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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


<儚い恋>


 北東の上空から照り付ける太陽の光が紅消鼠のアスファルトの表面に反射し、その表面に薄い陽炎の膜を作り出していた。蓄積した熱は逃げ場を失い、滞留する熱気と共に足裏を焦がそうとする。電車を降りてから数分、日陰伝いに歩いてはいるものの、彼の額には軽く汗が浮かび始めていた。
 誰かが打ち水をしたのだろうアスファルトの表面には、濃く変色した歪な水の痕が滲んで広がっていた。足元を吹き抜ける風は冷たさを含み、熱った肌に心地良さを与えてくれる。
 足を止めて頭上を仰ぐと、ミニチュアサイズの飛行機が空の中央に白い痕を残しながら飛行する姿が見えた。素色掛かった空は雨期を忘れた様に晴れ渡り、雨の匂いはおろか雨雲の形すら見付ける事は出来ない。用心にと傘を持ってきたものの、無用の長物になるだろう気配が漂っていた。
 一瞬だけ強く吹いた風に、何処かの軒下に吊るされている風鈴が透明な音を奏でた。音が聞こえた方向へと視線を向けると、そこは紺青の暖簾が下げられた日本家屋の軒下だった。透明な風鈴から吊り下げられた青藤色の短冊が、風に煽られながら小さく揺れている。その姿は、一足早い夏の訪れを彼に告げている様に見えた。


<儚い恋>
 優しさというものは、生まれたばかりの花に似ている


「あらぁ、おはようさん。えらい早いんやねぇ。旅行で来はったん?」
 不意に聞き慣れないイントネーションで声を掛けられた事に、榊遠夜は反射的に肩を張らせながら振り向いた。水浅葱の着物に身を包んだ四十代程の女性が、彼に向けて人の良さそうな笑み浮かべている。少し変わった所といえば、袖から伸びた白い手に竹で作られた桶と柄杓が握られている事だろう。遠夜は反射的に社交辞令としての笑みを作る事が出来ず、ぎこちなく表情を動かし「えぇ」とだけ答えた。
「朝から散歩するのは気持ち良いでしょ。こっから暑ぅなって来るから、ゆっくり外も歩いてられへんのよ」
 女性はそう言うと笑い、手にしていた柄杓で桶の中の水を掬うと、それをアスファルトに向けて撒いた。水が四散する音と共に、辺りに漂っていた大気が冷まされていくのが解る。細い路地に撒かれていた打ち水は彼女が行ったものだというのを悟ると、人のさり気無い優しさに心地良さを覚えた。
「折角来はってんから、ゆっくりしてってよ。……そうそう、丁度良かったわ! 今、ちょっと行った先の天神さんの前で、週末の朝顔市やってるんよ。うちの主人も屋台出してるから、良かったら見てったって」
 思い掛けない相手の言葉に驚きながらも、遠夜は小さく会釈をして女性の姿が暖簾の奥に消えるのを視線で追った。戸惑った様子と共に辺りを見渡すと、路地の奥からざわめきの様なものが聞こえる事に気付く。時刻は午前九時を少し回った所だが、先方との約束にはまだ少し時間の余裕がある。彼は暫く其方を伺っていたが、何かに誘われる様に路地の奥へと足を向けた。
 視界を遮る建物の姿が途切れると共に、靴底に当たる地面がコンクリートから石畳に変わった。大きく開けた路地の先には、数え切れない程の人が手に鉢を抱えながら犇めく様に行き交っている。道の両端を埋める様に屋根の無い小さな露天が並び、店先には売り物だろう植物の鉢が置かれている。人々はそれを眺めたり品定めをしたりしながら、店主や馴染みの相手と談笑を交わしていた。暫く様子を伺った後、彼はその場所が朝顔市の会場である事に気付いた。
 人波を擦り抜けながら、流れに逆らう様にして店先を覗く。蕾を膨らませた幾つもの朝顔が、萌葱色の葉に水を受けながら風に撓り共に光を乱反射させている。花弁が開き、白から紫、そして赤へと移り変わる涼しげなグラデーションの花が行き交う人々の目を楽しませている。その静かで可憐な朝顔の姿に、遠夜は無意識のうちに頬を綻ばせていた。
「よぉ兄ちゃんいらっしゃい。一つどうや? 庭でもベランダでも、好きな所に置いたってや。観察もし放題やで」
 行き交う中年の男女や、若者のグループに向けて掛けられる男性店主の文句に、遠夜は思わず笑みを浮かべた。鉢に掛けられている値札に目をやると、どれも花屋で扱われているものから何割も安い値が付けられている。彼は鉢の中の一つを手にすると、伸びた蔦の先に開く花弁へと視線を向けた。藤納戸の柔らかな花弁が、中心から外に向けて薔薇の花弁を思わせる姿で開いている。一見すると、朝顔というイメージからはイコールしないその姿に、遠夜の視線は奪われた。
 不意に、一人の少女の姿が漠然とした記憶の中から鮮明な形となって現れた。気が付くと遠夜の隣で笑っていた花の様な少女、小石川雨。彼女の前向きな言葉と仕草は、虚無的な遠夜の意識に染みる様に触れた。当たり前にある日常を、当たり前に生きる。それは、遠夜が忘れてしまっていた"生きる"という事の意味を教えてくれている様にも感じられた。
 以前、遠夜は雨に向けて一度だけ「どうしてそんな風に生きているの?」と尋ねた事があった。彼自身、それが要領を得ない質問である事は解っていたが、彼女が返すであろう言葉の意味を知りたいと思ったのが本心だった。雨は驚いた様子で目を丸くすると、笑いながら「だって、それが私の生き方だから」と答えた。遠夜はその答えに、彼女の持つ意思の強さの断片を垣間見た気がした。
「……あの、すみません」
 鉢を手にしたまま、遠夜は冷やかしの客を冷やかそうとしていた店主に声を掛けた。「幾らですか?」と問い掛ける彼の言葉に、店主は値札に書かれていた値段から数百円程安い値段を提示した。驚いた表情をした遠夜の様子を面白そうに見ながら、店主は白いビニールの袋を摘むと鉢を袋の中へと入れる。
「日当たりのえぇ所に置いて、朝と夕方に水をがっつりあげたら充分やで。後は勝手に伸びよるから、つっかえ棒して蔓を絡ませたったらえぇわ。余裕あったら花屋に行って肥料買って来てやり。解らんかったらおっちゃん所来たらえぇわ。色々教えたるで」
「ありがとうございます」
 遠夜は財布から取り出したお金を店主の手の上に渡しながら、説明とは言い難い相手の言葉に小さく笑みを浮かべた。鉢の入ったビニール袋と共に、端数になった釣銭を受け取る。「まいどありー!」という威勢の良い店主の声に送られながら、遠夜は露天を後にした。
 朝顔の鉢の入った袋を手に、人の流れに従う様にして歩いて行く。時刻は十時を過ぎ、先程よりも高くなった日が大気の温度をさらに上昇させていく。膨れ上がったエネルギィは人々の喧騒に混じり、更なる活気と暑さを生み出そうとしている。遠夜は腕の中で揺れる朝顔の姿を見下ろしながら、その花の受取人となる少女の姿を思い描いていた。

 目まぐるしい朝のラッシュが過ぎ、客の流れが穏やかになった頃、小石川雨は漸く落ち着いて呼吸をする事が出来た。彼女がバイトをしているパン屋は小さいながらも地元では評判のある店で、特に朝から昼に掛けてに焼きあがるメロンパンは予約をしてでも買いたいと噂される程の盛況ぶりだった。バイト暦は浅いものの、その手際と人当たりの良さから店長に頼み込まれ、その日も朝から戦場とも言える時間のレジを一人で捌き終えた所だった。
 昼過ぎのラッシュに備え、雨は店長よりも先に昼休憩に入った。狭い休憩室の椅子に座り、大きな溜息を零しながら、冷蔵庫の中から取り出したペットボトルのミルクティに口を付ける。朝の慌しい時間に煮出したミルクティには苦味が残り、少し舌触りが悪かった。
 携帯を開くと、彼女はディスプレイに不在着信を告げるアイコンが光っている事に気付いた。履歴を開くと共に、ディスプレイは留守番電話の画面に遷移する。そこに表示されていた名前は、雨の最も親しい友人のものだった。
 彼女の表情が一瞬にして笑顔へと変わる。慣れた手つきでボタンを操作すると、彼女は残されていたメッセージを再生した。
『……もしもし、榊です。バイト中にすみません。今朝京都から戻りました。僕は元気にしています。……あの、突然なんですが、バイトが終わってから少し会えませんか? 駄目でも構わないんで。……それじゃ』
 メッセージが終わると共に、彼女は慌てた様子でボタンを操作して遠夜の携帯へとコールバックした。五回目のコール音の後に留守を知らせるメッセージが自動で流れ始める。雨はその間に深呼吸をすると、録音開始を知らせる電子音と共に口を開いた。
「もしもし榊くん、雨です。お仕事お疲れ様でした。お帰りなさい。メッセージ嬉しかったです。えっと、今日の仕事は三時までなのでそれが終わったら大丈夫です。終わったらまた連絡します。それじゃ」
 ボタンを操作して通話を終えると、雨は緊張の糸が切れた様にテーブルの上に携帯を置いた。長い溜息を零して壁に掛けてある時計へと視線を向ける。時間としては三分程しか経過していないが、彼女にとっては長過ぎる三分に感じられた。
 アイコンが消えたディスプレイを見詰めながら、雨は無意識のうちに緊張してしまっていた自分が居る事に気づいた。恐らく、ぎこちない声をしていた遠夜のメッセージに感化されてしまったのだろう。彼女は再度ペットボトルへと手を伸ばすと、ミルクティを喉の奥へと流し込んだ。喉が渇いてしまっていたのか、それは先程の一口目よりも美味しく感じられた。
 昼休憩を終えた後の仕事は、いつもの仕事に比べると長く感じられた。無意識のうちに外の天気を気にしてしまい、客の見送りに店の外へと出る度に空の様子を伺ってしまう。素色の空には雨を呼びそうな雲の姿が幾つも見えたが、本格的に降り出す気配は見られない。その度に雨は、安堵した様にこっそりと胸を撫で下ろしていた。
「ご苦労様、小石川君。今日はもう上がって良いよ。お疲れ様」
「あっはいっ! お疲れ様でした店長! 明日もよろしくお願いします!」
「こちらこそ。雨が降るかもしれないから気をつけてね」
 時計の針が三時を少し過ぎた頃、雨は店長から仕事の終わりを告げられた。挨拶を交わし手際良く身の回りを片付けると、布製のバッグと傘を手に店のドアを開ける。日差しは雲に遮られてはいるものの、熱と湿気の混じった大気が薄着の肌に纏わり付き不快さは増していく。表通り横切り自転車を留めている店の裏へと回った時には、こめかみ辺りに軽い汗が浮かんでいた。
 自転車のロックを外してハンドルを握ると、雨は空いた方の手でバッグから携帯を取り出し遠夜の番号をコールした。五度目のコール音の後に留守を知らせるメッセージが再度流れ始める。雨は不思議そうに首を傾げると、自転車を日陰になる場所へと押していき、そこでもう一度遠夜の携帯番号をコールした。
 その頃遠夜は、駅前近くにあるフラワーショップに立ち寄り、店先に並べられた瑞しい花達を眺めていた。腕の中に大事に抱えた朝顔の花は、購入した時に比べ蕾の大きさが増して
いる。声を掛けて来た店員に不器用な愛想笑いを浮かべながら、彼は時間が過ぎて行くのを待っていた。
 暫くしてポケットに入れていた携帯が着信を告げている事に気付くと、彼は慌てて店の前を後にした。ポケットの中から携帯を取り出し、片手で開いて通話ボタンを押そうとしたが、寸での所でコールが切れてしまった。駅前広場の前で足を止めると、遠夜は急いだ様子で雨の携帯へとコールバックした。
「もしもし、榊です。さっきはすみません」
「もしもし榊くん? 雨です。良かったー……。留電に繋がったから、連絡出来ないかと思ってびっくりしちゃった」
 二度目のコール音の途中で電話が繋がり、遠夜は雨に向けて謝罪の言葉を告げた。彼女の声は僅かに驚いた様子だったが、いつもと変わらない明るい声音で言葉を返した。
「本当にすみません。僕が電話に出るのが遅かったから……」
「ううん大丈夫、気にしないでね。と、そうそう。今バイトが終わった所なんだ。これから会おっか? 榊くんは今どこにいるの?」
「今終わったんだ? お疲れ様。僕は今駅前にいるよ。ここから合流するとなると……そうだね、前に行った公園なんてどうだろう?」
「あっ、あの場所だと、うちのお店からも駅からも近いね。了解っ。それじゃ、噴水の前で待ってるね。遅れた方がジュースを奢られるって事で。それじゃっ!」
「ちょっ、小石川さん!」
 待ち合わせの場所を決めたものの、雨からの一方的な約束と共に通話は切られてしまった。良くも悪くも彼女らしい会話の流れに、遠夜は置いていかれてしまった様に呆然としていた。携帯のディスプレイを暫く見詰めた後、約束をつけた理由を話す事が出来なかった事を思い出すが、今更コールバックをする事も出来ず、ただ短い溜息を吐き出す事しか出来なかった。
 電話を切った側の雨は携帯をバッグの中に仕舞うと、笑みを浮かべながら自転車のサドルに跨った。ペダルを踏み込み、加速を付けて自転車を発進させる。遅れて来た遠夜の困った様な表情を思い浮かべながら、彼女は公園へと続く煉瓦道へと走り出した。

 二人が待ち合わせの場所に選んだ公園は、レトロな佇まいの建物が集まる住宅街の一角にあった。死角となる柵や高い木々が周りに少ないその場所は、一般的な公園よりも広さがある事から、散歩やジョギング以外にも少人数のスポーツやレクリエーションの場所としても活用されていた。公園の中央には高さのある噴水が置かれ、昼時の休憩スペースや待ち合わせ場所等に利用されていた。
 朝顔の鉢を抱えた遠夜が噴水前に到着した時、案の定先に到着していた雨は、噴水の縁に腰を下ろし少なくなったミルクティのペットボトルに口を付けていた。彼女が座っている場所の近くには自転車が停められ、それが勝敗の理由を無言で告げていた。一方の遠夜は駅から公園までを走る事となり、スタートダッシュの出遅れを加算すると十分弱の遅れとなった。肩で息をする遠夜の姿を満足そうに見ながら、雨はペットボトルのキャップを締めて縁から立ち上がった。
「こんにちは榊くん。勝負は私の勝ちだね?」
「……こんにちは、小石川さん。自転車に乗ってるなんてずるいよ」
「ふふん、勝負に卑怯はつきものだよ。という訳で、負けた榊くんにはバツとしてこれを進呈しよう」
 冗談交じりの負け惜しみを呟く彼の姿に満足したのか、雨は呼吸を整える遠夜の視界の先にミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。遠夜はそれを苦笑いと共に受け取ると、キャップを空けて液体を喉の奥へと流し込んだ。咥内から乾いた喉へと冷たい液体が流れて行くのが解る。雨はそんな遠夜の姿を笑顔を向けたまま見詰めていた。
「小石川さん、今日は来てくれてありがとう。突然呼び出して本当にごめんね」
「そんな事ないよ? 榊くんに会えるのは嬉しいし、それに京都のお土産話も聞こうと思ってたから」
 気を利かせてくれる雨の言葉に、遠夜は内心安堵していた。個人的な理由から人を呼び出すという事を滅多に行わなかった彼にとって、彼女の言葉は何よりも安心する事の出来るものだった。そして彼女にとっては、自分に会いたいと言い出してくれる彼の言葉が何よりも嬉しいものだった。
「そういえば榊くん。その腕に持ってる花、どうしたの?」
「あっ、ごめん。……これは、小石川さんに渡そうと思って買って来た花なんだ。……何だと思う?」
 雨から向けられた言葉に、遠夜は慌てた様子で朝顔の鉢植えを彼女に渡した。驚いた表情の雨を伺いながら、遠夜は何時もと変わらない表情で言葉を返す。受け取った鉢を食い入る様に見詰めながら、雨は低い唸り声を洩らした。
「うーん……。何だろうこの花。葉っぱとか蔓は朝顔みたいだけど、花は朝顔じゃないもんね? ……新種のバラの一種とか?」
「半分外れで半分正解。それは車咲噴上牡丹って名前の朝顔だよ」
「これって朝顔なの?! こんな朝顔があったんだ?」
「僕も初めて見て驚いたよ。その花、小石川さんに受け取って欲しいんだ。少し過ぎたけれど、小石川さんの誕生日だったからプレゼントにって思って。誕生日プレゼントに朝顔の鉢を貰っても困るかもしれないけど……」
 遠夜の申し出に雨は一瞬目を丸くすると、彼の眸を食い入る様に見詰めた。遠夜の表情からは相変わらず大きな変化を見つける事は出来ない。だが、初めて言葉を交わした時に比べると、目には見る事の出来ない多くの喜怒哀楽を彼女の前に覗かせていた。雨はそんな遠夜のささやかな優しさに表情が綻んだ。
「そんな事ないよ! 夏っていえばやっぱり朝顔だから。それに、弟や妹も喜んでくれると思うんだ。『これで観察日記が付けられるよ!』って」
 雨の言葉を受け、遠夜は小さく声を上げて笑った。
「そういえば榊くん。ちゃんとご飯食べてる? 夏だから〜……って、食べる量とか減らしてない?」
 雨の核心とも言える言葉に、遠夜は一瞬表情を濁した。まるで自分の私生活を見抜かれているかの様な発言に、彼の口が一瞬重くなる。覗き込む雨の視線から逃れる様に笑みを浮かべると、遠夜は言葉を返した。
「大丈夫、ちゃんと食べてるよ。やっぱり、野菜ばかりになってるけど……」
「それじゃ駄目だよ! 野菜を食べるのは良いけど、榊くんは肉を食べなきゃ! お肉! 今度また特製のお弁当を作ってあげるから、ちゃんと肉分を取る様に!」
「肉分って、どんな日本語なの? ……でも、ありがとう。小石川さんのお陰で、少しずつだけど、食事に気持ちを向けられる様になって来たから」
 気合と共に告げた雨の様子に向け、遠夜は一瞬苦笑いを浮かべた。だが、彼の続けた言葉には不器用ながらも彼女に対する感謝の思いが込められていた。遠夜は雨に向けて右手を差し出すと、彼女の真っ直ぐな緋色の眸を見詰めた。
「あっ、えっ? どっ、どうしたの?!」
 遠夜の告げた言葉と向けられた眸に魅入られていた雨は、相手が差し出した掌の意味を理解する事が出来ず、慌てた様子で言葉を掛けた。同じ年齢であるにも関わらず、遠夜は時々雨が持つ彼のイメージを揺るがす程の大人びた表情を向ける時がある。雨自身が長女という事もあり、遠夜に対しても"世話を焼くお姉さん"という気持ちが抜けない時が多かった。だが、そうした遠夜の表情が垣間見える瞬間、彼は"弟"ではなく"同世代の男の子"として雨の目に映った。
「ここは暑いしカフェで話をしない。夕食の時間まではまだ少し時間もあるから」
「……また甘いものを食べるんでしょ? それじゃ肉にならないんだよ?」
 遠夜の掌に軽く手を添えると、雨は遠夜に向けて微笑み掛けた。
 南西の上空に昇った太陽は、薄い雲の陰に姿を隠しながらも初夏の日差しを二人の頭上へと降り注いでいる。雨の腕に抱かれた朝顔の花弁が、穏やかに戦ぐ風を受けて柔らかに揺れている。遠くの木陰からは小さな子供達の笑い声が聞こえている。噴水から舞い上がる冷たい水飛沫が、小さな虹を浅縹の空へと描き出していた。


..........................Fin