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死化粧師
「ご遺体が消えるんです…」
草間興信所に相談に来たダークスーツの男は、草間武彦を目の前にしていきなりこう言いだした。武彦は煙草を持ちながら、困ったように相手を見る。
「消える…って、それは警察の管轄でしょう」
「いえ、消えた後戻ってくるのです」
男の話はこうだった。
半月ほど前から、病院などに遺体を引き取りに行くと不思議なことに遺体が消えるのだという。まさか遺体がないまま通夜や葬儀は出来ないし、勝手に遺体を焼却なども出来ないので探すのだが、そうしているうちにひょっこりと遺体が戻ってくるらしい。
それも、しっかりと死化粧…エンバーミングをした姿で…。
どんな病気で亡くなっていても、怪我をしていても体の損傷部分を修復し、生前の姿に極めて近い形で戻ってきた遺体を見て遺族達は大層感謝し、いいお別れが出来たと言うのだそうだ。
「感謝されるならいいじゃないか」
煙草の煙を吐き出しながら武彦が言う。だが、男は首を横に振った。
「いえ、感謝されるべきはその死化粧をした方であり、私達は何もしていません。それに私はその者の真意が知りたいのです」
「真意…とは?」
一瞬の沈黙。
その後男は顔を上げ、しっかりと武彦の顔を見てこう言った。
「その何者かが好意で遺体を修復しているのか、それともたちの悪い悪戯であるのか…それにより、死者の尊厳が守られているのかを問わなければなりません。お願いします。死化粧師を見つけてください…」
「念のために聞いておきますけれど、死体に施されているのは純粋なエンバーミングだけなんですよね?その後、死体が生き返ったとか、火葬しても燃えなかったとか、いつもの草間さんらしい怪奇現象は起きていないんですよね?」
丁度興信所に来ていた秋月 律花(あきづき・りつか)は、その話に念を押すように男に聞いた。律花の言葉に武彦は麦茶を飲みながら溜息をつく。
「おい、いつもの俺って…」
「い、いえ、そう言うつもりじゃないんですけど」
おずおずと口に手をやる律花を見て、シュライン・エマは武彦をなだめながら麦茶のお代わりを入れる。そのやりとりに少し緊張がほぐれたのか、男は今まで手を付けていなかった麦茶のグラスに手を伸ばした。そして眼鏡を一度外す。
「ええ、エンバーミングだけです。死体損壊どころか、事故の傷跡さえも修復して戻ってくる…だから余計に真意が知りたいのです」
そう言い深く溜息をついた男を見て、シュラインは思わずこう呟く。
「遺族の了承も無くは問題だけれど、せめて善意であって欲しいわね。武彦さん」
「そうだな。この仕事引き受けますよ」
武彦はそう言いながら煙草に手を伸ばす。正直仕事を選んでいられるような状態ではないのだ。怪奇探偵と呼ばれるのは本意ではないが、自分を頼ってきたのだからそれを断る理由はない。
「では、よろしくお願いします」
料金や調査日数の相談をし男が帰っていくと、応接セット奥のパーテーションにいた者達が、衝立からそっと顔を出した。ジェームズ・ブラックマンは、陸玖 翠(りく・みどり)や劉 月璃(らう・ゆえりー)と共に、先ほど男が言っていた事について話し合っている。
「霊安室だけでなく搬出中にも消えてしまう、というのは気になりますね」
ジェームズの言葉に翠や月璃が頷く。
「エンバーミングなんて、それなりの技術と知識が無いと出来ませんよね。日本では、まだそれほどメジャーではないし、エンバーマーの人数も限られていると思うんですよ…」
月璃はそう言うと、興信所のパソコンから検索サイトを開き『エンバーミング』という言葉を入れ、ボタンを押す。
エンバーミング: 欧米では遺体を消毒、保存処理を施し、また、必要に応じて修復し、長期保存を可能にしようとする技法とされている。日本語では「遺体衛生保全」と翻訳されている。また、現在でも土葬の風習が多い欧米では、遺体からの感染症まん延を防止するという目的も含まれている。
「不思議な事もあるもんですねぇ」
デュナス・ベルファーは武彦に借りていた資料を返却に来たところでその話を聞き、相談が全て終わるまでパーテーションの裏でじっと待っていた。そしてまだソファに座ったままの武彦を尻目にこんな事を言う。
「エンバーミングは特殊な技術ですから、それを行える人をあたっていけば『死化粧師』にたどり着けるかも知れませんね。もしくは誰かが死体のふりをして、それを持ち出させるのも良いかもしれません。じゃ!」
そう言ってデュナスが爽やかに帰ろうとしたときだった。
ソファからすくっと武彦が立ち上がり、デュナスの襟首を掴む。
「まさか、手伝わないって事はないよな?同じ探偵のよしみで、乗りかかった船から逃げ出そうって事はないよな?」
デュナスはこう見えても武彦の同業者だ。時々草間興信所だけでは扱えない仕事を回したりもしているのだが、何というかこの爽やかな脳天気さが時々忌々しい。背中から感じる殺気に、デュナスは振り返らずにこくこくと頷く。
「…ぜ、是非手伝わせてください先輩っ!」
「それでいい。俺は『普通』の人間だから、今回はお前等に回すぞ」
武彦は『普通』という言葉を強調しながら、衝立の所に立っていたジェームズや翠、月璃にも声を掛ける。
「私は別に構いませんよ」
翠がそう言うと、シュラインの横にいた律花も自分から手を挙げる。
「私も普通ですがお手伝いさせていただきます」
被害らしい被害が出ていないので、律花は死化粧師を捕らえることよりもその目的に興味があった。一体何が目的で遺体に死化粧をしてわざわざ返してくるのか…律花はそれが知りたい。
「悪いけどシュラインがリーダーになってくれないか?俺も抱えてる仕事が多くて全部に手が回らないんだ」
「分かったわ、武彦さん。じゃあ、奥のスペース借りるわね」
興信所奥の仮眠スペースを借り、シュライン達は今後の対策について話し合う事にした。
何が目的なのか、それが果たして人間なのか否かが分からないまま動くのは危険すぎる。それに今まで害がなかっただけであって、これから何かがあるとも限らない。
「依頼者が懸念するように好意か悪意か見極めないといけません。死の別れは、人にとって大事なことなのでしょう?」
ジェームズがそう言い、汗をかいた麦茶のグラスを見た。自分はその別れというのがよく分からないが、人と人が永遠に別れるということには特別な感情があるのだろう。それを悪意で汚されるのは、ジェームズとしても本意ではない。
「そうね…まずは色々と調べなきゃね」
シュラインはノートを出し、調査したい事を全部書き出した。
半月の間にその怪異場があった所と時間。遺体戻った場所と時間。遺体の性別、年齢背格好に血液型。その位置関係や共通項、関連性を思わせる事項確認。
特定の葬儀屋…最初に怪異にあった人とその前の怪異無影響の人の情報を依頼人に確認。エンバーミング免許を持った方で死亡した人など…。
すらすらとシュラインがノートに書き出していくのを、デュナスは感心して見ている。
「何だか私よりシュラインさんの方が探偵みたいですね…」
「遺体を持ち去る死化粧師がエンバーマーならエンバーミングに関する勉強をしているはずです。俺は都内の医学部や病院、葬儀屋あたりをあたってみます。一人では大変そうなので、デュナス君も一緒に調べてくれますか?」
「いいですよ。私は足で稼ぐしか取り柄がありませんから」
月璃の言葉にデュナスが頷き、自分の手帳に色々と書き付け始めた。翠はその様子を見ながら膝の上にいる式神の七夜を撫でる。
「死体が消えた一帯が絞り込めるのであれば、式神達を飛ばして見張っておいてもよさげですが、まあそれは調査待ちでしょうね」
それを聞き律花もメモを取りながら考える。
「それができるなら、ご遺族の了承を得てご遺体に発信器を付けて、死化粧をしているその場を押さえることが出来ないでしょうか?」
「相手が人間ならそれも可能でしょう。しかし相手が何者か分からない事には、手の出しようがありません」
相手が人間なら何とかなるだろう。だが、人以外の「何か」であった場合の事をジェームズは懸念していた。何か無念のある霊の類なのか、それとも別の者なのか。シュラインも同じ事を思っていたようで、頬に手をあて溜息をつく。
「そうなのよね。生者なら一人で運び出して戻すのは難しいと思うし、複数人での可能性も考えないと…翠さんと律花ちゃんは私と一緒に調べるの手伝ってくれるかしら」
「構いませんよ。それに情報収集は得意分野です」
椅子から立ち上がりながら翠がそう言う。同じように律花も立ち上がり、いそいそと帰り支度を始める。調べられることはなるべく早くやってしまいたい
「分かりました。それと同時に、私は死化粧に関する由来や伝承などを調べてきます」
ジェームズは男が置いていった名刺を見て、軽く溜息をつく。
名刺には『菊花葬祭・葬儀コーディネーター 鈴木 正隆』という名前が書いてある。その聞き慣れない職業は、ジェームズにとって何か不思議なものを感じさせた。
「では、私は遺体が消えたという霊安室にでも行きましょうか」
カランと麦茶の中に入っていた氷が音を立てた。
この東京の中ではたくさんの人が生き、そして死んでいく。そのすべてに死化粧師が関わっているわけではないだろうが、確かに目的が分からないのは気味が悪い。
それが善意であれ悪意であれ、何故黙ってそんな事をするのか…。
夏のまぶしい日差しが窓から入り、長く濃い影を床に落としていた。
「なかなか手がかりが掴めませんね…」
冷房のきいたカフェで、デュナスと月璃は今まで得た情報を整理しながらコーヒーを飲んでいた。デュナスの目の前には、どこで買ってきたのかあんパンが置かれている。
二人で手分けをして都内の医学部や病院、葬儀屋などをあたってみたのだが、死化粧師に繋がりそうな情報はなかなか得られなかった。
「やはり技術を持っている人が、圧倒的に少ないようです」
最近はエンバーミングを学べる学校が日本にも出来たらしいが、日本では新しい技術なのでそれができる者も限られているらしい。それと同時に、日本独特の「仏様を傷つけてはいけない」という風習もあり、エンバーマーと契約したりしている病院や葬儀社も少ない。それが二人の前に立ちはだかっている。
「エンバーマーは日本じゃライセンス制じゃないんですね」
デュナスはそう言いながらあんパンを口にする。
欧米ではエンバーマーは国家資格だ。だが、火葬が主な日本ではその技術すら知らない者がいる。デュナスが聞き込みに行った病院でも、医師なのにそれについて始めた聞いたという者も少なくなかった。
「どこにも契約していないエンバーマーですか…」
そう呟きながら月璃はカードをめくる。そこに出たのは、闇の中で杖とランタンを持って立っている「隠者」の正位置カードだった。
「逆位置じゃないのがせめてもの救いですね。でもその目的は…」
もう一度カードをめくると今度は「剣の4」のカードが正位置で出る。孤独と休戦を表す意味のカード…確かに「死」というのはある意味休戦なのかも知れない。
人から隠れ、人の休戦に携わる死化粧師…。
「もう少し調べてみましょう。月璃さんは大丈夫ですか?」
「ええ。俺が言うのも変ですけど、何だか死化粧師は悪意があるようには見えないんです。死者の尊厳や、残された遺族の気持ちを無視して行う事は関心しませんが、何かきっと理由があるような、そんな気がするんです」
それにデュナスは黙って頷いた。
「…こちらになります」
ジェームズはその頃、遺体が消えたという病院の霊安室にいた。あらかじめ連絡してあったのか、それとも騒ぎを大きくしたくないのか、特に疑われることもなく霊安室に通される。
今日は特に死者がいないらしく、霊安室は独特の冷たい空気に覆われたまま、シンとした静けさを放っていた。それを見ながら、ジェームズは案内をしてくれた看護師の方をチラリと見る。
「ここの病院で亡くなった方は菊花葬祭へ?」
それを聞き、看護師がこくっと頷く。
「特にご遺族から指定がない場合は、菊花さんにご連絡します…」
「あなたはご遺体が消えたのを見ましたか?」
「一度だけ。その患者さんは肝炎の患者さんだったので、感染予防の為先に火葬するって話だったんです」
感染予防…という言葉にジェームズは考える。
エンバーミングをすれば、感染する病気で亡くなった者も生前の時のように触れたり出来るようになるという。そこに共通点を見いだせればいいが、その辺りはきっとシュライン達がやっているだろう。
看護師がそっと立ち去った後、ジェームズは霊安室に漂っている霊達にそっと語りかけた。
「ここから遺体を持ち去った者に関して、知っていることがあればお話下さい」
それと同時に何らかの思念が残っていないかを探る。すると、ジェームズの耳に微かな声が聞こえてきた。
『あの人は壁も空間も関係ない…』
「関係ないとは?」
その言葉に返事はない。だが、どうやら霊の類ではないようだ。「あの人」という言葉からそれが分かる。壁も空間も関係ないと言うことは、何らかの力を持った人間なのだろう。だが、それが何故遺体を持ち去り、修復して返すのか。それを考えてると、また微かな声がする。
『それが見たかったら、ここにいるといいよ。そうしたら分かる…』
草間興信所ではシュラインと翠、そして律花が集めた情報を整理していた。デュナスと月璃も部屋の隅に座って麦茶を飲んでいる。
二人が聞いてきた所では、遺体が消えるという事件は同じ病院でしか起きていないらしい。菊花葬祭はいくつかの病院と契約しているようだが、他の病院では起きていない。
シュラインは机に頬を付きながらコピーした紙をめくる。
「遺体の性別や年齢に共通点はなし。ただ、妙に引っかかる事があるのよね」
その紙を興味深そうに見ながら、律花はシュラインが赤いペンで線を引いた所を見ていた。そこには死因が書かれており、確かにそれらには共通するものがありそうだ。
「肝炎、結核、MRSA…感染症の病気ばかりですね」
「それだけではありませんよ」
そう言いながら翠が持っていた紙を出す。その紙に書かれている死因は事故や怪我の類ばかりだった。シュラインはふうっと溜息をつく。
「感染症で最後に触れてお別れできないか、事故で傷ついた遺体ばかりなのよ。もちろんそのすべてって訳じゃないんだけど、死化粧師は遺体を選んでるみたいね」
確かにそれなら遺族が「いいお別れが出来た」と感謝するのも納得がいく。事故で亡くなった遺体と面と向かうのは辛い事だし、触れられないと思っていた遺体に触ってお別れが出来るのは、遺族にとっては嬉しい事だろう。
律花は考え込んでいるシュラインを心配そうに見ながら、自分の持ってきたファイルから資料を出した。
「死化粧の由来を調べたりしてきたんですが、鎌倉の化粧坂は、首実検をするために届けられた武将の首に死に化粧をした場所だからそう名付けられた…という説も残っているんです。もしかしたら、死化粧師はたったひとつの死体を捜しているのかもしれませんね…」
「たった一つとは?」
律花が自分の推理を言った途端、後ろから急にジェームズが現れた。それに吃驚しながら律花は胸を押さえる。
「い、いえ、死化粧師には目的の遺体があるのかなと思っただけなんですけど…」
ジェームズはそれを聞き空いている椅子に座った。そしてシュライン達や月璃達がが調べた資料をパラパラとめくる。
「菊花葬儀社にはエンバーミングの技術を持つ者はいないようです。そして、そのような技術を持つ者が亡くなったという話もありませんでした」
翠がそう言うと、その場にいた全員が黙り込んだ。これは本格的に遺体から探ったりするしか方法はなさそうだ。ジェームズはふっと溜息をつく。
それを黙って聞いた後、デュナスがおずおずとこう言った。
「私が死体のふりをしましょうか?自分自身が発する赤外線を遮断できますが」
「でも、死化粧師がそれに引っかかるでしょうか…」
確かに遺体に発信器を付けたりするのはいいかもしれないが、死んだふりが死化粧師に通じるだろうか。律花はデュナスの顔をじっと見た。でも、誰かが霊安室にいて張り込みをするというのはいい案かも知れない。
「病院に許可を取って、張り込みがいいかも知れないわね。じゃあ遺体役は言い出しっぺのデュナスがお願い。他に張り込みできる人はいるかしら」
仕切るようにシュラインがそう言うと、ジェームズと翠が手を挙げた。
「私は結界を施す事ぐらいですが、それでよろしければ」
翠がそう言いながら札を出し、ジェームズは黙って立ち上がる。
「死化粧師が見つかったら、皆さんにご連絡します。あとミスター鈴木にも連絡をしておいてください」
月璃と律花、シュラインは、電話で呼び出した正隆の車の中で待つ事になった。現場で張り込みは出来ないが、何かあったときにいつでも発進できるよう準備をしている
「葬儀社勤めって辛い事も多くありませんか?」
律花がそう言うと、正隆はすこし苦笑して眼鏡を外す。確かに葬儀というのは大変な事が多い。普通に参加するだけでも体力を使うのに、声を聞きそれらすべてを取り仕切るのだ。色々と苦労があるだろう。
「そうですね…死者の方が望む形と、ご遺族が望む形が違ったりすると辛い事もあります。でも、基本的に私は生者の意見をとるようにしてます」
「それはどうして?」
生者の意見をとる…という所にシュラインは疑問を感じた。それを素直に告げると、正隆はまた苦笑する。
「死者の方はそこで終わりですけど、生きている方はこれからも人生が続いていきますから…葬儀は死者のためだけではなく、残された者の区切りのためでもあります。私は葬儀コーディネーターですが、これから生きていく方のお手伝いをしたいと思ってますので」
そう言った瞬間だった。正隆の携帯から電子音が鳴る。それを取り短い会話をした後、正隆は三人の顔を見た。
「…病院の方、事故のご遺体が入られるそうです。何かありましたら、皆さんお願いします」
病院の霊安室ではデュナスが白装束を来て横たわっていた。
「結構寒いです…」
そんな事を思いながらデュナスは黙って胸の上で手を組んでいる。霊安室の中は暗い霧が立ち込めたようで、それが余計寒々しく感じる。
そんな事を思っていると、突然霊安室のドアが開いた。ストレッチャーの音が冷たい床に鳴り響き、デュナスの隣に来た翠がそっと耳打ちをする。
「事故のご遺体が入りました」
「ええっ?」
「とりあえずデュナスはそのままでいてください」
新しい線香の匂いがする。まさか本当の遺体と枕を並べる事になるとは思わなかった…デュナスは自分の隣が気になりながらも、黙って目を閉じている。
「罰が当たるかも知れません」
霊感の類は全くないが、流石に罪深い事をしているような気になってくる。音が何も聞こえない。耳がキーンとするほどの静寂…冷たい風と線香の香り。
そこに何かが入り込む音にデュナスは緊張する。
「………!」
霊安室の外にいた翠は、自分の結界に外から入り込んだ者がいる事に驚いていた。それは結界を全く破らず、まるですり抜けるように入り込んできている。これでは迂闊に七夜を入れれば気付かれるかも知れない。
霊安室の中にいるデュナスとジェームズはその気配を感じていた。
扉を開けず、すり抜けて来た者が動いている気配がする。何か上着を着ているのか、衣擦れの音も大きい。
その時だった。
「…ちょ!」
顔にかけられた白い布の上から何者かがデュナスの鼻をつまむ。流石に心の中で思うだけで声には出さなかったが、あまりにも突然の事にデュナス思わず起きあがった。
「何するんですかー!」
「生き返って良かったね…っと。あんた、もしかして探偵?」
「その通りですが、何か問題でも?」
そこにいたのは、二十代後半ぐらいの手術衣を着た青年だった。帽子をしっかりかぶっているので髪の色は見えないが、銀の目が自分を可笑しそうに見ている。
デュナスはその青年の腕を掴もうとした。だが、その手は何故か空を切っている。
「あれ?触れない?」
「残念でした。じゃ、また」
そう言うと青年はデュナスの隣に横たわっていた遺体を軽々と担ぎ、また壁を抜けようとした。そのタイミングに合わせ、翠の式神の七夜と隠れていたジェームズが青年を追いかける。
「逃がしませんよ」
すると何か尋常ならぬ気配に気付いたのか、青年は遺体を担いだまま両手をあげた。
「どうやらがっちり張られてるみたいね。訳は後で話すから、とりあえずエンバーミングさせてくれない?」
ジェームズに翠とデュナス、ジェームズに呼び出されたシュラインと律花と月璃、そしてこの事件の依頼人である正隆は、青年の家で作業を見ていた。外見は洋館だが、中はエンバーミング用の部屋などに改造してあった。
「気分悪くなったら外出ていいからね」
全員感染予防に白衣とマスク、そして帽子をかぶらされている。青年はゴム手袋をして、遺体に話しかけながら洗浄作業をしていた。
「ふーん、上京してたんだ。大丈夫、ご両親が来る前に綺麗にしてあげるよ」
その言葉を聞き、律花の胸が痛む。自分と同じぐらいの歳ぐらいの東京に来ている女性が事故で亡くなり、それを死化粧師が美しく時を戻そうとしている。他の皆もそれぞれ無言だった。
「もう少し楽にして…そうそう、もう少しの辛抱だから」
何度も遺体に語りかける青年にジェームズが声を掛ける。
「貴方はいつもそうやってエンバーミングを?」
「そうだよ。誰だって声かけられたら嬉しいだろうし、俺は声が聞こえるから。ああ、誰か買い物行ってきてくれない?出来れば女の人がいいんだけど」
「私でいいなら行ってくるわ」
シュラインがそう言うと、死化粧師はドアの向こうを指さした。
「そこにかかってる上着のポケットに俺の財布入ってるから、女物の下着…D70のセット買ってきて。あと、9号サイズのシンプルなワンピースよろしく」
「私も行きます。あの…他に何か欲しい物があったら、聞いてください」
律花がそう言うと、死化粧師はマスクの奥でにこっと笑う。
「ちょっと待って…あのさ『エクラ・ドゥ・アルページュ』って香水知ってる?それ買ってきて、アトマイザーに入れてあげてよ。好きな香りだったんだって」
死化粧師が修復した遺体は、とても事故で死んだとは思えないほど美しかった。
頬や唇も眠っているようにほんのりと赤く、シュライン達が買ってきた夏用のワンピースがよく似合っている。胸元に持たせた『エクラ・ドゥ・アルページュ』のアトマイザーからは、ほんのりと柔らかい香りが漂っていた。
遺体を正隆が呼んだ葬儀社の者に引き渡した後、皆は死化粧師を囲んでいた。
ラフな普段着に着替えた死化粧師は、色素の薄い金に近い髪を短く刈り悪戯っぽい表情をしている。そしてテーブルの上には死化粧師が「適当に飲んで」と出した、たくさんの缶ジュース類が並んでいた。
「まずは貴方のお名前からお聞きしてもいいでしょうか?」
デュナスは鼻をつままれたのが悔しかったのか手帳を片手に、先陣を切って質問を始めた。
「夜守 鴉(よるもり・からす)、29歳、B型、独身。彼女絶賛募集中、好みは巨乳」
「そこまで聞いてません…」
その名を聞き、ジェームズの眉が動く。だがそれには質問せず、ジェームズは黙って話を聞いていた。それは今ここで聞く事ではないだろう。
「どうして勝手にご遺体を持ち出すような事を?」
月璃がそう聞くと、鴉は頭の後ろに手をやった。そして天を仰いで溜息をつく。
「俺さ、死者の声が聞こえちゃうんだよね。『最後に子供に触れたい』とか『こんな姿じゃ両親が悲しむ』とかさ。でも、エンバーマーって俺が勉強したアメリカだと地位いいんだけど、日本だと全然でさ。あの病院家に一番近いし、それがずっと聞こえるのも結構嫌なもんよ」
それを聞いた正隆は、沈黙したまま俯いていた。そこに律花が鴉に声をかける。
確かにエンバーマーの地位はアメリカの方が高いはずだ。それを承知で鴉が日本に来た理由が知りたい。それに、律花は自分で考えていた『たった一つの遺体を探すため』という推理が気になっている。
「じゃあどうして日本に?もしかして、何かを探すためですか?」
鴉はそれを聞き、テーブルから足を降ろし姿勢を正した。さっきまでのだらけた態度とは違い、顔つきも急に真剣になる。
「当たらからずもまた遠からずや…かな。爺さんの遺言でね、もしある遺体を見つけたら綺麗にしてやってくれって。元々アメリカに住んでたんだけど、それで日本に来た」
「その『ある遺体』とは?」
翠の言葉に鴉は首を振る。
「それは言えない。俺だけが知ってりゃいい話だから」
「だったらどこかに雇ってもらえばいい話じゃない?なにも黙ってする事はないと思うんだけど…」
溜息をつきながら、シュラインはテーブルの上にあった缶コーヒーの蓋を開けた。エンバーミングをしたいのなら、葬儀社に雇ってもらえばいいだけの話だ。なのに、何故一人でそれをするのか。
鴉は天を仰ぎながら手をぶんぶん振った。
「さっきも言ったけど、日本だと雇ってもらえないのよ。病院でも鼻で笑われるし、葬儀社でもなかなかね…文化の違いってのは難しいわ」
テーブルの上にあったジンジャーエールを開けて飲み、鴉が溜息をつく。
おそらく鴉が言っている事は本当なのだろう。死者の声が聞こえ、修復する技術がありながらその腕を振るえない。それは辛い事かもしれない。
「そう言えば、どうしてさっき貴方の腕掴めなかったんですか?今は大丈夫ですよね」
デュナスがそう言いながら鴉の手を取る。鴉は困ったように笑いながら、逆の手でデュナスの手を掴んだ。
「ああ、俺が触ってもいい、触られてもいいって思ったものは触れられるんだけど、俺が触るなって思ったものは触れないのよ。あと、空間もある程度なら繋げられる…まあ都内がせいぜいだけど」
「それで結界を抜けたんですね…でも、遺体を担ぎ上げたのは?」
それで納得がいった。鴉に取って壁という壁は全く役に立たないのだ。だから翠が作った結界もたやすく抜けてきたのだろう。
「遺体を担ぐのは技術。これでも鍛えてるのよ、基本的にエンバーミングは一人でやるもんだから」
そう言うと鴉は皆に向かってふっと寂しそうに微笑んだ。
「でもごめん、大騒ぎになっちゃって迷惑だったね。声が聞こえるって言っても、やっぱ勝手にやっちゃね。またコツコツと営業…」
その時だった。
「待ってください、上には私が話を通します。だから、うちで働いて下さい」
正隆の言葉に鴉が目を丸くした。皆はそれを聞き、顔を見合わせる。
「俺、あんたん所の社長に直で断られたんだけど」
「それは私が何とかします。死者の声を聞くのが貴方なら、私は生者の意見を聞く…それならきっとお互いが納得できる別れが出来るはずです」
「それはそうかも知れないけど」
困る鴉に月璃が微笑む。
「貴方の技術を必要としている人がいるなら、それでいいのではないでしょうか?この誘いを断る理由はないはずですよ…」
「で、結局どうなった訳?」
それなりの厚さの封筒を前にして、武彦はシュラインに聞いていた。昼下がりの興信所は今日は静かで、穏やかな時間が流れている。
シュラインはそれを聞き一枚の名刺を差し出した。そこには『菊花葬祭・エンバーマー 夜守 鴉』という名前が書かれていた。あの後、シュラインは正隆と一緒に菊花葬祭に行き、鴉の技術の素晴らしさなどを語り、採用してもらえるように根回しをしたのだ。
武彦はそれを聞き、その名刺を感慨深げに眺める。
「珍しく大団円って所かな。でも、まだ俺は葬儀社の世話になる気はないけどな」
「お世話になってもらっちゃ困るわ、武彦さん。さて、皆を呼んで報酬の計算をしないとね」
暑い空の下、人と人との別れのために鴉は働いているのだろうか…。
シュラインはそんな事を考えながら、電話に手を掛けた。
fin
◆登場人物(この物語に登場した人物の一覧)◆
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
5128 /ジェームズ・ブラックマン/男性/666歳/交渉人&??
6157/秋月・律花/女性/21歳/大学生
0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
6118/陸玖・翠/女性/23歳/(表)ゲームセンター店員(裏)陰陽師
4748/劉・月璃/男性/351歳/占い師
6392/デュナス・ベルファー/男性/24歳/探偵
◆ライター通信◆
ご参加ありがとうございます、水月小織です。
何というかまた長い話になってしまいましたが、如何だったでしょうか。語りたい事もあると思いましたので、ラストを全員少しずつ違う物にいたしました。それぞれが知っている情報は、お互いが教えない限りPC情報の一つとなります(全くどうでもいいエピソードもありますが)
今回出てきたNPCの「夜守 鴉」はまた出てくる事になるかと思います。
リテイクなどはご遠慮なくお願いします。
また機会がありましたら、次のシナリオもご参加下さいませ。
シュラインさんへ
いつもありがとうございます。
シュラインさんのラストはやっぱり草間興信所…と言うことで、一番まとめらしいラストになってます。そしてシュラインさんだったら、一緒に葬儀社に行って「採用してやってください」とか言ってそうなので、そうしていただきました…鴉もこれで無職脱却です。
またよろしくお願いいたします。
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