの小さな頭を人さし指でぐりぐりと押しながら、せめて針の角度くらい覚えててもいいだろうと駄目を承知で訊ねると、意外にもてんは目をぱっと輝かせて答えた。
「えっとね、せんせのおみみのかたち」
「は?」
全員の頭に小判先生の姿が描かれる。だが、見慣れている気がするのにその耳がどんな角度で立っていたかがいざ意識しようとするとぼやけてくる。ぴんと尖っていた気はするのだが、いや案外に寝ている気もする。
「こ・・・これくらいか?」
手帳にサインペンで猫の輪郭を描いて、悠宇はてんに伺いを立てる。しかし仔猫はあっさりと首を横に振る。鎮が描いてみても泰山府君が描いてもやっぱり同じ。
「私も・・・はっきりしないのよねえ・・・」
武彦さんなら覚えてるかしらとシュラインは呟いたがあの注意力散漫な草間武彦はあてにならないだろう。
そして残る日和はといえば、日和はどうしようもないくらいに美術が苦手なので必死で絵を描くことを拒んでいた。角度だけだろうと悠宇が説得しても、これだけは勘弁してと聞かない。無理に強いれば家の外で愛犬のバドが主人をいじめるなと吠え立てる。
仕方なくシュラインが自分の腕時計の針を回し、てんが頷く角度を探した。絵で訊ねることもそうだったが、本当にこんなことで正しい時間がわかるのかという不安があった。しかし子供の直感というものは案外に馬鹿にしてはいけないもので、十時七分のところで迷うことなくにゃあと鳴いた。
「この時間でいいのね?」
「うん」
繰り返し頷くてんを信じるしかない。しかしそれより問題なのは、どうやって時計をその時刻で止めるかだ。時計の止めかたがわからなければ、時刻を合わせても意味がない。
悠宇の指が、振り子をつまむ。そのまま三秒待って静かに離してみる。動力をなくした振り子はそのまま止まるかと思われたのだが、中で歯車が回っているせいだろうじわりと再び動き出す。
「駄目か」
「いっそこれを使うか」
剣呑なセリフで鎮が接着剤を取り出した、無理矢理に歯車を固めてしまおうとしたのである。だが古い、骨董品らしき時計を意図的に止めてしまうことは気が引けて、というよりもてんが非常に嫌がった。もちろん、てんにとっては時計の価値よりも小判先生が大切にしているから、という理由なのだが。
「じゃ、布を詰めてみるっていうのはどうかしら?それなら傷つかないでしょ」
「やだ」
自分が悪いはずなのに、拗ねた子供のように首を振る。とにかく話が進まない、時刻の次はどうやって時計を止めていたかまで調べろというのだろうか。
「もし、貴殿方」
煮詰まっているところへ泰山府君が口を開いた。
「付喪神というのを御存知か?古い道具に魂が生まれることなのだが・・・」
「聞いたことはあるわ」
「我の故郷にはそうした魂を眠らせる香があるのだ。どうだ、焚いてみないか」
「どうする?」
まさかこれまで嫌だとは言わないよなと鎮の視線。これ以上わがままを貫いてはさすがに見捨てられると感じたのだろう、てんはようやく頷いた。早くしないと先生も帰ってくる。
「おねがい、なの」
意固地な仔猫がとうとう頭をぺこりと下げた。
「ったく、あいつあんなにわがままだったか?」
甘ったれなところは知っていたけど、一人ごちる悠宇。聞いていたシュラインはくすりと笑う。なにがおかしいんだ、と目をやると
「あの子は単に恐がって緊張しているだけよ。その緊張も仔猫だから、長くは続かない」
見てご覧なさいとばかりに指さされた先には、部屋の中に焚き込められた甘い匂いで折り重なるように崩れ落ちた動物たち。そこには三匹のイヅナと緊張の糸がぷっつりと切れてしまった仔猫のてん、さらには鼬の姿に変わった鎮も混じっていた。彼らは人間よりも感覚が鋭いので香の匂いに感じやすいのだろう。
「・・・・・・」
あなたはだんだん眠くなる。と頭の中で呟いてしまったら負けである。振り子から目が離せなくなってしまう。果たして最初に眠るのは誰なのか。
ことん。まず最初に脱落したのは日和。座布団に頭をのせて、可愛らしい寝息を立てている。右の腕を体の下へ抱き込んでしまっているのを、ぼうっとした頭で悠宇が引っ張り出してやる。起きたときに腕が痺れているのは可哀想だ。可哀想だと思いながら、悠宇が舟をこぎ始める。
「いや、俺は物じゃなくて・・・」
頭では抵抗するのだが、体はきいてくれない。どうやら泰山府君の香は、付喪神だけでなくあらゆる魂に効果を及ぼすらしい。我が身で納得しつつ、悠宇も陥落した。
こうなるともう、時計との我慢比べといえた。心なしか、振り子の揺れも緩やかになってきている。眠気覚ましにお茶でも入れましょうとシュラインが立ち上がったそのとき、泰山府君が勝ったとばかりに
「止まった」
宣言して、頭を垂れた。
泰山府君の大きな背中にもたれかかるようにしてとろんとした目つきのシュラインが時計を覗き込むと、確かに振り子が止まっていた。ようやく、という感じである。シュラインは細い指を伸ばし、時計を刺激しないようにと注意を払いながら針を静かに十時七分に合わせる。
「これで・・・よし、と」
仕事を仕上げて、シュラインも瞼を閉じる。
それからほどなくしてである。とん、と身軽な音を立てて小判先生が帰ってきた。
「なにをやっておるのじゃ」
迎えを呼ばねばなと板間を見回す。金色の瞳は静かにそれぞれの顔を見つめ、最後にてんへと向けられた。
「てん助」
名前を呼ぶと、てんは眠っているくせにびくりと反応を示す。思わず爪が出て隣で寝ていた鎮の頬にぷすりと刺さる。
「痛てて」
寝言のようにうめきながら鎮はころりと寝返りを打つ。小判先生は瞳を三日月のように細める。
「馬鹿者」
囁くように、呟くように。小さな声をしかし大きな耳に受け止めたてんは、寝言で返事をした。
「ごめんなさい」
「・・・馬鹿者」
「ごめんなさい」
ごめんなさい、せんせ。てんは夢の中でも小判先生に謝っている。小さな頭で必死に、愛されようと嫌われまいと鳴き声を上げる仔猫の額を、ざらりと赤い舌が優しく舐めた。
薄目を開けて見ていたのは、十時八分という正しい場所で止まった時計だけだった。一分違いの記憶。小判先生の、思い出の時刻。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/ シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
2320/ 鈴森鎮/男性/497歳/鎌鼬参番手
3415/ 泰山府君/女性/999歳/退魔宝刀守護神
3524/ 初瀬日和/女性/16歳/高校生
3525/ 羽角悠宇/男性/16歳/高校生
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■ ライター通信 ■
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明神公平と申します。
今回は重たい問題を抱えつつも、動物が沢山出てきて
そこが実は楽しかったりしました。
途中の、小動物が山盛りに寝ているところとか特に
想像するだけで自分が嬉しくなってしまいます。
シュラインさまの時間をさかのぼる方法は、プレイングを
拝見してなるほどと思ったのですが阿呆のてんが
覚えているはずもないなあと不発に終わってしまいました。
またご縁がありましたらよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
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