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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


湖はまどろむ




 音も無く。
 その湖は、ただ、静かにまどろんでいるだけなのだ。



「はいはいはいなっと。それ、どうや、なっかなかに見事なもんでっしゃろ」
 可愛らしくラッピング包装した額縁を眼前の客人に向けて差し伸べ、鰍はふわりと頬を緩めた。
 客人は鰍の手から額縁を受け取ると、満面に笑みを湛えて店を後にしていく。
「まいどおおきにー。また来たってやあー」
 通りを歩き去って行く客人の背中に向けて片手を振りながら、鰍はふと上に広がる蒼穹の色に目を向けた。
 ビル群が並ぶ東京を覆い隠さんばかりに両腕を広げ、どこまでも遠く広がっている曇りのない青。
 初夏の陽射しは既に夏のそれを呈している。暑いという表現よりは痛いといったような表現の方がしっくりと来るだろう、強い光が降り注ぐ。
 客人を送り出した片手をそのまま顔の上へと移し、鰍は眩しげに目を細ませた。
「えー天気やなあ」
 ぼうやりとごちながら大きな伸びを一つ。と、馴染みのある声が鰍の名前を呼び止めた。
「仕事中にすまんな、鰍」
 鈴の音を思わせるような快活な少女の声音。
「ああ、可南子さん」
 返し、肩越しに振り向く。
 声の主は日本人形に似た見目をもった少女(本人曰く、性別の違いは無いのだという話だ)と、その後ろに立つ華奢な体躯をもった女性だった。
「ええよ、そなに忙しいわけでもないしな」
 手をひらひらと上下させながら、鰍は店のドアを押し開けて「どうぞ」と二人を招き入れた。
「今日も暑いしな。待っとけ、今、冷たいもんでも持ってくるからな」
 

 あらゆる画材が、一見雑多に置かれているようにも見えなくもない並べ方をされている。が、それはよくよくと見てみれば、きちんとした分類が為され、客にとっては非常に都合の良い並べられ方なのだと知れるのだ。
 法条風槻は鰍により通された画材屋の中を一望し、感心を込めた息を一つ吐いて頷いた。
「感じの良い画材屋ですね」
 感心を短い言葉と変えて紡ぐ風槻に、鰍は「ありがとさん」とだけ返して麦茶を伸べた。
「あんたの事は可南子さんから聞いてまっせ。何回かお会いした事がありますなあ、『D』さん」
 穏やかに――しかしどこか意味ありげとも取れるような笑みを浮かべ、鰍は緑色の眼差しで真っ直ぐに風槻を見捉える。
 対する風槻は鰍の言葉に視線を持ち上げて、やはりこちらも緑色の眼差しをもって鰍を見据える。
「あたしもあんたの名前は聞いてます。『クリア』の正体が、まさか画材屋だったなんてね」
「いやぁ、正体だとか、んな堅っ苦しい言葉は使わんときましょうよ。ねえ、可南子さん」
 にこにこと頬を緩め、鰍は視線だけを横手へと向けた。
 視線の先では、二人の仲介を担う事となった可南子が苦虫を潰したような面持ちを浮かべており、ほんの僅かに肩を竦めていた。


 ある画家が所有していた一枚の画が、今は何故か新しく建てられたばかりの美術館内に展示されている。
 画家が、古い友人から譲り受けたのだというその画は、モネの画を彷彿とさせるような、光に満ちた美しい湖の全景を描いたものだった。
 ――あの画は私の父が所有していたもの。あれが何故あの美術館に展示されてあるのかを知りたい
 ”情報屋”としての鰍に依頼してきたのは、画家の娘を名乗る女だった。
 ――父に訊ねても、父は曖昧な返事しか返してくれないから
 そう続けて眉を顰めた女の依頼を、鰍は(美術品が絡む依頼という事もあり)二つ返事で引き受けた。
 一方、風槻は。

「あたしは美術館側からの依頼を受けたの」
 華奢な白い指で髪を撫でつけながら、風槻は鰍の目を真っ直ぐに捉えてそう告げる。
「まあ、公式な依頼っていうわけでもないんだけどね」
「……公式な依頼でない?」
 訊ね返した鰍に頷きをもって返し、風槻はちらりと可南子を見遣った。
「”自分らも知らない内に新しい画が一枚増えていた”。搬入される予定も何も無く、ある朝出勤してみれば、しかもあのように目立つ場所で飾られていたのでは、これは果たしてどうしたものかと訝しむのも無理からぬ話だろう」
「なるほど。……奇しくも、調べる必要のある対象が同じ画だったっちゅう事ですな」
「そういう事。――それで、もう調査の方は進んだの?」
「残念ながら、まるきりですわ。どうでっしゃろ。いっぺん美術館に行ってみまへんか?」
「――?」
「じかに目ぇにしてみれば、もしかしたらなんぞ判る事もあるかもしれまへんやろ。百聞は一見に如かずってやつですわ」
 穏やかに微笑む鰍に、風槻はしばしの躊躇の後に頷いた。
「確かにそうだね。じゃ、行ってみようか」



 都心近くにあるとは思い難い程の静寂に包まれて、その美術館は建っていた。
 どちらかといえば人の温もりといったものの薄い印象の漂う、デザインを強く意識して設計されたような外観をもった美術館の中に踏み入って行く。
 新しく建てられたばかりの建築物に特有の空気が充ち、さわりと耳を撫でていく程度に抑えられた音量のジャズ音楽が流れている。
 客の姿はまばらだ。
「そういや、今日って平日ですもんねえ」
 鰍が囁き声で告げる。
 風槻は黙したまま、視線だけで応えた。
「――あの画がそうでっしゃろか」
 続けて述べた鰍の横で、風槻は、壁に掛けられた一枚の画に視線を寄せる。
 さほど大きなキャンパスを用いているというわけでもない。が、そこには、確かに、見る者の視線を釘付けにしてしまうような空気が描かれている。
 ひっそりと静まり返った森の中に広がる、空の青をそのまま映しとったかのような、深い青の湖面。
 色とりどりの花々が周りを囲み、豊かな緑が森を埋め、恐らくは、とても涼やかな風がその面を撫でて吹いているのであろう――何とも、見ているだけでも随分と心地良い気持ちになってくるのだ。
「……綺麗」
 画に描かれた森の色によく似た双眸を緩め、風槻は僅かに息を呑む。
 鰍もまた風槻と同じく、しばしの間そうして画の中の風景に心を呑まれていたのだが、ふと、背後に何者かの気配を覚えて振り向いた。
「美しい風景でしょう」
 そう声を掛けて来たのは、美術館のオーナーだった。
 白髪混じりの頭髪に、仕立ての良いスーツ。ネクタイこそ締めていないが、その面立ちから、オーナーの品の良さが必然的に知れる。
「これはどこの風景で?」
 丁寧な会釈の後に、鰍はオーナーに訊ねた。風槻が微かに鰍を睨みやったが、鰍は構わずにオーナーとの会話を続ける。
「私も知らんのですよ」
 深みのある眼差しを細め、オーナーは眩しげに画を見つめる。
「タイトルも知りませんし、正直なところ、作者の名前もあまり高名というわけでもない。でも、美術品というものはブランドで愛でるものではないと、私などは考えています」
「ああ、わかりますよ」
 頷いた鰍に、オーナーの視線がにこりと緩んだ。
「この画の作者は、もう結構な齢でしてね。もう、死期というものも感じているのかもしれませんが、だからでしょうか。どうしても逢いたい方がいるのだと仰られるのですよ」
「……逢いたい人?」
 風槻の目がオーナーの顔を見上げる。
 オーナーは困ったように微笑むと、その目をゆっくりと風槻へと向けた。
「若い時分に、約束を交わした恋人がいらっしゃるのだそうです。その方にお逢いして、どうしても伝えたい言葉があるのだそうです」
「だったら興信所でも何でもあるやろうが」
 鰍が目をしばたかせ、風槻が同意を示してみせる。が、オーナーはふるふるとかぶりを振って小さな笑みを浮べた。
「その方は、もう何年も前にお亡くなりになっているのですよ」
「……え?」
 はたと表情をとめた風槻を横目に、オーナーは再び画の中の風景へと目を向ける。
「作者も、その事はもうご存知なのですよ。――が、それでも、どうしてももう一度逢いたいのだと、そう仰られるのです」
「……ちょっと待ってや。……すんません、ぶっちゃけ自分らはこの画の調査を依頼された者なんですわ。この画は、本来なら自分の父親が所有していたもんやったと主張する方がいましてな」
「ああ、なるほど、そうでしたか。彼の娘さんの依頼で」
 オーナーは静かに微笑んで首を傾けた。
「そう、この画は当館が所有しているものではありません。が、この作者の願いを叶えたいと思う心を同じくし、私達は敢えてこちらに飾る事にしたのです」
「敢えて?」
「そう、――もしかしたら、そのお相手の方がこの美術館に足を寄せてくださるかもしれない。顔も名前も変わった姿でね」
「けど、そんなのは何億分の一の、いいや、それよりももっと小さい可能性に過ぎんやろが」
「小さな可能性だとしても、それが全くのゼロでない限り、賭けてみる価値はあるでしょう?」
 鰍の言葉に、オーナーは小さな笑みを滲ませた。


「……恋人の生まれ変わりを探すための展示、か」
 
 オーナーと別れ、二人はひっそりと静まり返っている美術館の中を一通り巡った後に、ロビーの方へと足を向けた。
 ふむと思案している風槻の横では、鰍が銀色の髪をかきあげて何事かを考えている。
「けど、見つかりますやろか」
 静かに開いた自動ドアの向こうから、妊婦と思しき女性と男性の二人連れが姿を見せた。
「見つかるといいな」
 ちらりと視線を持ち上げて、すれ違う若い夫婦に目を向けながら、風槻は僅かに笑みを滲ませた。
「……まあ、ロマンではありますわな」
 同じように夫婦を見遣り、鰍が小さな欠伸を一つ吐く。



 画の中でまどろんでいた湖が、人知れず小さな飛沫をあげた。

「ねえ、あなた。今、この子が動いたの」
 膨らんだ腹を両手で抱え、女性が夫の顔を嬉しそうに見上げる。
 
 


 ―― 了 ――