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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


海の底から想う



☆★☆


 それはほんの冗談のつもりだったのかも知れない。この町に転校して来たばかりの“お客人”に少々手荒な歓迎を手向けたのかも知れない。
 今となっては分からない事ではあるけれど・・・・・・・・

  夕陽が海へと滲む刻、積み重なったテトラポットの上で、はるか遠くに見える船の影に目を奪われていた時だった。
  不意に背後から誰かが近づく気配がして・・・振り向く前に、トンと軽く背中を押された。
  それは本当に軽く、少し体がよろめくくらいの衝撃だった。けれど、背負ったランドセルの重みは少女の重心を狂わせ、踏みとどまろうとした足はぬめるテトラポットの上を無情にも滑り落ちた。
  “あっ”と言うよりも早く、少女の体は帽子だけをその場に残して海の中へと転がり落ちた。
  不運な事に、周囲にはこの悲劇を見て、助けてくれるような大人は居なかった。
  いつもなら釣り人が並んでいるはずなのに、今日ばかりは人の姿は見えなかった。
  更に運の悪いことに、この辺りは酷く深くなっており、波も高い場所だった。
  数度浮き上がってきた少女は直ぐに力尽き、苦しそうにバシャバシャと水しぶきを上げて・・・
  すっと、まるで引き込まれるように海の中へと沈んで行ってしまった。


 草間 武彦は、伏目がちに目の前に座る少女を見詰め、一言断ってから煙草に火をつけ、ゆるゆると紫煙を吐いた。
 少女の名前は『千木良・湊(ちぎら・みなと)』神聖都学園の2年生だそうだ。
「湊ったら、お姉さんが自分を呼んでいるんだって言うんです。そんなわけないのに・・・」
 湊の隣に座っていた、少し気が強そうな少女がそう言ってその肩を優しく揺すっている。
 彼女の名前は『千崎・歩美(せんざき・あゆみ)』湊と同じく神聖都学園の2年生で、今日は付き添いで来たらしい。
「でも、歩美・・・お姉ちゃんは・・・寂しいんだよ。だって・・・だって・・・」
 湊の声が震え、涙声に変わる。膝の上で握り締められていた掌が微かに震え、その上にパタリと涙が落ちた。
「湊・・・」
 武彦はどう声をかけたら良いものか悩みながらも、先ほど聞かされた話を反芻していた。

 それは今から丁度10年前の出来事だ。
 とある田舎町で8歳の少女が海に転落して亡くなった。少女の名前は『千木良・海南(ちぎら・みな)』湊の姉だ。
 少女が転落したと思われるテトラポットの上には彼女の帽子が置いてあり、その近くには滑り落ちたと思われる跡も見つかった。
 ・・・けれど残念な事に、少女の小さな遺体は家族の元に戻る事はなかった。
 一週間ほど必死の捜索が行われたにも関わらず、少女の遺体はおろか、衣服の断片すらも見つけることは出来なかったのだ。
「姉が、私の事を海の中に引きずり込もうとするんです」
 湊は草間興信所に来て、武彦の目の前に座った途端にそう言って言葉を詰まらせた。
 眠る度に夢の中に姉が出て来て、髪を引っ張って海の中に引きずり込もうとするのだと言うのだ。

「私、最初は湊の嘘だって・・・思ったんです」
 取り乱した湊を何とか帰宅させてから、再び歩美が興信所に現れたのは夕方も遅く、直に闇が支配しようとしている時だった。
 突然の訪問だったが、武彦も零も嫌な顔一つせずに歩美をソファーに座らせると、零がそそくさと台所に入って行って紅茶と冷蔵庫に仕舞ってあったケーキをお盆に乗せてやって来た。
「私と湊のお父さんは同じ会社で働いていて、ずっと小さい頃から家族ぐるみでの交流があったんです。湊はお姉さんにベッタリで、今まで一度だってお姉さんをあんな風に言った事はなかったんです」
「あんな風に、と言うと?」
「寂しいだとか、呼んでいるだとか・・・。お姉さんが亡くなった日の事は、私も良く覚えてます。警察に呼ばれて動揺した湊のお母さんが、ウチに湊を連れて来たんです。お姉さんが行方不明だって言うのは聞いていたので、きっと見つかったんだって・・・思ったんです。でも同時に、きっと良い見つかり方ではなかったんだっていうのもどこかで分かっていたんです。私はあの時、まだ小さかったけれどキチンとそう言う事は分かっていたつもりです」
 歩美は一息でそこまで言うと、ふっと息を吐き出した。
「湊だって私と一緒です。だからなのかは分かりませんが、酷く冷静でした。必死に慰める母に、大丈夫だと小声で告げて微笑むくらいの冷静さは確かにあったんです」
 最近の子供は随分と凄いなと、武彦は心のうちで思いながら煙草の箱をトントンと指で叩いた。
「きっと、湊は私を怖がらせるために嘘を言っているんだと思ったんです。お姉さんの10回忌も終わって、そんな冗談も飛ばせるくらいに・・・どこかで、お姉さんのことに区切りをつけたのかなって。でも、そうじゃなかったんです」
「どう言う事だ?」
「授業中に眠っていた湊が、叫びながら飛び起きたんです。お姉さんに海に引きずり込まれそうになったって言って、髪の右半分、毛先の部分だけがグッショリ濡れてたんです。まるで誰かに掴まれたみたいに」
 歩美はそう言うと、持っていた小さ目のポシェットから貯金通帳を取り出して武彦に差し出した。
「少ないかも知れませんが、足りない分はきちんとお支払いいたします。ですから、どうか・・・湊を、お姉さんを、助けてくださらないでしょうか」
 深々と頭を下げる歩美に、武彦は通帳を返した。勿論中身は見てもいない。
 歩美が不安気に通帳に触れ、武彦の顔を控え目に見上げる。
「成功報酬は・・・そうだな。捜査に関わった人数分のクッキーでどうだ?」
「え?」
「お菓子作りは苦手か?」
「得意・・・ですけれど・・・」
 歩美の答えに、武彦はそれで良いと言うようにひらひらと手を振った。
 流石に高校生からお金を取るなんて野暮な事はしたくない。手作りクッキーを報酬にちょっとした人助けと言うものも、それほど悪くはないように感じられたのだ。
「私は、お姉さんは見つけて欲しいんだと思うんです。だって、お姉さんは未だに家族の元に戻って来れていないんです。だから、湊を通してソレを訴えかけているんだと思うんです」


★☆★


 草間興信所の中、武彦が数刻前に吸った煙草の残り香が部屋の中に充満しており、シュライン エマがそっと窓を開けた。
 昼過ぎの通りは賑わっており、前の道路を時折トラックが通過するためか、興信所全体がガタガタと音を立てて揺れる。
「それにしても、報酬がクッキーだなんてな。そんな物で依頼を受けてるからいつも貧乏なんだ」
 そう言って、黒 冥月が呆れたように溜息をつき、ソファーに埋もれるようにして座っている武彦に声をかける。
 武彦はそんな冥月の言葉に曖昧に頷き、口の中で仕方がないだろう?と呟いている。
 勿論、冥月だって本気で呆れているわけではない。
 高校生から金を巻き上げる探偵は探せば幾らでもいるかも知れない。けれど、クッキーで依頼を受ける探偵は、探してもそうそういないのではないだろうか?
 武彦のそんな性格を、冥月は嫌いではなかった。
 その心を知ってか、シュラインが冥月に微笑みながらも武彦にそっと「クッキー楽しみね、武彦さん」と囁く。
 彼女もまた、そんな武彦の性格が好きだった。
 学校が終わってから来ると言う湊と歩美の姿はまだないが、午前中授業で終わりだと言うからにはそろそろ来ても良い時間ではないだろうかと、武彦が壁に掛かっている時計を見上げる。
「それにしても、なぜ今なのでしょうか」
 暫くシンとした空気が漂い、誰もが心に浮かんでいる疑問をぶつけるかどうしようかと悩んでいた時に、海原 みそのが静かに言葉を紡いだ。
 それはゆっくりとした、本当に空気に消え行ってしまいそうなほどに穏やかな言葉だったが、内容はそれほど穏やかではなかった。
 誰もが心の奥に留めて、自分なりに答えを出そうと考えていたモノだったのだ・・・。
「そうなのよね、私もずっと思っていたの。何故10年目なのかしら」
「10年もしてから呼ぶなど・・・」
 みそのがそこまで言って言葉を止めた。
 “わたくしなら、死してすぐに呼ぶでしょうに”そう続くはずの言葉は故意に飲み込んだ。
 そっと目を閉じ、零が出してくれた紅茶に口をつける。
「何かしら、見つける為の状況変化があったのかも知れないわね」
「それはさ、湊に訊いた方が早いんじゃないかな?」
 今までずっと押し黙っていた黒羽 陽月がそう言って、暫く考え込むように視線を宙に彷徨わせた後で「遠まわしでも良いからさ」と付け加えた。
 まだ湊の状況を見ていないので分からないが、10年前に死んだ姉が毎日のように夢の中に出てくると言うのはどう言う気分なのだろうか。
 しかも、湊の姉・・・海南の遺体は見つかっていないと言う。
 再び重苦しい沈黙が訪れようとした時、興信所の扉の前に小さな黒い影が2つ並び、控え目なノック音が響いた。
「開いてるぞ」
 武彦がそう言って声をかけると、扉の向こうから神聖都学園の制服に身を包んだ可愛らしい少女が2人入って来た。
 胸の下まである髪を2つに結び、淡い色のリボンで結んでいる、どこか大人しい印象を受ける少女が千木良 湊だ。
 もう1人、湊よりも頭1つ分ほど背の高い、ボーイッシュで気の強そうな印象を受ける少女が千崎 歩美だ。
 お人形のように可愛らしい湊と、しっかりもののお姉さんと言った雰囲気の歩美は、かなりお似合いの2人だった。
「えっと、今回私達のためにわざわざお越しくださってまことに有難う御座います」
 歩美の方が丁寧に頭を下げ、湊がそれを見て慌てて頭を下げる。
「良いのよ。それよりも、詳しく話を聞かせてくれないかしら?」
 シュラインがそう言って湊と歩美をソファーに座らせると、台所の方に走って行って手早く紅茶の用意をし、真っ白なお客様用ティーカップに熱い紅茶を注いだ。
 お砂糖とミルクとレモンをテーブルの上に置き、そっと自分も2人の向かいのソファーに腰を下ろす。
 みそのがじっと2人を“見詰め”そこから何かを感じ取ろうとするかのように目を細める。
「湊さんには辛いだろうけど、ご免ね?」
「いいえ・・・大丈夫です」
 シュラインの言葉に、湊が気丈な瞳を向ける。
 真っ直ぐな瞳は健気で強いが、左手を歩美の手と合わせているあたり、それほど強い子ではないのかも知れない。
「夢の中の事を訊きたいのだけれど、良いかしら?」
「大丈夫です」
 砂糖菓子のような少女はそう言って、紅茶にスプーン一杯分の砂糖とミルクを入れるとカチャカチャとスプーンでかき混ぜてコクリと一口音を立てて飲み、ほっと安堵したような表情を浮かべた。
 温かく甘い紅茶は心を落ち着ける作用があるのだろう。
「それじゃぁ、話してくれるかしら?」
「はい。毎日見てるんで、すっかり覚えちゃってるんです。だから、きっと細かくご説明できると思います」
 いたって軽く、しかし瞳は本気の色を宿したままで、湊はそう言うとそっと目を伏せて話し始めた。


  夢の中に入ると、どこからともなく波の音がしてくるんです。
  海の近くにいるのかしら?そう思っているうちに、潮のあの独特の臭いがしてくるんです。
  私、あの臭いあんまり好きじゃなくて・・・風がベットリと身体に絡みつくんです。
  なんだか陰鬱としていてイヤだなぁと思ってると、目の前に見慣れた姿が見えるんです。
  ・・・姉の、姿なんです。
  姉が海に落ちた、あの時の、あのままの姿なんです。
  見れば私も小さくて、背中にランドセルを背負ってるんです。
  姉に会えたのが嬉しくて、近づいていくと・・・突然姉が何かに押されたように海の中に落ちていくんです。
  私、驚いて姉の元に走って・・・姉が、苦しそうに何度も浮かんでくるんですけれど、私の手は短くて、届かないんです。
  姉は苦しそうにもがいていて、私の手を握り返してくれないんです。
  どんなに叫んでも、誰も来てくれなくて・・・・・・・
  姉が・・・最期の力を振り絞って、高く浮上して・・・私の、髪を引っ張るんです。
  凄い力で、私まで海に落ちてしまう・・・そう思って・・・。
  踏ん張ろうとするんですけれど、足が滑ってしまって、落ちる・・・その瞬間に、いつも夢は覚めるんです。


 湊は話し終えると寂しそうに目を閉じて、膝の上で大切そうに握っていたカップをテーブルの上に戻した。
「私、姉が呼んでいるんだと思うんです。1人で海に落ちて、まだ・・・遺体も見つかっていなくて」
「お姉さんに何か絡まっている物とか、なかったかしら?」
 それとなく訊いているシュラインだったが、それはかなり重要な事柄だった。
 もしも何か黒い影でも海南の身体に絡まっていたとしたならば、海南が見つかっていないのもその仕業かも知れない。
「いいえ。何も・・・」
 しかし、湊は力なく首を振ると歩美の手を強く握り締めた。
「今までにさ、同じようなことってなかったの?」
 陽月の言葉に湊が顔を上げ、驚いたように目を丸くするとパっと顔を背けた。
 何なのだろうか?・・・もしかして、正体がバレてしまったのだろうか?・・・いや、そんなはずはない。現に湊には“あっち”の姿はおろか、黒羽陽月としてだって会うのは初めてだ。でも・・・
 考え込む陽月の耳に、湊のか細い声が聞こえて来る。
「いいえ。この間から・・・です」
 恥らうような口調は先ほどよりもオクターブ高くなっており、鈍ちんの武彦を除いたその場にいる女性全員が湊の気持ちを瞬時に理解すると、訳知り顔で顔を見合わせて穏やかな、それでいて何かを企んでいそうな笑顔を浮かべた。
 確かに陽月は整った顔立ちをしている。柔らかい猫毛のトップを逆立てており、今時と言った雰囲気の少年だった。
 どこか危ういほどに美しく儚い外見に、湊が思わず頬を染める気持ちは分からないでもない。
 茶髪に青い瞳に細身の身体に色白・・・女の子の憧れが詰まったようなものだ。
 みそのが穏やかな、温かい視線を湊に向けて・・・ふっと、ある事に気がついた。
 しかしそれは彼女しか気付いていないらしく、和やかな雰囲気はなおも心地良く興信所の中に流れている。
 言うべきか、言わないべきか・・・みそのは少し考えた後で、今はまだ言うべき時ではないと思い、口を閉ざしたのだ。
「しかし、この間からとは・・・?」
「何か思い当たる節はないかしら?」
 冥月の呟きに、シュラインが後を引き継いで湊に問いかける。
「あ・・・えっと・・・」
「あの、私思うんですけど」
 シュラインの問いかけに答えようとしていた湊を遮るように、歩美が口を挟んだ。
 先ほどまで大人しかった彼女が、何かを思いついたと言うような表情で真っ直ぐに集まった面々の顔を見詰め―――――
 その時になって、みその以外の面々がこの2人の少女を取り巻く一種の不思議な雰囲気を感じ取った。
 一足先にみそのが感じた、どこかよそよそしい違和感・・・。
 それは、湊が何かを隠しているらしいことと、歩美が何かを知っていることを暗に示していた。
 冥月と陽月は生まれ持った直感の鋭さによって、シュラインは長年の勘によって、みそのは気の流れによって、些細な変化を読み取ったのだった。
 一瞬にしてピンと張り詰めた空気だったが、歩美が気にせずに言葉を紡ぐ。
「湊にお姉さんが触れられるって事は、こちらからも何か・・・出来ないかなと」
 チラリと互いに視線を合わせ、今はまだその事について触れないほうが良いと言う事を悟ると、視線を歩美に戻した。
 先ほど無理に湊の言葉を遮ったのは何故なのだろうかと言う問いが心の中に浮かぶが、それを必死に押し殺す。
「そうね、出来ないこともないかも知れないわね」
 シュラインがとりなすように歩美の意見に賛同し、みそのも曖昧に頷く。
「迎えに行くから、何処にいるのって逆に訊いてみたり・・・」
「湊、夢の中でお姉さんと会話出来る?」
「やったことないから分からないけど、無理じゃ・・・ないとは思う」
「それか、寝る際にお姉さんが好きだった色を溶かした瓶か懐中電灯を持って、夢の中でも持っていられたら、私達が近づけたらそれで合図してって言って、手渡せたなら・・・」
 そう言ってシュラインは小さく唸ると眉根を寄せた。
 夢の中で起きた事を考えても、それをするほどの時間はあるかどうか・・・でも・・・
「やって、やれないことはないと思います」
 湊の意志は固かった。
「それで姉が見つかるんでしたら、頑張ります」
 強い決意の色を秘めた瞳を前に、みなとがふわりと柔らかな笑みを向ける。
「湊様は、海南様を愛しておいでなんですね」
 そして心の中でそっと、湊様は海南様に愛されておいでなのですねとつけたし、強い絆で結ばれた姉妹の姿をしっかりと胸の奥にしまった。
「はい、大好きです。昔も、今も、大好きなんです」
 湊がそう言って小さく微笑み、照れたような表情で歩美を見詰める。
 歩美が可愛らしい幼馴染の笑顔に表情を緩め、その頭をそっと撫ぜるのを見ると、どうにも先ほど心を掠めた妙な違和感はただの勘違いではないのか?と言う気になってくる。しかし、自分だけならいざ知らず、他のメンバーまでも感じた違和感は、決して勘違いなどではないだろう・・・。
「まぁいい、私が動くんだ。余程美味しくないと報酬と認めないぞ」
 冥月が不意にそう言って、湊と歩美を交互に見比べる。
 その視線は柔らかく、口調も冗談のようだったが、湊が気合を入れるように大きく頷き「一生懸命頑張ります!」と言って頭を下げた時は、流石の冥月も湊の純粋さに笑みがこぼれた。
 この、砂糖菓子で出来たお人形のような少女がお菓子を作る姿は、妙に絵になるような気がした。
 可愛らしいフリルのついた真っ白なエプロンを身に纏い、一生懸命になってクッキーを作る湊の姿と、嘗ての自分の姿が重なる。
「・・・昔は私も作ったな・・・」
 亡き恋人との日々は鮮明で、それは丁度バニラエッセンスみたいな甘く心に残る香りが似合うような・・・そんな思い出の日々だった。
 脳裏に浮かぶ幸せの欠片に口元を緩め・・・その瞬間、冥月の言葉を聞いていた武彦がとんでもない事を口走った。
「男のくせに菓子作りが趣味か」
 冥月の男前さをからかう武彦の、そのにやけた顔面に鉄拳をのめりこませ・・・
「私は女だ」
 怒りを押し殺したような低い声を出す。
 その様子に、湊が驚いたように目を丸くして・・・直ぐに可愛らしい笑い声を上げると口元に手を持っていった。
 綺麗に塗られたネイルが興信所の蛍光灯を浴びてキラリと光り、目に残像を焼き付ける。
「とにかくだ、私達が何とかしてやる。安心しろ」
 どんな形であれ、亡き人との繋がりの辛さをよく心得ていた冥月は、そう言うと湊と歩美の頭をぽんぽんと叩いた。
 その優しい手に、湊が思わず亡き海南の姿を思い出したのか、ポロリと一粒だけ涙を零し・・・泣き笑いのような表情をして、深々と頭を下げると両手で顔を覆った。


☆★☆


 興信所の外は闇に染まり、街灯の明かりが仄暗く道路を照らす頃になって、歩美がノックもせずにそっと興信所の中に姿を現した。
 湊と一緒に帰る際に、歩美は武彦に再びここに訪れると言う旨を書いた紙をそれとなしに渡していたのだ。だからこそ、先ほど集まったメンバーは歩美の再来を興信所の中で待っていたのだ。
「私、1つ思い出した事があるんです」
 暗い表情のままの歩美がそう言って、視線を膝の上に乗せた手の上からずらさずに唇を噛んだ。
「思い出したこと・・・って言うと?」
「湊が海南さんの夢を見るようになった、その・・・多分、切っ掛けになったことが・・・あるんです」
「それは何だ?」
 冥月の言葉に、歩美が躊躇するように数度瞬きをしてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「10回忌に、私達・・・海南さんが落ちた場所に行ったんです」
「それが引き金になったって事なの?」
「でもさ、それにしたっておかしくない?今までだって行ってたわけっしょ?」
 シュラインの言葉に陽月が口を挟み、歩美に首を傾げる。
 そう・・・結局はそこにたどり着いてしまうのだ。
 何故10年経ってから急に海南は湊の夢の中に現れるようになったのだろうか?もっと前から現れても良かったようなものなのに・・・。
 けれど、歩美が陽月の言葉に首を振った瞬間、今まで考えていたモノが音を立てて崩れて行くような気がした。
「違うんです。行って・・・ないんです」
「何だって?」
「海南さんが海に落ちたあの日以来、湊は怖がって・・・その場には近づかなかったんです」
「もしかして、湊様は海南様がお亡くなりになられてから初めて行かれたのでしょうか?」
「そうなんです・・・それまでは、酷く怖がっていて・・・」
「怖がっていたって、どう言う風になの?」
「私達が中学に上がる頃まで、ずっと・・・あの海の近くにはお姉ちゃんがいるって言って・・・。もう、皆ゾっとしてたんです。もしかしたら、血の繋がった妹の湊には視えているんじゃないかって・・・。でも、中学に上がってからは言わなくなったんです」
「でも、近づかなかった?」
「はい。今までは、あの場所に行くと急に具合が悪くなってしまったりして・・・」
 歩美はそう言うと、でも・・・と言葉を紡ぎ、それっきり黙ってしまったのだ。
 しばらく誰も何も言わない時間が続き、大分たってからやっと武彦が「続きは何だ?」と声をかけ、気乗りしない様子で歩美が言葉を続けたのだった。
「でも、私・・・湊の仮病だって思うんです。だっておかしいじゃないですか。その前まで元気にしていたのに、急にあの場所に行くと具合が悪くなるって」
 それは海南の霊がいるからでは?
 それは誰しもの心に浮かんできた言葉だった。しかし、口に出す者は誰も居なかった。恐らく、歩美にもそのことは分かっているのだろう。
 分かっていて、それでも海南の霊が原因だとは思えないと、そう言っているのだ。
「海南さんと湊は、本当に仲の良い姉妹で・・・特に海南さんは、湊を凄く可愛がっていたんです。だから、海南さんが湊を苦しめているなんて、絶対違うんだと思うんです」
 力説する歩美の言葉は力強く、それでも・・・みそのは歩美の不思議な“気”に注目していた。
 まだ、なにか隠していることがある気がする。
 みそのほどに強く感じなくても、他の面々も同じようなことを考えていた。
 歩美は何かを隠している。そして、それはこの依頼のほぼ直接的なモノではないかと・・・。


 武彦が歩美を家まで送ると言って出て行った後、メンバーは明日行くことに決まった海南の眠る町の事を考えていた。
 明日は土曜日で学校もないと言う事で、歩美が一刻も早い解決を願って申し出たのだった。
「ここで色々考えるよりも、現場を見たほうが早いかも知れないしね」
 シュラインの言葉に冥月が頷き、陽月も同意の言葉を述べる。
「海南様は、湊様が海の近くに来てくださった・・・そのせいで“出て”こられたのでしょうか?」
「どうなのかしら・・・ともかく、歩美さんも湊さんも、何かを隠しているような雰囲気がするわね」
「わたくしも、そう思いますわ」
「湊と歩美が隠している事柄が同じかどうかは分からないが、何かあるのは確かだな」
 シュラインが、みそのが、冥月がそれぞれに思いをめぐらせる中、陽月だけが3人よりも一歩踏み込んだ“もしも”を考えていたのだった。
 そう・・・もし・・・もしも・・・
 海南を海へと突き落としたのが、湊や歩美だったならば――――――


★☆★


 電車を降りてからバスで1時間ほど。
 山と海に囲まれたその町は、穏やかな場所だった。
 海沿いに面した道路は車の往来が少なく、昔ならではの日本家屋が並ぶ町並みはどこかほっと落ち着けるものがあった。
 風が潮の香りを含み、そこかしこに見える畑からは湿った土の匂いが漂っている。
「とても良い場所ですね。静かで、落ち着いていて・・・」
 みそのが目を閉じながらそう言って、胸いっぱいに空気を吸い込む。
 その姿は“小学生”そのもので、黒のTシャツに半ズボン姿で現れた時には普段の装いとのギャップにしばし言葉を失ったのも確かだった。ご丁寧に背中には真っ赤なランドセルを背負っており、長い髪を両サイドに束ねてある。
「そう言えば、頼まれてた資料、持って来たぞ」
 武彦がそう言って、肩に担いだバッグの中から真っ白な紙を数枚取り出してシュラインに差し出した。
 それは武彦が警察関係者から取り寄せた事件の捜査状況を詳細に綴ってある資料だった。
 シュラインがザっと資料に目を通し、隣に居た冥月に渡し、冥月がみそのへ、みそのが陽月へ、そして・・・陽月が少し考えた後で資料を武彦に戻した。
 海南の身長体重はともに8歳女児の平均を保っており、事故当時の天候は曇りだったそうだ。
 海南が海に落ちた正確な時刻は不明となっているが、小学校の下校時刻と周囲の目撃情報を照らし合わせて夕方の4時から4時半の間に海に誤って転落したと思われると書かれていた。海南の事件はあくまで“事故”として片付けられていた。
 勿論、この事件が事故として片付けられているのでは?と言う予想はあった。
 目撃者も居なければ、海南を突き落としたと言う確固たる証拠もない。海南が誤って足を滑らせてしまったとする考え方が一番無難だろう。
 しかし、探偵と言う名を掲げている以上は警察の報告書だけを鵜呑みにするわけにはいかない。
 故意にしろ故意ではないにしろ、誰かが海南を落としたとする可能性も否定は出来なかった。
「この辺りの海は、潮の流れが一定してるんです」
 歩美がそう言って、すっと海を指差すと海沿いの道を先に立って歩き始めた。
 釣り人がボンヤリとした表情で座っている後ろを通り過ぎ、テトラポットが積み重なった場所で足を止めると、湊が急にソワソワと落ち着きなく視線を宙に彷徨わせ始めた。
「ここが、海南さんが落ちた場所なんです」
 そう言って、指先をそのまま真っ直ぐに沖の方へと伸ばし、ある1点でピタリと止めると振り返った。
「引き潮になると、あそこに小島が出現するんです。勿論、小島なんて大げさなものじゃないんですけど、陸地が現れるんです。このテトラポットの向こうはいきなり水深が深くなっている場所なんです。それが、沖に向かうにしたがって緩やかに盛り上がって行って、あの場所でいったん高くなってるんです。ですから、引き潮になるとあの場所に陸地が見えるんですよ。あそこの周囲には波除のためのテトラポットがいくつも海中に横たわっているんです」
「随分厳重なのね」
「ここ、雨の日になると海がかなり荒れるんです」
「海南が海に落ちた日の天候は曇りって書いてあるけど、その後雨になったりしなかったの?」
「降りましたよ。でも、霧雨みたいな感じでしたから、海は荒れてません。普通、ここに落ちたモノはあそこの辺りで見つかるんです。重いものは窪んだところに、軽いものは海中に沈むテトラポットの辺りに」
「でも、持ち物がなに一つ流れ着いていないって言うのが気がかりよね」
 シュラインがそう言って、冥月も頷くと首を傾げた。
「ランドセルも衣服も見つかってないんだろ?」
「はい・・・」
「海中地形や潮の流れの影響で、あそこ以外の場所にモノが流れ着いたり、引っ掛かったりなんて、過去になかったかしら?」
「なかったと思います」
「同じような現象も?」
「えぇ。以前・・・海南さんが海に落ちる半年ほど前に、この場所から自殺目的で海に飛び込んだ女性がいたんです。その女性も、あの場所で見つかりました」
「その女性が関係しているとか・・・」
「いいえ、それは御座いませんわ」
 みそのがおっとりとした口調でそう言って首を振った。
 この場所には、そのような負の感情は漂っていないのだと言って、はたと何かに気がついたような顔をして止まった。
 みそのの中で、ある1つの仮説が音を立てて崩れ、また新たな仮説が浮かび上がってきたのだ。
「この町ってさ、何か言い伝えとか由来のある何かとか、ないの?」
「いいえ。何もないはずです」
 陽月の言葉に歩美が軽く首を振り、どうしてそんな事を問うのかと言うような視線を向ける。
「人身御供にしたとか・・・」
「そんな生々しい伝統はないですよ。せいぜいあって、昔この国を治めていた領主様が大変な大食漢で米俵3つ分のご飯を一気に食べてしまったとか、そんなことくらいです」
「いつも居るはずの釣り人すら居なかったって、その日は海に近づいちゃいけない日とかだったの?」
「いいえ。ただ、天候があまり良くなかったので人が居なかったんだと思います。荒れると怖いですからね、この海は」
 歩美がそう言って、目を細めながら海を見詰めた。
「・・・歩美・・・」
 今までずっと黙っていた湊が歩美の服の裾を掴み、真っ青な顔で俯いている。
「大丈夫か!?」
 一番近くに居た冥月が湊の身体を支えてやり、シュラインもあまりの顔色の悪さに駆け寄る。
「どうしたの?」
「・・・気持ち悪くて・・・。なんだか、呼ばれてるみたいな・・・」
 顔色は既に蒼白と言っても良いくらいなっており、とても仮病とは思えないほどだった。
 華奢な身体を歩美に支えられながら湊は海から遠ざかっていった。ここからそれほど遠くない場所に公園があって、そこならば湊を休ませられると言うのだが・・・
「呼ばれている・・・ですか・・・」
 みそのが考え込むように俯き、陽月がジっと無言で海を見詰める。
「とりあえず、ここから先は2手に分かれて情報を収集しましょう」
「そうだな、まだ・・・何も分かっていない」
 シュラインと冥月の言葉に、みそのも同意の言葉を述べる。
「もしかしたら、亡くなってない可能性だってあるし・・・」
 陽月のそんな呟きに、誰も口を開かなかった。
 その可能性は無きにしも非ずだが、どう考えても・・・あまりにも薄い可能性でしかなかった。
「って言うか、そうならいーなーって・・・ダケ、かな」
「そうならばどれほど素敵なことでしょうか」
 みそのがそう言って、風に靡く髪を押さえた。
「わたくしは、海南様に湊様を会わせて差し上げたいと思います。例え、海南様がどこにいようとも・・・です」
 この海の中にいるとしても、もし生きていて・・・この地を歩いているのだとしても。
 仲の良かった姉妹が再び出会う事を祈って―――――


☆★☆


 シュラインと冥月は図書館や新聞社、役所等での情報収集を行っていた。
 事故現場周辺で以前から何かが消え、別のところで見つかったり、数年経ってから発見されたなどの記事や文献がないかどうかを調べていたのだが、どうにもそのようなものは見つからない。
 地元の年配の方への聞き込みも同時並行で行っているのだが、そちらも大した情報を得る事は出来なかった。
「場所的な事じゃないのかも知れないわね」
 シュラインの言葉に、冥月が考え込むように視線を落とした。
 場所的な事でないとすると・・・やはりこれは海南の意志なのだろうか?
 2人は再び海南の消えた海へと戻ると、冥月がそっと目を閉じた。
 もしも冥月の能力範囲内に遺体か白骨があれば影で感知し、それを引き寄せる事は可能なのだが・・・そのようなものは見当たらない。
 事故当時から今に至るまで、この周囲で工事中の場所はなく、その作業中に何かしらのアクシデントがあって海南の遺体が予期せぬところに運ばれてしまったと言う事もないようだ。
「やはり、海南が湊を呼んでいるのか?」
「・・・分からないわ。でも、連れて行きたいから呼んでいるのではないと・・・思うの。もしかしたら、思いたいだけなのかも知れないけれど、でも・・・何となく、違う気がするの」
「私もそうだと願っているよ。湊を呼ぶ理由が寂しさでも・・・憎さ、でも・・・何であれ海南を篤く埋葬したいと・・・。見つけてあげたいと、思っている」
「そうね。早く見つけて暖かくしてあげたいわ」
 夏が直ぐそこまで迫り、初夏の日差しが、風が、柔らかくこの町を撫ぜてはいるものの、やはりまだ水温は冷たい。
「10年も、ずっと・・・独りだったんですもの」
「そうだな」
 冥月は軽く頷くと、暫し考えた後である仮説を口にした。
 風が強く海面を撫ぜ、テトラポットに波が砕ける。
 冥月の言葉を聞きながら、シュラインも言葉を付け足した。
 長年の勘からなのか、それとも海南の消えた海がその答えへと導こうとしているのかは分からないけれど・・・2人が考えていたコトは、どちらも同じコトだった・・・。


 みそのと陽月は湊の母親との電話を切り終わると、隣で青い顔をして座り込んでいる湊を見詰めた。
 歩美が寄り添うようにして背中をさすっており、武彦も困り顔で煙草の箱をトントンと叩いている。
 ここは武彦が手配した旅館の一室だ。
 質素な和風のこの部屋は、窓から海が一望出来、窓を開ければ潮の香りが部屋を満たしてくれる。
 しかし今は窓は締め切られており、ジメジメとした空気を拭い去ろうとするかのように、天井部に設置されている冷房が微かな音を立てながら稼動している。
 事件があった日の詳しい情報を得たいと思ったみそのと陽月は、湊の了承もあって彼女の母親と直接連絡を取ったのだった。
 ・・・けれど、大した情報は得られなかった。母親も、新聞や警察の調査書にあったような事しか覚えてはいなかった。
 ただ、1つだけ・・・湊の夢に関する重要な話が聞けただけでもかなりの成果と言って良かった。
 湊が小学生時代―――――海南が亡くなったあの日まで、彼女は長い髪を2つに結んでいたのだ。
 三つ編みにして、髪の下の方にリボンをつけて・・・。
 夢の中で、湊は髪の毛を引っ張られ、三つ編みの右側を海南につかまれるのだ。そして、きっとリボンを取られてしまう・・・。
「黒羽様、1つだけ・・・不思議な事があるんです」
 みそのの呟きに、陽月が顔を上げ、表情から湊の事だと瞬時に理解すると、みそのの口元に耳を寄せた。
「わたくし、あの場所で――――――――」
 陽月はその言葉から、ある1つの推測を立てた。
 みそのが俯き、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべると、ポツリと一言呟いて目を閉じた。
「海南様は、それほどまでに湊様を愛しておられたんですのね・・・」


★☆★


 海南の眠る海は夕刻の時になってもその表情を変える事はなかった。
 夕陽に赤く染められる海は、それでもどこか昼間とは違った印象を受けた。波が砕ける音が大きく、時に小さく響きながら広い世界に木霊している。
 みそのが長い髪を手で押さえながら、ゆっくりとした口調でこの海から発せられる“気”が決して悪意のあるものではないと言う事を説明すると、小さく笑みを浮かべた。
「最初から不思議だったんです。海南様は、不幸にも突然命を奪われてしまった。それは、察するに・・・とても寂しく、悔しく、哀しいことではないかと思います」
 憤りもあるだろう。怒りもあるだろう。まだ生きていたかったと言う、切実な願いもあるだろう。
「けれど、この海から感じる“気”はそのような感情は御座いません」
「・・・それなら、何があるんですか?」
 そうみそのに問うたのは、湊ではなく歩美だった。
 強張った表情で固まる湊の肩に手を置き、庇うようにして立っているその姿は、どこか海南の姿とダブって見えた。
「優しさや、愛しさ・・・そのような、柔らかいものを感じます」
「それって・・・」
「おそらく、海南様のお気持ちかと察します」
 海に落ち、幼くして命を断った少女が・・・だ。
「俺、みそのからソレ聞いた時、誰かに突き落とされたって可能性はないなーって思ったんだよ」
 そうでなければ、海南はきっと酷くその相手を恨むだろう。
「でも、事故の可能性もないかなーって」
 自分の不注意で起きた事故だとしても、きっと無念の気持ちは残るだろう。
 大好きな母親に、妹に、何も告げられないまま命を散らせてしまったのだから・・・。
 けれどそれならば、どうして海南は海に落ちてしまったのだろうか?どうして、遺体は見つかっていないのだろうか?
 遺体だけではない。着ている服も、持ち物も、どうして何も見つかっていないのだろうか?
「最初、話を聞いた時ね、何か悪いものが海南さんを閉じ込めているんじゃないかって思ったの」
「でも、それだと説明が出来ないんだ」
 シュラインの言葉の後を冥月が引き取り・・・武彦が、煙草に火を点けた。
 炎が微かな音を立てて葉を焼き、すぐに煙草の独特の香りが漂う・・・。
 もしも霊の類が海南を閉じ込めているのだとすれば、海はこんなに穏やかな表情をしてはいないだろう・・・。
「海南さんは、自分の意志で・・・出てこないんじゃないかしら・・・?」
 諭すような優しい口調でシュラインはそう言うと、湊の肩にポンと手を乗せた。
「あの日、湊はいつもどおり髪を2つに三つ編みにして学校に行った。でも、帰って来た時には解けていた・・・。そしてその日以来、三つ編みを嫌がったって、不思議そうに言ってたよ」
 勿論、主語は湊の母親が・・・だ。
 陽月がその会話を思い出すかのように視線を宙に彷徨わせる。
「・・・私・・・が、お姉ちゃんを・・・海に・・・落としたの・・・」
 湊の声はあまりにも小さく、容易く海風に掻き消された―――――


  あの日、湊はいつものように学校に行き、授業が終わって帰る途中、このテトラポットの上で姉の姿を見つけた。
  転校してきたばかりでまだそれほどクラスに馴染んでいなかった湊は、海南の後姿に喜びを隠せなかった。
  そう・・・それは無邪気に、後ろから姉の肩を叩いて明るく「お姉ちゃん」と言うつもりだったのだ。
  けれど、滑りやすいテトラポットの上で、湊は体勢を崩した。
  グラリと傾いた体は姉の体とぶつかり、思いの外強く姉の体を海の方へと突き飛ばすような形になってしまったのだ。
  姉が踏みとどまろうとして、その足を滑らせ・・・海へ落ちる。
  慌てて引き上げようと手を伸ばすものの、小さな湊の手は届かない。
  ・・・いや、もし届いたとしても、姉の体重に引きずられて湊も海に落ちてしまうだろう。
  姉の手が湊の三つ編みにした髪を掴み・・・リボンを取ってしまった。
  このままでは駄目だと思った湊が周囲を見渡し・・・けれど、普段はいるはずの釣り人の姿はなかった。
  どんよりと低く垂れ込める空模様と、荒れたら酷くなる海を前に釣り人達は早々に引き上げていたのだ。
  姉の姿が波の間に消える・・・そして、シンと、海は静かになった・・・。


「お母さんに言おうにも、怖くて・・・言えなくて・・・。でも、私のリボンがお姉ちゃんから見つかれば、きっと・・・私がやったんだって、みんな分かって・・・お姉ちゃんも、きっと私の事怒ってるって・・・」
「でも、お姉さんの遺体が見つからなくて、どうしようもなくなっちゃったのね?」
 シュラインの言葉に、湊が頷いた。
 子供なりに考えて・・・自分がしてしまった事の重大さに、誰にも話せなくなってしまったのだ。
「ここに来たら、お姉ちゃんが怒って・・・私のこと連れて行くんじゃないかって。だから、怖くて来たくなかったの・・・」
「それを、この間私が無理に連れて来たんです」
 歩美がそう言って、不思議な笑顔を浮かべた。
「でも、海南は湊を連れて行こうなんて、思ってなかったんだよな?」
 冥月の言葉に歩美が頷き・・・武彦がおずおずと手を上げると口を開いた。
「それで、肝心の身体はどこにあるんだ?もし、自分の意志で出てこないんだとしたら・・・どうすれば出てくるんだ?」
「そう言えばそうよね・・・。そもそも、どうして海南さんは出てこないのかしら?何が・・・」
「リボンですよ」
 歩美がそう言ってクスリと音を立てて笑うと、そっとポケットから鮮やかな青色のリボンを取り出して湊の手に乗せた。
「これがあったから、お姉さんは出て来れなかったんです。これを、返すまでは・・・」
「それをどうして歩美様が・・・?」
「私にも、貴方達と同じような能力が、少なからず・・・あるからですよ」
 にっこりと微笑んだ笑顔は、最初から全てが分かっていたと言う事を暗に言っているかのようで・・・
 年齢不相応の不敵な笑顔は、特殊な能力を宿した人々のソレと似通ったものがあった。


☆★☆


 後日、陽月の提案であの海の近くで盛大なお祭を催すことにした。
 少し早い盆踊りに金魚すくいに綿菓子に、町の人々が大きな花火まで上げてくれた。
「やっぱさ、ワイワイ騒いだ方が良いじゃん。悲しいことがあった場所なら尚更・・・さ」
 夜空に輝く大輪の花は美しく、海に散って行く火の粉はどこか幻想的だった。
 お祭りの最中、歩美が大きなバッグを片手にやって来て、1人1人に綺麗にラッピングされた包みを手渡した。
「今日、湊はやっぱり来れなくって・・・色々あって、混乱しちゃってるんだと思います。でも、これは皆さんにって・・・夜遅くまで頑張ってたみたいですよ」
 そう言って、今度は違う包みを取り出した。
「これは私と・・・あと、海南さんから。プチシュークリームです。お口に合うと良いんですけれど・・・」
 歩美は柔らかく微笑んだ後で、全ての経緯を淡々と話し始めた―――――


  私には、亡くなった人と会話をする能力があるんです。
  勿論、誰でも良いってわけではないんです。私の知っている人で、向こうが私に何かを語り掛けたいと思っている人
  そう言う人の言葉は、聞こえるんです。
  海南さんが海に落ちた日、私は直ぐに湊が何かを知っているんだって思ったんです。
  それは、海南さんが私に語りかけたとかじゃなく、言うなれば勘・・・ですね。
  でも、そんな勘なんて当てになりません。海南さんの事は事故として片付けられちゃいましたし。
  ただ・・・湊が頑としてあの海に近づかないのは気がかりだったんです。
  ・・・私達が中学に上がった頃になって、度々湊の近くに海南さんの姿を視るようになったんです。
  海南さんは湊に何かを必死に訴えかけようとして・・・でも、その声は聞こえないんです。
  私に言っている事じゃないと、聞こえないので・・・。
  海南さんが必死に訴えかけていることを知りたくて、湊を無理矢理あの海に誘ったんです。
  きっと、あの日の事が凄くリアルに思い出されたんでしょうね。湊、それから数日寝込んじゃって・・・
  毎回夢を見るたびに、海南さんの事を見るようになってしまったみたいなんです。
  でも、そのおかげで海南さんと会話をする事が出来たんです。
  最初は、ずっと湊のリボンと共に海の中に沈んでいようとしていたみたいなんですけど、やっぱり寂しいんですって。
  リボンを湊に返して、両親の元へ、湊の元へ還りたいって言っていて・・・
  私にリボンを託してくださったんです。
  皆さんには、私が湊にリボンを返す・・・その、不自然でない状況を作っていただきたかったんです。


「歩美は、湊に・・・海南を故意でなくても海に落としてしまった、その事実を・・・しっかりと、見詰めてほしかったんじゃないのか?」
 冥月のそんな言葉に、歩美は何も言わずに小さく微笑んだ。
 それが全てを表しているようで、シンと静まり返った場に、花火の盛大な音が響いた・・・。
「あのままじゃ、湊はきっと・・・いつか、海南さんの事を忘れてしまうと思ったんです」
「湊様は、あんなにも海南様を愛しておられるのに・・・ですか?」
「記憶も気持ちも、時が経てば薄れて行きますから・・・」
「そんな・・・」
 反論しようとしたシュラインは、思わず口を閉ざした。
 あまりにも寂しそうな歩美の笑顔が、何故だか全てを物語っているかのようで・・・言い返す言葉など、出てこなかったのだ。



 それからしばらくして、海南の遺体が見つかったと言う小さな記事が新聞に載せられた。
 その日は丁度人気アイドルの少女と売り出し中のアイドルグループの少年との熱愛が発覚した日で、海南の記事はかなり小さなスペースしか割り当てられていなかった。
 “10年前に不明女児の遺体を発見”
 その記事は、幸せそうに腕を組む男女の下にひっそりと・・・載せられていた・・・。



               ≪ E N D ≫



 ◇★◇★◇★  登場人物  ★◇★◇★◇

 【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】


  0086 / シュライン エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員


  1388 / 海原  みその  / 女性 / 13歳 / 深淵の巫女


  2778 / 黒  冥月   / 女性 / 20歳 / 元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒


  6178 / 黒羽  陽月  / 男性 / 17歳 / 高校生(怪盗Feathery / 紫紺の影


 ◆☆◆☆◆☆  ライター通信  ☆◆☆◆☆◆

 この度は『海の底から想う』にご参加いただきましてまことに有難う御座いました。
 今回は、心霊!捜査!といったものではなく、まったりとしたお話になりました。
 それにしても、10年も経ってから見つかったとなると、白骨化してそうですよね・・・
 その場合、衣服はどうなるのかしら・・・。沈没船の引き上げなんかですと、衣服ってきちんと残ってますよね。
 衣服やランドセルなんかも、窪んでいる部分から見つかったのかしら。
 いや、きっとモノは軽いからテトラポットの辺りに引っかかっていたんじゃないかしら。
 それなら、海南の遺体もテトラポットの辺りで見つかったのかしら?
 と、色々と考えてしまいました(生々しすぎ
 思いの外歩美が怖い子になってしまい、もう少し可愛らしい部分も引き出してあげたかったなと思います。
 湊も、ただ可愛いだけの子みたいになってますし・・・。海南にいたっては、重度のシスコンですよね(笑
 でも、あえて海南と湊の思い出話は入れませんでした。
 それどころか、海南すらも出てきてません(海南と皆様が接触するシーンは入ってないです
 優しいお話にプラスで、不思議でどことなく妖しい雰囲気を入れたかったからです。
 どこか心に引っかかる、そんなお話になっていればと思います。


  それでは、またどこかでお逢いいたしました時はよろしくお願いいたします。