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【回送電車】Sunshower
『……間もなく、扉が閉まります。駆け込み乗車は危険ですので、お止め下さい』
そんな構内アナウンスが聞こえてシュライン・エマは更に足を速めた。
これに乗らなければ遅刻してしまうのだ。ハイヒールであるのもおかまいなしで一段飛ばしに駆け上がると、息を切らして今にも閉まろうとするドアの隙間に体を滑り込ませる。
間一髪間にあった。
閉まるドアにほっと人心地。疲れたように背をドアに預けてふと顔をあげると、通勤ラッシュは越えたとはいえ平日の朝にしては車内ががらんとしていた。
どうして誰も乗っていないのかしらと訝しげに後ろを振り返ると、ドアの窓からホームを見やった。
「え？」
ホームの向こう側に今にも走りだす電車の行き先表示を見てシュラインは耳の奥で血の気が退いていく音を聞いたような気がした。
「うそっ！？」
ドアに張り付く。
目を凝らして何度も何度も確認した。
構内の行き先掲示板が次の電車の表示に切り替わる。その直前の二文字が目に焼きつく。
――回送。
それに背を向けて再びドアにもたれかかる。
目を閉じて天を仰いだ。
「やっちゃった……」
これで、彼女が事務を務める草間興信所の遅刻が決定した。
早めに仕上げておきたい書類もあったのに。まぶたの裏には興信所の自分のデスクの上に積まれた書類の山が浮かんだ。
「報告書……今日の午前中までに提出しないといけなかったのよね」
とはいえこうなっては慌てようが騒ぎたてようがどうしようもない。
走る電車から飛び降りるわけにもいかないのだ。
腹をくくるようにしてシュラインは２本の足で自分の体重を支えると電車の進行方向に向かって歩き出した。
恐らくは車庫に向かっているのだろう、運転士に事情を話し相談しようと思ったのである。
興信所に連絡を入れなくては、とも思ったが、どのくらい遅れそうか確認してからでも遅くはないだろう。
「武彦さん、まだ寝てるかしら……」
独りごちながら、一番前の車両までくると、真ん中の７人掛けの座席に１人の女性が座っていた。
空色の半袖のブラウスに真っ白のフレアスカート。膝の上にブランド物のハンドバッグをのせて、何事もなかったかのようにすました顔で、ぼんやり外の景色を眺めていた。
この笑い話にもならない事態に陥ったのは自分だけじゃない。そんな安堵感にシュラインは自然頬が緩んでしまう。
シュラインは、さっそく声をかけた。
「あなたもですか？」
きっと、一番前の車両でこうして座っているという事は、既に運転士さんから、この電車の行き先や戻り電車の話を聞いているに違いない。そう思うと、いっそ心強い気もした。
声をかけられ、その女性は少し驚いたような顔でシュラインを振り返った。
「え？」
シュラインはテレ笑いを浮かべながら彼女の隣に腰を下ろす。
「回送電車に乗っちゃうなんて、ね」
そう言うと女性は不思議そうに首を傾げて――。
「次が終点なんですか？」
「…………」
◇
運転室のドアをノックすると、４０代後半といった感じの痩せぎすの運転士が、ハンドルの前に並ぶメーターから顔をあげて、チラリとシュラインを見やった。
驚いた風はない。
ただ、呆れたように、或いは疲れたように、それでも愛想のいい笑みを浮かべただけである。
もしかしたら、こういう客を以前にも乗せた事があるのかもしれない。思いのほかこれはよくある事なのだろうか。
運転士は、すぐ後ろの窓を少しだけ開いて、シュラインが事情を話そうとする前に、彼は前を向いたまま言った。
「あー、お客さん。途中の線路で下ろすわけにはいかないので、このまま車庫まで乗っていってもらいますよ」
有無も言わせぬ物言いであったが、異を唱えられる立場ではない。勿論、唱えるつもりもなかったが。
「あ、はい。わかりました。それで……」
問いかけようとしたシュラインに、その内容がわかっているのか、それを遮るように運転士が続けた。
「後、７・８分で着くよ。駅に戻りたいなら、線路沿いの道を１時間かけて歩くか、１時間後に出る電車があるから、それに乗ってください」
「はぁ……」
シュラインは何とも曖昧に頷いた。
「ああ、それと、バスが２０分に１本ぐらい出てるけど、町中を結構迂回するから駅までは１時間くらいかかるなぁ」
まるで次の質問までわかっているかのように先回りして運転士が答えていく。
シュラインは疲れたように溜息を吐いた。
歩いても１時間。電車も１時間後。バスでも１時間。
車庫から興信所に直接向かうのと、どれが一番早いだろう。
「タクシー呼ぶんなら、向こうの事務所で聞いてください」
シュラインの内心を読み取ったかのようなタイミングで運転士が言った。だが実際に読み取ったわけでもあるまい。こういう場合、どの客も似たような行動をとるものなのだろう。
と、すると……。
シュラインは、座席に座る女性を見やった。
「やっぱり、変わってるわよね」
ハンドバッグ以外の荷物も見当たらない。遠出をしているとか、旅行客という雰囲気でもない。しかし、この近辺に住んでいるなら駅の名前や地名くらいは把握している筈である。
シュラインは首を傾げつつ、運転士を振り返って頭を下げた。
「すみません。ありがとうございます」
運転士が窓を閉じる。
シュラインはそこから離れて、再び女性の元へ歩み寄った。
旅は道連れともいうしこうなったのも、何かの縁なのかもしれない。どの選択肢をとっても、１時間は暇を持て余すことになりそうなのだ。タクシーなら駅まで２０分くらいだろうが、電話で呼んで来てもらう時間もあるし、何より贅沢は敵でもある。
そんなこんなで隣に腰を下ろすと再び声をかける事にしたのだった。
「何を見てるんですか？」
ずっと窓の外を眺めている風の彼女に、シュラインが言った。
「空を」
短く女性は応えた。
それでシュラインも窓の外の空を見上げる。太陽は眩しく照り返し、どこまでも青が続く快晴であった。
「今日はよく晴れていますね」
シュラインがにこやかに言うと、女性はシュラインを振り返るでもなく、憂いがかった眼差しを空に向けたまま言った。
「雨を……」
「え？」
「雨を待ってるんです」
「雨が好きなんですか？」
尋ねたシュラインに女性は少しだけ嬉しそうに顔を綻ばせて「はい」と言った。
「雨が降るのを見ているのは、私も好きですよ」
そんな風に応えてシュラインは、彼女の見ている空に視線を戻した。雨は嫌いではない。でも、正直に言えば、雨の日に出かけるのは億劫になってしまう事の方が多いのだ。
「雨音がシロフォンのように歌うと楽しくて」
その瞬間を思い出しているのか、女性は本当に楽しそうに微笑んだ。
笑顔は伝染するものなのか、つられるようにシュラインも笑みを返す。
ぱらぱらと雨が窓を叩く音が聞こえてきそうだった。
「そういえば、後７・８分……もう、５分もないかしら、で、車庫に着くそうよ」
「車庫？」
女性が知らない言葉でも聞くような顔でシュラインを見返した。
「ええ。駅に戻るには１時間歩くか、１時間待って戻りの電車に乗るか、１時間バスに揺られるか、ですって」
「そこが終点なんですか？」
「……終点に行きたいんですか？」
「……わかりません」
「どこへ行くところだったんですか」
「どこへ？」
「はい」
「わかりません」
「え？」
「私はどこへ行くところだったんでしょう？」
「えぇっと……どうやってこの電車に？」
「連れられて」
「誰に？」
「わかりません」
「…………」
シュラインは困惑げに眉を顰めた。
ただ、電車が初めてというのではなさそうで、そっと目を閉じる。
視覚を閉ざすことによって他の感覚たちが研ぎ澄まされた。彼女の場合、多くは音だろうか。空気が伝えてくるさまざまな振動から、不要な周波数のものを取り除いていく。
探しているのは彼女の鼓動。
死人なのか、或いはもっと別の、たとえば誰かが電車が置き忘れた……何か……。
――雨を待っているんです。
雨がやんで忘れられてしまった傘？
どこへ行くところだったのか、も、誰に連れられてきたのか、もわからない。
「終点はさっきの駅ですよ」
シュラインが言った。
「でも、まだ動いています」
女性は不思議そうに首を傾げる。
「ええ。でも終点は始点にもなるから、何度でも走り出すでしょうね」
「……終点は始点」
「あなたは雨が降るのを待っているのでしょう？ 雨は一度やんでも、また降り始めるわ。何度でもね」
「…………」
「ま、降って貰わないと私たちも困るんだけど。きっと雨が降るたびに、あなたをこの電車に乗せた誰かは、あなたの事を思い出しているでしょうね」
こんな風に彼女が待っているなら、きっと、その誰かも、彼女を探しているに違いないと思うのだ。
「だから、もっと見つけてもらいやすい場所に行きましょう」
「…………」
そこが、彼女の旅の終着点になる。
勿論そこで待っているものが、たとえば前の持ち主との再会であるのか、新しい持ち主との出会いであるのかはシュラインにもわからない。
けれど――。
一人ぼっちに終わりを告げるための、そこが出発点になる筈だ。
◇
電車は、やがて減速して車庫の中へ入るとゆっくりと止まった。
運転士が、運転室と客室を繋ぐドアを開けてシュラインに手招きをしていた。どうやら、運転室のドアから出てくれということらしい。
呼ばれてシュラインは女性を振り返った。
しかし、そこに女性の姿はもうなかった。
かわりに座席の上に、空色に白いラインの入った折りたたみの傘がぽつんと置かれていた。
シュラインは少しだけ目を細めてそれを取り上げると立ち上がる。
「すみません」
運転士に声をかけて電車を降りた。
「戻りの電車を待つなら、そこの事務所の中で待ってるといいよ」
運転士が言ったがシュラインは首を横に振った。
「歩きます」
そうして車庫から出る。
晴れ渡った空を見上げていると、ぽつりと何かが頬を濡らした。
晴れた空にぱらぱらと雨が降ってくる。
シュラインは手に持っていた折り畳みの傘を見やった。
「少しくらいはいいかしら」
『彼女』が待ちに待った雨が降っているのだ。
傘を開いて雨の中を歩き出す。
雨粒が傘にぶつかってぱらぱらと軽快な歌を歌い始めた。
「お天気雨……照り雨……日照り雨」
それから――。
空色の傘はまるで空のようで、白いラインは飛行機雲を見上げているようで。
「え？」
それが、ゆっくりと遠くへ霞んでいく。
ぼやけたように、掴んでいるはずの柄の感触が薄らいで、それはゆっくりと空にとけるように消えてしまった。
気がつけば、雨もやんでいる。
空はカラっと晴れて雲ひとつない。
今まで雨が降っていたのが嘘みたいに、地面は乾いていた。
「お天気雨……照り雨……日照り雨……狐の嫁入り」
まるでそれは狐につままれたように。
◇
目の前に駅があった。
まだ、１時間も歩いていない。
どころか１０分も歩いていないはずだ。
驚いたようにシュラインは携帯電話を取り出した。
そういえば興信所にまだ連絡も入れてなかった。
「え？ 嘘……」
携帯電話の時計表示を何度も確認した。
それから小走りに駅へと向かう。
時計台の指す時間は携帯電話と一致していて、それは確かに乗り間違えたあの電車の発車時刻の５分前だった。
「どういう事？」
不審に改札を抜ける。
ゆっくりと階段をのぼったところで発車のベルが鳴った。
構内アナウンスを聞きながら、シュラインは足早に前の車両へと移動する。
ドアが閉まる寸前、今度は間違える事無く目的の電車に乗った。
そして一番前の車両へ移動する。
向かいに並行して走りだした回送電車が見えた。
そこに、あの女性が立って、こちらを向かって手を振っている。
彼女が晴れ晴れとした笑顔をしているのにほっとして、シュラインは手を振り替えした。
やがて電車は互いにそれて、彼女からは見えなくなった。
■END■
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【0086／シュライン・エマ／女／26／翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員】
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■ ライター通信 ■
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ご参加いただきありがとうございました、斎藤晃です。
楽しんでいただけていれば幸いです。
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