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あれは、歌のようだった。
今日は、ランドセルが軽い。
背負ったまま空を飛べそうなほどに軽い。
けれども、鈴森鎮のランドセルの中には、いつだって教科書らしい教科書が入っていないのだ。菓子パンにビー玉、読みこまれすぎてぼろぼろのコミック数冊、ゲーム攻略本、落書きでいっぱいのノート数冊。たまに生き物が入っていることもある。
ランドセルを背負って、ばくばくぼくぼくと音を立てながら走る少年。その姿を見れば、東京の人々は、彼は平成生まれの元気な小学生だとしか思うまい。
彼が本当に学校に通っているかどうかは定かではなく、そもそも彼は、人間ではなかった。道ばたを駆ける鎮が、ひょひょいと時折軽やかにとんぼを切ったり、風を踏んだりしているところは、いつも「運良く」、誰も見ていないのだ。
彼が開発の手に負われるようにして森を去ってきた、妖怪であるとは、誰が知ろう。
彼の兄弟だけだろうか――。
ふと鎮の足が止まり、ランドセルが奏でる騒奏曲も止まった。
鎮の目に、河川敷に積まれた土と、削られている土手の光景が飛びこんでいた。土の山の上には、黄色の重機が乗っていて、唸りを上げていた。
「……」
鎮は口をへの字に曲げた。
空から、無言の風が降りてくる。夏の匂いを含んだ、やわらかな午後の風だった。
日本が平成の時代に入る、その何百年も前のことだった。
鈴森鎮が、名もない山の、秘められた森の中で生まれたのは。
その頃には、山の中にガソリンで動く重機などない。
そもそも人すら、森には入ってこなかった。
鬱蒼と茂る緑を侵そうとするものは、熊に喰われ、鬼に喰われ、神に隠されてしまうもの。たまたま草や気がまばらなけもの道を見つけて歩いたとしても、鎌鼬が風とともにやってきて、足なり手なりに切り傷を負わせられるのだ。
この頃の人は、妖怪だけではなく、山や森そのものを畏れていた。
その頃の、風の話だ。
きん、と風が止み、
ぞばっ、と若い鼬が草の間から頭を突き出した。
若い、と言うが、かなり若い鼬だろう。ほとんど子供と言って差し支えない。毛並みはつややかで、色濃かった。しかしこの鼬の不思議なところは、そのくりくりとした丸い瞳に、緑の輝きが宿っているところであった。さらには――
『そろそろだ!』
と、ものを言うところであった。
『てんぐのうらないじゃ、おれそろそろ、とべるんだ! 「そろそろ」ってことは、「きょう」とか「あした」とか、ちかいうちってことだ! だからおれ、きょうとべる! とべるぞ、むがーッ!』
独り言にしてはあまりに大声で、鼬のそばにいた虫たちが慌てて逃げていく。言葉を話す鼬は、走りだしていた。ざざうざざうと草をかきわけ、すととすととと地を踏みながら。
鼬は空を夢みていた。
空を飛ぶのだと意気込んでいる。
普通の鼬は、空など飛ばない、言葉も話さない、夢ある願いも抱かない。この鼬は、ただの鼬ではなかった。ぴょうとそよ風が吹いたとき、鼬はぅがあと気合一本、
風を踏んで、飛んでいた。
『ぁやッ!?』
いや、落ちた。
鼬の子は、へんな体勢で草むらに落ちた。どべっ、と顎を打ちつけていた。鞠のようにいったんその身体は跳ね、今度は尻から落ちた。
『けえッ、べっ、げふっ、いて、こふっ、いてえよ、うえええぇ……』
鼬の子はそこに倒れたまま、ひとしきりべそをかいていた。
真昼の太陽がそれを見下ろし、蝶と鳥が遠巻きで鼬の姿を見つめていた。かれらはこの鼬が、確かに、一度風を蹴って浮いたところを見たのである。
けれど、結局落ちていた。
べそべそとすすり泣きながら、鼬の子は起き上がり、ふらふら歩きだした。
飛んでやる、飛んでやると呟きながら。
もの言う鼬は、今度は木に登っていた。風は地にいるよりも強く、確かなものに感じられる。木々の枝葉が風を受け、音を立てて揺れている。
鼬は不思議な目を閉じて、その小さな鼻先で、風を嗅いでいた。
草、樹、山と森。夏の太陽、虫の声。
ああ。
風はなにもかもと、いっしょなのだ。いっしょになって騒いでいる。歌っていて、微笑んでいる。
『……とべたら、どんだけきもちいいかなあ!』
はあっ、と大きく息をついて、鼬の子は目を開けた。
まぶしい世界の中では、緑と土と風がひとつになっていた。隣の山や、白くかすむ空の終わりが見える。
高いところからなら、風を踏みやすいはず。鼬は、そう考えたか。
しばらく鼬は、目を細めて、風や空や緑を見つめていた。
『――どおぅりゃああああああぁぁーッ!!』
鳥も逃げ出す気合を発し、鼬の子は枝の上から飛んでいた。
気合はそのまま、断末魔の叫び声に変わっていった。
鼬の子は、飛ばずにそのまま落ちていた。
(鈴森さんちの鎮くん、木から落ちて足折ったんですって)
(あらまあ、くすくす)
(でもそろそろ飛べる歳でしょう)
(まだ早いんじゃないかしら)
(なあに、鼬は鼬でも鎌鼬じゃ、三日も寝ていれば治る治る)
(明日から嵐になるんでしょう? ゆっくり休めるわ)
(くすくす、練習は嵐のあとね)
森の声、物の怪の声、兄の言葉が小さな鼬の心を抉った。実に不名誉だった。噂は森中に広まりつつある。噂はそのうちねじ曲がり、「飛ぶ練習をしていたら落ちて足を折った」という真実から、「木の上で遊んでいたらうっかりすべって落ちて足を折った」というたいへん不名誉な話に変わるだろう。
夏の嵐が近づいてきていた。足も痛む。
それでも、鼬の子は、嵐が過ぎ去るまで待っていることなどできなかった。
『よおすうに――』
要するに、と言いたいようだった。
『おれたちはねんりきでとんでるんじゃなくて、かぜにのってとぶわけだろ。だったら、かぜつよいひのほうがとびやすいはずだよ。おれはてんぐのうらないしんじるぞ。おれはそろそろとべるんだ!』
ぶつぶつと呟きながら、兄の目を盗み、鼬は森を歩いていた。折れた足はほとんど治っていた。ただの鼬ではなかったから、たいへんな回復力だった。
嵐がすぐそこまでやってきている。
背の高い木はすでに、狂ったように枝葉を動かしていた。昼のはずの空は黒く暗く、雷という名の龍を放ちながら、ぐるぐると蠢いていた。
嵐のすばやさは、物の怪も呆気に取られるほどだ。鼬の子が、雷の渦巻く空の下、風を睨んでいるうちに――嵐はやってきた。
穏やかな日差し、その中を歌いながら渡る風。夏の緑。清涼とした匂い。
つい昨日まで見せていたものとはまったく違う顔を、空と風が見せつけている。地に息づくすべてのものに。
『おれ、とぶぞーッ!』
ごうごうと猛る風、ずどどうと降りしきる雨の中、鼬の子は叫んだ。小さな小さな声だった。風と、空に比べれば。
『とんでやるーッ! ぜったいぜったいとん――ぶわぁー!?』
もの言う鼬の子は、確かに飛んだ。
いや。
吹き飛ばされた、というべきだったか――。
くるくると風にもてあそばれながら、鼬の子は、声を聞いた。それは、歌をうたっているようでもあった。ごうう、びうう、と重なる音は、手を伸ばせば掴めそうなほど確かなものだ。
鼬の子は、目を開ける。涙は雨といっしょになった。恐ろしさのあまりに流れた涙ではなかった。ただまぶしくて、美しくて、大いなるものを見た気がしたのだ、自然と溢れ出てきた涙だった。
白い光の龍が、鼬の子の視界を照らした。踏むべき風が、はっきりしない闇の中に浮かび上がった。鼬は夢中でそれを踏んだ。蹴った。身体は風といっしょになった。彼は自分の体重が消え失せ、嵐が運ぶ緑と山の香りが、雨に打たれて美しく散らばっていくのを感じた。鼬の子はそのとき、なにもかもといっしょにいた。
彼は飛んでいた。
『とべた!』
壮大な歌の中で彼は叫んだ。
『とべたぞう!』
『ありがとう――ありがとう!』
あのとき、自分がどうして礼を言ったのか。
随分むかしのことになってしまった気がする。鎮は初めて飛んだ日のことを忘れてはいないが、なぜ自分が、なにに対して礼を言ったのか、忘れてしまった。まだわからないだけなのかもしれないが。
午後の風は、どこかの山の匂いを、ほんの少しだけ抱いている。鎮は背伸びをするように、目を閉じて、大きく風を吸いこんだ。目を開けば、時代の流れに呑まれて消えてしまった、いつかの緑の足跡が見える。
ぺしっ、と軽く風を蹴って跳んでから、鎮は開発が進む川に背を向けた。
風が川面を揺らし、どこからか運んできた緑の葉を浮かべた。
きっと、遊んでいるのだろう。
〈了〉
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