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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


BRILLIANT SOLITAIRE

────総ては、貴方という孤独に辿り着く為に。

【 01 : Silent night 】

太陽と月明かりは照明 川の流れと海原とは花道
風雨地を穿つ音はオーケストラ この世界はただ、ひとつの劇場

 元は、小さな野外劇場だったのだろう。今ではもう、見る影もないが。
 敷かれた石畳は所々隆起し、または毀れ、剥がれ。苔生した石の間からは、踝をすっかり隠してしまうほどの雑草が我が物顔で生い茂っている。十人も並べば窮屈になってしまうほどのささやかな舞台、その両脇には神殿の様に立派な円柱が立っていたらしいが、片方は根元近くで崩折れて、もう片方も表面にあっただろう精緻な紋様が長年の雨風で摩滅しきっている始末。
 すり鉢状にぐるりを囲む観客席も、有様は同じだった。足元を、また腰を下ろすべき場所を、名も無い草花に全て覆われてしまっている。拍手喝采を生み出したかもしれない往時を偲ぶのは、最早、到底、無理なことだ。
 そんな廃墟──と、大袈裟な名をつけるのも憚られるほどの残片が、弓張月よりやや膨らんだ月の光に、静かに、照らされていた。蒼味を孕んだ白銀、染められた夜風がさらりと髪を揺らし、頬を撫でていく。夏間近の、ほのか湿った風だった。

「この世は、ただ、ひとつの劇なんだよ」

 若い男の声がした。
 壊れた舞台の中央、簡素な木椅子の背もたれに踏ん反り返って座る男は、年の頃二十歳か、そこら。灰黒色したぼさぼさの長めの髪に、同じ色の丸く吊り上がった双眸。不敵な笑みをもらす口許の下、顎の鋭角さがどことなく冷ややかな印象を与えている。服装は着古したシャツにジーンズと至って質素で、その代わりなのか胸元や手首には重厚な銀色のアクセサリを不必要なほどにぶらさげていた。

「だからおまえ、俺とヤろうッてんならさ、同じ舞台に上がって来いよ」
「……いえ、お断りします」

 もう一人、若い男の声があった。
 彼は客席の最後列、最も高い位置から舞台の男を俯瞰していた。濡れたような銀髪と、透き通った紫電の瞳が殊更目を惹く美しい青年だ。チャイナドレスにも似たエキゾチックな衣装を纏い、脚を組み直す様はわざとらしいまでに、尊大。
 彼の名は嵯峨野ユキという。人形よりは人に近く、人に比すれば人形に近い、「ヒトガタ」という美しいお人形。彼は故あって、自分を創り上げた故・嵯峨野征史朗の魂を探している。
 そんなユキが、────くい。唇の端を優雅につり上げ、
「貴方は仰いました。貴方が今居るその、椅子。それこそが、“この世で一番美しい椅子”である、と」
「ああそうだ。これ、これな」
 男はユキと対峙する様に前かがみ。椅子に体重をかけるとキシリ、と乾いた音がした。
「正直なトコ、俺にとっちゃこんな椅子どうでもいい。今すぐおまえに放って、譲ってやってもいいんだぜ」
「しかしそういった安易な気持ちで造作も無く、誰かに与えてしまっては、その時点で椅子そのものの価値が失われてしまう……そうも伺いました」
 ああ、男は楽しそうに目を細めて首肯する。ユキは言葉を継いだ。
「ですから、その椅子を美しいままに手に入れるためには、貴方から無理矢理、もしくは正攻法で奪わなければならない。但し貴方に敵意を持って近づくと、」
 ユキは足元の小石を掴んでさッと立ち上がり、それを男目掛けて投げつける。途端、椅子の下に蟠っていた影が直立で伸び上がり、────斬。鋭い爪の形に変じた黒いものが、小石を粉々に圧し砕いた。それこそ男を庇い、護るかの様に。
「……この様に危険である、と。まあ、そういったところです」
 黒がただの影に戻るのを見届け、ユキは肩越し振り返った。微笑を贈った先には幾人かの姿。ユキは彼らに向けて言う、あの椅子を、手に入れてくださいませんか?
「折角の舞台だ。男も女も皆役者、それぞれ自分の役を名乗って、俺に挑んでくればいい。俺はどんな物語だってうけて立つぜ? ハハ、楽しくやろうじゃねえか、兄弟」
「つまりご自分の『役』を明らかにし、あの方から椅子を無事奪取できるような筋書きと演出を用意していただきたいと……はいはい、噛み砕きますね。自分は一体何者か名乗ること、そしてどうやって椅子を奪うか考えること、そういうことですね。……え、私ですか? 私はストーリーテラー、そして観客。ここで大人しくしていますとも」
 人影たちは互いに顔を見合わせた。果たしてこれは厄介なことに巻き込まれたか。困惑を滲ませる表情を、しかしユキは蕩ける媚態で封じ込めた。
「ふふ、途中退場は出来ませんよ。────幕はもう、上がっているのですから」


【 02 : Scene 】

「さあ、誰から、俺の立つ場所にまで上ってくる?」

■第一幕 第一場 「いもうと」

 脚を組み、ぼんやりと椅子に腰掛けていた兄は、扉をノックする音に視線を転じた。窓の外は既に漆黒に塗り込められた深夜、彼の部屋を訪ねるとしたら一人しか居なかった。
『兄様』
 鍵を外してノブを回す、と同時に部屋へするりと身を滑らせてきた妹に彼は柔らかな笑みを浮かべる。緩やかなウエーブを描くブラウンの髪に、同色の澄んだ、そしてまた意志の強さに彩られた瞳の妹は、今夜も心持ち顎を引きながら兄を呼ぶ。胸の前で絡めた指先を一度組み直し、期待に満ちた視線を贈るのは兄の返答を既に知っているからだ。
『今夜もお話を、聞かせて?』
『またか。好きだなおまえも』
 彼の苦笑に、妹は唇を心持ち尖らせる。
『あら、嫌かしら?』
 質問というよりは意外な言葉を聞いたという咎めか。悪びれない妹に彼は首を横に打ち振る。彼女は満足そうに頷いて、彼の常の居場所である椅子へと兄をいざなった。
『私は傍で聞いてるから、さあ、兄様のお話を聞かせてちょうだいな』
 椅子に深く腰掛けた兄と、その膝元に頭を凭せ掛ける妹と。兄妹は、こうして夜毎の逢瀬を重ねていた。兄が語るは彼が打ち立ててきた幾度もの冒険の記録。書庫の奥に眠った埃だらけの革表紙を開くように、兄は妹を活劇の世界へと導き、遊ばせる。好奇心旺盛で豊かな想像力に満ちた妹はそんな兄の話に輝く双眸で聞き入って、相槌を打ち、息を呑み、
『兄様、兄様、その続きは?』
 急かす妹に兄は更に熱弁をふるい、二人は時間が経つのも忘れて、やがて────。
『その時俺は一瞬怯んだものの、すぐに得物を構え直して……って、おい、おいってば。何だ、また寝ちまったのか』
 妹の肩を軽く揺するも、返ってくるのは安らかな寝息のみ。無理もない、ただでさえ遅くに始めたのだから、既に時刻は日付を跨ぐ直前か。最愛の妹の寝顔に兄は柔らかく目を細め、手をそっと彼女の髪に埋める。さらり、と波間を滑る指先。戯れに一房摘んで、すぐに離した。
 ふっ、と漏らしたのは、温かな吐息。
『……しょうがねえなぁ、床に座らせておくわけにもいかねえし。他に何にも無い部屋だしな、俺の椅子に────』

「これはこれは、愛らしい話ですね」
「それはそれは愛らしい感想をどうもありがとう、ユキ?」

 にこり、と。
 客席のユキへ微笑んで見せたのは、舞台上の“妹”────嘉神しえる。兄に甘える無邪気な妹、というには些か凛々し過ぎる容貌と雰囲気をと兼ね備える彼女は、舞台に上がる前にこう言った。
 演じてこその舞台、外見に囚われる必要はないでしょ。
「ああ、その通りだな。サンセーするぜ」
 “兄”であった男がパチパチパチ、乾いた拍手を傍らのしえるに捧げる。鈍く月光に煌く両手のブレスレッドが、その度にガチャガチャと退屈そうに揺れた。
 安い音だこと。それを横目で見たしえるはわざと激賞するかの口調で呟き、男が梳いた辺りの髪を拭うように乱暴に、後ろへと払った。
「ところで“兄様”、椅子をくださるのではなくて?」
「大事な妹をこんな固い椅子の上で寝かすってのは、“兄様”としてちょっと、優しくねえんじゃね?」
「あら、私そんな贅沢は言わなくてよ。これで充分、いいえ最高。何分、これを貴方から取り上げないと、ねえ。あそこのお人形さんがうるさいの」
 ちら、と視線で指したのは勿論観客席。膝に両肘を突いて観戦していたユキは、明後日の方向を見ながら肩を竦めた。
「巻き込んだ御礼を言われてしまいました」
「ええ、また面倒事にご招待いただいてしまったものね」
 二人の遣り取りを見比べて、男は夜空にけらけらと引き攣った笑い声を打ち上げる。
「愛されてんなぁ、おまえ」
「そのように作られているので、当然です」
「で、あんたは、きっつそうな見かけによらず付き合いいいのな」
「ふふ、そろそろ腐れ縁かしらね」
 逢いたいから探す。初めての邂逅であの人形は迷いのない声音でそう告げた。
 自分を作った“主様”の魂に巡り逢いたいからその行方を捜す。たった一人、代わりのきかない唯一の相手のためにならばどんな力でも尽くせる。一途で、そして馬鹿みたいな願いを抱く人形を憎からず思うのは、自身もまたその熱情を知っているからだ。業火に焼かれる苦しみすら甘露として呑み下せる、いっそ盲目。今夜のこの舞台もその手掛かりを求めてのこと、なのだろう。
「まあ、悪い縁だとは思っていないけれど」
 呟きを自分の耳だけに収め、しえるは再び男を仰ぎ見た。男の瞳はまるで曇天の夜空のようにくすんでいて、お世辞にも美しいとは思えない眼差しだ。
 生きながら、まるで死んでいる様な。進み行く道の先に何の希望も見出していない、今の刹那さえ嫌々永らえ、自らが潰え掻き消されていくのを待っているかの──何だろう、これは諦観か。先刻触れてきた指先は酷く荒れていて、その皮膚の具合自体が、彼の心の中の荒廃すら表しているように感じられた。
 しえるは今一度髪を払う。それからトントン、と椅子の脚を爪の先で突いて確認した。
「これは私のもの、ね?」
「……いいぜ、この“話”では最早おまえのものだ。兄が妹のために捧げる安らかな椅子。さあどうぞ、座るといい」
 男が腰をあげ、恭しくその座を手で示す。
 立ち上がったしえるはスカートの埃を軽く払い、先刻見た黒い影を思い出しはしたものの、やがて“この世で一番美しい”らしい椅子へと腰を下ろした。


■第一幕 第二場 「少女」

 初めから勝負にならないと思うよ。彼女はユキにそう言った。
 不思議な雰囲気を纏う少女、と。言葉に落としてしまえば平凡極まりない文句と化してしまうその形容を、しかし彼女には使わざるを得ない。むしろ、その表現は彼女のためにこそ取っておくべきなのだろうと、思わせるほどのいっそ神々しさを、その少女は持ち得ていた。
「私がいるということは、ここは夢かな。それか、現との境かな。何処とも知れぬ場所の夜の中、月の光は明かいけれど……ここに滞る深い深い昏が、群雲の様に棚引いているね」
 詠いかと聞き紛う声音。その眼は焦点を定めず、傍らに座すユキですら視界に入れていないらしい。ユキはそんな彼女を興味深そうに見上げ、流れる黒髪に細すぎる手首を、微笑みながら検分した。
「ここが夢でも現でも、貴女のような方とお会いできたのは光栄なる縁と申しましょう。私は嵯峨野ユキ、貴女のお名前を頂けますか?」
「名前? 私を呼ぶの?」
「呼びたいですね、また私のことも呼んでほしい。そして出来るならば……貴女が舞台に上がった姿を拝見したいとも、思っていますが?」
 ユキは視線をすり鉢の底、廃墟の中心で尊大に椅子を占拠する男へと投げ掛ける。男もまた、突如闇から滲み出るかにして現れた黒衣の彼女のことを、好ましい興味で以って見つめているようだった。
 凪ぐ風に誘われたのか、彼女が不意に天を仰ぐ。前髪がさらりと零れ、額の紋様が露になる。そのまま静謐な足取りで階段を降り始め、一歩、一歩、男との距離を縮めていった。声が、夜闇を微か震わせた。
「貴方は、酔狂な人だね。こちらが負けるのはわかりきっているのに、勝負、だなんて持ち出す。そこは貴方の舞台、貴方の夢。私が如何振舞おうとも、決して貴方の意に背くことはできない……貴方の世界だ」
「そう、ここは俺の舞台、俺の世界。そしてこの椅子は俺の椅子。だからこそ、なんだぜ。人のモノを獲とうってンなら、不利な形勢逆転して、鮮やかに俺を負かせてくれよ」
 やっぱり酔狂だ。彼女が小さく笑った、様な気がした。
「うん、でも、悪くないよ。……とても、楽しそうだ」
 ふわり、羽毛が舞うかの重みを感じさせない仕草で、彼女は男の世界に足を踏み入れた。舞台上、共に横顔を見せる平行の姿勢。ちら、と互いを窺った視線がかち合う。燃え尽きて濁った灰の男の双眸に、鎮まって乱れぬ銀の彼女の────榊紗耶の両目が映った。
「夢見がちな少女の役でも貴方が赦してくれるなら。筋書きは単純に、恋する少女の話を。それは夢見がちゆえに孤独な少女の、話」
 男は見返す目を細める。鬱陶しそうな前髪を無造作にざらりと掻き上げた。
「ああ、いいぜ。……来いよ」

 花は要らない。いつか枯れ果てるものだから。
 温もりは辛い。いつか冷え凍りつくものだから。
 始まりはそれぞれだけれども、終わりは、皆何処か似通っている。風雨に晒された紅い花弁が褪せていく様に、人も獣も木石も、視えるモノも視えない想いも、やがて、やがては朽ちていく。
 いとしいとおし口づけても、そっぽを向いて朽ち、続けていく。
『好きな人が、いる』
 月明かりの下に一人の少女が在った。深夜色を纏う彼女は白い石畳の上に膝をつき、残された温みを求めるかの様に己が身に両手を巻きつかせる。ほう、と吐き出す息は蜜の如くに甘いのか、それとも荒涼たる野辺の渡り風なのか。
『うん、とても、抱き締めたい人。その人は私に永劫を、不変の真理を捧げてくれる。夢より確かで現より朧なものを、呉れるね』
 少女は蕩けた眼でそう、うっとりと口にすると、青白くか細い腕を高く掲げて天へ祈りの形を作る。
『私はその、恋しい人だけに視線を向けよう。声を紡ごう、鼓動を刻もう。あの人は私を離さない、私もあの人を放さない。世界は二人で円環を閉じる、この世で一番完成された美しい形。影の様で互いに寄り添う、生涯四肢を絡ませ合ったままでいられる。────そうだね、あの人はだって私に、久遠を呉れる』
 明かりはやがて雲に隠された。降り注ぐ闇の下には男が一人立っていて、幾重もの鈍色の腕輪をだらり、まるで手錠の気だるい重さ。獄に繋がれた囚人の井出達で、男は少女の前に進み出た。
『なあおまえ、俺じゃあ駄目か。他の総てをおまえに捨てさせたおまえの愛人は、一体どんな神様なんだ。人が永遠を呉れるはずがない。俺は人、時間に縛られ大地に繋ぎとめられ、夢は夢としてしか語れない』
 少女は男を一顧だにしなかった。否、気付いてもいないのだろう。彼女の全身、その末端に至るまでのありとあらゆる“彼女”が求めているのは、彼女が想いを寄せる何かとてつもないものだけ。彼女は自身の恋心に身を委ね、耽溺し、さながら水に浮かんだオフィーリア。
 何も、誰も要らない。
 この恋以外は必要ない。
『なあおまえ、悟ってくれないか。おまえが恋するその人は、この世には在り得ないものだということを。終わりの無い夢なんて、それは一種の牢獄だ。おまえはそこで独りきり、おまえの恋しい人なんて何処にも、いない』
 少女は聞いていなかった。耳が一切を遮っていた。
 やがて彼女の上に再び月が、照らす姿に連なる影。夢に恋する孤独な少女は己が昏き漆黒を引きずって、傍らに置いてあった椅子へと深く、腰掛けた。


■第一幕 第三場 「職人」

 その職人を最も“職人”たらしめているのは、妥協を微塵も許さぬ誇り高き眼差し、であるのかもしれない。
 職人はここ数日、睡眠は愚か食事すらも満足に摂っていない状態だった。故意にではない、単純に、陽月の上り沈みと身体の正当な欲求を認識の埒外に放逐していただけだ。
 彼の作業への没頭の仕方は、まるで崖から身を投げ出すかの様。作品と言う荒波の中へと自ら飛び込み、完成というたった一点の極みのために心血を注ぎ込む。その真摯さは、彼が物作りの道を選んだ理由であり、また育ての親でもある祖父から、血と共に受け継いだものに違いなかった。
 職人が今手がけているのは、とある青年から発注された木製の椅子だ。取り立てて特徴のあるものでなくて良い、素直に、ただ、椅子としての役割を担うものを。客の要望を正確に汲んだ職人は頷き、相応しい木材を選定し、刃を研いだ道具を手に思い描く椅子を具現化させていった。木を打ち削る音が幾日も響き渡り、合間には職人の乱れぬ息遣い、他には余分な音ひとつしない彼の工房に。
 トントン、と。来客を告げるノック音に、職人ははたと、我に返った。
 来訪者は、椅子を注文した青年だった。職人は壁に掛かっていたカレンダーと、そこに打たれた赤丸に今更ながら悟る。今日が、納品日でしたね。
『それで、頼んでたものは……なんだ、しっかり出来てるんじゃねえか』
 木屑の中に直立するは、青年が欲した椅子そのものの姿。彼は満足そうに腕を組み、深く頷く。
『文句のつけようがねえよ。謝礼は弾むぜ、ありがとな』
 上機嫌で青年は椅子を受け取ろうと手を伸ばす。────しかし、それを阻むものがあった。職人が自らの背に椅子を庇ったのだ。
『待って、もらえませんか』
 どういうことだ。青年の眉間に不審の皺が寄る。
 職人は数度唇を開きかけ、てはまた閉じ。言い出しにくそうな逡巡を幾度か露にした後、きり、と眼差しを彼らしく正した。
『この椅子をお渡しするわけにはいきません、申し訳ありませんが』
『……そりゃあまた、面食らう話だな。俺は客として、何かあんたの気に障ったか?』
 いいえ。職人は強く否定に首を振る。非は貴方には無い、あるとすれば私の腕に。
『失敗作だとでも? だから売れないっていうのか? 俺の目には充分過ぎるほどの出来だと、映ってんだけど』
『いえ、この椅子の出来は、少なくとも貴方から頂いた注文に叶っていると、私も思います。……言い直しましょうか。貴方以上に、私の心に充足感を与えてくれる。与え、過ぎている』
 持って回った言い回しに、青年が米神を掻く。続きの説明を促された職人は、椅子の背もたれに手を置く。愛しそうに爪の先で、その木目を撫でた。
『人の生み出す物には作者、あるいは使用する者の想い……珠なる魂が宿る。ですからこの椅子に宿る事が出来る魂は、たったひとつ。職人は「完成された物」を決して造ってはならない。……けれど私は、「完璧に」作り上げてしまった』
 つまり? まるで曇天の夜空のような両目を青年は瞬いた。探る、というよりは抉る不躾な視線を職人は受け止め、紡ぐ。
『つまり、その椅子はもう他の誰にも「この世で一番の椅子」には成り得ないのです。完成された失敗作。私はこれを、職人の誇りにかけて売ることも譲ることも出来ない』
『厄介だな。その、プライド? 立場が、自身を不利な方向に押しやる。そしてその忍従を、むしろ尊いと思う。……そういうタイプ、俺は正直言うぜ。嫌いだ』
『何とでも。甘受しましょう』
 職人の掌がかけた重みが、きしり、椅子を軋ませる。
『私は職人ですから。だから、貴方にこの椅子は渡せない、これは、私のモノです』

「────ふふ、素晴らしいお話ですね」
「……それはどうも」

 静かな夜に乾いた拍手が響いて、舞台上の“職人”────烏丸織は客席を仰ぎ見た。月光の下でなお絹糸の如く滑らかな光を放つ銀髪、人が持ち得ない紫の、透明度が湖水よりも高い双眸。今夜初めて出逢った彼は、自らを人形だと名乗った。人形よりは人に近く、人に比すれば人形に近い。美しいと愛でられるために生まれてくる、否、人が生み出すのだというモノ。ヒトのカタをした、“ヒトガタ”。
「嵯峨野さん、でしたか」
 先刻の自己紹介の記憶を辿って呼べば、いいえ、彼は即座に否定した。
「ユキで結構です。気に入っている名前なので、是非こちらで。その理由、きっと貴方ならばわかってくださるはずなんですけれどね、ええと、烏丸さん?」
 傾いだ首の角度が余りにも美しすぎる、と烏丸は思った。日々紋様や図案を扱っているせいで、目にする形・色・線の具合やその手触りまで、全て自身の作品と結び付けて考えるこれは所謂職業病か。ともかくも、自身を深夜の舞台に招いた彼の容貌、それに一挙手一投足何もかもが、烏丸の目には“人”ではなく“カタチ”として映った。
 つまり、人の手に成る作品として。
「私は“職人”みたいなタイプ、大好きですよ。きっと私の主様も、そういうことを仰る方だったに違いありませんから」
「あるじさま?」
「ええ、私の製作者。簡単に言うならば、人形作りを生業とする……烏丸さんと同じですね、職人だったそうです。その方は私が完成すると同時に他界なさいました。しかし、魂はこの世に残るのだと遺言してくださった。だから私は主様の魂を探し、今もこうして、手掛かりかもしれないその椅子を、欲しているのですよ」
 うっとりと、彼の表情が蕩けているのは見間違いではなかろう。口に出すだけで幸福に満たされる、そんな自己完結の陶酔感に何と無く決まり悪くて烏丸は目を逸らす。どうやらあの人形は自身の作り手を相当慕っているらしい。作品は、斯くも作者に想いを寄せるものなのだろうか。
 ────逆に、彼が言うところの“主様”の気持ちならば、推し量れないこともない、けれども。
「ま、そっちのお喋りはそんなモンにして、さァ?」
 パチン、と男が指を鳴らすのに二人は視線を転じる。忘れんなよ、と苦笑する男にユキが慇懃(無礼)に謝罪して。
「その椅子、烏丸さんが奪取したと考えてもよろしいですか?」
 強請る口調に男はハッ、と鼻を鳴らした。
「作り手に愛されてしまったこの世で一番幸せな椅子。悪くない物語だ、いいぜ、この“話”では最早おまえのものだ。座るといい」
 男が恭しくその座を手で示す。
 烏丸はあの黒い影を思い出して逡巡をしはしたが、多少の興味も手伝って“この世で一番美しい”らしい椅子へと腰を下ろした。


■第一幕 第四場 「脚本家」

「舞台における役とは、何も、演者のみを言うのではありませんよね」
 疑問系ではなく確認の語尾でそう言ったのは、ユキの隣りに腰掛ける槻島綾だった。
 占めた居場所は観客席という名の傍観の園。何時の間に用意されたのか、二人の間でブリキの覆いのランプが小さな明かりを燃やしている。槻島は緑がかった瞳に玻璃を掛け、手元に広げたノートへと何かをさらさら書き連ねていた。
 頬杖をついたユキはその様を微笑で以って眺める。
「またお会いできて嬉しいですよ、槻島さん。お元気でしたか?」
「ええ、こちらこそお久しぶりですユキくん。そちらもお変わり無さそうで。……さて、本題ですけれど」
 脚本家役も可、ですか? つと顔を上げた槻島が、独り舞台に在る男へと投げ掛ける。椅子にかけたままの男は、器用に片眉だけを上げて見せた。
「作中作のような演出かな。皆が、今この時に在るロケーション総てが、役者であり、また効果であり大道具であり小道具であり。それがキミの求めた、同じ舞台に立つべき“役”ですよね? ならば僕は、僭越ながらシナリオを担当しましょう」
 男が椅子から立ち上がる。斜に構えて両手を組み、不躾な値踏みの視線で槻島を見定める。
 ハッ、と小さく笑ったのは、つまり満足したらしいのは、すぐのこと。
「役者は台本の通りに演じるべき、とは思います。一から十まで、演者が味わう喜びも苦しみも書き手ならば自在。そういう意味で脚本家は神にもなりましょう。この世という舞台を鳥瞰する大きな存在、弱き人が縋る“絶対”という強いもの。……けれども」
「けれども?」
 槻島は答えず、代わりにペンを置いてノートを閉じた。脱稿ですね? ユキがぱちぱちと手を叩くのに彼ははにかんで。
「上梓します。門外漢の文章ですけれどね」
 階段を下りて男にノートを──台本を手渡す。ご神託か、男の揶揄に槻島は始めは曖昧に、次にはきっぱりと、首を横に打ち振った。
「これは、この世という舞台に上がる役者……“人”が従うべき運命。しかし、賽を弄する神の予測を裏切り得るのもまた……生きている人間のみ、ですよ」
 言葉を生業とする男が紡ぐ祈りの込められた言葉。
 男が、ヒュウと口笛を吹いて囃した。

 静かな夜だった。
 風の囁きは何かに憚ってか潜められ、畏怖を抱かせる闇も、今は安らかに眠る命の守護者。さながら花弁を微睡みに揺蕩わせる温かな泉の如く、案ずることは何も無いと恐れに震える心を和ぎ、庇護の両翼で温みを護って。月光と、星の微かな瞬きで、夜は命の行く末を照らしていた。
 男がこの夜に閉じ込められてから、一体どれだけの時間が流れたのだろう。静寂が、独りであることを否応無しに教えている。誰も居ない、何処にも行けない。男はこの世界で独りきり、たった一つしかない椅子にただぼんやりと腰掛けていた。
 男は、自分が何者であるのかを忘れていた。何かを為そうとしてここに来たような気もする、しかしそれも記憶の彼方に埋没し今ではその発掘すら億劫だ。もしかしたら誰かを待っていたのかもしれない、そううっすらと思いついたこともあったけれど。その待ち人は一向に来る気配がないのだから、多分、自分は誰も待ってはいなかったのだろう。もし待っていたとしても、見捨てられ、たのだろう。
 そんな独りぼっちの男にも、たった一つだけ理解できていることがあった。
 この椅子。自分が座っているこの椅子が、この世で一番美しいものであることだ。
 何故かその事実だけは、空っぽに近い脳の中で異様なほど光を放ち、こびりつき、男から離れていこうとしないでいる。不思議なことだ、他の総てがどうでもいいのに、そのことだけは忘れないのだ。
 この椅子は、この世で一番、美しい。
『誰にとって?』
 不意に男は自問した。そして、声を発した自分に驚いた。
『誰にとって、美しいものなんだ?』
 問いは続き、やがて男は更に驚愕を深くすることになる。
 自分の前後左右に、存在を感じたのだ。
 ここは静かな夜の中心。自分以外誰もいない、未来永劫誰も訪れることのない時間と空間の忘れられた裂け目。それなのに今、確かに、ここに自分以外の誰かがいる。この世界という名の舞台の上に、自分と同じく役を負って上ってきたものが四人、いるのだ。
 男は、ゆっくりと深呼吸をした。そして久方ぶりに微笑んだ。
 そうかおまらみんな、俺のこの、美しい椅子が欲しいんだな。そうだ思い出した、否、覚えていた。俺のこの椅子ために、今までにもこうして、大勢の人間が集い、争い、俺を取り囲んだ。俺はその度に椅子を渡すまいとしがみついて、故に一層、この椅子は美しさを増した。その美しさが、俺をこんなにも孤独にしたんだ。
 男はぐるり首を巡らす。四人はそれぞれ、自分と同じ様に椅子に座っていた。皆、一人ずつで。
 独りで。
 ────男は、にやりと笑んだ。


〔 2.5 : sacrifice 〕

 おいおまえ。男がユキに呼びかけた。
「美しさって、何だと思う?」
 ユキは迷うことなく答えた。
「絶対の正しさ、愛情を寄せるべき存在、惹かれずにはおれない魅力。私が主様に抱く敬愛がそれ、かもしれません」
 男はそれを一笑に付す。
「幸せな奴だな。────いいか美しさってのは、犠牲の上に成り立つ価値のこと、だ」


【 03 : Shangri-la 】

「その椅子の座り心地はどうだ? あんたは今、この世で一番美しく、この世で一番孤独な場所にいるんだ」

■第二幕 第一場 「椅子」

 椅子に座ったしえるは、どうしてか片翼のことを思い出していた。今生で再会できた人のことではなく、遙か昔に別れた愛しい人のことを。
 そして烏丸は、両親の墓前に佇んだ時のような感慨に捕らわれていた。それも、懐かしさではなく痛みを伴って、幼き日に戻ったかのように。
「この椅子は、何?」
 訊いたのは紗耶だった。彼女は足元に視線を落とし、その影が蠢き始めていることを感じていた。自分だけではない、この舞台の上にある椅子総ての作る影が、初めに見せられたあれと同じ様に今胎動を開始している。
「……椅子もまた、世界ですね」
 槻島が言った。どういうことよと、問うしえるに彼は答える。
「座部が舞台、支える足は役者たち。造りが、似ていますよね」
 成る程。烏丸が相槌を打ち、そもそも、と話題を引き継いで。
「この世で一番美しい椅子とは何でしょうか。私たちは彼と同じ舞台に上ることを求められ、そしてそれぞれの役を演じた。しかし最も肝心なことを私たちは知らされていない。あの彼、ユキさんでしたか。彼が欲しがっている椅子とは、何ですか」
「それはあの子もね、解ってないと思うんだけど」
 振り払っても消えない翼の純白。纏わりつく残像をあえて意識の外に放り出し、しえるはヒールで影を踏みつける。
「解らないから定めようとして、捕まえることで確実な定義にしようとしている。知っているつもりでいて実感として会得出来ていることのほうが少ない、そんな子だもの。今回だって、解っているから欲しいってワケじゃないのよ」
「それじゃあ、貴女の考えを聞かせて」
 右手斜め前に掛ける紗耶がしえるを見ていた。実際には焦点を結んでいないのだろう虚ろな瞳、しかし静寂が具現化したかのその雰囲気はなまじ見つめられるよりも雄弁に、肌をちりりと刺してくる。
「そうね。大事なのは、“彼曰くの”美しさだということ。ペンダントの宝石と台座の関係、と言えば解るかしら。彼が座ることで、いえ彼にとって意味のある『居場所』なんじゃなくて?」
「生まれ出でた時より一人に一つ与えられるもの。そう、そういう意味では私の“椅子”に似ているね」
 膝の上に両手を置き背筋を伸ばす姿。他の三人が注視する。
「赤子の時は安らかな寝息を包み込み、成人すれば椅子にも、また眠るべき場所にもなり得る。そして老いた最後には、その素材は第三の足──杖と変わる。生涯において影身の様に寄り添う美しい“椅子”…… 揺り籠、もしくはカウチチェアの様なモノ」
「人の身体を、命を支える物ということですね。それは私の“椅子”にも通じる」
 会話、むしろ独白の円環は反時計回りに烏丸へと繋がれ、彼は心持ち背もたれに重みをかけながら暗い夜空へ言葉を紡いだ。
「椅子の使い方は様々ですが、総じれば身体や物を預けるためにある。それは命の依代か、器。生を支える台座であり、また花道を歩む脚なのではないかと思うのです。この世で一番の“椅子”は、我々の身体、魂、脚そのものでしょうか」
「身体と心。つまり椅子は魂の座、ですね」
 最後の一人、辿り着いた先の槻島はそこで一つ息を吐き出した。膝の上で手を組み直し、一堂を見渡したのは確認のためだ。もう皆が、足の下に意識を取られてしまっている。
 椅子に座った男を護るように伸び上がった、夜より深い影。光の中でしか生まれない、昏。
「情けないことですが、襲われたら僕には対抗手段がないのですよね。物騒なものとの対面は避けたいな」
「あら、私が纏めて面倒を見てあげても良くてよ? 尤も、何故こんなものが潜んでいるのかくらいは、知りたいトコロだけど」
「私たちが座っているせいなんでしょうか。だとしたら、勧められても断るべきだったかな」
 槻島、しえるに烏丸がそれぞれ爪先を影から浮かしている中、一人紗耶だけはひたりとその足裏を地に着けていた。変わらぬ直なる姿勢のままで、四人の円の中央──世界の中心に座り続ける男へと声をかけた。
「ねえ、これは何? 先刻から貴方、黙ったままでいるけれど」
 男は唇の端を吊り上げたまま、嫌らしい笑みを浮かべたまま答えない。紗耶は続ける。
「この世が大きな劇場と言うのなら、一番小さな劇場はそれぞれの夢。夢でなら何でも可能。全ては想像の中、思いのままになる舞台。貴方は、貴方の夢の中で、私たちに何をして欲しかったの?」
「……なあ、美しさってさ、何だと思う?」
「もう、質問を質問で返すのってフェアじゃないわね」
 割って入ったのはしえるだ。
「元々貴方の一人芝居なんでしょうけど、訊かれたことにはちゃんと答えなさいな。手の掛かる子ね」
 と、彼女の語尾に被せるようにして突如影が立体的に波打った。四人の膝までが一瞬にして黒に飲み込まれる。咄嗟に立とうと試みた者もいたが、身体から根が張ったようにびくとも動かず困惑を深くしたのみ。
 自然視線が中央の男に集まった。影の侵略は止まらない。しかし男は平然と言葉を接ぐ。
「美しさとは孤独、孤高であることで輝きを増す美がある。その椅子は一つきり、だから座る者は独りきり。あんたら勘違いしてるみたいだから正しとくけどさァ、その黒いのって、別に座ってる奴を護ってるわけじゃねえんだ」
 影が四人の総てを埋め、覆い尽くすのを、男は静かに眺めていた。
「────その座に在る者を、誰とも触れ合えなくするのさ」


■第二幕 第二場 「ひとり」

 寂しい、と初めて感じたのは何時だっただろうか。
 そもそも自分は、我が身を孤独だと切実に感じたことがあっただろうか。

「……さあ、考えたことがないんじゃないのかな、私は」

 俺、まだよく解んねんだよ。俺が居るこの夜が、現なのか、夢なのか。
 あんたの言う通りかもな。俺も、考えたことすらないのかもしんねえ。
 他の「誰か」を知らないから、「独り」の暗闇を恐ろしいとも寂しいとも感じねえんだよ。

「嘘。私の役に貴方は言ったね、終わりの無い夢は牢獄。貴方は知っているはずだよ、寂しいという、その冷たさを」

 ……かもな。そう、思った俺も確かにいたのかもしれねえけど……今はもう、覚えてねえんだ。俺は余りにもここに居過ぎて、ずっと独りだったから、寂しいなんて摩滅しちまった。そんなところにあの銀髪が現れて、この世で一番美しいものを探していると言った。俺は知らず答えた、じゃあこの椅子は、それだ。

「人は永遠を生きられない。限りある命に、この椅子は添うのかな。美しいとは人の言葉、貴方曰くの時間に縛られた人間のものだからこそ、美しいのかもしれないね」

 なああんた、もしここから────この独りきりの夜から帰れないとしたら、どうする?
 この椅子が美しく在り続けるためにはさ、「孤独」という犠牲が要るんだ。あんたは椅子に座った、椅子は孤独を欲する。
 あんた、犠牲になる気があるか?

「私は夢を行くだけ。孤独を知りもしない私を、この椅子は求めるの?」


〔 3.5 : soul 〕

「そんな馬鹿なことはありません」
 ユキの語気が何時に無く荒げられた。座ってはいるが、身を乗り出さんばかりの勢いだ。
「私の美しさが、主様の犠牲の上に成り立っているとでも言うのですか。あの方が在って初めて、私の意味は成り立つのです。犠牲など、その様な言い方は、許せませんよ」
 紫電の瞳が明らかに瞋恚の焔を孕んでいた。男はそれを見て、眩しそうに目を細める。
「おまえちょっとムカツクけど、間違ってはいねえよ」


【 04 : Solitaire 】

「この世は舞台。舞台に主役は独りきり。────人は皆、生きている限り独りだって……思ってたよ」

■第三幕 第一場 「独り遊び」

 椅子に座り、足を投げ出していた男は、ふと、違和感に面を上げた。
 ぐるりを山脈の様に取り囲む観客席の稜線が、ほのかに、黄金色に染まりだしている。こんなことは今まで一度も無かったと、何度も灰色の目を瞬いた。しかし光は徐々に広がっていき、この長い永い夜の──世界の終わりを告げていた。
「貴方の舞台が月影の照明と夜の帳の暗幕に彩られた夜ならば、こうして訪れた黎明は演目の幕引き、同時に一日の幕開け……といったところでしょうか」
 烏丸は観客席の中頃に腰掛け、舞台を見つめている。ゆらり、と夜の名残の影が揺れた──ように見えたのは、何故か最上段、ユキの傍らに佇む紗耶だった。
「夢に捕らわれた孤独な役、それは貴方のほうだったんだね。もう、夢は終わるよ。夜が醒める。貴方の独り遊びも、やっと終わるね」
 ひとりあそび。男は唇で反芻した。
 そうか、この気が遠くなるほどの孤独は、俺の独り遊びだったのか。この椅子に座ってしまったがために周りが遠ざかったと思ってたけど、椅子のせいで孤独になったと信じてたけど、そういうのも全部、俺自身のせい。椅子の美しさなんてどうでもいいと嘯きながら、それにしがみついて護ろうとしていたのは、他ならぬ俺、だったのか。
 呆と暁を眺めるのみの男を、しえるは上手側最前列で見上げる。
「けれども人生という舞台が終わるわけじゃないわ。“この世はただ一つの劇”って台詞は賛成だったの。人の生き様……否、人に非ずとも生涯は舞台でありそれぞれが主役、ではなくて? まだ貴方は生きている。あとは、貴方の好きな様に演じきりなさいな」
 俺の好きな様に? 男は戸惑い、膝の上、槻島から手渡された台本の、最後のページを開いた。そこにはこの舞台の結末が書かれているはずだった、が。
「……破られてんな」
「はい、わざと」
 客席の間を通る道の一つに、槻島は立ってた。
「『他の役が椅子を受け取る』という一文、書きはしましたが……捨てました。人の生きる道が劇ならば、シナリオなんか本当は要らないのです。予測できない方が面白いですし、誰かに決められた道を歩んで結末を迎えるのは、少し、悔しいじゃないですか」
「ナンだよ、イジワルだな。俺の好きにするしかねえのか」
「そうです。そして自由意志で美しいままの椅子を、私にお譲りください」
 初志貫徹の催促の矢を降らせるユキに、周囲はそれぞれ苦笑した。
「ねえ、ユキ。あの椅子は止めておきなさいな、そんな良いものでもなさそうよ」
「それは心外なお言葉を。嘉神さんはどちらの味方ですか」
「お姉サマはいつだって可愛い弟の味方よ。悪いことさえしなければ、ね」
 陽光がもう随分と上ってきていた。既にお互いの顔眼を凝らさずとも見える程の明るさ。夜が終わり、新たな朝が来たのだ。
「……時が経てば、引き離された傷とも向き合えますよ。受け止めて、次の一歩を踏み出せる」
 烏丸の述懐に、男は笑った。諦めた様な、安堵した様な、それでいて哀しい様な複雑な笑みだった。
 そして、水から身体を引き上げるかの緩慢さで彼は立ち上がり、椅子の背もたれをポン、と軽く叩いた。
「この椅子は人が創り上げたモノ。これを美しいものだと錯覚したのも、また、人。争いや孤独を生贄にして、勝手にこの世で一番美しいと持て囃した俺たち人間の業を、俺は、正しい誰かに譲ろう。繰り返す歴史の中で、いつかこの椅子を寂しい夢から解放してくれる誰かが、この椅子につくだろうと、信じて」
 カーテンコールの一礼をして、男はその頭垂れた格好のまま静かに掻き消えていった。
 後に残されたのはただひとつの椅子。座る主役が退場した今、ただの、何の変哲も無い、古ぼけた木の椅子でしかなかった。



 足音も無く去り行こうとする紗耶に、ユキは「どちらへ?」と首を傾いだ。
「また……次の夢に行くのだと思う。それが私だから」
「では、別れの形見にお名前を教えてください。まだ私、聞いていませんので」
 表情を揺らさぬまま、紗耶は一度遠くを見た。巫女の言葉が天より降った。
「……榊紗耶。夢の終わりに、貴方は深い悲しみに突き落とされるかもしれないね、ユキ」


 終幕


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1711/榊・紗耶(さかき・さや)/女性/16歳/夢見】
【2226/槻島・綾(つきしま・あや)/男性/27歳/エッセイスト】
【2617/嘉神・しえる(かがみ・しえる)/女性/22歳/外国語教室講師】
【6390/烏丸・織(からすま・しき)/男性/23歳/染織師】


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■         ライター通信          ■
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いつもお世話になっております方、そして今回初めましての方、皆々様こんにちは、辻内弥里です。
この度は当「異界」にご参加くださいましてまことに有難うございます。そして、この様に大幅に納品が遅れてしまいましてお詫びのしようも御座いません。本当に申し訳ありませんでした。
そうして皆様にご迷惑をおかけした結果、書き手としては、当初描きたかった雰囲気・世界観にかなり近づけたものになりました。今回のノベルが、少しでも皆様に楽しんでいただけましたら幸いです。
なお、「第二幕第二場」と「第三幕」のラストが個別部分になっております。他の方の文をお読みになられますと、違った側面が見えてくるかもしれません。

>榊紗耶様
初めまして。お兄様に引き続き紗耶さんにもお逢いすること叶いまして嬉しく思います。今回、紗耶さんの口調でちょっと悩みました。既納品物とプレイングをつき合わせた結果、プレイングの感じを重視しました。外れていないことを祈ります。
また、紗耶さんの持つ独特の雰囲気、神秘性、そういったものも上手く描けていたらな……と思います。
もし宜しければ、また当「異界」にまでお渡りになってくださいませ。

それでは今回はどうもありがとうございました。そしてすいませんでした。
またご縁いただけることを祈りつつ、失礼致します。

辻内弥里 拝