コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


『求む、ファンタジスタ』



<-- prologue -->

 まだ梅雨は明けていなかった。
 にもかかわらず、その日はまばゆいほどの快晴であった。
 まさに絶好の行楽日和。草間・武彦は青々とした芝生に寝転び、ぼうと空を見上げていた。強すぎるほどの陽射しに照らされつつも、彼は微動だにせずそこにいる。
 絶好の行楽日和。
 にもかかわらず、その表情は険しかった。

『へええ、おっさんたちが代わりのメンバーってわけ。へええ。わざわざ恥晒しに来るなんておっさんも物好き〜?』
『つーか俺たちこう見えても二中のトッププレイヤーなんだよね〜。え、マジ? 二中知らねーの? うっわそれでもおっさん探偵!? うっわダサ!』
『でもま、いいんじゃないの〜? 俺らの実力知ったらおっさんやる気なくしちゃうかもだし〜? だいたい決勝が不戦勝なんてテンション下がるじゃん〜?』
『だぁねぇ。んじゃせいぜいおっさん達に頑張ってもらうとしますか。つーか誰も期待しちゃいないけどな〜。うっわカワイソ!』

 武彦は似合わぬサッカージャージに身を包んでいた。上は青、下は白。ジャージには町内会のサッカーチームの名前が入っているが、何と読むかはわからない。そういえば先程の少年達が着ていたジャージにもチーム名が入っていたようだが、やはり読み方はわからなかった。というか今となっては知りたくもない。
「……クソガキ共め」
 武彦はそう毒づくと、今度は心の中で毒づいた。あのクソおやじめ、と。
 自分がこんなクソ似つかわしくないジャージを着てあんのクソ憎たらしいガキ共に笑われてこんなクソ暑いところで球蹴り遊びをしなければならなくなったのも、あのオヤジ――町内会会長、及びその同胞の所為だからだ。
「……全員で食中毒なんかなってんじゃねーよ……」
 今度は口に出して毒づいた。



<-- scene 1-1 -->

 さんさんと降り注ぐ日光というものは草間・武彦にとって忌々しいものである。暑いのは嫌いだし、眩しいのも然りだ。しかし今日この日ほど強くそう思ったことはない。
 ああちくしょう。あんのクソガキクソおやじクソジャージクソサッカークソサムライブ(自主規制)。脳内でのこととはいえ『クソ』という単語を今日この日ほど連呼したこともない、ような気がするがどうだったろう……。
 とにかく。今最もクソなのはこの太陽だ。ちくしょう。アホみたいにびかびか光って暑さを撒き散らしやがって。
「こんのクソ太陽め……ん?」
 突然、武彦の顔に影が落ちた。武彦が「何だ?」と頭を上げると、そこにはいつも見ている彼女の姿。
「シュライン」
 名を呼ばれ、武彦の顔を立ったまま覗き込んでいたシュライン・エマはくすりと笑い、
「暑いでしょ。はい、ドリンク」
 そう言いながら手に持っていたスポーツドリンクの缶を武彦の額にぺたりとくっつけた。
「冷たっ!」
 武彦が思わず身体を起こす。つい先程まで暑さでのぼせていた彼にとって、ドリンクの缶から伝わる冷気は刺激的すぎたのである。そんな武彦を見てまたくすくす笑うシュライン。
「もう。いちいちオーバーアクションなんだから」
「冷たかったんだよ」
「涼しくっていいじゃない。こんなに暑いと水分補給は大事だから、いっぱい飲んでおいてね」
「……サンキュ」
 武彦は小さく礼を言うと、スポーツドリンクを一気に飲み干した。

「武彦さん、落ち着いた?」
 空き缶を受け取りながらシュラインが問うと、武彦は口をへの字に曲げた。どうやらまだ先の少年たちの台詞が突き刺さっているようである。シュラインは無言で彼の隣に腰掛けた。久しぶりに手に触れる芝の感触が心地良い。顔を上げれば、清清しいほどの青い空が広がっている。
「いい天気よね」
「俺にとっては忌々しい以外の何者でもないがな」
「あら。忌々しくなんてないわ。だって、何と言っても今日は『怪奇モノに関わらなくてもいい日』なんですもの。ほら、ここのところずっと怪奇事件ばかりだったじゃない?」
「言われてみると……そう。そうだ。俺は怪奇探偵じゃねえっつってんのに来る依頼は怪奇怪奇で」
「正直、参ってたんじゃない?」
 シュラインが武彦の顔を覗き込む。すると彼はこくりと頷いた。その子供のような仕草に、シュラインが優しく微笑む。
「でも、今日は大丈夫。怪奇依頼じゃないのに加えて、身体動かしてストレス発散までできるんですもの。しかもこんな陽気の中で……最高だと思わない?」
「それは……確かにそうかもしれないな」
 そう言う武彦の表情は、先程より幾分和らいでいる。
「そうなんだが…しかし」
「でもそれよりも」
 シュラインが武彦の台詞を遮る。それから身を乗り出すようにして、覗き込んでいた顔をまた少し彼のほうへと近づけた。
「何よりも本当は、私が見たいだけなの。ピッチの上で活躍する武彦さんを。折角運動神経に恵まれてるのに、お仕事柄スポーツなんてする機会ないじゃない? だから今日は、目に焼き付けたいなって思って……」
 ふたりの目と目が合う。武彦の頬はわずかに紅潮していた。おそらく自分もそうなのだろう。
 シュラインはふっと視線を逸らすと、今度は満面の笑みを武彦へと向けて、
「……なーんてね♪」
 と、ウィンクひとつ。そんなシュラインをぽかーんと見つめる武彦。
「ふふ。やっぱり私らしくないかも、こういうこと言うのって」
 シュラインが先の自分の台詞を反芻しながらくすくすと笑う。
「え、てゆか、さっきのって……嘘?」
 ようやくぽかーんモードから抜け出したらしい武彦が開口一番そう問うと、シュラインは首をゆっくり横に振った。
「嘘なんかじゃないわ。さっき言ったことは、気持ちは、本物よ」
 それからはにかむように笑って、言った。
「ただちょっと照れちゃっただけ」

「……シュライン!」
 武彦は愛しさのあまり彼女を抱きしめんとした――が、その腕はむなしく空を切った。はっと顔を上げると、そこにはとっくに立ち上がっていたシュラインの姿が。シュラインは笑いをこらえながら、
「抱擁は試合が終わってから、ね?」
 そう言うと、武彦の肩をぽむ、と叩くやいなや足早にその場を去ってしまった。

 

<-- scene 1-2 -->

 ラブパワーフルチャージ後、武彦は気合いもあらわにすっくと立ち上がった。もう陽射しなど全く気にならない。大きく深呼吸して新鮮な空気をめいっぱい吸い込むと、更に気分が高揚してくるのがわかった。
 そんな彼の前方を、ひとりの男性が通り過ぎようとしている。
「ん、何してんだあいつ」
 その男性は何やら本らしきものを片手にぶつぶつ言っては首を傾げ、また何か独り言を呟いては本に目を落としている。武彦などまるで眼中にないというくらいの集中ぶりであった。
「おーいトヨミチ、何やってんだ?」
 武彦がその男性――三葉・トヨミチの集中を妨げるかのように声をかけると、彼はくるりとターン、
「おやおやこれは草間君。こんなところにいたのかね。探していたのだよ」
 と、芝居がかった口調でもって返してきた。
 探してたっつー割にさっぱり周り見てなかったじゃねーか……というのは武彦の心の声である。
「いや、だから、何やってんだよ」
 あわやスルーされかけていた問いを再び投げかけると、トヨミチはふっ、と一笑し、手にしていた本を武彦のほうへと差し出した。受け取りぱらぱら捲ってみると、どうやらこれは芝居の台本であるらしい。
「実は今度の公演で新作を披露することになってね。台本の推敲を兼ねて表現を練っていたところなのさ」
「ああ、そういやお前って劇団やってたんだっけ」
「ああ。劇団名は『ハッピーマイナスワン』。あ、これパンフレット。興味があったら目を通してみてくれたまえ」
 トヨミチは武彦の手から台本をもぎ取ると、どこに隠し持っていたのだろう、劇団のパンフレットをすっと手にとり、草間の手にずいと押し付けた。
「つーかパンフよりチケットく」
「いやそれよりも!」
 武彦の図々しさ大爆発な発言は、トヨミチの腹から鳴り響いた大きな声によって遮られた。

「な、何だ?」
 突然の大声にたじたじする武彦。トヨミチはそんな彼を余裕を持った笑みを浮かべながら見ていたが、やがて彼の肩をぽん、と叩いた。その表情は真顔に戻っている。
「草間君。三十路の大台に先に足を突っ込んだ人生の先輩に一応確認しておきたいのだが」
「うむ」
「二十七歳や三十歳という年齢の我々があんな小童どもにおっさん呼ばわりされ、あまつさえ馬鹿にされてされてしまうなどという信じ難い暴挙。しかし我らはそんな暴挙を安易に受け入れるような年齢ではない――まだまだ若い、筈だ。そうじゃないか?」
 腕、胴、足、つま先、指先、表情、そして声――三葉・トヨミチという存在を構築する全ての要素を余すところなく使い、トヨミチは熱い想いを武彦へとぶつける。対する武彦は、その想いを真っ向から受け止め、大きく頷いた。
「うむ。全く以ってその通りである。それに言うなれば、我々はあの少年達の人生の先輩である。だのに彼らは我々への尊敬のかけらもなく醜い言葉を吐き散らす。全く以って許し難い行為である」
 武彦らしからぬ固い口調。恐らくトヨミチの迫力に感化されてのことだろうが、残念ながら武彦は役者としての資質を持ち合わせていなかったらしい。その台詞は完全なる棒読みであった。
 しかしそれでも、彼の言わんとするべきことは充分に伝わった。トヨミチは深く深く頷き賛同の意を表すと、両の拳を力の限り握り締め、武彦の瞳を射抜くように見つめた。
「そう、だから我々は彼らに手厚くお仕置きをしてやらねばならない。それが『人生の先輩』としての義務であろう?」
「全く以ってその通りだ、トヨミチ君!」
「草間君!」
 何故かわかりあってしまったふたりは熱い熱い握手を交わした。



<-- scene 1-3 -->

「まあ確かに、ガキ共は躾けてやらねばな」
「ぬおっ!」
 突然背後から聞こえた声に、武彦は驚きのあまりその場で飛び上がった。
「ふふ。何もそんなに驚くこともあるまい」
 振り向くと、そこには黒・冥月が武彦を小馬鹿にしているような笑みを浮かべて立っていた。
「俺の後ろに立つんじゃ……ん?」
 文句、というかただの言いがかりをつけようとした武彦だったが、言い終える前に何か違和感を覚えた。いつも全身黒ずくめの格好をしている冥月が、今日は自分と同じ青いユニフォーム姿であったのだ。
 いや、それより気になったのが彼女の髪型である。普段は長い黒髪を流れに任せたまま下ろしているのに、今日は何とポニーテール、しかもそれが妙にきまっているのであった。武彦がニヤリと意味深な笑みを浮かべる。
「いやあ冥月、今日はまた随分と格好良いじゃないか」
「それは褒め言葉か?」
「当たり前じゃないか。今日のお前は実に男らしい。まるでロナウジーぐふぉ!」
 武彦はまたしても台詞を言い終えることができなかった。冥月のまわし蹴りが顔面を直撃したからである。
「何度も言っているが」
 冥月は地面に這いつくばっている武彦を軽蔑の眼差しで見下ろしている。
「私は女だ。大体あんなロバ面なんぞと一緒にするな」
「は……はひ……」
 ブルブル震えながら返事をした武彦を「フッ」と一笑すると、冥月は影の中へと消えていった。

 一連のやりとりを見ていたトヨミチが、腕組みをして考え込んでいる。
「ううむ……あの瞬発力、シュートにいくまでの速さ、シュートの破壊力……そして何よりも顔面にクリーンヒットさせる決定力! 草間君、きっと彼女は素晴らしいストライカーになるぞ!」
 大げさに両手を広げ自身の発言をアピールするトヨミチ。そんな彼に武彦は、
「ど……どうでもいいから……早く俺を助け起こしてくれ……」
 と、蚊の鳴くような声で自身の体調をアピールした。
「おっと。これはすまない」
 トヨミチは身体を屈めると武彦の腕をとり、自らの肩に担いで近くのベンチまで運んで行った。

「ところでお前、どうしてそんなにやる気満々なんだ?」
 ベンチで休みようやく煙草を吸えるくらいまで回復した武彦が、煙を鼻から出しながらトヨミチに問い掛けた。
「ふっ……大したことではないのだがな。この前とある劇団にプロデュース公演で呼ばれてね」
「そりゃあ光栄じゃないか」
 それには答えず、トヨミチは吸っていた煙草を口から放し、煙をふうと吐き出す。そして続きを紡ぎだした。
「そのとき踏んだ舞台の主役が顔だけの能無し役者で――そういやさっきのガキ共と同じくらいの歳だったな――ろくな演技もできんくせに口だけは変に達者でクソ生意気な奴で」
「それってまんまあのガキ共とかぶるな……」
「ああ。だからちょっとばかりへこませてやりたくなったと。そういうわけだ」
 トヨミチは煙草を口へと運ぶと、
「ま、要は単なる八つ当たり、ってやつさ」
 と苦笑しつつ、再び煙を深く吸い込んだ。



<-- scene 1-4 -->

 少年漫画の登場人物というものは、すべからく子供たちにとってのヒーローとなる資質を持っている。主人公は勿論、脇役や悪役、チョイ役ですら、その資質を備えている。
 ごく普通の武術少年だった紫東・暁空にとってのヒーローは、とあるサッカー漫画に登場したゴールキーパーであった。
 そのゴールキーパーは主人公と対戦したチームの一員であり、いわば敵役であった。もし敵役の彼がただの強いキャラクターであったなら、暁空は全く関心を示さなかったに違いない。
 しかし暁空は彼が登場するやいなや、その存在から目を離せなくなってしまったのである。

 彼は格闘家であった。といってもサッカー漫画であるから、殴り合いの格闘をするわけではない。彼が格闘するのはピッチの上。ゴールマウスという名の最後の砦。その砦を守るため、彼は闘うのだ。
 主人公チームのゴールキーパーと比べると、彼の能力は劣っていたといわざるを得ない。しかし彼は高等な空手の技術と気迫、そして確固たる信念を持つ者であった。
 それゆえ彼は、砦を死守する術として自らの持ちうる全てを融合させることを選択した。
 そう。彼は、空手の技術とゴールキープの技術を、その気迫と信念をもって見事に昇華させたのである。

 パンチングでは間に合わないコースに飛んでくるシュートに『手刀』によるリーチの長さで対抗する『手刀ディフェンス』。破壊力絶大なシュートにその拳でもって真っ向から挑む『正拳ディフェンス』。そして、相手に逆をつかれ通常ならセービングが間に合わないシュートを、ゴールポストを蹴ることで得られる反動をバネに自らの飛距離を飛躍的に伸ばすことで防ぐ伝説の技『三角飛び』――これらの技を見るたび、暁空の胸は高鳴った。何度も何度もページを繰っては戻し、彼のファンタスティックな技に魅せられた。武術活動の合間を縫って誰もいないグラウンドへ足を運び、三角飛びの練習をしたことさえあった。
 空手ディフェンスのヒーローは、暁空にそれほどまでの影響を与えたのである。

 そして今、暁空はグラウンドに立っている。真新しいキーパーグローブとソックス、使い古されたゴールキーパー用のユニフォームに身を包んで。
 あのサッカー漫画を読んだのは幼い頃であったから、今はもう曖昧にしかその内容を覚えていない。しかし彼が登場したシーンだけは、今も脳裏に鮮明に焼き付いている。おそらく、一生忘れることなどないだろう。
「今日は俺がヒーローになってやるぜ」
 暁空は両手に嵌めたグローブ同士をパン、と叩くと、ギラギラと輝く太陽を睨むように仰ぎ見た。



<-- scene 1-5 -->

 ベンチに座ってスパイクの紐を結んでいると、聞きなれない歌声が耳に入ってきた。
 草摩・色が「誰だ?」と呟き視線を前方へと向ける。するとそこには、えんじ色の――というと格好悪い気がしないでもないが他にその色を表す語彙を色は持っていなかった。何となく名前負けしたような気がして悔しいような気がする――ユニフォームに身を包んだ金髪の男がいた。その手には大きなボストンバッグ。彼はこちらに気付いていないらしく、色からすればようわからん歌を機嫌良さそうに歌っている。
「ねーリオンさん、何歌ってんの?」
 色が大きな声で問い掛けると、彼もようやく気付いたらしく、歌いながらベンチに向かって歩いてきた。

 歌声の主、リオン・ベルティーニはベンチに座ってもなお歌いつづけている。
「Fratelli d'Italia♪ L'Ita〜lia sdesta♪ dell'elmo di Scipio♪ se cinta la testa♪」
「だーかーらーソレ何の歌なわけ? 全然わかんないんだけど」
 好奇心旺盛、わからないことは何としても知らなければ気がすまない色が「さっさと質問に答えやがれっつーの!」という言葉を暗に内包した問いをリオンに発した。するとリオンはようやく歌を止め、くるりと色のほうへと顔を向けると、
「ハハ。そうかそうか。お前もこの歌に興味示しちゃったわけね。うんうん。わかるよその気持ち」
 と、全く質問の答えになっていない台詞を吐いた。色ががくりとうなだれつつ内心こんにゃろーと憤っていると、
「今俺が歌ってたのは『Inno di Mameli』。『マメーリの賛歌』とも呼ばれている、イタリアの国歌なんだ」
 と、上機嫌丸出しの表情で言った。そんな彼の台詞に色がぴん、と反応する。
「あ、そっか! リオンさんイタリア人だったもんな。だからワールドカップ優勝してテンション上がっちゃったわけだ」
「そういうこと。しかも今回は現地で勝利の瞬間見ちゃったからね、そりゃあテンション上がらんわけないって」
「え、マジ!? ドイツまで行って見たのかよ! っかー羨ましっ! 何で誘ってくんないんだよー!」
 色が地団駄を踏んでいる。
「いや、つってもお前まだ学生でしょ。ガッコあるんじゃさすがに誘えねえって」
「いやいやいや! 決勝連れてってくれんだったら授業なんてフケるって! 無問題!」
 色が地団駄を踏みまくっている。そんな彼にリオンは、
「いくら地団駄踏みまくってもダメなモンはダメ」
 と、色の駄々を一蹴した。

 一蹴された色はといえば、地面に指を起き、指をくるくるさせて穴を掘っている始末である。リオンは内心辟易していた。もし色が女の子だったならば、イタリア男のノリ的に「ワールドカップでもどこでもチャーター機でお連れしますよ」となるのだが、残念ながら彼はそうではなかった。ゆえにリオンは彼の駄々っ子ぶりに辟易しているのである。
「ちぇーっ。金持ちのくせにケチー。へんたーい」
 あまりにも唐突な色の発言に、リオンの目が見開かれる。
「ちょ、ちょ、おま、誰が変態だ、誰が!」
「リオンさん」
「なぬ!?」
 思わず声がうわずってしまう。視線を落とすと、笑いを押し殺しつつも時折「ぷぷっ」「うぶっ」などと笑い声を上げている色の姿があった。
「笑うなー!」
 リオンが怒鳴ると、色はきょとんとした顔をして言った。
「いいの?」
「……何、が?」
 リオンの顔がすうと青褪めていくのを見て、色がニヤリと笑う。
「だーかーらー、ばらしちゃってもいいの? って聞いてんだけど」
「な……何、を?」
 しらばっくれるリオンを見た色が、意地の悪い笑みを浮かべた。
「何をって、俺なんかより自分の胸に聞いてみたほうがいいんじゃん? 思い当たる節あるでしょ?」
 そう言われ、リオンは自分の胸に問い掛けてみた。思い当たる節は……残念ながら、ある。
 というのも、リオンは彼女持ちなのだが、その彼女はリオンよりもずっと年下で……端から見れば自分は『ロリコン』と罵られてもおかしくない男なのである。自分としてはそんなつもりは全くないのにもかかわらず、である。
 さすがに『ロリコン』と言いふらされるのはきっつい。どうしたものか……とリオンは思案した。



<-- scene 1-6 -->

 あの時の彼のあの表情。そしてあの台詞。その全てを自分は、一生忘れることはないだろう。

 ササキビ・クミノは町内会対抗サッカー大会決勝が行われるスタジアムへと足を運んでいる最中であった。スタジアム、といっても所詮は町内会レベルの大会。プロが使うような整備されたものとは程遠い、運動公園の一角にあるしがないグラウンドである。
 今日のクミノの服装は半袖のブラウスに丈の短いプリーツスカート、それから革製の鞄。一見いつもと変わりないように見えるが、実は違う。どこが違うのかというと、横ストライプのニーソックスから連なる靴がスニーカーであることと、ブラウスの中にタイトなTシャツを着込んでいることだ。さすがに普段履いているような靴でサッカーをするのは厳しいし――それにお気に入りの靴が痛んでしまっては大事だ――それにどうせ指定のユニフォームを着用しなければならないのだから、着替えやすい方が良い。サッカーパンツはスカートで隠して穿けば良いし、ユニフォームはTシャツの上から直接着れば良いだろう。
 そう、何も問題は無いのだ。にもかかわらず、クミノの心中は穏やかではなかった。

 数十分前。クミノがグラウンドに到着すると、丁度武彦が相手中学生に小馬鹿にされているところだった。それに対し何も言えなかったらしい武彦が、がっくりと肩を落としとぼとぼと歩き出す。武彦にとって先の出来事はショックだったのだろう。しかしクミノにとってはそんなことは関係無い。それより重要なことがあるのだから。
 クミノは武彦へと駆け寄ると、彼の手をぐいと引っ張り「草間!」と強引に呼び止めた。すると武彦は覇気のない顔をして振り向いた。彼はうつろな瞳でクミノをぼうと見ていたが、やがて自分が呼ばれたことを認識したようだった。
「……ああ、クミノか。何だ? 俺は今忙しいんだ」
「誰が何にどう忙しいっていうの? 私には全くそうは見えないけど」
 言うや否やクミノが大きなため息をつく。一方の武彦は図星を突かれて言葉に詰まっているようだった。
「一応確認しておきたいんだけど」
 クミノが武彦の顔を見上げる。そしてその目を射るように見ながら口を開いた。
「有能な探偵の草間が所長を勤める興信所なら、当然二中に関する全データは取得済みよね?」
 すると武彦は、瞬時にクミノから目を逸らした。今度はクミノが瞬時に武彦の前へと回る。
「集めてないなんて言わせないわよ。近辺の情報収集なんて探偵なら最低限すべきことだもの」
 クミノの正論に武彦の顔が僅かに強張る。
「……まさか、本当にデータ持ってないの?」
 呆れたような、憐れむような、そんな口調でクミノが問うと、武彦はぶんむくれた顔をして――下唇を中の粘膜が見える程までぐいと突き出し、口の両端をこれでもかというくらい下げ、恨みがましい視線をこちらへと向け――クミノを一瞥すると、
「ぷん! だ!」
 という何とも大人気無い捨て台詞を残し、走り去って行ってしまったのである。

 回想しているうちにまたあの忌まわしい顔を思い出してしまったクミノが、苦虫を噛み潰すような顔をする。それから視線を少し下へ落として小さなため息をついた。
 クミノは、日頃よく周囲の人間から大人びている、だとかしっかりしている、だとか評されることがある。確かに同年代の連中と比べればそうなのかもしれない。だが、先の武彦を見る限り、本当は自分がどうこうではなく単に周囲の大人たちが子供っぽく間抜けなだけなのではないだろうか……なんてことをつい思ってしまう。
 自分からしてみれば、あの男もあの男を茶化した中学生共も相違無い。いや、たかが子供の戯言に対し、反論する術を持っていなかった武彦の方が余程子供だ。身体だけはでかくなって一丁前に煙草なんて吸っているけれど。
 そんなことをつらつら考えているうちにまた脳裏を例の表情が過ぎってしまったので、クミノはそれを記憶から消去するかのように大きくかぶりを振った。
 顔を上げるとはるか遠くに、そよ風に木の葉を揺られ、強い陽射しにきらめく木々が視界に飛び込んできた。
 グラウンドはその向こう側にある。瞳を眇めながら、クミノは歩調を速めた。



<-- scene 1-7 -->

「ナイスシュート、俺!」
 ゴール前で、色が飛び上がってガッツポーズを決めた。そんな彼へとリオンが歩み寄り、
「いや、お前こぼれ球押し込んだだけじゃん」
 と突っ込みを入れる。
「いやいや、こぼれ球をきっちり得点に繋げてこそ真のストライカーってもんでしょ? だから、ナイスシュート、俺!」
 リオンの突っ込みをさらりと流し、色がまたガッツポーズをする。
「それにこのユニフォーム最高なんだけど! むっちゃ軽いし動きやすいし! リオンさん、サンキューな!」
 色が自らの着ている青いユニフォームの端を引っ張って満面の笑みを浮かべたのに対し、リオンは複雑な表情をしている。というのもそのユニフォーム、リオンが色への口止め料として献上したものなのである。色の希望により背番号は7。ちなみに今年のワールドカップで『イタリアの至宝』と名高いスーパースター選手『ドロ・ピエロ』が着用していたもののレプリカモデルであった。
「……ま、もう一枚買えばいいか」
 金持ちリオンがぽつりと呟く。

 一方、ゴール前では暁空が土のグラウンドに突っ伏していた。
「うーん。キーパーって意外と難しいんだなぁ……」
 暁空が身体を起こしながら独り言のように呟く。先程リオンがゴール右前方から放ったシュートは自分の真正面へと向かってきたので、これなら余裕でキャッチできると思ったのだ。ところが予想以上にボールの回転力が強く、キャッチしたはずのボールが両手から零れ落ちてしまった。そこを走りこんできた色にゴールに押し込まれてしまったというわけである。
「真正面のボールすら捕れないなんて、先が思いやられるなぁ……」
 また独り言のようにぶつぶつと呟く暁空。もしかして自分はまた貧乏くじを引いてしまったのだろうか……などという懸念が心の奥底から浮かんでくる。ちなみに暁空の『引き』の良さは百発百中と言っても差し支えないほど、強い。

 そんな暁空を見て、落ち込んでいるのかもしれないと思った色が駆け寄り、彼の前にしゃがみこんだ。それから暁空の肩をばしんばしんと叩くと、にかっと笑い、
「暁空さん、だーいじょうぶ! 初めてって思えないくらい全ッ然いけてるぜ! だって俺が前見たことある初心者の奴なんか、シュート打たれた瞬間目ぇつぶってしゃがみこんじゃったもん。フツーの人にとっちゃあ、シュートボールってそんだけ怖いもんなんだよ。でも暁空さんはバッチリキーパーの動きしてたから。うん。全ッ然いけてる!」
 と言うと、また暁空の肩をばしんばしん叩き、それから両腕を組んで「うーん」と首を傾げた。
「んっとー、さっきのは、キャッチのやり方がちょっと甘かったんだな」
 色は組んでいた腕をはずすと、ジェスチャーを加えてアドバイスへと入った。 
「ああいうシュートのときはね、両腕をこう、ギュッと内側に抱え込むようにして、胸にしっかり抱きとめるような感じでキャッチするんだ。あと、キャッチした後もしばらくはぎゅっと力を込めてボールを抱えること。ほら、さっきみたいに逃げちゃうボールもあるからさ。まあ、色くん的重要ポイントとしてはこんなとこかな?」
 言い終えると、色は握りこぶしに親指を立てたジェスチャーを取り、ぱちりとウィンクした。

 一方の暁空は、うんうん、ふむふむ、と普通に相槌を打ちつつも、内心では色の的確なアドバイスに舌を巻いていた。つい先程挨拶を交わしたときは、サッカー経験について、「うん。まあ、一応あるよ。前線しかやったことないけどね」、としか言っていなかった彼なのに。その彼が、前線どころかゴールキーパーの技術に関することまで知っているとは。
 もしかすると彼は、知られていないだけで実はものすごいプレーヤーなのかもしれない。そしてそんな彼がいるチームなら、中学生達のワンマンチーム――中学生はふたりいたから正確にいえばツーマンチームなのだろうか。そんな言い回しはあまり記憶にないが――にも余裕で勝てるかもしれない。
 いや。彼に頼るだけなんて駄目だ。自分だって勝利に貢献できるような良いプレーを見せなければならない。最後の砦をひたすらに守りつづけた、漫画の中のヒーローのように。
「よし、もう一本!」
 暁空はすっくと立ち上がると、大きな声でリオンと色を促した。



<-- scene 1-8 -->

「しっかし暑いわねぇ……」
 グラウンドの端で草間・零と軽いウォーミングアップをしていたシュラインだったが、思った以上の体感温度の暑さにのぼせてしまいそうになり、日陰にある自陣ベンチへと避難した。近くに置いてあった、零と一緒に用意してきたコールドドリンク入りのクーラーボックスからスポーツドリンクを取り出し、ベンチへと腰掛ける。プルタブを起こすと、プシュウと小気味良い音がして、身体に付き纏っていた暑さを若干和らげた。
 缶に口を付け、傾ける。喉口から食道にかけて冷たい水分が伝っていくのがわかる。浸透率の良い飲料のことだから、暑さで失われた水分もさほどの時間をかけず取り戻されていくことだろう。そして何より、ドリンクの冷たい刺激はシュラインにとって良いリフレッシュになった。

 遠くでは、零が手頃なフェンスを使ってボールを蹴る練習をしている。フェンスのところどころに大きな穴が開いていたり、ところどころがぐしゃりと有り得ない形にひしゃげていたりするのは自分の目の錯覚だろうか……と思ったところに零がまたボールを蹴りつける。それは金網のフェンスをぶち破り、遥か彼方へと消えていった。
 慌ててボールを探しに行く零を見て、シュラインがくすくすと微笑む。そして、
「さて、もうひと頑張りしようかな、っと」
 大きく伸びをして、ベンチから腰を上げる。
 と、その前に空き缶を処理しなければ。自陣ベンチに設置してあるくずかごの方へと顔を向け、それを目掛けて空き缶を放り投げる。それは大きく弧を描いてくずかごの中へと吸い込まれていった。

「ナイスシュート、なんてね」
 シュラインがくすくす笑いながら辺りを見回すと――先程の「ナイスシュート」が誰かに聞こえていたら恥ずかしいからだ――くずかごの後方に設置してあるベンチに冥月が座っているのが見えた。そういえば彼女はだいぶ前から同じ場所に座りっぱなしだ。
「ナイスシュートだったぞ、今のは」
 冥月がシュラインを見て苦笑とも嘲笑ともつかない顔をした。とは言ってもシュラインは今まで彼女が可愛らしく微笑んだり屈託の無い笑顔を見せたりしたことなど一度も無いということを知っている。だから先の笑みも、悪気も何も無い、彼女にとってのごく普通の微笑みなのだろう。シュラインは勝手にそう解釈している。
「ありがとう」
 にこりと微笑むと、冥月は頷き、両腕を組んだ。そして真顔になり、
「しかしサッカーではそのシュートは使えないな。手を使ってしまっては反則になる」
 そう言うなり、また先と同じような笑みを浮かべた。
 冥月の真顔のジョークに、シュラインは笑いを押し殺しながらもなんとか一言返した。
「その通りだわ」

「ところで冥月さん、練習しておかなくて平気なの?」
 冥月の隣に腰掛けたシュラインが問い掛けると、彼女はフッと笑って言った。
「平気だ。昨日ビデオでサッカー選手というものの動きは大体掴んだし、こうして練習風景を見ているだけでも私にとっては充分な収穫になる」
「凄いわね。私なんて素人だから、足引っ張っちゃったらどうしようって実はちょっと不安だったりするの。一応、体力ならそこそこ自信あるんだけど……」
「ほう。何か覚えがあるのか?」
「違うのよ。ほら、いつも依頼であちこち駆けずり回ってるから」
「成る程。それなら自然と体力もつくというものだ」
 くつくつと笑う冥月に、シュラインは頷きつつ苦笑した。



<-- scene 1-9 -->

 フィールド上の三人の練習はまだ続いていた。先程まではリオン&色のパスワークやクロスからのシュート練習が主であったが、今はそのふたりによる暁空のキーパー特訓へと内容を移していた。
「あー、ダメ! そんくらいのコースに飛んだボールはキャッチングじゃなくてパンチングで弾いて!」
「真正面に飛んだボールじゃなくてもちょっと左右に動いたりジャンプしたりすれば真正面と同じになる! シュートコースを判断して身体動かして自分で真正面にもってくるんだ! そうすればさっきと同じようにキャッチできるから!」
「ゴールラインに張り付いてちゃダメ! 前に出れば相手のシュートコースはぐんと少なくなるから、リスク恐れずどんどん前に出てオッケだから! あ、でもその線越えるのはNGね。そっから外だと手使えなくなるから」
 暁空のプレーに色が的確なダメ出しをする。そして暁空はそれをぐんぐん吸収していく。

 リオンのトスしたボールを色が蹴る。ゴール左上隅、ポストぎりぎりの絶妙なコースへとスピードボールが飛んでくる。しかし暁空は怯まない。このコースなら――
「パンチングだ!」
 暁空は身体のバネを活かし右上斜め前方へと跳躍し、ぐんと伸ばした腕でボールをゴール裏へと弾き飛ばした。リオンと色から拍手が歓声が上がる。
「暁空さん、ナイスセーブ!」
 色が暁空に駆け寄り、ペナルティーキックを止めたゴールキーパーを祝福するかのようにぴょいんとジャンプして抱きついた。そこへリオンまでもが駆け寄り、ダイブ。ぐしゃりと崩れ落ちる三人だが、その表情には笑みが浮かんでいる。

 するとその時、遠くから笑い声が響いてきた。
 どちらかというと人を馬鹿にするしたような、類の。



<-- scene 1-10 -->

 赤いユニフォームに身を包んだ少年がふたり、歩いてくる。ユニフォームの胸元には白い文字で『RED FIRES!!』と記されていた。暁空たちはグラウンドに転がったまま、彼らが近づいてくるのをぼうと見ている。
 少年たちは暁空たちを見下ろせるほど近くまで来ると、ヘラヘラと笑い出した。
「へええ、あんたらがあのおっさんが必死こいて集めてきたメンバーってわけ。へええ、どんなもんかと思って見てたらただのドシロートの集団じゃん? 高柳、そー思わね?」
 肩ほどまでの癖のある髪をだるそうにかきあげながら、少年のひとりが高柳とやらを一瞥する。
「原沢ぁ〜。ドシロートはさすがに言い過ぎじゃね〜? ま、俺たち二中のトッププレイヤーからすればドシロートもドシロートに毛が生えたも大差ねーけどな。つーかあんなヘボシュ弾いたくらいでそんなに喜んじゃうなんて、ダサ、つーかカワイソーじゃね?」
 高柳と呼ばれた少年は外見こそ清らかなサッカー少年に見えるものの、吐き出された言葉はとても醜かった。

「うっわ、何だよこいつら。すげー感じ悪いんだけど」
 ふたりの少年を睨み上げながら、誰にともなく色が呟く。
「ま、所詮は子供が言うことだ。気にすんなって」
 リオンが立ち上がり、色と暁空に立ち上がるよう促した。色は言うまでも無く気分最悪、立ち上がっても相変わらず相手を睨みつけており、暁空は何も言わないものの、その顔から表情は消えているように見える。
 一方のふたり組は、ヘラヘラした態度で三人を物色するかのように見ていたが、やがてふたり顔を合わせると「プッ」と噴きだすやいなや腹を抱えて笑い出した。
「何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
 リオンの軽いジョークトークには答えず、ふたり組は相変わらず品の無い笑い声を響かせている。
「あんだよ。何がおかしいんだよてめえら。調子こいてんじゃねえぞコラ」
 色がもの凄い形相でふたり組に詰め寄って行く。
「おい、何か言えよコラ!」
 色が相手の襟を掴みかからん勢いでぐんと詰め寄ると、ふたり組の片割れ――原沢が半笑いのまま口を開いた。
「だってさ、あんたらふたり」
 原沢が色とリオンを顎で示す。
「そのジャージ、ASローマとアズーリっしょ? それがもう笑えて笑えて」
「つーか、ヘタクソがジャージだけ凄ぇの着ていきがってる、みたいな? つーかジャージ負け決定じゃカワイソ過ぎて涙も出ねえっつーの! むしろ笑え過ぎて死ねる〜! 頼む、これ以上俺を笑い殺さないでくれ〜!」
 またしてもふたり組が爆笑する。

 これには普段は穏健派のリオンも我慢ならなかった。自分が着ているジャージは幼い頃からずっと応援し続けてきた故郷のクラブチームのものだし、色が着ている方はリオンの祖国イタリア代表のものだ。言わば、どちらもリオンにとっては神聖なもの。ただ馬鹿にされただけなら軽く流せよう。しかし神聖なるそれらをネタに使って馬鹿にされるなど、リオンにとっては屈辱でしかない。いや、自分だけでなく、祖国をも貶められたに等しい。
 リオンはふたり組へと向き直ると、鋭く言葉を吐き捨てた。
「figlio di puttana!」
「……へ?」
 その言葉は彼らの理解できるところではなかったようである。ふたりは間抜けな顔をしてリオンを見ている。リオンはくるりと踵を返すと、自陣ベンチへと歩き出した。
 そこへ色が走って行く。
「ね、リオンさん、今何て言ったの?」
 追いついた色がリオンの顔を覗き込むと、リオンがニヤリと笑って見せる。
「『おまえのかーちゃんでーべそ』、みたいなもんかな。ま、これ以上詳しくは教えられないけどね」
 それを聞いた色は、きっとリオンは奴らがイタリア語をわからないのをいいことに、相当ピーなスラングを使ったんだろう……と思った。

 くるりと振り向くと、やや後方を暁空が歩いてくるのが見える。色は小走りで彼へと駆け寄った。
「暁空さん、あんな奴らの言うことなんて全ッ然気にすることねーからな」
 すると暁空はきょとん、と顔を上げた。
「ん? あいつら何か言ってたっけ?」
 思いがけない返答に、色がかくんとずっこける。それを見た暁空はカラカラと笑いながら、
「俺、古武術やってるから身体は打たれ強いんだけど、こっちもそうなんだよね」
 と、自らの頭を指差した。
「大丈夫。あいつらの認識は大間違いだったってこと、試合で証明してやるからさ」
 暁空はニッと笑うと、大きなグローブの嵌められた手で色の頭をぽんぽんと叩いた。



<-- scene 2-1 -->

「おお、みんな集まってるな!」
 草間・武彦が足取りも軽く自陣ベンチへとやってきた。その後ろでは三葉・トヨミチが台本とにらめっこしている。
「集まってるな、じゃないですよ。自称とはいえキャプテンのくせにずっとこっちはほったらかしにしてるなんて」
 すかさず突っ込んだのはリオン・ベルティーニだ。彼は周りにボケキャラが多いからか突っ込みに回ることが多い。
「それに武彦さん、全然身体動かしてないじゃない。大丈夫なの?」
 シュライン・エマが心配そうに武彦の顔を見る。すると彼は両腕を腰に当て、ハッハッハッと大声で笑った。
「なーに。この天才草間・武彦にウォーミングアップなんてものは必要ないのさ。そうだろう、トヨミチ君?」
 武彦が振り向いてトヨミチに声をかけると、彼はぱっと顔を上げ、自身満々の笑顔を作った。
「ああ。草間君は紛れも無い天才プレーヤーだ。この私がそう保証するのだから、何も心配することはないぞ!」
「おお! トヨミチ君! 我が朋友!」
 そして固い握手を交わすふたり。そんな彼らを見て、シュラインがくすくすと笑う。落ち込んでいた武彦が気がかりだったものだから、武彦がいつものアホのような元気さを取り戻したことに安堵し、嬉しくなったのだ。
「でも、まだ人数足りなくない?」
 ボールを弄びながら、紫東・暁空が武彦へと声をかける。すると武彦は握手している手はそのままに、顔だけ暁空へと向き直った。
「まあ、クミノはそろそろ来るだろうし、アトラスからもとっておきの助っ人が来ることになってるから、安心しろ」
 ニヤリと笑う武彦。その彼の発言を裏付けするかのように、ひとりの少女――ササキビ・クミノがやってきた。

「おう。クミノ、遅いぞ! 試合開始前だったからまだ良かったものの、やはり遅刻はいかん。気をつけるんだぞ」
 到着するや否や武彦にこんなことを言われてしまったものだから、クミノの顔が僅かに引きつる。そもそも自分は試合開始時刻のだーいぶ前にこのグラウンドを訪れていたのだ。それなのに無能探偵の所為でわざわざ自宅まで戻ってデータを引っ張ってくる羽目になったのだというのに。一体何様のつもりなのだ、この男は。
 クミノは懐からベレッタを取り出し武彦の脳天目掛けてぶっ放してやろうかという危ない衝動に駆られたが、脳内で実行するに留めた。そもそも今日の依頼内容はサッカーだったから、銃など持ってきてはいなかったのだけれど。

「クミノちゃん、お疲れ様。どう? あの子たちの情報って見つかったかしら」
 シュラインの問い掛けに、クミノは黙って首を振った。
「そう……クミノちゃんでも無理だったの。それなら私なんかが見つけられる筈ないわよね。一応私もちょこっと調べてはみたんだけど、二中サッカー部のことは書いてあっても肝心のあの子たちのことは何にも無くて」
 はあ、とため息をつきながらシュラインがぼやく。
「まあ、彼らのプレーを見れば、大体の実力はわかるはずだから」
 クミノの言葉に、シュラインがにっこりと笑って頷く。
「お手並み拝見、ってとこね」

 シュラインの台詞に合わせていたクミノだったが、実はクミノは例の少年たちが共同で運営するウェブサイトの割り出しには成功していたのである。そこには彼らのパーソナルデータも書かれていたし、日記コンテンツも置かれていた、のだが。
 しかし。そのサイトというのがいわゆる18禁美少女ゲームのファンサイトで……パーソナルデータには彼らの愛するゲーム(その全てがアダルトだった……)やら萌え属性やら『○○好きに百の質問』(○○には言うまでも無く美少女ゲームタイトルや萌えワードが入っている)やらクミノからすれば心底どうでもいいことばかりしか書かれておらず……日記に至ってはサッカーネタ皆無、書かれていたのは『ついに隠しキャラ○○タンのお姿を拝めたヨ☆ 激しく俺好みでもう萌え萌え〜』『今日○○タンが夢に出てきた! 裸エプロンで朝食を作ってくれて、スプーンを俺の口に運んで「はい、あ〜んして☆」って言ってくれた…一生夢見てたかったなぁ』等々、開いても開いても18禁ゲームのことしか綴られていなかったのである。
 辛うじて二中サッカー部そのもののデータは細部まで取得できた。しかし肝心のあのふたりの情報が皆無ならばそれは何の意味も持たない。結局望んでいたデータは何ひとつとして得られなかったのだ。何という徒労。これを徒労と言わずして何を徒労と言うのか。
 クミノは本日の成果を思い出し陰鬱な気分になった……。



<-- scene 2-2 -->

「つーか草間さん、あいつらすんげームカつくんだけど」
 グラウンドでリフティングをしながらヘラヘラ喋り合っている赤いユニフォーム姿――原沢と高柳を指差し、草摩・色が思いっきり顔を顰める。それに対し、武彦がヘッドバンギングの如く頭を上下に振った。同意を示す、ということらしい。
「だろう。俺なんかなあ、バカだのアホだのじじいだのブ男だのヘボ探偵だのモーホーだの屁だのみそっかすだのおまえのかーちゃんでべそだのピー(検閲により規制)だのピー(検閲により)だのピー(規制)だのそれはもう酷い言われようだったんだぞ」
 武彦の口からとめどなく溢れるえげつない言葉に、色の目が大きく見開かれる。
「マジかよ! 俺もさっきボロクソ言われたんだけどさ、奴ら草間さんにまでそんな暴言吐いてたわけ!? つーか誰の許しを得て草間さんにまで絡んでるわけ!? 俺そんなん了解した覚えこれっぽっちもねーぜ!?」
 色は完全に憤っている。武彦の先の証言が実は半分以上でっちあげであったことを知らずに。
「ちっくしょう! 何様だよあいつら! 二中だかニコ中だか知んねーが調子こきやがって! ぜってー許さねえ……あんののぼせ上がった頭、この俺が冷ましてやるぜ!」
 今にも二中コンビに掴みかかっていきそうな勢いで、色がベンチから立ち上がる。

「待てよ、色」
「あぁ?」
 色が声のした方へと顔を向けると、そこにはリオンと暁空が立っていた。
「この俺が、じゃなくて『俺たちが』、だろ?」
「あのクソガキ共の大口、俺らでがっつり塞いでやろうぜ。二度とあんな台詞吐けないくらいにさ」 
 ニヤリと笑ってみせるリオンと、グローブをパンパン叩きながらニッと笑顔を浮かべる暁空。そんなふたりの姿が、そしてふたりの紡いだ言葉が、色の胸をぐっと熱くさせる。
「そうだったな」
 色は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、草間へと向き直り、高らかな声で宣言した。
「俺たち全員の力で、ぜってーにあいつらブッ倒してやる! 草間さん、大船に乗ったつもりで楽しみに待ってな!」

 そして青いユニフォームに身を包んだ選手たちが、一斉にピッチ上へと駆け出していく――

「いやちょっと待てリオン!」
「はい?」
 走り出すなり武彦に呼び止められたリオンが怪訝そうな顔をする。
「はい? じゃない。何だその格好は!?」
 武彦がリオンの上半身をビシッと指差した。その行動の意図するところがわからず、リオンは首を傾げた。
「いや、フツーにサッカーのユニフォームなんですけど」
「どこが普通だ。色が違うじゃないか!」
 そう言いながら、武彦は自分の青いユニフォームをぐいぐい引っ張って強調して見せた。
「俺たちは皆、町内会の名を背負って闘う戦士なんだ! ひとりだけ色違いなんぞ言語道断、許さんぞ!」
 武彦の高いテンションに、リオンのテンションが下がる。
「いや、冗談よしてくださいよ。俺そんなの着たくないですから。大体俺そこの町内会員じゃないし」
「ダメだダメだ! 監督兼キャプテン兼エースストライカーの命令に逆らうなんぞ言語道断、許さ」
「どうしてもっつーんだったら俺帰りますけど。このユニフォームは、俺にとって本当に神聖なものなんで」
 断固たる口調で突っぱねるリオンに、武彦の喉がぐっと詰まる。そもそも武彦としては、ひとりだけカッコイイユニフォームだなんてずるい――本当は色も町内会のものとは違うユニフォームを着ているのだが、色が同じだったのでサッカー事情に疎い武彦は気付いていない――というちょっとした駄々のような気持ちで言っただけだったのに。まさか「帰る」とまで言われてしまうとは。

 貴重な戦力が減ってしまっては困る。でもこのまま引き下がるのも何となく悔しい気がしてならない。武彦はどうすればリオンと自分がうまく折り合いをつけられるかを足りない頭で一生懸命考えた。
 刹那、ふと妙案が舞い降りてきた。武彦は腕組みをして、渋い顔(註:本人が渋いと思っている表情)で言った。
「しかしリオン、その色のユニフォームはやはりマズイぞ。あっちの色と似てて見分けがつかなくなるからな」
 確かにそうであった。自チームは青、対する相手チームは赤。リオンが着ているASローマレプリカは色が言うところのえんじ色である。フィールド上における混戦では、ユニフォームの色で味方か否かを判断することも多い。そうした状況を考えると、やはりリオンには別なものを着てもらわなければならない。
 武彦の指摘は、彼が考えたとは到底思えない程の奇跡的正論であった。さすがのリオンもうーんと唸っている。
「それもそうですねぇ……じゃあ」
「これを着てくれるのか!?」
 リオンの言葉にすかさず食いつく武彦。しかしリオンの返答は武彦が考えているものとは違った。

「いや。アウェイモデルの方にします。それなら文句ないでしょ?」
 言うやいなや、リオンは自陣ベンチへとしゅたっと駆けていく。そして大ぶりなアタッシュケースを手にとると、ベンチの上でかぱっと開いた。何が入っているのかと気になった武彦が見に行くと、その中にはなんと無数のレプリカユニフォームが収納されているではないか。武彦が思わず目を点にする。
「な、なんだこりゃ……」
 リオンは武彦のことなど視界に入っていない模様で、一心不乱に次々ユニフォームを引っ張り出しては、
「これでもない、これも違う……これ、も違うな」
 と呟いてはきれいに畳んでしまいこんでいく。武彦にとってはそのどれもが同じものにしか見えないのだが……。
「あ、あった」
 ようやく目当てのユニフォームを見つけたのだろう。リオンの顔がぱっと輝いた。
「これ、今着てるやつのアウェイモデル。色違うから文句ないでしょ?」
 リオンが広げて見せてくれたユニフォームは、確かにえんじ色ではなかった。しかし、
「いや待て、これ青くないじゃないか!」
 武彦の言う通りであった。ASローマのアウェイモデルは白基調のユニフォームだったのだ。
「当たり前じゃないですか。ローマはホームがこっちの色、アウェイは白ってのが伝統なんだから」
「それにしても白じゃなぁ……」
 武彦が眉を顰める。しかしこれ以上難癖つけてリオンに機嫌を損ねられてはたまらない。
「……よし、わかった。そこまでこだわりがあるならそれで良いだろう……ただし」
「ただし何です?」
 リオンの問い掛けに、武彦は両手を拝むように合わせ、深々と頭を下げながらこう言った。
「頼む。俺にもカッコイイユニフォームを貸してくれ!」 



<-- scene 2-3 -->

 数分後。武彦は満面の笑みを浮かべながらグラウンドの土を踏みしめていた。身に纏っているのはリオンから借りた――「ちゃんとクリーニングに出してから返してくださいよ」と口酸っぱく言われている――ASローマ04〜05年シーズン用のアウェイユニフォーム。しかも背中には『10』の数字と、有名選手のものらしきネームまで入っているのであった。
「おお草間君! トッチィモデルとはまた……うむ。良く似合っているぞ」
 武彦の異変に気付いたトヨミチが目を細めながらうむうむ、と頷く。既に眼鏡を外しているところを見ると、彼の気分はすっかり演技もとい戦闘モードに突入しているようであった。しかし自分のことでいっぱいいっぱい――それを世間では自己中心的人物、という――な武彦は、トヨミチの異変を気にする様子もなく「だろう?」とニヤリと笑って見せた。
「まあ、この天才武彦ならどんなユニフォームを着ても格好良いんだがな……ところでトッチィって誰?」
 武彦の問いにトヨミチは一瞬呆気に取られたような顔をしたが、やがて素に戻って説明を開始する。
「セリエAの名門チームASローマとイタリア代表の司令塔を務めるナイスプレイヤーだ。しかしそれだけでなく、甘いマスクの持ち主且つローマ生まれのローマ育ちということで、地元ファンからは『ローマの王子様』と呼ばれるほど熱狂的に愛されているらしい。俺が知っているのはそのくらいかな」
 うん、うん、と相槌を打ちながら聞いていた武彦だったが、『甘いマスク』と『ローマの王子様』のくだりですっかり舞い上がってしまったらしく、
「おーいシュライン!」
 とやや遠くで零と一緒にパス練習をしていたシュラインを呼び、
「シュライン、実は俺って『ローマの王子様』にそっくりらしいぞ!」
 と、目を輝かせながら、とんでもない誤解を含んだ詐欺ともとられかねないようなことを報告した。

 一方、報告されたシュラインはというと……。
 ――『ローマの王子様』? ローマって都市よねぇ。だったら王子なんていないわよね……イタリアの王子と間違ってるのかも? あ、でもイタリアはもう王政廃止で共和国になってるから違うか。するとバチカン市国のローマ教皇のこと? 教皇の息子さんのことを『ローマの王子様』だなんて言ってるのかしら。でも教皇さまが奥さんなんて持つはずないわよね……うーん。武彦さんったら一体誰のこと言ってるのかしら――などと、ちょっとばかりずれたことを延々考え続けていたが、結局、
「よくわからないけど……まあ、武彦さんが元気いっぱいならそれでいいわ」
 という結論に落ち着いたようであった。

 そう。彼女の言う通り、それで良かったのである。
 何故ならば、もし武彦が「トッチィって誰?」という質問をトヨミチではなくリオンへと投げかけていたならば。武彦は元気いっぱいどころか、ぶんむくれっ面で芝生に寝転び心の中で延々と愚痴を吐いていたかもしれないからだ。

 ちなみにリオンならば、先の問いにこう答えただろう。
 ――トッチィはですね、ASローマだけでなくアズーリの司令塔を務める、ローマが生んだスーパープレイヤーなんですよ。生粋のロマニスタで、ローマサポーターからは『ローマの王子様』と呼ばれるくらい特別な存在なんですけど、プレースタイルへのこだわりがあんまり強いもんだから最近は『わがまま王子様』とか『大きな赤ちゃん』なんて呼ばれちゃってて。それにトッチィって、顔はまぁ良い方なんですけど、実はキャラ的にはかなりおバカ系らいんですよ。ああ、そういや彼って、日本のトンデモサッカー漫画が凄く好きらしくてですね、それに出てきた必殺シュートを真似して骨折したり、通常の試合でも似たようなことやらかして主将に怒られたり、なんか色々アホなことしてるっぽいんですよ。ね、オバカでしょ? なんかそれが草間さんとダブっちゃって、ついそのユニフォーム選んじゃったんですけど、わがまま王子とかバカキャラとかハマってるから別にいいですよね?――と。



<-- scene 2-4 -->

「ひっ、ひいいいいいいいいっ! お、おく、遅れてすみませんんんんん! どどどどうか蹴らないで下さいぃぃぃ!」
 突如、ひとりの男がグラウンドへと文字通り転がり込んで来た。彼の着ているスーツは砂埃でめちゃめちゃだ。到着するなりこんな言動を取る男なんてひとりしかいない。だから誰も別段驚かない。しかし武彦は驚愕の眼差しを彼へと向けた。
「み、三下!?」
 名を呼ばれた三下・忠雄は転がった姿はそのままに「は、はいぃ……」と辛うじて返事をした。
「どうしてお前がこんなところに来てるんだ!? アトラスに頼んでおいたスペシャルな助っ人はどうしたんだ!?」
 武彦が小動物を苛めるかの如く怒鳴り散らす。一方の三下は身を竦めうる限りまで竦め、チワワのような瞳で――といっても分厚い眼鏡に隠れてそんなものは見えないが――弁明を始めた。
「じじじ実は、元サッカー部の上杉先輩が、しゅ、取材中に足を骨折して入院してしまいましてぇぇぇ……」
「何だとぉぉぉ! で、もうひとりは!?」
「マッチョなヤマシタタロー先輩は、ずっと連絡が取れなくてぇぇぇ今日ようやく繋がったんですけどぉぉぉ」
「繋がった! で、どうなった!?」
「それが、なんか『急にタンス甲子園に出ることになったから今日無理、じゃ』ってすぐ切られてしまいましてぇぇぇ……それからはかけ直してもかけ直しても電源が入ってませんって言われましてぇぇぇ……」
「ななな何だとぉぉぉ!?」
 武彦が頭を抱える。ただでさえ人数ぎりぎりのところに、頼みの綱だった助っ人陣の相次ぐキャンセル。そしてその代わりがよりによってこの三下とは。チームに暗雲が立ちこめる。

「おおぉ……何という神の悪戯か! 神よ! このか弱い子羊の群れになおも試練を与えたもうと申すのか!?」
 突然、それまで普通にリフティングをしていたトヨミチが全身全霊を込めて嘆きはじめた……かと思いきや、
「うーん。今の台詞回しはちょっと大袈裟すぎたかな。もっとこう、絶望感を押し出さないとな、うん」
 と、さっくり素に戻って自分の演技を分析している。不思議と誰からも「そんなことをしている場合じゃないだろう」という突っ込みが入らなかったのは、ひとえに彼の演技力の賜物であろう。
「……やっぱり足りないわね。三下くんを含めても十人しかいないもの」
 シュラインが冷静に状況を把握する。しかし、口調は冷静ながらもその表情は険しかった。

 彼女が武彦を伴って食中毒に倒れた町内会の人々を見舞ったとき、会長は消え入りそうな声でこう言った。
 ――あなた方が私共の代わりを引き受けてくださる……それがどんなに私共にとって嬉しく有り難いことか……あなた方が出場してくださるおかげで、試合を成立させられるのですから……我が町内会チームが決勝戦に出場したという記録が残るのですから……私共にとって何にも替え難い栄誉を、あなた方が運んでくださるのです……――
 最後の方は、涙声になっていた。

 絶対に試合を成立させなくてはならない。十一人の選手を揃えなければならない。どうすればいい。片っ端から携帯をかけるか。近場にいる者を強引に引っ張ってくるか。しかし時間がない。試合開始のホイッスルが迫ってくる。
「どうすればいいの……!?」
 シュラインが悲痛な声で叫んだ、そのとき。

「真打ちは遅れて登場するもの、それがセオリーです!」
 はるか後方から聞こえてきたその声に、その場にいた全ての人間が振り向いた。ゴールポストの上に立っているその姿は、逆光に遮られはっきりとは見えない。しかし彼女は、その奇跡の正体を――彼の声を、知っている。
「シオンさん!!!」
 シュラインがその名を高らかに叫ぶと、
「ふっふっふっ! 怪盗、シオン参上!!!」
 奇跡の男――シオン・レ・ハイは、トラボルタばりの決めポーズでもってそれに応えた。



<-- scene 2-5 -->

 ゴール前に、青と白のユニフォームに身を包んだ選手たちが集結している。
「シオン! どうしてここがわかったんだ!?」
 武彦が顔を上げ、ゴールポスト上にいるシオンへと驚きの声をあげる。するとシオンはふふりと笑い、
「おなかが空いて彷徨っていたら、こちらからおいしそうな気配がしたものですから、つい」
 と、全員をがくりとさせるような返答をした。
「こんな土のグラウンドのどこにおいしそうな気配があるんだ……」
「あっ! 巨大おにぎり発見!」
 シオンは前方を指差すやいなや一瞬のうちに跳躍し、がっくりと肩を落としていた武彦を踏み台にして見事着地、おにぎりの元へと駆け寄った。しかしその足が途中で止まる。
「なんと! これは偽おにぎりではないですか!」
 シオンが巨大おにぎりだと思っていたもの――それはサッカーボールだった。「ガーン!」という効果音を自ら発しながら、シオンが両腕で頭を抱える。

「大丈夫?」
 先程シオンにがっつりと踏まれ今もなお突っ伏したままの武彦に、シュラインが問い掛ける。
 すると武彦はのろのろと立ち上がり、
「ああ、平気だ……」
 と、のろのろ歩き出す。しかし歩いている途中で足がもつれたらしく、派手に転んでしまった。
 そこへシュラインが駆け寄り、彼の身体を起こす。
「もう。全然平気じゃないじゃないの。救急箱用意してあるから、痛いところあったら今のうちに言ってね」
「わかった」
 彼の素直な返事にシュラインがにこりと微笑む。それから遠くに目をやると、頭を抱えて苦悶の表情をしたシオンの姿があった。
「頭を抱えたいのはこっちだわ……」
 ぽつりと呟くシュライン。しかしボールとおにぎりを見間違うお馬鹿さんとはいえ、奇跡的にこのグラウンドに現れ、十一人目の戦力になってくれた彼の存在には感謝せねばなるまい。もしも彼がいなかったならば、試合ができなかったのだから。
「……でも、ありがとう。本当に、ありがとう」
 シュラインはぽつりと感謝の言葉を呟いた。



<-- scene 2-6 -->

「ところでシオンさんって、サッカー知ってるの?」
 色がおにぎり男――もといシオンへと問い掛ける。するとシオンはチッチッチッと指を振り、
「わたしを侮ってはいけませんよ。この怪盗シオンに知らないものなどありません」
 とよくわからない返事をした。というか先程から怪盗怪盗と連呼しているが、それには一体何の意味があるのか。いや、ない。恐らくシオンの脳内にて怪盗=カッコイイという変換が行われただけなのだろう。
「んじゃ怪盗シオンさんの知ってるサッカールール、俺に教えてよ」
 色が促すと、シオンはすっくと立ち上がり、色の前へとやってきた。
「まずひとつ。相手の足を蹴ったり、服を引っ張ったりすると、黄色のエンゼルカードがもらえます!」
 人差し指を振りながらシオンが言った。そして今度は手でピースサインを作り、また振った。
「それからふたつ。黄色のエンゼルカードを持った状態でさらに相手の足を蹴ったり、服を引っ張ったりすると、さらにもう一枚、黄色のエンゼルカードが貰えちゃうのです!」
 やたら楽しげなのが気になるが、とりあえず色は続きを促すことにした。
「で? で? 黄色のエンゼルカードが二枚になったらどうなるの?」
 するとシオンは目を輝かせ、わくわくした様子で言った。
「ジャジャーン! なんとなんと、赤いエンゼルカードと交換できちゃうのです!!!」
 多少引っかかる言い回しこそあれど、シオンの答えは間違ってはいなかった。色はニカッと笑いながらシオンの肩をバシバシ叩いて褒め称えた。
「へええ〜! シオンさんすげーじゃん! ちゃんとルール知ってんだ!」
「はい! テレビで見てたので完璧です!」
 胸を張るシオン。しかしその表情がわずかに曇る。
「しかし……ひとつだけ、わからないことがあるのです」
「わからないこと? それってどんなこと?」
 色が問い掛けると、シオンは涙ながらに訴えた。
「赤のエンゼルカードを、どこに送ればいいのかがわからなくて……」
「はぁ?」
 あまりにずれた返答に、色は口をあんぐりと開けたまま静止した。しかしシオンのずれた発言はとどまることを知らない。
「だって、赤のエンゼルカードをどこかに送れば、お菓子のたくさん入ったキュートなエンゼルボックスが貰えるはずなんです! それなのに送り先がわからないなんて、気になって気になって眠れないじゃないですか!」
 そしておいおいと泣き出すシオン。一方の色は完全に絶句していた。このおっさんは理解してるどころか曲解もいいところ、サッカーのルールなんててんで知らないのだ……きっと。
「……とんだ真打ちがやってきたもんだぜ」
 色はごろりとグラウンドに寝転ぶと、心の中で盛大にため息をついた。



<-- scene 2-7 -->

「それでは試合を始めます。両チーム、集合してください」
 主審がハンドスピーカーを使って呼びかける。
「ようし、行くぞ! クサマ・タケヒコーズ!!!」
 武彦が自チームの精鋭たちに号令をかけた途端、彼らからブーイングの嵐が巻き起こった。
「うっわ、何だよそのだっせえネーミング! もっとマシなのねーのかよ!?」
「私は町内会チームの助っ人として参加しにきたのだ。タケヒコーズなどという馬鹿っぽい名前のチームに入った覚えはこれっぽっちもないぞ」
「草間君! そんなチームネームとは……背中のトッチィが泣いているぞ!」
「やっぱ俺、帰ろうかなぁ……」
「どうせならブレーブスとかホエールズの方が良くない?」
「紫東さん……それじゃあ野球チームになっちゃうわよ。しかも昔の」
「どうでもいいけど草間の名を冠したチーム名だけは嫌」
「サンデー・アフタヌーン・フィーバーズ! これでいきましょう!」
 まさかここまで拒否されるとは思っていなかった武彦は、明らかに狼狽している。

「じゃ、じゃあどうすれば」
 武彦がかわいそうな顔で皆に訴えると、
「だから、トロピカルサンデーです!」
「ちょ、それってデザート」
「このユニフォームの色、まさに夏にぴったりさわやかなブルーハワイ!」
「ブルーハワイってアレですよね? あの舌が青くなるアイス」
「ですです! 夏にぴったりさわやかなブルーマンデー!」
「ちょ、曜日変わってるし」
「つーかブルーマンデーってカクテルもありますけど、結局のところ意味的には『憂鬱な月曜日』でしょ? なんか縁起悪くないですかそれ」
「それなら『憂鬱な日曜日』、ブルーサンデー!」
「結局憂鬱のままかよ!」
 シオンのボケ倒しに色とリオンが代わる代わる相槌やら突っ込みやらを入れている。他のメンバーに至っては言葉を挟む気も起こらないらしく、どこか遠くを見ている始末であった。

「ううう。なあ、どうすればいいんだ……」
 武彦がシュラインへと泣きついていく。シュラインは内心呆れ果てつつも「よしよし」と彼の肩をぽむぽむ叩き、
「そうねぇ……」
 と、ぐるりと辺りを見回した。その彼女の視線がふと止まる。
「いやだ。武彦さん、チーム名ちゃんと書いてあるじゃない」
 シュラインはそう言うと、近くにいたクミノのユニフォームを指差した。彼女が着ているそれはサイズが小さく、町内会のメンバーで着用する者がいなかったようで、完全な新品であった。それゆえ他の選手たちが着用しているそれとは違い、プリントされている文字も磨耗することなくきれいに残っている。クミノのユニフォームには、フラクトゥールと呼ばれる独特の書体でこう書いてあった。

 "BLUE THUNDERS"

「『ブルーサンダース』。青い稲妻、ってとこかしら」
「ブルー、サンダース、か」
 チーム名を噛み締めるかのように、武彦が呟く。そんな彼に、シュラインがくすりと笑いかける。
「シオンさん、ニアピンだったわね」
「へ? 何が?」
 武彦がきょとんとした顔で問う。シュラインはそれには答えず、自分の着ているユニフォームのロゴをじいと見つめ、それから武彦の顔を両手で包み込むように軽く叩き、
「さ、試合開始よ。行きましょう」
 と、センターライン目指して走り出した。



<-- scene 2-8 -->

 そして遂に試合開始の時がやってきた。センターラインを挟んで、両チームの選手たちが向かい合って整列する。
「それではこれよりレッドファイヤーズとブルーサンダースの試合を始めます。両チーム、挨拶!」
 主審の号令に、それぞれが「宜しくお願いします!」「ちわっす」「しゃーす!」「たのもう!」等挨拶らしきことを言いながら頭をぺこりと下げる。間もなく両チームのキャプテンを主審が呼びつけたので、武彦と相手の町内会長がそちらへと歩いて行った。

 それを見送った一同が自陣のピッチへと散って行こうとへとした、そのとき。
「うっわ、何? いくら即席チームだからって、女までいんの? え〜? マジぃ〜?」
 二中コンビの片割れ高柳がこんなことを言ったので、ブルーサンダース一同はムッとした顔をして振り返った。それに気付いた高柳は、さらに煽るようにクミノと零に視線をやると、
「しっかもこんな小さい子までいるし。うっわどうしよ、手加減しちゃう?」
 と、相方の原沢へとニヤニヤした顔を向けた。
「てゆかツインテールにニーソって、モロ俺好みなんだけど。なんか、妹属性って感じ〜?」
 原沢がクミノを物色するように、視線を上下させる。するとクミノはあからさまに大きなため息をついた。そして、
「『18禁』の意味するところも理解できないようなお子様に『妹』呼ばわりされる覚えはないわ」
 とピシャリと言い放つ。その瞬間、高柳と原沢の顔が引きつったのを見て、クミノはさらに追い討ちをかけた。
「それから。メーカーの許可も無しに勝手にゲーム画像をサイトに載せるのは著作権に抵触する行為。しかもあなたたちの借りてるレンタルサーバは規約でアダルト禁止を謳ってるわよね。通報されないうちに削除した方が身のためよ。たかぴぃ君とみゆみゆ君?」
 それを聞いたブルーサンダースの面々は呆気に取られた顔をしていたが、やがて一斉に吹き出した。

「え? 何? こいつらそんなだっせえハンドルネームでサイトやってんの? しかもアダルトって!? もしかしてエロゲ!? えぇぇぇぇまじかよー!?」
 色が二中コンビを指差しながら爆笑しはじめると、つられるように他のメンバーの笑い声も大きくなっていく。笑っていないのはいつもビクビクしている三下と、クミノの言ったことがよくわからなかった零だけだ。
「それはそれは……ますますきつく躾けてやらねばな」
 冥月が嘲笑とともに二中コンビを一瞥する。いたたまれなくなったハンドルネームたかぴぃこと高柳は、
「ち、ち、ちくしょう! 覚えてろよてめーら!」
 と、わなわなしながら捨て台詞を吐き、原沢の腕を引っ張りながら走り去っていく。一方のハンドルネームみゆみゆこと原沢は、引き摺られつつも視線はクミノの方へと向けながら、ぽつりと呟いた。
「しかもツンデレ系……? どうしよ、俺、萌えが止まらねえよ……」



<-- scene 2-9 -->

「やった、勝ったぞ!」
 武彦がボールを手に意気揚揚と戻ってきた。そんな彼を見てリオンが不思議そうな顔をする。
「勝った、って、何に勝ったんです?」
 すると武彦は手にしていたボールを高らかに掲げた。
「コイントスだ。見事ボールを手に入れたんだぞ、凄いだろう?」
 するとリオンの表情が呆れのそれに変わる。
「いや、普通は勝った場合、エンドを決める権利を得るんですよ。つまりボールを持ってるってことは、トスに負け」
「いやいや凄いじゃないか草間君! 実力だけでなく運にまで恵まれているとは! もう我らの出る幕は無いと言っても良いくらいだ。なあ、ベルティーニ君!」
 リオンの突っ込みをもみ消すように武彦を褒めちぎったのはトヨミチだ。いつもならそれにも突っ込みを入れるリオンだが、不思議とトヨミチの主張に説得力があるように感じられ、言葉をぐっと飲み込む。
「……まあ、そうっすね。どっち取っても大差無いし」
 やがてリオンは、自分に言い聞かせるようにそう言った。

 暁空は真っ先にゴール前へと到着していた。ぴょいんとジャンプしクロスバーを掴み宙ぶらりん状態になると、ぶらぶら身体を揺らしながら、視野いっぱいに広がる土のグラウンドを観察している。
 センターラインを挟んで向こう側。相手の赤いユニフォーム姿は、それぞれのポジションに収まりながら軽い準備運動をしたり、近くの選手と会話したりしているようであった。しかしこちら側。我らがブルーサンダースの面々はというと、数人固まって漫才、また別のところで数人固まってお喋り、離れたところで数人がしゃがんでぼーっと、隅っこでひとりが内職――内職? まあいい。とにかく、ポジションも何もない状態で散らばっている。
 というか。自分は最初からキーパーをやると決めていた。それゆえここに到着してすぐにキーパージャージをゲット、他の面々からも特に何も言われなかったので、ポジション即決定。それで良かった。
 だが、自分以外の連中はどうなのだろう。

 暁空はぶらんこの要領で身体に遠心力をかけ、手を離し前方へと着地すると、トヨミチやリオンと談笑している武彦の元へと走って行った。
「キャプテーン」
 走りながらそう呼ぶと、武彦が嬉々とした顔をして暁空へと振り向く。
「おうおう! いかにも私がキャプテン武彦だが!?」
 妙に嬉しそうなのが気になるが、今はそんなことを突っ込んでいる場合ではない。辿り着いた暁空は軽く息を整えると、端的に述べた。
「いや、俺以外のポジションってどうなってんのかな、って思って」
「あ」
 武彦が「しまった」という顔をした。



<-- scene 2-10 -->

「みんな集まれぇぇぇぇぇ!」
 必死の形相で武彦が叫ぶと、ピッチに散らばっていたメンバーが続々と彼の元へとやってきた。真っ先に駆けつけた零が心配そうに兄の顔を覗き込む。
「お兄さん、どうしたんですか? 何だか顔が悪いみたいですけど」
「な・に・?」
 零のとんでもない台詞に、武彦の表情が固まる。
「ですから、ええと、何だか顔が悪いように見えて心配なんです」
「か・お・が・わ・る・い……」
 ぷすん、とエンジンが切れたかのように、武彦が崩れ落ちていく。

 間もなく駆けつけてきたシュラインは到着するや否や、屍になった武彦ではなく零のほうへと向かった。武彦と零のやりとりは、シュラインの超高精度な耳にしっかりと届いていたからだ。
「零ちゃん。さっきみたいなときは、『顔』が悪い、じゃなくって『顔色』が悪い、って言うの」
 シュラインに苦笑されながら指摘され、零がはっとする。
「そうでした! 顔色でした! どうしましょう。お兄さん、ショックで屍になってしまいました」
 零がおろおろしている。そんな彼女の肩をぽん、と叩いたのは冥月だ。
「草間の顔、顔色。どちらにせよ悪いのは事実だ。零が気にすることはない」
「あ。言われてみるとそうですよね。じゃあわたし、気にしないことにします」
 にこりと笑う零の頭を冥月が優しく撫でた。一見和やかに見えるやりとりだが、その内容はなかなかに辛辣である。その側でシュラインがげんなりとした顔でため息をついた。

「ブルーサンダースには残された時間がないのだ!」
 トヨミチが絶望の声をあげる。その叫びに、屍を除く一同は瞬時に彼へと向き直った。
「ポジションだ! 何ということであろう! 我々はポジションすら決めずにこのピッチに立っていたのである! サッカー選手としてあるまじき失態! おお、我が同胞草間君……我々に残された道はあるのか……?」
 トヨミチが絶望の面持ちで武彦へとすがりつく。しかしたけひこは、ただのしかばねのようだ――つまり反応が無い。武彦の亡骸にすがりつきながら、トヨミチは号泣した。

「とにかく、さっさとポジション決めちゃいましょうよ。時間無いんだから」
 リオンがしゃがみこみ、土のグラウンドに指でハーフコートの図形を描いている。それからその中にいくつか点を打った。そして顔を上げ、皆に説明する。
「上のふたつがフォワード。その下のダイヤモンド4つがミッドフィールダー、その下の4つがディフェンダー、最後がキーパー。一般的な4−4−2システムです。この中にある点でここがいい、って希望があれば言ってください」

 そこに真っ先に反応したのが零だった。
「お兄さんは、エースストライカーっていうポジションがいいって言ってました」
「はぁぁ?」
 色が呆れた声をあげ、屍を憐憫の眼差しで見つめた。
「草間さん、それはポジションって言わねーよ……」
「それに草間さんじゃあ折角絶好のクロスが入っても、がっつりふかした挙句『急にボールが来たから』なんてどこぞの代表選手みたいに言い訳するのがオチでしょ。あまり向いてるとは思えないんですけど」
 リオンが真っ当な意見を述べたのに対し、割り込んだのはシュラインだった。
「でも武彦さん、ああ見えても観察力はある方なのよ。視野も広いし、相手の動きの予測も案外つけられると思うの。それに瞬発力だってまだ衰えてないから、急に飛んできたパスにも対処できると思う。向いてなくなんかないわ」
 それは分厚いラブフィルター越しに見ているだけなのでは……とその場にいた数名が一瞬思った。しかしシュラインはそんなフィルターなど自らひっぱがして真っ向から武彦を見るタイプの女性だ。そんな彼女がそこまで言うなら、あの探偵は秘めた力を持っているのだろう。それを普段全く活かしていないだけで。
「じゃあ、草間さんがここね」
 左右はとりあえず適当に、とリオンが左側の点を指す。
「他にフォワード希望は?」
「はーい! 俺!」
 元気良く手を上げたのは色だった。彼ならば何の文句も無い。リオンは「んじゃあ」と右側の点を指で埋めた。

「わたしは真ん中がいいです!」
 シオンが地面に描かれた四角形のド真ん中を指差した。そこはちょうどダイヤモンドの中央だったので、いつしか決定役になっていたリオンを唸らせた。
「んー。そうだなぁ……他に真ん中っつーかミッドフィールダー希望の人います?」
 すると屍にすがっていたトヨミチがぱっと顔を上げ、挙手した。ややあって、シュラインも控えめに手を上げる。
「三葉さん右、シュラインさん左でいいですか?」
「ああ、構わない」「いいわよ」
 ふたりの同意を得て、リオンは指で点を埋めていった。ダイヤモンドの残りは上と下。どちらも真ん中といえば真ん中である。高い位置をシオンに任せるのははっきり言って心配だが、しかしそこは色やトヨミチがフォローするだろう。
「じゃあ、シオンさん上、俺下ね」
 そう言うやいなや、シオンが不満げな声をあげた。
「上じゃなくて真ん中がいいです!」
「いや、ここ真ん中ですから。ほら、これをちょっと下げると、真ん中でしょ?」
 リオンがダイヤモンドの頂点に指を置き、数センチばかり下へとずらす。するとシオンの顔がほころんだ。

「そういえば、クミノちゃんや冥月さんは希望ないんですか?」
 リオンの問いに、冥月は黙って首を振った。一方のクミノは、
「キーパーかディフェンダーって思ってたから、ディフェンダーでいいわ。零さんと私でここ守るから」
 と言いながら、4つの点の内側ふたつをぽん、ぽん、と指差した。
「じゃあ冥月さんは右サイドバックで」
 リオンが右側の点を示す。
「クミノちゃんと零ちゃんはディフェンスに専念するポジションなんですけど、左右のディフェンダーはサイドバックっていって、ディフェンスもオフェンスも両方やるのが一般的なんですよ。冥月さんなら向いてると思うんで……あれ?」
 リオンが首を傾げる。全員埋めたはずなのに、左サイドバックが余っているのである。

「てゆか、俺まだなんだけど?」
 それまで黙ってリオンたちのやりとりを見ていた暁空がおずおずと手をあげた。はっと気付いたリオンが慌しく両の手のひらを合わせ、「スミマセン!」と頭を下げると、暁空はカラカラと笑った。
「いや、別にいいんだけどね。最初っからポジション決まってたから」
 そう言いながら、暁空は最後方の点をグローブで示した。言うまでもなくそこは、ゴールキーパーの場所。
「これで全部埋まった?」
 暁空がリオンに問うと、リオンは腕組みをしながら唸った。
「それが、ここだけ空いてるんですよ。おかしいな、全部埋まったと思ったのに」
「まさか、最初っから十人しかいなかった……っていうオチじゃないよなぁ」
 暁空が眉を顰めたそのとき、はるか向こうから声が聞こえてきた。

「おーい! 何やってんだよてめーら! 今更作戦会議ってやつ? 笑わせんじゃねーぞ!」
「いい加減にしないと不戦敗になっちゃうよ〜? 不戦敗ってめちゃ恥かしくね〜?」
 たかぴーとみゆみゆが地面に寝転びながらこちらへと声をかけてくる。悔しいが彼らの言う通り、これ以上試合開始を遅らせるわけにはいかない。
 リオンはさっと立ち上がると、皆を各自のポジションへ向かうよう促した。そして自らもいわゆる『ボランチ』の位置へと入る。入りながら考える。あとひとりって誰だったっけ……と。
「あ、あ、あ、あのぉ〜!」
「うおっ!」
 いきなり背後から声をかけられ、リオンは思わず飛び上がってしまった。「誰だ!?」と振り返ると、そこには最後のひとり――三下が立っていた。
 やばい。リオンは彼の存在を忘れていたことを激しく後悔した。よりによって三下だなんて。よりによって余っていたのがサイドバックだったなんて。彼にポジションやらルールやらの説明をすることを考えるだけで頭が痛くなる。
 リオンは無言で三下を左サイドバックの位置へと引っ張っていくと、
「クミノちゃんの指示がない限り、一歩たりともここから動かないでください。絶対にです。いいですね?」
 と、眼光鋭く低い低い声で三下に言い聞かせるや否や、ぱっとクミノの元へと駆け寄りその手を握り締め、
「クミノちゃん。悪いけど三下さんの面倒見てやってあげて。クミノちゃんに任せるから。じゃあ!」
 と、言い終えると同時に自分のポジションへと逃げ帰って行った。

 一方、取り残されたクミノは暫く呆然としていたが、はっと我に返るなりリオンに向けて怒鳴り散らした。
「おい! 私だってあんなお荷物抱えるのは御免だ! 冗談じゃない! お前がや」
「クミノさぁぁぁぁん! ボク、どうすればいいんですかぁ〜!? サッカーなんてやったことありませぇぇぇぇん!」
 途端、三下が横から泣きついてきたので、クミノはリオンの後ろ姿を睨みつけ、そして三下を睨みつけると、
「私の指示があるまで動くなと言われていただろう! さっさと元の場所に戻れ! そして二度と私の前へと顔を出すな!」
 ぴしゃり。と、言い放つ。

 そして、試合開始を告げるホイッスルの音がフィールドに鳴り響いた。



<-- scene 3-1 -->

 草摩・色が軽快にドリブルで前進して行く。そんな彼にレッドファイヤーズの選手と――
「こら! ダンゴはダメだ! ダンゴはぁ!」
 三葉・トヨミチが前方へと大声で叫ぶ。というのも、屍から運良く灰にならず蘇生した草間・武彦と珍奇な模様の描かれたスカーフを首に巻いているシオン・レ・ハイが一斉に色が持っているボール目掛けて走っていたからだ。
「えええ! どうしておだんごを否定するんですか!? あんなに美味しいじゃないですか!」
 シオンがぐるりと後ろを向き、トヨミチへと抗議する。
「とにかく、ボールばかり追っていちゃダメだ! 空いたスペースへと走るんだ!」
 仕方なくシオンにわかりやすいように言葉を選んだトヨミチだったが、またもシオンが振り返り声をあげる。
「そんな! どうしておにぎりを追っちゃダメなんですか!? 大事な食料なのに!」
 がっくり。トヨミチはがくりと膝をつきそうになったが、こんなことでめげていては劇団のリーダーなど勤まらぬ。劇団員の中にはシオンのように言葉の理解の悪い者もいることがある。そんな彼らを理解させてこそ、真のリーダーなのだ。
「それならばハイ君! ハーフタイムになったらスペシャルな食料を提供しようではないか! だからそれまでは君にとっては辛いこととは思うが、どうかおにぎりもおだんごも我慢してくれ! 頼む!」
 するとシオンの表情がぱっと明るくなった。
「わかりました! おなかが空けば空くほど食べ物はおいしいのです! 怪盗シオン、頑張ります!」
 そしてシオンは指示通り、空いたスペースへと駆けていった。

「ディフェンス、ラインもっと上げて!」
 はるか後方に控えている最後の砦こと紫東・暁空が前方を指差しながらディフェンダー陣に指示を送る。実は暁空、キーパーをするなら一度はこういう指示を出してみたかったのだ。気分はすっかりヒーローである。
 暁空はその場で古武術の型をいくつか取ると、グローブをばしばし叩いてニヤリと笑った。

「らいん、って何ですか?」
 草間・零が隣にいるササキビ・クミノに問い掛ける。
「よくわからないけど、ディフェンダーが全員前のほうにいれば、敵のオフサイドを誘いやすいみたい。それに今はこっちが攻めてるから、こぼれ球を拾うためにも前にいたほうがいいのかもしれないわ」
 クミノが状況を分析しながら説明する。すぐ前のポジションのリオン・ベルティーニも相手陣まで入り込んでいるところを見ると、先の説明はあながち間違いではなさそうだ。
「わかりました。じゃあ前に行きますね」
 零は頷くと、短距離アスリートのようなスタートダッシュを決めた。そしてそのままトップスピードに乗り――
「ちょっと! 零さん! 行き過ぎ!!!」
 何と零は、相手陣内どころかゴール前まで到達しているではないか。クミノはあらん限りの力を腹に込めて叫んだつもりだったが、あまりに遠すぎて零の耳には届いていない。
 しかし、中盤にいたシュライン・エマがその聴力でもってクミノの言葉を代弁した。
「零ちゃん! クミノちゃんが指示を出してるわ! すぐに戻って!」
「はい!」
 返事をするやいなや、零はトップスピードで自陣へと走り出した。

 戻ってきた零に、クミノはぐったりとした様子で言った。
「零さん、前に出るっていってもせいぜいセンターライン位までにしておいて頂戴。それから、足が速いのはいいんだけど、できれば女子百メートル日本記録一歩手前くらいのスピードに抑えてくれないかしら」
「わかりました。じゃあそのくらいのスピードにします」
 零がにっこり笑う。そう、彼女には何の悪気もないのだ。ただ運動能力が一般人のはるか高みにあるだけで。あと、素直すぎるあまり、どんな状況でも指示は指示どおりにしか実行しないという融通の利かなさがあるだけで。
「クミノさぁん! ぼ、ボクはどうすれば」
「だからこっちへ来るなと言っただろう! さっきの場所に戻って座ってろ!」
 いきなり目の前に現れた三下・忠雄を一蹴すると、クミノはきっ、と前を向いた。その視界の右端を、黒・冥月が上がって行くのが見えた。

 色がペナルティーエリアよりかなり後方で苦戦している。というのも、相手チームは二中コンビ以外全員がディフェンダーに専念しているのである。いくら素人とはいえ、大人数で前方左右塞がれていると、パスコースを探すのさえ難しい。武彦は「ボールよこせ!ボール!」などとほざいているがポジション取りが悪く、左側の敵ディフェンダーの向かい側にいる。一方のシオンはどこに行ったかわからないが視界には入っていない。
 これは一旦後方に下げたほうが無難か?
 色はボールキープは緩めないままちらと後ろを見やった。しかしトヨミチにはたかぴぃが、リオンにはみゆみゆが、それぞれマンマークについている。ここでふたりのどちらかへと出すのはリスクが高すぎる。

 どうする? 色がいま一度辺りを見回したそのとき、ふいにひとりの青いユニフォーム姿がオーバーラップしてくるのが視界に入った。あのポニーテールは冥月だ。間違い無い。
 冥月は丁度センターラインを超えたところで色に目を向けると、指をちょいちょいと自らの方向へと動かした。ボールくれ、ということらしい。色は迷わず強いパスを出した。
 これでいい。一旦後方でボールを回してポジションを立て直せば、またいくらでも攻撃のチャンスは見出せる。
 しかし冥月のとったアクションは、色が思い描いていたそれとは全く違っていた。
「なっ!?」
 色が目を見張る。何故なら冥月は、色が出したパスをワンタッチコントロールするどころか、ダイレクトでシュートに行ったのである。しかもセンターラインよりやや敵陣寄りくらいの場所から。これが決まれば超ロングシュートである。しかし色は内心では決まるとは思っていなかった。枠をしっかり狙ってはいるようだったが、恐らくは相手の壁に弾かれる。壁を越えたとしても何せあの距離だ。性格にゴールマウスを捉えられるとは思えない。ポストに弾かれるかディフェンダーに当たるかしてコーナーキックを得られれば御の字。そのくらいの気持ちだったのだ。

 しかし。冥月が放ったシュートは凄まじかった。相手ディフェンス陣のほんの僅かの隙間を抜けたかと思うとぐんと急上昇し、上方のゴールネットに突き刺さったのである。
 フィールドを静寂が支配した。審判ですら、唖然として言葉も出ない有様である。それほどまでに彼女のシュートはその場にいた全ての人間の常識を超えたものだったのだ。
「審判。ゴール、入ったぞ」
 冥月の声に、審判ははっと我へと帰ると、慌てた様子で先制点を告げるホイッスルを吹き鳴らした。



<-- scene 3-2 -->

「ななな何だ今の!?」
 たかぴぃが信じられないといった顔でみゆみゆを見た。一方のみゆみゆはというと、あまりの出来事に声も出ないらしい。
「あ、ありえねえ! あんなロングシュート……! あいつ本当に女なのか……!?」
 その言葉に冥月がぴくりと反応する。しかし所詮はガキの戯言だ。聞かなかったことにしようと思った。が。
「いや、あいつ男だから。だからロングシュート決めても何しても全然おかしくなごふぁ!」
 たかぴぃをフォローしようとでも思ったのであろう、武彦は本日二度目の禁句を口にしてしまい、冥月の渾身の飛び蹴りをまともに腹に食らう羽目になった。
「何度も言っているが、私は女だ。お前たち男が女々しいだけだろう」
 憮然とした表情で、冥月が自陣へと戻って行く。ぴくりぴくりと痙攣している武彦に、たかぴぃが駆け寄った。
「だ、大丈夫か、おっさん……」
 武彦はそれには答えず、たかぴぃの目を涙目で見た。
「な、言っただろう……あいつは男だって」
 そしてかくりとその場に伏した。

 自陣ピッチでは、先制点でノリにノッてきたトヨミチがメンバーに声をかけていた。
「ようし、我々も黒君に負けてはいられないぞ! こうなったらどんどん追加点をもぎ取ってやろうじゃないか!」
「当たり前っしょ! 二点目は必ずこの俺が決めてやる!」
 色が自らに気合いを入れるように両の拳をぐっと握った。どうやら冥月のゴールは彼に闘争心を芽生えさせたようである。ストライカーの自分がサイドバックに負けてはいられない、絶対に点をもぎ取ってやる、といったところだろうか。
「ところで草間君はどこへ行ったんだい?」
 トヨミチの問いに、色が「さあ?」と首を傾げる。
「ま、別に草間さんいてもいなくても関係無いけどな。何ならみんな寝てていいくらいだぜ?」
 ニヤッと笑ってみせる色に、トヨミチは少し心配そうな顔で言った。
「しかし草摩君、先程はディフェンスに囲まれて何もできなかったように見えたが」
「いやいやいや、さっきのは周りのフォローが無さすぎただけ! それに」
「それに?」
「もう奴らの突破法は考えてある。次はさっきみたいにはいかねーぜ?」
「それは頼もしいな」
 自信タップリな色に、トヨミチがニヤリと笑いかけた。

 一方ディフェンス陣は、追加点のことよりまずはこれから始まる相手側の攻撃を気にしていた。
「あのエロゲコンビ、二中だって言ってるのにデータが無いってどういうことなんだろ」
 暁空が首を傾げる。データを収集したクミノも難しそうな顔をしていた。
「わからない。二中自体は確かに全国区のチームらしくて情報も豊富にあったんだけど、どの試合履歴にも彼らの名前はなかったのよ」
「奴ら、ただホラを吹いてただけなんじゃないか?」
 冥月がフッと笑う。確かにその可能性はなくもない。しかしそんなすぐバレそうな嘘をつくものだろうか。いや、頭の弱い彼らなら充分にあり得る。しかしクミノはそれを否定した。
「いや。あのふたりが二中生で、サッカー部に在籍していることは確か。ただ、それ以上のデータが……あ」
 クミノの瞳が見開かれる。そして「失態だ」と呟いた。
「え、何が?」
 と暁空が問うと、クミノは自嘲気味に言った。
「あのとき頭に血が昇ってたものだから、肝心なところを見落としてたのよ」
 ふうと息を吐き、クミノが話を続ける。
「生年月日からするとあのふたりは入ったばかりの一年生の可能性が高い。一年がこの時期に部員数も多く人材も豊富な二中サッカー部のレギュラーなんて獲得できるはずないし、ベンチ入りするのも難しいに違いない」
「なるほど。つまり奴らは補欠以下ってことか」
 冥月が二中コンビに目をやり嘲笑するも、クミノの表情は晴れなかった。
「二中だけに執着しないで小学サッカーのデータも集めておくべきだった……失態だわ」
 そんなクミノの肩を暁空がぽむ、と叩く。そしてニカッと笑いかけた。
「奴らが所詮二中レギュラーに及ばない程度の連中だってことがわかれば充分さ。きっと奴ら、二中って名を出すだけで相手がビビると思ってんだよ。それって二中のカラ被ってホラ吹いてんのと変わらないだろ?」
「……それもそうね」
 クミノが苦笑した。

「ところで草間君はどこに消えたのかな?」
 再びトヨミチが呟くと、やや遠くにいたリオンがタッチラインの向こうを指差した。
「あそこで倒れてます」
 武彦の安否を確認する間もなく、試合再開のホイッスルが鳴った。



<-- scene 3-3 -->

 武彦と彼を介抱しているシュラインを欠いているため、現在ブルーサンダースは相手よりふたり少ない状態で戦っていた。武彦とシュライン、双方とも左寄りのポジションだったため、現在は色のワントップ、ボランチのリオンがシュラインの場所へと入り、何とか形だけは繕うことができていた。
 しかし、さすがにふたり欠けているとなると辛い。残っている皆が守るべきスペースが格段に大きくなるからだ。しかもお荷物三下を抱えているため、結局のところ三人欠けと同じようなものである。
 勿論、その隙を突かない二中コンビではない。彼らの猛攻撃は、既に始まっていた。

 たかぴぃが右サイドをドリブルで突進してくる。そのスピードはとてつもなく速かった。リオンと、逆サイドは冥月に任せたトヨミチが彼を止めようとボールを奪いにいくが、リオンのスライディングに対してはボールを浮かせ自らもリオンを飛び越えかわし、その前に立ち塞がったトヨミチにはフェイントをニ、三入れて翻弄し、次のフェイクで完全にトヨミチの逆をついて彼を完全に抜き去った。
 たかぴぃを止められなかったリオンがすぐさま立ち上がり追いかけようとするも、彼のドリブルのあまりの速さにどんどん離されていく。たかぴぃの進路には三下がいたが、障害物にもならずいとも簡単に抜かれてしまう始末である。きっとたかぴぃ的には抜いた、という気持ちすらなかったに違いない。

 彼の資質を判断するのに時間など必要なかった。この数プレイだけで、彼がいかに素晴らしいドリブラーであるかをクミノは思い知った。口だけではなかったということか。
 彼を自分ひとりで止めるのは無理だ。
「零! ダブルチーム! ふたりであいつを止める!」
「はい!」
 零が瞬時に反応し、クミノと共にたかぴぃへと詰め寄った。たかぴぃがニヤリと笑う。
「手加減しないぜ」
「望むところよ」
 クミノの言葉にたかぴぃは満足したように笑うと、何とクミノと零の間へ真っ向から切り込んできた。
「なっ!?」
 クミノが目を見開く。まさかここを突破してこようなどとは思っていなかったのだ。
 零が姿勢を低くしてプレッシャーをかける。クミノは零との距離が限りなく小さくなるようポジションを取って零と同様の姿勢をとった。隙はない、筈だった。

 しかしたかぴぃは、スピードだけでなくフィジカルにも秀でたプレーヤーであった。彼はまるで二枚扉をこじ開けるようにふたりの間へと上半身を入れ込むと、ファウルぎりぎりのプレーでクミノに当たる。クミノのバランスが崩れた。一枚の扉が僅かに開いたときにできた隙間がその向こう側を見せてしまった。そしてその向こう側こそが、たかぴぃの目指す場所。
 たかぴぃはなお立ち塞がる零の側面から背面へと上半身を入れ込むと、なおも止めようとするクミノと零を弾き飛ばさん勢いでドリブルを始めた。残っているのはもうキーパーだけだった。

 しかし、ブルーサンダースはまだ諦めてはいなかった。本来ならはるか前方にいるはずのトヨミチがたかぴぃへと立ち塞がる。だが、そこはペナルティーエリア内。あまり激しいディフェンスをすることはできない。やがてリオンもゴール前へとやってきて、たかぴぃのシュートコースを狭めるようポジションを取った。
 トヨミチの援護に向かったほうがいいのか。それともこのコースを死守するべきか――
 
 突破した!

 リオンが考えているうちに、たかぴぃがトヨミチをドリブルで抜き去ったのだ。こうなったらあとはリオンが彼へと向かっていくしかない。しかし奴は間違いなく本物のプレーヤーだ。あのドリブルを自分が止められるのか? このペナルティーエリア内で? クミノと零は自分のフォローに間に合うのか?
 いとも簡単に仲間が抜かれていく様を目の当たりにし、まして自分でも体験したリオンは、どの選択肢がどこに繋がっているのかわからずにいた。たとえ最善の選択肢を選びきったとして、果たしてそれが本当に最善な結果をもたらすのか、それすらも。



<-- scene 3-4 -->

 突如、前方から叫び声が放たれた。
「冥月さん! もうひとり来てる!」
 色の声だった。さっきまで色はみゆみゆのマンマークに専念していたのだが、みゆみゆが全くやる気を見せないので、もしかするとたかぴぃひとりに決めさせるつもりなのかもしれない――そう思った矢先、みゆみゆが怒涛の勢いで敵陣目掛けてダッシュしていったのだ。

「ちっ。不甲斐ねえな〜。あの野郎。あんなんさっさとひとりで決めちまえっての」
 のらりくらりとした口調で、みゆみゆがぼやく。ぼやきながらも走る速度は緩めない。そこに冥月が立ち塞がった。
「ふたりならば決められる、とでも言うのか?」
 彼女の問いにみゆみゆは答えず、
「くだらないこと聞く前に、足元見たほうがいいんじゃん?」
「足元?」
 冥月が足元を見る。そこに写っているのは自分とみゆみゆの影だけ――その影が動いた。冥月が足元に気をとられた隙に、みゆみゆが走り出したのだ。
「あのガキ!」
 冥月が、そして後方からは色が、みゆみゆを追いかける。追いつけない距離ではない。ふたりが疾走する。一方のみゆみゆは左サイドからゴール前へと切り込んでいく。

 リオンと対峙していたたかぴぃが、瞬時に身体を切り返すとペナルティーエリアの外へと出た。
「原沢!」
 たかぴぃがターゲットを確認し、素早いパスを出す。たかぴぃとターゲットことみゆみゆの間に青いユニフォーム姿は無かった。みゆみゆはそれをワントラップでキープするなり、ゴール前へとクロスを上げた。

 そのボールはやや高めに弧を描いている。恐らくたかぴぃの頭に合わせるつもりなのだろう。
 暁空がディフェンス陣の位置を瞬時に確認する。
 今たかぴぃについているのはトヨミチとクミノ、そして零だけだ。空中戦となるとクミノと零には荷が重い。背の高いリオンはたかぴぃのポジショニングの巧みさに彼の前を取れないでいる。
 色と冥月はみゆみゆを警戒しているようで、彼から少し離れたところからみゆみゆと、ボールの動向をかわるがわる見ている。こうなると、頼みの綱はトヨミチだけか? そしてもし彼がダメならば、あとはもう自分しかいない。
 ヘディングシュートを防ぐ練習は少しはした。しかし実戦ではどんなボールが飛んでくるやらわからない。いや、どんなシュートが飛んできても、自分は止めなければならないのだ。

 そのとき。みゆみゆの上げたクロスボールの軌道が変化しはじめた。暁空から見れば『こちら側』へと軌道を変えたボールは、ぐんぐんとその曲がり具合を大きくしている。まるでボールが意思を持ってゴールを狙っているように。
 暁空はたかぴぃのヘディングを警戒してポジションを若干左寄りに取っていた。しかしボールは、ゴールの右端を狙って曲がってきている。暁空は瞬時にそちら側へと駆け出した。ボールはゴールマウスの手前まで迫っているが、今ならまだ間に合う。跳躍した暁空が右腕を伸ばせるだけ伸ばす。キャッチは無理だが、弾くことなら余裕で可能だろう。
 しかし、その暁空の表情が一変した。ゴール右端目掛けて真っ直ぐ飛んできていたはずのボールが、かくんと落ちたのだ。野球でいうところのフォークボールのように、落ちたのだ。暁空は空中で身体をよじり、落ちゆくボールへと右腕を伸ばした。
 掠ったのは小指だけだった。

 てん、てん、てん――ゴールマウスの中を、ボールが小さく弾んでいたが、やがて静止した。



<-- scene 3-5 -->

「ゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴルゴォォォォォォォォォォォォォル!!!!!」
 両腕を水平に伸ばしながら、たかぴぃが「ブーン!」と飛行機のごとくゴール前を走り回っている。そんな彼の元へとみゆみゆが歩いて行き、その頭をぺしりと叩いた。
「ちょ、おま、何すんだよ!」
「何すんだじゃねぇよ。俺の手ぇ煩わせやがって。あんなんひとりで決めろ」
「んーなこと言ってホントは自分が決めて嬉しいくせによ」
「あんなん決めて当然だっつーの」
 二中コンビがギャーギャー騒ぎながら自陣へと戻って行く。

 暁空が呆然とした顔でゴール前に寝転んでいる。微動だにしない彼を見て、もしかしたらショックを受けたのかもしれないと、色が駆け寄った。
「暁空さん、今のは事故だから。あんなシュート誰にも止められないって。気にすんな」
 すると暁空はむくりと起き上がり、嬉々とした顔をして色に向かって両腕を広げた。
「すげえ! 見た? 今の魔球!」
「え」
「凄くない!? まさか漫画以外であんな魔球見れるなんてさ。だって今の、こう来たかと思ったらこう曲がって、最後こう落ちたんだぜ。アスナロ球団でもあんな魔球見たことないよ俺!」
 両腕をフルに使いながら、暁空がみゆみゆのシュートの軌道を熱弁する。そして、
「やばい。俺、熱くなってきた。どうしよ、ワクワクが止まらねえ」
 と言うなりがばりと立ち上がり、自らの両頬をバシバシ叩く。そんな彼を見て、色がぽつりと呟いた。
「ショック受けてたんじゃなかったんだ……」

「なんだぁ? もう追いつかれてるじゃないか。やはりこのキャプテン武彦がいないとダメなのか!」
 武彦がフィールド内をずんずん歩いてくる。しかしその矢先、彼は目を丸くして「うおっ!」と身を屈めた。ブルーサンダース一同が一斉に彼目掛けてスパイクやボールやスニーカーを投げつけたからである。
「ななな何すんだお前ら!」
「何すんだじゃねー! 誰のせいで追いつかれたと思ってんだよ、このバカキャプ!」
「失言かました結果ぶっ倒れて寝転んでたアホをキャプテンなんて呼びたくないっすね」
「何ならもう一度蹴飛ばしてやろうか?」
「ああああすみません! すみません! お願いですから蹴らないでくださいぃぃぃぃぃぃ!」
「お兄さんのばかー! ふぐりなしー!」
「ちょ、零ちゃん、どこでそんな言葉覚えたの!?」
「やっぱり銃は持ってくるべきだった……今日の私は失態だらけだ」
「バッカだなぁ。あんな魔球拝むチャンス棒に振るなんて。マジ勿体無いって」
「草間君! キャプテンともあろう者が何という体たらく……失望したよ」
 言っていることは様々だが、そのほとんどが武彦への非難であった。
「ご、ご、ご、ゴメンナサイ……」
 ブルブル震えながら武彦が謝罪する。

「なんと! 追いつかれているではありませんか! この怪盗シオンがいない間に一体何が!?」
 シオンがグラウンドに足を踏み入れるなりきょろきょろしている。しかし奇跡的に武彦と同じ目には遭わなかった。何故なら皆もう投げるものを持っていなかったからである。
「おいシオン! お前どこに行ってたんだ!」
 武彦がすっくと立ち上がり、シオンをビシッと指差す。「どの口がそれを言うか」という突っ込みが誰からも入らなかったのは、皆呆れ果てて声も出なかったからである。
 一方、シオンの弁明はこうだった。
「いやぁ、実はあまりにおなかがすいていたものですから、そこのスーパーでひととおりの食べ物を試食してきたのです! ですからもう元気むんむんです!」
 そしてビシっと決めポーズ。開いた口が塞がらなかった一同は、おのおののスパイクやスニーカーを拾い、
「さって試合再開、再開っと」
「さあみんな! それぞれのポジションへと戻るのだ!」
「取られた分取り返さないとね」
 などと口走りながら、自陣ピッチへと散らばって行ったのであった。



<-- scene 3-6 -->

 キックオフの瞬間、とてつもないスピードで走り出したのはシオンだった。激しく舞い上がる砂埃に、相手選手が手で目を覆いながら咳き込んでいる。
「これぞ忍法、目潰しの術です! さあさあリオンさん、パスをくださーい!」
 シオンが両手をくいくいと自分に向け「カモン!」のジェスチャーを取っている。
「いやいやそこオフサイドだから! 無理!」
 リオンはボールを支配しつつ敵陣ゴールのまん前、オフサイドポジションにいるシオンに突っ込んだ。そうしているうちに二中コンビがリオンを囲もうと走り寄ってくる。
「クミノちゃん!」
 リオンが一旦最終ラインまでボールを下げる。パスを受けたクミノは一旦横の零へとボールを回し、零はダイレクトに右斜め前方へとボールを蹴り出した。
 そこへ冥月が走り込みボールをキープ、地を這うようなドリブルで疾走していく。しかしみゆみゆが冥月の進路を塞ごうと走ってくる。冥月は視線と上体を右へ傾け、右斜め前へと大きく足を踏み出した。みゆみゆもその動きに瞬時に反応する。
 しかし彼の読みは外れていた。冥月は右から彼を抜こうとしたのではなく、最初から逆方向へのパスを頭に思い描いていたのだ。冥月の左足の外側から蹴り出されたボールが、中盤のトヨミチを経由し、前線の色まで渡った。

 ボールをキープしている色を、一斉に相手ディフェンス陣が取り囲む。左右前方を塞がれパスコースは後ろだけ。最初の攻撃と同じ状況である。しかし今回は同じ結果にはならなかった。分厚い壁をぶち破る攻略法を、色は既に編み出していたのである。
「よっ、と」
 何と色はその場でリフティングを始めたのだ。右腿、左腿、右肩から首の後ろを経由させ、左肩へ。そして左肩からポン、と弾かれたボールは彼の頭上でぴたりと止まった。
 しかしここからが彼が編み出した攻略法の真髄であった。色は絶妙なバランス感覚でもってボールを頭上にキープしたまま、くるりと方向転換し、背中から壁へともたれかかっていったのである。
 色を塞いでいた壁は厚かった。しかしその強度は呆気ない程に、脆かった。

 頭上にあるボールをどうやって奪えばいいのか。必死で考える相手ディフェンス陣だが、所詮は素人の寄せ集め。手を使えば反則になってしまうし、かといって足が届くかどうか。うっかり頭を蹴ってしまっては反則だ。体当たり? それもダメだ。素人の彼らにはどこからどこまでがファウルなのか、その線引きがわからない。そこへ玄人の色が、ファウルを示す線のわずか手前に位置する力加減で、背中から突っ込んでいく。
 壁が崩壊していく音が聞こえたような気がした。

 色はひとつジャンプして頭上のボールを高く弾ませると自らも跳躍、バク宙の要領で身体を大きく後ろへ逸らし、落下してくるボールを右足でとらえた――オーバーヘッドキック。
 強烈な回転のかかったボールが相手ゴールのネットを磨耗させていくのを見ながら、色が着地する。
 得点を告げるホイッスルの音が聞こえると同時に、色は高らかに叫びながらガッツポーズをした。

「色!」「色くん!」「草摩君!」「シッキー!」「タッキー!」
 武彦、シュライン、トヨミチ、リオン、シオン。仲間たちが次々と彼を祝福に訪れてはもみくちゃにしている。
「ちょ、ちょ、痛、やめ、重、くるし」
 飛びかかられ、押しつぶされ、頭を叩かれ、髪を引っ張られ、名前を間違われ――痛いし重いし苦しいし突っ込みたいのだけれど、それでも色は笑顔だった。



<-- scene 3-7 -->

 まさか二点も取られるとは思っていなかったのであろう。二中コンビはキックオフ直後から獣のような形相でブルーサンダース本陣へと攻めてきた。しかしその血気はかわいそうなほどすぐに削がれることになる。
「シオン! チャチャチャ! シオン! チャチャチャ!」
 何とペナルティーアーク内で、四十は過ぎたであろうおっさんがが自分で自分を応援しながら何とも形容し難い前衛的な踊りを披露しているのである。二中コンビの足がぴたりと止まった。
「原沢、フィールド内で踊るのって反則か……?」
「わからね……ルールブックにそんな項目ないし。多分」
「んじゃ普通にかわせばいいのか……?」
「いーんじゃねえの……たぶ、ん!?」
 突如シオンのステップのダイナミクスが増したので、二中コンビは「ひいっ!」と身を竦めた。
「シオン! シオン! チャチャチャチャシオン!」
 いつしかシオンの、自らを鼓舞するフレーズが変化していた。それと共にダンスも一層ヒートアップしていく。首に巻かれたスカーフがはち切れんばかりの激しさだ。
「や、やべーってこのおっさん! どっかイッてるって絶対!」
 たかぴぃがガクガク震えながらみゆみゆの肩にすがりつく。
「や、触んな! 俺だってこええんだよ!」
 たかぴぃを払いのけるみゆみゆの腕もガクガクしている。
「足元がお留守になってるぜ」
 たかぴぃがキープしていたボールをリオンが掠め取った。すると「ぎゃああああああ!」と叫び声。
「いいい今、足に! 足が! 足を! 何かが!」
 たかぴぃはすっかり恐慌状態に陥っていた。シオンの踊りはまだまだ終わらない……。



<-- scene 3-8 -->

 ドリブルしながら、リオンは幼い頃のことを思い出していた。生まれ育ったローマの町並み。トスコラーナの夏祭り。オスティアの海。青い地中海と青い空に包まれた情熱の国、イタリア。
 イタリアの少年たちは物心ついたときには既にサッカーボールを蹴っている。街角、学校、広場、砂浜、ボールひとつあれば、どんな場所でも子供たちのコロッセオになる。
 コロッセオには壁がない。人種、言語、性別、貧富、どんな壁もたったひとつのボールで取り払うことができる。
 だからリオンはサッカーが大好きだった。ボールを蹴っているときならば、裕福な家に生まれ育ったことを疎まれることもないし、ブロンドの髪を笑われることもない。言葉がわからない移民の子たちとも、サッカーという共通の言語でわかりあえる。
 こんなに素晴らしいスポーツを、リオンは他に知らない。こんなに神聖なスポーツを、リオンは他に知らない。

 初めて日本の地に降り立ったとき、リオンは大きな違和感を覚えた。町を歩く人の殆どが同じ髪の色を同じ瞳の色を同じ肌の色をしていたからではない。人々が交わす言葉の響きがヨーロッパ言語とかけ離れているからではない。立ち並ぶビル郡に支配され緑が見えなかったからではない。サッカーをする子供たちの姿がなかったからだ。
 人々は自分を宇宙人とでも思っているのか、いやにじろじろ見つめてくる。こちらから目をやると、ぎこちなく視線を逸らす。道を尋ねようとかと近づけば、逃げるように足を速める。
 この街には、見えない壁が張り巡らされている。リオンはそう感じた。

 ある日河川敷でひとりリフティングをしていると、近くを子供たちの集団が通りかかった。子供たちはリオンの存在に気付くとその足を止めた。そして食い入るようにリオンを、いや、リオンの足元を見ていた。リオンは一旦ボールを地面に落とすと、子供たちに声をかけた。
「君たち、サッカーやってるの?」
 子供たちはもじもじした様子で何やら会話をしていたが、やがてリオンの元へと駆け寄ってきた。
「おにーさん、サッカー選手なの?」
 ひとりの子供がリオンに問い掛ける。リオンは笑顔で首を横に振った。
「選手ではないよ。ただのサッカー好き、それだけさ」
「でもすっごく上手だよ?」
「好きなものは、自然と上手になるものなんだよ。君たちは、サッカー好きかい?」
 子供たちは大きな声で「大好き!」と言った。

 それからミニゲームをすることになった。子供たちはまだまだ小さくて、ボール運びもつたないけれど、みんな笑顔でボールを蹴っていた。リオンがアドバイスすると、喜んだ顔をしてそれを実践しようと河川敷を駆けて行く。その子が上手にシュートをすると、他の子供たちもリオンのところへと集まってきて、僕にも教えて、僕にも、俺も、とせがんできた。全ての子供たちが、輝いた目をしていた。

 帰り際、子供たちのひとりが教えてくれた。「僕の住んでるところは広場も公園もないし、道路は車がいっぱい走って危ないから、サッカーができないんだ」、と。
 何と言えばいいのかわからなくて、言葉が出なかった。しかしその子がパッと笑顔になった。
「でも、ここに来ればいつでもサッカーできるんだね。いつでもサッカーしていいんだね! 僕、おにーさんに会えてすごく嬉しかったよ。ねえ、また一緒にサッカーしてくれる!?」
 リオンはくしゃりと笑って「もちろん!」と答えると、その子の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。



<-- scene 3-9 -->

「行きますよ、草間さん!」
 リオンが崩壊していた相手ディフェンス陣を軽くかわすと、ゴールラインぎりぎりのところからクロスを上げる。名指しされたことが余程嬉しかったらしい武彦は、
「おう! このキャプテン武彦が決めてやるぜ!」
 と、飛んでくるボールを目で追いかけている。
「武彦さん! 後ろからディフェンダーが囲みに来てる! 周り見て!」
「なぬっ!?」
 冷静に辺りを見ていたシュラインの指摘に、武彦がきょどっている。そうしている間に相手のディフェンス陣の数人が武彦の周囲にポジションを取った。そのうちのひとりが、武彦をクロスボールの軌道から追い出すべく背中でぐいぐい押してくる。
「ちょ、これってファウルじゃないのか!?」

「そんくらいの当たり、サッカーじゃ日常茶飯事だぜ草間さん!」
 そう言いながらペナルティーエリアに飛び込んできたのは色だ。色は好位置にいた相手ディフェンダーのユニフォームをファウルぎりぎりのラインで引っ張り、バランスを崩させるなり体を入れかえ、ヘディングにいける位置を奪取した。そしてゴールに飛び込むようにヘディングシュートを放つ。しかしそれはクロスバーに弾かれてしまった。
 しかしひとりの青いユニフォーム姿がこぼれ球に詰め寄って来た。
「トヨミチさん!」
 色が彼の姿を認め、立ち上がるや否やゴールから離れていく。トヨミチはこぼれ球に対しダイレクトにシュートには行かず、ボールを色へと戻した。そして色は一瞬のためらいもなくシュートへの動きに入った。周囲にいたディフェンス陣がコースを塞ぐべく色の前へと走りこむ。
 しかし、実は色の一連の動作はフェイクだった。彼は自チームで完全にフリーになっている選手がひとりいることに気付いていた。だからシュートに入るふりをして、相手選手を自分にひきつけたのだ。

「シュラインさん! 前走って!」
 色ががら空きのスペースへとボールを蹴り出す。シュラインが指示を聞くなり走り出すと、タイミング良くボールが足元に収まった。ゴールを見る。角度は若干あるが決められないこともない。
 シュラインは思い切り良くシュートを放った。利き足の内側でボールを押し出すような基本の蹴り方。それゆえふかすこともなければ左右にぶれることも少ない。そこに来てあの迷いの無さ。
 スピードボールが、相手キーパーのグローブを弾いてゴールネットを揺らした。

 シュートを決めたシュラインが呆然と立ち尽くしている。そこへ前線にいた選手たちが駆け寄って行く。
「素晴らしいシュートだ、エマ君! 思わず身震いするほどだった! 実に素晴らしい!」
「いや、マジすごいってシュラインさん! だって大抵の素人はあそこで力んでがっつりふかしちゃうんだぜ? でもさすがはシュラインさん、基本を忘れず忠実なシューティング! 最高だっつーの!」
「シュートを放ったときのあの眼差し、汗に濡れた麗しの黒髪、ピッチに立っている貴女はいつにも増して美しい!」
 トヨミチ、色、リオンがシュラインに賛辞の言葉を送る。さすがに相手が女性だけあって、色が決めたときのように飛び乗ったりぺちぺち叩いたりはしないが、ともあれ皆嬉しそうである。

「……シュラインさん?」
 リオンが、相変わらずぼうとしたままのシュラインの顔を覗き込む。するとシュラインはようやく声を発した。
「え……嘘……まさか……本当に……決めたの……? この、わたし、が?」
 そしてきょろきょろと周りを見る。彼女の元に集まっている彼らの表情は一様に笑顔だった。
「あれ以上ないくらいのナイスシュートだったぜ?」
 色がウィンクする。その言葉に、シュラインの心の中をじわじわと「自分が点を取った」という実感が湧き上がってきたようである。そして、その実感が頂点に達したそのとき。シュラインの表情がこれ以上ないくらい素敵な笑顔になった。
「きゃあ! やったぁ! ナイスシュート、私! きゃあ、嬉しい!」
 シュラインが飛び跳ねて喜んでいる。いつもの冷静な彼女からは想像できないほどのはしゃぎようだ。
「もー、ホント嬉しい。どうしよ。涙出ちゃう」
 指で目をこすりながらくしゃりと笑うシュライン。しかしその瞬間、彼女の表情ががらりと変わった。見てはいけないものを見てしまったのである。
 グラウンドに小さくなってしゃがみこみ、頭をがっくり下げて地面を指でほじほじしている、武彦の姿を。

 シュラインは慌てて武彦へと駆け寄った。しかしかける言葉が浮かばない。もしあのとき自分がもっと的確なアドバイスをしていたならば、シュートを決めていたのは彼だったかもしれない。それなのに自分が決めてしまった。シュラインの中ではもうあのときの嬉しい気持ちなど消えてしまっていた。こんな彼を見るくらいならばシュートなんて打たなければよかった。転んで失敗すればよかった。自責の念が彼女を支配する。
 そのとき、武彦がおもむろに顔をあげた。その瞳はシュラインのそれを見ている。涙顔だった。鼻水が出ていた。口元はへの字に曲がっていた。見ていられなくてシュラインが目を逸らそうとした、そのとき。
「ナイスシュート、シュライン!」
 武彦が右手の親指を上げ、その手のひらをぐっと握り締める。それは『Good!』のサイン。
 まだ涙は乾いていなかったけれど。鼻水は止まっていなかったけれど。口元はまた曲がったままだったけれど。それでも、彼がそう言ってくれたことがあまりにも嬉しくて。
「武彦さん……!」
 シュラインは彼の背中に思いっきり抱きついた。



<-- scene 3-10 -->

「シオン! チャチャチャ! チャチャチャ! チャ! ハイ!」
「「しおん、ちゃちゃちゃ、ちゃちゃちゃ、ちゃ、はい」」
「もーダメです! ダメダメです! そんな小さな声ではこの踊りはマスターできませんよ! さあワンモアターイム?」
「「しおんっ ちゃちゃちゃっ ちゃちゃちゃっ ちゃっ はいっ」」
「んーさっきよりは声は大きくなりましたが、まだ足りないですねぇ〜! さあワンモアターイム?」
 ブルーサンダース陣中央付近で、ダンス講座が行われていた。講師は言うまでもないがシオン。そして生徒はというと、
「高柳〜、いつまでコレ付き合うわけ〜?」
「だってやらねーなんつったら何されるかわかんねーじゃん! 呪われるかもしんねーぞ!?」
 二中コンビ、たかぴぃ&みゆみゆであった。一体何故このような状況に陥ったのかはわからないが、恐らくたかぴぃが恐慌状態をきたしたのがきっかけと思われる。
「よーし、それではラストいきましょう! せーのっ」
「「「シオン! チャチャチャ! チャチャチャ! チャ! ハイ!」」」
 二中コンビの投げやりな大声シオンコールに、シオンはさも満足げにうんうんと頷いた。
「よろしい! それでは皆伝の証に、わたしのこのエレガントなスカーフを差し上げちゃいまーす!」
 シオンが首に巻いていたスカーフをしゅるりと外すや否や、
「いやいやいやいやそれは結構です! 俺らにそんな素晴らしいもの、勿体無さ過ぎますって!」
「どうかスカーフコーディネート王の師匠が巻いていてください! 一生のお願いですから!」
 二中コンビが頭と手を激しく横に振って拒否した。あんな珍奇なスカーフつけて歩くなんて考えられないというのが本音であるが、シオンの機嫌を損ねないよう言葉を選んだようである。
「なんと謙虚な少年たちなのでしょうか! シオン師匠、感動しちゃいました!」
 スカーフを元通り巻きなおしていくシオンを見て、二中コンビはばれないようにほっとため息をついた。が。
「それでは代わりに、シオン師匠の直筆サイン色紙を進呈します!」
「え、ええ!?」
 シオンがどこに隠し持っていたのか色紙とプロマイド写真を手にとると、これまたどこに隠し持っていたのか油性マジックペンを取り出し色紙にさらさらとサイン。二中コンビに強引に押し付けた。
「これをお部屋に飾って、練習に励んでください!」
「あ、ありがとうござい……ま……す……」
 二中コンビは頭を下げて礼をする振りをしながらがっくりと項垂れた。



<-- scene 3-11 -->

 シオンの珍妙な行動により、二中コンビのリズムは狂ってしまったらしい。たかぴぃのドリブルには切れが無くリオンやクミノにすぐカットされてしまうし、みゆみゆは集中力を欠いているのかパスミスやボールコントロールミスが明らかに目立つ。それを見逃す冥月や零ではない。彼女らはボールを奪うや否やすぐに前線へとボールを送る。レッドファイヤーズの残りメンバーは素人の寄せ集めのようなものだから、クミノ曰く、
「フライドチキンおじさんの看板がいくつか立っているだけ。しかもおじさんを動かすふたりは壊れてる。あれじゃあ何の戦力にもならないわ」
 という始末である。ブルーサンダースは次々と追加点をもぎ取っていった。

「ハットトリック達成ーーーーー!!!!!」
 色が大声で叫びながら敵陣を駆けずり回っている。武彦とリオン、それにトヨミチがそれを追いかけ捕まえべちべち叩いて祝福しはじめた。しかし何故か武彦だけはなぜかべちべちどころかグーで殴っているように見える。そして何やら文句を言っているように聞こえた。
「どうして俺にパスを出さない! 俺はキャプテンなんだぞ!? ひとりだけ……ええと……」
 言うべき言葉をド忘れしたのだろう。武彦の声が小さくなっていく。そこへシュラインが歩み寄り、
「ハットトリック」
 と一言。途端に武彦はいつものテンションへと戻り、
「そう、ハットトリック! ひとりだけそんな横文字技決めやがって! ずるいぞ!」
 と喚き散らした。
「草間さん。ハットトリックは技じゃないんですけど」
 そんなリオンの突っ込みは無視して色に突っかかる武彦。そんな彼にトヨミチが言った。
「草間君! まだまだ試合はこれからだ! 野球はツーアウトから、だろ?」
「三葉さん、その発言意味わかんない」
 リオンの突っ込みの対象がトヨミチに変わるも、
「そうだな! キャプテン武彦の真骨頂、ツーアウトから見せてやるぜ!」
「良い意気込みだ、草間君!」
 結局のところこう落ち着くのであった。

「全然シュートが来ないってのも暇なもんだな」
 大きく背伸びをしながら暁空が呟く。やはりキーパーというのは貧乏籤的ポジションなのだろうか。
「シュート来なきゃ古武術セービングもできないし」
「古武術セービング?」
 暁空の独り言をたまたま耳にしてしまったクミノが不思議そうな顔をする。すると暁空は慌てて手を横に振った。
「いやいや、違う。何でもない。てゆか根性セービングの間違い。アハハ」
 乾いた笑いで言い訳をする暁空を、クミノはなおも不思議そうな顔で見ていたが、
「まあ、相手の攻撃がないと暇ってことには同意するわ」
 と、相手ピッチの方へと歩いて行った。

 暁空は内心ほっとしていた。さすがにこの歳になって「実は昔に読んだ漫画のキャラクターがやってた必殺セービングに憧れててさ! 凄いんだぜ! 空手の技でシュートをびしばし止めるんだ!」なんて熱弁するのは恥ずかしい。相手が自分の半分しか生きていない女の子ならばなおさら、である。
 しかし二中のふたりが腑抜けている限りはこの状態が続くだろう。ああもう。早く技試したいのに。それもこれも元を正せばシオンの所為だ。彼があんなカッコイイスカーフを巻いてあんな魅惑的な踊りなんて披露してしまったがために、エロゲコンビが夢中になってしまったのだから。暁空は心の中でシオンの超絶センスに嫉妬した。

 仕方ないから脳内でスーパーセーブを連発することにしようか。うん。それがいい。
 暁空が目を閉じて自分の世界に入ろうとしたとき、
「キーパー!!!」
 クミノの大声で一気に現実へと引き戻され、暁空はぱちりと目を開けた。するとそこにはゴール目掛けて走りこんでくるたかぴぃの姿。そのたかぴぃへと視界の外からマイナス気味のクロスボールが飛んでくる。
 たかぴぃがそれをダイレクトで打ってきた。コースは右上ぎりぎり。今自分は左寄りの場所にいる。キャッチングはもとよりパンチングに行っても間に合わないスピードボール。
 それならば。

「きいぃぇぇぇぇぇえええええ!」
 暁空が吼えた。暁空はボールとは反対の方向へと跳躍すると、左ポストに着地するかのように両の足でそれを蹴りつけた。ポストからの反発力が暁空の足から身体へと伝わり、やがて反対方向への跳躍へと変化する。
 暁空の身体は今、音速のスピードでボールへと向かっている。普通に地面を蹴るだけでは生まれない高い反発力をポストから得ることにより、彼のジャンプは超高速のそれへと変動を遂げたのだ。暁空の両腕がボールへと伸びる。
「捕ったぜ」
 暁空が着地した。ボールは、両手のグローブにしっかり包まれている。パンチングですら防げぬシュートをキャッチングで制したこの技こそ――『紫東水明流・秘技・三角跳び』。
 暁空はついに念願の古武術ディフェンスを達成し、その興奮にもう一度、天に向かって吼えた。
 そして吼えながらふと思った。
 どうして誰も自分のところに集まってこないのだろう……皆で褒めに来るくらいいいじゃないか……、と。



<-- scene 3-12 -->

 グラウンドの隅で、シオンが丸くなっている。彼の周りには無数のスパイクやスニーカーの類が散乱している。暁空を除くブルーサンダース全選手がシオンに投げつけたからだった。
「み、みなさん! いったいどうしてこんなことをするのですか!?」
 シオンが涙ながらに訴える。
 一体どうしてこんなことになっているのか。しかしその原因は、他ならぬ彼自身にあった。

 話は先の一連のシーンへと遡る。
 腑抜けの二中コンビがどうしたことか普通に攻撃を仕掛けてきた。キックオフ直後みゆみゆがブルーサンダース陣へと一気に駆け出し、たかぴぃは中央付近をゆっくりとドリブルで攻めあがってくる。
 クミノがディフェンスラインを確認する。三下はあの場所から動くなときつく言い聞かせているから問題無い。零は自分と同じライン上、冥月はそのやや上に位置を取っている。
 みゆみゆとたかぴぃの動きからすると、恐らくみゆみゆがオフサイドぎりぎりの位置から期を見計らって突破、たかぴぃはみゆみゆの突破のタイミングに合わせたロングパスを出す――ディフェンスラインの裏を狙っているに違いない。
「零! 冥月! ライン上げて!」
 自らも前へと走りながらクミノが声をかけると、零と冥月はすぐさま反応した。一気にラインを押し上げる。高いラインを保っていれば、二中コンビの作戦も大した効果を持たないからだ。
 みゆみゆがライン上に並ぶ――いや、違う。並ぶどころかスルー、何とラインの遥か後方へと走って行くではないか。たかぴぃは先程と変わらぬ位置でボールキープしている。今彼がみゆみゆへとボールを出せばオフサイドになる。するとたかぴぃ自らのドリブルで突破し、その足で決めようとしているのか? クミノが思考を巡らせる。
 しかしたかぴぃのアクションはそのはるか斜め前を行った。信じられないことに彼は、みゆみゆへとロングパスを出したのである。これでは完全に――
「オフサイドだ!」
 クミノが手を上げながら線審を見る。しかし線審のフラッグは上がらない。つまりオンサイド、プレー続行だ。
 何故だ? みゆみゆはラインのはるか後ろにいた。ライン統率も完璧だった。それが何故オフサイドにならない? いやそれより戻らなければ。自陣にはもうキーパーしか残っていない。
「キーパー!!!」
 走りながら、クミノが暁空へと叫ぶ。走りながら、二中コンビの位置を確認した、そのとき。
 視界の隅――コーナーエリアにしゃがみ込んでいる、青いユニフォーム姿が見えたのだった……。

「シオンさん……どうしてあなたがこんなところにいるの」
 一同の気持ちを代弁して、クミノが問い掛ける。その表情は呆れ顔だ。
「え、ここにいてはいけなかったのですか?」
 シオンがきょとん、と呟いたのを受けて、クミノの肩眉が少しばかり上がる。
「あなたがここにいると、オフサイドが取れなくなるの」
「オサイフが盗れない? それは大変です!」
 クミノががっくりと肩を落とす。どうやら彼はオフサイドすら知らないらしい。しかしそれを説明するのも面倒、というか理解してもらえない可能性のほうが高いので、クミノはもう最初の質問を繰り返すことにした。
「そう。大変なの。で、どうして、あなたは、ここ、に、いたの? あなたの担当は真ん中でしょう?」
 疑問部分を強調しながらクミノが問うと、シオンは思いもよらない返答をした。
「実は、内職の締め切りが近いもので」
「はぁ?」
 ぽかんと口を開くクミノに、シオンはおもむろに薔薇の花束を差し出した。
「……何それ」
「このお花を、今日中にいっぱいいっぱい仕上げなければならないのです!」
 よく見ると、それは造花だった。
「しかし真ん中で作っていたら、皆さんの邪魔になってしまいます……でも隅っこならば、邪魔にならなくてシオン万歳! 皆さんも万歳! かと思ったのですが……ダメでしたか!?」
 悲痛な面持ちで訴えるシオンの言っていることは突っ込みどころ満載ではある。しかしそれらに突っ込んでいたら日が暮れてしまうだろう。クミノはシオンの肩にぽむ、と手を置くと、
「じゃあ、向こう側の隅でやってくれない? それなら全然邪魔になんかならないから」
 と、センターラインを挟んで対角線上にある、相手陣内のコーナーエリアを指差した。



<-- scene 3-13 -->

 リオンが前方を走る武彦へと長めのパスを出した瞬間、線審がフラッグを上げた。主審のホイッスルが鳴り響く。
「は?」
 武彦の向こう側にはまだ数人の赤いユニフォーム姿がいた。それなのに何故オフサイドなのか。リオンが主審へと詰め寄っていく。
「どうしてあれがオフサイドになるんです? 向こうまだいるじゃないですか」
「いや。あそこに君のチームの選手がいるだろう」
 主審がコーナーエリアをフラッグで示す。そこにいたのは背中を丸めてしゃがんでいるシオンだった。
「いやいやいや!」
 リオンが声を荒げる。
「彼は全っ然プレーに関与してない位置にいるんですよ? そういう場合はオフサイドにならないはずじゃないんですか? あんた主審なのにルール知らないの?」
「リオンさんやめて。それ以上言ってるとイエロー貰っちゃうわよ」
 シュラインが止めに入ってきたので、フェミニストのリオンはしぶしぶ抗議を取りやめることにした。

「あんな無能が主審じゃ先が思いやられますよ、全く」
 肩を竦めるリオンにシュラインがいたずらな顔をして微笑む。
「無能な審判だからこそ、こっちにもチャンスが来るかもしれないわよ?」
「その通りだ、エマ君!」
 うむ、とシュラインの肩を叩いたのはトヨミチだ。
「それに、オフサイドを取られずに済む絶対的方法だってあるしな」
「絶対的方法?」
 リオンが首を傾げる。するとトヨミチはぴん、と人差し指を立てて言った。
「簡単なことだよ。前方へのパスを出さなければいいのさ」

 そんなわけで、ブルーサンダースオフェンス陣は三歩進んで二歩下がる的パスワークで相手陣へと向かうことになった。まるでラグビー状態、フットボール違いである。
「つーか、シオンさんを厄介払いすればいいんじゃ」
 なかなかボールが前に進まない苛々が募ったリオンのぼやきに、
「いやいや、それはいかん。彼だって立派なブルーサンダースのレギュラーなのだ!」
 と、トヨミチがフォローを入れる。いつもならそこですかさず「レギュラーっつったって十一人しか選手いないんだからなって当然寧ろ彼はサブ以下」などと突っ込みを入れるリオンが不思議と何も返さないのは、トヨミチの発言一字一句に含まれている妙な説得力ゆえであった。
 しかし突っ込みこそ入れなかったものの、リオンの愚痴は止まらない。
「でもさすがにこれをずっと続けるのは嫌ですよ、俺。それにシュートまでオフサイド扱いされたらどうするんです?」
「成る程。それならばもうひとつの絶対的方法を授けようか? それも、実に簡単な」
 トヨミチがニヤリと笑う。
「ズバリ、ドリブルだけでゴールを奪えばいいのさ」

 トヨミチはそう言うなり、彼の言うところの『オフサイドを取られずに済む絶対的方法パート2〜これでゴールもバッチリ!』を実践しはじめた。色からのマイナス方向のパスを受けるなり、怒涛のドリブルを開始、フライドチキンおじさんの群れなど全く相手にせず敵陣ゴールまで一直線に突っ込んで行く。
 ゴール前で二中コンビが待ち構えている。レッドファイヤーズの事実的な最後の砦。しかしトヨミチにとってそれは想定内の、いや、必然のことだった。絶対的方法の鍵を握っているのは他の誰でもない、彼らなのだから。
 トヨミチは迷うことなく彼らへと突進して行く。先に向かってきたのはみゆみゆだった。しかし今はまだその時ではない。トヨミチは全身全てに力を巡らせ、とある人物をその身でもって具現化した。

 それはポルトガルの英雄『ルイ・スーフィゴ』。ごく普通のスキルを持ったごく普通のプレーヤーであるトヨミチが、演技という名の魔法により『世界一のドリブラー』スーフィゴをの全盛期を体現しているのである。
 そんな彼を目の前にして、みゆみゆの足が一瞬竦んだ。トヨミチが切り返しとシザースフェイントを織り交ぜみゆみゆを翻弄すると、彼はいとも簡単にバランスを崩した。しかしトヨミチが別段素晴らしいフェイントをしていたわけではない。彼が纏うスーフィゴのオーラが、みゆみゆにそれを超絶なフェイントと認識させたのである。

 そして一気に突破。残るはたかぴぃだけだ。そして彼はこれ以上ないくらいの舞台に立っている。もう名選手の魔法は必要ない。今魔法をかけるべきは、自分自身だ。
 たかぴぃがトヨミチの足元へとスライディングをかける。しかしそのスライディングは実に慎重であった。何故ならこの舞台――ペナルティーエリア内で迂闊な行動を取ろうものなら、即時相手にペナルティーキックを与えることになるのだから。
 しかしたかぴぃが慎重になろうがなるまいがトヨミチには関係無い。トヨミチには魔法がかかっているのだから。
 トヨミチはたかぴぃのスライディングをかわそうともせず、真っ向からドリブルで突っ込んで行った。たかぴぃの足先がボールを捉える。トヨミチはバランスを崩したその瞬間、周囲の人間たちにも魔法をかけた。

「アウチ!!!」

 トヨミチが苦悶の表情で地面へと転がり込む。彼は左足のすねを両手で抱えながら地面の上を左右に転がり悶えている。時折「うっ」と悲痛に顔を顰めるその姿を見た味方選手がすぐさま駆け寄ってきた。
「三葉さん!」「三葉さん、大丈夫ですか!?」「あんな無茶しやがって……骨イってたらどうするんだ!」
 シュライン、リオン、武彦、それぞれが心配そうな顔をしてトヨミチを見つめている。

「おいてめえ! あんな危ねえスライディングしやがって! どーしてくれんだよ、おい!」
 色がたかぴぃに食ってかかる。たかぴぃは唖然とした表情をしていた。自分は確かにボールだけをとらえた筈だ。間違い無い。間違い無い、筈なのに。どうして彼はあんなにも痛そうなのだ? もしかして彼は――
 間もなく主審が彼らの元へとやってきて、胸から一枚のカードを取り出した。それを高らかに掲げられたのは、たかぴぃだった。
「イエローカード!?」
 たかぴぃが目を見開いた。そして主審へと詰め寄る。
「なんで今のがイエロー!? どう見ても今のはシミュレーション」
「何言ってんだよてめえ! あんなに痛そうにしてんじゃねえか! どーせわざと蹴りつけたんだろ!?」
 色がトヨミチを指差しながら声を荒げる。たかぴぃはおろおろしながら「ち、ちげーよ……」とその発言を否定しつつ、トヨミチを見た。彼は相変わらずピッチの上でうめいている。その苦悶の表情に、たかぴぃはトヨミチの元へと歩いて行くと、
「ご、ごめんなさい……」
 それだけ言って、逃げるように去って行った。



<-- scene 3-14 -->

 たかぴぃが逃げ去って行くのを見て、先程まで苦しそうにしていたトヨミチが突然「ププッ」と笑った。それからすっくと立ち上がり、その場でニ、三度ジャンプ。
「うむ。バッチリだ」
 そして自らの周りに集まっていた仲間たちにピースサインを出す。あまりの変わりように、一同は呆気に取られるほかなかった。
 その中で最初に我に返ったのは色だった。
「ちょ、ちょ、トヨミチさん、かなり痛かったんじゃ」
「そりゃあ痛いさ。転んでしまったのだから」
 飄々と答えるトヨミチに、色がなおも問い掛ける。
「だ、だってさっき、あんなに足痛そうにしてたじゃん」
 するとトヨミチはフッと笑った。
「さっきのは『演技』。単なるシミュレーションさ」
「まさか三葉さん、最初からそれ狙いで突っ込んで行ったんですか……?」
 感嘆とも呆れともつかない微妙な顔をして、リオンが言うと、
「大正解。『絶対的方法パート2』大成功の巻、ってやつかな」
 トヨミチがニヤリと笑った。

「さあ! この三葉・トヨミチが我が身を削って得たペナルティーキック! 何が何でも決めてもらうぞ!」
「ふふふ……遂にこのキャプテン武彦の力が必要なときがやってきたようだな」
「それじゃあ……頼むぞ、草摩君!」
 武彦が意気揚揚と向かって言った矢先にトヨミチがこんなことを言ったので、武彦はその場で滑って転んだ。そして転んだ状態はそのままに声を荒げて抗議する。
「ちょ、待て! どうして色なんだ! ここはキャプテン武彦が蹴るべきじゃないのか!? なあ!?」
 そんな彼に、トヨミチが冷静な口調で話し掛ける。
「草間君。確かに君の力が必要なときはある。しかしそれは今ではない」
「何?」
「今はまだ前半戦だ。君の真の力を見せるにはまだ早い……ハイ君が言っていたな。『真打ちは遅れて登場するもの』、と。我がチームにおける真打ちとは草間君に他ならない。つまり」
「後半戦までこのキャプテン武彦を温存し、大活躍して相手をぎゃふんと言わせてやる、ってことか」
 武彦の言葉に、トヨミチの瞳が輝いた。
「その通りだ、草間君! わかってくれたか!」
「ああ、トヨミチ君! 我が朋友!」
 武彦はがばりと立ち上がると、例の如くトヨミチと固い握手を交わした。

「私に蹴らせろ。さっきから暇で暇でたまらん」
「うわっ!」
 いきなり冥月が現れたので、その場にいた青いユニフォーム姿が飛び上がった。
「み、冥月さん、びっくりさせんなよ! こえーじゃん!」
「おい冥月。色が怖がるからそんないかつい男のような顔をするげぶぉあ!」
 武彦に学習能力は無い。ゆえに彼は本日三度目の禁句を吐き、その代償として冥月のドロップキックをプレゼントされることとなった。
「何度も言わせるな。私は女だ。大体私の顔のどこがいかついと言うのだ。お前の目は節穴か?」
「ずび……ば……ぜ……」
 ん、と続けることすらできないまま、武彦は絶命(註:寸前)した。

「そういや冥月さんってサッカー経験あるんでしたっけ?」
「無い。ビデオを見ただけだ」
 リオンの何気ない問い掛けに、冥月が即答する。
「だが、ビデオに映っていた選手の影の動きで筋肉や骨格の動きは把握してあるから、問題無い」
 彼女の『影』という言葉にリオンがピンときた。
「成る程ね。じゃあ、一点目のあのスーパーシュートってもしかして」
「それは企業秘密だ」
 冥月はふふりと笑うと、ペナルティーマークへと歩いて行った。



<-- scene 3-15 -->

 冥月のペナルティーキックは問題無く決まった。これでブルーサンダース6点(内訳は色3点、冥月2点、シュライン1点)、レッドファイヤーズは序盤のみゆみゆの1点のみ。残り時間は少ない。このまま行けば前半戦はブルーサンダースの圧勝だ。

「ちっくしょう! この俺たちがあんな素人連中にこんな差ぁつけられるなんてどーゆーことなんだよ!」
 たかぴぃが声を荒げ、履いていたスパイクを地面に叩きつける。みゆみゆはそれを拾うと、そのスパイクでもってたかぴぃの頭をべしりと叩いた。
「痛って! 何すんだよてめえ!」
「おま、ちったぁ頭冷やせよ。まだ試合は終わっちゃいねー。しかも前半だぜ? 俺らの実力ならあっさり逆転できる点差じゃねーか。違うか、おい?」
 みゆみゆがそう言うと、たかぴぃは無言でみゆみゆからスパイクを奪い返し、素早く履きなおした。
「俺らの面子が潰れるってことは、二中の面子が潰れることと変わんねえ。先輩たちの名を汚さねえようなプレーしねえとな」
「お前にしては随分まともなこと言ってんね〜。殴られてどっかおかしくなった?」
「殺されてぇのかてめー!」
「とにかく。もう時間ねえし、さくっと攻めようぜ。最後までな」

 そしてレッドファイヤーズが最後の猛攻撃を開始した。それまで二中コンビだけで攻撃してきたというプライドもかなぐり捨てての、フライドチキンおじさんを加えた総勢十名による攻撃だ。
 フライドチキンおじさんと言えども、動いていると多少は邪魔になる。なにせ視界が遮られて見づらい。フィジカルも一般成人男性レベルくらいにはある。小さなクミノにとっては特にそうだ。
 そのクミノの目の前にいきなりたかぴぃが現れた。それまでフライドチキンおじさんズの陰になって見えなかったのだ。
「手加減しないぜ」
 たかぴぃのこの言葉を聞いたのは二回目だ。
「望むところよ」
 そしてクミノの返答も変わらない。たかぴぃは満足そうに笑うと、一気にクミノを抜こうとドリブルを速めた。クミノが全身を使ってたかぴぃに当たり、ファウルぎりぎりのところでたかぴぃのバランスを崩そうと試みると、たかぴぃがクミノを追いやるように右腕でクミノの上半身を妨害する。彼はさらにクミノに身体をぐいと預けた。その重みにクミノは耐え切れず、弾かれるように転倒した。それを振り返ろうとせず、たかぴぃは前へ前へと向かって行く。
「……やるじゃない」
 立ち上がりながらそう呟いたクミノの表情はほんの一瞬だけ、笑顔だった。しかし走り出すとともにまたいつもの表情を取り戻していく。ふと視線を横へとやると、ロスタイム一分の表示があった。

 たかぴぃの前にはリオン、トヨミチ、シュラインがいた。冥月と零はみゆみゆのマークについている。たかぴぃはちらとみゆみゆを見たが、彼女たちのディフェンスの巧みさにフリーになれずにいる。
 前方を見た。三人に囲まれては分が悪い。しかしシュートコースはわずかながら、開いている。たかぴぃはそのわずかの隙間を射抜くように、真っ直ぐシュートを放った。

 シュラインとトヨミチの間を縫うように、スピードボールが暁空の守る最後の砦へと向かってきた。前半残り僅か。ここで決められるわけにはいかない。
 暁空は左上隅へと瞬時に跳躍した。しかしそのボールは暁空の手ではなく、ポストによって高く弾き返された。そこにもう一度たかぴぃが突っ込んでくる。リオンたちはフライドチキンおじさんズに囲まれ思うような動きができないでいる。
 たかぴぃは完全にフリーだった。間違いなくヘディングが来る。さっきは左だった。今度はどっちだ?

 暁空は、ヘディングが来る前に既に右へと動いていた。先のシュートが左だったからか?
 それを見たたかぴぃが左上枠内を狙って強烈なヘディングシュートを放ってきた。右側に位置を取った暁空の間逆の位置。これは暁空の読み違いか? いや、違う。
「きいぃぇぇぇぇぇえええええ!」
 再び、暁空は吼えた。暁空は右ポストに跳ぶなりその反動をバネに、ボール目掛けて矢のように跳躍する。もはやその速度は、音速をも超えようとしていた。

 音速を超えた強靭な矢がボールを捕らえると同時に、前半終了を告げるホイッスルが鳴り響いた――

「暁空さん!」「暁空!」「紫東君!」「アッキー!」「タッキー!」
 ブルーサンダースの仲間たちが暁空の元へと駆け寄り、その名を呼びながらぺちぺちべちべちぐしゃりと祝福した。ひとり明らかに名を間違っている者もいたけれど、そんなことは全く気にもならなかった。
 さっき同じ技を決めたとき、誰も祝福してくれなかったのがちょっぴり寂しかった。しかし今は違う。皆に祝福されている。そうしてもらえていることが、そうしてくれる仲間がいることが、とても嬉しかったから。






<-- bridge -->

「何だぁ? あいつら、ウチの一年じゃないっすか?」
「あれは……原沢と高柳だな。バカコンビの」
「小僧共め! 部活サボって何やっとるんだこんなところで!」
「『町内会サッカー大会』らしいけど、何このスコア。大敗してるじゃない」
「じゃあ、あいて、つよい、ですか?」
「わからんが、あんなガキ共でも一応はこの二中のサッカー部員だ。それに対してこのスコアとは」
「うーん。興味深いなぁ……俺ら乗り込んでったら怒られっかな?」
「その前に俺らが奴らを叱るほうが先だろうが」
「その通りだ。試合云々はともかく、まずはガツンとこらしめてやらねばなるまい」

 ネット越しにグラウンドを見ている少年たちがいる。
 彼らの着ているユニフォームは、皆一様に赤い色をしていた。






<-- scene 4-1 -->

 グラウンド付近に設置されている水飲み場に、たくさんの青と白のユニフォーム姿が群がっている。
「あーあぢぃ……疲れた……」
 そう言うなり水をぐんぐん飲み、終わるや否やぬるい水で顔をバシャバシャと洗っているのは草摩・色だ。
「疲れたって……俺らよりはマシだろうが。若いんだから……」
 彼の横では草間・武彦が一心不乱に頭から水を被っている。
「まあまあ草間君。疲れているのは皆一緒さ。四十五分という長い時間をひたすら走りつづけたのだから」
 三葉・トヨミチは武彦のように頭から水を被るなどということはせず、涼しげな顔で水を少々飲むと、武彦の方へと顔を向けた。
「それに草間君。試合が始まるはるか前に言ったとは思うが、我々はまだまだまだまだ若い! 我々は色君と比べても何の遜色も無い程に若さに満ち溢れている! 四十五分間グラウンドに伏すことなく戦い続けることができたということ、それは紛れも無い若さの証明ではないのか!?」
 熱弁するトヨミチであったが、彼はともかく武彦は前半中、失言が招いた結果により何度か土に還っていたりする。しかし武彦はそんなことはすっかり忘れているらしく、
「その通りだ、トヨミチ君! 朋友の君に誓おう! 俺は残りの四十五分も、最後まで走りつづけてみせる!」
「草間君!」
 がっちりと握手するふたり。いつの間に彼らがこれほどまでにツーカーになっていたのかは良くわからないが、色はそんな彼らを横目に、聞こえないようにと小さな声で呟いた。
「若いっつーか……バカ、い?」
 それ、大正解。

 ブルーサンダースベンチ前でシオン・レ・ハイがそわそわしている。時折水飲み場をちらりと見ては、そわそわと所在無さげにうろついている。それに気付いたシュライン・エマは、ベンチに腰掛けながら彼に問い掛けた。
「シオンさん、どうしたの?」
 するとシオンはゆっくりとシュラインへと視線を向け、泣きそうな顔で言った。
「スペシャルな食料を待っているのですが、トヨミチさんが来てくださらないので、おなかの虫が号泣しているのです」
 そして大きくため息。言語にまつわる職についているシュラインとしては、彼が「おなかの虫が『号泣』している」、つまり泣いていると言っているのが気にはなったが、今のシオンにとっては適切な表現なのかもしれないと思い直し、突っ込むのをやめた。
「三葉さんと何か約束でもしていたの?」
「そうなんです! 前半戦が終わったら、トヨミチさんがスペシャルなお料理をご馳走してくださると、そう約束してくださったので、こうして首を長〜くして待っているのですが……もうおなかが限界で」
 シオンが腹をさすりながらしょぼんとうつむく。
「そういうことなら」
 シュラインはすっくと立ち上がると、奥に置いてあった風呂敷包みを両手に抱え、シオンの元へとやってきた。その瞬間、シオンの鼻がぴくぴくと動く。
「こ、これは! スペシャルなお料理のにおい!」
 シオンの瞳がきらりと輝く。そんな彼を見て、シュラインはふふ、と笑いながら、風呂敷包みをベンチに置いてしゅるりと広げた。お出まししたのは、黒塗りのお重@五段重ね。蓋を開けると、それはもうスペシャルな食料がぎっしり詰まっているではないか。
「みんなでつまめるようにって、一応作ってきたの。遠慮はいらないから、いっぱい食べて後半戦のエネルギーにして頂戴」
 シュラインが促すと、シオンはどこからともなく一対のお箸を取り出すなり両手を合わせ、満面の笑みで、
「いただきまーす!」
 と一礼。華麗な箸さばきで次々とおかずを口に放り込んでいく。そこに丁度、水飲み場から戻って来た色がやってきた。「タオルタオル……」ときょろきょろしていた彼だったが、その瞳に映ったのは、みるみるお重を平らげていくシオンの姿!
「あーっ! シオンさんずりい! 先に食いやがって! 俺も狙ってたのに!」
 シオンを思いっきり指差しながらぶーたれた色であったが、食料を目の前にしている彼の耳にその言葉は届かなかったらしい。その箸さばきは止まるどころかますますその冴えを増している。
 色の探し物がタオルからお箸へと変化したその瞬間、横からすっとタオルと割り箸を差し出したのはシュラインだ。
「早く食べないと無くなっちゃうかもしれないわよ」
 色は礼を言うことすら忘れ、タオルは首に、割り箸を片手に、割り込むようにおかず争奪戦へと参戦していった。先程までの試合より余程戦いじみている光景を目にしながら、シュラインはにこにこ微笑んだ。



<-- scene 4-2 -->

 水飲み場の傍らで紫東・暁空がキーパーグローブを外していると、背後から誰かに右肩をトントン、と叩かれた。しかし暁空はすぐ振り返るようなことはしない。もしここで右後ろへと振り返ろうものなら、その誰かの人差し指でほっぺをぷに、とつつかれること間違い無しだからである。これまで幾多も引っかかっている暁空としては、これ以上同じ手立てに乗るわけにはいかないのだ。
 暁空が身体は前へと向けたまま、右手で瞬時にその誰かの手首を掴んだ。そしてニヤリと笑いながら振り返る。
「そんなネタには引っかからないぜ……って、え、ええ!?」
 背後の誰か、の姿を見た途端、暁空はまん丸な目をしながらその誰かからぱっと手を放した。
 何故ならば、その誰かというのが、
「用事があって肩を叩いたつもりだったのだが……ネタとは何だ? 失敬な」
 よりにもよって黒・冥月だったからである。彼女は腑に落ちないといった顔で暁空を見ている。
 暁空は自分の用心深さを激しく後悔した。彼女ならばあんな古いネタなどする筈も無い。それに誰かわからなかったとはいえ、女性の手首をぎゅうと掴んでしまうなんて。ああ、何ということだろう。
 暁空は冥月へと向き直るなり、
「す、す、す、すみません!」
 地べたに座り込んで土下座した。それを見た冥月はというと、呆然とした顔で暁空を見下ろしている。暁空はそれには気付いておらず、彼女が黙っている、イコール、許していない、と判断。頭を更に下げた。
「ホントすみません! 許してください!」
 再びの土下座に、冥月は明らかに動揺を隠し切れない声で言った。
「な……何故土下座なんだ? 私は別に、そこまでの謝罪を求めるつもりなど」
「でも、いくら誰だかわからなかったからといって、女性の手首をあんな力で握り締めるなんて、武道を志す者としてあるまじき行為! だから俺はこうして謝罪の意を示しているんです!」
「いや、だから、別に私は」

 そのとき、ふたりのやりとりを聞きつけたトヨミチと武彦が肩を組んでやってきた。まずトヨミチが土下座している暁空の横にしゃがみ込み、両手を強く握り締める。
「紫東君! 君は何と素晴らしい人間なのだろう! 武道家としての志を忘れること無いその姿、感動したぞ!」
「その通りだ! 君は何も気にすることはない!」
 いつの間にか武彦までもが暁空の前へと回りこみ、彼の両肩に手を置いている。
「それに、女性がどうこう言っていたようだが、その認識は間違っている! 何故ならあいつは女性ではないがばじょ!」
 武彦が珍奇な悲鳴をあげながらその場にくずおれた。冥月の手刀をまともに横首へと食らったからである。
「本当に学習能力の無い奴だな、お前は」
 冥月が呆れ顔で武彦を見下ろしている、もとい見下している。
「いいか? 何度も何度も言っているが、私は女だ。これ以上私の手を煩わせるようなことをするな。わかったか?」
 その圧倒的オーラに、武彦は地べたに倒れこんだまま痙攣しつつも、痙攣した指で「はい」と一言、地面に書いた。

 トヨミチが武彦を抱えながら去って行くのを見送ると、冥月は本題とばかりに真剣な顔で暁空へと問い掛けた。
「訊きたいのだが、魔球を開発するにはどうすればいいんだ?」
「魔球!」
 その瞬間、暁空の瞳がぱっと輝いた。もし暁空でない者が先の質問をされていたならばこけること必須であっただろうが、暁空にとって魔球すなわちワクワクするもの。ゆえに彼はこけることもなければ突っ込むこともなく、冥月へと答えた。
「魔球を開発したいんだったら、やっぱり漫画を読むのが一番だと思うよ」
「漫画?」
 思いがけない返答に、冥月が首を傾げる。しかし暁空はそれを気にもとめずに、
「『週刊チャンプ』黄金期に連載されてた『キャプテンフリューゲル』っていう漫画なんだけど、すんごい魔球いっぱい出てくるから参考になると思う。こんなのとかこんなのとかこーんなのとか」
 と、両腕を駆使して魔球の軌道を説明する。冥月は腕を組んで考え込んでいたが、やがておもむろに口を開いた。
「……それはどこに行けば読める?」
「そうだな……あ、確か近くの通りに漫画喫茶があったと思う。買うより安く済むからそこで読んでくるといいんじゃないかな」
「成る程。わかった。それではそこで読んでくるとしよう。ハーフタイム全てをつぎ込んで魔球を研究してくる、草間にはそう伝えておいてくれ」
「わかった。けど、漫喫までの詳しい道知ってんの?」
「知らないが、私にとっては大した問題ではない。すぐに目的地まで辿り着けるだろう」
 そう言うなり、冥月は影の中へと消え去った。ひとり残された暁空はというと、
「え、嘘、何、消えた!? まさか忍術!?」
 と興奮した口調できょろきょろしている。先のそれは冥月にとってはいつもと変わらない行動であったが、それはどうやら暁空のワクワクの琴線に触れたらしかった。



<-- scene 4-3 -->

「もう。またやったっていうの?」
 ブルーサンダースベンチ前に武彦と、彼を抱えたトヨミチが到着するなり、シュラインがげんなりとした顔をした。トヨミチは「おお……何という変わり果てた姿に……」などとトンデモな発言をしながら、変わり果てた姿こと武彦ををベンチに横たわらせると、その横ですすり泣きをはじめた。武彦は時折奇ッ怪な悲鳴を上げてはまたことりと頭を横に傾け、暫く黙っていたかと思うとまたもや奇声。その光景にシュラインは心底うんざりしていたが、遭えて何も言わず武彦の手当てに入った。
 腕や足の傷は試合中のものだろう。しかしところどころにある青あざやこぶは、彼が自ら招いたものに違いない。
「本っ当に懲りない人ね、まったく」
 シュラインはぶつくさ言いながらもピンセット取り出し丸めた綿に消毒液を含ませ、ぽんぽんと傷に塗っていく。その度に武彦が悲鳴をあげるものだからたまったものではないのだが、それでも彼女は忍耐強く治療を続けた。
「三葉さんは大丈夫? 怪我はない?」
「ああ。俺は平気だ……エマ君は彼が息を吹き返すよう、蘇生術に専念してくれたまえ」
 目頭を押さえながら、トヨミチがまたもやトンデモなことを口にする。それに突っ込むのも億劫なので、
「わかったわ」
 と一言。救急箱から湿布を取り出し、打ち身らしきところにぺたぺたと貼り付けていく。
「よーし、終わりっ、と」
 最後の一枚を患部にぺたりとくっつけると、シュラインはそこをぺちりと叩いた。刹那、武彦の口から「ギャオス!」と悲鳴が漏れる。するとそれまで変わり果てた姿だった筈の彼がむくりと起き上がるではないか。
「痛てててて……だ、誰だ! 今、ここ、叩いたの!」
 武彦が右膝下を指差しながら文句を垂れている。シュラインはそれには答えず、トヨミチへと顔を向け、
「はい、見事蘇生しました」
 とにっこり笑顔。心なしか目が笑っていないような気がしないでもないが、とりあえず笑顔は笑顔。その途端、トヨミチの泣き顔が悲しみのそれから喜びのそれへと変わる。そしてシュラインの両手を力強く握り締めた。
「エマ君……! 俺は君に感謝の言葉を述べればいいのか……劇団の長を務める身として誠に恥ずかしいことなのだが、それでも言葉が浮かばないのだよ……それほどまでに俺は今、感動している! そう、大事な朋友を失わずに済んだのは、他の誰でもない、君のおかげなのだから! おおエマ君! ありがとう!」
 長々と語りつつ結局は普通に「ありがとう」で締めたトヨミチに、シュラインは苦笑しながら「どういたしまして」と答えた。

「あ、キャプテン発見」
 水飲み場から戻ってきた暁空が武彦を見るなりそう言ったので、武彦はがばりとベンチの上に立ち上がった。
「おうおう! いかにも私がキャプテン武彦またの名をエースストライカー武彦だが!?」
 と言いながら親指で自らを指す武彦。暁空は何か言いたそうな顔をしていたが――おそらく『エースストライカー』発言に突っ込みたかったのだと思われる――、素の顔に戻り、武彦に言った。
「さっき冥月さんからキャプテンへの伝言をことづかったんですけど」
「な、何ぃ!?」
 それを聞いた瞬間、武彦は恐怖におののき震え出した。が。
「『ハーフタイム全てをつぎ込んで魔球を研究してくる』、だそうです」
 暁空の言葉に武彦はベンチから転落した。
「え、本当に彼女がそんなこと言ってたの?」
 武彦を引っ張り起こしながら、シュラインが尋ねる。まさかあの冥月がそんなことを口にするなんて信じられない、といった表情である。しかし暁空はこくりと頷いた。
「さっき『魔球を開発するにはどうしたらいい』って訊かれたんで、俺のオススメ漫画を教えてあげたら、漫喫で読んでくるって」
「……オススメ漫画って?」
 訝しげにシュラインが問うと、暁空はぱっと瞳を輝かせた。
「決まってるじゃないですか、かの名作『キャプテンフリューゲル』ですよ!」
 やっぱり。シュラインはがくりと肩を落とした。『キャプテンフリューゲル』、通称『キャプフル』といえば知らない者はいないと言っても過言ではない程の名作サッカー漫画であり、勿論シュラインも読んだことがある、のだが。実はその内容はといえば、名作寧ろ迷作、トンデモ満載、ありえない技が続々登場するワンダフルな漫画なのである。
 あれを読んでまともな知識など得られるわけがない。シュラインは瞳を閉じると、心の中で祈った。
 ――どうか彼女の機嫌をこれ以上損ねることがありませんように……。



<-- scene 4-4 -->

 グラウンド近くの芝生の上で、リオン・ベルティーニはごろりと寝転がっていた。傍らには飲みかけのスポーツドリンクと空のプラスチックパック、煙草の箱、それからサッカーボール。
 実は試合前からベンチの奥に置いてあった風呂敷包みが気になっていたのだが、その中身は育ち盛りの色と育ちきってもなお食欲旺盛なシオンに食べ尽くされてしまった。がくりとしていたところにふと目に入ったのが、サンドウィッチが入ったたくさんのプラスチックパック。
 シュライン曰く、「お重だけで間に合うとは思ったんだけど、どんな食欲魔人が集まるかわからないでしょ? だから念の為用意してみたんだけど……正解だったみたいね」とのこと。大正解である。さすが、あの何人もの人物――依頼人より仕事を手伝いに来る人物や単なる暇つぶしに集まってくる人物の方が圧倒的に多い――が訪れる興信所を実質前面管理している女性だけある、と妙に感心したものだ。
 と、そんな経緯で手に入れたサンドウィッチは実にリオン好みの味で、あっという間に食べ尽くしてしまった。もっと食べたい気もしたが、後半戦のことを考えるとあまり食べ過ぎるのも良くない。いくら前半戦を終えた時点で勝利濃厚とはいえ、何が起こるかわからないこのご時世、想定外の事態に備えておくのがベターだろう。そんなわけでリオンは水と煙で腹を満たすべく、スポーツドリンクを手に、ボールを蹴りながら芝生へとやってきたのであった。

 しかし実に良い天気である。梅雨中だというのにこんな快晴とは珍しい。湿度も低いし程良い風もある。まさに絶好のサッカー日和。こんな日に愛するサッカーをすることができるという幸運を、敬虔なカトリック信者のリオンとしては、神に感謝せずにはいられない。リオンは胸元で小さく十字を切りながら、心の中で神への感謝の意を伝えた。
 もしも贅沢を言うことが許されるならば。『彼女』にもこの素晴らしい光景を見せたかった。自分と同じように芝生に横たわっている彼女と、この空気や光景、目に映るもの全てを共有したかった。風になびく長い黒髪や無邪気な笑顔を見たかった。もしもその贅沢が許されていたならば、今日はどんなに素晴らしい日になっていたであろうか。
 そんなことを考えているうちに、隣にいる『彼女』が自分にとびっきりの笑顔を向けてくれそうな気がして、リオンは身体を横に傾けた。そしてすぐさま転がるように逆を向いた。
 確かにそこにいた人物は黒髪だったし、無邪気な笑顔の持ち主でもあった。しかしその人物は、男性であったし歳もかなりかさんでいたし髭までこさえていた。いやそれよりも。彼の珍奇な踊り、あれは一体何なのだ!?
 『彼女』を思い描いていた結果がこれである。やはり贅沢を望んではならない。リオンは心から神に懺悔した。

 『彼女』もといシオンが、リオンの横で一心不乱に踊りつづけている。その手にはお箸が握られていた。シオンは時折地球上のあらゆる言語をもってしてもヒアリング不可能な叫び声をあげながら、お箸を両手に持ってドラムのスティックの如くカチカチ鳴らしている。勿論それに気をとられて踊りをおろそかにするような未熟なことなどしない。
 時折例の未知なる言語で叫びながら、シオンはぴょいんとジャンプし近場の木の枝をお箸でキャッチ、また着地しては別の木に向かってジャンプアンドキャッチ。とどめの如くそこらへんで一番高い木のてっぺんまで野生動物のような無駄の無い動きで登りつめるなり「フィーバー!」と決めポーズ。そしてきょろきょろと辺りを見回すと、
「着地ターゲット発見!」
 そう言うなり木のてっぺんから、彼の言うところの『着地ターゲット』へとダイブしていった……。

 トヨミチと、シュラインの手により蘇生した武彦が一服するべく歩いていると、芝生の上にうつぶせ状態で倒れているひとりの男を発見した。仰向けならば昼寝でもしているのだろうと大して気にもとめなかったのだが、その男は明らかに、倒れている。
「あのバンダナ……まさか、ベルティーニ君!?」
 トヨミチがすぐさま男の元へと駆けつける。武彦もその後に続く。するとやはり倒れているのはリオンだということが判明した。トヨミチと武彦がふたりがかりで長身のリオンの身を起こす。
「一体、何があったんだ……?」
 武彦の眉間に皺が寄る。
「とりあえず、脈はあるようだ。まだ死んではいないらしいな」
 リオンの手を取りながら、トヨミチが安堵のため息をついた。
「リオン!」「ベルティーニ君!」「リオン!」「ベルティーニ君!」
 ふたりが一斉にリオンの名を叫びつつその身体をぶんぶん揺すると(註:倒れている人をむやみにゆするのはたいへん危険です。専門家の指示を仰ぎましょう)、リオンはうっすらと目を開けた。
「三葉さん……と、草間さん……?」
「おお、目を覚ましてくれたかベルティーニ君!」
「リオン、一体、何があったんだ?」
 矢継ぎ早にトヨミチと武彦がリオンに声をかける。リオンはまだ意識が朦朧としているようだったが、やがて口を開いた。
「さっきここで寝転がってたら……急に上から、人が落ちてきて……」
「「人が落ちた!?」」
 ふたりが仰天する。
「な、何だそりゃ! 自殺か!?」
「ベルティーニ君、落ちてきた人物の外見や服装の特徴は覚えているか?」
 また矢継ぎ早に声をかけるふたり。リオンはまだぼうとしていたが、
「そういえば、スカーフを巻いていたような気が……首に……」
「「首にスカーフ?」」
 ふたりの声がシンクロする。そして同時に「もしや」と一言。そして、
「「シオン(ハイ君)だな……間違い無い」」
 ふたりは同時に呟くなり、やはり同時にがっくりと項垂れた。そんな彼らの様子をぼうと見ていたリオンは思った。
 ――いつの間にこのふたり、こんなツーカーになってたんだろう……と。



<-- scene 4-5 -->

 リオンの状態がだいぶ良くなってきたので、三人は近くのベンチで一服することにした。トヨミチとリオンがそれぞれの愛煙を口に咥え、火を点ける。そしてすうと煙を吸い込むと、煙を吐き出す。その横では、武彦が身体のあちこちに手をやってはまた別の場所に手をやり、
「無い」
 と一言。どうやら自分の煙草を忘れてきてしまったらしい。
「わりぃ、一本くれないか?」
 武彦がふたりに手のひらを差し出すと、ふたりはそれぞれが吸っている煙草のパッケージを武彦へと差し出した。
 かたやラッキーストライク、かたやジタンカポラル。武彦は迷わずラッキーの紙パックを手に取った。
「うわ、草間さん感じ悪い。折角くれてやろうと思ったのに」
 ジタンの持ち主リオンが武彦に文句を言っているその横では、ラッキーの持ち主トヨミチがリオンの持っている煙草のパッケージをじいと見ている。
「横長の箱か……珍しいな」
 トヨミチがジタンの箱を指差して言うと、リオンはぱっとそちらに顔を向けた。
「でしょ。日本の市販の煙草じゃあこんなパッケージのものはありませんからね」
「ちょっと借りてみてもいいかな?」
「どーぞどーぞ」
 リオンは笑顔でトヨミチの手のひらにその箱を置いた。トヨミチがジタンに興味を示したのが嬉しかったらしい。箱を渡されたトヨミチはといえば、青い箱をしげしげと眺めてはリオンに問い掛ける。
「この女性は、踊り子かな? 手にしているのはタンバリンか何かだろう?」
「大正解。『Gitanes』っていうのは『スペインのジプシー女性』を意味する言葉らしいんですよ。だからこんな風に、タンバリンを持ったジプシーの女性が描かれてるんです」
「成る程。それからこの箱、どうやって開けるんだい?」
「箱の下を押し上げてスライドさせれば、普通に出てきますよ」
 ふむ、と頷きながらトヨミチが言われたようにやってみると、横二段にずらりと並べられた煙草が出てきた。トヨミチはその一本を箱から抜き取ると、様々な方向からしげしげと眺めている。やがて彼の目線は一点に集中した。
「この葉、他と比べると随分黒くないか?」
「ああ。これはですね、いわゆる黒煙草ってやつなんですよ。発酵させてるからこの色になるんです」
「成る程、発酵か。道理で何というか……牧草臭いと思った」
 煙草の先の匂いを嗅ぎながら、トヨミチが呟く。
「ハハ。確かに、牧草っつーか泥臭い感じの匂いですよね。でもこれが意外とハマるもんなんですよ?」
「ふむ……一本貰っても良いかな?」
「どーぞどーぞ」
 リオンが促すと、その横からにゅっと手が伸びてきた。その指が、トヨミチが手にしている箱から煙草を一本つまみ出す。

「ちょ、草間さん、あんたさっきいらないって言ってたんじゃ」
 リオンが先の窃盗犯こと武彦を見て顔をしかめる。
「いや、いらないとは言ってなかったぞ。何も言わなかっただけで。とにかく俺にも一本くれ、つーか貰う」
 武彦は一方的に貰ったことにした煙草を、何か言おうとしているリオンを制するように口に咥え、火を点けた。そしていつものように深く吸い込んだ瞬間、ゲホっとむせてしまった。
「何だこりゃ! キツい、それに苦い! 不味い!」
「ってそんな深く吸い込んでたらむせるに決まってんじゃないですか。これフィルター短いんだから。それにキツいって言ってましたけど、赤マルよりニコチンもタールも低いんですよ? 要はあんたの吸い方が悪い」
「いや、そんなことは無い筈だ! きっと我が朋友トヨミチ君も俺と同じ感想を持つに違いない! なあ、トヨミチ君!?」
 武彦がトヨミチへと期待の眼差しを向けると、彼はまだ煙草をしげしげと眺めているだけで、吸ってはいなかった。
「ふむふむ。これは箱の形状も変わっているが、煙草自体もまた変わった形状をしているな……面白い」
 トヨミチは独り言のように様々言っていたが、やがて彼曰く変わった形状――それは一般の煙草より太く短かかった――の煙草を両手に持つなり、フィルター部分をちぎってしまった。
「な、何をしているんだトヨミチ君!?」
「いや、吸ったことのない煙草をテイスティングするときは、こうすることにしているのだよ。フィルターを無くすことでその煙草本来の味わいを楽しむことができるからね」
 そう言いながら、トヨミチは千切ったほうの切断面を指で整えると、ライターでもう一方の切断面を軽くあぶった。それからあぶっていない方を口に咥え、遠火でゆっくりと点火する。そしてゆっくりと煙を吸い込んだ。
「ふむ……」
 そしてゆっくりと煙を吐く。
「苦いというより、苦みばしった感じの、コクのある味をしているな。香りも独特で……この香り自体は俺はあまり得意ではないが、病みつきにやる者がいるというのもわからなくもない」
「でしょう? 吸う者を選ぶ煙草だとは俺も思うんですけど、病み付きになったら最後、これ無しでは生きていけませんよ」
 トヨミチのテイスティング結果にリオンは満足そうな顔をした。一方の武彦は口をへの字に曲げてぶーたれた顔をしている。

「しかし、イタリア人であるベルティーニ君が、煙草だけはフランス物だなんて、何かわけでもあるのかい?」
 トヨミチが問うと、リオンは少し微妙な表情をした。
「んー、まあ……ちょっとしたヤボ用でフランスにいたことがあって。その間ずっとこれ吸ってたらいつの間にかハマってたと。何つーか、黒煙草の魔力に負けた、って感じですかね」
 リオンの返答に「魔力か」、とトヨミチが呟く。一方その横では、武彦がまたもや豪快にむせていた。その指の間には、恐らくトヨミチの真似をしたのだろう、フィルターを千切ったジタンが挟まれている。
「おい、草間君、大丈夫か!?」
 ベンチ前の灰皿で火をもみ消しながら、トヨミチが声をかける。すると武彦はゲホゴホむせながら、
「の、の、喉が痛え……焼けるように痛え……それにやっぱり不味い……」
 と言うなり吸いたての煙草を灰皿にぽいしてしまった。それを見たリオンが大きくため息をつく。
「草間さん、どうせまたさっきと同じように吸ったんでしょ。フィルターついててもあんなだったんだから、無しで思いっきり吸い込んだらそれ以上酷い結果になることなんて最初からわかりきったことじゃないですか。ホントあんたは吸い方がなってない」
「何だと!?」
 リオンの真っ当な指摘に対し、逆切れの声をあげる武彦。その間にトヨミチがずいと入って「まあまあ」と一言。それから武彦の方へと顔を向けた。
「草間君、まずは落ち着きたまえ。確かに煙草は適切な吸い方をすれば良い味を得られるだろうし、そうでなければただの不味い煙草にしか過ぎん。同じ煙草ひとつとっても、吸う者、吸い方は実に多様であり、感じ方もまた多様だ」
「確かにその通りだ、トヨミチ君!」
「それに、全世界には無数の愛煙家が存在し、彼らが選ぶ煙草や吸い方も多種多様……つまり吸う者の数だけ喫煙スタイルの個性が存在する。しかし驚くべきことに、それにもかかわらず全ての愛煙家に共通する真理が存在するのである!」
「トヨミチ君……その真理とは一体!?」
 大きく目を見開きながら問う武彦に、トヨミチがふっと笑った。
「平たく言うならば、いくら煙草にこだわりや嗜好があったとて所詮は皆『ニコチン中毒者』、つまり人類皆兄弟、ってことさ」
 彼の導き出した真理とやらに、武彦は「素晴らしい!」と感動し、リオンは「……それもそうだ」と苦笑した。



<-- scene 4-6 -->

 ダメな大人トリオが煙草談義に花を咲かせていた頃、健全な中学生と信念の武術家は、自陣ベンチで前半戦の流れを振り返っていた。話がひと区切りついたところで、ベンチにふんぞり返っていた色が暁空に顔を向ける。
「しっかし何だっけ? あの二中コンビ。あんだけ大口叩いてやがったからどんなもんかと思えばさっぱりじゃねーか。折角この色様直々に相手してやってんのによ。拍子抜けんじゃん」
 そう言うなり前のベンチの背を軽く蹴飛ばす色。どうやら相手の物足りなさが不服であるらしい。一方の暁空は色のようにふんぞり返ってこそいなかったが、リラックスした様子でベンチに座っている。
「だよなぁ。俺なんて全然シュート来ない時間あったもんだから、つい脳内妄想入りそうになっちゃったよ」
「脳内妄想!? 何だよソレ、もしかしてエロいやつ!?」
 暁空の発言に嬉々とした顔で食いつく色。これも健全な若者たる証であろう。しかし暁空は慌てて首を横に振った。
「違う違う! 脳内でワールドクラスな魔球をセーブするっていう妄想だったんだよ。まあその前に現実でシュート打たれちゃったから、すぐ妄想は切り上げたんだけど」
「ホントにぃ? んなこと言って、実は二中コンビみてーにアダルトな妄想してたんじゃねえの?」
「いやいやいや! 俺はあんなにアホじゃない……つもり……だし、大体エロゲなんてやったこと……あ!」
 色の追い討ちに対し頑として抵抗を試みていた暁空が、突如として真顔に戻った。その急変ぶりに、色は暁空の顔をまじまじと見ることで発言を促した。

「エロゲで思い出したんだけどさ、前半でエロゲコンビの片割れが放った魔球……あれを防ぐにはどうすればいい?」
 暁空が真剣な顔をして色に問い掛ける。その魔球はレッドファイヤーズにとって前半唯一の得点になったシュートだったが、暁空にとっては唯一自陣の砦を破られた屈辱的なものとなる。それゆえ何としてもその雪辱を晴らしたいのであろう。
 問い掛けられた色はというと、うーんと唸りながら腕を組み、組んだかと思うとその腕を外し、頭を軽く掻きむしった。そんな彼の様子を見て、暁空は大きなため息をつくと、独り言のように呟いた。
「やっぱりそんな方法なんて存在するわけないよな……大体そんな方法なんてあったら夢もロマンも無くなるもんな……」
 そしてがくりと肩を落とす。そのがっくりを呼び起こした原因が『魔球を防ぐ方法が存在しないこと』に拠るものなのか『魔球が防がれるイコール魔球でなくなることによる夢とロマンの喪失』に拠るものなのかは定かではない。
 ともあれあまりにも暁空がへこんでいるものだから、色は少しでも彼のテンションを上げるべく思考を巡らせた。それからぱっと明るい顔をして、暁空へと声をかける。
「や、でもさ、魔球っつってもホント様々だから。まあ、サッカーで言う魔球ってのは、蹴るときにボールに回転をかけることで空気抵抗を利用して軌道を曲げるもんだから、蹴り方で当然軌道も変わるわけ。ほら、野球の変化球だってそんな感じじゃん? 俺よくわかんないけど、なんか色々あるんでしょ? 野球漫画でも魔球ってよくあるし」
「野球漫画!」
 どの漫画を脳内に思い描いたのかは知らないが、どうやら暁空は色の発言に興味を持ったらしい。地まで着きそうになっていた肩を上げ、色を食い入るように見ている。それに気付いた色は更に彼の気を引くべく、ベンチから立ち上がると、ピッチャーの投球の真似事をはじめた。
「カーブはこうで、スライダーはこう、フォークはこう、シンカーは……こうだっけ?」
「いや、それはシュート。シンカーはこんな感じじゃないかな」
 と、暁空が人差し指と中指をくっつけた状態で手を少し丸め、サイドスローの真似をする。
「なーるほど! 暁空さんってやっぱ野球も詳しいんだ。『キャプフル』読んでたってことは当然『週刊チャンプ』も読んでたっしょ? あれって野球漫画多かったもんなー」
 などと言いながら、色は指をあれこれ動かしては変化球を投げる仕草を続けている。
「てゆか、色って黄金世代組でもないのに何でそんなに『チャンプ』ネタ知ってるの?」
 暁空が尤もな質問をすると、色はカラカラと笑った。
「いや、漫喫でいくらでも読めるじゃん。つーか今の『チャンプ』漫画より昔のが数倍面白えしさ」
 そう言うと、色はそろそろいいかな、とばかりに本題へと入った。
「まあ、あのクソシュートが最初に曲がったのは、カーブみたく逆回転の力が加わってたからで、最後になっていきなり落ちたのは、フォークみたく回転が遅くなってたからなんじゃん?」
「回転、か……」
 色の分析を聞いた暁空は、手を顎にやりながらうーむと唸っていたが、やがて「あっ」と声をあげた。
「すると、ボールが前に回りながら飛んでくるか、逆に回りながら飛んでくるかである程度は予測できるかも?」
 いつもよりトーンの高い声で暁空が問い掛けると、色は難しい顔をしながら再び腕を組み、
「そうかもしんない。けど、テケトーに野球でたとえただけだからなぁ。サッカーで同じようになるかは正直、わかんね。野球の変化球だとボールの縫い目がどうこうとかあるけど、サッカーボールはあんな縫い目なんて無えし」
「だよなぁ……握り方で変化かけるのと蹴り方でかけるのじゃあ、なんか違うっぽいもんなぁ」
 しょぼん、と暁空の声のトーンが低くなるのに気付いて、色は「しまった!」といった顔をした。

 それから数分あまり、ふたりの間には静寂が流れていた。色はまたもやベンチにふんぞり返っている。その静寂の中、暁空は昔読んだことのある野球漫画をかたっぱしから思い出していた。『アスナロ球団』、『波風高校やまだタローくん』、『山下たいちの奇跡』――
「あ!」
 ここで暁空はとある魔球について思い出した。
「あのさあ色、昔見た野球漫画ですんげえ魔球投げる奴がいてさ。そいつの魔球って要は完全無回転のナックルだったんだけど、それがバッターどころか投げた本人すら予測できないくらいすんげえ変化して落ちるんだよ。サッカーでそんな感じの無回転ボール蹴る奴っている?」
 静寂からの突然の振りにやや驚いていた様子の色だったが、暁空の発言を反芻するなり頷いた。
「いるぜ、無回転フリーキック蹴ってくる奴。それもやっぱり暁空さんが言ってたナックルみたくヘンな落ち方してくんだよ。ゆらゆらっつーかカクカクっつーか、やっぱ予測がつかない感じでさ、ワールドクラスのキーパーですら軌道についていくのに苦労してたよーな気がする」
「じゃあやっぱり変化球の鍵を握ってるのは、回転?」
「かもしんねーが、あんだけ速いボールの回転見極めるなんて、余っ程の動体視力がなけりゃ相当キビシーと思うぜ?」
 動体視力。その言葉に暁空は少しばかり考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「あのさ、色って変化球蹴れる?」
「んー、種類は少ないけど、蹴れないこともない。何ならダメ元で変化球対策特訓でもしてみる?」
「やる。色さえよければ、付き合ってくれると凄く助かるんだけど」
「いやいや、実はそれが俺にとってもかんなり好都合なんだわ。つーか俺、サッカー部っつっても練習とか試合とか全然出てねーから、暁空さんの練習に付き合えばフリーキックのカン取り戻せるかも、みたいな? あれだ、一石二鳥ってやつ?」
 その色の発言に、暁空が目を丸くする。
「え、色ってサッカー部入ってたんだ。初耳だな……って、もしかして前も言ってたっけ?」
「いや、言ってねー。別にわざわざ言うもんでもないし。大体幽霊部員だぜ? 言えるかっつーの!」
 そう言うなりゲラゲラ笑い出した色だったが、やがて笑いがおさまると、
「とにかく、そうと決まったからにゃさっさと練習行こーぜ! 時間もそんな無えしさ!」
 と言うなりスパイクの紐を締め直し、すっくと立ち上がった。



<-- scene 4-7 -->

 グラウンドからやや離れた場所にある木陰で、ひとりの少女がサンドウィッチを頬張っていた。ササキビ・クミノである。
 本来ならチームメイトと共に食事をするのが一般的なのだろうが、クミノにとって集団の中にいるのは好ましくないというより苦行に近い。気疲れするのである。それゆえここへ来る前にベンチ前でシュラインや色、リオン辺りにクミノも一緒に食べないか、という旨のことを言われたのに対しやんわりと断った。
 スポーツ、今回ならばサッカーで疲れるのは一向に構わないが、それと関係無いところで気疲れするのは勘弁だ。どうせ好きに使っていい時間なのだから、自分の好きなように使いたい。つまり、ひとりでいたいのだ。それが自分にとっては最高のリフレッシュ法なのだから。
 しかし、何の文句も無い最高の状況の中にいるにもかかわらず、クミノはサンドウィッチ片手に難しい顔をしていた。
 いや、決してサンドウィッチの味に文句があってそのような顔をしているわけではない。さすが料理上手と名高い興信所女将が作っただけあって、その味は絶品だ。これに文句を言うような奴は余程の味覚音痴だろう。

 クミノはサンドウィッチを頬張りながら、前半戦のことを回想していた。前半終了時点でスコアは6−1、自軍リード。この数値だけ見れば問題無い出来に見えるかもしれないが、実際のところそうでもなかった。
 前線組は、色が孤軍奮闘していただけで、武彦とのコンビなどまるで機能していない。
 中盤は、トヨミチとリオンはそこそこの動きをしていたものの、全体の息が合っているとは言い難い。
 クミノが担当しているディフェンス陣は、辛うじてライン統制こそそれなりに行えていたようには思う。
 しかし個々が問題だ。冥月はスキルこそ高いものの、その所為かディフェンスに飽きて前線に向かってしまうことが多いし、零は一対一のディフェンスには強いが、サッカー自体疎いため時折ポカミスをやらかすことがある。暁空は……何やら珍奇な技らしきものを使っていたが、失点を最小限に押さえたという点ではまずまずだろう。
 とにかく、このチームはまるで連携が取れていないのだ。

 いや、それより何より自分だ。あのたかぴぃを二度も止められなかった。彼が小賢しいフェイントを駆使するようなプレーヤーだったなら楽だったのだが、クミノに対し向かってきたときはフェイントなど使わずフィジカルのみでクミノに競り勝っていった。彼とクミノの年齢はほぼ変わらないが、やはり性別が違うとなると、悔しいことにフィジカル面で大きな差がつく。しかしそれでも自分はそれに打ち勝たなければならない。体格差や性差を言い訳にするなど言語道断、自らのプライドが許さない。
 何としても彼に勝つこと。そのために自分がすべきことは何か――

「サンドウィッチはっけーん! 怪盗、シオン見参!」
 いきなり背後から聞こえた声に、クミノは悲鳴こそ漏らさなかったものの驚愕した。そのあまり、手にしていたサンドウィッチをお箸でつまんで持って行かれたことやそのお箸の持ち主が誰かということやその彼がクミノの膝に乗せていたプラスチックパックからさらに数個のサンドウィッチを持っていったということetc……それら全てをまるで気にも留めなかった程である。
 怪盗シオンが姿を消したと同時に、クミノははぁ、とため息をつくと、一切れだけ残っていたサンドウィッチを食べることにした。あまりに馬鹿げた出来事が起こったせいで、試合作戦云々考えるのも億劫になってしまったのである。
 クミノはサンドウィッチをかぷりと噛むと、背後の木に凭れながら周囲を見回した。

 今回町内会が借りているグラウンドは、区営の運動公園内の一角にある。それゆえ休日の今日はたくさんの子供連れや老夫婦、学生たちが、ピクニック気分で辺りにシートを広げていたり、お揃いのジャージに身を包んでウォーキングをしていたり、ファストフードをつまみながらキャーキャー喋っていたりと、それぞれのやり方で休日を満喫しているようだった。クミノとしてはキャーキャー騒いでいる学生共が目障りではあるのだが、これほどまでの晴天に恵まれたものだから騒ぐのも仕方ないだろう。
 それに、これほどまでの晴天、に恵まれているのは彼らだけではなく、クミノも一緒なのだ。クミノの行動パターン的にこういった場所を訪れることはまず無いし、行動するとしても夜のほうが多い。ましてサッカーなんぞありえない。
 しかしそのありえないサッカーがきっかけで、久しぶりに太陽の存在をを体全体で感じることができた。東京の街では見かけない緑の木々をその目に映すことができた。時折吹く風は自らを癒すかのように、程良い冷たさを以ってツインテールをふわりと揺らす。このまま眠ってしまえばどれほどに気持ちの良い目覚めを迎えることができるだろう。
 思い思いに休日を謳歌している人々を見ながら、何とも言えない心地よさに包まれている自分。
 たまにはこういう一日を過ごすのも悪くないかもしれないと、思った。



<-- scene 4-8 -->

 シュラインと零が一緒にパスの練習をしていると、やがて遠くから青いユニフォームに身を包んだひとりの女性が歩いてきた。表情こそ見えないものの、あれは冥月だ。間違い無い。シュラインは先の暁空とのやりとりを思い出し、冥月を警戒のまなざしでじいと見ていた。もし『キャプフル』が彼女の怒りに火を点けていたとしたら、そのとばっちりが行くのは武彦以外ありえない。
 だんだんと彼女の姿が近づいてくるにつれて、その表情も見て取れるようになった。そこでシュラインは仰天した。というのも、冥月は実に機嫌が良さそうな穏やかな顔をしているのである。足取りも心なしか軽やかに見える。これは、彼女が『キャプフル』を読んだことで魔球の開発の手がかりを得たということだろうか。それともそれを通り越して魔球を完成させたに等しい成果を得たということだろうか。あの漫画でそんなことがあり得るのだろうか。いや、全く以ってありえない。しかしそれにしても、彼女のあの満ち足りた表情は――
 シュラインがそんなことをつらつらと考えていると、冥月がこちらへと手をあげた。
「シュライン、零、相変わらず練習熱心だな。良い心がけだ。その様子なら後半戦も問題あるまい。男連中を差し置いての活躍も大いに期待できるな。楽しみにしているぞ」
 普段に比べて妙に饒舌な彼女に、シュラインはおずおずと声をかけた。
「あの、冥月さん……漫画喫茶で魔球を研究なさってるって聞いていたんだけど、どうだったかしら」
 すると冥月はふふりと笑った。
「ああ。魔球のほうでは大した成果は無かった。漫画に描かれている『影』では、いい加減すぎて全く参考にならん」
「そうだったの。それは徒労だったわね。折角研究しに行ったのに……でも冥月さん、何だかとても嬉しそうに見えるのだけど、何かいいことでもあったの?」
 シュラインが慎重に問い掛ける。彼女にとってのいいこと、それはすなわち武彦を殴る蹴るボコるという行為に違いないと、シュラインはほぼ確信している。もしそうであったなら、またしても自分はしなくても済む筈だった心配をすることになってしまう。それだけは避けたい。避けたいのだが……。
「ふふ、心配するな。別に草間には何ら関係の無いことだ」
 シュラインの心の内を読んだかのような冥月の発言に、シュラインが目を点にする。
「じゃ、じゃあ、いいことって」
 しどろもどろに言葉をつなぐシュラインに、冥月は熱いまなざしでもって言った。
「『キャプテンフリューゲル』だ! 読むまではたかが漫画と馬鹿にしていたのだが、それは大間違いだった……あのような面白い漫画を私は今まで一度たりとも読んだことがない! 『キャプフル』と出会えたこと、それは私にそって魔球開発よりはるかに大きな収穫だ。時間が無いものだから途中までしか読めなかったのが残念だが、後日またじっくり読みに行くつもりだ」
 最もありえない返答に、シュラインは軽い眩暈を覚えながら、
「そう……それは良かったわね、冥月さん。漫画って楽しいものね。『キャプフル』だけじゃなく色々読んでみれば、もっと素晴らしい漫画に出会えるかもしれないわよ。漫画喫茶っていたるところにあるから、便利だし。本当、便利な世の中になったわね」
 と、何だかわけのわからない台詞を返しつつ、あのとき祈っていて良かった……とほっとしたのであった。



<-- scene 4-9 -->

 グラウンド上では暁空と色による変化球対策特訓がいよいよ佳境に入ってきたところであった。
 ペナルティーエリアぎりぎりのところから、色が相手の壁や高さ等を想定しつつフリーキックを打つ。実戦ではどの場所から、どんなコースを狙って、どんな変化が起こるボールがゴールを狙うかなどまるでわからない。それゆえ色は、一本打つごとに位置を変え、相手の壁等も全く違う想定をし、フリーキックを放っていた。
 何本か蹴っているうちに、じわじわと勘が取り戻されてきているのを色は実感していた。最初のうちは変化をかけるはずがさっぱり曲がらず枠を外し、拾いに行く暁空に手を合わせて詫びることが何度もあった。しかし何本も蹴っているうちにコツを掴めてきたらしく、ボールは少しずつ曲げられるようになっていき、やがて大きな変化を起こせるようになった。これなら実戦でも充分に使えるに違いない。
 幸い、前半戦ではセットプレーが殆ど無かったので自分の出番もなかったが、後半戦ではフリーキックやコーナーキックを打つことも充分に有り得る。そもそも他のメンバーでまともなフリーキックやコーナーキックを蹴ることができる者など自分以外にはいないのだ。いや、もしかしたら冥月ならば可能かもしれないが、それでも色はそれらを蹴るのは自分の仕事だと思っていた。セットプレーでは、悔しいことではあるが自分よりも伸長のある冥月に中にいてもらったほうが得点チャンスが高い。それならば自分がセットプレーのボールを全て蹴るべきだと、そう思うのだ。
 だからこそ、それらの勘を取り戻しつつあるというのがとても嬉しく、またそれと同時に、それらが自分にしか成しえない仕事だということを誇らしく思っていたのである。

 動体視力には自信がある。古武術を長年やってきた身なのだから当然といえば当然だ。
 暁空はまずセービングよりも、ボールの回転を見極められたか否かに比を置いて練習することにした。最初の何本か枠外に飛んだボールもあったが、振り向いてボールの着地点を確認すると、それは自分が思い描いていた場所とほぼ一致した。つまり、ボールにかかっていた回転を見極めていたということになる。
 やがて色の調子が戻って来たのであろう、枠内へと曲がるシュートも飛んでくるようになった。序盤の数本でボールの回転と軌道、着地点の関係をおおよそ掴んでいた暁空は、曲がり幅の小さいそれらのシュートも容易く見極めることができた。何本か続けているうちに、持論が限りなく正しかったということを確信しはじめた。ボールは生物、キッカーも生物。ゆえに多少の誤差はあれど、それでもこの回転がかかったボールならばこう曲がる、回転が少なければ曲がり幅も少ないが、手元に来てから若干揺れる。暁空は確かな手ごたえを感じていた。
 そうしているうちに、いよいよ色が本領を発揮してきた。全く予測のつかないコースへとスピードボールを打ってくる。もしこれまでの練習がなかったならば簡単にゴールを許していたかもしれない。しかし暁空の動体視力はその回転をとらえられる程に冴え渡っていた。回転から即時変化方向を割り出し、そちらへと動く。するとボールはキャッチできるか、そうでなくてもパンチングで弾くことができる。それは逆からのボールでも同じことだし、打たれたボールの高さによっても変わらない。百発百中セーブできるわけではなかったが、これで充分だ。何せ、実戦ならば『あの技』だって使えるのだから。

「じゃ、最後いっくぜー!」
 疲れた様子を微塵たりとも見せない色が、元気良く腕を上げる。暁空はグローブで膝を叩きながらそれに答えた。
「おう!」
 それを聞いた色はにっこり笑うと、暁空から見て右斜め前方の位置へとボールを置いた。僅かな助走から蹴り出されたそれはやや高めに弧を描き、クロスボールのようにペナルティーエリア内を飛んでいく。このままの軌道では枠から外れてしまうに違いない。しかしそのとき、暁空の脳裏を一瞬の既視感が過ぎっていった。
 暁空はボールの軌道とは逆の、右側へと瞬時に移動した。途端、ボールに変化が訪れる。暁空から見れば『こちら側』へと軌道を変えたボールは、ぐんぐんとその曲がり具合を大きくしている。まるでボールが意思を持ってゴールを狙っているように。しかし今は暁空という砦がその前に立ち塞がっている。このままの軌道であれば危なげなくキャッチできることだろう。そう、このままであれば――
 だからこそ暁空はボールを見続けた。そして、そのスピードが初速よりもはるかに遅くなっていることに気付いた。それは更なるボールの変化の合図。暁空はその着地点を頭に描き、片膝を地につけてキャッチングの姿勢をとった。そして、その両腕に吸い込まれるように、ボールは暁空の両腕に収まり、静止した。
 てん、てん、てん――忌々しいあの音は、今は鳴っていない。



<-- scene 4-10 --> 

 まだ時間は充分にあるが、それでもそろそろ戻ったほうが良いだろう。もし途中何かがあり、その結果またあの男に遅刻だの何だの言われようならたまったものではない。
 クミノは軽く伸びをすると、空になったプラスチックパックを手に取りすっくと立ち上がった。くずかごはどこにあるだろう、と辺りを見回しながら、グラウンドへの道を歩いて行く。十字路に差し掛かったところで右手側の道に設置されているくずかごが見えたので、クミノはそちらへと向きを変えた。多少遠回りになるがそれも悪くは無い。
 歩いているうちにふと、耳に覚えのある声が聞こえた。方向は左、ケヤキ並木の向こう側と思われる。クミノはすっと並木の間を抜けると、手近にあった植え込みに隠れ、その向こう側をちらと覗き見た。

「すっすっすっすっすみません!」
「スミマセン……」
 たかぴぃとみゆみゆが、揃って土下座をしている。彼らをずらりと囲んでいる赤いユニフォーム姿。しかしそれらはフライドチキンおじさんの群れとは違った。皆、若い少年たちだったのだ。その中から、黒いユニフォーム姿――おそらくキーパー用だろう――が、大きく足を踏み出した。
「謝罪で済むなら警察や弁護士など必要あるまい! よくもおのれら、二中の名を汚してくれたな!」
 いきり立っているせいか彼の顔は真っ赤になっている。その中でも特に鼻の赤さが目立っていることにクミノは気付いた。
「まあまあ。いくら二中っつってもこいつらなんて所詮チンカス程度の実力しか持ってないんだし。相手によっちゃ、そりゃ大敗もするでしょ」
 口調によると彼は二年らしい。あのコンビをフォローしているつもりのようだが、いくらなんでもソレ呼ばわりはないだろう。クミノは少しだけ上体を伸ばして彼の顔を見た。というのもその彼は背が低く、クミノが最初にとった位置からは見えなかったのだ。
「つーか俺としては、相手チームがどんな連中なのか、そっちのが気になるんだけど」
 先の彼に同意してきた少年は、無表情で口調の強弱もあまりなく、何を考えているのかわからない雰囲気を漂わせている。顔立ちもどちらかというと老けた部類に入るため、ますます曲者じみた印象が拭えない。
「つーか、返事、まだ?」
 その少年が土下座コンビの発言を促すと、ふたりははっと顔を上げてまくし立てた。
「いや、その、あの相手チーム、準決までと全然メンバー違うんすよ! なんか元のメンバー全員食中毒になったとか言って、丸っきり別の連中がいきなり代理とか言って出てきたんで、俺らも吃驚したっつーか……なぁ原沢!」
「……確かに高柳の言った通り、急遽呼び寄せられた連中らしいんすけど、未経験者の寄せ集めかと思ってたら意外とそーでもなくて。経験者もちらほらいるし、やたらキック力のある女もいるし、妙なキーパーもいるし、変なおっさんまでいるし、なんつーか、俺らの常識が通用しないって感じ?」

 ふたりが必死に弁明している間に、クミノは彼らを囲んでいる少年たちをくまなく見ていた。一連のやりとりを見る限り、彼らは二中サッカー部のレギュラー或いはそれに準ずる者たちだろう。その推測は正しく、彼らの顔はクミノが二中の情報を探していたときに取得した顔写真データのそれと一致している。
「そうそう! 実力では絶対俺らのが上なのに、ジョーシキがまるで通用しない! つまり、非常識な奴らなんっすよ!」
 たかぴぃがそう言い終えた瞬間、ゴツンと鈍く重い音が響いたので、クミノは彼へと視線を向けた。するとたかぴぃが頭を抱えてうずくまっているのが見えた。その背後には、おそらく彼を殴った者と思しき少年が立っている。その風貌は、二中の『闘将』または『鬼軍曹』と名高い選手のものだ。あのとき集めたデータがそう証明している。
「痛っ! ちょ、何すん」
「非常識なのはお前らの方だろう。部活サボって『町内会サッカー大会』だと? 下らん。実に下らん。」
「いや。もしこいつらの話が本当だったら、下らんどころか意外と面白いかもしれないっすよ? 何つったって非常識なサッカーなんでしょ? 俺、むっちゃ興味あるんすけど」
「おま、興味あるとか言ってはぐらかさねーではっきり言えよ。『勝負したい』、ってな」
「いや。まあ、試合できるんだったらしてみてもいいけど、でもいきなりメンバー変更ってオッケーなわけ?」
「オッケーオッケー。何つったってあちらさんだって面子総入れ替えしてんだぜ? 俺らだけノーオッケーなわけねーじゃん」
「って、ちょっと待ってよ! 主将や監督の許しもなしにそんなことしたら、後で何されるかわかんないよ。俺やだよ」
「だー! これだからチキンは困んだよなー。ちったぁ空気読めっつーの。オメー以外全員、やる気になってんだぜ?」
「いや待て。俺はそんな下らん遊びに付き合うつもりなどこれっぽっちもないぞ」
「いやいやいや! やっぱりここは軍曹殿がいてくださらないと!」
「お前、ただボランチが欲しいだけだろう」
「違いますって! 鬼……やべ。えーと、軍曹殿が俺らの後ろに立っているだけで、全軍の士気が上がるんすから! ホント、ただ立ってるだけでいいんっすよ! お願いしまっす!」
「その前に。この俺もお前らなんぞのお守りをするつもりなど毛頭ないのだが」
「そんな! ここはやっぱ赤……やべ。えーと、中学サッカー界最強ゴールキーパーの力をお貸し願いたいわけで!」
「おのれはただキーパーがいればいいのだろうが! 今ここに居る者がフィールドプレイヤーのみ、ということくらいすぐにわかるわい!」
「いやいやいやいやそんなことは!」
「つーか、てめ、煩え。とにかく、やるのか、やらないのか、はっきりしてくんない?」
「だからやるっつってんだろ! 何が何でもな! 大体こいつら……やべ。えーと、偉大なる先輩方ってネンコージョレツがどーこー言って俺らにさっぱり出場機会よこさねーじゃん。たまにゃ相手が『非常識』とはいえ、試合してえっつーの!」
「こいつはそう言ってるけど、他、異論、ある?」
「ある……りません……」
「ほら見ろ! チキンのこいつまでやるっつってんだぜ? こりゃもうやるしかねーな。いや、ぜってーに試合出る! っつーことで高柳と原沢、あとはうまくやってくれよ。もし出れねーなんてことにでもなったら、てめーらどうなるか解ってんだろな……? 解ったならさっさと行って話まとめやがれ!」
「「は、はい!」」

 たかぴぃとみゆみゆが必死の形相で走り出すより先に、クミノは駆け出していた。
 クミノが向かう先は、グラウンドよりもはるかに遠い場所。すなわち、『ネットカフェモナス』――



<-- scene 5-1 -->

「な、何だぁ!?」
 ブルーサンダース陣ベンチから出て行った草摩・色が、相手側ピッチを見るなり目を丸くした。
「え? 何、UFOでも見た!?」
 グローブを嵌め直しながら、紫東・暁空が彼へと続く。そして彼と全く同じ反応を示した。それに気付いた黒・冥月がすっと立ち上がるなり彼らのところへと瞬時に移動する。そして相手ピッチへと視線をやった。
 そこにいた連中は、確かに赤いユニフォームに身を包んでいた。しかしその赤味が違う。そして胸元には『二中』の文字。
「成る程。ついに真打ちがお出ましになったということか」
 ふふりと笑う冥月に、色が声を荒げる。
「いやいや! そういう問題じゃないっしょ! あのバカコンビだけならともかく、何で他の連中までいるんだよ!?」
「しかも前半は全く姿見せてなかったし」
 暁空が眉を顰める。すると、こちらに気付いたのか例のふたりがニヤけた顔をしながら歩いてやってきた。そのユニフォームは町内会のものから二中のそれへと着替えられている。
「や、ゴメンな〜。うちの先輩たちがどうしても出たいって言って聞かなくってさ〜」
 余裕の表情でみゆみゆが言うと、横にいたたかぴぃが頷いた。
「それにてめーらだっていきなり出てきたじゃねーかよ。選手全員食中毒とか言っちゃってさ。それって実は嘘だったりして? てめーらが出るための口実だったりして? うっわ卑怯! 非常識に加えて卑怯ってソレどーゆーこと!?」
 みゆみゆとたかぴぃの口調からするに、二中の先輩方という後ろ盾を得たことですっかり調子に乗っているらしい。色と暁空が思いっきりムッとした顔をすると、冥月は「まあ、いいだろう」と言うなりまたしてもふふりと笑った。
「言うまでも無いだろうが一応言っておこう。前半戦が私にとってあまりにも物足りない試合だったのは、ここにいるふたりがあまりの口だけプレーヤーだった所為だ。後半戦までこいつらの相手を延々続けさせられるくらいなら、腕に覚えのある奴らを相手にする方が余程マシだからな。真打ち登場、私は大歓迎だ」
 今度は二中コンビがムッとする番だった。

 そこにニコ中トリオがやってきた。それまでグラウンドはおろかベンチにすらいなかったところを見ると、今の今までニコチン補給に興じていたらしい。彼らの真ん中を歩いていた草間・武彦が歩きながら冥月たちへと声をかける。
「おやおや、どーしたぁ? 敵チーム同士で仲良くお喋りとは。そりゃあいくらうちがボロ勝ちしてるからって、まだ勝負は終わっとらんのだぞー。気を引き締めんか、気を!」
 と言いつつも、その顔は緩みきっていた。それゆえ全く説得力の無い彼の台詞は当然スルーされることとなる。しかし武彦は余程機嫌が良いのかスルーされたことなど全く気にしていない素振りで、敵陣ピッチを見回した。
「あれ? フライドチキンズ若返ってないか?」
「違うんだよ。あれは全部エロゲコンビの先輩。後半戦出るんだって」
 暁空がニ中コンビを顎で差しながら言うと、武彦は「何だとぉぉぉぉぉ!」と叫びつつ、再度彼らを観察しはじめた。暫くじろじろと遠くを見ていた武彦だったが、やがて暁空へと向き直った。
「なあ、あいつら本当に二中の先輩なのか? OBじゃなくて?」
「先輩だっつーの!」
 武彦の問いに答えたのは、暁空ではなくたかぴぃだった。
「いや。だって妙に老け顔の奴多くないか? ほら、あのキーパーとか」
「あの人は元々そういう顔なんだよ!」
「んじゃ、あっちでボール蹴ってる足短い奴は?」
「あの人も、元々そういう顔でそういう長さの足なんだよ!」
「ふーん」
 武彦はしばらく二中を観察していたが、やがてそれをやめ、緩んだままの顔を冥月へと顔を向けた。
「何だ」
「いや、世の中様々人間がいるなーと思って」
「ほう。例えば?」
「どう見ても子持ちにしか見えない老け顔の少年もいれば、見かけは辛うじて女なのにその実態は男! 要はオカマかオナべぐぅあぶふぉご!」
 本当に学習能力のない男である。この日何度目になるかわからないが、とにかく武彦は冥月の肘打ちをダイレクトに鼻で受ける羽目になり、鼻血を撒き散らしながらぱたりと仰向けに倒れた。
「いい加減言い飽きたのだが」
 冥月は氷の視線を武彦に送りながら、
「私は釜でも鍋でもましてや男でもない。お・ん・な、女だ。そんなに私をからかいたいのなら、もっとマシなネタを仕込んで来い。いいか、わかったな?」
 と強く強く言い聞かせた。武彦は鼻血を押さえていた手を地面に置くと、血にぬれた指で「はい」、と書いた。



<-- scene 5-2 -->

 たまたまその場を離れていたシュライン・エマだったが、グラウンドに足を踏み入れるなりダッシュで走り出した。ピッチ上に倒れている者がいることに気付いたからである。しかしその人物の元へと辿り着くなり、その表情が固まった。しかしそれは、倒れていたのが武彦だったから、ではなかった。
「おお、エマ君! 俺がついていながらこんなことになってしまって……何と詫びて良いのか……!」
 武彦の傍らで正座していた三葉・トヨミチが両手で顔を覆う。しかしシュラインとしては武彦の惨状よりも余程気になることがあるのだ。シュラインは武彦の鼻を指差すと、トヨミチへと問い掛けた。
「ねえ三葉さん、これは何?」
「ああ、それは止血のために詰めたのだよ。手近になかったもので、やむなく……」
 力無いトヨミチの声を聞き流しながら、シュラインは彼曰く『止血のために詰めた』というそれを改めて凝視する。
 何とあろうことか、それは煙草であった。火の点いていない煙草が一本ずつ、武彦の鼻に詰められている。いくら応急処置とはいえ、まさか煙草を綿やテイッシュの代わりにするなんて。ニコチン中毒ここに極まれリ、である。シュラインはすぐさま武彦の鼻からそれらを引っこ抜いてやりたい衝動にかられたが、ぐっと堪え、トヨミチへと笑顔を向けた。
「ありがとう。おかげで出血はだいぶおさまってきてるみたいだから、あとは私に任せて頂戴」
「ああ。宜しく頼むぞ、エマ君!」
 トヨミチの熱い台詞を聞きながら、シュラインは冷ややかな目で武彦を見下ろしていた。

「たいへんです! たいへんです! たいへんなことが起きてしまいました!!!」
 突然の大声に、その場に居た者が一斉に声の方へと顔を向ける。するとシオン・レ・ハイが猛スピードで走ってきているところであった。その必死な形相に、いくら相手があのシオンといえども多少は心配になったらしく、ひとりの男――リオン・ベルティーニが彼に声をかけた。
「どうしたんですか、シオンさん。一体何があったんです?」
 するとシオンがわなわなと震え出す。
「だ、だ、だ、ダイイングメッセージが……! 私の名で……! あああ怖い怖い怖いです!」
 震えながら顔を覆うシオン。尋常ではない姿に――彼が尋常でないのはいつものことだが――、リオンは状況を詳しく聞いてみることにした。
「シオンさん。まずは一度、深呼吸をしてください」
 リオンがそう促すと、シオンはこくりと頷くなり、肺が破裂するのではなかろうかと思うほどたくさんの空気を吸った。ついでに言うならば両の瞳まで全開状態で。それから今度は肺が潰れてしまうのではなかろうかと思うほど息を吐き出した。ついでに言うならば空気の吐きすぎでげっそりとやつれきった顔で。
「落ち着きました?」
「はい、何とか」
「じゃあ聞きますけど、そのダイイングメッセージが書いてあった場所はどこですか?」
「あっちの水飲み場です」
「じゃあ俺が同行しますから、確認しに行きましょう」
 リオンが促すと、シオンはとぼとぼとした足取りでそれについてくる。

「これです! ここに『はい』って書いてあります! 私のファーストネームがこんなところに! あああ怖いです!」
 現場を確認するなりシオンはまたもや震え出した。リオンはそれは放っておくことにして、ダイイングメッセージとやらをしげしげと見つめた。それは弱弱しい線で地面に書かれてはいたが――おそらく指で書いたと思われる――、それでも『はい』と書いてあることは確認できる。
 だが、これはダイイングメッセージではない。リオンはもう一度シオンに大きく深呼吸をさせると、分析結果を彼へと伝えた。
「シオンさん。これは一見ダイイングメッセージのように見えますが、実は違います」
「えええええ!? じゃ、じゃあどうして私の名前が!?」
「シオンさん、俺の話はまだ終わっていません。じっくり聞いてください。いいですね? 俺がその文字をダイイングメッセージではないと断定したのには理由があります」
「理由、ですか?」
「ええ。そして、もしも『はい』が貴方を指しているのであれば、それはますますダイイングメッセージとは程遠いものになります。それゆえ先の断定は確定へと変わります」
「ど、どうしてですか!?」
「何故ならば。ダイイングメッセージというものは死ぬ間際の人間が残す最期の言葉。つまり書き手は瀕死状態、いつ死ぬかわからない状況下で伝えたいことを書くことになります。それゆえ必然的に、文字数は最小限に押さえられます」
「だから亡くなった方は『シオン・レ・ハイ』ではなく『はい』と書いたのですか!?」
「違います。俺の話にはまだ続きがあります。黙って聞いていてください。いいですね? まず、シオンさんのお名前。これは余程のことがない限りカタカナで書きます。それなのにダイイングメッセージではひらがなで書かれています。もしひらがなで書く方が短時間で済むならば、そちらを選択する人もいるでしょう。しかしカタカナの『ハイ』とひらがなの『はい』、どちらの方が短時間で書きやすいと思いますか?」
「カタカナです! カタカナだったら棒四本で済んじゃいます!」
「そうです。俺もそう思います。しかしここにはひらがなで『はい』と書かれています。ということは、シオンさんを想定して書いたダイイングメッセージとしては不適切。つまりこれはただの落書きです」
「す、す、素晴らしい!!!」
 名探偵リオンの理論的な推理により、シオンの悩みは無事解決した。



<-- scene 5-3 -->

 ブルーサンダース陣ベンチで、シュラインと武彦が顔を見合わせている。シュラインは彼の両鼻穴から煙草を抜き取るとティッシュに包んでごみばこに捨て、救急箱からピンセットで抜き取った綿を武彦の左鼻の奥にぎゅうぎゅう突っ込んだ。その感触に武彦は顔を顰めたが、シュラインはそんなことはおかまいなしといった様子で、今度は右の奥へと綿を詰めていく。
「はい、おしまい」
 シュラインはをエタノールを染ませたコットンでピンセットを軽く拭くと、使った器具類をてきぱきと箱へと戻していった。
「なんか、しゃべりづらい」
 鼻呼吸ができない状態の武彦がそうぼやくと、シュラインはいきなり彼の鼻にデコピンもといハナピンを放ってきた。
「な、なにすんだ」
「あんまりバカなことばかりしてるから、お仕置き」
「お、おれはばかじゃないぞ!」
「確かに武彦さんはバカじゃないわ。そうね、どちらかというと……大バカ」
「お、おおばかぁ!?」
 声を荒げる武彦に、シュラインは軽くため息をつくと、その根拠を語り出した。
「そうよ。だってさっき倒れてたのもどうせ冥月さんにやられたんでしょ? 彼女の機嫌を損ねるようなこと言って。今日だけならともかく、普段彼女と会ったときも必ず同じことしてるわよね。何度も何度も。痛い目に遭うのが解ってるはずなのに繰り返し繰り返しそんなことばかりしてるから、ただのバカじゃなくて大バカ」
「おおばか……」
 武彦がしょぼんとうつむく。シュラインは彼の顔を覗き込むと、まじまじとその瞳を見つめた。
「ねえ、どうしてそんなことばかりするの? 何か特別な理由でもあるの?」
 すると武彦はいじけた顔をした。
「べつに、りゆうはない」
「じゃあ何で」
「いや……なんつーか、あいつからかうとおもしろいから……」
 と言ってシュラインから目を逸らす。
「面白い?」
 シュラインが僅かに声を荒げる。そして武彦の顔を両手で固定し、自身の方へと向けさせた。
「殴られて、蹴られて、痛い思いするのが、面白いって言うの?」
「や、いたいのはほんとかんべんなんだが」
「じゃあどうして面白いなんて言うの」
 その質問に、武彦は黙ったまま口をへの字に曲げた。そして一言。
「よくわからない」
 それだけ言うと、彼女から目を逸らす。シュラインは暫く彼の顔をじいと見ていたが、やがてその顔から手を放した。立ち上がり、救急箱をベンチの隅へと置くと、シュラインはぽつりと呟いた。
「よくわかったわ」
 そう言うなり、ベンチに背を向けてグラウンドへと歩き出す。武彦は慌てた様子で彼女に声をかけた。
「しゅらいん! まってくれ! それはごかい」
「違うの」
 シュラインが振り返る。その表情は、笑顔だった。
「私がわかったのは、武彦さんがなーんにもわかってない人だってことよ」
 それだけ言うと、シュラインは踵を返し、ブルーサンダース陣ベンチを後にした。



<-- scene 5-4 -->

 ダイイングメッセージ事件無事解決。すっかりご機嫌になったらしいシオンはスキップで自陣ベンチへと歩を進めている。リオンはその後ろをのんびりと歩いていた。歩きながら、敵陣ピッチへと顔を向ける。
 レッドファイヤーズのものとは違う赤いユニフォームに身を包んだ少年たち。それぞれがウォーミングアップやパス練習、シュート練習等に興じている。彼らが二中のレギュラー陣なのかそうでないかは定かではないが、確かなことがひとつある。それは彼らが、明らかにたかぴぃやみゆみゆより秀でたプレーヤーであるということだ。体格や動きを見れば一目瞭然、その実力が見て取れる。『ニ中サッカー部』の看板はハッタリではないということか。
 彼らを相手にブルーサンダースはどれだけ戦えるのだろう。前半につけた点差はどれだけ守りきれるのだろう。自分はどれだけの働きをすることができるのだろう。
 そんなことをつらつら考えていると、リオンの身体が何かにぶつかった。
「うおっ」
 その何かへと顔を向けると、それはシオンの後ろ姿だった。彼がその場に立ち尽くしているのである。
「ちょ、シオンさん、いきなり止まらないで下さいよ」
 余所見していた自分のことは棚に上げ、リオンが彼に抗議する。しかしシオンは振り返らない。それどころか、その場でガクガクと震え出すではないか。
「ど、どうしたんです?」
 リオンがすっと前に出て、彼の顔を見る。その表情は恐怖のそれに支配されており、瞳は一点を凝視している。シオンは震える指でそこを差すと、震えた声でぽつりと言った。
「ま、また……ダイイングメッセージが……」
「は!?」
 ガクガクブルブルとその震えを増しているシオンを余所に、リオンは彼の指差している場所――地面へと顔を近づけた。するとそこには水飲み場にあったものと同じように『はい』という文字が書かれていた。先のものと違うのは、文字とその周辺に赤いものが散らばっているということ。リオンは地面にしゃがみこむと、赤い部分が混じった砂を少しだけ指でつまんだ。そして指ざわりと臭いを確認する。それは紛れもなく、血液だった。
「どういうことだ……?」
 リオンの表情が固くなる。この狭い範囲内にふたつも書かれた『はい』という文字。その片方は血文字。これらは一体何の意味を持っているのか。散乱している血液は何なのか。シオン・レ・ハイとの関係性は――

「あ、それね、キャプテンが鼻血出してぶっ倒れたとき書いたやつだから」
 いきなり降ってきた解答に、リオンは前方にダイブ、シオンはその上へとダイブ、ふたりともうつぶせになって倒れこんだ。
「な、な、何だってぇ!?」
 覆いかぶさっているシオンを弾き飛ばしながら、リオンががばりと身体を起こす。すると前方でボールをくるくる回して遊んでいる暁空と目が合った。
「え、何、鼻血!? 草間さんの!?」
 リオンが自身の指と暁空を交互に見ながら声高に問うと、暁空はこくりと頷いた。
「さっきキャプテンが、冥月さんのこと男扱いして肘鉄食らって、鼻血流しながら倒れて、んで、冥月さんに『笑いを取りたいのならもっとトンデモなネタを持ってこい』みたいに言われて、そこに『はい』って返事書いたんだよ」
 それを聞くやいなや、リオンはがばりと立ち上がり、水飲み場へと一目散に走り出した。おそらく武彦の鼻血がついた指を洗いに行ったものと思われる。
「いやあそうでしたか! いや、てっきり誰かのダイイングメッセージだとばかり思って! しかも『はい』って書いてありますでしょ! 『はい』と言えば、シオン・レ・ハイつまり私のファーストネーム! いやあもうガクブルしちゃいました!」
 一気にテンションの上がったシオンが、ブレイクダンスをしながらまくし立てる。と思いきや、今度はすっくと立ち上がり、ムーンウォークでベンチへと向かって行った。
 シオンのスペシャルなダンスパフォーマンスとブレイクダンスという流行の最先端を駆使した立ち去りっぷりを目の当たりにして、暁空は敗北感と同時に激しい嫉妬を覚えた。



<-- scene 5-5 -->

 グラウンドに足を踏み入れるなり目に入ったのは、レッドファイヤーズとは違う赤いユニフォームに身を包んだ少年たち。
 やはり二中が出てきた。即座に自陣ピッチを見回したが、探している人物は見当たらない。クミノは足早にベンチへと向かうと、その前に立っていた冥月に声をかけた。
「草間はどこ?」
 すると冥月は親指を後方へと向けた。
「一番奥のベンチで寝ている」
 寝ている、とは呑気なものだ。そう思いつつ、クミノは冥月に軽く礼を言うと、自陣ベンチへと入って行った。煩いいびき音のおかげで、武彦の姿はすぐに見つかった。クミノは彼につかつかと近寄って行くと、
「草間!」
 彼の耳元でその名を大きく呼んだ。瞬間、武彦が跳ねるように身体を起こす。武彦は恐怖と悲しみをはりつけた顔で辺りをきょろきょろ見回していたが、やがてぽつりと呟いた。
「なんだ、ゆめだったか……」
 呟きつつ、ようやく傍にクミノがいることに気付いたらしい彼は、ほっとした顔をしてクミノに笑いかけた。
「くみの! おまえがおこしてくれたのか! いやあたすかったよ。いや、じつはいまな……おもいだしただけでもしにたくなるようなゆめを」
「草間の見た夢になんか興味ないから」
 ばさりと斬り捨てられ、武彦の表情が一気に強張る。
「それより。二中の二、三年が後半戦出てくることはもう知ってるわよね」
「あ、おう。さっきみた」
「作戦は? 勝機は?」
「ほえ?」
「相手を見たのに何も考えてないっていうの? キャプテンのくせに」
「や、みたにはみたけど、そのあと、おれ、すぐきぜつしたから……」
「相手の実力を目の当たりにして気絶したってこと?」
「や、そうじゃないんだが……ごにょごにょ」
 あまりに情けない『キャプテン』の姿に、クミノはぼそっと吐き捨てた。
「……これだから自称は」
「ん、なにかいったか?」
 きょとんとしている草間に、クミノは首を横に振ると、
「まず、その鼻に詰めてるもの取って。話が聞きづらくて困る」
 と、彼の鼻を指先でつんと突いた。

「うーん。やっぱり鼻で呼吸ができるってのはいいもんだな」
 武彦が大きく鼻を膨らませながら深呼吸をしている。
「いや、実はさっきな、冥月のやつに」
「草間が鼻血出した経緯なんか興味ないから」
 またしてもばさりと斬り捨てられ、武彦はムッとした顔をした。
「じゃあ何で俺んとこなんかに来るんだよ」
「聞きたいことがあるからよ」
「……俺に?」
 クミノの台詞に、武彦がぽかんとした顔をする。クミノは頷くと、武彦の目をじいと見ながら口を開いた。
「さっきも訊いたけど、二中相手に勝機はある?」
「そりゃああるさ。前半であれだけ点差つけてやったんだぜ? 俺らの力なら余裕で守りきれるだろ」
「そうかしら。中学生とはいえ全国クラスの選手が揃ってるチームに、こんな急造チームが勝てるなんて到底思えないけど」
「うーむ。そりゃそうだが、じゃあどうすりゃいいんだよ。今から俺ら全員ワールドクラスに育て上げろってのか?」
 武彦の逆切れ発言に、クミノがあからさまにため息をついてみせる。それに気付いた武彦が口をへの字に曲げた。
「じゃあ何だ、お前は何を言いたいんだ?」
 苛々を隠し切れない様子で武彦が言うと、クミノは彼に告げた。
「このままなら確実にブルーサンダースは敗北する」

 敗北――それはすなわち死の宣告。武彦の顔が一気に青褪める。
「でも」
 クミノがすぐ話を続けてきたので、それに続く台詞を想像した武彦の顔がぱっと明るくなった。しかし、続くクミノの発言は、武彦が想像していたものとは全く違っていた。
「別に負けたって何の問題もないわ。クライアントからは『試合を成立さえさせてくれれば勝敗は問わない』と言われているんだから。負け試合とわかっていてもなお四十五分間ピッチに立っていなければならないというのは他のメンバーにとっては辛いかもしれないけれど、それでも試合は成立する。結果、クライアントの意向に沿うことが」
「違う!!!」
 クミノが全てを言い終える前に、武彦が声を荒げた。これ以上彼女の台詞を聞きたくなかったのだ。クミノは発言を遮られたにもかかわらず、極めて冷静な表情で武彦を見ている。続きを促している。武彦は少しうつむくと、その胸のうちを語り出した。
「確かに俺は、やる気なんて更々なかった。だがそれは試合をする前だけだ。いざ試合となっても俺は全然チームの役に立てず、それどころかお荷物になっていた。それでもサッカーというスポーツに触れたことで、俺の中にもっと試合をやりたい、そして勝ちたい、という野望が芽生えた。それはハーフタイムを過ぎた今でも、まして二中がどんなに強いチームだということを知っても変わっていない。もう町内会の意向なんてどうでもいいんだ。俺は、この試合に何が何でも勝ちたいんだよ!!!」
 最初はとつとつと述べていただけの武彦だったが、最後には絶叫していた。うつむいていた顔も、今ではしっかりとクミノに向けられている。ふたりの目と目が合った。かたや激情の表情、かたや冷徹な表情。そのふたりがぴくりとも動かず睨みあっている。

「それを聞きたかったのよ」
 ふいにクミノが口を開いた。その表情は普段の彼女からすれば実に穏やかだ。それにつられて武彦の表情も変わる。どちらかというと、呆気に取られたような部類のそれに。
 クミノは武彦の呆けた顔をしばし眺めていたが、やがて真顔になると、真剣な口調でもって言った。
「草間の覚悟は充分にわかった。わかってしまったからには私は、あなたに協力しないわけにはいかない」
 そう言うと、クミノは手に持っていた革製の鞄から紙束を取り出し、武彦へと渡した。その紙束は何かをプリントアウトした用紙であるらしい。武彦がそれをパラパラ捲っていく。やがて彼は大きく目を見開いた。
「こ、これはまさか、二中の……?」
 武彦が問うと、クミノは「そう」と頷いた。
「二中の二、三年全選手のデータ。データがあったところで勝てるかどうかはわからないけど、あるに越したことはないでしょう」
「お前、ハーフタイム中さっぱり見かけないと思ってたら……もしかして、この情報を仕入れに行ってたのか?」
 紙束を強く握り締めながら武彦が問うと、クミノは首を横に振った。
「ハーフタイムはしっかり休息したわ。ただ、グラウンドに戻る途中であいつらを見かけたから」
「じゃあ、それからわざわざ家に戻って……?」
「大した距離でもないし、時間もあったから。単なる暇つぶしよ」
 しかし武彦は彼女が嘘をついていることに気付いていた。ネットカフェモナスまではかなりの距離がある。それにグラウンドに戻る途中だったということは、後半が始まるまで時間はそんなにないはずだからだ。武彦は彼女の献身的な行為にすっかり感動してしまっていた。感動のあまり、
「……クミノ!!!」
 思わず彼女に抱きつきそうになった武彦だったが、あっさりとかわされたうえ脛を蹴られた。武彦が悲鳴をあげる。
「抱きつきたいんだったら他の人にして。はっきり言って、気色悪い」
 クミノは言葉でもって彼の心をぐさりと突き刺すと、
「それより、すぐに全員召集して。時間あまりないから」
 と、絶対命令を下した。



<-- scene 5-6 -->

「クサマ・タケヒコーズ全員集合!」
 武彦の声が自陣ピッチいっぱいに響き渡る。しかし誰も振り返らない。武彦からやや遅れてベンチから出てきたクミノが彼の頭をぺしりと叩く。叩いた手がグーでなかったのは目上の者に対する一応の尊重からであろう。
「ふざけてないでさっさと全員召集して頂戴。時間ないって言ってるでしょう?」
「はい……」
 しょんぼりと俯いていた武彦だったが、やがて顔をあげ、息を大きく吸い込むと、
「ブルーーーーー! サンダーーーーース!! 全! 員! 集! 合ーーーーー!!!」
 これでもかという程の大声でメンバーたちへと呼びかけた。すると彼らが一斉に武彦へと駆け寄ってくる。
「どうした、草間さん。何かヤバイことでもあった?」
 真っ先に到着した色がそう問い掛けると、武彦は「いや、してない」と返事をした。それを聞いた色が首を傾げる。
「あのさ。今俺、何かヤバイことでも『あった?』、って訊いたんだぜ? 『した?』、なんて言ってないのに何で『してない』って返すわけ? 何か思い当たることでもあんの?」
 ニヤリと笑う色に、武彦は慌てて手を横に振った。
「ないない! 断じてない! つーかそんなことより今は大事なことがあるんだ!」
「大事なこと!?」
 武彦は頷きながら、ブルーサンダースの選手たちが全員集まっていることを確認すると、
「よし、集まったな。それではクミノを中心に円になって座れ。円は二重でも三重でも構わん。とにかく小さく集まれ」
 と指示を出した。メンバーたちは不思議そうな顔をしながらも、彼の言葉に倣ってそれぞれが決めた位置に座った。

「で、大事なことって何!?」
 体育座りをしている色が元気な声で問い掛けると、武彦は人差し指を唇に当てて『しずかにしてください』の仕草をした。
「あまり大きな声は出すな。相手に聞かれたら困るからな」
「ってことは、作戦会議か何かですか?」
 控えめなトーンの声でリオンが訊くと、武彦は「そのとーり!」と胸を張った。そんな彼に暁空が突っ込む。
「キャプテン、声でかすぎ」
「あ、そうだった。すまんすまん」
 武彦が頭を掻きながら照れ笑いを浮かべた。
「で、本題は?」
 冥月が簡潔に問うと、武彦の表情が一気に真顔になった。
「実は諸君。何と、二中に関する詳細なデータを我々は手に入れることができたのだ!」
「おおおおお!」
 一同からどよめきと歓声があがる。
「そしてそれを集めてくれたのは、ササキビ・クミノ!!!」
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
 またしても歓声があがる。そして一同が皆、クミノへと顔を向けた。
「すげー! どうやって調べたの、ソレ!? つーか早くデータ教えてよ!」
「さすがだわ……クミノちゃんが集めたデータなら完璧ね」
「ササキビ君! 何という素晴らしい仕事ぶりだろうか! 俺は感動したよ!」
「おお、クミノちゃん! 愛らしいだけでなく情報収集まで完璧とは……惚れてしまいそうだ!」
「リオンさん、んなこと言ってるとホントにバラしちゃうよ? 俺」
「ちょ、おま、それだけはやめてくれ! 頼むから!」
「データなど必要ないと言いたいところだが……あるに越したことはないだろう」
「てゆか、一部の人たち、声でかすぎ」
 暁空のぼそりとした突っ込みに、該当する面々がはっとした顔になる。そしてそれぞれが唇に指を当て、お互いに『しずかにしてください』の仕草をとりあった。
 渦中のクミノはというと、皆に注目されあれこれ言われ辟易しているらしく、その元凶である武彦をじろりと睨みあげている。
「さあクミノ、お前の努力の結晶、皆に見せつけてやれ!」
 武彦がクミノにそう言うと、クミノは立ち上がって彼の胸元をグーで殴った。悲鳴をあげながら胸を押さえている武彦をなおも睨みつけながら、クミノは言った。
「どうでもいいから、とにかく静かにして頂戴」

 周りが落ち着いたのを確認すると、クミノは紙束に目を通しながら言った。
「最初に言っておくけど、私はサッカーについてはルール以外何も知らないから、専門用語を言い換えることはできない。まとめたデータをそのまま話すことしかできないから、もし補足できる人がいたら遠慮しないで口挟んでくれて構わないわ」
「了解」「任しとけって」
 リオンと色が頷いたのを見て、クミノはいよいよ本題に入ることにした。

「じゃあ、まず二中サッカー部について。つい最近までは二流チームだったみたいだけど、ここ数年で有力な選手を集めることに成功して、今は都内でもほぼ負け無しのチームになっている。その強さとユニフォームの色から、彼らは他のチームから『赤い悪魔』と呼ばれ恐れられているわ」
「『赤い悪魔』……全盛期のマンチェスターユナイテッドがその異名を持っていたな」
 リオンが呟いた。しかしその内容は補足というよりただの薀蓄である。
「それからチーム全体の話になるけど、そのディフェンスは『カテナチオ』と称されるほどに強固、中盤は『黄金の四人組』と呼ばれる多彩で自由奔放なプレーをする選手が集まっていて、さらに中盤の上の選手たちとフォワード陣を合わせた五人は『クィンテット・マジコ』、魔法の五人組の異名を持っているわ。魔法のようなパスとドリブルを多彩に織り交ぜたプレーでそう言わしめているみたい」
「『カテナチオ』はイタリア語で鍵をかける『かんぬき』。それだけ堅いディフェンスをするってことなんだけど、カテナチオはイタリアサッカーにしか許されない言葉だと俺は思ってるから、今のは聞かなかったことにする」
 またもやリオンの薀蓄および愛国心による主張が入った。

「次、各選手について。今あっちのグラウンドにいる十一人が先発でくると思うから、彼らについてまず話すわ」
「ってことは、交代出場してくる奴もいるかもしんない?」
 暁空が問うと、クミノは「多分」と頷いた。何せ向こうのベンチには大勢の選手が座っているのだから。
「でも今は時間がないから、彼らについては後回しにするか、出てきたときに伝えるわ」
「わかった」



<-- scene 5-7 -->

「じゃあ、フォワードから。まず、あっちにいる背番号17番。長髪の奴ね」
「男のくせに長い髪とは軟派な奴だな。けしからん」
 武彦が時代錯誤なことを口にする。そしてニヤリと笑った。
「ああ、そういえばウチにもいたな。長い髪をして女のように見せておきながら……はっ!」
 武彦が慌てて口をつぐんだが、時既に遅し。冥月から頭をはたかれ、彼は「ひいっ!」と悲鳴をあげた。
「女のように見せているのではなく、女だ。まあ、男と言い出さなかっただけ良しとしよう」
 冥月がふふりと笑った。どうやら先の武彦に対する叩きは手加減によるものらしい。武彦が倒れていないのがその証拠だ。
「続き、いいかしら」
 クミノの問いに、冥月と武彦が頷いた。
「彼は二年で、公式戦出場経験無し。でもその足の速さは小学生時代から有名で、陸上部にスカウトされるくらい。ただ、気性が荒いというか頭が弱いというかそんなところがあって、ベンチ内で審判に暴言を吐いて一発退場を食らったことがあるそうよ」
「ぶぶっ」
 それを聞いた色が口元を押さえながら吹き出した。
「あと彼は、ファウルぎりぎりの危険なプレーや、相手のファウルを取るためのシミュレーションを多用することが多い。口も汚いからくれぐれも挑発に乗らないように」
「気ぃつけなよ、草間さん!」
「なっ、俺があんなロン毛の挑発に乗るわけないだろう! なぁみんな!」
 色の冷やかしに武彦が反論、周りの擁護を促したが、誰も何も言わなかった。

「次、18番。背が高くて金髪の奴」
「中学生の分際で髪を染めるなんて、軟派な奴だな。二中の教育はどうなっとるんだ」
 またしても年寄りじみたことを武彦が言った。しかしクミノは首を横に振る。
「ああ見えても二中では品行方性な優等生。学業成績もかなりいいわ。それでいて二年でありながら公式戦に何度か出場してるくらいの選手で、顔もいいから、女の子には人気があるみたい……ってそんなことはどうでもいいわね。失礼」
「「よくないぞ!」」
 武彦とトヨミチが同時に声を荒げた。
「ちくしょう、俺なんて一度もラブレター貰ったことないのに! きっとあいつの下駄箱は毎日ラブレターでいっぱいなんだろうな! ああちくしょう! ムカつく奴だ!」
「草間君! 俺だってそうだ! 何の下心もなくただ純粋に我が劇団への勧誘をしているだけなのに、気持ち悪いものを見るような目をして去って行く女性たちがどれほどいることか! 許し難い、本当に許し難い!」
「そうか……トヨミチ君も同じ思いを」
「そうさ……お互い、辛い思いをしているんだな、俺たち」
 そう言いながら固く握手を交わすふたり。実はふたりの言っていることの主旨は全く違っているのだが、今はそれよりも朋友パワーのほうが勝ったらしい。しかしクミノはそんなものは無視して話を続ける。
「で、彼の持ち味は足の速さと爆発力のあるシュート、高い身長を活かしたヘディング。ちなみに彼は、その髪の色とプレースタイルから『黄金の隼』という異名を持っているわ」
「称号までカッコイイとは……ますますムカつく奴だ……」
「草間さん、ひがみはそのへんにしといて下さいよ。話進まないから」
 リオンに『ひがみ』と指摘された武彦はますますいきり立ったが、辛うじて場の空気を読めたらしく、無言になった。

「次」
「は!? まだフォワードいんの!?」
 色が驚きの声をあげる。というのも近年のフォーメーションでフォワードを三人置くのは珍しいからだ。
「わからないけど、データ上ではフォワードってなってるから」
「あ、そうか。フォワードの誰かを中盤の上とかウイングとかに回す可能性もあるしな」
 うんうん、と色が自己完結する。
「9番。こげ茶色っぽい髪をばさばさ伸ばしてる奴ね。彼は二年、アルゼンチンからの留学生」
「「アルゼンチン!?」」
 リオンと色が目を丸くする。アルゼンチンといえば言わずと知れたサッカー大国。そこからの留学生と言うのなら、恐らく実力はかなりのものだろう。二中のレギュラーフォワードを凌ぐ力を持っている可能性だってある。
「彼に関しては日本に来たばかりみたいで詳細なデータは無いんだけど、アルゼンチンに居た頃はその風貌とプレースタイルから『レ・レオーネ』、日本語で言うならば『獅子王』と呼ばれていたそうよ」
「プレースタイルから、ね……あれかな。猛獣のような嗅覚を持つタイプ」
「私も食べ物のにおいを嗅ぎ分けるのは得意です!」
 シオンがとんちんかんなことを言ったので、リオンはがくりとしながらも突っ込みを入れた。
「いや、そうじゃなくて、ゴールに対する嗅覚。チャンスのときに必ず絶好の位置にいたり、無茶な体勢からでもシュートを決めたり、抜群の決定力を持っていたり、とまあ、そんな感じです」
「じゃあ食べ物に関しては、私のほうがダントツですね! フィーバー!」
 無邪気に喜ぶシオンを見て、リオンははぁ、とため息をついた。

「それじゃあミッドフイールダーに移るわね。まず7番。ユニフォームの襟を立ててるでかい男。彼は三年」
「ついに最上級生のお出ましか。するとあいつはレギュラーか?」
 冥月が問うと、クミノはこくりと頷いた。が。
「そうなんだけど性格に問題があって、チームプレイより自分が目立つことを優先するタイプだから、レギュラーから外されることもしばしば。で、その度に後輩にヤキ入れるもんだから性質が悪い」
「あ、今エロゲコンビの奴、そいつに蹴られた」
「ぶぶぶ」
 暁空が指差した方向を見て、色がまた吹き出した。
「だけどピッチ上の彼に不可能はないと言われるくらい、その技術は完璧。創造力があってフィジカルにも恵まれてるから、中学サッカー界で彼を止められる選手はいないと言ってもいいくらいよ。性格もプレーも、まさに彼の異名である『キング』そのもの。今向こうに立ってる選手の中でも特に注意すべき男ね。いろんな意味で」
「だな……あ、また蹴られてる」
「マジかよ! うっわ、すんげえ痛そうなんだけど」
「随分と足癖の悪い奴だな」
「それはおま……いや、何でもない、何でも」
「次いいかしら」
 向こうを見ている暁空と色、冥月に軽く蹴られた武彦に視線をやりながらクミノが言うと、それぞれが向き直って頷いた。

「じゃあ次、19番。あの中でひときわ小さい奴。二年」
「あれは……一年コンビよりも低いな。だが、体格はしっかりしている。ボディバランスが良さそうな選手だな」
 その選手を観察しながらトヨミチが呟く。
「その通り。抜群の安定感がある選手よ。身長の低さを活かしたドリブル技術はかなりのものだし、パスの精度も高い。フリーキックと右のコーナーキックは彼が蹴ることが多いみたいね。右サイドにいることが多いけど、豊富な運動量であちこち動き回るから、身長が低いからといってバカにしてたら痛い目見るかもしれないわ。油断は禁物よ」
「右ってことは、こっちからすれば左よね。三下くんや私で相手になるかしら……」
「大丈夫。いざというときは俺やクミノちゃんがフォロー入りますから」
 眉を顰めるシュラインに、リオンが笑顔を向ける。クミノも「そうするわ」と頷いた。

「次、20番。三年。レギュラー」
「ありゃあ随分な老け顔だな。しかも足が短い。俺のほうが断然勝ってるぞ」
「武彦さん。何を勝ってるのかよくわからないけど、見かけで判断するのは良くないわ。さっきの小さい子のときもクミノちゃん言ってたでしょ。油断は禁物、って」
「そう。さっきの彼より余程食えない男よ。ドリブルも素晴らしいけど、利き足の左から繰り出されるボールはまさに芸術。ボール扱いにおいては中学界屈指の力を持ってる。左のコーナーキックは彼が蹴ることが多い。ただ、ちょっと気が短いところがあるのが珠に傷。ちなみに彼は『二中のナマドーラ』と呼ばれてるわ」
「「「ナマドーラ!!!???」」」
 その名を知っている数人が驚きの声をあげる。
「ナマドーラって、あのアルゼンチンの英雄ナマドーラ?」
 リオンがクミノに問うと、クミノは少し首を傾げた。
「違うみたい。私は良く知らないんだけど、『東欧のナマドーラ』と呼ばれている選手とプレースタイルが似てるとか」
「ああ。それなら94年のワールドカップで大活躍したルーマニアの英雄のことだな。確かにサッカー雑誌ではそう書かれてた気がするけど、本人はそう呼ばれるのを嫌がっていたとかいう噂がある」
 リオンがさり気なく薀蓄を披露する。
「まあ、どちらにせよ英雄と呼ぶに相応しい力を持っているということか」
 冥月がさらりと話をまとめた。

「次、8番。三年、レギュラー。キャプテンマークつけてる男」
「あいつが……二中のキャプテンか……!」
 武彦がメラメラと闘志を燃やしている。
「違う。キャプテンは別にいるわ。ただ、今ここにいないだけ」
 燃え盛る炎をクミノが瞬時に消し去った。
「彼はボランチ。決して派手な選手ではないけれど、基礎はしっかりしている。それよりも重要なのは、彼が類稀なるリーダーシップ性を備える人物だということ。彼がピッチ上で大声を張り上げるだけで、周りの選手たちの精神が瞬時に引き締まる。後輩には密かに『鬼軍曹』なんて呼ばれてるみたいだけど、まさにそれに相応しい男。一見地味ではあるけれど、チームに無くてはならない存在。それが彼よ」
「それで今回キャプテン代理なわけか」
「そういうことね」
 冥月の言葉にクミノが深く頷いた。



<-- scene 5-8 -->

「あとはディフェンダーとキーパーね。まず最初、4番。三年。彼もレギュラー」
「あいつもまた随分老けた顔してんな……同い年とは思えねー」
 色の呟きに、一同がその選手と色を交互に見比べる。そしてうんうんと同意した。
「ポジションはセンターバック。抜群のキック精度に加え、その飛距離や威力は相当なもの。一瞬で中盤や前線に正確なパスを送り出すことができる。ディフェンダーだけど、フリーキックやペナルティーキックの名手としても有名だわ」
「それって、魔球も打てるってこと?」
 暁空がクミノに問い掛ける。
「違う。変化するボールじゃなくて、破壊力抜群の力強いキックを高精度で放つのが彼の特徴なの。言うなれば『大砲』」
「大砲ね。そりゃあ楽しみだ」
 そのキック力を想像したのだろう。暁空がわくわくとした表情を浮かべた。

「最後。1番。キーパー」
「え? ディフェンダーひとりだけ?」
 ぽかんと口を開く色に、クミノが言う。
「今いるメンバーでは、さっきの彼だけが本職みたい。一年コンビがディフェンダーに入る可能性もあるわね」
「それでも三人か……もしかすると、3−4−3で来るかもしれないな」
「さんよんさん? 何だそりゃ」
 リオンの推測に武彦が首を傾げる。
「フォーメーションのひとつの形ですよ。ディフェンダー三人、ミッドフィールダー四人、フォワード三人。最近は4バック――ディフェンダー四人からなるシステムを採用するチームの方が多いんであまり見かけないんですけど、フォワードが多いぶんハマれば爆発力は抜群だし、3バック――三人のディフェンダーが強力であればあるほどシステムが機能します」
 リオンは答えつつ、前半開始前にブルーサンダースのフォーメーションを決めていったときのように指で地面に点をぽんぽんと書いていった。それからいくつかの点を線で結んでいく。やがて下に一個、すぐ上に三個の点が横一線に結ばれ、その上には4個の点からなるダイヤモンド型、さらにその上には三個の点が山形に結ばれた。順にキーパー、ディフェンダー、ミッドフィールダー、フォワードということになる。
「これ、オランダリーグの強豪チームが採用しているフォーメーションで、いわゆる『アヤックスシステム』ってやつなんですけど、多分今回の二中チームはこんな感じでメンバーを配置してくると思います。ちなみに90年代中ごろのバルサ――スペインリーグの強豪FCバルセロナや、四年前の日韓ワールドカップのアルゼンチン代表がこれで戦ってました」
 つらつらと薀蓄を披露するリオン。聞いている者の大半はよくわからないという顔をしているが、それでも『強豪チームが採用している破壊力のあるフォーメーション』、ということは伝わったらしい。

「つまり、フォワードを増やし攻撃力を上げることで、前半の点差を一気に詰めていこうとしているわけか」
「いや。詰めるどころか逆転して大差をつけるつもりだと思う。彼らにはその力がある」
 冥月の発言をクミノが否定した途端、一同が目を見張った。
「それだけ素晴らしい選手が揃っているのよ。こうして事前に相手の情報をつかんだところで勝てる見込みはほぼ、ないわ」
 クミノの言葉により、その場が緊迫感に包まれる。

「その最たる根拠がキーパーの彼、三年。勿論レギュラー。現在、都内の公式戦での無失点記録を更新中。ピッチに立っているだけで相手チームに威圧感を与えるくらい、その存在感は凄まじい。欠点なんてひとつもないわ」
「……他に何か情報はないのか?」
 武彦が神妙な面持ちで問うと、クミノは「そうね……」と少し考えていたが、やがて口を開いた。
「あとは、彼が鼻の赤さから『赤鼻』と呼ばれていることと、好物がシュウマイだってことくらいかしら」
「顔云々は置いといて、選手としては欠点ゼロ、ということか……」
 はあ、と盛大なため息をつく武彦。それにつられるかの如くところどころからため息が漏れた。そのとき、
「はい! はい! シオン・レ・ハイ! 私、とってもいい作戦を思いついちゃいました!」
 シオンが問題に答えようとする小学生のように、元気いっぱいに手をあげた。
「本当か!? その作戦とは!?」
 先頭を切ってため息をついていた武彦ががばりと食いつく。するとシオンは元気良く答えた。
「ズバリ! 『シュウマイ蹴る蹴る大作戦』です!」
「しゅ……しゅう、まい、を、ける、だぁ!?」
 どれだけ素晴らしい作戦を想像していたのであろうか。武彦がぽかんと口を開いたまま静止している。
「はい! シュウマイです! 美味しいシュウマイをゴール前にいーっぱい並べておくのです! そしてどんどんゴール目掛けて蹴るのです! そうすることにより、シュウマイ大好きな赤鼻さんは、鼻を赤くして飛びつきます! その隙におにぎりを蹴ればいいのです!」
 その作戦の有効性を熱弁するシオン。しかし暁空とリオンからすかさず突っ込みが入る。
「てゆか、元々赤い鼻してるのに、鼻を赤くして飛びつくっておかしくない?」
「つーか、どうせシュウマイ並べたところでどうせ全部あんたが食い尽くすのがオチでしょ?」
「そのとーり!」
 シオンがサンバのリズムに乗って踊り出したので、暁空とリオンはさっと視線を逸らした。



<-- scene 5-9 -->

「クミノちゃんは勝てる見込みはない、って言ってたけれど、何とかならないかしら……」
 シュラインが顎に手をやって考え込んでいる。
「今からポジション変えるのも危ないですしね。とりあえず前半と同じ布陣で個々の守備意識を高めれば、多少は凌げるかも」
「守備意識? 俺も?」
 リオンの提案に、武彦が何だそりゃ、といった顔をする。それを見たリオンが呆れた表情になった。
「当たり前じゃないですか。フォワードだからって守備しなくていいわけじゃないんですよ? そういや草間さん、前半相手の攻撃のとき前線でただ突っ立ってたでしょ。そうじゃなくて、色みたいに動き回って相手の中盤やラインを掻き乱したり、隙があればボールを奪いに行ったりしないとダメ。二中相手なんだから最低限、そんくらいはしてください」
「何だよ……エースストライカーの俺に守備だなんて……」
 武彦がいじけて地面に落書きをはじめた。リオンは「たけひこちゃんはいくちゅでちゅか〜?」と突っ込みたくなったが、自分がそう口にするのを想像したところとんでもなく気色悪かったので、やめた。そして別な角度からの突っ込みを入れる。
「どこの誰がエースストライカーですか。あんた前半無得点でしょ? エースストライカーどころか『ミスターノーゴール』」
「ミスター……ノー……ゴール……」
 武彦ががくりと膝をつく。今まで認めようとしていなかったことを認めざるを得なくなり、大きなショックを受けたようだ。

「武彦さん……」
 シュラインが彼の傍へ向かい、その肩に優しく手を乗せる。しかし慰めの声など出てこない。中途半端な慰めや激励は、彼のプライドを傷つけることと変わらない。だから何も言えない。言えないけれど、それでもこんな彼の姿など見たくない。
 見たくないけれど、それでも目を背けるわけにはいけない。打ちひしがれた彼の姿を目に焼き付けることで、彼の心の中の悔しさ、悲しさ、情けなさ、それらを共有できるような気がするから。どんな感情でも共有したいから。
 それと同時に、こんなことしかできない自分自身に腹が立った。自分はこんなに小さく愚かな存在だったのか。彼を愛しているとほざいておきながら所詮はこの程度か。感情の共有などと言っても、所詮は今の彼から逃げているだけだろう。
 逃げている? そう、自分は逃げているのだ。言葉というもので腫れ物に触ることを恐れ、逃げたのだ。
 愛していると言った。それは嘘だったのか?――嘘じゃない。私は彼を愛してる――それならば何故逃げたのだ!?

「いやあ草間君! 素晴らしい称号を手に入れたじゃないか!」
 突然の大声が、思考の迷宮の底からシュラインを現実へと引きずり出した。我に返って辺りを見ると、その大声の主であったトヨミチが武彦の前に膝立ちし、両手でがしりと武彦の両手を握り締めている。
「素晴らしい称号……?」
 まだ力無い顔をしている武彦がぼんやりと問うと、トヨミチは自身満々な様子で大きく大きく頷いた。
「まずは俺の話を良く聞いてくれ……前回のワールドカップでMVPを獲得したのは、ドイツ代表のオリー・ヴァカーンというゴールキーパーだった。そのときドイツチームのベンチには、オリーと同い年の控えキーパーが座っていた。その控えキーパーは決して力を持っていないわけではなかったが、オリーという分厚い壁に阻まれ、その年はおろか一年後も二年後もさらに次の年も、代表チームの正ゴールキーパーとしてピッチに立つことはできなかった。だがそれでも彼は腐らなかった。地道に自らを高め続けた彼は、四年後の今年、遂にオリーから正キーパーの座を奪い、今年のワールドカップにおけるドイツ代表大躍進の立役者となった。その彼の名は『カレーマン』。所属クラブはイングランドプレミアリーグのアーセナル。そのアーセナルが今年のヨーロッパチャンピオンズリーグに出場した際、カレーマンは素晴らしいパフォーマンスでチームの窮地を幾度も救い、何と彼は出場した745分間を全て無失点に押さえるという大会記録を樹立し、チームの勝利に貢献したのだ。またそれにより、チーム自体の連続無失点記録も10の大台に乗ることになった……そんな偉業を成し遂げることができる男を、俺はカレーマン以外に知らない……」
 トヨミチが紡ぐ英雄伝説に、武彦は一言も口を挟まず、真剣な顔で耳を傾けていた。その表情がはっ、と変わる。
「も、もしかして……『ミスターノーゴール』というのは……?」
「君が考えた通りだよ、草間君。カレーマンに与えられた称号こそが『ミスターノーゴール』なのさ」
 そう言うと、トヨミチがフッと笑った。
「俺はさっき言った。そんなことができる男を――『ミスターノーゴール』の称号に相応しい男を、俺はカレーマン以外に知らない、とな。だがもうひとり、その偉大なる称号に相応しい男がいるということを俺は今、ここで、知った……草間君、君だよ」
「なっ……!? トヨミチ君! そんなことはない! 俺にそんな素晴らしい選手と同じ称号など……!」
「いや、自分でもどういうことなのか解らないが、今俺には、君とカレーマンの姿が重なって見えるんだ。別に姿形が似ているわけではないが、それでも……もしかすると、君の謙虚さと彼のそれが、寸分違わぬものに感じられたからかもしれないな」
「俺が、謙虚だって……?」
「そうだろう? 素晴らしい君にこそ相応しい称号を黙って受け入れようとしないその姿勢。謙虚そのものではないか」
「トヨミチ君……!」
 武彦の身体がわなわなと震え出した。そんな彼にトヨミチが力強く頷いてみせる。
「……わかったよ、トヨミチ君……今の俺にとってカレーマンは遥か高みにいて、その姿すらも見えない。だがそれでも、俺は今、朋友の君に誓おう! 俺がいつか必ずカレーマンを超える存在になることを! そしてその時こそ俺は、胸を張って、『ミスターノーゴール』の称号を受け入れよう!」
「草間君……! 君って奴は……!」
「トヨミチ君……!」

 泣き笑いをしながら抱き合うふたりを見て、シュラインが穏やかに微笑んでいる。
 自分は彼に何もしてあげられなかったけれど、彼にはお互いを朋友と呼び合う素晴らしい仲間がいた。その朋友が、彼を奈落の底から救ってくれた。彼の笑顔を取り戻してくれた。
 嫉妬も敗北感も何もなかった。ただ、彼に笑顔が戻ったのが、嬉しかった。何よりも、嬉しかった。それだけだった。



<-- scene 5-10 -->

「紫東さん、ちょっといい?」
「俺?」
 クミノに声をかけられた暁空がきょとんとした顔をしながら自らを指差すと、クミノは「そう」と頷いた。
「大事な話があるの。ついてきてくれる?」
「は!? え、あ、はい……」
 不思議そうな顔をしつつも、歩き出したクミノについていく暁空。やがてふたりはベンチ裏へと姿を消した。

 そんなふたりの後ろ姿を呆然と見送ったブルーサンダース一同だったが、ややあって一斉に騒ぎ出した。
「ちょ、何、今の! 暁空さんだけに大事な話って!」
 明らかにうろたえた様子で色が声を荒げる。その横ではリオンが地面に膝をついていた。
「クミノちゃん……! 俺というものがありながら、こんなに堂々と逢引きだなんて……!」
「や、んなこと言ってっと本っ当ーにバラすぜ?」
 色の台詞を聞くやいなや一瞬で立ち上がるリオン。しかし口止めより何よりクミノと暁空が何を話しているのかが気になって仕方無いらしく、そわそわとそちらへと向かって行く。その腕をぐいと引っ張って足止めしたのは冥月だ。
「野暮なことはするな」
「んなこと言われても!」
「つーかさ、ちょっとくらい様子見に行ったって良くね?」
「だよな、そのくらいいいよな……?」
 すっかり野次馬と化しているリオンと色。そんな彼らの元にトヨミチと、すっかり元気になった武彦がやってきた。
「あれ? クミノと暁空はどこ行ったんだ? もう後半始まる頃だぞ」
 きょろきょろと辺りを見回す武彦にリオンと色が経緯を説明すると、
「なななななななななな何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
 武彦は身体をエビのように逸らせながら絶叫した。
「嘘だろ!? まさかあのクミノが!? そんなこと!? あああありえん! ありえない! なあトヨミチ君!」
「落ち着くんだ草間君。グラウンド上で始まる恋もある……我々が今すべきことは、若い彼らを優しく見守ることだろう」
「しかしトヨミチ君! 俺はクミノをそんな娘に育てた覚えは!」
 クミノが耳にしたなら間違いなく発砲されるようなことを口にしながら、武彦が両手で顔を覆う。そんな彼の頭を軽く小突いたのはシュラインだ。
「もう。何バカなこと言ってるの。武彦さんだけじゃなくみんなも。あのふたりの間にやましいことなんてないに決まってるでしょう。クミノちゃんのことだから、きっと何か作戦があるのよ」
「作戦? だったらどうしてあんなこそこそした手段を取るんだ!? ここで堂々と話せば済むことじゃないか!」
 なおも食い下がる武彦を見て、シュラインは大きくため息をついた。
「皆の前で話せるわけないでしょう。すぐポロっと口に出しそうなメンバーばかりなんだから」
「なっ」
「……確かに、その通りだ」
 面々の顔を見渡した冥月がフッと笑ったのに対し、心当たりのある者たちが肩をすくめた。

 やがてベンチ裏からふたりが戻ってきた。一同が固唾を飲んで見守る中、暁空は平然とした顔でゴール前へと歩いて行く。一方のクミノは武彦の方へと歩いてきた。そして彼の目の前に立つと、顔を上げて一言、
「誰が誰の娘ですって?」
 そう言うなり武彦の足を思いっきり踏みつけた。
「いでっ!」
 踏まれた足を両手で押さえながら武彦が飛び跳ねている。どうやら先の発言は、クミノの耳に届いていたらしかった。クミノはくるりと踵を返すと、自らの守備位置へと向かって行く。その姿を見た他のメンバーも慌ててそれぞれの場所へと駆けていった。

 左センターバックの位置に立ったクミノが相手ベンチをちらと見やると、あのとき――ハーフタイムにたかぴぃとみゆみゆが上級生に囲まれ叱られていたとき一際うるさかったふたりが悠々と談笑しているのが目に入った。半ば強引に試合参加を決めた背の低い男と、何を考えているのかさっぱり読めない男。あれだけ騒いでおきながらベンチスタート、しかしそれを不服に思っている様子もない。不気味な存在ではあるが、今はセンターラインの向こう側に立っている者たちについて考えるのが先だろう。クミノはそれぞれの背番号と個々の情報を頭の中で照合し、いま一度反芻した。

 そして遂に、後半戦開始を告げるホイッスルが鳴り響く。



<-- scene 6-1 -->

 レッドファイヤーズ改め二中のキックオフで後半戦は始まった。前線の選手から中盤へ、さらに下の選手へ、ボールは乱れることなく回されていく。5点のビハインドを追うチームにもかかわらず実にゆったりとしたボール回しを展開している彼らに、ブルーサンダースの殆どの選手は戸惑いを覚えていた。
 四、五分を過ぎても彼らのペースは変わらない。草摩・色や三葉・トヨミチら前線から中盤の選手がプレッシャーをかけるべく近づいても、彼らは全く焦ることなく別の選手へとパスを出す。そしてまたボール回しを繰り返す。そのプレースタイルに、5点リードしているブルーサンダースの選手たちは、リードしている身にもかかわらず焦燥感や苛立ちを覚えはじめた。
 焦ってはならない。こちらが少しでも隙を見せればすぐに『赤い悪魔』はその禍々しい翼を広げ、鋭い爪でもって襲いかかってくることだろう。だから焦ってはならない。この状況をひたすら耐えつづけなければならない。しかし自分にそれができるのか? どうして彼らは追う側にもかかわらずこんなに余裕でいられるのか? 彼らは一体何を考えているのか?
 試合慣れしていない選手が殆どを占める若いチームの思考はいつしか過敏に、または緩慢になっていた。

 『赤い悪魔』がいびつに笑い、隠れた牙をちらと覗かせる。

 鬼軍曹から二中のナマドーラへとボールが渡ったとき、悪魔はその口を大きく広げ、獰猛な牙を剥き出した。ナマドーラをはじめとする二中のフィールド選手全員が、それまでの遅攻からは考えられないスピードで一気に動き出したのである。突然の速攻に、ブルーサンダースの反応が僅かに遅れる。
 それこそが彼らの待っていた『隙』であった。二中のナマドーラは華麗なドリブルで左サイドを揺さぶり攻めあがり、『青い稲妻』を翻弄する。辛うじて彼の前に立ちはだかった黒・冥月も、進路を塞ぐのが精一杯でボールを奪うことはできない。彼女を援護すべく、サイドバックのササキビ・クミノや草間・零が彼らがいるサイドへと走り出す。暫くボールキープを続けていたナマドーラが一旦ボールを後方へと下げる。するとそこに走りこんでいた鬼軍曹が一気にボールを逆サイドへと大きく放った。
 突然のサイドチェンジ。逆サイドを援護すべく走り出してしまっていた選手たちの戻りがわずかに遅れた。小さなドリブラーがシュライン・エマを抜き去り、サイド方向へと流れるように走っていく。前方にいる三下・忠雄などいないに等しい。彼の右足はやがて間違いなく、正確なクロスを生み出すことだろう。そしてそれを受ける攻撃陣も、ゴール前にしっかり位置取っている。
 小さなドリブラーが迷わずクロスを上げようとしたそのとき、その軌道上に走りこむ白いユニフォーム姿があった。その姿を認め、小さなドリブラーは直接クロスではなくコーナーを得ることを選択した。
 彼が蹴ったボールは、走り込んでいたリオン・ベルティーニの腿に弾かれ、ゴールラインを割った。



<-- scene 6-2 -->

 相手ボールのコーナーキック。赤いユニフォーム姿が次々とペナルティーエリア付近に駆けつけてくる。自陣に残しているのはたかぴぃとみゆみゆだけだ。一方、前半戦でファウル以外のセットプレーをする機会のなかったブルーサンダースの面々はどうすればよいのか戸惑っているらしく、きょろきょろと辺りを見回している。そこへ色が駆けつけてきた。
「んーと、サンシタは壁かな。そこに立って」
 色が三下を呼びつけ、コーナーの近くへと立たせる。
「あ、そういやここに立ってるとあいつが蹴ったボールがあんたに当たる可能性があるから、股間守っといたほうがいいぜ」
「ひっ! ひぃぃぃぃぃ! 嫌です、嫌ですぅ!」
 三下が両手で股間を押さえながら激しく抗議の声をあげた。
「うっぜーなぁ……んじゃあ前向かなくていい。後ろ向いとけ」
 色がそう言うと、三下は瞬時にコーナーへと背中を向けた。それを確認した色が、次の指示を下す。
「で、あいつがボールを蹴った音が聞こえたらジャンプしろ」
「ひぃぃぃぃぃ! 嫌です、嫌ですぅ! あ、あたまに当たったら痛いじゃないですかぁぁぁぁぁ!」
 三下が股間と頭を押さえてしゃがみこんだ。
「つーかもう股間は押さえなくていいっつーの! それに蹴る奴はテメーのジャンプの高さも想定に入れてんだよ! しかも相手はフリーとコーナーの名手だ。てめーに当てるなんつーポカするなんてありえねえ。だからさっさと立って仕事しろっつーの!」
「は、はいぃぃぃぃぃ……」
 情けない声で返事をしながら、三下はのろのろと立ちあがった。

「クミノと零はそれぞれゴールポスト沿いに立ってて。そうすりゃ相手のシュートレンジが狭くなるし、こぼれて押し込もうとしてきたボールに対応することもできるから。つってもキーパーみたく手ぇ使っちゃダメだぜ?」
「了解」
「はい、がんばります!」
 ふたりは返事をすると、色の指示通り、クミノは左、零は右のゴールポストに寄り添うように立った。

「あのさ、悪いんだけど、冥月さんには17番をマークしてもらいたいんだよね。男連中ばっかでゴチャゴチャしてるけど、いい?」
「ああ、構わん」
「サンキュ。じゃあリオンさんは18番に、トヨミチさんは7番に、草間さんは……って何してんだよあの人!」
 近くを見回していた色だったが、敵陣ピッチ深くに目をやった途端仰天。すぐにそちらへと大声を張り上げた。
「くーさーまーさーん! こーっちーにーきーてー!! いーまーすーぐー!!! はーやーくー!!!!!」
 色の声が届いたのであろう。草間・武彦は自分を指差して「俺?」と首を傾げたが、やがてのろのろと駆けてきた。
「おいおいどうしたんだ急に。このキャプテン武彦に何か用でもあんのか?」
 走りながら問う彼に、色は怒鳴り出した。
「用も何も! 今相手のコーナーなんだから、草間さんにも仕事してもらわねーと困んの!」
「は? それってディフェンダーの仕事じゃないのか?」
 あんまりな発言に、色の頭のどこかで「プチン」という音がした。
「ふざけんのも大概にしとけっつーの! 相手のコーナーのときはみんな下がるんだよ! 向こうだってディフェンダーの奴まで上がってきてんだから、人数多くねーと危ねーの! とにかく草間さんは4番マークして! 一応言っとくけどあいつはヘディングあるからな! もし奴にゴール決められでもしたら俺、いくら草間さんでもボコるから! 覚悟しとけよ!」
「は、はい!」
 ぴしっと背筋を伸ばし、武彦が指示通り4番の元へと駆けて行く。

「で、シオンさんは……って、あれ? いなくねーか?」
「そういえば、さっきからというか、後半開始前から姿を見てない気がするの」
 指示を待っていたシュラインが色に声をかけると、色は口をあんぐりと開けたまま静止した。
「だ、誰も気付いてなかったっつーのかよ! や、俺もだけど」
「彼ってもの凄い存在感があるときもあれば、逆に誰にも気付かれないときもあるのよね……」
「だな……まああの人は未知の生命体みたいなもんだからしゃーないか」
 ふたりががくりと肩を落とす。
「しっかし困ったなあ……あの人ならタッパあるから空中戦組でもいいかなって思ってそっち入れようと思ってたんだけど、さすがにシュラインさんにやらせるわけにはいかねーし」
「そうね……別に男臭いのは気にならないからいいんだけど、それ以前に力負けしちゃうと思う」
「だよな。んじゃあ俺があっち入るから、シュラインさんは集団から離れたところで向こうの8番や20番を牽制して、チャンスあったらこぼれ球キープして。あと、ゴール前に群がってるウチの連中に指示出せたら出してくれる?」
「OK。でも色くん、あまり無理しないでね」
「平気平気! この俺に不可能は無えぜ?」
 心配そうな顔のシュラインに、色がニカッと笑ってみせる。
「んじゃ後はヨロシクな、暁空さん!」
 色が元気に声をかけると、最後の砦こと紫東・暁空は親指を立ててそれに応えた。



<-- scene 6-3 -->

 冥月がマーク担当の17番へと近づき身を寄せると、ロン毛の彼がニヤリと笑った。
「ねーねーおねーさん。お触りOK?」
「……は?」
 予想だにしない言葉に冥月の思考が停止した。中房の分際でお触り? しかも自分に?
「お前……男の身体触りたいってことは、モーホーか?」
「へ?」
「いや。別に同性愛を否定するわけではないが、こいつはやめておけ。こいつは男でもただの男じゃない。言うなれば男の中の男、漢字の『漢』と書いておとこと読む方のおとコマネチ!!!」
 我に返った冥月が、先程からあれこれほざいていた男の脳天に踵落としを食らわせた。その男とは言うまでも無く武彦である。そのまま地面に座るように崩れ落ちる彼を見て、ロン毛がぽかんとした顔をしている。
「コマネチは確かに女性だが。私は漢字の『漢』と書くような男ではないし、同性愛者でもない。ごく普通の女だ」
 そう言いながら武彦の頭に肘鉄を食らわすと、冥月はロン毛をじろりと睨んだ。
「そこのお前も覚えておけ。私は女だ。だからといってお触りなんぞした日には……わかっているだろうな?」
 冥月はそう言うと、地面に座ったまま微動だにしない武彦を顎で差した。ロン毛が彼の惨状を見た途端、その顔が青褪める。
「は、はい! わかりました! ご指導ありがとうございます! お姉様!」
 ロン毛は額に冷や汗を浮かべながら、冥月にペコペコと頭を下げた。

 そんなことが起こっていたほんの少し前、ゴール前では両チーム入り乱れての空中戦が繰り広げられるところであった。小さなドリブラーのコーナーキックは何の障害もなくターゲットの選手へと向かっている。というのも壁として配置した三下が、色がいなくなった途端地面に這いつくばってしまったからだ。
 ターゲットは黄金の隼、彼をマークするのはリオン。身長ではリオンが勝るものの、黄金の隼の身体の入れ方が実に巧みで良いポジションを奪われてしまったため、リオンは彼の背後から阻止せざるを得なくなった。押しつぶしてしまえば即ペナルティーキック。それゆえジャンプも慎重に行わなければならない。他の選手が黄金の隼を阻んでくれればいいのだが、ゴール前の味方選手が妙に少ない気がする。やはり自分が競り合うしかない。
 リオンがジャンプしようとした瞬間、黄金の隼がリオンを背中で押した。リオンのバランスが崩れた瞬間、黄金の隼が飛ぶ。小さなドリブラーが放った正確なボールを黄金の隼の頭がとらえた。

 ヘディングが来る。ゴール前に群がる選手たちによってシュートコースはある程度限られている。暁空が即座に移動したその瞬間、黄金の隼の強力なヘディングシュートが暁空へと襲いかかった。
 そのボールは限られたコースの外側に限りなく近い内側を縫うようにゴールネットへと突き刺さろうとしている。キャッチングはおろかパンチングでも防げるかどうか。
 暁空はボールの方向へとジャンプすると、吼えながらその右手を伸ばせるだけ伸ばした。そうすることにより、リーチの長さがはるかに増すのである。言うなれば『手刀』。その暁空の手刀が、ボールを弾いた。

 弾かれたボールは高い弧を描き、色のいる方向へと飛んできた。そこには『獅子王』も陣取っている。もし自分がここで跳ばなければ、彼はフリーになってしまう。もう空中戦が苦手などとは言っていられない。色は落ちてくるボール目掛けて思いっきり跳んだ。獅子王がやや遅れてそれに続く。
 跳んだのは自分のほうが先だった。しかし視界に飛び込んできたのは、獅子王が自分を高く追い越す姿。身長が違いすぎるのだから仕方ない、と自分を擁護したいくらいだが、今はそれより悔しさが勝った。それは身長差のことではない。自分より相手のほうがジャンプ力を持っていたということだ。高らかに飛んでいく獅子王に身体を寄せて邪魔するのが今の色にできる精一杯の抵抗だった。しかし彼はそれをものともせず、弾かれてきたボールを味方選手へと落とした。

「4番下がってきてる! シュートがあるわ!」
 シュラインの叫びが響き渡る。獅子王が落としたボールは二中のナマドーラがキープ、様子を伺っていた彼がボールを出した先に、大砲が走りこんできていた。シュラインの言葉に反応した数人が瞬時に壁を作り、シュートコースを塞ぐ。しかし大砲は壁を壊すかの如く、豪快にシュートを打ってきた。
 そのボールが持つあまりのスピードに、壁選手の身がすくむ。目を閉じる者もいる。しかし彼らの心配は杞憂に終わった。何故なら大砲は壁を壊すのではなく、壁からいくつかのレンガが外れ空洞になっていた部分をほんの僅かかすっただけだったからである。ボールはほんのわずか威力を失っただけで、コースはそのままにゴール目掛けて一直線に進んでいる。

 その直線上で暁空が待ち構えていた。ボールのスピードや回転からして変化はない。暁空は腰を落とし、キャッチングの姿勢を取った。鈍い打撃音が響く。暁空が胸に飛び込んできた大砲を両腕で抱えている。しかしボールの回転スピードは衰えず、なおも前へと進もうとばかりに回りつづけている。ずず、ずずず、とスニーカーが地面を擦る音が聞こえる。自分がじりじりと後退していることを暁空は知った。このままでは自分ごとボールはゴールラインを割ってしまう。暁空の両足に一層の力がこもった。
 ずず、ずずず――足元の摩擦音はまだ止まない。
 暁空の額からひと筋の汗がこぼれたそのとき、ふいにホイッスルの音が鳴り響いた。

 ボールの回転が止んだのを確認した暁空は、抱えた両腕はそのままに足元へと視線をやった。自分の足はゴールラインの僅か前にある。その前方には数十センチの二本の線。スニーカーが地面を擦った跡だ。しかしボールは自分の腕の中にある。つまり、ラインを越えていない。それなのに何故ホイッスルが鳴る?
 辺りを見回すと、倒れている青いユニフォーム姿と彼を囲む両チームの選手、その背後に立つ主審の姿が目に入った。暁空はボールを放り出すと、その場所へと駆けていった。



<-- scene 6-4 -->

 強烈な耳鳴り音が絶え間なく続いていた。

 身体を動かそうと思っても力が入らない。開いている瞳に飛びこんでくるのはぼやけた何かとやたら眩しい光だけだ。
 頭が鈍く痛むのはこの光の所為なのだろうか。だったら瞳を閉じればいい。しかし、普段は何の意識もせずまばたきができる両のまぶたは、今は妙に重くて、思い通りに動いてくれない。
 耳鳴りがうるさい。いや、それだけではないたくさんの音が耳に飛び込んでくる。その音は鼓膜が破れそうなほど大きく、頭の奥を刺激する。その所為だろうか、また頭を鈍い痛みが走った。
 鬱陶しい音と光。全て遮断してしまいたいのに、両腕は意思に反してわずかに上がっただけで、また元の位置へと落ちた。
 誰かが自分の腕を強く押したとき痛いと感じたのは、痛覚がある証拠だ。今度は腿を強く押されたので、口を開き「痛え」と声を出したつもりだが、それは自分の耳には聞こえなかった。
 だがそれでも、自分には痛覚もあったし口を開けて声を出そうとするくらいの力もあった。そして朦朧としていながらも意識はある。もう少しこの状況を我慢していれば、やがてその他の部位の力も取り戻されるかもしれない。
 それにしても頭が痛い。耳鳴りはまだ止んでいない。誰かの指が自分のまぶたをこじ開けたらしく、強烈な光が襲ってきた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに眩しさは感じられなくなった。視界は相変わらずぼやけたままだったが、それでも誰かが自分の瞳を覗き込んでいるのと、その人物が赤い色の何かを着ているのを漠然と見て取れる。今度は反対側のまぶたを開かれたが、眩しくはないから別に気にならない。
 あの耳鳴りもわずかながら小さくなりつつある。どうやら、徐々にではあるが感覚が戻りつつあるらしい。

 しかしほっとしたのも束の間、突然耳鳴りよりも遥かに強烈な高い音が耳を刺激した。自分の身体が驚愕でぴくりと動いたのがわかった。その音は笛のものらしいが、なかなか止んでくれない。只でさえいつもより音がうるさく感じられるのに、こんなに耳障りな音が鳴りつづけるなんて。頭がガンガンしてくる。苛々する。やめてくれ。誰でもいいからやめさせてくれ。
「う……るせえ……」
「ええと、いま、なにを、いいましたか」
「笛の音が……うるせえ……やめさせろ」
「はい、わかりました」
 喉からしぼり出した声は、自分にもわずかに聞こえたし、赤い色の人物にも聞こえたようだ。耳元で何かが地面を擦る音が聞こえたが、先程ほど鬱陶しくはない。その音が遠ざかるにつれて自分に光が当たりはじめたが、それまでのような異様な眩しさではなかった。もやのかかった視界も徐々に開けつつある。やがて笛の音が止まった。
 まだ全身の力は戻っていないが、声を発することはできたし、忌々しい音と光にも開放された。頭の重さや痛みはまだ残っているが、今は自分に力が戻りつつあることを感じられただけで充分だ。しかし何だかどっと疲れた気がする。眠れば回復するだろうか。両のまぶたは先に比べれば呆気ないほど簡単に閉じることができた。あとはただ、眠りにつくだけだ――



<-- scene 6-5 -->

「草摩君!?」「色くん!?」「シッキー!?」
 主審のホイッスルが、ゴールではなく色と獅子王の接触で起こったファウルによるものだとわかった瞬間、ブルーサンダースの一同が倒れている彼へと駆けつけた。それを見た赤いユニフォームの選手も近づいていく。するとそこには仰向けになって倒れている色と、彼の顔を覗きこんで困った顔をしている獅子王の姿があった。
「草摩君! 目を開けてくれ!」
 彼の両肩をむんずと掴み揺すぶろうとしたトヨミチを、リオンが慌てて制止する。
「ストップ! 倒れた原因がわからないうちはむやみに動かしちゃダメです。もし脳に異常があったとしたら一大事になる」
 そう言うリオンも実はハーフタイム中の不慮の事故で倒れていたとき、トヨミチと武彦にこれでもかというくらい身体を揺すられていたのだが、そのときは意識が朦朧としていたのだろう、憶えていないようであった。
 リオンが獅子王へと顔を向けると、彼は問われる前に口を開いた。
「たぶん、こう、おもいます。Conmocio'n cerebral……ごめんなさい、にほんごで、わからない」
「脳震盪ね」
 シュラインの助け舟に、リオンが「なるほど」と呟く。
「でも、きぜつしてない。いしきある。さっきまで、め、が、あった。ええと……」
「Hable por favor con espanol. Puedo entender espanol.Por favor sensacio'n en el resto」
 口篭もる獅子王にシュラインが「スペイン語で話しても大丈夫よ」、と声をかけると、彼はパッと笑顔になった。
「Gracias!」
 そう言うなり、獅子王は水を得た魚のように淀みない口調でシュラインへと話しだした。シュラインはそれに相槌をうちながら彼の話に耳を傾けている。彼のアルゼンチン訛りの酷いスペイン語も、シュラインにとっては問題無い。
 やがて話を聞き終えたシュラインは、皆に事情を説明した。

「空中戦のあと着地しようとしたとき、彼――パトリック君は、色くんとぶつかってバランスを崩してしまって、色くんに覆い被さるように地面に落ちてしまったんですって。パトリック君はすぐに身を起こしたけれど、色くんは仰向けになって倒れたまま動かない。もしかして着地の衝撃で頭を打ったのかもしれないって心配したパトリック君は、即座に色くんが気絶しているかどうかを確かめた。瞳は虚ろだけど開いてはいて、自分で身体を動かそうとする様子もあった。身体の何箇所かを親指で押してみたら色くんは顔をしかめたり、痛いと声を出したりした。気絶状態ではないと判断したパトリック君は、今度は色くんのまぶたを片方ずつ指で大きく開いてそれぞれの瞳を観察した。すると眼球の震えや瞳孔の異常は特に認められなかった。ほっとしたパトリック君はすぐに主審に声をかけて、自分のファウルがあったから試合を止めてくれって訴えたの。主審は最初ぽかんとしてたんだけど、倒れてる色くんに気付いてようやくホイッスルを鳴らしてくれた。そしたら色くんに笛の音がうるさいから止めさせて、って言われて、パトリック君が主審のところに走っていってそれを伝えたら、笛を鳴らすのを止めてくれた。それからすぐに色くんのところに戻って行ったら、色くんは安心したような表情でまぶたを閉じた――獅子王……もとい、パトリック君が話してくれた内容はこんな感じよ」
「だからあんなヘンなタイミングでホイッスルが鳴ったのか」
 いつしか駆けつけてきていた暁空が言うと、赤いユニフォーム姿の大砲がうむ、と頷き、
「さすがは町内会レベルの大会。主審のレベルも低いな。ファウルに気付かず試合を続行させていたとは」
 と、吐き捨てるように呟いた。その言葉に数人が同意をこめて頷いてみせる。

「つーかさ、主審が気付いてねーのにわざわざ『俺がファウルしました!』なんて言ったわけ? お前」
 不服そうな顔をしたロン毛が獅子王ことパトリック君に詰め寄ると、彼は困った顔をした。
「ぶつかった、たおれた、しんぱい、おれわるい」
「だー! お前、んな甘っちょれえこっちゃアルヘン代表なんざ入れねえぜ? キタネーことしてナンボなお国柄なんだからよ」
「それ、いわれても」
「いやいやいや! 素晴らしいフェアプレー精神ではないですか!」
 いきなりふたりの会話に口を挟んできたのは、なんとシオン・レ・ハイであった。その姿を認めたブルーサンダース一同の表情が固まる。シオンはそんなものなど気にも留めない様子で、獅子王へと平べったい形状の赤い箱をすっと差し出した。
「そんなあなたへと私は『フェアプレー賞』を贈ります! これは副賞です! さあどうぞ受け取ってください!」
「co'mo?」
「遠慮はいりません! さあどうぞ!」
「Gra……あ、りがとう、ございます」
 赤い箱が、獅子王の手にずいと押し付けられた。



<-- scene 6-6 -->

「あーもう。うるせえな……寝れねぇじゃん……」
 ふいに聞こえた声に、その場にいた全ての者が彼へと注目した。
「草摩君!」「色くん!」「シッキー!」「タッキー!」
 なんと、倒れていた色がむくりと起き上がったのだ。しかし彼は上体を起こしたかと思うと頭に手をやり、また倒れそうになる。そこにトヨミチが駆けつけ彼の身体を支えた。
「無理をするな、草摩君。まだ安静にしていた方がいい」
「でもまわりがうるせーからさ」
「わかった。それなら俺が黙らせるから、君は横になっていてくれ」
 トヨミチはそう言いながら色をその場に横たわらせると、口に指を当てて『しずかにしてください』アピールをしながら一同を見回した。途端、ワーワーギャーギャーと歓声をあげていた面々が黙り込む。

 やがてリオンが色の元へとやってきた。彼はなるべく音を立てないように注意しつつ彼の前にしゃがむと、その顔を覗き込む。ややあって、リオンは色にいくつかの問題を出した。
「あなたの名前は?」
「草摩・色」
「今日ここに何をしに来たかわかる?」
「サッカーを。草間さんのお守りで」
「自分のチームと、相手のチームの名前は?」
「こっちはクサマ・タケヒコーズ」
 その返答にリオンが険しい顔をすると、色はカラカラと笑った。
「冗談だって。ブルーサンダース、だろ? んであっちはレッドファイヤーズ改め『赤い悪魔』」
「悪い冗談はやめてくれよな……じゃあ、目を開けたり閉じたりしてみてくれる?」
 色がゆっくりとまぶたを閉じては開けてを繰り返す。
「OK。じゃあこの指は何本に見える?」
「二本」
「じゃあこれは?」
「一本」
「じゃあ、今君が着ているユニフォームはどこのユニフォームかわかる?」
「ブルーサンダースモデル」
 またしてもリオンが険しい表情をすると、
「ウソウソ! 俺が着てんのは、リオンさんに貰ったイタリア代表レプリカユニで、7番のデロピエロモデル」
 色はさらりと正答を述べた。リオンはふう、と息をつくと、周りを見回しながら言った。
「意識はしっかりしているようです。あとは体調のほうなんですけど」
「あ、たぶん平気。まだちょっと力入んねー気はするけど、ま、走れるだろ」
 と言うなり身体を起こそうとする色を、トヨミチが「まだだ」と制止する。色は頬を膨らませながら再びその場に転がった。
「手足、交互に曲げ伸ばししてみてくれる?」
 リオンが言うと、色は「交互にってどっからやりゃあいいんだ?」などとぼやきながらとりあえず右腕から左腕、今度は左足から右足へと順に曲げては伸ばした。
「じゃあ今度は俺の手首を力いっぱい握ってみて。右手から」
 リオンが手を差し出すと、その手首を色の右手がぎゅうと握り締めた。リオンの「次、反対」という声を合図に、今度は逆の手で同じように手首を握る。
「OK。吐き気や頭痛、痺れなんかはない?」
「さっきまでは頭痛かったけど、今は殆ど治ってる。吐き気はしないし痺れもないぜ。つーかもう立ってもいい?」
「いいけど、ゆっくりな。えーと三葉さん、彼のサポートお願いできますか?」
「了解」
 両手で色を支えながら、トヨミチが彼の上体を起こす。そして彼の腕を自らの肩に組ませると、片手は彼の手に、もう片腕は彼の腰へと回し、ゆっくりとしたペースで立ち上がっていく。
「ちょ、トヨミチさん立ちすぎ! 腕が! いでで!」
「おっとすまない」
 トヨミチは自分と彼との身長差を考えなかったのであろう。あわや色は宙吊りになるところであったが、必死のアピールで何とか地面に足をつくことができた。トヨミチがそっと手を外すと、色はふらつくことなくその場に立った。かと思うと彼はその場でラジオ体操第一をスタートした。勿論色自身による口伴奏付きである。
「ストップ! もうわかった、わかったからとりあえず動くな」
 リオンがそんな彼を慌てて制止すると、色はにっこり笑って言った。
「んじゃあ、後半戦行こーぜ!」



<-- scene 6-7 -->

「なぬ!?」
 色のとんでもない台詞にトヨミチが絶句する。傍らにいたリオンはまたもや険しい顔で色を見ていた。そんなふたりの反応を見た色が怪訝そうな顔をする。そこへ獅子王が駆けつけてきた。
「あのう。ええと。さっき、ごめんなさい」
「ほえ?」
「あなたが、Conmocio'n cerebral、なった、りゆう、おれが、したから」
「お前が脳震盪になったのは自分が原因だ、って言いたいらしい」
 たどたどしい日本語で必死に話す獅子王をリオンがフォローすると、色はますます不思議そうな顔になった。
「え、俺なんかされたの? こいつに? それで脳震盪?」
「おれが、あなたの、うえに、のった、から……ごめんなさい」
「上に乗ったぁ!?」
 いきなり声を荒げた色に、獅子王が身をすくめる。そこにリオンが割って入り、獅子王へと顔を向けた。
「えっと……パトリック君だっけ? この人もう元気だから。パトリック君が悪いなんて誰も思ってないから。だからもう、ごめんなさい言わなくてもいいよ」
 リオンが彼に伝わりやすいように言葉を選んでゆっくりと話すと、獅子王ははにかんだ笑顔をリオンに向け、ぺこりと頭を下げた。そして味方選手のいる方へと走って行った。

「え、何? 何なの?」
 色が困惑の表情でリオンとトヨミチを交互に見ている。最初に口を開いたのはトヨミチだった。
「草摩君。先程のコーナーキックについては覚えているかな?」
 トヨミチが問い掛けると、色はカラカラと笑った。
「コーナー? 何言ってんだよ。前半一度もなかったんだから、覚えてるも何もねーじゃん」
 得意げな顔の色を見ながら、リオンが難しい顔で言った。
「どうやら、一過性の意識喪失が発症しているみたいですね」
「そうらしいな」
 ふたりが顔を見合わせ、ううむと唸る。
「まあ脳震盪の場合はよくあることですし、気を失っていたならともかく意識はあったみたいですから、大丈夫かな」
「いや。脳震盪を甘く見るな」
 突然耳慣れない声でそう言われたふたりは、瞬時に声の主へと顔を向けた。そこに立っていたのは、かの『鬼軍曹』であった。
「様子からすると軽いものらしいが、それでも最低五分間は安静な状態にさせ、その間誰かに様子を見させてやった方がいい。いつ容態が急変するとも限らんからな」
「や、様子を見たいのはやまやまなんですけど、俺らのチーム、ベンチに誰もいないんですよ」
 リオンの声が徐々に小さくなる。相手ベンチの豊富さと比べて恥ずかしくなったのだろう。鬼軍曹は両腕を組んでしばし考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「それならば、うちのベンチで暇を弄ばせている連中に様子を見させよう。奴らならば脳震盪時の処置など充分に心得ているし、何よりその方がお前たちも安心してプレーできるだろう?」
 リオンとトヨミチはまたも顔を見合わせ考え込んでいたが、やがて同じ結論に達したらしい。
「それじゃあ、不束者ではありますが、お願いします」
「その心遣い、さすがはキャプテンマークをつけるに値する男だけある。感謝するよ」
「何を。元はといえばうちの奴の未熟なプレーが原因なんだ。感謝されるいわれはない」
 鬼軍曹はフッと笑うと、赤い色で埋めつくされているベンチへと色を連れて行った。



<-- scene 6-8 -->

 その一方では、シオンが皆にスパイクやシューズによる集中攻撃を浴びせられていた。
「な、何をなさるんですか皆さん!?」
 シオンが捨てられた仔犬のような目をしている。シュラインの脳裏を一時期金融業者のCMに登場していた仔犬の姿が過ぎっていったが、シュラインは頭をぶるぶると振ると、そのイメージを捨ててスカーフのおじさんへと向き直った。
「ねえシオンさん。あなたいつからここにいたの? というか、どうして最初からここにいなかったの?」
 ため息混じりの質問に、シオンはとつとつと答えだした。
「ええと、私がこちらを訪れたとき、丁度あちらに人ごみができていて」
 と、色が倒れていたところを指差す。
「それで、人ごみといえばバーゲン! 歳末大売出し! と思った私がすぐさま参戦しようと走って行ったら」
「色くんが倒れていた、というわけね」
「そうです! もう私、びっくりのあまりお箸を落とすところでした!」
 グラウンド上で箸を落とすという心理はよくわからないが、人ごみといえばバーゲン、という心理はよくわかる。彼と自分の思考に共通点があるということを認識してしまったシュラインは、何となく悔しいような切ないような気分になった。一方のシオンはというと、ため息をつく彼女には目もくれず話を続ける。
「それから、私が席を外さざるを得なくなったのは、作戦を成功させるために必要不可欠な重大な任務があったからです」
「重大な任務!?」
 それを聞いた暁空の声にちょっとしたワクワクが混ざる。
「そうです! その任務とはズバリ!」
「ズバリ!?」
「ジャンジャジャーン! このシュウマイの調達です!」
 そう言うと同時にシオンは、隠し持っていたシュウマイの箱を皆の前に披露した。
「え、てゆか作戦って、さっきのシュウマイ蹴るやつ?」
「そのとーり!」
 問い掛けた暁空の声から既にワクワクは失われていた。しかし、一方のシオンはまさにワクワク全開といった様子で、シュウマイの箱を三個使ってお手玉もといお手箱をしている。
「作、戦……」
 お手箱を失敗し、遠くに飛んで行った箱を拾いに行くシオンの後ろ姿を見ていたシュラインが、その手で額を覆った。

 さらにその一方では、地面に座った状態で失神している武彦が長い黒髪の女性に尻を蹴られているところであった。
「オゥ!」
 尻へ与えられた衝撃により、武彦が悲鳴とともに目覚める。
「だ、誰だ、ここ、蹴ったの!」
 武彦が自分の尻をさすりながら後ろへ目をやると、縞模様のニーソックスが目に入った。瞬時に顔を上げる。するとそこには鋭い視線で武彦を見下ろしているクミノの姿があった。
「ようやくお目覚めなさったようね」
 クミノはそう言うと、もう一度武彦の尻をつま先で蹴りつけた。
「ノォ!」
 このまま座っていたらまた蹴られる。武彦は尻を押さえながらすっくと立ち上がり、クミノの方へと身体を向けた。
「クミノ! 酷いじゃないか! こんなに可愛いお尻を二度も蹴るなんて!」
「草間のケツなんて想像するだけでおぞましい。二度と私の前でケツの話はしないで」
 汚いものを見るような視線でクミノが武彦を見るので、武彦はいたたまれない気持ちになりながらも「はい」と返事をした。が、すぐにクミノへと反論らしきことを言い出した。
「いや待てクミノ。確かに俺の可愛いお尻のジーザス!」
 武彦がまたもや悲鳴らしきものをあげた。彼の後ろに回りこんだクミノに尻を蹴られたのである。
「ケツの話は二度とするな、って言ったはずよ」
「そ、そうでした……」
 クミノの冷ややかな視線を浴びながら、武彦が尻を押さえる。押さえたまま、先の続きを話し出した。
「確かにジーザスの話は場違いだった。それは謝ろう。しかし、だからといってあんな起こし方はないんじゃないか? あんなことをしなくたって、お前が俺の耳元で『くさまさん、お・き・て』とさえ囁いてくれれば俺はクライスト!」
 またもや武彦は蹴られた。
「草間の耳元に口を近づけるのを想像するだけでおぞましい。ありえないことを言うのはやめて頂戴。それから神を冒涜するような悲鳴も。聞く人によっては殺されるわよ?」
 クミノの言葉に、武彦は心を痛めながらも「はい」と返事をした。クミノは暫く黙っていたが、やがて口を開いた。



<-- scene 6-9 -->

「ねえ。あのとき勝ちたいって言ってたのは何だったの?」
「え?」
 突然の問いに武彦が呆けた顔をすると、クミノの表情が険しくなった。
「あのときの台詞は草間の覚悟だと思った。だから私も最低限の協力はした。それなのにどうしてお前は何度も何度もあの女を煽ってぶっ倒れるような馬鹿げたことをする? 勝ちたいという言葉はでまかせだったのか!? お前は私を騙したのか!?」
 クミノの怒号に武彦は言葉を失った。クミノの言葉はまだ続く。
「相手が強豪だということは何度も言い聞かせたつもりだ。その強豪を相手に何度も何度も動けない選手がいたらどうなる? しかもお前は自称とはいえキャプテンだ。キャプテンを欠くことでチームに架せられるマイナスの大きさををお前は考えたことがあるのか?」
 その言葉に武彦の顔が歪む。無言の彼の代わりにクミノが回答を示した。
「ないのだろうな。もしお前がキャプテンとしての自覚を持っていたなら、あんな馬鹿げたことを繰り返すはずはないからだ」
 クミノはふうと息をつくと、淡々とした口調で言った。
「草間の覚悟はわかったと前に言ったが、撤回する。結局お前には何の覚悟も無いことを今ここで知ったからだ。だがお前が気に病むことはない。要はお前を買いかぶりすぎていた私が馬鹿だったということ。それだけだから」
 言い終えるなり、クミノはふっと顔を背けた。武彦からはその表情は見えないが、感情は見て取れる。彼女が震えるほどに強く、拳を握り締めていたからだ。それほどまでに彼女は草間・武彦という存在を信頼していたのだ。にもかかわらず自分は信頼に応えられなかった。いや、そんな生易しいものではない。自分はササキビ・クミノを裏切ったのだ。
「でも安心して。最初の約束通り私は試合終了までここにいるから。そうすればクライアントの意向に沿えるでしょう」
 クミノの声がした。その内容はベンチで話していたときのものに似ていたが、その声はどことなく力無いような、寂しいような、そんな風に感じられた。きっと彼女は、最後まで全力で二中に立ち向かっていきたかったのだ。それなのに自分の愚かな行為がそれを止めさせようとしている。愚かな自分が、小さな少女がその胸に抱いている覚悟をなかったものにしようとしている。
 自分は許されなくとも構わない。だが、そんなことが許されてはならない――

「クミノ!!!」
 武彦の突然の大声に振り返ると、彼が地べたに這うように低く低く土下座をしている姿があった。
「確かに俺は馬鹿だ! キャプテンとしての自覚もなかったし、二中を相手にするという覚悟もなかった! 俺は本当に馬鹿だ! だが許してくれだとか、ましてや後半も俺についてきてくれ、なんて虫のいいことなど言わない! どんなに罵倒してくれてもいい! 蹴りたいなら何度蹴ってくれたっていい! 撃ち殺したいならそうしてくれていい!」
 地面に頭を擦り付けながら武彦が叫んでいるのを見て、クミノが言った。
「土下座で済むなら裁判官も警察もいらないって誰かが言ってたわ」
 その声色は冷ややかだった。だが武彦は頭を起こそうとしない。
「その通りだ。俺は土下座なんて形だけならいくらでもできる男だからな。信用してもらえなくて当然だ。だからと言って信用を取り戻したいわけではない。寧ろ、こんな俺など信用しなくていいんだ! もし俺に覚悟ができたと言っても、そんなものなど踏み潰してくれればいいんだ! ましてや信頼なんてもってのほかだ! 俺が土下座したのは許しを乞うためでもなければ新たな覚悟を見せるためでもなければお前の信頼を取り戻したいからでもない。ただ、俺がお前にしたことを思うとどうしても許せなくて、ひとりで勝手にこうしているだけなんだ。馬鹿だろう? 馬鹿な男だと笑ってくれてもいい。寧ろ大歓迎だ」
 クミノは無言で武彦を見下ろしている。両者の間を静寂が流れはじめたとき、武彦が顔をわずかに上げた。
「ここからは馬鹿な男の戯言だと思って聞いてくれ。俺は残り時間全てを二中に勝つために費やす。たとえ逆転されどんなに点差を広げられても、それでも最後まで勝ちに行く。誰ひとりついてきてくれなくても関係ない。それでも俺は、たったひとりでも勝利のために残り時間全てを捧げる。自己満足と言われようとも構わない。だが俺は、最後には勝利を掴んでいる!」
 その瞬間、武彦ががばりと立ち上がり、クミノの顔を見た。
「以上、馬鹿な男の戯言だ。別に覚悟でも何でもないから、クミノは忘れてしまえばいい」
 武彦はそう笑うと、その場所から立ち去った。

 黙ってその場に立っていたクミノが、ふいに誰かの名を呼んだ。すると冥月が影から姿を現した。
「黒さん」
「言いたいことは解っている。すまなかった」
 クミノが何か言う前に、冥月は頭を下げていた。
「奴が何度も倒れる羽目になったのは、あんな男の言うことなど放っておけばいいにもかかわらず、ついカッとなって同じことを繰り返してしまう自分の気の短さ故だ。草間だけを責めないでやってくれ」
 負けん気の強い彼女には珍しい台詞であった。先のクミノと武彦のやりとりが自分の身にも沁みたのであろう。クミノは冥月をちらと見やると、
「ええ。もう責めるつもりはないわ。草間に期待なんてしてないから」
 と言って苦笑した。
「ただ、もし黒さんがまだチームの勝利のために協力する気があるのなら……そうね、草間を蹴っても殴っても構わないけど、気絶しない程度に抑えてくれないかしら」
「わかった。だが、クミノはどうなんだ?」
 逆に問われ、クミノは一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにそれに答えた。
「残り時間全てピッチに立ってはいる、つもりよ」



<-- scene 6-10 -->

 ブルーサンダース側のフリーキックから試合は再開された。零から冥月にボールが渡った途端、相手フォワード陣が一斉にプレッシャーをかけてくる。冥月は一旦リオンへとボールを出すと、前方へダッシュした。リオンが彼女の前へとボールを送る。それは冥月のスピードを殺すことのないナイスパス。だった筈だったのだが、とある男にインターセプトされてしまった。
 リオンが驚愕のまなざしを彼へと向ける。というのもその男は、青いユニフォームに身を包んでいたからだ。
「さあさあ行きますよ! 皆さんも上がってくださーい!」
 その男ことシオンが、つたないドリブルで敵陣へと進んで行く。その両腕にはたくさんのシュウマイの箱が抱えられていた。思わず遠くを見つめるブルーサンダース一同。しかしシオンはその足を止めない。そこへ二中のナマドーラが立ちはだかろうとしている。シオンがニヤリと笑った。
「これぞ必殺! チラシ配りフェイント!」
 シオンはそう高らかに宣言すると、軽快なステップで右へと左へとドリブルを開始した。それはフェイントではなくただのジグザグドリブルなのでは? と突っ込む人間は残念ながら彼の近くにはいなかった。
「さらに目隠しの術!」
 シオンのステップがその激しさを増した。途端、地面から砂埃が舞い上がる。二中のナマドーラが目を覆った瞬間、シオンは彼を抜き去っていた。そこへ鬼軍曹が現れ、ボール目掛けてスライディングをかけてくる。
「おっと!」
 シオンは両足でボールを挟むと、ぴょいん、と前方へとジャンプした。おそらく大きなおにぎりを奪われては一大事、という防衛本能が働いたものと思われる。その奇想天外な動きに、鬼軍曹の細い目が大きく見開かれた。
 次なる壁は一年コンビ、の筈だったが、彼らはその場でブルブル震えているだけでシオンに近づこうともしない。
「くぅうぅおぉるぅあああああ! お前ら何やっとる! 走れ走れ!」
 大砲の怒声が響き渡る。しかし一年コンビにとっての恐怖度は、大砲のそれよりもシオンのそれのほうが勝っているらしく、彼らはその場にぺたりと座って頭を覆ってしまった。
「ったく、使えん奴らめ!」
 大砲は彼らに見切りをつけると、シオンの前に立ちはだかろうとした。が、
「な、何だ?」
 彼の視界を支配しているのは盛大に舞い上がっている砂埃だけで、シオンの姿は見えない。
 そう、彼は既にシオンの術中に嵌っていたのだ。シオンは大砲が余所見をしている間に、その周辺で彼が言うところの目隠しの術をこれでもかというくらい仕掛けたのである。おかげで辺りの地面はボコボコだ。
 大砲が砂埃の中で右往左往している間に、シオンはペナルティーエリア内へと突入していた。

「わしの出番か……てっきり一度もないかと思っておったが」
 赤い悪魔の最後の砦は、なんとその場で体育座りをしていた。シュートコースがら空き状態である。しかしシオンはすぐにシュートを打つなどという野暮なことはしない。彼はボールを股で挟むと、両腕に抱えていたシュウマイの箱を地面に置き、ひと箱ひと箱丁寧に開けはじめたのだ。赤鼻がその赤い鼻をぴくぴくと動かすなり、血相を変えて立ち上がった。
「こ、これは! シュウマイではないか!」
 赤鼻は完全にシュウマイに気を取られているらしく、シオンが手にしている箱を凝視している。
「チャーンス!」
 するとシオンはどこからともなくマイお箸を取り出し、シュウマイをひとつひとつつまんではゴール前に放っていった。
「ふん! ふん! ふん!」
 一方の赤鼻は、その全てを落とすことなくセービングしては口に運んで行く。その俊敏な動きにシオンの口の端が上がった。
「なかなかやりますね……! ならばこれはどうです!?」
 箸さばきのスピードがぐんと上昇し、シュウマイが目にも留まらぬ速度でゴールを襲う。それに対応するかのように赤鼻の動きが冴えを増した。大きなキーパーグローブで、襲い来るシュウマイを根こそぎキャッチしていく姿は真剣そのものだ。
 そのときシオンがフェイクを入れた。一個だけゆっくり放たれたそれは赤鼻を越えるように大きな弧を描いている。
「なんの!」
 しかし赤鼻は動じない。瞬時にそのシュウマイ目掛けてジャンプするなり、口でキャッチしてそのまま頬張ったのだ。だがそれはシオンの策略であった。シオンはその隙に、彼の足元を中心にシュウマイを次々放りだしたのである。赤鼻は着地と同時にそれらをキャッチしていく。しかし彼はひとつだけ取り損ねてしまった。そのシュウマイは彼の足元にぽとりと落ちて、砂まみれになってしまっている。これならばいくら赤鼻でも食えまい。
 シオンがそれに狙いを定めたそのとき、赤鼻が動いた。彼は砂まみれのそれをむんずと掴むと、何のためらいもなく口に放り込んだのである。その行動にシオンの動きが止まる。
「『3秒ルール』。うぬも知っておろう?」
 赤鼻がシュウマイを頬張りながらニヤリと笑った。『3秒ルール』、それは食べ物が床に落ちても3秒以内であれば問題無く賞味可能だという旨の都市伝説であった。勿論シオンも熟知している。というかシオンの場合何秒でも関係無く食べるのだが。
「今度はわしの番だな」
 そう言うなり、赤鼻は動きを止めているシオンの元に突進した。そして箱に残っているシュウマイを次々頬張ってはゴクリと飲みこんでいくではないか。はっと我に返ったシオンもお箸を手にそこへと飛び込んで行った。

 ゴール前で、食欲魔人二名による激しい攻防が繰り広げられている。ようやく辺りの砂埃もおさまり自由に動けるようになった大砲だったが、ふたりのあんまりな行動を目の当たりにしてしまったため、直立不動のまま固まった。離れた場所にいた一年コンビもいつしか同じ場所にいて、お互いの肩にすがりつくような格好でブルブル震えている。鬼軍曹に至っては、いつもなら鬼神じみた形相で怒鳴り散らすところだが、あまりの惨状に呆れ果てているようでその場であぐらをかいてしまっている。一方のブルーサンダース一同については言うまでもないだろう。

 ふたりの攻防は、一体いつまで続くのだろうか。



<-- scene 6-11 -->

 その頃、二中ベンチではゲラゲラと笑い声があがっていた。
「すんげー! あのオッサンもバカだけど、うちのオッサンもバカ極まりねー! サッカーじゃなくバッカー対決!?」
「一年の誰だっけ。忘れたけど。そいつがあっちを『非常識なサッカー』するって言ってたけど、赤鼻のオヤジも、こうして見れば非常識極まりないな。顔も非常識だし」
「ちょ、おま、んなことオッサンに聞かれたらぶん殴られるぜ!? いやむしろぶん殴られてえー! 俺マゾー!?」
「つーか、お前こそ頭も顔も非常識」
「何だと、てめ!」
 ずんぐりとした体型の浅黒い少年と老けた顔をした少年がギャースカ騒いでいると、そこに困った顔をした少年がやってきた。
「てゆーかふたりとも静かにしてよ。彼、脳震盪起こしたばかりなんだよ? 何かあったら俺らの責任問題なんだから」
 そう言うと、彼は少し離れたベンチに座っている色のほうを指差してみせる。
「はー? 俺ら関係ねーじゃん。面倒見てんのてめーだろー?」
「さっき鬼軍曹言ってたよね。あいつがピッチに立てる状態になるのを確認するまでは静養させろって。つーかあいつ、オッサン達指差してかなり笑ってんだけど」
「うーわ! 泣き虫ベベちゃん職場放棄かよ! いーのかな? いーのかなー!?」
「ああもう……もーいいよ。最初っからふたりには期待なんてしてなかったし。俺ひとりで面倒見るから」
「つーかさっきから俺らは関係ねーって言ってんだろーが!」
 困った顔をした彼は、ふたりからぷいと顔を背けると、色のところへと戻って行った。

「ギャーッハッハッハッハッハ!!! おんもしれー!!! 何だよあれ! なぁ!?」
 戻るなり大声で笑い転げている色を見て、困った顔をした彼はがくりと肩を落とした。
「あの。草摩君だっけ? もうすこし安静にしてないと」
「や、もうすっかり平気。記憶も戻ったし、いっつでも出られるぜ」
 困った彼はうーんと考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「後半戦最初のセットプレーは何だったか、どうしてそうなったかわかる?」
「コーナー。そっちの19番がクロス上げようとしたとこにうちのリオンさん――白いユニ着た金髪の人がカットに入って、19番がコーナー取るのを狙ってリオンさんにボールを当ててゴールラインから出した」
「コーナーキックのときのキッカーは何番の選手だったかわかる?」
「19番。あのちっせえ奴」
「君がマークについたのは何番だった?」
「9番の獅子王。アルゼンチンの奴」
「あのセットプレーからの得点は、どっちのチームに入ったか覚えてる?」
「や、どっちにも入ってねーじゃん!」
 色が引っ掛けくさい質問に突っ込むと、困った顔の彼はにこりと笑った。
「良かった、記憶もすぐに戻ったところを見ると、プレーしても大丈夫だと思う。頭痛や吐き気、ぼーっとした感じはまだある?」
「いんや全然。つーかいつでも出られるって言ったじゃん俺!」
「そうだったね。ゴメン。じゃあこれあげるから、とりあえず線審に声かけて、主審の指示が出るまでこれ飲んで待ってて」
「サンキュ!」
 色の手にスポーツドリンクのペットボトルを渡すと、困った顔の彼が言った。
「でも、もし試合中何かおかしいなって思ったら、無理しないですぐピッチから出てね。俺らがすぐ対応するから」
「わかった。や、ホント色々あんがとな……感謝してるぜ、マネージャーさん!」
 そう言うなり、色は羽織っていた赤いジャージ――身体を冷やさないようにと先程の彼がかけてくれたものだ――をぱっと脱いでマネージャーへと渡し、線審の元へと歩いて行った。その後ろ姿を呆然と見送りながら、困った顔の彼がぽつりと呟く。
「俺、マネージャーじゃないんだけど……」
 その声は、きっと色の耳には届いていないに違いない。

 歩き出すなり色は、貰ったドリンクをぐびぐびと飲みだした。程よく冷えた液体がすぐにも全身全体に浸透していくように感じられてとても心地良い。やがて色はドリンクから口を放すと、その蓋を閉めようとした。しかしあまりに速く回しすぎてしまい、蓋がぴょんと飛び跳ねてしまった。
「あ、やべ!」
 それをキャッチしようと大きく足を踏み出した、そのとき。
 ――ずきん。
 足首に、痛みが、走った。
 ペットボトルの蓋は、地面に落ちてクルクル回っている。



<-- scene 6-12 -->

 食欲魔人たちの攻防は凄まじいものであった。赤鼻が大きなグローブで一気に数十個のシュウマイを掴み、丸ごと口に運ぼうとすると、その横からシオンが華麗な箸さばきでそれを奪い取って行く。赤鼻が別な箱へとターゲットを移すと、シオンも瞬時に反応する。一進一退の鬼気迫る攻防。しかし、それを止めようとする者がいた。
 シュラインは、シオンの股から既にボールが転げ落ちているのに気付き、そっとそこへとやってきた。周りの選手たちは皆ふたりに注目していて、彼女の姿に気付いている者はいない。誰かが近づいてくる音も聞こえない。
 絶好のチャンスだった。
 シュラインが、足元で停止しているボールをゴールネット目掛けて思いっきり蹴りつけた。その軌道はしっかり枠内を捉えている。すぐにでも追加点を告げるホイッスルが鳴り響くものだと思っていた。
 しかし笛の音は鳴らなかった。大きなグローブが、片手でそのシュートボールを掴み取ったのである。驚いたシュラインがその手の主を確認するべく視線を向けると、そこには最後の砦、赤鼻がシュウマイを頬張りながらニヤリと笑っている姿があった。
「気付いていたのね」
「そうではない。我知らずこの身体が反応したに過ぎん……シュウマイももう食らいつくしてしまっておるしな」
 その言葉にシュラインが辺りを見回すと、シュウマイの空箱がいくつもいくつも転がっているのが見えた。それから、悔しそうな顔をしているシオンの姿も。シュラインは彼へと近づいていくと、その肩をぽむ、と叩いた。
「そう簡単に点をくれる相手じゃなかったわね」
「いえ、そうではなくて……負けたんです」
「何に?」
「シュウマイ争奪戦です……赤鼻さんの方が、私よりひとつ多くシュウマイを……」
 数えていたのか。一瞬突っ込みたくなったが、それより先にすべきことがある。シュラインはシオンの肩をもう一度叩くと、
「まずはこの空き箱を片付けましょう。ね?」
 と、散乱しているごみを指差した。

 シュラインとシオンがごみを回収していると、いつの間にか赤鼻が加わっていた。ひとりよりふたり、ふたりより三人、人数が多ければ多いほど効率は上がる、かと思えばそうでもなかった。てきぱき片付けて行くシュラインはともかく、シオンと赤鼻はひと箱ひと箱中を覗きこんで食べ残しがないかじーっくり調べるものだから、合わせてもひとり以下の戦力にしかならない。挙句の果てにはシュラインがまとめて捨てようとした空き箱をひったくって再度調べるほどであった。この男どもはどれだけシュウマイが好きなのか。いや、シオンの場合食料であれば何でも良いのだろうが。
 まだまだ時間がかかりそうだが仕方無い。シュラインは黙々と作業を続けた。

 それから数分後。
「もう中身残ってないみたいだから、これ捨てちゃいますね」
 潰したシュウマイの箱束を持ったシュラインがそう言うと、シオンと赤鼻は悲しそうな顔をした。しかしあれだけしつこく確認しただけあって、さすがにもう隠れシュウマイを探す気はないらしい。ふたりから同時に「はい」と返事があがった。
 シュラインはほっとため息をつくと、手近にあるくずかごを探し、そこへ駆けつけ箱束をぽいと投げ捨てた。これで一件落着、試合を再開できる。長かった中断時間は、皆にとって程よい休憩になったことだろう。シュラインは両手をぐっと握り締め、「Go!」と小さく呟くと、グラウンド内へと駆け出した。が、その足がすぐ止まる。視線の先に、トヨミチとリオンが小さな少年数人と何やらもめている姿が見えたからだ。



<-- scene 6-13 -->

「えーっ! ここは俺らの場所なんだぜー! なんでおまえらが勝手に使ってるんだよー!」
「普段はそうかもしれないが、今日は町内会でお金を払って借り切っているんだ。つまり、我々にはこのグラウンドを使う正当な権利があるんだよ。それに君、さっき『ここは俺らの場所』と言っていたが、それは違う。このグラウンドは区が運営している公共の施設。つまり、区民みんなが平等に使っていい場所なんだ。独占は良くないな」
「コウキョウって何だよ。意味わかんねーよ。ムズカシイ言葉使って誤魔化そうったってそうはいかねーぞ!」
「や、だから、さっきこの人が『区民みんなが平等に使っていい場所』だって言ったじゃないか」
「クミンって何だよ。ビョウドウって何だよ。全然意味わかんねーよ」
「つーか、お前らサッカーしてる暇があったら家帰って勉強しろ。でもって国語の辞書引け。コウキョウもクミンもビョウドウも全部書いてあるから」
「はあ? 俺たちみんなプロのサッカー選手になるんだから、ベンキョーなんていらねーんだよー!」
「ふざけんな! お前らみたいな頭の弱い連中じゃあ一生サッカー選手になんかなれねーよ。寝言は寝てから言えっつーの!」
「まあまあベルティーニ君。所詮は子供の戯言だ。そんなにカリカリしなくても」
「や、んなこと言われても。このガキ共追い返さないことには試合再開できないじゃないですか」
「まあ、それはそうなのだが……」
 そこへシュラインが駆けつけてきた。
「どうしたの?」
「このガキ共が、ここでサッカーやるっつって聞かないんですよ」
 苛々を隠さずリオンが吐き捨てると、隣にいるトヨミチも肩をすくめ、両腕を軽くあげて『お手上げです』のアピールをした。
「あらら。それは困ったわね。ここの運動公園って、他にサッカーできるところないの?」
「や、あるんですけど、『ここは俺らの場所』とか言って駄々こねやがるんですよ。ったく、サッカーなんてボールさえあればどこでもできるっつーのに。しかもこいつら、プロサッカー選手になるから勉強なんていらね、とかほざきやがったんですよ? どうしようもないクソガキ共だと思いません?」
「なるほどね……」
 シュラインは少しばかり考え込んでいたが、やがて少年たちのほうを向くと、その場にしゃがみこんだ。それからひとりひとりの目をじっと見つめる。少年たちはいきなり大人の女性に見つめられたものだから、戸惑った様子をみせている。やがてシュラインはにこりと微笑むと、彼らに話しだした。

「みんないい目をしてるわね。プロのサッカー選手の瞳にそっくりだわ」
 すると少年たちが一様にもじもじしはじめた。その傍らでリオンがシュラインに突っ込みを入れようとしたのをトヨミチが制止し、彼に「黙って彼女に任せておけ」と耳打ちをする。リオンが不服そうな顔をしながらも黙り込むと、シュラインが続きを話し始めた。
「でもね、今このグラウンドに立ってる選手の中にも、同じ目をしてる人がいるの。ほら、あっち側に赤いユニフォームを着たお兄さんたちがいるでしょう? あのお兄さんたちはね、中学校でサッカー部に入ってる子たちなの。みんなとっても強い選手でね、全国大会にまで進んだこともあるんですって。凄いでしょう?」
「すげー! 全国だって、全国!」
「そういやあの人たち、強そうな感じしてるもんな!」
「でしょう? きっとあのお兄さんたち、卒業したらみーんなプロのサッカー選手になるわよ」
「プロ!?」
「そういやあの人たち、プロっぽい感じするもんな!」
 少年たちが二中の選手たちを見ながらわいわい騒いでいる。シュラインはふふ、と微笑むと、本題に入った。
「あのね、サッカーがうまくなるためには、ボールを蹴って練習するのも大事だけど、強ーい選手たちのプレーを見ることのほうがもーっと大事なの。あのお兄さんたちは、とっても凄いフェイントとか、シュートとか、いっぱいいーっぱいできるのよ? もしあなたたちが、そんな上手なお兄さんたちのプレーを見たら、あなたたちはどうなると思う?」
 シュラインの謎かけに、少年たちが「うーん」と考え込む。やがてひとりが「はい!」と手をあげた。
「じゃあそこのあなた、答えてみてくれる?」
「俺たちも、あっちにいる人たちみたいに、すんごいフェイントとかシュートとかできるようになる!」
 元気の良い返事を聞いて、シュラインがにっこり微笑んだ。
「大正解!」
 途端、少年たちから「うわあ!」と歓声があがる。答えた少年は満面の笑みを浮かべていた。シュラインは今一度少年たちの顔を見回すと、
「試合、見てみたい?」
 と問い掛けた。すると即座に全員が「うん!」と笑顔で返事をした。
「じゃあ、試合の続きがはじまるまで、あっちのベンチで待っててくれる? 自分はこのポジションの選手になりたい、とかこっちのポジションがいい、とかみんなでお話してたら、待ってる間も楽しいと思うし。ね?」
「はーい!」
 返事をするなり一斉にブルーサンダースのベンチへと駆けて行く少年たち。その後ろ姿を見送ったシュラインは、トヨミチとリオンへと顔を向けると、いたずらな瞳でウィンクをした。



<-- scene 6-14 -->

 ひっそりと自陣ベンチで救急箱を漁っていた色だったが、いきなり子供連中がこぞってベンチに入ってきたものだから、驚愕のあまり救急箱を落としてしまった。
「やべ!」
 そっとそちらに目をやると、幸い子供たちは自分たちのお喋りに夢中で、誰も救急箱を落とした音には気付いていなかったらしい。色はほっと息をつくと、撒き散らしたものを拾うべくその場にしゃがみこんだ。
 その瞬間、また足首に鋭い痛みが走った。痛さに色が顔を顰める。色は痛めた足になるべく負担をかけないように注意しながら、落としたものを次々と回収していった。この救急箱はおそらくシュラインが用意したのであろうが、さすがに彼女の仕事だけあって、実に様々な用具が入っていた。これをフルに使えば多少は凌げるだろう。
 全て拾い終えると、色は子供連中に気付かれないように、こっそりとベンチの奥へと移動していった。

 痛めた足からスパイクを外し、ソックスを慎重に脱いでいく。するとするとくるぶしを中心に少し腫れてきているのがわかった。歩行のへ支障が殆どないところからすると、靭帯には損傷のない軽い捻挫だろう。いつ起こったのかはわからないが、抜けている記憶からするに、空中戦のあと獅子王が自分に凭れるように落ちてその衝撃を足が吸収しきれなかったのだろうと思われる。相手マネージャーが、質問でその前後のことに触れなかったのが幸いした。もし訊かれていたならば、自分は答えることができず、当分の間ピッチに立てなかったかもしれない。
 色は救急箱からそっとコールドスプレーを取り出すと、くるぶしが真っ白になるまで患部に吹き付けた。それが乾ききったのを確認すると、その上からさらに湿布剤を貼り付け、足首を固定できるものを探し出す。だが本格的な固定具は入っておらず、テーピングが数種あるのみだった。部活のときはテーピングなんてマネージャー任せで自分は一度もやったことがなかった。そのことをほんの少し後悔したが、今更の話だ。何を考えたところで仕方無い。
 色はそこにあった中で一番太いテープを手にすると、足首からかかと、足の裏までぐるぐるときつく巻きつけていった。少し足を動かしてみたところ、とても動かしづらい。きつく巻きすぎたのだろうか。
 巻きつけたテープを全部取り去ると、色はそれにくっついてきた湿布もろともくずかごに投げ捨てた。それから再度コールドスプレーを吹き、湿布剤を貼り、先程より多少緩めにテーピングを巻いていく。それでも動かしづらいことには変わりなかったが、先程に比べればはるかにマシだった。
 これでいい。色はテーピングを崩さないよう慎重にソックスを履くと、スパイクへと足を通した。テーピングの厚みでいつもよりきつく感じられるが、履けないことはない。スパイクの紐を結び終えた色は、ベンチから立ち上がり膝の屈伸をしてみた。痛みがないわけではないが、走れないこともないだろう。
 色は軽く気合いを入れると、グラウンドへと歩き出した。

「うわ! なんか人出てきたよ!?」
 ベンチスペースから出るなり子供に指を差されたので、色はその場しのぎの返事をした。
「ああ、俺マネージャーみたいなもんだから」
「マネージャー? 男なのに? かっこ悪ーい!」
 子供の暴言に思わず怒鳴りつけたくなったが、ここで騒いでいて他のメンバーに気付かれても困る。辺りを見回すと、まだ試合は再開されていないようだったので、色は子供に何か言われる前に逆に質問をすることにした。
「お前らさ、何でこんなとこにいんの?」
「きれーなおねーさんが、ここで試合見てていいよって言ってくれたんだ」
「そっか。お前らもこの試合に興味あるわけだ」
「うん! だってあっちの赤いチーム、すっごい強いんだろ? 見てたらいろいろベンキョーになるじゃん」
「ふーん。てことは、お前らもサッカーやってんだ」
「当たり前だろー。やってなかったらこんなとこ来ないよー」
「そりゃそーだな、うん。お前らも頑張れよ、サッカー」
「えー? 男のくせにマネージャーなんかやってる人にそんなこと言われてもなぁ」
 またもやカチンときた色だったが、ここは自制、自制だ。第一自分はマネージャーではない。男のマネージャーがいるのはあっちの方だ。きっとこのガキは、彼のことを言っているのだ。心の中でそう言い聞かせながら、
「そーだな。ゴメンゴメン。じゃあ俺そろそろ行くから。じゃーな」
 と強引に話を切り上げるなり、色は線審の元へと歩き出す。

 長いインターバルを経て、ようやく後半戦が再開された。赤鼻がグラウンダー気味にたかぴぃへとボールを投げると、たかぴぃはすぐさま大砲へとパスを出す。それはすぐにみゆみゆへと渡ったのだが、またしても大砲の元へと戻された。大砲はチッと舌打ちをすると、鬼軍曹へとボールを出す。鬼軍曹はすぐさま右サイドにいる小さなドリブラーへと速いパスを出した。
 小さなドリブラーはそれを受けるなり前方へとドリブルを開始した。しかしシュラインと武彦が彼を囲むようにプレスをかけてくる。小さなドリブラーはここで無理をしないことを選択した。彼は足技でふたりを翻弄しながら後退しつつ体勢を整え、スペースを確認するなり反対サイドへと大きなパスを放った。
 またしてもサイドチェンジ。ボールをキープしたのは二中のナマドーラ。彼が軽くドリブルしながら前方を見ると、既に冥月とトヨミチのふたりが道を塞いでいた。彼は一瞬速度を緩めたかと思うと、一気にギアを上げて加速した。トヨミチはそれについていけず抜かれてしまったが、冥月が二中のナマドーラが支配しているボールへとタックルした。クリアされたボールはタックル時にかかった回転により、サイドラインを大きく割ってグラウンドの外へと落ちた。

 そのとき主審がピピッと笛を吹き、線審へと指示を出した。すると線審の後ろに立っていた色がグラウンドへと入って来るではないか。ブルーサンダース一同から歓声が上がる。
「草摩君! もう大丈夫なのか!?」
「色! 脳震盪はもう治ったのか!? 1たす1はいくつになる!?」
「草間さん、アホな質問はしなくて結構。それより色、本当に出てきて平気なのか?」
 早口で次々と問われ、返事をするタイミングを失っていた色だったが、
「もう全ッ然平気! これからガンガン追加点入れてくぜ! なあ!?」
 と元気良く宣言すると、騒いでいた連中が「おおっ!」と叫んだ。色はにっこり笑うと自らの位置へ向かおうとしたが、そこにシュラインが駆けてきて、一言だけ呟いた。
「絶対に無理しないで」
 一瞬ドキリとした色だったが、返答代わりに親指を立てながらニヤリと笑って見せた。



<-- scene 6-15 -->

 二中サイドのフリースローで試合は再開された。みゆみゆが放ったボールを鬼軍曹が胸でワントラップするなり前方へと送る。それをキープしたのはユニフォームの襟を立てた男――『キング』。かつてクミノは言っていた。『二中の中でも特に注意すべき男』、それが彼だと。ブルーサンダース陣に緊張が走る。
 キングはボールを受けるなり一直線にゴール目掛けて走り出した。青いユニフォーム姿が次々と彼を妨害するべく立ち向かっていくが、重戦車を連想させるほどに強力なフィジカルがそれを許さない。ときには強引に道をこじ開け、ときには想像の及ばないほどのフェイントでもって道を切り開く。見る見るうちにペナルティーエリア付近へとやってきていた彼の前にクミノと零が立ち塞がった。しかしキングは全く動じない。彼は迷うことなくゴール目掛けてシュートを放ってきた。それを防ぐべく軌道上に身体を入れたクミノが、ボールの直撃を受けて吹っ飛ばされた。
「クミノさん!!!」
 零の悲鳴があがる。しかしクミノはすぐに身体を起こし、痛みに顔を顰めながらもボールを探した。彼女のやや右前を転がっているそれを見たクミノが、立ち上がるなりクリアすべくボールへと向かう。しかしそれは叶わなかった。瞬時にボールへと詰め寄ってきていたキングが二発目のシュートを放ったのである。丁度キングと交錯する形になったクミノがまたもや彼の強靭な身体に押され、弾かれるように倒された。

 ボールはゴール右斜め上目掛けて飛んできている。通常のパンチングでは間に合わないコースだ。それならば。
「きいぃぇぇぇぇぇえええええ!」
 暁空が吼えながら左ポストへと跳躍し、その反動により音速を越えるスピードを得た身体でボールへと飛んでいく。しかしそれでもまだ、グローブは届きそうになかった。
 そのとき暁空が再び吼えた。そして飛びながらその右手を真っ直ぐに伸ばし、手刀へと変えた。伸ばせるだけ伸ばした腕は更なるリーチを彼の腕にもたらす。ボールをとらえた手刀が、それを前方へと叩き落とす。それと同時に暁空もゴールポストの前に転げ落ちた。
 瞬時に体勢を整えると、ぐんと目の前に迫り来るロン毛の姿があった。ボールは何処にある!?
 探している間もなくロン毛のシュートが放たれた。暁空は瞬時にボールへと反応したが、その手には何も触れない。代わりに聞こえてきたのはボールがポストを直撃する音。ボールは大きく弧を描きながら前方へと飛んで行く。暁空がパッと周りの状況を確認すると、クミノと零がゴール前に位置取っているのが見えた。彼女たちが、ロン毛のシュートコースを狭めたのだ。

 大きく弧を描いたボールを奪うべく、リオンと黄金の隼が空中戦を展開する。序盤のセットプレーでは黄金の隼に軍配が上がった。だからこそ今度は負けられない。ふたりの頭がボールをとらえたのは同時だった。お互いの頭がぶつかる鈍い音が響く。ボールは真上を飛んでいる。リオンと黄金の隼が落下点を見定めながらポジション争いを開始した。背中でぐいと押されそうになったリオンが、身体を翻させるなり黄金の隼の前へと身体を入れる。背後から執拗なプレッシャーが襲ってくるが、ここで動いたら負けだ。リオンは腰を落とした低い姿勢を保ち、彼のプレッシャーを制している。
 やがてボールが落下しはじめた。黄金の隼よりほんのわずか先に、リオンが跳躍する。もし遅かったなら彼の体に潰されていたことだろう。しかし今、リオンはフリーだ。ターゲットも見えている。リオンは顔を上げてボールを額でとらえると、冥月目掛けて叩き落とした。
 しかし絶妙なヘディングだったはずのそれが、突如現れた男によってインターセプトされる。リオンの脳裏を一瞬シオンの顔が過ぎったが、違う。その男が着ているユニフォームの色は、赤だった。

 カットするなりドリブルを開始した獅子王が、後方に控えるキングへとパスを出す。そこはゴールからは程遠い場所であったが、キングはダイレクトにシュートを放ってきた。ゴールまで二十四、五メートルはあろうかというミドルシュートがブルーサンダースゴールを脅かす。
 暁空はいきなり大忙しになったな、と内心思いつつも、即座にポジションを取った。軌道はやや低め、今まで見たことのない回り方をしているが、これだけのスピードボールが突然大きく軌道を変えることはまずないだろう。高さ的には真正面にはならないボールだが、腰を落とせば真正面になる。暁空は既にキャッチングの姿勢に入っていた。
 しかし暁空にとってその読みが仇になった。というのも、何とキングのシュートボールは、ゴールに近づくにつれてぐんと急上昇しはじめたのである。まるで前半開始早々冥月が決めたそれのように。
 暁空はボールの軌道を確認すると、自らの足をバネに前方へとジャンプした。ポストで得られる反発ほどの力はないが、暁空は元来古武術を志す男。判断力だけでなく跳躍力も充分に備えている。その暁空の両手がボールをキャッチしたかに見えた。
 しかしそうはならなかった。キングの激しいキックから生み出されたボールはそのスピードと破壊力をを増しており、彼の両手だけでは掴みきれなかったのだ。だが、暁空のグローブが触れたことでボールの速度、上昇度共にやや衰えている。
 そのボールは上ポストを直撃すると、ゴールの外方向へと弾かれた。ボールの行方を確認しようと思った暁空だったが、その必要はなかった。赤いユニフォーム姿が弾かれたボールに飛び込んできたのである。暁空は瞬時にボールをキャッチすべく跳んだ。だがもうそこには何も無かった。
 ホイッスルの音にゴールへと振り返ると、ゴールネットに突き刺さっている、ボールと獅子王の姿があった。



<-- scene 6-16 -->

「「「「「パティゴーーーーーーーーーール!!!!!!!!!!」」」」」
 二中ベンチから大きな歓声と共に選手たちが跳び出してきた。ガッツポーズをしながら大声で吼えている獅子王が彼らの元へ駆け寄り、ひとりひとりとハイタッチしているところにフィールドプレーヤー達も集まり、獅子王へと次々ジャンプして抱きついていく。獅子王はその場に潰されながらも、手荒い祝福に笑顔で応えていた。

 一方のブルーサンダースディフェンス陣は、皆その場に呆然と立ち尽くしていた。それぞれができる限りのことをして次々迫り来るボールをゴールから守り続けたはずなのに、最後には砦を崩されてしまった。縮められた点差は1点だけだが、そのたった1点が2点、3点であるかのように重く重くのしかかる。あと何分その差を守りきれるのだろうか。守りきるどころか数分後にはこちらが必死に点差を追いかけているのではないか。それぞれの脳裏に浮かんでくるのは悪い予感ばかりだった。
 彼らの心を暗闇が覆いつくそうとしたそのとき、ふいにひとりの男が声をあげた。
「こらー! みんなして何を沈んどるかー!」
 武彦だった。彼がディフェンス陣へと歩み寄りながら、声を張り上げている。
「いいかー? みんな俺の話をよーく聞くんだぞー? さっきの攻撃で、二中チームは合計5本のシュートを打ってきた! もし全て決められていたならば、スコアは6対6、何と同点に追いつかれていたことになーる! だがー? 実際決められたのはたーったの1点! お前らの素晴らしいディフェンスのおかげで、ウチはまだ4点の、いいかー? よ・ん・て・ん・の! リードを保つことができているのだー! 凄いことじゃないかー!? なあ!」
「その通りだ、草間君!」
 いつしか武彦の傍らに立っていたトヨミチが、彼の手を握り締める。
「草間君が言ったように、現在我々は4点のリードを持っている! そして先の攻撃で、二中は5本のシュートを打ちながら1本しか得点に結びつけることができなかった! つまり彼らは、この先20本ものシュートを打たなければ我々に追いつくことができない! さらに追い越すためには25本、30本打つ必要が出てくる! 残り時間を考えれば、それがいかに難しいことかわかるだろう?」
「その通りだ、トヨミチ君!」
 今度は武彦が、トヨミチの手を握り締める。
「つまり、我々が持っている力を信じてプレーし続ければ、その先で微笑んでいるのは!?」
「ズバリ、勝利の女神!」
「その通りだ、草間君!」
 ふたりが固く握手を交わした。
「以上ー! みんなー? わかったかー!?」
 武彦とトヨミチがぱっとディフェンス陣を見ると、それぞれが苦笑している姿があった。

「よし! ここでキャプテン武彦からポジション変更の命令を下す!」
 思いがけない台詞に、一同がぎょっとした顔で彼に注目した。
「まずは、三下!」
「はっ、はいぃぃぃぃぃ!」
「お前、俺と交代。グラウンド内をひたすら走ってろ。といってもただ走っているだけではダメだ。ジグザグだったりふにょふにょ曲がったり、誰にも予測のつかない走りを見せてくれ。いいな!?」
「はっ、はいぃぃぃぃぃ! が、が、がんばりますぅ!」
 三下が武彦へと敬礼する。それを確認すると、武彦は次の命令とやらを口にした。
「次、クミノ!」
「え?」
 突然指名されたクミノがきょとんとした顔を武彦へと向ける。
「お前、俺と交代。つまり、さっきまで三下がいたポジションに入れ」
「どうして私なの」
「どうしても何も、はっきり言ってあそこがウチのディフェンスの穴だったからだ。左から攻められることが多かっただろう? お前が入ってくれればその穴が塞げる。それだけだ」
「じゃあ草間が入ればいいじゃない」
「や、それもそうだが……んーと、あれだ。ほら、俺は真ん中のほうが好きなんだよ。だから……」
 武彦がごにょごにょと口篭もる。

 彼がポジション変更を告げた理由は大体想像がつく。三下がブルーサンダースのガンだということ自体は紛れも無い事実だが、それならばどこのポジションで使っても同じことだ。真ん中が好き、というのはシオンがそうであるようにお馬鹿さんの言いそうなことで、武彦が言い出すのもわからなくはないが、すぐに口に出さなかったところをみるとその場で咄嗟に思いついた弁明に過ぎないだろう。つまりそのどちらも真の理由ではない。
 彼は獰猛なキングに連続して吹っ飛ばされた自分を気遣って、負担の少ないポジションへと自分を移そうとしているのだ。左サイドバックならば相手はあの小さいドリブラーが主になる。小さいとはいえ自分よりはぐんと逞しい選手ではあるが、キングの強靭なフィジカルに比べれば遥かに守りやすい相手だ。
 武彦が自分を気遣っている、ということ自体は嬉しくも何ともなく、寧ろ馬鹿にされているようで我慢ならないことである。だが、あれほどまでにエースストライカーを自称していた男が、自分やチーム全体のバランスを考えてフォワードからディフェンダーに転向すると言い出したこと。それは彼にとってどれだけ辛い決断であっただろうか。
 ろくに頭も働かない癖に幼稚なプライドだけは人一倍持っている男。その彼が自らのプライドをかなぐり捨ててチームの勝利のために選択したこと。いくら頭の固い自分でも、それを否定するほど愚かではない。

「わかった。それじゃあ左サイドバックに移らせてもらうわ」
 クミノがそう言うなり、武彦の顔がぱっと明るくなった。
「お、おおお! 頼むぞクミノ!」
 そしてクミノに駆け寄りその手を握り締めようとした武彦だったが、差し出した手は彼女の平手でぺしりと叩き落とされた。
「触らないで」
 たった一言そう告げると、クミノは新たなポジションへと歩き出す。しょぼんとしている武彦の元へと駆けつけてきたのはトヨミチだった。彼は武彦の肩に手を置くと、高らかな声で言った。
「草間君! 素晴らしい決断だ! キャプテンであり、且つ『ミスターノーゴール』の称号まで持っている君がディフェンスに専念してくれるとは、何と心強いことか! きっと皆の士気も上がることだろう……なあみんな!」
 そして一同へと情熱的な眼差しを向ける。すると皆はぽつぽつと「確かに」「まあ、その通りだな」「何てったって『ミスターノーゴール』だもんな」などと言いながら頷きだした。
「トヨミチ君……!」
 武彦が感動のまなざしでトヨミチに手を差し出すと、そこに彼の手が重なり、固く結ばれた。実はトヨミチが言っていたことは武彦を相当ボロクソにこき下ろしている内容なのだが、幸か不幸か彼はそれに気付く頭を持っていなかったらしい。武彦は大きく息を吸うと、大声で言った。
「よーし! 最後まで突っ走るぞ、みんな!」
「「「「「おう!」」」」」
 一同の、気合いの入った声が辺り一面に響き渡った。



<-- scene 6-17 -->

 気合い充分のブルーサンダース。だが、ボールは前へと進まない。二中の選手たちはディフェンスを本職としている者だけでなく、全ての選手がしっかりと守備をこなせるのである。
 ボールが渡った選手の前にはすぐさま赤いユニフォーム姿が立ち塞がり、プレスをかけてくる。それに圧倒された選手がパスコースを探してようやくボールを出しても、また別の二中選手がターゲットにプレスをかける。パスコースを探そうとしても至るところを赤いユニフォーム姿が走り回っていて、なかなかターゲットが見つからない。
 そうしているうちに更にひとりの二中選手が囲んでくる。ブルーサンダースの選手たちは殆どが素人。ふたりに囲まれてはなす術がない。ボールキープすらままならずボールを奪われてしまった。

 鬼軍曹は奪うなりすぐ相手チーム陣へと向き直り、前方へとボールを出した。それを受けたのはまたしてもキング。フィールド上で彼に不可能はないと言わしめる男。彼がまた、一気に中央のドリブル突破を図ってきた。
 彼をひとりで止めるのは無理だ。すかさず低い位置にいた色とトヨミチがふたりがかりで止めに入る。色のスライディングはボールを捉え、弾いたかに見えた。しかしキングは瞬時に弾かれたボールへと反応し、胸元でトラップ、足元へと落とす。そこにトヨミチが詰め寄り、彼の足元を掬うようにボールを奪おうとしたが、キングはボールをふわりと浮かせて腿に乗せると、腿を上げてボールを浮かせ、落下しかけたボールを右足で捉えるなり横へと出した。そこに走りこんでいた鬼軍曹が左斜め前へとパスを出す。
 ボールの行く先には既に二中のナマドーラが控えていた。

 しかしそこに走りこんでくる青いユニフォーム姿がひとり。冥月である。彼女はそのスピードでもってナマドーラの裏へと入り、パスボールを見事にカットした。だが彼女もまた、鬼軍曹と二中のナマドーラふたりにすぐ囲まれてしまう。しかし彼女は動じない。自らを囲むふたりの男を足技で翻弄し、前方へと一気に加速すると見せかけ彼らを充分に引きつけると、後方へとヒールパスを出した。
 それを受けたのはリオンだった。彼は落ち着いて辺りを見回すと、フリーになっているシュラインへとパスを出す。シュラインは冷静に対処し、ボールをキープ。当然彼女へと向かってくる二中選手たちの足音が聞こえても、彼女はまだ動かない。自分にふたりの選手が来ているということはつまり、フリーの選手がいるということ。その選手を探してボールを出せば良いのだ。
 しかしここで誤算が生じた。三下である。彼は元々チームのひとりと数える必要のない選手であり、ブルーサンダースは常に10人で戦っているに等しいのである。こうなったら自分で行くしかない。
 シュラインがドリブルを開始した。前方には小さなドリブラーが控えている。どう考えても自分ひとりで彼を抜けるとは思えない。しかしパスを出すにしてもそのターゲットは全てマークされている。しかしそのとき彼女は次の策を考えていた、否、考え付くことができた。彼女の耳が、はるか後方からこちらへと向かっている味方選手の足音を拾ったのである。

 シュラインはすっと振り返ると、その選手――クミノへとボールを出した。その瞬間、クミノによるオーバーラップが始まった。彼女はサッカー経験がないとは思えないくらい滑らかなドリブルで、小さなドリブラーへと向かって行く。彼は安定感がありディフェンスも献身的にこなす選手だ、ということを熟知しているにもかかわらず、である。小さなドリブラーは当然のようにクミノからボールを奪うべく近づいてきた。しかしクミノに迷いはない。トップスピードに乗ったドリブルであっという間に彼の目の前へと迫って行く。
 クミノは足の裏でボールを止めると、左足を大きく一歩、左側へと踏み出した。それに反応した小さなドリブラーがすかさずそこを塞ぐべく身を寄せる。しかしそのとき既にクミノは次の動作を開始していた。彼女は右へと身体を傾けるなり右足でボールを内側から外側へとまたぎ、左足の側面でボールを蹴り出そうとする。だがこれだけで抜ける相手ではない。クミノは蹴り出そうとした足で再びボールをまたぐと、更に左足を大きく左に踏み込んだ。小さなドリブラーは左、右、そしてまた左、と続くフェイントに翻弄されつつあるようで、息遣いが荒くなっているのがわかった。
 今だ。クミノは迷わず右足の側面でボールを彼の横へと出すと同時にボールへと走り出し、右足の内側で前へと蹴り出しドリブルを開始した。ぐんぐんスピードに乗るクミノに、小さなドリブラーが並走してくる。クミノは自分がトップスピードに乗ったのを確認すると、瞬時に足の裏でボールを止めた。彼がそれにつられて動きを止めたときには既にクミノの姿はそこにはなかった。彼女はボールを止めるなり止めた足のつま先でボールを大きく前へと蹴り出していたのである。

 ドリブルしながら、クミノはターゲットを探していた。フェイント同様数々のシュートも頭に叩き込まれてはいるが、あの赤鼻相手となると自分の脚力では心もとない。誰か走りこんできている者はいないのか? その前を三下がゼエゼエ言いながら通り過ぎて行ったが、それは見なかったことにする。そして改めてゴール前を見やると、色と大砲がポジション争いをしている姿が見えた。
 クミノはゴール前へとドリブル方向を変えた。こうして迫り来る者に気付いたならば、大砲の動きも乱れるかもしれない。その隙に色へとボールを出せば良いのだ。途中、たかぴぃがクミノの前へと現れたが、ハーフタイム時にネットカフェモナスで小学サッカーのデータを集めたところ、彼とみゆみゆのディフェンスはザルだということがわかった。クミノはサイドステップひとつで彼を難なくかわし、ペナルティーエリア内へと向かって行く。
 それに気付いた大砲がクミノを見た。しかし色へのマークは厳しさを増す一方で、こちらを警戒する素振りなど見せない。自分を小さな少女だと甘く見ているのか? それならば自分が決める。ペナルティーエリア手前でシュート体勢に入ったクミノ。しかしそこに響いたのはボールが蹴られる音ではなく、人と人がぶつかり合う音。
 足をとられたクミノが仰向けに転倒するなり、主審の笛が鳴った。



<-- scene 6-18 -->

「クミノ、大丈夫か!?」
 近くにいた色が声をかけると、クミノは身を起こしながらそれに答えた。
「平気よ。彼の足が絡まって転んだだけだから」
 立ち上がったクミノが彼こと鬼軍曹を顎で差す。既にその場に立っていた彼はクミノの顔を見ると、
「女子供だからといって容赦はしない。それが二中が強豪たる所以だ」
 と言いながらニヤリと笑う。それを見たクミノがフッと笑うと、彼の顔を見上げて言った。
「良かったわ。おかげであなたたちを軽蔑せずに済んだ」
「成る程。さすがはあの一年共を寄せ付けなかっただけある。肝の据わった奴は俺は大好きだ……と言っても別に告白とかそういうのではないからな。ただ単に誉めただけだからな。いいな」
「そんなことくらい言われなくてもわかるわよ」
 自身の発言にやや慌てた様子の鬼軍曹を見て、クミノは軽く吹き出した。

 鬼軍曹のファウルにより、ブルーサンダースはペナルティーエリア手前という絶好の位置からの直接フリーキックを得た。色の指示により上がってきたリオンとトヨミチが二中選手が作る壁の横へと入り、シュラインとシオン、武彦がその外側へとポジションを取る。そしてキッカーは勿論、色である。というか、彼以外に変化するボールを正確に枠に入れることができる選手などブルーサンダースにはいないのだから――冥月の『影』を使えば容易くできるであろうが、それでは色のプライドが許さないだろう――、当然といえば当然であった。

 色は先程ファウルのあった位置にボールを置くと、軽く深呼吸をした。先の大砲とのポジション争いでだいぶ疲れはしたものの、痛めている足には大して負担はかからなかった。フリーキックを打つぶんには何の問題もないだろう。
 呼吸を整えながら、色はハーフタイムに暁空と共に行った変化球対策練習を思い出していた。練習後半で取り戻した感触は、まだ鮮明に自分の身体に焼き付いている。そう、何も考えずあのときのように打ちさえすればいいのだ。何も考えずに。
 色はゆっくりとボールから遠ざかると、やや長めの位置から助走を開始し、あのときのようにボールを思いっきり蹴り出した。
 そう、あのときは。
 色が蹴ったボールが描いた軌道は、上昇しながら相手の壁を巻くように変化し、ゴール右上のネットに突き刺さった。
 だがそれは、あのときの残像。
 今色の目に映っているのは、ゴールのはるか後ろをボールが弾んでいる、姿だった。

「あれ? 何か拍子抜けしちゃったんだけど、俺。つーかあれってホームラン? 俺ら野球やってたんだっけ?」
 壁に配置されていたロン毛が苦笑したのに対し、獅子王が憤然とした顔で抗議した。
「かれは、さっき、おれ、たおす、したから、それが、りゆう。かれは、わるくない!」
「だーからそんな甘えこっちゃアルヘンの代表なんざ……っておい! 人の話聞けよ!」
 獅子王はロン毛を無視して色のところへと駆け寄って行った。
「ごめんなさい」
 そしてまたぺこりと頭を下げる。
「さっき、おれ、あなた、たおす、しなかったら」
 すると色は苦笑しつつ獅子王の頭を小突いた。
「今のでチャラにしてやる」
「ちゃら?」
「えっと、お前は俺を倒した、俺はお前の頭を叩いた。だから俺もお前もどっちも悪いってこと」
「でも、おれ、いたくないよ?」
「俺ももう全回復元気いっぱいやる気満々なわけ。もう痛いとこなんざひとつも無えぜ? さっきの大ホームランはただの打ち損じ。次はぜってー決めてみせるから、お前も覚悟しとけよ?」
「わかりました。ありがとう。ごめんなさい」
「こちらこそ、たたいて、ごめんなさい」
 獅子王などと呼ばれているごっつい男。しかしその内面は小動物。そのギャップがおかしくて色はカラカラ笑っていたが、はっと我に返ると味方選手たちの方へと顔を向けるなり、土下座した。



<-- scene 6-19 -->

「わりぃ……クミノがあんなに頑張ってゲットしてくれたフリーキックだったのに、キーパーやポストに阻まれるならまだしも俺、あんなクソボールなんか蹴っちまった……ごめんな……」
 頭を地面にくっつくほど下げながら、色が皆へと謝っている。
「何言ってるのよ」
 いつしか傍らに来ていたシュラインが彼の頭を軽く小突くと、色が盛大な悲鳴をあげた。
「いでっ!」
「ふふふ。悲鳴あげるくらいの元気はあるのね。安心したわ」
 顔をあげると、微笑んでいるシュラインだけではなく、その場にいた全ての選手が色を取り囲んでいた。
「草摩君。もし先程のプレーで君以外の誰かが蹴っていたとしても、結果は同じか、或いはもっととんでもないホームランボールになって通行人の頭を直撃していたかもしれない。だから君が気を病むことはないんだ」
「そうそう。もし草間さんなんかに蹴られでもしたらホームランどころか宇宙まで行ってボール返ってこなかったと思うし」
「その通りだ……っておい!」
 武彦がリオンに肘打ちを食らわそうとしたが、ひょいとかわされ逆に嘲笑された。
「こんにゃろー!」
「こんにゃくー!」
 いきなりシオンが武彦の脳天目掛けて冷水を浴びせかけるようなことを言ったので、武彦はしゅんとしぼんでしまった。それを見たリオンとトヨミチが彼らを指差しながら笑っている。

 それを余所に、クミノがすっと出てきて色の前に立った。
「草摩さん。もし私に気遣ってそんなことしてるのなら、今すぐ立ち上がって頂戴。私は何もできなかったし」
「んなことねえよ!」
「違う。私じゃああの赤鼻を相手にゴールを奪うなんて到底無理。フリーキックも同じこと。私や他の連中じゃあ枠に入れることさえできない。でもあなたならそれができると思った。他の人たちも同じ。みんなができないことをあなたに押し付けた形なんだから、失敗したからって誰も責めやしないわ。それどころかありがとう、って言いたいくらい」
「マジかよ……あんなクソボール蹴ったっつーのに」
「そのクソボールのおかげで自信がついた連中も何人かいるはずよ。草摩さんでもあんなミスすることがあるんだ、なら自分はそれ以上にミスしまくって当たり前なんだ、って。特に草間あたりは、絶対そう思ってるはず」
「ああ、草間さんなら充分ありえるな。んでもって俺をのクソボールをダシに自分のミスを正当化するっつーオチ付きで」
 色がそれを想像して吹き出したのを見て、クミノがその肩をぽむ、と叩いた。
「さあ、立って。これ以上やってると遅延行為になってしまうわ」
 彼女に促され、色がゆっくりとその場で立ち上がる。そして、
「よっしゃ! 次こそぜってー決めてやるぜ!」
 と高らかに宣言し、自陣へと歩き出した。



<-- scene 6-20 -->

 自陣へと戻るにつれ、表情がだんだんと消えていく。
 色は歩きながら、先のフリーキックのことを思い出していた。ボールを蹴った瞬間、大丈夫かと思っていた足首をまたも鋭い痛みが走ったのだ。その痛みに耐え切れず回転をかけるどころか普通に蹴るだけで精一杯だったボールは、明後日の方向へと浮いていってしまい、結果嬉しくも何とも無いホームランボールになってしまった。
 悔しかった。相手にホームランボールをからかわれたからではない。あのとき――序盤に獅子王とやりあったとき、できもしない空中戦なんかで張り合った結果、利き足を痛めてしまったこと。それが悔しかった。
 空中戦は苦手だというのは最初から自覚していたことだし、あのとき獅子王は直接ゴールを狙える位置にはいなかった。にもかかわらず、彼が身長差のある相手だとわかっていながら、跳んだところで勝てない相手だとわかっていながら、無駄な勝負を挑んでしまった。さらに自分は空中戦には事故がつきものだということもわかっていた。それなのに。
 きっと自分は、味方にコーナーキック時のポジションを指示しながらほんのりと抱いていた優越感に酔っていたのだ。悪い意味での調子に乗ってしまっていた。その結果がこれだ。
 自分は何という愚かなことを自分はしてしまったのだろう。武彦に「大船に乗ったつもりでいろ」などとほざいておきながら、絶好の追加点のチャンスを自らの愚かな行為により潰してしまった。悔しい。情けない。そんな自分をぶん殴りたくなる。

「おーい、色ー!」
 ふいに名を呼ばれ、色がぎくりと顔をあげると、暁空が走り寄ってくる姿があった。
「ん、何か用?」
 色が急遽いつもの表情を取り繕うと、暁空はそれには気がつかなかったようだったが、いきなり掌底を放ってきた。
「ぐえっ!」
 色が胸元を押さえながら悶絶する。
「な、何すんだよいきなり!」
「いや、なんか殴られたいオーラが出てたみたいだったから、とりあえず殴ってみた」
「つーか殴ってねえじゃん! 手のひらじゃん!」
 ぷんすかしている色をまあまあ、となだめると、暁空は言った。
「まあ、あれだ。ヒーローには試練がつきものなんだよ」
「はぁ?」
「俺たちふたり、ハーフタイム中魔球特訓ずっとやってただろ。それなのに試合ではうまくいかなかった。それはヒーローの資格を持つ者にこそ与えられる試練なんだ。お約束って言ってもいいかもしれない。でも、真のヒーローはどんな試練があってもそれに立ち向かっていくんだ。何度打ちひしがれようとも這い上がってくるんだ。で、それもまたひとつのお約束なわけだ」
「はあ」
「要は、俺がいいたいのは、ヒーローは無敵じゃあない。でも、試練をぶっ飛ばす力を秘めてるってこと。そうだろ?」
 暁空のまとめは何だか要領を得ないものではあったが、それでも色はぱっと表情を明るくしてうんうんと頷いた。
「そうだ。俺はあんなポカミス一本で腐るような男じゃねえ。ぜってーに試練とやらをぶっ潰してやっからな!」
 そして気合いを込めた低いガッツポーズをひとつ。そんな彼に暁空は、
「まあ、あくまで真のヒーローならばの話であって、色や俺がどうなのかはわかんないけどね」
 と、色をこかすようなことを言った。

 足早に自陣ゴールへと去って行く暁空の背中を見ながら、色は思った。もし自分がヒーローの資質を秘めているならば、あの脳震盪も、足首の怪我も、それぞれが試練なのだと。それと同時に色は胸に抱いた。自分はヒーローの資質を秘めているのではなく、既に真のヒーローとして完成されているという確信を。勿論草間のような自称ではないのは言うまでもない。
 そんな自分が、あんなちゃちい試練とやらに負けるわけが無い。万が一負けでもしたならば、自分はヒーローなんかではなくただの大ボラ吹きになってしまうではないか。ならば尚更負けるわけにはいかない。
 色は先程暁空に軽くくじかれた気合いを、再度ぐぐっと両腕にこめた。



<-- scene 6-21 -->

 ブルーサンダースは若いチームである。若いからこそ選手たちはたった一度の試合のなかで見る見るうちに上達していく。
 しかし、若いということは経験が足りないということ。そして経験の少ない彼らには、まだ知らないことがあった。

 『勝利の女神』とやらの微笑みは、ときに冷酷且つ惨忍なそれに変わることもある、ということを。



<-- scene 6-22 -->

 赤鼻のゴールキックは大きな弧を描き、ブルーサンダース陣中ほどまでも飛んできた。落下点にいたのはシュラインと小さなドリブラー。高さははシュラインが、ジャンプ力やフィジカルは彼が勝っているが、ほぼ互角の空中戦を行える選手同士ではあった。迷わずシュラインは落下するボール目掛けてジャンプしたが、一方の彼はまったく動かない。一体何故、と考えるより先にその答えが返ってきた。
「こらぁお前も跳ばんか! いつもの試合ならともかく相手は女だぞ! お前だって充分に渡り合えるだろうが!」
 鬼軍曹の叱咤の声に、どうやら普段なら勝ち目が無いので跳ぼうともしないらしい小さな彼は、返事をする間もなくぴょいんと跳び上がった。しかし先にボールを頭で受けたのはシュライン。ボールが頭に当たった衝撃は思いのほか大きく、つい顔をしかめてしまったシュラインだったが、それでも冷静に周囲の足音を聞き分け、右斜め前方へとボールを落とした。

 そこに走りこんだのはボランチのリオン。彼は緩いドリブルで辺りを見やると、右にボールを出した。そのパスを受け取った冥月は真っ直ぐ前を向き、地面を這うようなドリブルで敵陣を崩すべく疾走する。トヨミチやシオンら中盤の選手が彼女へと続き、敵陣エリアへと走りこんだ。
 彼女の目の前には二中のナマドーラがいる。自分で抜くか、あるいは。冥月がちらと横目で左前方を見やると、トヨミチが手招き――つまり『ボールくれ』のアクションらしい――と、前方を顎で指す仕草を交互に繰り返しているのが見えた。その意図するところを理解した冥月は、一旦ボールを止めた。二中のナマドーラは警戒しているようでその場から動こうとしない。冥月はトヨミチへと強いパスを出すと同時に止まっていた二中のナマドーラを瞬時に抜き去った。
 一方のトヨミチはそのボールをダイレクトに蹴りつけ、右前方へと強いグラウンダーパスを出した。それは冥月のスピードを殺すことのない絶妙な位置へのパスだったので、冥月は難なくキープ、そのまま流れるようなドリブルで前方へと走りつづけて行く。二中のナマドーラは途中までは冥月を追いかけていたが、走力の差を感じたのと、パスを出した男のそれが完璧で彼女のスピードが落ちることがなかったからであろう、途中で追うのをやめてしまったようだった。

 冥月はドリブルをしながら考えていた。現在ブルーサンダースの前線は実質色のワントップ状態。しかし彼の調子がどうにも芳しくないことに彼女は気付いていた。彼の『影』に時折妙なふらつきが混ざるのだ。それゆえ彼にボールを出すのは危険。トヨミチはパサーとしてはなかなかいいものを持っているが、得点力があるかどうかは不明。シオンは……未知の可能性を秘めている、かもしれないが。逆サイドをシュラインが上がってきているが、彼女に赤鼻からゴールを奪うほどのシュート力があるとも思えない。リオンあたりがもっと上がって来てくれていたなら攻撃のバリエーションも広がるのだが、彼は相手の速攻に備えてやや下に位置を取っている。
 つまり、自分で行くかシオンに託すか二者択一の選択に迫られているわけだが、冥月は迷うことなく決断した。

 冥月はコーナーサークル付近まで深く攻め入ると、またそこでボールを止め、ゴール前を見た。みゆみゆが自分に向かって来ているがそんなものはどうでもいい。冥月は軽いフェイントで彼をかわすと、クロスをあげる要領でボールを蹴り上げた。
 しかしそれはクロスではない。直接ゴールを狙うために蹴った、シュートだ。冥月の『影』の能力はボールを自在に操れる。ありえない軌道を描くこともできる。しかしあまり不自然なことをして難癖をつけられても困る。ゆえに冥月は最初はやや外曲がり気味にボールを操り、そこから急激に曲がり幅を変えて落とすという、前半でみゆみゆが放ったような軌道をボールに描かせるつもりだった。
 しかし、それより前に赤鼻が動いていた。もしこれがサッカーでなければ『影』で彼の足元を縫い付けてしまいたいところだが、そういうわけにもいかない。赤鼻は瞬時に大きく前に出てゴール前に群がる両軍の選手たちの中へ押し入ると、曲がり幅を変わる前に高くジャンプしてボールをキャッチしてしまったのである。
 冥月が苦々しい顔で彼を見ていると、赤鼻はニヤリと笑った。
「曲げてくるつもりだったのであろうが、それなら曲がる前に仕事を済ませれば良い、それだけのことに過ぎん。それに、もし急激に変化してこようとも、わしはそれについて行くことのできる男だ。簡単にゴールラインは割らせんぞ、女よ」
 赤鼻はそう言うなり、キャッチしていたボールを大きく蹴り出した。

 ブルーサンダースの攻撃陣は、先のプレーで皆相手陣奥へと進んでしまっていた。対する二中軍団はフォワード三人、中盤の上三人が既にブルーサンダース陣へと進入してきている。青と白のユニフォームで残っているのはボランチのリオンと、オーバーラップした冥月を除くディフェンダーだけだ。フィールドプレイヤーの数ならば二中軍団が上回っているという厳しい状況である。
 そこへ赤鼻が一気に長いボールを打ってきたものだからたまらない。リオンはよりにもよってキングと競り合う羽目になり、そのフィジカルに負けてボールキープができなかった。キングはボールを持つなり例の如く前進していく。彼を止めるにはふたり、三人割かねばならない。武彦と零、クミノが一気に彼の元へと駆けつける。

 しかしキングはいつものようにそこを無理矢理こじ開けようとはしなかった。三人のディフェンダーを充分に引きつけた状態で振り返り、左サイドの二中のナマドーラへとボールを出したのである。
 ゴール前には青と白のユニフォーム姿が三人と赤いユニフォーム姿が三人。二中のナマドーラへと駆け寄ろうとしたリオンを囲んだのはキングと小さなドリブラーだった。更に鬼軍曹もが上がってきている。一方のブルーサンダースはようやく中盤の選手がセンターラインを越えてきたところで、ディフェンスに参加するには厳しい。
 絶好の獲物を『赤い悪魔』が見逃すわけなどなかった。完全にフリーだった二中のナマドーラには、自陣を見やる時間も、敵陣ゴール前のポジション取りを確認する時間も充分にあった。その彼の左足が、美しい軌跡を生み出した。

 今ゴール前にいるのは武彦と零とクミノ。対する相手フォワード三人は、ロン毛がやや低いだけで残りのふたりは長身揃いだ。明らかに高さで劣っているこの状況、しかも二中のナマドーラはゴールから三十メートルは離れた位置から蹴ってきた。これは間違いなくクロスだ。それならば先程向こうで赤鼻がしたように、自分が割って入ってキャッチするのが最善だろう。ジャンプ力ならば今ゴール前に居る連中の誰よりも勝っている自信がある。暁空は迷わずボールの軌道上へと入り込んだ。
 二中のナマドーラの左足が生み出したボールは美しい弧を描きながらゴール前へと向かってきている。暁空が相手フォワードとポジション争いをしつつ再度ボールを確認した。この位置から跳べば難なくキャッチできるに違いない。だがここで暁空の表情が一変した。ボールにかかっている回転が見えたのだ。
 美しい弧を描いたボールが急激にゴール方向へと変化する。暁空はすぐさまそちらへ向かおうとしたが、相手フォワードのプレッシャーが大きく集団からなかなか抜けられない。
「クミノちゃん! ゴール!」
 暁空が叫ぶと、小さなクミノは集団からすっと抜け出てゴールへと向き直り、襲いくるボールを見るなりその方向へとスライディングした。もしボールが更に変化して落ちていたなら、クミノの足はそれを防いでいたかもしれない。だが二中のナマドーラが放ったそれは三十メートル級のスピードボール。それ以上の変化はなかった。クミノは足を上げてボールに触ろうとしたが、その足は空しく宙を切った。
 黄金の左足が描いた美しい軌跡が、ゴールネットをふぁさりと揺らす。



<-- scene 6-23 -->

 青と赤。どちらの色のユニフォームに身を纏った選手たちも、ネットから緩やかに転がり落ちるボールをぼうと見ているしかなかった。二中のナマドーラが放ったシュートは、彼らの時間を止めてしまったようだった。
「す、すげえ魔球見ちまったな……」
 呆然と呟く暁空。ディフェンダーたちも、相手フォワードたちも、こくこくと頷くばかりで言葉が出なかった。
 その静寂を思いっきり破ったのは、ブルーサンダースベンチから試合を見ていた子供たちだった。
「すんげえええええ!」
「見た、今の! なんか曲がったよ!?」
「しかもあんな遠くから! すげー! 俺あの人みたいになりたい!」
「俺も俺も!」
「お前はダメ! ああいうすげー人にはひとりしかなっちゃダメなんだよ!」
「じゃあ僕は最初に決めたガイジンの人になる!」
「バーカ。お前日本人じゃん。ガイジンになれるわけねーだろ」
「それじゃあ俺は、襟立ててるでっかい人!」
「お前がぁ? ダメダメ。だってお前、俺らん中で一番ヘタクソじゃん。ヘタクソがやるのはゴールキーパーって決まってんだよ!」
 その途端、赤鼻が「なぬ!?」と憤怒の表情になる。鼻だけでなく顔全体が紅潮するほどいきり立っているようであった。
 勿論暁空の耳にも少年の暴言は聞こえていたが、彼はただ苦笑しているだけで、別段怒った様子はない。

 そのとき突然、キングがゴール前へとつかつか歩いてきた。そして辿り着くなり二中フォワード陣の尻に強烈な蹴りを食らわせていく。三人から次々と悲鳴があがるのを聞きながら、キングは言った。
「おめーら、今のが『誰の』得点かわかってんだろな? おい?」
「え、ナマドラさんでしょ?」
 そう答えたロン毛にまたしてもキングの蹴りが炸裂する。彼は地面でもんどりうっているロン毛を満足そうに見ると、一同に向き直り、バカでかい声でぶちまけた。
「馬鹿野郎! おめーらそれでも二中のサッカー部員か!? 二中のサッカー部員ならこの俺がボスだっつーことくらいわかってんだろ!? そのボスに対するおめーらの態度は何だ!? 何様のつもりだ!? おい!?」
 キングの主張はまだ終わらない。
「いいか!? ボスである俺が遭えて直々に鉄砲玉のおめーらに教えてやるからありがたく話を聞け! いいな!? さっきのは俺がディフェンス連中を引きつけたからこそ生まれた得点だ! つまり俺があげた得点だ! わかったか!? おい!?」
 キングの言っていることはとんでもない俺様理論であったが、その圧倒的な威圧感に、相手フォワード陣だけでなく、その場にいたブルーサンダースの面々も瞬間的に「わかりました! ボス!」と答えてしまっていた。

 悪いことに、二中のナマドーラの美しいゴールはキングという巨大な爆弾に火を点けてしまったらしい。ブルーサンダースのキックオフで再開された試合だったが、キングが怒り狂った表情でもって重戦車と称される身体をフルに使ってボールを持った選手に襲い掛かってくるものだから、すぐにボールは彼の手に渡ってしまった。
 そしてまたしてもフィールドの真ん中を一直線に突き進んでくる。途中でシオンが珍奇な踊りを披露していたが、一瞬のうちに遥か彼方の宇宙へと吹っ飛ばされた。本来ならばどう見てもファウルなのだが、情けないことに主審までもがキングを恐れてブルブル震え、彼に関わらないようにと遠くに行ってしまった始末である。つまり、カードが出るどころか笛さえ鳴らない。
「や、ちょっと、そんなんありかよ!」
 あんまりな出来事にリオンが主審へと駆け寄ろうとしたところ、絶妙なタイミングでキングが爆走してきたので、リオンはその場に留まった。その判断は大正解で、もしそのまま進んでいたなら彼は、シオンと共に宇宙遊泳をする羽目になっていただろう。
「零、下がってろ! 俺があいつの相手をする!」
「お兄さん!?」
 兄の素っ頓狂な発言に大きな瞳をさらに大きく見開いた零だったが、ここは兄を立てることにしたらしく、その場から離れた。その後ろ姿を見送った武彦が前へと向き直り、腰を落として両の腿をバシバシ叩く。その前には迫り来るキングの姿。
 武彦は息を大きく吸うと、高らかに宣言し、
「さあ来いキング! この『ミスターノーゴール』草間・武彦がお前をディスカバリー!」
 ようとしたところキングに見事に吹っ飛ばされ、珍奇な悲鳴をあげながら宇宙へと旅立った。

 そのキングがゴール直前で足を止めた。何事か!? とその場にいた者たちがゴール前に注目すると、なんと暁空が古武術の構えを取って待機しているではないか。キングの口の端がニヤリと上がる。
「おめえ、この俺とガチでやる気か」
「ああ。お前がカンフーキックの使い手と聞いたからには黙ってはいられないからな」
 いつになく真剣な表情で暁空が言うと、キングはすっとカンフーの構えに入った。
 両者が睨みあう。
 先に動いたのはキングだった。瞬時に間合いを詰めて暁空の足を薙ぐように蹴る。しかし暁空はジャンプでそれをかわし、逆にキングの後ろ首へと手刀を繰り出す。それをキングが右腕で止めると暁空は第二陣とばかりに掌底を繰り出した。それは先程色に仕掛けた技と同じものであったが、あのときは相手が色だったこともありかなり力を抑えていた。だが今は違う。暁空の本気の掌底がキングの胴を襲った。
 キングはそれをまともに食らったかのように見えた。しかし彼は倒れることなく後方へと飛びのいた。掌底が直撃する寸前、彼はすうと後ろに身を引きそのダメージを最小限に抑えていたのである。
 暁空をキングの蹴り技が次々と襲う。足癖の悪い男だけあってそれは実に多彩、まるで冥月が武彦にお仕置きをするときのようにバリエーションに富んでいた。しかし暁空はそんなものを易々と食らう男ではない。腕や腿を駆使してダメージを最小限に抑えつつ、反撃の機会を伺っていた。
 やがてキングが大きな蹴りを放った。それが暁空の狙っていた機会であった。暁空は力を込めた両腕でキングの足を掴むと、足が動かせず不自由な状態の彼に逆襲とばかりに足技を繰り出した。これまた多彩な攻撃で、キングは致命傷にならないよう上半身を動かすのが精一杯だった。このままならばやがて彼は地面にくず折れるだろう。
 そのとき、暁空はキングの足を掴んでいた両腕を外し、その場で構えた。一方のキングは状況がわからずぼうとしていたが、やがて暁空に向かって怒鳴り出した。

「おい! おめえまさか、この俺に手加減でもしたつもりか!? 俺はガチで負けたなら悔いなんざ残さねえ男だぞ!? その俺に対し手加減とは一体どういうつもりだ!? わかってんのか!? おい!?」
 荒ぶるキングに、暁空は冷静な声で答えた。
「違う。別に手加減したわけじゃない。ただ俺は、お前の最も得意とする技を受けたかっただけなんだ」
「技、だと?」
「言っただろう。お前がカンフーキックの使い手と聞いたからには黙ってはいられない、と。それなのにお前はカンフーキックを見せようともしない。寧ろ俺の方こそお前に『手加減してんのかよ!』って言いたいくらいだ」
「成る程な」
 キングがフッと笑った。
「そこまで言うなら見せてやってもいいぜ。この俺のカンフーキック。覚悟しとけよ? おい?」
「望むところだ。さあ、こい!」
 暁空とキング、それぞれがそれぞれの流派の構えを取った。



<-- scene 6-24 -->

 そんな中、足音を立てないようにしながらそろそろとゴール前へと近づく赤いユニフォーム姿がひとり。ロン毛であった。彼はキングの足から既にボールがほっぽりだされているのに気付いていたのだ。しかしあのふたりの闘いの邪魔などしたら自分もブルーサンダースの連中と共に無酸素空間送りになってしまう。それゆえそーっと、そーっと、足を進めなければならない。
 長い道のりを経て、ようやく彼はボールの元へと辿り着いた。これをちょこんと転がすだけで、ボールはゴールに収まるのだ。ロン毛がニヤリと笑い、その右足をゆっくりとボールへと差し出した、そのとき。
「野暮なことはするな」
 彼は誰かにむんずと後ろ襟をつかまれぐいと後方に引っ張られた。「誰だ!?」と振り返ったロン毛の顔が一気に青褪める。
「お、お姉様……」
 冥月であった。彼女が凄まじい睨みをきかせてロン毛を見下ろしている。ロン毛は冥月が襟から手を放してくれたのを確認するなりその場にひれ伏し土下座した。
「す、すみません!」
「詫びなどいらん。それより静かにしていろ。お前は奴らの集中を乱す気か?」
 冥月が闘っている漢たちを顎で差すと、ロン毛はふるふると頭を振り、彼らへと視線をやった。

「うおおおおお! 食らえ! カンフーキック!」
 キングが咆哮とともに助走し、暁空へと飛び蹴りを放った。その足先は鍛え上げられた刃の如し。天下三槍の中でも最大の長さを誇る大身槍、『御手杵(おてぎね)』のそれを思わせる。彼の鍛え上げられた肉体に支えられた剛槍が、真っ直ぐに暁空へと襲い掛かってくる。暁空は瞬時に腕と腕の側面を合わせ、胸を抱くように守りの姿勢を取った。
「きいぃぇぇぇぇぇえええええ!」
 暁空が吼えながらその両腕にあらん限りの気を篭めた。その両腕は鍛え上げられた篭手の如し。この防御方こそ『紫東水明流・秘技・流孔気水(りゅうこうきすい)』。練り上げられた『気』を身体の一部分に集中させることでその部分の力を二乗三乗にも高めていく。しかしそれだけではこの秘技は完成しない。気孔によって作られた水流で力を高めた部分を覆い、相手の技を受け流し、ときには水流の力で押し出すこと。それこそが『流孔気水』の完成形、そして真髄なのである。
「きいぃぇぇぇぇぇえええええ!」
 暁空は再度吼えると、両腕に込めている気はそのままに、更にその周りに気の水流を作り出した。

 両者の刃と篭手が真正面から激突する。剛槍の威力に押されたふたつの篭手が、その間へと槍先の進入を許した。剛槍が狙うは相手の心の臓ただひとつ。篭手の隙間を鋭く刺せば、剛槍は呆気なくそこを貫くことができるだろう。しかし篭手はそのような隙間など見せる様子もなく強靭な力で剛槍を挟んでいる。それどころか剛槍の方がじりじりと後退しはじめるではないか。まるで目に見えない水流がその槍先を押し出すように。
 微動だにせず、汗ひとつこぼす様子も見せない彼に、キングの表情が徐々に焦りのそれへと変化していく。額からひとすじの汗がこぼれ落ちたとき、彼は全てを悟った。

「負けたぜ」
 キングはそう言うと、暁空の両腕の間を突き刺していた足を地面に下ろした。それを確認した暁空が気の力を開放し、ふうと息をつきながら両腕をだらりと下げる。
「俺も相当キツかったけどな」
 暁空が苦笑すると、キングは「そりゃあそうだ」、と空を見上げて高らかに笑った。その表情が実に晴れやかだったのを見て、暁空の顔がほころぶ。キングは暫く空を見ていたが、やがて暁空へと視線を戻した。
「てめーの名は?」
「紫東・暁空」
「しとう・あきら、か。覚えておいてやろう。いずれこの俺がお前を打ち破るそのときまでな」
「ああ。待ってるぜ」
 暁空とキングは笑いながら握手を交わすと、
「「ところで、ボールはどこだ?」」
 と辺りを見回した。

 ふたりの闘いが終わった今こそ絶好のチャンス。ロン毛が瞬時に立ち上がると目の前のボール目掛けて走り出す。
「このガキ!」
 シュート体勢に入ったそのとき、背後から冥月が駆けてくる音と彼女の怒鳴り声が聞こえたものだから、ロン毛の身体はびくりとすくみ、シュートボールは明後日の方向へと飛んでしまった。
 何事もなかったならばゴールネットを大きく揺らしていたはずのボールが、クロスバーに当たり弾き飛ばされる。しかしそのボールは赤いユニフォーム姿へと向かっていた。襟を立てた大男――キングだ。

 キングは自分へと向かってきているボールの姿を認めるなり、後方へと疾走した。それから急ブレーキで立ち止まるとがばりとゴールへと向き直り、ボールへとダッシュした。何故ならば、ボールが彼の首元へと飛んできていたからだ。ゴール前でジャンプしワントラップしたところで暁空にキープされるのがオチである。それゆえ彼はゴールと距離を置いたのだ。だがそれでもボールの方向は首元から胸元へと変わったに過ぎない。キングは大きく咆哮をあげると、先のカンフーキックの如くボールを蹴りつけた。それから暁空を見て仰天する。
 何と暁空は、自分を睨みつけながら先の闘いと全く同じ構えを取っていたのだ。ゴールを襲うボールなど眼中にない、といった風情で。きっとカンフーキックシュートを見た瞬間、身体が反応してしまったのだろう。
 スピードボールが暁空の顔の横をかするようにゴールラインを割り、ネットに突き刺さる。



<-- scene 6-25 -->

 ホイッスルの音で我に返った暁空が恐る恐る後ろを向くと、ゴールの中に収まっているボールがひとつ。
「し、しまった!」
 その声と共に表情が強張る。暁空は両手で頭を覆うと、その場にぺたりと座り込んでしまった。そこへブルーサンダースディフェンス陣が駆け寄ってくる。
「「紫東さん……」」
 呆れながら彼を見下ろしているのはクミノとリオンだった。暁空はあまりの情けなさに顔をあげられずにいる。しかしそこに突然明るい声が響いてきた。
「紫東さん、すごいです! 漢と漢の死闘、わたしすっかり夢中になっちゃいました!」
 なんと零であった。彼女は座り込んでいる暁空の前にしゃがむと、その場でガッツポーズを取ってみせる。それから立ち上がり、「あのときのあれとかそのつぎのあれとか……」とひとり死闘とやらを回想しはじめた。

 暁空が呆気に取られていたそのとき。更にトンデモな連中が現れた。
「ナイスファイトだ、暁空! そりゃまあ点は取られたが、しかしお前は勝負には勝った! しかも相手はこの俺を宇宙の旅へとご招待しくさったあのキング! いやもう最高だ! 何も言うことはない!」
「そうです! キングさんのおかげではじめて惑星探索することができちゃいました! 草間さんといろんな惑星で遊んできたのですが、やっぱり水星のお水は名前だけあって素晴らしかったです!」
 何と彼らは、キングに遥か彼方へと吹っ飛ばされて行方不明になっていた武彦とシオンであった。暁空だけでなくその場にいた皆が呆けた顔でふたりを見ている。暫くはその状態が続いたが、最初に現状を把握したリオンが真っ先に口を開いた。
「や、水星は太陽に一番近いところを回ってるんですよ? その表面温度は四百度近い高温です。つまり、お水がおいしいどころか水なんて存在するわけがない。水星に行ったっていうのはウソでしょ」
 リオンの鋭い突っ込みがシオンを脅かす。どうして宇宙から生還できたんだ、という問いよりもそちらを優先したのは、ひとえにリオンの突っ込み体質からであろう。そこにシオンが反論らしきことを口にする。
「それじゃあわたしは火星で宇宙人とご挨拶しました!」
「や、惑星探査により、地球以外の惑星には高度生命体はいないってことが明らかになってます。これもウソでしょ」
「ならばわたしは、土星の輪っかを食べてきました! イチゴシロップがかかったかき氷みたいでおいしかったです!」
「や、確かに土星の輪の成分の大部分は氷なんですけど、イチゴシロップはありえない。つーか土星の表面の大気はマイナス百七十度近いんです。んなとこ行けるわけがない。つーことでこれもウソ確定」
「そ、それならば……金星でサマーバケーションを満喫してきました!」
「へえ。硫酸の雨が降り注ぐ中、バケーションを満喫ねえ……って、何で俺がこんなアホウに突っ込み続けにゃならんのだ!」
 シオンに突っ込み続けていたリオンが声を荒げた。そこへ武彦がおずおずと声をかける。
「リオン、落ち着いて俺の話を聞いてくれ……実は俺な、月のクレーターに『イケメン武彦参上!』って書いてきたんだ!」
 そしてシオンと共にはしゃぎまわる武彦。リオンは額を手で覆うと、クミノへと目を向けた。
「クミノちゃん。今すぐ救急車呼んでくれる? このふたりさっさと脳外科か精神科に回したほうがいい」
「了解」
 クミノが駆け出そうとしたそのとき、シオンと武彦が「待ってくれ!」「待ってください!」とクミノにすがりついた。
「何するのよ。治療受けるなら早いに越したことはないでしょう」
「いやクミノ、誤解、誤解だ! ただちょっとお前らをからかってみたくなっただけで!」
「何を仰いますか草間さん! わたしはガチンコですよ!」
「俺はチンコじゃねえ!」
 いい年をした男共のあまりに稚拙なやりとりに、クミノがはあ、とため息をつく。そこへシュラインとトヨミチが駆けつけてきた。

「あら。ふたりとも無事なようで何よりだわ。あんなに飛ばされたからてっきり暫く這い上がれないかと思ってたけれど」
 あっけらかんとした口調でシュラインが言うと、クミノが彼女をじいと見上げ、やがて問い掛けた。
「エマさん、あのふたりがどこに落ちたか知ってたの?」
「大体はね。飛ばされて暫くしてから、グラウンドからだいぶ離れた場所から落下音が聞こえてきたものだからちょっと心配だったんだけど、杞憂で終わって何よりだったわ」
「でもあのふたり、頭でも打ったんじゃないかしら。さっきから変なことばかり言ってる」
 くすくす笑っているシュラインに、クミノは経緯を説明した。それを聞いた彼女は顎に手を当てて考えこんでいる。
「もしかして、また脳震盪かしら。ほら、ふたりともだいぶ高い場所から落下したでしょう。頭を打っていてもおかしくないわ。もしそうなら色くんのときみたいに一度意識チェックして、ベンチで休ませたほうがいいかもしれないわね」
「それは必要ないわ」
 心配そうなシュラインの台詞を、クミノが一瞬で否定した。
「あのふたりの頭が弱いのはいつものことだし、変なことばかり言うのもいつものこと。でもそんな奴らでも駒は駒。一気にふたつの駒に欠けられたらこの試合は終わる。二中の大勝で」
「それもそうだけど……」
 シュラインはしばし考え込んでいたが、やがてぱっと笑顔になった。
「そうね。ふたりとも打たれ強いタイプだからちょっとやそっとのことじゃ脳震盪になんてなるはずないわ。ほら、武彦さんなんて冥月さんに会うたび頭蹴られてるけど、一度も脳震盪なんて起こしたことなんてないし。大丈夫よね。うん」
 シュラインがくすくすと笑っている。実はその笑顔は作ったものだったのだけれど。

「草間君! 宇宙の旅は満喫できたかい!?」
「おおトヨミチ君! 聞いてくれ! 実は俺な、月のクレーターに『イケメン武彦参上!』って書いてきちゃったんだよ! もし天文なんたらの連中がそれを見つけたら大問題になるぜ!」
「やるな草間君……! 実は今、俺は少しばかり、君に嫉妬している」
「な、なんでまた!?」
「何でって、俺だってクレーターに名を刻みたかったのだ! 『ミツバ』でも『ハッピーマイナスワン』でもいい。刻むことさえできれば、俺はそのクレーターの名付け親になれるのだから……!」
「待った、トヨミチ君。ってことは、俺が書いたクレーターは?」
「君の想像通りさ。そのクレーターには『イケメン武彦参上!』という名が刻まれた。そして名付け親は、草間君、君だよ」
「何と! やべえ、俺、歴史に名を刻んじゃった!? どうせなら『キャプテン武彦』とか『エースストライカー武彦』とか『ミスターノーゴール武彦』とかのほうが良かったかな!? なぁトヨミチ君、どう思う!?」
「全く君は贅沢な悩みを持ったものだな。本来なら今の君の発言は俺の嫉妬心を一層煽るものであったのだがな。まあ、そこは朋友の君に免じて無かったことにしよう」
「トヨミチ君……!」
「あとは、そうだな……やっぱり草間君には『ミスターノーゴール武彦』が一番相応しいと思うのだが、どうかな?」
「やっぱりそうだよな! ああ、やっぱ書き直して来ようかな、俺」
「いやいやいや。月まで行くことのできる機会などなかなか訪れまい。今は『イケメン武彦』で充分じゃないか。そしていつか再び月面に立ったとき、君はまた別のクレーターの名付け親になればいいのさ。『ミスターノーゴール武彦』、とね」
「成る程! それは素晴らしい考えだ! トヨミチ君!」
「草間君!」
 お約束通り、がっちりと握手を交わすふたり。しかしトヨミチは内心彼にかなりの嫉妬心を抱いていたので、『ミスターノーゴール』を繰り返し強調することで密かに彼をこき下ろしていたのである。お馬鹿さんな武彦がそれに全く気付いていないのは言うまでも無い。

 いつしか自分を注目する者がいなくなった、という忌々しき事態に陥っていたことに気付いた暁空は、周りでわいわいと談笑しているチームメイトたちを見て「ぷん! だ!」とそっぽを向いてしまった。武彦はともかくシオンだ。また彼がワンダフルな発言の数々でもっておいしいところを全部持って行ってしまった。もし自分に彼のようなセンスがあったなら、自分は常に脚光を浴びていたかもしれないのに。ふつふつと嫉妬の念が沸き起こってきたそのとき、ふいに肩に誰かの手が置かれた。
 はっと振り返ると、穏やかな表情をした冥月がその場に立っていた。
「零も言っていたが、実にいい闘いを見せてもらった。あれほどまでに血がたぎったのは久しぶりだ……ゴールを奪われたことは気にするな。あの状況でボールではなく、遭えてカンフーキックに立ち向かうことを選択する、それでこそお前だろう。お前は自分自身の信念を貫いたんだ。何も悔いることも恥じることもない。堂々としていればいい」
「み、冥月さん……!」
 そのとき暁空の瞳には、冥月が女神のように映っていたのだという。



<-- scene 6-26 -->

 ――ずきん――ずきん――ずきん。
 足を踏み出すたび、ボールをコントロールすべく軽く蹴るたび、足首を鋭い痛みが襲ってくる。心なしかテーピングが緩くなっているような気がする。もっときつく巻いておくべきだったか。
 フェイントを入れるたび、相手を抜き去るたび、痛みが走る。だが顔を顰めたり声をあげたり不自然な動作をしてはいけない。いつもと変わらぬ姿を保っていなければならない。こんなことでピッチを去るのは絶対に、御免だ。
「草摩君! 後ろ来てるぞ!」
 三葉さんの声。顔だけ後ろにやると、赤い色が迫ってくるのが見えた。誰なのかはわからないが、速い。間違いなくボールを奪いにくる。奪われないためには。パスコースを探した。ターゲットは見つからない。奪われないためには。距離と角度はあるがコースは空いている。奪われないためには。大丈夫。足は痛くない。痛くなんかない。

 ひとりドリブルで疾走していた色が、相手ゴールから二十五メートル前後の位置から直接シュートを放った。かなりの角度のある難しいシュートだったが、なだらかな弧を描いたボールは相手ディフェンスの間を抜け、スピードに乗ってゴールへと向かって行く。
「そうはさせん!」
 瞬時に赤鼻が右斜め上へとジャンプする。そのグローブがシュートボールを弾いた。赤鼻が回転レシーブの如く転がり立ち上がる。弾かれたボールの先にはシュラインがいた。彼女はボールへと詰め寄ると、ゴール右斜め上を狙ってシュートを打った。
 しかし赤鼻の戻りは速かった。彼はシュラインがシュートした時点で既にゴール前へと戻っており、今度は左斜め上へとジャンプ。逞しい両腕を伸ばし、ボールをもぎ取った。そして着地するなりロングボールを送り出す。

 赤鼻のボールを受けたのは二中のナマドーラ。彼はリオンと、相手陣から戻ってきたトヨミチのふたりに囲まれるもまるで動じず、ふたりの隙間を縫うように前方へとパスを出した。そこに待ち構えていたのはあのキングである。そのとてつもない能力を肌で感じているブルーサンダースディフェンス陣が彼の元へと走り寄る。しかし、てっきり例の如くゴール一直線に突き進むかと思いきや、恐らく機嫌が良かったのであろう、彼はワントラップでボールを左へと出した。あの俺様男がパスを出したのだ。
 そこにはフリーになっていた小さなドリブラーが走りこんでいた。彼は自分のスピードを殺すことなくボールを受け、流れるようなスピードドリブルで前進していく。今、彼の前には誰もいない。キングを警戒したクミノの戻りが遅れたのだ。

 ペナルティーエリア直前で、ようやくクミノが彼の横へと追いついた。彼のプレーの真髄は正確なキックにある。この位置から直接フリーキックに等しい変化するボールでゴールを奪うこともできる。正確なアシストパスもある。彼はどのように動くのか。クミノが警戒しながら彼の足元を凝視する。
 小さなドリブラーはクミノと距離を置くように二、三軽いフェイントを入れつつペナルティーエリア内へと進入してきた。そして走りながらなお、ボールを蹴る素振りを何度か繰り返す。直接シュートに来るのか、それともパスを出すのか。両方守りきるのは不可能だ。ならば彼にシュートを蹴らせないことを選択した方が良い。幸いゴール前には黄金の隼しかおらず、彼をマークするディフェンス陣はしっかり集結している。パスを出されたところで、得点を奪われる可能性は低い。クミノは彼のシュートコースを狭めるべく左足を一歩、大きく彼の前へと踏み出した。
 しかし。小さなドリブラーは何の躊躇も見せず左へと強いパスを出した。
 はじめからそのつもりだったのか。クミノがボールの行方を追うと、ペナルティーエリア中央付近で黄金の隼がボールを待ち構えていた。しかしディフェンス陣の三人はゴール前にしっかり位置取り彼のシュートを警戒している。黄金の隼の向こう側ではロン毛がフリー状態でうろうろしている。彼にパスを出し、一旦体勢を立て直すという可能性も大いに有り得る。

 小さなドリブラーのパスは寸分の違いもなく黄金の隼の右足へと収まった。彼がその絶好球に右足でワントラップを入れる。そのボールは若干右側へと浮き、彼の頭の位置まで上がった。すると黄金の隼は瞬時に身体を左方向へと反転させ、その長い足でボールをとらえると同時に強烈なボレーシュートを放ったのだ。
 三人待ち構えていたディフェンス陣の誰もが反応できない程の意外性に富んだスピードボール。辛うじてそれに反応した暁空がすぐさま右へと跳んだが、ポストの反動を得ていない今は暁空の脚力のみでの勝負となる。強烈なシュートボールは暁空の手刀を掠りもせず、力強くゴールネットを突き刺した。

「すげーーーーー!」
「何今のシュート! すげーしカッコイイ! 俺あの人になる!」
「お前鏡見てから物言えよ。俺のほうが断然あの人そっくりだぜ!」
「うわあ、試合見てて良かった……!」
 ブルーサンダースベンチで観戦していた少年たちが口々に賞賛の声をあげる中、黄金の隼は優等生という肩書きとは裏腹に両腕を大きく広げ、高らかな声で吼えながらグラウンド内を走りまくっている。やがて駆け寄ってきた小さなドリブラーとハイタッチするなりお互いがお互いに抱きつく。そこへ他の選手たちが駆け寄っては次々ジャンプして抱きつき、大きな彼のスーパーゴールと小さな彼の名アシストを祝福しつづけた。

 点差はわずか1点。残り時間は間もなく十五分を切るところだ。二中ならば十五分もあれば同点どころか逆転も可能。それに反撃するにも時間は少なくなる一方だ。ブルーサンダースの選手たちが一様に焦りの表情を見せだしたそのとき、
「冥月、零、リオン、集合して!」
 クミノが、大声で彼らへと集まるよう促した。



<-- scene 6-27 -->

 クミノを中心に、ディフェンダーの冥月と零、それからボランチのリオンが何やら話し込んでいる。ディフェンス陣の作戦会議から自分だけが外されたと思った武彦は、頬をぷうと膨らませていじけた顔をしていたが、ふと、あることに気付いた。
「あれ、シオンまたいなくないか?」
 と言うなりきょろきょろ辺りを見回す武彦。それにつられたかのように、近くにいたトヨミチとシュラインも彼と同様の仕草でもってシオンを探している。やがてシュラインの動きが止まった。とある一点をじいと見ていた彼女が、がくりと肩を落とす。
「……もしかして、アレ、じゃないかしら」
 シュラインが何ともいえない微妙な表情で自陣ベンチを指差した。武彦とトヨミチもすぐさまそちらへと視線をやり、ややあって無言になった。というのもシオンは、ベンチに座っている子供たちの前をファッションショーのモデルの如くクネクネ歩いては、ところどころにフェイントもといエレガントな決めポーズを取り、首に巻かれたスカーフを無造作に揺らす。そしてまたクネクネ歩きを開始、子供たちの真ん中辺りで立ち止まると、今度はどこからともなくお箸を取り出しエレガントな決めポーズ。というのを延々と繰り返しているのであった。だが子供たちの誰もが彼を注目などしていない。それでもなおクネクネと歩き回るシオン。シュライン、武彦、トヨミチ、三者が空しさ全開モードの彼を憐れみ、そっとため息をついた。
「そういえば、草摩君の姿も見えないようだが」
 ふとトヨミチが呟いた言葉に武彦がすかさず反応し、
「本当だ。どこ行ったんだあいつ。もしかして具合でも悪くなったのか?」
 と言うなりベンチへと歩き出す。そこへシュラインが小走りで駆け寄り、その腕を掴んで止めた。
「何だよ。選手を大切にするこのキャプテン武彦が様子見に行っちゃ悪いのか?」
 不服そうな武彦に、シュラインが頭をゆっくり横に振る。
「違うの。彼はトイレに行ったのよ。さっき走っていくのが見えたわ」
 シュラインが公衆トイレのある方向を指差すと、武彦が納得したように深く頷いた。
「その気持ち、良くわかるぞ。俺だっていきなり腹がピーピー言い出すときもあるからな。よし、思う存分出してこい!」
 デリカシー皆無の発言に、シュラインは少しばかりむっとした表情で武彦を見た。

 そのとき色は自陣ベンチの最奥、誰からも見えない場所で足首のテーピングを外しているところだった。外し終わったテーピングとそれについてきた湿布剤を例の如くぐしゃぐしゃに丸め潰し、くずかごに放り投げる。それから足元へと視線を落とした。
 足首の腫れが、前より大きくなっている。触ってみると、熱もかなり持っているようだった。色は心の中で「こん畜生!」と叫びながら、救急箱を漁った。コールドスプレーをかけ過ぎなくらい大量に吹き付けても、冷やされるのは一時的ですぐにまた熱が戻ってくるのがわかる。だが今はこれしか方法がないのだ。色は足首の感覚が麻痺するまでコールドスプレーを吹き付け、暑さで温んでいる湿布剤をそこへ貼るなりまたも上からコールドスプレーをかけまくった。それから太いテーピングを何本か千切り、くるぶしを中心に放射状に貼り付けていく。その端を長めに切ったテーピング数本を使って固定し、それから足首からかかとにかけて、長いテーピングをきつくきつく巻き付けていった。そしてその上から更に足首周りを重点的に固定していく。
 ソックスを履いた時点で普段より足首まわりが太くなっているのがすぐにわかる。スパイクに足を通すと相当きつく、紐が緩んでしまう。色はその紐を強く強く引っ張りながら、スパイクの紐を結び終えた。
 救急箱を仕舞い終えると、色はそろりそろりと足音を立てないようにベンチスペースから出ようとしたのだが、その足が止まった。ベンチ前で、シオンが妙ちきりんな動きで歩き回っているのである。
 これはマズイ。色はどこか他に外に出られるところがないか探し回った。すると丁度死角だったところに錆び付いたドアが設置されているのを発見した。そっとドアノブを回すと、キイ、という耳障りな音がしたが、回り切った。そのままドアノブを前方へと押してみる。しかしドアは軋んでばかりで開いてくれない。色はドアに両手を置き、ありったけの力を込めて押した。するとようやく、耳障りな金属音を撒き散らしながらもドアが開いた。外に出るなりすぐさまそれを閉め、色は自陣ピッチへと戻って行った。

「おお、色! 出せるだけ出してきたか!? 腹ゴロピーは辛いだろう!?」
 戻るなり、いきなり武彦が意味不明なことを言ってきたので、色は言葉に詰まってしまった。
「ん? 何だ? ひり出し切れなかったのか?」
「もう。汚いことばかり言わないでよ。ほんとデリカシーのかけらもないんだから」
 追い討ちをかけてくる武彦を腕で制したのはシュラインだった。彼女は色の顔をじっと見ていたが、やがて口を開いた。
「色くんは普通にトイレに行ってたのよね。別におなか壊したりなんかしてないわよね」
「え? あ、うん。腹は全然平気」
「ほら言ったでしょう武彦さん。彼は普通に用を足しに行ってただけなの。勝手なこと言わないでよね」
「ああ……まああれだ。別に腹ゴロピーじゃなくても便所は使うしな。便所は万人の友と言ってもいいくらいだ」
「草間君はそうかもしれないが……俺は、トイレを朋友とは呼びたくないな」
「そんな! トヨミチ君!?」
 目の前で展開されている漫才じみたやりとりに、色はぽかんと呆けていたが、やがて気付いた。
 シュラインは、自分が怪我をしていることを知っている。だから自分はトイレに行ったなどと言ってベンチにはいなかったということを強調したのだ。
 普段の彼女ならば、怪我に気付いた時点でプレーを止めさせたに違いない。だがそうはしなかった。きっと彼女は、自分がこの後半戦にどれほどの思いをかけているかを知っている。だからあのとき自分をベンチに下げず、「絶対に無理しないで」とだけ言ったのだ。それなのに無茶なプレーをし続けた自分は、彼女にどれだけの心配をかけたことだろう。

 色はそっとシュラインの元へと歩み寄ると、小さな声でその名を呼んだ。
「シュラインさん」
「何?」
 くるりと振り向く彼女の表情は普段通りの笑顔。今の色にはその笑顔が痛かった。
「ゴメン。知ってたんだろ、俺の、その……」
「何も言わなくていいわ」
 シュラインは人差し指を色の口元に当てると、優しく微笑んだ。
「色くんの足のことは知ってたわ。痛そうで辛そうなことも。でも私には、あなたを止める権利はないの。プレーを続けるかどうかは他の誰でもなく、色くん自身が決断するべきことだから。だから色くんは何も言わなくていいし、私も何も言わないわ」
 小声で話されたその内容は、色の心に大きく響いた。
「でも」
 鋭い響きの声に、色の身体がぴくりと動いた。そんな色を見て、シュラインがくすくす笑う。
「違うの。何も言わないって言ったでしょう? 私が言いたかったのは、それでもやっぱり心配しちゃうのよね、ってこと。これが老婆心ってやつなのかしら」
 シュラインが『老婆心』という言葉を強調しつつ肩をすくめて笑ってみせたのに対し、色はぶるぶると首を振った。
「いやいやいや! シュラインさん若えじゃん! ピッチピチじゃん! 老婆なんかじゃねーって!」
「ピッチピチは言い過ぎよ……あ。もしかしてあんた、私の服がピッチピチだって言いたいわけ?」
「いやいやいや! 確かに胸はピッチピチだけど!」
「やあねえ。どうせいつも胸ばっかり見てんでしょ」
「ちーがーうー!」
 色が顔を真っ赤にしながら悲痛な叫びをあげると、シュラインは彼を指差しながらぷぷっと吹いた。
「何だよ!」
「ゴメン。さっきのはジョーク。それにしても色くんって面白いわね。からかい甲斐があるわ」
「いやいやいや! もうこれ以上はマジ勘弁!」
「あら。これからもからかうなんて別に言ってないけど? 『からかい甲斐がある』って言っただけよ?」
 シュラインの話術に完全に敗北した色は、がっくりと肩を落とし、その場にぺたりと座り込んだ。

 一方のディフェンス陣は延々話し込んでいたが、その話し合いもようやく終焉を迎えつつあった。
「じゃあ、異論がなければこれで行くけど、いい?」
 クミノが全員を見回すと、零がこくりと頷き、冥月も「いいだろう」と肯定した。しかし黙ったままの男がひとり、いる。
「リオンさん、何かある?」
「や、クミノちゃんの提案自体は良くわかったんだけど……でもリスクが高すぎやしないか?」
「リスク? 少なくとも普通に攻められるよりは格段に減るはずよ」
「や、そうは言ってもさあ、相手がド素人ならともかく、二中だぜ? 全員易々決める力持ってるんじゃ」
「大丈夫」
 食い下がるリオンを止めるかのように、はっきりとした口調で一言発したクミノ。彼女はふいに後方へと顔を向けると、
「ブルーサンダースには素晴らしい守護神がいる。だから大丈夫。何も心配することないわ」
 と、後方でボールを弄んでいるマイペースな男――暁空を見た。



<-- scene 6-28 -->

 さっき、クミノは彼をこう評した。素晴らしい守護神、と。どうもそのときのクミノの表情がいつもと違っていた気がしてならない。やはり彼女は暁空のことを? トヨミチが言っていたように、フィールド上で恋心が芽生えてしまったのか?
「リオン! 何のろのろしてるんだ! パスでも出せ、パス!」
 妄想していたところにいきなり武彦から激をとばされ、動揺したリオンはとりあえず前へとボールを蹴った。しかしそれは味方選手へではなく、ロン毛へのナイスパスになってしまった。
「あああ! クミノちゃんが俺の心を惑わすから!」
「そんな覚えなんてこれっぽっちもないわ」
 頭を抱えるリオンを見ながら、クミノが親指と人差し指をぴったりくっつけて『これっぽっち』の度合いを示した。

 ロン毛が零の前へと疾走していく。零は彼へと詰め寄りシュートコースを塞ぐと、腰を落とした姿勢でじりじりと後退していく。ロン毛は右へ左へと視線をやりパスコースを探していたが、獅子王と黄金の隼にはそれぞれマークがついているためパスを出すのは難しい。一旦ボールを下げることも考えたが、自分は未だに得点を挙げていない身だ。そして今自分についているのは小さな女の子ひとり。ここで決めておくのも悪くないだろう。ロン毛は一気に彼女を抜き去りシュートを打とうとした。が。ユニフォームの裾をとてつもない力で引っ張られ、激しく転倒してしまった。
 主審のホイッスルが鳴る。彼は零の元へと歩いて行くと、胸ポケットからカードを取り出し、彼女の前へと掲げた。
「い、イエローのエンゼルカードではないですか!」
 フィールドの真ん中で羨ましそうな声をあげたのはシオンだ。しかし他のオフェンス陣は彼とは全く対称的な表情でそれを見つめていた。ペナルティーエリア内でのファウルがもたらすもの、それはペナルティーキック。ここで決められてしまえば同点になってしまう。試合は振り出しに戻ってしまうのだ。

「よっしゃ、俺の出番だな」
 暁空がゴール前に立ち、いつでも来い! とでも言いたげにグローブをばしばし叩いている。その彼の姿を見たクミノの顔色が変わった。もしかして、忘れているのか?
 既にキッカーのロン毛が準備している。普段ならば大砲やキングが蹴りそうなものだが、恐らくロン毛は「俺が取ったPKなんだから俺が蹴る」という主張でシュート権利をもぎ取ったのであろう。
 とにかく時間がない。クミノが慌てて彼へと駆け寄ろうとした、そのとき。
「紫東さん、ソックスずれてるわよ。直したほうがいいわ」
 いつの間にか近くに来ていたシュラインのその言葉に、クミノと暁空の瞳が大きく見開かれた。
「あ。ホントだ。ずれてた。履きなおさないと」
 暁空はそう言うと、フィールドへと背を向けて地面に座り込んだ。それを見送ったクミノは、シュラインへと近づいて行くと、
「聞いてたの?」
 たった一言、そう訊いた。するとシュラインはかぶりを振り、
「聞こえちゃうのよね。私って地獄耳だから」
 そう言いながら苦笑した。

「おーい。キーパーまだぁー?」
 ロン毛がペナルティーマークの上に置かれているボールに座りながらゆーらゆーら揺れている。この男は顔だけ見れば端正なのだが、ダラダラした口調と人を小馬鹿にした態度、そして頭の弱そうなところがそれを帳消しにしている。
「あ、わりい。今終わったから!」
 暁空がすっくと立ち上がり、ぴょいんぴょいんとジャンプした。それからゴールライン上に立ち、グローブをばしんばしん叩く。
「よーし。いつでも来い!」
 暁空が腰を落とし、両腕を広げた。それを見たロン毛が立ち上がり、ボールをもう一度ペナルティーマークへと置き直す。そしてゴールからやや離れたところに位置を取った。
 両者の状態を確認した主審がペナルティーキック開始のホイッスルを鳴らすと、ロン毛が短い助走からシュートを打つ姿勢に入った。その瞬間、暁空の身体が動く。ロン毛が放ったシュートはゴール左下へと迫り来るスピードボール。しかし暁空はシュートボールと全く同じ方向へと瞬時にジャンプしていた。
 暁空の両腕が、ボールをしっかりと掴んだ。

「おおおおおおおおおお!」
「すげ! 完全に読んでたぜあれ!」
「ああああアッキー!」
 緊迫感に包まれていたブルーサンダース一同が、同時に歓声を上げ、暁空へと駆け寄って行く。ひとりひとりのダイブを受け止めおんぶにだっこ状態になりながらも、暁空は視線を動かしクミノとシュラインの姿を見つけ、小さく親指を立ててみせた。



<-- scene 6-29 -->

 黄金の隼が、ペナルティーマークに静かにボールを置いた。その向こうでは暁空がゴールの中でソックスを直していたが、やがて立ち上がるとくるりと反転、両腕を広げて「いつでも来い」のアピールをした。
 いつの間に後半戦どころか延長戦までぶっ飛ばしてPK戦になったのか。というわけではなく、またブルーサンダースによるペナルティーエリア内でのファウルが発生したのだ。今回の戦犯はリオン。だが彼はさすがにサッカー好きだけあって、ただのファウルとカード付きファウルの線引きはしっかりできている。彼の絶妙なファウルは黄金の隼をその場に転がせはしたが、それによるカードが出されることはなかった。
 やがて主審の笛が鳴った。しかし黄金の隼はすぐには動かずその場に立っている。彼はじいとゴールを見ると、ようやく助走を開始した。短めの助走からその長い足でボールを蹴りつける。
 先程のロン毛と同じ、暁空から見て左側へのシュートだった。だが高さが違う。彼はゴール上隅を狙ったようだった。しかし暁空はそれをすっかり読んでいたかのようにすぐさまジャンプし、左上隅へと向かって来ようとしているボールをキャッチしたのだ。
 黄金の隼が、そして周りにいた赤いユニフォーム姿が、呆然と暁空を見ている。

 『三度目の正直』か、『二度あることは三度ある』か。続くキッカーは鬼軍曹だった。ファウルを犯したのは冥月(彼女もカードは出されなかった)、やられたのはまたしてもロン毛だったのだが、先のPKを完全に読まれていたことからさすがに蹴る気にならなかったらしい。ここは堅実な鬼軍曹のキックに期待することにしたようだった。
 一方の暁空は、そそくさとソックスのずれを直すなりぱっと振り向き両腕を広げた。それと同時に鬼軍曹がボールから離れ、踵を返しゴールを睨みつける。双方、準備完了の合図だった。
 ホイッスルと同時に鬼軍曹がゆっくりと助走を開始する。先のふたりと比べると助走の距離が長い。彼は助走をしながらキーパーの動向を伺っているようだった。暁空はゴールライン上に立ったまま、動く気配はない。しかし鬼軍曹がシュートモーションに入ったそのとき、暁空がほんの少し左に動いた。それを見た鬼軍曹は、彼が動いたのとは反対の、鬼軍曹から見て左側へとシュートを打った。
 その瞬間、鬼軍曹の表情がわずかに強張る。逆に動き出そうとしていたはずの暁空が、シュートコースに向かって跳んだのだ。暁空がグラウンダー気味のボールを地面に押さえつけるようにセーブする。当然ボールは、ゴールラインを割っていない。
 青と白のユニフォーム姿が一斉に跳び上がり、暁空へと歓声を送る。しかし鬼軍曹の耳には何の音も届いていないようだった。無表情のまま「信じられん」と呟いた彼の視線の先にいたのは、他の誰でもない、暁空であった。

 こうなったらファウルされる前にゴールを決めるよりほかない。二中フォワード陣は焦っていた。ロン毛がペナルティーエリア内へとドリブル進入するなりクミノがその前に現れ、ファウルを恐れることなく向かってくる。ロン毛は一旦ボールを下げざるを得ない。丁度近くにあがってきていた小さなドリブラーへとボールを渡す。彼が中央を走りこんできたキングの足元へと寸分の狂いの無い強いパスを出すと、キングはそのままの勢いでペナルティーエリア内へと前進する。
 迫り来る重戦車。彼を抑えるにはイエロー覚悟のファウルをしなければならない。まだカードを貰っていないリオンが彼のユニフォームの裾を引っ張るも、キングはその強靭なフィジカルでそれを払いのけ、シュート体勢に入った。
 そこへクミノが走りこむ。彼女が両手を前に出しながら彼の足元へとジャンプしたその瞬間、キングの強力なシュートが放たれた。ボールと腕がぶつかる激しい音が響く。
「ハンドだ!」
 キングが声を荒げるなり、主審がホイッスルを吹いた。

「クミノさん! 大丈夫ですか!?」
 すぐさま零が駆け寄り、クミノの様子を見た。あのキングのシュートボールを至近距離で受けたものだから、クミノの両腕は真っ赤になっている。しかしクミノは、
「平気よ」
 と、痛い素振りなど微塵たりとも見せずにすっくと立ち上がった。
「これくらい、普段の仕事と比べたら何でもないわ」
「でも真っ赤に腫れてます。とても痛そうです」
 零がクミノの腕を取り、いたわるようにそっと撫でる。クミノは苦笑しつつも暫くそうさせていたが、やがて「もういいわ」とその動作を遮り、止めさせた。
「ありがとう。でも本当に平気だから、心配しないで」
「はい。わかりました。じゃあ心配しません!」
 高らかに宣言する零。彼女の単純明快な思考回路を想像し、クミノはまた苦笑した。



<-- scene 6-30 -->

「ったく、何だってんだあの反則野郎共はよお! 俺の手を煩わせんじゃねえ!」
 ぶつくさ言いながら、キングがペナルティーマークにボールを置いている。どうやら彼が蹴るらしい。一方の暁空は例によって、フィールドに背を向けながらソックスを直している。クミノはフッと笑うと、キングの元へと歩いて行った。それに気付いたキングが「何だあ?」とクミノを睨みつける。その様子からすると、余程機嫌が悪いらしい。
「おめー、さっきのガキだな? 何の用だ? もしさっきのハンドを謝りに来たっつうなら聞いてやってもいいぜ」
 キングがそう言うと、クミノはぷっ、と吹きだした。その瞬間キングの形相が一変する。
「何だぁ? この俺をバカにしてんのか? ガキ相手でも容赦しねえ男だぞ俺は!」
「いいえ。別にバカにするつもりはないの。ただ」
「何だ?」
「こんなガキの両腕に容易く防がれるようなシュートを打った男が、ペナルティーキックなんて決められるわけがない。誰かに代わってもらった方がいいんじゃないの? ってアドバイスしようと思っただけ」
 さらりとした毒舌に、キングがいきり立った。
「こんのガキ! おめーも俺のカンフーキック食らいてえのか!? おい!?」
「紫東さんにあっさり止められるようなカンフーキックじゃたかが知れてるから、食らう価値なんてないわ」
「何だとおおおおおおおおおお!?」
 一方は嘲笑、もう一方は憤怒の表情。そこにシュラインと鬼軍曹が割って入り、ふたりを宥める。
「クミノちゃん、挑発はやめて。あんまり言ってると退場になっちゃうわよ」
「この馬鹿が! あんな小さな娘の挑発に乗ってどうする! 頭を冷やせ!」
 ふたりの言葉に、クミノはすぐにその場から離れ、キングはなおもクミノを睨みつけていたが鬼軍曹にがっつり頭を殴られ、ギャーギャーわめきながらも引き下がった。

 やがて暁空がぱっと立ち上がり、ゴールライン上で両腕を広げた。暁空はキングをじいと見ると、
「さあ、来い! 裸の王様! ちゃんと枠狙って蹴れよ? 枠外シュートじゃあキャッチできなくてつまんないからな!」
 と大声で言いながら片手でちょいちょいと手招きをした。それを聞いたキングの表情がまたも憤怒の形相に変わる。
「おめーら……この俺をおちょくるのもいい加減にしとけよ!? おい!?」
 キングが怒りで全身を震わせているうちに、主審のホイッスルが鳴った。
 彼ははボールからかなり遠い場所で助走を開始すると、一気にトップスピードに乗った。
「食らえええええええええええ!」
 吼えながら、キングがボールを破裂させんばかりの強烈なシュートを放つ。その途端、キングの表情が一変した。暁空はというと、その場でボールの軌道をぼうと追っている。ボールはグラウンド周辺の木々を越え、視界から消えてしまった。
「ななな何と、キング選手の場外ホームランが炸裂しましたー!」
 トヨミチが野球のアナウンサーのようにそう告げると、ブルーサンダース一同がキングを称える拍手を送った。
「こんの野郎がぁ!」
 怒り心頭のキングが、たまたま手近にいた青いユニフォーム姿にカンフーキックを炸裂させた。
「はうぅ!」
 不幸な男、三下がその場に倒れこむ。そこへ主審が駆けつけてきた。主審は尻ポケットからカードを取り出すと、キングの前へと高らかに掲げた。そのカードの色は、赤。
「あ、あれは! 赤のエンゼルちゃん!!!」
 シオンが羨望のまなざしでレッドカードを指差すと、辺りからどよめきの声があがった。
「おめー、この俺を退場させるつもりたあいい度胸してんじゃねえか! おめーもカンフーキック食らいてえのか? おい!?」
 キングが凄みをきかせながら主審へと詰め寄っていく。しかしこのときばかりは主審も引き下がらなかった。これまで彼の明らかなファウルプレイを全て見逃していたことへのお詫びのつもりなのかもしれない。主審はわずかに震えながらも、淡々とした口調でもって言い放った。
「何を言おうとも退場は退場です。フィールドから出てください」
 愚かな王様は、自滅してしまった。



<-- scene 6-31 -->

 キングがベンチへと消えた後、ブルーサンダースの選手が一斉に三下の元へと駆け寄った。
「ナイス三下! お前の尊い犠牲のおかげであのキングがいなくなったぞ! 安心して成仏してくれ!」
「ぼ、ボクはまだ生きてますぅ……」
 嬉々とした表情で三下の手を握った武彦に、三下がか細い声で抗議する。それを見たトヨミチが「成る程」と呟いた。
「さすが普段からあの碇君に蹴られ踏まれているだけはある。あのキックを食らってなおも生き延びているとは……」
「そうか! いつもヘマばかりしてボコられていたのは、この日のための布石だったのか!」
「その通りだ、草間君!」
「トヨミチ君!」
 武彦が三下の手を即行離し、トヨミチと握手を交わした。

「よし! これで数的不利は解消された! ようやく俺たちは奴らと同数で試合をできるようになったんだ!」
「え? こっちは11人、二中は10人になったわけでしょう? どうしてそれが同数になるの?」
 武彦の謎発言にシュラインが不思議そうな顔をすると、武彦はがばりと振り返って力説した。
「いや、こっちは元から10人だったじゃないか! だって三下がいるんだぞ? 奴は数には入らないだろう?」
「確かにその通りだな」
 冥月がフッと笑ったのに対し、シュラインは哀れむような視線で三下を見ていた。
「これで勝利は俺たちのものだ! 行くぞ! クサ」
「「「「「ブルーサンダース!」」」」」
 武彦の声を、ブルーサンダース一同がかき消した。

 自陣ベンチに戻るなり、キングが手頃な位置にあったベンチを思いっきり蹴りつけた。ベンチが壁に当たり、ひしゃげて落ちる。周りの選手の大半は、自分にとばっちりが来ませんようにと祈りつつ、彼から目を逸らしている。
「あのクソ審判め」
 キングはそう呟きながら、空いているベンチにどっかりと座った。そこに困った顔をした彼がやってきて、キングの上着とタオル、スポーツドリンクをそっと差し出した。キングは黙ったままそれを受け取ると、顔をあげて困った顔の彼をじいと見た。彼の身体がぴくりと竦む。
「あの、何か……?」
 おずおずと問い掛ける彼に、キングがぼそりと言った。
「お前ら、出ろ」
「え?」
 困った顔の彼がぽかんと口を開けたまま静止する。そこへすかさず駆けつけてきたのはずんぐりとした体格の少年だった。
「お前らってことは、俺たちのことっすよね!? マジ!? 出ちゃっていいの!?」
 ずんぐりとした彼が困った顔の彼を押しのけキングへと問うと、キングは「ああ」と頷いた。
「おめーらで、あの素人共に本物のサッカーを見せつけてやれ。いいな? おい?」
「ラジャー!」
 ずんぐりとした彼が笑顔でキングに敬礼する。それから遠くのベンチで寝ていた老け顔の少年へと駆け寄り、叩き起こす。
「……あんだよ」
「出番だぜ、俺らの」
「あ、そう」
 老け顔の少年は大したリアクションもないままにのろりと身体を起こし、大あくびをした。
「残り時間、何分? 点差は?」
「わかんね。おーい泣き虫ベベちゃん、残りあと何分だ?」
 ずんぐりとした少年が困った顔の彼へと声をかけると、彼は少しばかり不服そうな顔をしながらも時計を見て答えた。
「十分切ったところ」
「点差は?」
「相手が1点リードしてるところ」
「ふーん」
 老け顔の彼は無表情のままスパイクを履きだし、ぽつりと言った。
「余裕だな」



<-- scene 6-32 -->

 勢いに乗ったブルーサンダースがひたすら攻め続けている。鬼軍曹と大砲の手堅いディフェンスや赤鼻の好セーブに阻まれ得点こそあげられずにいるが、こぼれ球もすかさず拾い、次の攻撃へと繋げて行く。青いユニフォームの群れが、ボールを完全に支配していた。
 オーバーラップしていた冥月が、ペナルティーエリアからやや離れた場所からシュートを放つ。スライダー回転のかかったシュートボールは赤鼻の虚を突いたが、さすがは中学サッカー界ナンバーワンキーパー。シュウマイを拾っているときとは全く違う険しい形相で、ボールをパンチングで弾いた。
 弾かれたボールには色が迫って来ていた。大砲がそこに割って入るようにボールの軌道上へと駆けつけ、大きくクリアする。クリアされたボールがタッチラインを割ったそのとき、主審が短く笛を鳴らした。

「選手こーたーあい!」
 センターライン付近に立っているひとりの少年が大声で言った。彼のうしろにもふたり、選手が控えている。そこへ鬼軍曹が血相を変えて駆けつけた。
「誰が選手交代を認めるなどと言った!? 俺はそんなもん一言も聞いてないぞ!」
「や、ウチのワガママな王様がそう仰ったので」
 一番前に立っている少年がそう言うと、鬼軍曹はベンチをじろりと睨みつけ、「ったくあの男は!」と吐き捨てた。
「ま、そーゆーことなんで、さくっと選手交代しちゃいますか」
 少年はそう言うと、フィールド内に大声を響かせた。
「フォワード全こーたーあい!」
 それを聞いた現フォワード陣が「何!?」と振り向いた。

「あれ、あいつ……」
 選手交代を待っている二中選手たちのひとりを見て、色が首を傾げた。それを見たシュラインが彼に問い掛ける。
「あの子がどうかしたの?」
「いや、さっき脳震盪起こした後、面倒見てくれた奴なんだけどさ。てっきりマネージャーとばかり思ってたんだけど」
「違う。彼も立派なフィールドプレイヤーよ」
 いつの間にか近くに来ていたクミノがそう言うと、色は「マジかよ!?」と仰天した。クミノは相手が交代のことで何やらもめているのを見て、すぐさま自軍選手全員を集合させた。

「手短かに話すわね。まず11番。二年。あのずんぐりした体型の小さな男。彼はフォワード、だけど中盤をこなせるだけの卓越したテクニックを備えていて、それを駆使してディフェンダーやキーパーを翻弄する選手。さらに天性の勘と優れたポジショニング能力を持ち、小さいながらヘディングにも強い。本来ならば二中のレギュラーになってもいい選手なんだけど、素行の悪さが目立つことから出場機会は与えられていないわ。そんな彼を二中の三年は『悪童』と呼んでいるそうよ」
 クミノはふうと息をつくと、次の選手について話しだした。
「14番。二年。老けた顔と体型が二中のナマドーラと似てるけど、違う選手だから見間違えないように。彼もフォワード。小学生時代から足の速さは有名で、百メートル走で区の記録を塗り替えたこともある。スピードに加え安定したボディバランスを持っているから、彼を止めるのはかなり苦労するはずよ。更に、彼の利き足の左から繰り出されるボールは正確かつ変化に富んでいるからパスもあればミドルの位置から直接ゴールを狙うこともある。無表情だから動きを読むのも難しいかもしれない。ただ、やっぱり彼も素行が悪くてコーチや先輩連中には疎まれているようね」
 そう言うと、クミノは先程色が「マネージャーだと思ってた」と言った選手へと話を移した。
「最後。13番。二年。あの眉毛の下がった、泣きそうな顔した男ね。彼もフォワードだけど、さっきのふたりに比べると前線から中盤まで幅広く動き回るタイプ。というのもとても安定感のある選手でどんなプレーもそつなくこなすことができるから、上の選手にパスを供給したり、ときには素早さを活かして自らゴールに突っ込んで行ったり、実に多彩なプレーを見せてくれるわ。特に、小学生のころからツートップを組んでいた悪童とのコンビネーションは秀逸。小さいし顔も情けないけど、サッカーセンスは一級品だから甘く見ないように。彼は顔立ちのせいか本当に泣き虫なのかはわからないけど、悪童からは『泣き虫ベベちゃん』なんて呼ばれてるみたい。以上、何か質問はある?」
 クミノが皆をぐるりと見回すと、それぞれうーむと考えこんでいるようだったが、やがて暁空が口を開いた。
「あのさあ」
「何?」
「『悪童』、『ナマドラもどき』、『ベベちゃん』、でいいのかな」
「え?」
「あだ名だよ。俺、数字で覚えるの苦手なんだ」
「なら、それでいいんじゃないかしら」
「オッケ。全員覚えた」
 暁空がパンパンとグローブを鳴らした。

 二中の選手交代に関する揉め事は暫く続いていたが、やがてロン毛と黄金の隼、小さなドリブラーが下がるということに落ち着いたようだった。彼らがベンチへと戻って行くのを見た色が「あ?」と声をあげる。
「どうした?」
 冥月が問うと、色は指を四本立てた。
「下がったのがフォワードふたりと中盤、入ったのが全員フォワードだろ? てことはフォワード四人なわけ?」
「それもあるだろうな。ここに来ての選手交代ということは、フォワードの数で圧倒し得点を量産する方向なのかもしれない」
 神妙な顔をした冥月を見て、色が「マジかよ」と肩を落とす。そこへ武彦がやってきて彼の肩をばしばし叩いた。
「なーに。こっちにはこの『ミスターノーゴール』武彦がいるんだぞ。そう簡単に点などやってたまるもんか」
 そしてニヤリと笑う。それを見た色はぱっと笑顔になってうんうん頷いた。
「だよな! 何つったってこっちには草間さんがいるんだもんな! 全っ然問題ねーな、うん!」
「つーか選手交代終わりそうですよ。早く自分のポジション戻んないと」
 リオンがそう促すと、青と白のユニフォーム姿が慌ててピッチに散らばっていった。



<-- scene 6-33 -->

 リオンのフリースローがトヨミチへと渡る。トヨミチが上がったままの冥月にパスを出したその瞬間、『ナマドラもどき』がすっと出てきてボールをカット、獅子王へと大きくパスを出した。その瞬間、ナマドラもどきをはじめとした相手フォワード陣がブルーサンダース陣へとダッシュを開始する。リオンとトヨミチがそれを追うも、彼らの速さに追いつくことができない。疲れのせいか煙草のせいかはわからないが、おそらく前者だろう。ブルーサンダースの選手たちは皆、前半後半通して走りつづけてきたのだから。

 ひとり追いかける冥月と前に出てきた零が、獅子王を前後から挟む。しかし獅子王はすぐさま横へとパスを出した。そこに走りこんでいたのは『ベベちゃん』。彼は滑らかなタッチでボールをコントロールすると、更にその横にいる『悪童』へとボールを送った。武彦が彼へと詰め寄るも、足に吸い付くようなフェイントであっさりかわされてしまう。
 左サイドバックのクミノがすぐさま武彦のフォローに入り、悪童と対峙した。悪童はペナルティーエリアの外にいる。先程までのように中に誘い込んでファウルを取ることも考えたが、クミノは既にイエローを一枚持っている。彼の実力がデータ上でしかわからない今それを実行するのはあまりにも危険だ。
 クミノはちらと背後に目をやり、武彦と零がセンターバックのポジションに戻っていることを確認した。ここで悪童に抜かれてもまだフォローがある。クミノは腰を低くして悪童の足元を凝視した。彼はいつ、どちらに動いてくるのか。
 しかし悪童はクミノが全く予想していなかった場所へとヒールパスを出した。見ると、普段は逆サイドにいるはずの二中のナマドーラがこちら側へと来ているではないか。
 その二中のナマドーラの前に、ようやく戻ってきたリオンが立ちはだかる。すると彼はタッチライン側へとドリブルを開始、追いかけるリオンに背を向けると、大きく逆サイドへとボールを蹴り出した。サイドチェンジだ。

 逆サイドでそれを待ち受けていたのはナマドラもどきだった。彼は利き足の左で難なくボールをキープすると、前方から迫り来る冥月の姿を認め、獅子王へとパスを出した。そこからまたベベちゃん、悪童、二中のナマドーラへとボールが次々回っていく。二中のナマドーラからナマドラもどきへと、先程と全く同じ形でサイドチェンジのボールが渡ったとき、守っている者たちはメビウスの輪の中に囚われてしまったかのような感覚に陥った。
 冥月は獅子王へのパスを警戒し、ナマドラもどきから若干離れた場所にポジションを取っていた。この連鎖を断ち切らないことには、自分たちは延々囚われつづけたままだろう。流れを、変えなくてはならない。
 しかしそれこそが、『赤い悪魔』の仕掛けた丁重な罠であったのだ。

 ナマドラもどきのボールは獅子王へは渡らなかった。彼はその左足で、ゴール前へと大きくクロスを出したのだ。正確且つ力強いボールが一気にゴール前へと攻め寄ってくる。
 そのボールに、暁空は妙な既視感を覚えた。たしかだいぶ前に、こんなクロスが上がったような気がする。左足からだった。ナマドラもどきと良く似た風貌の男。彼の放ったクロス気味のシュートが、ゴールネットを静かに揺らしたのだ。だが、今ボールを蹴ったのは彼ではない。それなのに、頭の中をグルグルとあのときの残像が回り続ける。
 違う。あのときとは違う。あの記憶を断ち切らねばならない。でなければ正しい判断などできようもない。
 違うはずなのに。
 ボールはまるで同じ回転で、同じ変化を起こし始めた。

 暁空は無意識のうちに右方向へと動いていた。同じ回転で同じ変化で迫り来るボール。それならばあのときと同じように同じコースにおさまるはずだ。コースは右端、高さは腰くらいの位置だった。そこに跳べばこのシュートは防げる。
 躊躇いもなくジャンプし、その場所へと手を伸ばした暁空。しかし彼は既に、『赤い悪魔』の罠に囚われてしまっていたのだ。確かにボールはあのときと同じ回転をしながら同じように変化した。しかし違ったことがひとつある。
 それは『速度』だった。ナマドラもどきが放ったボールは、二中のナマドーラのそれより遥かに速いスピードでゴールへと向かってきていたのである。速度が速いということは、縦の変化は限りなく少ないということ。つまり、暁空が想定していた位置よりも高い場所に向かっているということ。それに気付いたときにはもう、遅かった。
 ゴールネットを抉るように突き刺さったボールが、ネット上を転がり、地面へと落ちていく。



<-- scene 6-34 -->

 ――同点。
 あれだけ開いていたはずの点差が、ゼロになったということ。それは少なからずブルーサンダースに暗い影を落とした。
 いや、違う。キングという男の強い怨念を吸収することで更なる成長を遂げた『赤い悪魔』が、その大きな翼をいっぱいに広げ、ブルーサンダースに降り注ぐはずのひかりを遮ってしまったのだ。

「こらー! 何をしぼんどるかー! たかが振り出しに戻っただけじゃないかー! すごろくじゃあそんなん当たり前だぞー!」
 武彦が後方から皆へと激を飛ばす。しかし彼が言うほど簡単な事態ではないのだと、その場にいた誰もが思っていた。後半戦で二中チームが挙げた得点は5点。対するブルーサンダースは、彼らを相手にたったの1点すら奪っていないのだ。再度リードするためにはその1点を挙げなくてはならない。たったの1点が、選手たちへと重く重くのしかかる。

「リオンさん! パス!」
 二中ピッチに走り込みながら、色が大声をあげる。ここで点をもぎ取らなければブルーサンダースは終わりだ。何としてもゴールを奪わなくてはならない。しかしリオンは、二中のナマドーラのプレスになかなか動きをとれずにいる。
「リオンさん!」
 色が声を荒げながら、パスを受けられる場所を探してそこへと走った。そこでようやくリオンからボールが出され、色の足へと渡った。色はぐるりと方向転換すると、ゴール目掛けて一直線にドリブルを開始する。
 前方に立ちはだかっている鬼軍曹が大きく見える。いつもならばそんなことなど感じたことはないのに。その鬼軍曹がぐんと迫ってきた。上がってきている味方は誰もいない。自分で抜き去るしかない。
 フェイントをひとつひとつ入れるたび、熱を帯びた足首を痛みが襲う。それでも自分は彼を抜かなければならない。ゴールへと向かわなければならない。フェイントをまたひとつ入れる。もうひとつ入れる。それでも鬼軍曹は揺るがない。残るのは足首を支配する痛みだけだ。
「草摩君!」
 トヨミチが背後から駆けてくるのがわかった。色はかかとでボールを出すと、大きな鬼軍曹の背後へと回りこむように全速力で走り出した。足が地面を蹴るたびに嫌な痛みが走る。だが走らなければゴールには辿り着かない。
 左斜め後方から、色の前へとボールが飛んできた。トヨミチが出したのだろう。地面を低く跳ねながら前進していたボールに色が辿り着く。前を見ると、赤鼻が構えている姿があった。ゴールはもう、目の前だ。
 そのとき突然、視界が赤一色に染まった。大砲だった。そうだ。二中にはまだこの男がいたのだ。シュートコースは完全に塞がれている。トヨミチら、上がってきている選手たちも相手の強いプレッシャーを受けてポジションを取れずにいる。ならば自分はこの大砲をも抜かなければならない。フェイントをひとつ入れ、腕で大砲の身体を遮りながら前へと足を踏み出す。しかし彼のフィジカルに阻まれそれ以上進めない。
「色! こっちだ!」
 右側から冥月の声がした。ここまで上がってきているということは、彼女の前にはみゆみゆしかいない。色は右足の側面でボールを外側へと蹴り出した。それから瞬時にペナルティーエリアへと入る。きっと彼女からのクロスが来るはずだ。
 思い描いていた通り、冥月がクロスを上げてきた。そのボールは前に赤鼻に直接キャッチされたものとは違い、ゴールマウスから遠くへと軌道を描いている。そこへ大砲と鬼軍曹、トヨミチが集結し、競り合うようにジャンプした。
 誰の頭に当たったのかはわからないが、ボールが落ちてきた。周りには誰もいない。色はボールに走りこむと、渾身の力を込めてシュートを放った。足首を襲う激痛に顔が歪むのがわかった。自分が転倒したのもわかった。そして、ホイッスルが鳴らなかったこともわかった。
 顔を上げると、赤鼻がその太い両腕でボールを胸元へと押さえつけている姿があった。

 赤鼻が間髪入れずボールを大きく蹴り出した。一気にセンターラインを越えたそれを、ベベちゃんが胸でトラップして足元でキープ、そのスピードで一気に攻めあがる。
 クミノが進路上へと入るなり、彼は横へとパスを出した。二中のナマドーラがそれを受け、ドリブルで前進していく。前方で獅子王と悪童、ナマドラもどきが待ち構えているのに対し、ディフェンダーは武彦と零のふたりだけ。クミノはすぐにゴール前へと駆け出した。
 しかし二中のナマドーラはその誰にもパスを出さなかった。クミノが中央付近に入ってきたのを確認するなりもう一度ベベちゃんへとボールを戻したのだ。彼は完全にフリーだ。すぐさまクミノが彼の前へと戻ったものの、今まで見たことのないフェイントで抜き去られた。その彼の前へと武彦が向かったそのとき、ベベちゃんから悪童へとマイナス方向のパスが渡った。
 悪童が巧みな足技で零を翻弄し、抜き去る。彼の前はがら空きだった。

 シュートコースを塞がなければならない。暁空は瞬時に悪童の前へと駆け出し、彼の足元を見た。するとボールが彼の足から逃げるように、わずかながら転がっていくのが見えた。暁空がそれをキャッチすべく、ボール目掛けて飛びかかる。
 しかしそれは悪童のフェイクだった。彼はわざと足元に隙を作り、キーパーを誘導したのである。悪童は左足の側面でボールを外側へと出すと、一気にそれに追いつき今度は右足で軽く前方へと蹴った。もう一度蹴ったときには、もう彼の前にはゴール以外の何もなくなっていた。悪童が右足の内側でボールを押し出すと、それは難なく転がりながらゴールラインを越えていった。



<-- scene 6-35 -->

 ゴールを告げるホイッスルが鳴り響いた瞬間、ブルーサンダースの全ての選手がその場に崩れおちた。たった数分のうちに起こった数々の出来事は、若く希望に溢れたチームにとって、あまりにも告なことであったから。
 この試合を通してほんの少しずつ、けれど確実に積み上げていったものが、呆気無く崩壊していくのを感じていた。きっと皆で必死に積み上げていたものは、頑強な岩ではなく小さな砂粒だったのだろう。だからこんなにも脆く崩れ去るのだ。子供のままごとと同じことを、皆で力を合わせて一生懸命にやっていたに過ぎなかったのだ。
 しかし皆、誰もが一度は子供だったからこそ知っている。小さな手で必死に作り上げた小さな砂の城が、一瞬にして波にさらわれ海の藻屑と消えることの悲しさを。

 勝利の女神が、その美しい手で砂屑をすくいながら、歪んだ微笑みを浮かべている。



<-- scene 6-36 -->

 ひとりの青いユニフォーム姿が、がばりとその場に立ち上がった。ゆっくりと周りを見渡すも、瞳に飛び込んでくるのは地べたに座り込み、大の字で寝転び、両手と膝を地面についてうなだれている青と白のユニフォーム姿ばかり。
 彼は大きく息を吸うと、その身体に魔法をかけて、あらん限りの大声で叫んだ。
「きりいいいいいいいいいいつ!!!!!」
 その瞬間、それまで地面とお友達だった彼らがぎくりと身体を起こし、立ち上がる。
「れええええええええええい!!!!!」
 言われるままにぴしりと礼をする青と白のユニフォーム姿。彼はその姿を認めると、息を吸い込み腹へと溜め込み、
「全! 員! 集! ごおおおおおおおおおお!」
 と一気に声を吐き出した。それと同時に選手たちが全速力で彼の元へと駆けつけてきた。彼はうむ、と頷くと、
「整列してえええええ! 着! 席!」
 と、皆に号令をかける。どこの軍隊かと見紛うばかりに見事に整列した選手たちが、一斉にその場に座り込んだ。
 トヨミチはそれを確認するなり『誰も逆らえない凶暴教師@学内風紀担当』の魔法をそっと解くと、また別の魔法をかけた。

「みんな良く集まってくれた。座ったままでいい、今から俺が話すことを良く聞いてくれ。いいな」
 『類稀なるカリスマ性を持つ名コーチ@熱血スポーツ』の魔法がかかっているトヨミチの台詞に、皆がこくりと頷く。トヨミチはそんな彼らを見て「よし」、と大きく頷くと、やがて口を開いた。
「いいか。我々はここまで来るために様々な苦難を乗り越えてきた」
 そう言うと、トヨミチは選手ひとりひとりの顔をじっくり見つめていたが、やがてひとりの男を指差した。

「例えば、周りがボケ倒す度に眩暈を覚えながらも突っ込みを入れ続けたベルティーニ君!」
 彼は高らかな声でそう言うと、今度は別の人間を指差した。
「草間君に度重なる暴言を吐かれても軽い打撃技でそれらを受け流し続けた黒君!」
 それからも彼は、ひとりひとりを順に指差しながら、それぞれの苦難について語っていく。
「自業自得とはいえ黒君に何度も致命傷を受ける草間君を、心配しながらも忍耐強く見守りつづけたエマ君!」
「敬愛する兄を遭えて『ふぐりなし』と罵らなければならないという辛い試練を見事に乗り越えた零君!」
「巨大なおにぎりだと思っていたものが実はサッカーボールだったという多大なるショックをふしぎなおどりで克服したハイ君!」
「興信所所長たる肩書きを持つ草間君のあまりの使えなさに二度も自宅へと戻りデータを収集してきたササキビ君!」
「実は食欲旺盛、エマ君お手製のお重を狙っていたにもかかわらず食欲魔人たちに食い尽くされ、それでも何も言わず軽いサンドウィッチで我慢し、草摩君と共に変化球対策を編み出した紫東君!」
「ツートップの片割れのあまりの使えなさに孤軍奮闘せざるを得なくなっただけでなく、脳震盪、更に足首の怪我と次々襲いくる試練に勇敢に立ち向かって行った草摩君!」
「毎日蹴られては踏まれてはそれらへの耐性を高め、あのキングのカンフーキックを受けてもなお生存していた三下君!」
「そして……『ミスターノーゴール』などという不名誉な称号を与えられながらもなお挫けず、チームを引っ張りつづけたキャプテン、草間君! ついでに彼を乗せるために試行錯誤し、見事彼のテンションを上げつづけたこの俺!」
 トヨミチはここで軽く息をつくと、いま一度全員の顔を見た。

「たったひとりで苦難を乗り越えること。それはとても難しいものだ。しかし我々全員がそれをやってのけることができた。それは何故か? 何故ならば、ここに集まった仲間たちがそれぞれを思いやり、支えあっているからだ! 仲間全員の力、というのはそれだけの相乗効果をチームにもたらすものなのだ。それだけではなく、ときに誰も予想のできない程の素晴らしい力を生み出すことさえある!」
 トヨミチはここで一旦話を切ると、やがてその続きを語りだした。
「個人の技術ならば、我々は二中には到底敵わないだろう。だが我々には素晴らしい仲間が、仲間たちによるチームワークがある! 先程も言ったことだが、仲間全員の力があれば、誰の予想もつかない奇跡を生み出すことさえ可能となる。例えば……そうだな。草間君が『ミスターノーゴール』から『エースストライカー』になるような奇跡を起こせるかもしれないし、この残り少ない時間で逆転どころか大量リードすることだって可能なんだ! ……俺は正直、この試合でこのチームとお別れかと思うととても寂しくて悲しくてならない。だがこのメンバーで試合ができるのはあと数分。俺はその時間を、お前らと共に駆け続けたいんだ。その結果が勝利でも敗北でも、俺は、俺は……!」
 トヨミチの言葉がぐっと詰まった。涙を必死に堪えながらも口を開こうとする彼を見て、武彦がそっと立ち上がり、トヨミチの前へと歩み寄った。そして彼の手を握り締める。
「トヨミチ君……君の想いは充分伝わった。もう何も言わなくていい」
 武彦が頷いた。その瞳の端には涙が浮かんでいる。
「草間君……!」
 やがてふたりは、お互いの肩を抱きながら男泣きに泣いた。



<-- scene 6-37 -->

「そうね。最後の最後まで勝敗の行方なんてわからないんだから、まずは戦い抜かないと!」
 シュラインがすっくと立ち上がる。それに続いたのは零だった。
「はい! わたしも最後までブルーサンダースを守りつづけます!」
「ぼぼぼボクも! 最後までえええええ! え、ええとぉ……ふぃ、フィールド内を、走り続けますぅ!」
 なんとあの三下までもが拳を高くあげながら立ち上がった。
「そういうことなら、私も立たないわけにはいかないわね」
 苦笑しながらクミノが立ち上がると、冥月が口を開いた。
「その通りだ。ここで立たなければ、三下にすら負けたことになる。そんな屈辱は御免だ」
 すっと立ち上がる彼女につられるように、残りの選手たちも次々と立ち上がっていく。

「三葉さんは勝敗はどうでもいいなんて志の低いこと言ってましたけど、俺は嫌ですよ。負けず嫌いなんで」
 億劫そうに腰をあげながらリオンが言うと、暁空が大きく頷いた。
「俺も。やるからには負けるつもりはない。気合いでゴールを守りつづけてみせるから、色、お前も」
 立ち上がった暁空が色へと手を差し伸べたとき。色は空を仰ぎながら号泣しはじめた。
「色……」
 呆然とその泣き顔を見つめている暁空。しかし色は、青空以外の全ての存在が目に映っていないようだった。彼は泣きじゃくりながら、空へ向けて大声で叫んだ。
「チクショウ! 何やってたんだよ俺は! ケガしてろくなプレーもできねえくせに、自分が一番上手いと思い上がって自己中なことばっかしやがって! こんな最高の仲間たちが俺にはいるんだってこと、何で今まで気付かなかったんだよ!」
 溢れ出る涙が止まらない。
「そうだよ。みんな俺がケガしてるってことくらい気付いてたんだ。なのに何も言わず、俺がピッチに立ち続けることを許してくれてた。それなのに俺は、気付かれたらベンチ送りになるからって、平気なフリしてひとりでカッコつけてバカやって……そうだよ。結局俺は、みんなを信頼してなかったんだ……」
 色のそれは独白のようだった。しかしその場にいた皆が、黙って彼の言葉に耳を傾けている。
「俺は、草間さんより余っ程バカだ……!」
 色はそう言うと、がばりと立ち上がり、空を睨みつけながらありったけの声で叫んだ。
「俺の……俺のバカヤロオオオオオオオオオオ!!!!!」

「「「「「バカヤロオオオオオオオオオオ!!!!!」」」」」
 盛大な声に色が辺りを見回すと、ブルーサンダースの全ての選手が色を指差して笑っていた。
「な、何だよ!」
 腕で涙を拭いながら色がむっとした顔をすると、暁空が腕を組みながら口を開いた。
「酷い話じゃないか。一緒に変化球対策特訓した仲だっていうのに、信じてくれてなかったなんてさ。俺ちょっと凹んじゃった」
「そうだぞ! まさかこのキャプテン兼エースストライカー兼ミスターノーゴール兼イケメン武彦を信頼していなかったとは!」
「他もまあそうだけど、特にイケメンは勘違いも甚だしいわね」
「そ、そんな! クミノ、お前の目は節穴か!?」
「私もクミノに同意する」
「なっ!? 同じ男のお前がこの俺のイケメンっぷりに気付かナイジェリア!」
 ごっ、という鈍い音と共に武彦の悲鳴らしきものがあがる。冥月の拳によるグーパンチを腹へと食らったのだ。冥月はふらふらしている武彦を顎で差すと、クミノに言った。
「だいぶ手加減しただろう?」
「そうね。本気だったら十メートルは吹っ飛んでるはずだもの」
 ふたりが顔を見合わせ、くすりと笑った。

 ぼうとした顔をしてそのやりとりを見ていた色の前に、トヨミチがやってきた。
「草摩君。確かに君は、あの草間君をも超越する大馬鹿者だったのかもしれない。だがしかし、その汚名を返上するチャンスはまだ残っているんじゃないか?」
「え?」
「残り時間全て、ここに集まった仲間たちを信頼し続ければいい。たったそれだけのことさ」
 それだけのこと。たったそれだけのことが、どうしてできなかったんだろう。
「おっと。今、君は『どうしてそんな簡単なことが今までできなかったんだろう』と思ったな?」
 トヨミチのドンピシャな発言に、色が目を丸くする。
「ハハ。劇団の長を何年もやっていれば、嫌でもわかるようになるものなのさ。劇団員の中には、たった一言の台詞を表現するのに何日も何日も苦悩し続ける者もいれば、天才的なひらめきですぐそれをやってのける者もいる……なあ草摩君。君が、『今の自分』を分析した場合、前者と後者、どちらに近いと思う?」
「後者!」
 あまりの即答にトヨミチの表情が一瞬固まったが、やがてぷっと吹きだした。
「ちょ、トヨミチさん、そこ笑うとこじゃなくね?」
「いやいや。つい、ね。申し訳ない」
 詫びの言葉を述べつつも、トヨミチは笑ったままだ。色はむくれた顔をしつつも口を開いた。
「だってさあ。さっきまでの俺だったら確かに前者だったぜ? つーかそれ以下だったと思う。仲間を信頼するってこと自体頭になかったからさ……でも、今の俺は違う。自分のバカさ加減も思い知ったし、すげーいい仲間に恵まれてるってことにも気付いた。だから後者なの! もうね、自信タップリなわけ! わかった!?」
「ああ。良くわかったよ。もう俺から言うことは何も無い。君のその言葉を信じて、残り時間全て戦い続けようじゃないか!」
 トヨミチがぐっとガッツポーズをすると、色も「おう!」とそれに続いた。



<-- scene 6-38 -->

「よーし! みんな円陣を組むんだ!」
 武彦の号令に、皆が駆けより彼の周りに円を作った。メンバーの顔を一通り見ていった武彦が、ぽつりと漏らす。
「あれ? 三下はどこ行った?」
 その声に皆がきょろきょろしていると、
「こ、ここにいまぁす……」
 か細い声が暁空とリオンのうしろから聞こえてきた。どうやら円に入るタイミングを逃していたらしい。ふたりがすっと離れてスペースを作ると、三下はおずおずとそこに入り、ふたりと肩を組んだ。
「よし、これで全員揃ったな! それじゃあいくぞ! クサ」
「ちょっと待った。シオンさんもいないんですけど」
「何ぃ!?」
 リオンの指摘に、武彦が慌ててそこら中を回し見る。すると遥か遠くで、スカーフを首に巻いた男が地面に這いつくばっている姿が見えた。間違い無く、シオンだ。
「おーいシオン! 何やっとるかー! さっさと集合しろー!」

 武彦が大声で呼びかけると、ようやく気付いたシオンがのろりと立ち上がり、ふらふらと身体を揺らしながら歩いてきた。ある程度彼が近づいてきたとき、全員が唖然とした顔をした。何とシオンは、サッカーボールを口に咥えながら歩いているのである。
「……シオンさん、それはおにぎりじゃありません。ただのボールです。食べてもおいしくも何ともありませんから」
 リオンがため息とともにそう漏らすと、シオンは虚ろな瞳でリオンを見ながらもごもごと話しだした。
「ああっえいううおいあおえうあ……おういえおおいいいいいあいえあうえ」
「や、つーかあんた、いつからあそこにいたんです? 三葉さんの話聞いてました? つーかボール咥えながら話すのやめてくれません? 何言ってんのか全然わかんないから」
 リオンがシオンの口元を指差すと、シオンは泣く泣くボールを口から離し手で持つなり、しゅんとうつむいてしまった。
「コーチのお話を聞いていたら、今までの数々の苦労が思い出されまして……おなかがぺこぺこになったり、腹の虫が鳴いたり、空腹で倒れそうになったり、ひもじい思いをしたり……そうしているうちにお腹が空いて空いてどうしようもなくなってしまいまして、ついこの巨大おにぎりに向かってしまったのです……」
 よよと泣き出すシオン。その話を聞いていた者たち全員が「彼の苦労は空腹以外に無いのか」という疑念を抱いたのだが、いちいち突っ込んでいては試合が進まない。

「シオン」
 そのときふと、冥月が彼の名を呼んだ。シオンが焦点の合っていない瞳を彼女へと向ける。
「そういえばお前は内職もしていたな。余程金に苦労しているのだろう?」
「はい……」
「それならば、試合が終わったら私が受けたとっておきの依頼をお前にくれてやろう。報酬は五万ドル。といっても依頼内容は実に簡単で危険も全くないものだ。本当は私が請負いたいところだが、お前にやる」
「ごごごごごひゃくえん!?」
 五万ドルを日本円に換算できなかったらしいシオンの瞳がドルマークと化した。先程までの覇気の無さが嘘だったかのようなその表情は、彼にとって五百円がいかに大金かということを語っている。
「是非、是非お願いします!」
 シオンが冥月にすがりつくと、彼女はシオンの目の前に手をやり、人差し指を立てた。
「但し、条件がひとつだけある」
「じょ、条件とは!?」
「この試合の終わりを告げるホイッスルが鳴るまで、ピッチ上で走りつづけること。それだけだ」
 そう言ってフッと笑う冥月。一方のシオンはドルマークの瞳を更に輝かせながら、自らの胸を拳で叩いた。
「お任せあれ! 怪盗シオン、最後まで頑張ります!」
 それを聞いた冥月がふふりと笑った。

「よーし! ついに全員揃ったな! シオン、お前も円陣に加われ!」
 ピシリとシオンを指差した指を武彦が円陣へと向けると、シオンは軽やかな足取りでその中に加わった。
「それじゃあ、いくぞ!」
 武彦が大きく息を吸い込む。
「チームワークを大切に! フェアプレー精神を忘れずに最後まで頑張りましょう! トロピカルサンデーズ! ゴー! ゴー!」
「「「「「ブルーサンダース! ゴー! ゴー!」」」」」
 気合いも新たに自陣ピッチへと散って行く青と白のユニフォーム姿たち。しかしただひとり、その場から動かない者がいた。
「ぶ、ブルーサンダース、ゴー……」
 一番おいしい台詞をシオンに持っていかれた哀れなキャプテン武彦は、吸い込んだ息のやり場をどうすれば良いやらわからずその場に立ち尽くしていたのであった。



<-- scene 6-39 -->

 試合が再開されるなり、青と白のユニフォーム姿が一斉に敵陣へと駆け出して行った。全後半通して八十分以上走りまくったとは思えないそのスピードに、二中選手たちの表情がそれぞれ変化する。
「何だぁ? こいつら、まだやるつもりなのか?」
 呆れた口調で悪童が言うと、近くにいたナマドラもどきがふむ、と首を傾げた。
「奴らまだ、勝つ気でいるんだろ。バカだから」
「なーるほど! そんじゃあしゃーねえな。試合終わるまでバカの相手してやっか?」
「つーか、お前も充分バカだけど」
「何だと、てめ!」
「ちょっと! そんなとこで揉めててどうするんだよ! もうゴール前までボール行ってるよ!?」
 自陣に戻りながら振り返ったベベちゃんの言葉に、ふたりは「ふーん」と頷いた。
「真面目にやれよな! もう!」
 そんな彼らを置いて、ベベちゃんは自陣深くへと戻って行く。

 ずっとずっと重かった足が、今は重力の存在を無視するかのように軽く感じられた。何か動作をするたび激痛が突き抜けた足首も、心なしかその痛みが和らいでいる気がする。『あれだけのこと』で、物事の感じ方というのはこんなにも変わるものなのか。
 色は実に軽やかな足取りでドリブルしていた。あの鬼軍曹も今は大きく見えない。彼とて普通の中学生なのだ。そんな彼に自分が負けるわけがない。色は左へボールを蹴ろうと右足を大きく振りかぶった。鬼軍曹がそれをカットしようと左へ寄ったそのとき、色は軸足でスキップのように跳ぶと、そのつま先でボールを逆へと蹴り出した。冥月が走りこんできていたのがわかったからだ。
 ボールが無事冥月の足元へとおさまったのを確認すると、色も前方へと走り出す。

 冥月の前方では、二中のナマドーラがディフェンスの姿勢で待ち構えていた。しかし冥月は動じない。真っ直ぐ彼へとドリブルで突っ込んで行く。二中のナマドーラがこちらへと寄ってきた。チャンスだ。
 冥月は二中のナマドーラを充分に引きつけると、左足の側面でボールを出した。それはトヨミチへのパスとなり、彼の足へと収まる、かと思いきや、彼は左斜め方向へとダイレクトにボールを蹴り出した。色が既にペナルティーエリア内に入っているのが見えたからだ。

 色は巧みなポジション取りで相手のオフサイドラインを崩し、トヨミチからのパスを受けた。しかし彼の背後にはあの大砲が控えている。ついでにたかぴぃもいるのだが、彼は数に入れなくても良いだろう。
 大砲は、たったひとりで三、四人の働きをする男だ――たかぴぃとみゆみゆというザルディフェンスの連中などいてもいなくても関係無い。大砲ひとりいれば事足りるのだ――、と色は思っている。ここで無茶をしてはいけない。色は細かいフェイントやステップで大砲を引きつけながら、青いユニフォーム姿を探していた。トヨミチには鬼軍曹が、リオンには二中のナマドーラが付いている。いや、違う。トヨミチとリオンが彼らを引きつけているのだ。それによりフリーになる選手が現れるのだから。
 色の左側から、ぐんとひとりの青いユニフォーム姿が走り込んできた。冥月だった。彼女が真正面に差しかかったそのとき、色は彼女の向かう先へと転がすようにボールを出した。
 その瞬間、大砲が動き出す。しかし色は彼よりも先に動いていた。冥月のシュートコースを塞ぎに行こうとする彼を、色が背中と両腕で押すように止める。フィジカル面では完全に負けているのはわかっている。それでも今の色にはそれを超越する『力』があった。ぐいぐいと押してくる大砲にも負けない程の力。それは仲間たちの信頼を一身に受けている者にしか現れない『力』だ。

 冥月がシュート体勢に入った。そこへ赤鼻が一気に前進する。赤鼻の大きな身体によって冥月のシュートコースはかなり狭められたが、それでも彼女は怯むことなくシュートを放った。
 ゴール上方へと向かうスピードボール。瞬時に跳びあがった赤鼻が、その長く太い腕を高く挙げる。赤鼻のグローブの先が僅かにボールに触れた。スピードこそ落ちなかったが、赤鼻が触れたことでボールの軌道がさらに上へと変化していく。軌道を変えたボールはクロスバーに激突し、ゴール前を突き刺さんばかりのスピードで落下してきた。
 色が瞬時に大砲を押していた力を抜き、その反動で弾かれるように前方へとジャンプする。
 彼の額が、落下してきたボールを無人のゴールへと押し込んだ。

 高らかに響きわたるホイッスルの音は、ブルーサンダースの選手たちにとって他の何にも代えられないエネルギーとなる。



<-- scene 6-40 -->

 センターライン付近にいた悪童とナマドラもどきが、自陣ゴール周辺をまじまじと見つめている。ダンゴ状態で騒いでいる青いユニフォーム姿に隠れてゴールの中は見えないが、ホイッスルが鳴ったということは、つまり。
「ありゃ。点入れられちまったみてーじゃん。ビッグキャノンも赤鼻のオッサンもどうしたんだ?」
「まぐれだろ、多分」
「違えねえ」
 ふたりは踵を返すと、苦笑しながらセンターサークルへと歩き出した。

 左サイドにポジションを取っていたクミノが右斜め後方を見ると、武彦があのときと同じようなぶんむくれた顔をして立っているのが見えた。クミノは内心そのクソむかつく面をひっぱたいてやりたくなったが、ここは寛大な心をもって我慢することにした。
「草間!」
 クミノが名を呼ぶと、武彦がその表情はそのままに「何だよ」と返し、下唇を一層突き出した。かちんときたが、ここも我慢、我慢だ。クミノは左――前線方向を指差すと、武彦を顎で指し、その顎を左側へと向けた。
「フォワードに戻って」
 クミノがそう言った途端、武彦の顔がぱあっと輝いた。
「え、何、マジで!? てゆかこの『ミスターノーゴール武彦』がいなくてディフェンス大丈夫なのか!?」
 またもやかちんときたクミノが、ついに声を荒げた。
「何を言っている! 草間がここにいても邪魔なだけだ! 大体お前は『エースストライカー』になりたかったんじゃないのか!? そんなお前がここで攻撃参加しないでどうする!? わかったならさっさと走れ!」
 十三歳の少女とは思えないほどの迫力でクミノが怒鳴ると、武彦はしゃきっと背筋を伸ばし、一目散に前線へと駆けて行った。

 やがて二中チームのキックオフで試合が再開された。残り時間を考えてか、彼らは軽く前線から中盤へとボールを回すと、すぐに攻撃体制へと移ってきた。二中のナマドーラからベベちゃんへとボールが渡ると、彼はすぐにドリブルで攻め上がってくる。悪童をはじめとしたフォワード陣も一気に駆けあがり、ゴール前にポジションを取った。
 タッチライン寄りに上がってきたベベちゃんは足技を駆使してシュラインをかわすと、更に前進を続けた。クミノが彼の前へと駆け寄ったそのとき、ベベちゃんは左前方へとボールを出し、前にいたクミノをその駿足で一気に抜き去った。
 ベベちゃんの出したボールは一旦下がった位置にいた悪童へと渡るなり、すぐさまベベちゃんの足元へと戻る。さすが同チーム歴の長いふたりだけあり、ワンツーのタイミングも完璧だった。
 ベベちゃんがゴールライン付近からクロスを上げる。しかしそこに走りこんだ白いユニフォーム姿、リオンによってボールは阻まれ、ゴールラインを割って落ちた。

 後半戦開始直後と全く同じ状況で二中チームのコーナーキックが始まろうとしている。ブルーサンダースの選手たちはすぐさま自陣ゴール前まで下がり、それぞれの位置へと入って行く。長身のシオンが色の代わりに中へと入り、色は集団の外側へと位置を取った。キッカーへと目を向けると、何とあのビビリの三下が、キッカーのベベちゃんへと身体を向けて壁の位置に立っているではないか。
「三下ー! チンコ守るの忘れるなよー!」
 武彦が声をかけると、三下は「は、はいぃぃぃぃぃ!」と返事をしながら股間を両手で押さえた。

 ベベちゃんが蹴ったボールはクロスではなく、集団から離れた位置にいた二中のナマドーラへのパスだった。いわゆるショートコーナー。二中のナマドーラがすぐさま左へとボールを出す。そこに走りこんでいたのはあの大砲であった。
 大砲のシュートコースを作るべく、ゴール前に群がっていた二中選手たちがすぐさま自らをマークしていたブルーサンダースの選手をコースから押し出すようにポジションを取った。しかしブルーサンダースはそれに対抗すべく、彼らに圧力をかけていく。
 大砲の目にはボール一個分程度のシュートコースしか見えていない。しかしそれでも彼には充分だった。大声で吼えながら、大砲が渾身のシュートを放つ。

 大砲のキックの精度は完璧だった。あの細いコースをどの選手に触れることなく抜けようとしている。前半で彼にシュートを打たれたときは、壁選手の誰かに当たっていたため若干威力が落ちていた。それでも彼の放ったボールは、暁空をじりじりとゴールに押し込もうとした。しかし今のボールは何の影響も受けていない。大砲本来の威力で来るに違いない。それならば。
 暁空はキャッチングの姿勢を取らず、腰を低く落とし、古武術の構えを取っていた。大きく見開かれた瞳は迫り来るボールを凝視している。回転を見ているのではない。彼はボールの『点』を探していたのだ。
 ――見えた。
 暁空は右腕を後方に引くと、『気』の力を右の拳へと集結させ、ボール目掛けて勢い良く右の拳を繰り出した。どんなに破壊力のあるボールもたった一箇所、『点』という急所を持っている。急所を突かれたボールなど紙風船のようなものだ。
 暁空の正拳がその『点』を捉えた瞬間、激しい破裂音が辺りに響き渡った。

「ぼ、ボールが、破裂した、だと?」
 シュートを打った大砲が呆然と立ち尽くしている。
 暁空の繰り出した大技、『紫東水明流・秘技・拳孔気正(けんこうきせい)』は、ボールだけでなく『赤い悪魔』をも破壊しつくしたようであった。



<-- scene 6-41 -->

「よし、逆転頼むぞ!」
 暁空がゴールキックを放つ。ちなみに彼は「グローブに何か仕込んでいたのではないか?」という疑いをかけられ主審にあちこち調べられたのだが、ボールを破裂させるようなものなど手にしているわけがなく、冤罪となった。
 ボールの軌道を見送った暁空は、視線を元に戻すなり、
「って、何でここにキャプテンがいるんだよ!」
 と、センターバックの位置で呆けていた武彦を思いっきり指差した。武彦がきょとんとした顔で「俺?」と呟く。
「キャプテン、さっきフォワードに戻れって言われてただろ?」
 暁空がそう指摘すると、武彦は「しまった!」と口を押さえ、すぐさま前線へと向かって行った。

 ゴールキックのボールを受けたのはトヨミチだった。彼はボールを色へと出すと、自らも前進していく。やがて色が鬼軍曹と二中のナマドーラのふたりに囲まれた。あのときまでの彼ならば、強引にふたりを抜いて行こうとしただろう。だが、今は違う。
「トヨミチさん!」
 巧みなテクニックでボールをキープし続けていた色が、トヨミチへとボールを戻した。その彼へと二中のナマドーラがプレッシャーをかけに走ってこようとしている。
 トヨミチはゆっくりとしたドリブルで彼を引きつけられるだけ引きつけ、左前方へとボールを出した。

 それを受けたのはシュライン。前にはたかぴぃしかいないが、彼女にとっては厄介な相手である。しかしシュラインは落ち着いた様子で周囲の状況をその目で、耳で確かめた。ややあって、飽きるほど聞き慣れた足音が背後から迫ってくるのがわかった。思わず口の端が緩んでしまう。
 シュラインはゆっくりとドリブルで前方へ進んで行くと、くるりと方向転換し、その人物へとパスを出した。
「武彦さん!」
 パスを受けた武彦が、ニヤリと笑いながらシュラインに親指を立ててみせる。

 ミスターノーゴールからエースストライカーへの進化を遂げるべく、武彦は敵陣ゴールへと一気に突っ込んで行った。しかしその前に立ちはだかる男がいる。大砲であった。彼はずいと前に出るなり、武彦からボールを奪うべく襲いかかってくる。
「武彦さん、ボール後ろに出して! 三葉さんがフリーだわ!」
 シュラインの叫びに武彦の身体が瞬時に反応した。彼は大砲を腕で押さえつけながら身体を後方へと向けると、トヨミチ目掛けてボールを蹴った。利き足の内側でボールを押し出すように蹴った彼のパスは、素人にとっては最もボールコントロールミスが少なくなる。ボールはトヨミチの足元にぴったりと収まった。

 前半戦で自分は『ルイ・スーフィゴ』の仮面を纏い、シミュレーションをペナルティーキックへと変えた。
 今も、それと同じように『演技』という名の魔法をかければ、自分が望むファンタジスタへと変貌を遂げることができるだろう。
 しかし、もうその必要はない。今自分がなりたいと望む姿は、自分の力を、仲間の力を信じて戦う自分自身に他ならないから。
 だから、魔法のペルソナはもう、いらない。

 トヨミチはボールを受けると、大砲の右に回りこむようにドリブルを開始した。すぐさま大砲が反応し、トヨミチにプレッシャーをかけてくる。ペナルティーエリア前での一対一の攻防。かなりきついプレッシャーを受けているトヨミチが、必死にボールをキープし続けている。しかし必死の形相ながらも、動じている様子は微塵たりとも感じさせない。自分自身の力を信じているからだ。
 トヨミチがちらとシュラインを見ると、彼女とぴったり目が合った。シュラインが小さく頷く。
 その途端、トヨミチはボールをキープしながらじりじりと後退しはじめた。大砲の視線は完全にトヨミチの足元に釘付けになっている。そこでトヨミチが左足を大きく外へと踏み出した。大砲がその前を塞ごうと寄ってきたときには既に、トヨミチの右足が彼の裏をかくようにボールを出した後だった。大砲の表情が驚きのそれへと変わる。

 シュラインに背中を押されゴール前へと全力疾走していた武彦の前方にスピードに乗ったボールが転がってきた。トヨミチのスルーパスが、武彦にとって絶好の位置へと跳んできたのである。
「スピード保ったまま、左足前に出してスライディング! 左足首、力抜かない!」
 後方からのシュラインの声に、武彦は言われるままにスライディングを開始した。伸ばした左足の内側、つま先近くをボールが直撃する。しかし武彦の左足は力強くそれを跳ね返した。
 ボールは武彦の足元へとダイブしてきた赤鼻を越え、ポストに当たり、反対側のネットへと突き刺さった。

 トヨミチとシュラインが目を見合わせ歓声をあげると同時に、逆転弾を告げるホイッスルが鳴り響いた。



<-- scene 6-42 -->

 スライディングの姿勢はそのまま地面の上で呆けている武彦に、トヨミチが駆け寄った。
「草間君! 草間君! 草間君!」
 武彦がきょとんとした顔で振り向く。どうやら状況を飲み込めていないらしい。
「逆転だ! 君のシュートでブルーサンダースは逆転したんだ!」
 トヨミチが武彦の傍らにしゃがみこみ、彼の肩を揺すりながらゴールを指差す。その先にはゴールラインを越えたところに転がっているサッカーボール。武彦はまじまじとそれを見ていたが、やがてぽつりと言った。
「俺が……本当に、俺が、決めたのか?」
「当たり前じゃないか! 君が、その左足で決めたんだ! まだ痺れが残っているだろう!?」
 武彦が左足を見つめる。その先がかすかに震えていることに気付いた彼は、やがてがばりとトヨミチへと振り向いた。
「と、と、トヨミチ君!」
「草間君!」
 ひしと抱き合った朋友たちは、また男泣きに泣いた。

 ひとしきり泣いた後、ふたりは同時に立ち上がり、
「シュライン!」「エマ君!」
 この得点を影となってお膳立てした彼女へと一目散にダッシュした。武彦が飛びつきながらシュラインを抱きしめる。シュラインの表情が驚愕のそれへと変わったが、それは一瞬のことで、すぐに満面の笑顔で武彦の背中に腕を回した。
「ナイスシュート、武彦さん!」
 そこに色やシオン、リオン、果ては後方の零やキーパーの暁空までが駆け寄って来て、
「草間さん! すげえ、すげえよ! 文句無しのストライカーじゃん!」
「おにぎり! おにぎり!」
「ニコチンパワー万歳! ナイッシュー草間さん!」
「お兄さんは漢です! 真の漢です!」
「逆転! 逆転だよ! 最高だよキャプテン!!!」
 と、次々と歓声をあげながらふたり目掛けてジャンプしていった。

「まさか、あの草間が本当に決めるなんて……」
 信じられない、といった表情でその光景を見つめていたクミノに冥月が歩み寄り、
「そのために、奴を前線へと戻したんじゃなかったのか?」
 と言いながらふふりと笑う。クミノはほんの少し口をすぼめると、
「そんなことないわ。私はただ、厄介払いをしただけよ」
 と言って、ぷいと明後日の方向を向いてしまった。
 冥月はそんな彼女と、喜びまくっている連中を、交互に見てはくすくす笑っていた。

 クミノがフィールドの外をちらと見やると、線審がロスタイムを表示しているところだった。
 後半のロスタイムは、五分。



<-- scene 6-43 -->

「何やってんだおめーら! あんな素人共に逆転なんかされんじゃねえ! おめーら全員蹴られてえのか!? おい!?」
 キングの怒号がフィールド上の赤いユニフォーム姿を襲う。
「「「す、す、すみません!」」」
 殆どの選手がベンチに向かって頭を下げる中、
「アホやって退場した奴に言われたくねえ」
 聞こえない距離なのをいいことにナマドラもどきがぼそりと呟いた。それを聞いた悪童が「カッカッカッ」と笑う。そこへベベちゃんがやってきて、ふたりを一喝した。
「笑ってる場合じゃないだろ! 俺たち逆転されたんだよ? あと2点取らなきゃなんないんだよ? わかってんの!?」
「わかってんに決まってんだろーが。俺はお前と違ってココがいいんだよ、ココが」
 悪童が自分の頭を指差しながらベベちゃんを嘲笑すると、ナマドラもどきが悪童をじいと見ながら、
「つーかお前の方が奴より頭悪いだろ、実際」
 と、ベベちゃんを擁護したのか悪童の頭の悪さを馬鹿にしたのかよくわからない発言をした。
「何だと、てめ!」
 いきり立つ悪童の胸を、ナマドラもどきがその手でドン、と突いた。
「煩え。さっきお前『わかってる』って言ったよな。だったらピーピー喚いてねえでやるべき事、やれ」
 彼はそう言うと、ベベちゃんへと無表情を向け、たった一言呟いた。
「お前もだ」
 ベベちゃんがこくりと頷く。
「おれも、やります」
 三人の間に割って入ったのは、獅子王だった。
「まけるのは、きらい。だから、かつ」
「だな。俺も負けんのキライ、勝つのダイスキ」
 悪童がニヤニヤ笑いながら獅子王の肩を抱いた瞬間、その表情が一変した。今にも何かに襲い掛かりそうな獣の目でもって悪童が辺りを見回すと、彼は低い声で言った。
「このままじゃ終わらせねえ。俺ら四人でガンガン点獲ってやろうじゃねえか」
 その言葉に、残りの三人が無言で頷いた。



<-- scene 6-44 -->

「ラスト五分! 攻めまくっていくぞ!」
 武彦の呑気な号令に、一同から「「「「「おう!」」」」」と気合いの声があがる。しかしボールは二中チームが支配している状況、しかも彼らは既にゴール前まで迫って来ているのであった。

 二中のナマドーラから悪童を経由しベベちゃんへ。二中オフェンス陣のパス回しは実にスピードがあり、そして正確である。ベベちゃんはどういう組み立て方で攻撃をするか躊躇していたが、やがて後方へと下がるとサイドチェンジのボールを出した。
 まるで精密機器かと思わせるほどのボールが、ナマドラもどきの足へと渡る。そこへ冥月がダッシュしていくなり、ナマドラもどきはゴール前へとボールを放った。
 ゴール前にリオンとディフェンダー三人が集結する。対する相手フォワードは三人。数の上ではブルーサンダース側の選手の方が多いが、獅子王と悪童はとてもヘディングに強い選手だ。そのふたりをマークするべくリオンと冥月が動く。
 しかしそのとき集団からベベちゃんがぱっと抜け出てきた。それと同時にナマドラもどきが放ったボールが急激に落下していく。零がすぐさまベベちゃんへと駆け寄ったがほんの僅か間に合わず、ボールはジャンプしたベベちゃんの頭に当たり、コースを変えた。
そのコース上にいた悪童が頭でボールを落とすと、ベベちゃんと同様に集団から抜け出ていた獅子王が、リオンのディフェンスを強引にかいくぐり、その長い髪をなびかせながら強烈なシュートを放ってきた。そのスピードはまさに音速。
 しかしブルーサンダースの守護神は音速をも超えるスピードの持ち主だった。彼は左ポストにジャンプすると、その反動でシュートボールへと一直線に飛んで行く。暁空の右手がボールを弾き飛ばした。
 弾かれたボールへと真っ先に駆けて行ったのは下がり気味の位置にいたナマドラもどきだった。彼は転々と転がり来るボールの元へと辿り着くなり、左足でダイレクトにシュートを放ってきた。ボールをクリアするべく冥月と零が駆け出したものの、その圧倒的スピードに、クリアするどころかボールへと辿り着くことすらできなかった。

 間違いなくこのボールは音速を超え、光速の域まで達しようとしている。『三角跳び』では間に合わない。暁空は頭をフル回転させて考えた。音速を超える『三角跳び』はポストの反動を利用したもの。それをさらに超越する技を生み出すには。
「わかったぞ!」
 暁空は叫びながら右ポストへと跳躍すると、それをバネにジャンプしクロスバーを蹴りつけ、更にその反動で右ポストへと跳躍、それを足場にして遂にシュートコースである左へと飛んだのである。『三角跳び』が一本のポストしか使わない技なのに対し、この新技は三本ものポストの反動を得ることができている。それによるスピードは、当然光速の域に達していることだろう。
 しかし。
「あれ?」
 飛びながら暁空が首を傾げる。向かう先にボールが無いのだ。もしかして光速を超え過ぎてしまったのか?
 そんなことを思っていると、主審の笛が鳴った。
 暁空が転げ落ちると同時に身を起こすと、その場にいた全ての者が自分に注目しているではないか。これは一体どうしたことかと思っていると、やがて赤いユニフォーム姿の選手たちがゲラゲラと笑い転げた。
「ちょ、おま、それ跳びすぎだって!」
「つーか、普通に跳んでれば、捕れたと思うんだけど」
「たくさん、とぶ、いみ、ない」
 彼らが口々に暁空へと話し出す。彼らの発言からすると、もしかして。
「ガビーン!」
 そうだ。自分が光速を超えるほどのスピードで跳んでしまったからボールがあるべき位置に無かったのではなく、多角跳びを繰り返しているうちに既にボールはゴールに入ってしまっていたのだ。

 がっくりと項垂れる暁空の肩を、リオンがぽむ、と叩く。
「や、気にすることなんてないですって。どうせすぐウチの攻撃陣が取り返しますから」
 すると暁空はふるふると首を横に振った。
「いや。違うんだ」
「何が?」
「俺は、まだあの技を完成させる力を持っていないにもかかわらず、新技に挑んでしまった。つまり、自分の力を見極めることができていなかったんだ。今俺は、失点のことじゃなくて、そんな愚かな自分を嘆いているんだよ」
 思いがけない暁空の返答に、リオンの表情が固まった。暁空はそんな彼など目に入っていないらしく、
「まだまだ未熟だったんだな、俺。でもいつかあの技を完成させてやる。そのためには今まで以上に辛い修行をしなきゃならないってことはわかってる。でも俺はその試練にも打ち勝ってあの技をマスターしてみせるから、楽しみにしててくれよな!」
 暁空がぱっと顔をあげ、リオンへと笑顔を向けると、リオンは引きつった表情で「あ、はい」、と答え、不自然な笑みを返した。
 そのとき、実はリオンが心の中で「この格闘オタクめ……」などとぼやいていた、というのはここだけの話である。



<-- scene 6-45 -->

 ともあれ、リオンが言ったように、ブルーサンダースはキックオフ直後から怒涛の攻撃を開始した。その中でも特に張り切っているのがシオンだった。彼が、例の前衛的な踊りやチラシ配りフェイント(註:ただのジグザグドリブル)を駆使し、相手選手を翻弄しているのである。今までなりを潜めていた奇行がいきなり復活したことに何かわけがあるのであろうか。
 そんなシオンの姿に、後半戦はほぼいないに等しい一年コンビは頭を抱えてうずくまり、砂埃の洗礼を浴びた二中のナマドーラは彼に近づこうともしない。ひとり赤鼻がわくわくした様子を見せているが、その他の選手たちは彼と目を合わせないようにと視線を明後日の方向へと向けていた。

 シオンは二中ピッチ中央付近で急ブレーキをかけて立ち止まると、なんとその場に仰向けに寝転んだ。
「はああああ!?」
 二中選手たちだけでなく、ブルーサンダース一同も彼の意味不明な行動に思わず声をあげてしまう。するとシオンは仰向けの体勢から、膝を曲げたままの両足をぐぐぐとあげた。それを見た冥月が大きく瞳を見開く。
 冥月はすぐさま前線へと走り出しシオンの元へと到着すると、彼の近くに転がっていたボールを色へと出した。そしてふわりとジャンプし、二中ゴールに背を向けた状態でシオンの右足の裏側に着地した。
「お前も来い!」
 近くで呆けた顔をしていた武彦を冥月が呼びつけると、彼は挙動不審な動きをしながらも、シオンと冥月の元へとやってきた。
「草間。『少年チャンプ』黄金時代の読者だったお前ならば知っているだろう。かの名作『キャプテンフリューゲル』を」
 冥月が言うと、武彦は「あっ!」と言いながら左の手のひらを右の拳でポン、と叩いた。
「わかった! あの大技だな!?」
「そうだ。ならばお前もシオンの左足に乗れ。合図は解っているだろうな?」
「勿論だ」
 武彦がニヤリと笑いながら、よいしょとシオンの左足の裏側に乗っかった。それを見た色は「……あれか!」と言うなり少しドリブルをし、クロスを上げられる場所へと移動する。

「さあ! 準備は整いました! 皆さんいいですか!?」
 シオンの問い掛けに、冥月と武彦、そして色が「おう!」と答える。
「それでは行きましょう! 『ブルーサンダーツインオーバーヘッド!』」
「よし!」
「いけェ!」
 冥月と武彦が合図を叫ぶ。するとシオンはふたりを支えながらも両足の膝を曲げた。そして、
「ハイ!」
 と言うなり、ふたりを押し出すように両足を空に向けてぐんと伸ばした。冥月と武彦が、シオンの両足をバネにして高く跳躍する。そこへ色の完璧なクロスがあがってきた。

 冥月が空中でオーバーヘッドの体勢に入る。横では武彦も同じ姿勢に入っている。色のクロスボールは絶好の位置へと飛んできている。間違いなく『ブルーサンダーツインオーバーヘッド』は完成する、筈だった。
 しかし突如ふたりの間に現れたものを見た冥月が仰天した。何とシオンまでがオーバーヘッドを放つべくジャンプしてきたのである。しかもジャンプ台無しで。しかも先にジャンプしたふたりにあっさり追いつくスピードで。
 こうなったらトリプルならぬトリプレッツオーバーヘッドにしてしまうしかない。思い切った冥月が勢い良くオーバーヘッドキックを放った。ボールを蹴りつける激しい音が鳴り響く。
 しかし、シュートに成功したのは冥月だけだった。他のふたりはタイミングがずれたのかどうかは知らないがキックに至ることはできなかったらしい。結局シングルオーバーヘッドになってしまったが、決まってさえいれば別に何人で蹴ろうとも関係のないことだ。。そんなことを思いつつ、冥月は軽く着地を決め、ゴールを見た。
 ゴールライン上に立ち尽くしたままの赤鼻が、呆然とした様子でボールを持っている。どうやらボールは運悪く彼の腕の中に飛んでしまったらしい。やはりシングルではなくツイン、或いはトリプレッツでなければこの技の破壊力は活きないのか。
 冥月はチッと舌打ちをすると、そういえばあのふたりは無事に着地できたのだろうか、と辺りを見回し、目に飛び込んできた光景にまたしても仰天した。

 実は冥月がボールを蹴りつけたそのとき、こともあろうにシオンのオーバーヘッドが武彦の顔面を直撃していたのである。どうやら回転が速すぎたらしい。武彦が「ぐえっ!」と悲鳴をあげるも、冥月のキック音にかき消されてどこにも響かない。
 しかも、そのまま背中から地面に落ちた武彦をまたも悪夢が襲ったのである。首に巻いたスカーフを風になびかせながらエレガントに着地しようとしたはずのシオンが、回転しすぎて頭から落下してしまったのだ。しかも武彦の腹直撃で。
「げぶぉっ!」
 その悲鳴が、武彦の最期の言葉とな――りはしなかった。幸いにもシオンが頭で落下したからである。これがもし彼のつま先であったなら、武彦は今ごろ空のひとになっていたかもしれない。

「武彦さん!!!」「草間さん!」「草間君!」
 倒れている武彦にシュラインが、色が、トヨミチが駆けつける。武彦は腹を押さえながらも身体を起こし、
「……これでまた、1点リードだ」
 と、ハードボイルド風の口調で言いながら親指を立ててみせた。しかし、それを見た色がプッと吹きだす。
「な、何故笑う!」
 武彦が色へと詰め寄ると、色は「ゴメンゴメン!」と両手を合わせた。
「いや。つーか点入ってねーし!」
「なぬ!?」
「それに草間さん鼻血ダラダラ垂らしてんだもん。そのツラとカッコつけたボケ発言が妙にツボっちゃってさあ」
「は、鼻血だと!?」
 慌てて鼻を押さえる武彦。そしてパッと手を離すと、その手は血だらけだった。武彦はユニフォームの裾でその血を拭い、さらにユニフォームを引っ張り顔中を拭きはじめる。そんな彼を心配そうな顔で見ながら、シュラインが口を開く。
「ねえ武彦さん。そのユニフォームって、リオンさんからの借り物じゃなかったかしら」
「あ」
 その通りであった。彼の着ている白いユニフォームはリオンの愛するASローマのレプリカユニフォーム。しかもクリーニングしてから返せと口酸っぱく言われていたものだったのだ。
「……草間さん」
 いつしか自分を見下ろしていたリオンの目が据わっているのに気付いた武彦は、ふらふらとその場に伏した。



<-- scene 6-46 -->

 結局武彦は一旦ベンチへと下がり、ユニフォームを着替えることになった。ついでに鼻血止めも。別にひとりでもできそうなものだが、武彦に任せておいてはトヨミチのように鼻に煙草を詰めてはい終了、ということになりかねない。そのためシュラインが同行し、彼の手当てをすることになった。
 そのため、現在ブルーサンダースはふたり少ない状況で戦っている。対する二中チームは、絶好の逆転チャンスとばかりに速攻を仕掛けてきた。

 左サイドの二中のナマドーラが、手薄になっている右へとポジションを移動し、ベベちゃんとのコンビネーションで一気に攻めあがる。リオンがボールを奪うべく彼らへと向かうも、キックの精度に定評があるふたりだけあり、そのパスワークには一糸の乱れもない。インターセプトしようとスライディングをしたリオンだったが、ふたりのトリッキーな動きにより想定していた場所とはパスコースが変わり、そのまま抜かれてしまった。
 前方からはクミノ、後方からはトヨミチがふたりを止めるべくプレッシャーをかけるも、辛うじてトヨミチが二中のナマドーラの前へと身体を入れて彼を足止めするに留まった。依然ボールはベベちゃんが支配したままだ。

 前方からドリブルで上がってくるベベちゃんからどうすればボールを奪えるのか。クミノは考えあぐねていた。小学サッカーで彼が出場した全試合のデータを見ても、彼のプレーには全くといって一貫性がないようで、毎試合ポジションも違えばシュートを放つ位置も違い、試合の中でもパスもあればシュートもあり、ポジションなど無いに等しい動きであちこち歩き回っているようだった。統計したところで確実性の高いデータは何一つ出てこない。こんな選手をどうやって止めればいいのか。

 クミノの目の前で、またベベちゃんは全く予想していなかったプレーをした。彼はクミノを抜こうともせず、その場でゴール近辺へと鋭いシュートを放ったのである。いや、シュートではなくクロスなのかもしれないが。どちらにせよ想定外の出来事である。
 クミノがゴール前へと振り向くと、何と右ゴールポスト前に悪童が走りこんでいた。シュートかクロスかわからないスピードボールへと彼が右足を前に出す。その足をボールが直撃した。

 左側に位置を取っていた暁空は一歩も動けなかった。いや、動かなかったというほうが正しいかもしれない。というのもただ前に押し込んでいれば得点になっていたはずのボールが、暁空から見て左方向へと高い弧を描きながら、ゴールの遥か上を越えて飛んで行ってしまったのである。
 両手で顔を覆う悪童。一体彼に、何が起こったというのか。

 クロスを出したベベちゃんが困った顔で悪童を見ている。いや、呆けているのかもしれないが、顔立ちのせいで困った顔にしか見えない。一方では、逆サイドにいたナマドラもどきが悪童の元へとのろのろ歩いて行った。
「今の、何」
 無表情のままそう問いかけるするナマドラもどきに、悪童は答えない。
「今のヘボシュは何、って訊いてるんだけど」
 ナマドラもどきが再度問うと、悪童が声を荒げた。
「るせーな! あの泣き虫野郎がクロスだかシュートだか何だか良くわかんねーボールよこしたのが悪りーんだよ!」
 完全に逆切れである。それを遠くから聞いていたベベちゃんがはぁ、とため息をついた途端、背後からとてつもなく大きな気配を感じ、反射的に振り向いていた。何とそこには般若の形相をしたキングの姿が。その彼がベンチから立ち上がった。
「ああっ! 先輩! 待ってください!」
 ベベちゃんが止めるのも聞かず、キングがフィールド内へと走って行く。

「あ、キング来た」
 ナマドラもどきが指差した方向を見た途端、悪童が「げっ!」と彼の後ろへと回った。しかし無常にもキングはナマドラもどきの肩越しに悪童の襟を掴むと、ナマドラもどきの後ろから彼を引きずり出した。キングは自らの前へと悪童を立たせると、憤怒の形相で彼へと怒鳴りだした。
「おめー……さっきのシュートは何だ!? 前ガラ空きだっただろ!? 基本通りに蹴りゃああっちの素人でも楽勝で決めれるシュートを、何で二中サッカー部員のおめーがあんなフカシてんだ!? おめーやる気あんのか!? なあ!? おい!?」
「いやいやいや! そんな! 別にやる気がなかったわけじゃなくって!」
「じゃあおめーは何故あんなシュートを打ったんだ!? おい!?」
 キングの怒涛の詰問に、悪童は口をへの字に曲げ、下唇を突き出しながらぽつりと呟いた。

 ――急にボールが来たから。

 その返答に、辺りにいた赤いユニフォーム姿が一気に固まった。かたやキングは固まりこそしなかったものの、その瞳はどこか遠くを見つめているようだった。彼はぶつぶつと独り言を呟いていたが、やがてがばりと悪童へと向き直った。
「『急にボールが来たから』うまくシュートできなかった、だあ!? おめーそれでもフォワードかあああああ!!!」
 キングは悪童へと東京タワーまでも届きそうな大声で盛大に怒鳴ると、悪童の顎目掛けてカンフーキックを繰り出した。
「ぐえっ!」
 悪童が、悲鳴と共に三十メートルほど吹っ飛ばされる。しかしかわいそうなことに、誰も彼に駆け寄ろうとはしなかった。
 そこへ主審が駆けつけてきた。主審は尻ポケットからカードを取り出すと、またしてもキングへと高らかに掲げた。言うまでもなくそれは、シオンの言うところの『赤のエンゼルカード』。つまりレッドカードである。それに対しキングが猛烈に反論しはじめた。
「何で俺がレッドなんか出されなきゃなんねえんだよ! 俺は一度退場してんだぞ!? 関係ねーじゃねえか! おい!?」
 すると主審は淡々と理由を述べた。
「ひとつ。審判の許可なくフィールドに侵入したこと。ふたつ。味方選手とはいえ暴力行為を働いたこと。ふたつを総合した結果がこのレッドカードです。すみやかに退場してください」

 その頃、ブルーサンダースの選手たちは彼らを指差しながらゲラゲラ笑い転げていた。
「や、まさか草間さんじゃなくてあいつが『QBK』とは!」
「おいリオン、QBKって何だ? 何かの秘密組織か?」
 いつの間にかフィールドに戻ってきていた武彦が問うと、リオンは首を横に振った。
「違います。『急に』『ボールが』『来た』の頭文字をとったのが『QBK』です」
「成る程!」
 リオンと武彦は肩を組むと、悪童を指差して「プギャー!」と笑い出した。
「つーかあのキング! 退場したくせしてまた出てきてカンフーキックって何だよ!」
 笑い転げている色の傍らでは、トヨミチが何やら考え込んでいる。
「そして一試合で二枚のレッドカードか……そうか。わかったぞ。彼はただのキングじゃない。そう。言うなれば」
「ズバリ、退場王!」
「その通りだ、草摩君!」
 色とトヨミチは握手を交わすと、すごすごとベンチに下がって行くキングを見ながら再び爆笑した。



<-- scene 6-47 -->

「よっしゃ! 逆転行くぞ!」
 暁空が自陣深くから大きくボールを蹴り出したボールはトヨミチを経由し、シュラインへと渡った。誰にパスを出そうかと辺りを見回していたシュラインの瞳が大きく見開かれる。何と、キーパーの暁空が勢い良く走って来ているではないか。
「し、紫東さん!?」
 シュラインは動揺しながらも、反射的に彼へとボールを出していた。

 暁空がゴールキーパーとしてやってみたかったことのひとつは、古武術を駆使したディフェンスであった。しかし実はもうひとつあったのだ。それが今の、キーパーもフィールドプレイヤーとして攻撃参加する、『全員攻撃』である。
 シュラインのボールが暁空の足元へと渡る。ところが暁空はそれをうまく受けられず、彼の足に弾かれたボールは明後日の方向へと飛んで行ってしまった。暁空の表情が強張る。
 しかしそれをフォローしたのがリオンだった。その彼がキープしたボールを一気に前線の色へと送ると、色はフィールドに吹く風の如く流れるようにドリブルで進んで行く。今の彼にはもう何も怖いものなどない。二中のナマドーラを、鬼軍曹を、次々とフェイントで抜き去りなおも前進していく色。彼の目の前にはシュートコース広がっている。
 色は躊躇いもせずミドルシュートを放った。大砲のそれと遜色ないスピードボール。しかし大砲のそれとは違うことがあった。色のシュートボールはスピードに乗りながらぐんと曲がり、上昇していったのだ。
 大砲がその変化についていけずボールに置き去りにされる。しかし最後の砦、赤鼻はその変化にも対応していた。瞬時にゴール左上隅へとジャンプした赤鼻のグローブの先がボールに触れる。ボールはクロスバーに当たり、ゴールを越えながら落下していった。

「チックショー! 決まると思ったんだけどなぁ」
 色がぼやきながら、ボールを手にコーナーエリアへと向かって行く。しかし突然、その肩をぐいと掴まれた。
「誰だ!?」
 振り向くと、冥月がそこに立っていた。
「何だ、冥月さんか。俺に何か用でもあんの?」
 色が問うと、冥月は無言のまま色の手からボールをひょいと奪った。
「このコーナーは私が蹴る。お前は集団に入ってゴールを狙え」
 冥月の発言に、色は声を荒げた。
「そんなん絶対嫌だね! 俺の足のことでも気にしてんのかもしれないけど、そんな心配なんていらねーし!」
「違う」
 即座に冥月が首を振った。
「別にお前の足のことなど何とも思っていない。影の動きにあった乱れも今は無くなっているしな」
「じゃあ何でだよ!?」
 必死に食い下がる色に、冥月はふふりと笑いながらゴール前の集団を指差した。
「あそこにお前の練習仲間がいるだろう。私がお膳立てしてやるから、お前らのコンビプレイでゴールを奪ったらどうだ?」
 振り返った色の目に映ったのは、何とキーパーの暁空の姿。色は唖然とした顔で彼を見ていたが、やがて冥月へと向き直った。
「……サンキュ。んじゃあちょっくら働いてくるとしますか!」
 色はにかっと笑うと、ゴール前の集団へと駆けていった。

 冥月のコーナーキックが緩やかな弧を描いてゴール前の集団の頭上へと飛んで行く。それに真っ先に反応したのが暁空だった。彼はその場にいた誰よりも速く、誰よりも高く跳躍した。が。
「ちょ、暁空さん跳びすぎ!」
 色が言った通りであった。暁空の脚力があまりに強かったため、頭で合わせるどころかボールよりも上に跳んでしまっていたのである。暁空が「やべっ!」と呟きながら、とりあえずクロスバーの上へと着地する。そこから下を見下ろすと、ゴール前の集団からやや離れたところで踊っているシオンと目が合った。スカーフを揺らしながら、シオンがぱちりとウィンクする。

 そのウィンクに、暁空の胸が躍った。ワクワクしながらシオンを見ていると、何と彼は暁空が心の中で望んでいた通りのポーズを取ったのである。暁空は色がボールをキープしながら集団を一旦抜け出そうとしているのを見て、彼に大声で呼びかけた。
「色! クロス頼む!」
「はあ!?」
 状況を把握していない彼を余所に、暁空がシオン目掛けて大きくジャンプする。
 シオンは先の『ブルーサンダーツインオーバーヘッド』のときと全く同じ、ジャンプ台の姿勢で地面に転がっていた。その足の裏を目掛け、暁空が両足を伸ばしながら着地体勢に入る。ふたりの足の裏と裏がぴったりと重なった。
 クロスバーという高い場所からのジャンプとそれをがっちり受け止めたジャンプ台が生み出した強烈な反動の力をバネに、暁空が仰向け状態の身体をひねりながら、ゴールに頭から突っ込んで行く。

 さながらロケットのような彼の姿に、色は瞬時に足を振りかぶり、シュートにも匹敵する力でもってクロスを上げた。ロケットの軌道とボールのそれがぴったり重なっているのがわかる。
「つきぬけろおおおおおおおおおお!!!!!」
 腹の底から、魂の底から、あらん限りの声で色が叫んだ。
「うおおおおおおおおおお!!!!!」
 吼えながら飛んでいる暁空の頭がボールを捉える。
 光速ロケットがボールを、そして赤鼻をも巻き込みながら、ゴールネットをつきぬけた。
 そして宇宙へ――

 はさすがに飛ばなかったらしく、暁空と赤鼻、ついでにボールはブルーサンダース側のゴールネットの裏側に突き刺さってようやく落ちた。暁空と赤鼻は「「地球一周宇宙の旅!」」などとわけのわからないことを言いながらはしゃいでいる。
「……たった数秒で地球を一周するなんてありえないわ」
 彼らの発言を耳に挟んだクミノがぽつりと呟いた。しかし、向こう側のゴールをつきぬけてこちら側から現れた、というのがどうも腑に落ちない。どこかの異界でもくぐってきたのだろうか。
 いや、そんなことはどうでもいい。残り数分、自分たちは何としてもこのリードを守り続けなければならないのだから。
 クミノは表情を引き締めると、きっ、と前方を睨みつけた。



<-- scene 6-48 -->

 両チームの得点はブルーサンダースが9点、対する二中チームは8点。

 長いロスタイムとはいえ、もうだいぶ時間は過ぎている。いつ試合終了のホイッスルが鳴るかわからない状況の中、流石の二中チームのプレーにも焦りの色が見え始めた。気ばかり急いてボールが前に進まないのである。
 センターラインをようやく通過したことを機に、鬼軍曹から二中のナマドーラへとボールが渡った。しかし彼は得意のドリブルで疾走するかと思いきや、何とその位置からロングシュートを放ったのである。
「この短気者が!!!」
 鬼軍曹が彼の背中へと怒鳴りつけるも、二中のナマドーラは振り返ろうともしない。もうこのチームはバラバラだ、と鬼軍曹がため息をついたそのとき、ロングシュートの軌道の軌道が一気に変化した。ゴール前で突然急激に落下したボールが、ゴール右下を陥れようとしている。しかし相手キーパーの鋭い対応から、ラインを割るには至らなかった。
 奴は自棄を起こしてあんなシュートを打ったのではない。計算しつくしたうえでシュートに踏み切ったのである。鬼軍曹は、自分の方こそ短気者だったな、と苦笑した。

「よっしゃ! 追加点行くぞ!」
 暁空がボールを大きく蹴り出すと同時に、またしても前方へと走り出した。それを見たクミノが大声で叫ぶ。
「紫東! 戻れ! 失敗したときのリスクが大きすぎる!」
 しかし暁空の耳には届いておらず、彼は意気揚揚とゴール目掛けて走り続けている。ゴールキーパーの醍醐味を二度も味わえるなんて。先の『キャプフル』並みのトンデモゴールを決めたこともあり、彼のテンションは上がる一方であった。

 リオンは自陣に残るべきか攻撃参加するか考えながら、フィールド中央付近をうろうろしていた。クミノの言う通り、もしカウンターでも食らったものならあっという間に同点にされてしまう。しかし何故かこの『全員攻撃』はうまくいくような気がしてならなかったし、たとえカウンターになったとしても防ぎきれる気がした。
 青と白のユニフォームに身を包んだ十一人のファンタジスタたちの存在が、自分を前向きな気分にさせてくれている。
 右サイドの冥月はもとより、あの零ですら攻撃参加しようと駆けているのを見て、
「……こうなったら、俺もとことんやるしかないってことか」
 リオンがふうと息をつくと、前線へと駆け出して行く。その表情は、どことなく楽しげであった。

 暁空のゴールキックは三下の頭を経由し、シュラインの前に落ちた。自分へと向かってくる相手選手数人の激しい足音が聞こえる。シュラインはすぐさま近くにいたトヨミチへとボールを出した。彼がダイレクトでボールを出した先にはシオンがいた。が。シオンは千鳥足で辺りを歩き回っているだけで、全くボールに気付く気配が無い。慌てて自らフォローに向かおうとしたトヨミチだったが、その前を暁空が走り抜けて行く。彼はシオンの近くを転がっていたボールをキープすると、
「色! パス!」
 と言いながらボールを蹴った。しかし待ち構えていた色の表情が呆けたそれに変わった。暁空が蹴ったボールは、またしても明後日の方向へと飛んでいってしまったのである。
「うわ、またやっちまった……!」
 暁空が両手で頭を抱える。

 フィールド内をあちらこちら走りつづけていた三下の頭にボールが当たった。そのボールこそ、暁空が色へと出したはずのパスボールであった。頭を襲った衝撃に「ひいぃ!」と悲鳴をあげながら三下がその場で派手にすっ転ぶ。
 ところが三下の頭に当たったボールは、信じられないことに武彦への絶好のパスとなったのである。
「ナイスパス、三下!」
 武彦はボールを胸でワントラップすると、かつて黄金の隼が見せた反転ボレーを打つ体勢へと入った。
「ああっ! 武彦さん、無謀なことはやめて!」
 悲鳴のようなシュラインの声も武彦には届かない。なぜなら今の武彦には自分自身に対する確固たる自信があるからだ。彼はゴール目掛けて強烈なボレーシュートを放った、筈だった。
 しかし武彦のシュートボールは相手ゴールではなく、こともあろうに味方陣内へと勢い良く飛んでいったのである。
「し、しまった!」
 武彦ががくりとその場に膝をついた。
「それより早く戻らないと! 自陣には今クミノちゃんしか残ってません!」
 リオンが全員へと促し一目散に駆け出した。しかし地面のへこみに足を引っ掛け盛大に転んでしまう。立ち上がろうとしたそのとき、自分の身体が妙に重いことに気がついた。別に何かが乗っているわけではない。

 疲労。ブルーサンダースにとって最後にして最大の試練が、ここにきて遂に襲ってきたのである。



<-- scene 6-49 -->

 シオンはおにぎりを探していた。とっくに昼食のお重はおろか、赤鼻との闘いで食べたシュウマイもエネルギーとして放出されてしまっていたのである。つまり彼は空腹の極地にあった。
「おにぎり、おにぎり……」
 朦朧とした足取りでおにぎりを探すシオン。すると突然、目の前を一個の巨大おにぎりが通り過ぎて行ったではないか。
「おにぎり発見!」
 シオンは履いていたスパイクを脱ぎ捨て裸足になると、野生児の如くおにぎりを追いかけて行った。

 クミノはたったひとりでゴール前に立っていた。草間のあのシュート、もとい相手へのチャンスボール。やっぱり草間は草間だった。あのとき逆転シュートを決めたのはただのまぐれだったのだ。
 そして調子に乗った彼のせいで、今ブルーサンダースは最大の窮地に立たされている。自陣へと迫り来るボールを相手フォワード陣が全員で追いかけてきている。ボールが失速しはじめた。これでは彼らに追いつかれてしまう。青いユニフォーム姿はまだ相手陣内にいてなかなか戻って来ない。自分がボールをキープしに行くしかないのか。しかしもし自分より先に彼らに追いつかれたなら、ゴール前は無人となる。それにボールに向かったところで彼らより先にキープできる保証などどこにもない。

「ブルーサンダース! 全員さっさと戻って来い!」
 クミノが前方へと叫んだそのとき、ふいにひとりの青いユニフォーム姿が猛スピードで走ってくるのが目に入った。あの珍奇なスカーフは、シオンだ。彼は一瞬のうちに相手フォワード陣を抜き去ると、肉食獣のように瞳をギラつかせながらボールへと走って行く。そのしなやかなフォームは、クミノにチーターの走りを連想させた。
 そのシオンがボールへと追いつく。そしてボールを追い抜いてしまう。それを見たクミノの表情が一気に固まった。もしかして彼はただ走っていただけなのか? ディフェンスに戻って来たわけではなかったのか?
 そのとき、ボールを追い抜き走っていたシオンが突然、急ブレーキで立ち止まった。そしてすぐさま振り返り、
「お! に! ぎ! りーーーーー!!!」
 と叫ぶなり口をこれでもかというほど大きく開いた。そのシオンの顔面をボールが直撃する。衝撃で背後へと吹っ飛ばされ地面に叩きつけられたシオン。しかしそれでも、彼はおにぎりことサッカーボールを上下の歯で噛んだまま離していない。
「シオンさん、大丈夫!?」
 彼へと駆け寄るクミノに対し、シオンは泣きそうな顔で、
「こ、これも、偽おにぎりでした……」
 と消え入るような声で言うと、瞳を閉じ、頭をかくりと横に曲げた。力を失った彼の口から、ボールが離れて行く。クミノはすぐさまボールへと足を出し、自らキープした。その彼女を二中フォワード陣が一気に囲んでくる。

「やばい! クミノがピンチだ! みんな早く戻るんだ!」
 武彦が叫んでいる。しかし彼は走っている集団の最後尾にいた。その前にはトヨミチ、さらにリオン。ニコ中トリオはニコチンとタールの洗礼を毎日受け続けたことにより、基礎体力が低下してしまっていたのである。恐るべしニコタール。

 トヨミチは必死に走りながら考えていた。恐らくロスタイムはあと僅か。もし今同点に追いつかれてしまったならば、その後点を取り返す時間はない。そして、延長戦を戦い抜く体力はブルーサンダースには残っていない。
 何としても1点を守りきらねばならない。しかし自分を含めた皆が必死に走ろうとしても、疲労がそれを妨げる。その疲労をかき消すには、皆を走らせるにはどうすれば――
「ちくしょう! この『ミスターノーゴール』武彦が戻りさえすれば!」
 背後で武彦が声を荒げたそのとき、トヨミチの脳裏にとある選手の姿が過ぎった。トヨミチはその場で立ち止まり、走っている武彦が自分より前に出たそのとき自分へと、そして味方へと魔法をかけた。そして大きく息を吸い込むと、怒鳴り声でもってその魔法を開放した。

 ――走 れ ぐ ず 共 ! ! ! ! !

 トヨミチがそう叫んだ瞬間、選手たちが一斉にダッシュした。彼らの顔は一様に恐怖にとらわれている。それまでののろのろとした走りが嘘のようなフルスピード。先程のシオンの走りに負けず劣らずの速さで全力疾走していくではないか。
 彼らと同様のスピードで走りながら、トヨミチは武彦に感謝していた。もし彼があのとき『ミスターノーゴール』と言っていなかったなら、自分はあの選手のことを思い出さなかったからだ。

 その選手とは、武彦にカレーマンの話をしたとき軽く口にしたドイツ代表の元正ゴールキーパー『オリー・ヴァカーン』。常に自陣最後尾からチームメイトに激を飛ばす姿は同僚選手に彼を鬼と言わしめた。また、負け試合の後にディフェンダーたちを小一時間どころか三時間も説教したことがあったり、ミスしたディフェンダーをボコったり等数々の逸話が残されている。ちなみにとある同僚プレーヤーは何かのインタビューにて「この世で怖いものは戦争と、オリー・ヴァカーン」とコメントしたらしい。それほどまでに勝負に厳しく顔も怖い男に「走れ」と言われてしまったら、もうひたすら走るしかないのである。そうしなければ後に悲惨な運命が用意されてしまうからだ。

 ともあれ、オリー・ヴァカーン(種族:ゴリラ/原産国:ドイツ)に怒鳴られた一同は、ゴールを守るため走り続けた。四人の相手フォワードからボールを死守し続けていたクミノが彼らの姿を視線の端に認め、心の中で安堵のため息をもらす。
 瞬く間にゴール前へと到着した一同がゴールライン上に整列する。シュートコースは完全に塞がった。
「ちょ、何だよあれ!」
 それを見た悪童が声を荒げると、ナマドらもどきもそちらへと顔を向けた。
 チャンスだ。クミノは余所見している彼らの間を強引にこじ開けながらボールと共に外へと抜け出すと、相手陣へと大きくボールを蹴り出した。

 主審はちらと腕時計を見ると、ホイッスルを口に咥え、ゆっくりと三度吹き鳴らした。
 それは、試合終了を告げる音色。
 笛の音を耳にしたブルーサンダースの選手たちは、思い思いに勝利を叫びながら、どっとその場に倒れこんだ。



<-- scene 6-50 -->

 勝利の女神が、手のひらに掬い取った砂屑を、零してしまわないようにとそっと硝子の小瓶へ注ぎ込んでいる。
 その微笑みは、溢れんばかりの慈しみと愛情で輝いていた。



<-- epilogue -->

 ふいに額を襲った冷たさに、草間・武彦はぱちりと目を開けた。まだ寝起きでぼうとしているが、いつも見ている彼女が傍らにしゃがみこんで自分を覗き込んでいる姿はとらえることができた。
「シュライン」
 名を呼ばれた彼女――シュライン・エマはくすりと笑い、
「お疲れ様。はい、ドリンク」
 そう言いながら、武彦の額にくっつけていたスポーツドリンクの缶を今度は頬にくっつけた。
「冷たっ!」
「もう。さっき額に置いたときは何も言わなかったくせに」
「さっきは意識が朦朧としてたんだよ」
 武彦はそう言いつつもシュラインから冷えたスポーツドリンクの缶を受け取ると、身体を起こして一気に飲み干した。
「ふー。すっきりした」
 武彦は空き缶をシュラインに渡すと、辺りを見回した。
「あれ? 他の連中はどこ行ったんだ?」
「もうとっくにベンチに戻ってるわ。最後まで寝てたのなんて武彦さんだけよ」
 シュラインが苦笑しながら立ち上がり、
「さ、私たちも戻りましょう」
 そう言うなり、ゆっくりとベンチへと歩き出した。

 その後ろ姿を見ながら、武彦はハーフタイムでの出来事を思い出していた。
 あのとき彼女は、自分のことを「何もわかっていない」と評したが、それは違う。いつもアホなことばかりして危険な目に遭っている自分を、シュラインは心の底から心配しているのだ。そして、アホなことをやめられない馬鹿な自分のことを心配しながらも暖かく見守ってくれている。
 自分が危険な目に遭うたびその心を痛めながらも、それでも何も言わずにいてくれる彼女。本当はシュートを決めた喜びをいち早く分かち合いたかっただろうに、馬鹿な自分がいじけてしまったために言葉をかけるのを躊躇した彼女。『ミスターノーゴール』とからかわれたショックで地に落ちた自分の肩にそっと手を置いてくれた彼女。
 どうして彼女はこんなにも素敵な女性なのに、こんな馬鹿な男を愛していると言ってくれるのだろう。

「ねえ、夕食は何がいい? 優勝記念に腕振るっちゃうから、何でも好きなものリクエストして頂戴ね」
 唐突に振り向いた彼女は笑顔だった。美しく可愛い笑顔。どうしてそんな表情を、こんな自分に向けてくれるのだろう。
「武彦さん、どうかしたの?」
 黙ったままの武彦に、シュラインが不思議そうな顔で問い掛ける。武彦は暫く黙っていたが、ややあって口を開いた。
「なあ、シュライン」
「ん?」
「どうしてお前は、俺みたいな馬鹿な男にこんなに尽くしてくれるんだ? 馬鹿なだけじゃなく将来性すらないってのに」
 するとシュラインはぽかんとした顔をしていたが、やがてくすりと笑った。
「武彦さんが好きだから。愛してるから。他に理由なんて無いわ」
「や、だからどうして」
「もう。理由は無い、って言ったでしょう。愛することに理由なんて必要ないんだから」
 シュラインはそう言うと、
「これ以上言わせないでよね。ただでさえ照れてるんだから」
 と言うなり武彦に背を向けてしまう。武彦は無意識のうちに、その背中に抱きついていた。

「ちょ、いきなり何するのよ! こんな公共の場所で。恥ずかしいじゃない」
「なあ、シュライン」
「何よ」
「そろそろ、籍入れるか」
「はあ!?」
 シュラインの呆れの混ざった叫びに、武彦は抱きついていた腕を放すと、むっ、と声を荒げた。
「はあ!? って何だよ! こういうときは『嬉しい! 武彦さん!』って抱きついてくるのがセオリーじゃないのか!?」
 その発言に、シュラインは明後日の方向を見ながらぷぷっと吹きだした。
「何故笑ううううう!」
「だって、武彦さんこそセオリー無視しまくってるじゃない。私たちまだ婚約もしてないのに、いきなり入籍の話でしょう? それがおかしくっておかしくって」
「せ、セオリーか……」
 彼女の言う通りであった。武彦の短絡的な思考では愛している、イコール入籍、としか出てこなかったのである。
「でも」
 シュラインが振り返る。
「武彦さんのその気持ち、本当に嬉しいわ……ありがとう」
 そう言いながら彼女は、照れたような、はにかんだような微笑みを武彦に向けた。

 それから一週間後。いつものように興信所に出勤してきたシュラインは、中の空気がいつもより綺麗なことに気がついた。勿論この赤貧興信所で空気清浄機など導入するなんてありえない。それならば原因は何なのか。シュラインが辺りを見回していると、灰皿が目に入ってきた。赤マルの吸殻こそ入っているが、それにしても少なすぎる。他の灰皿をくまなく見渡しても同じだった。まさか武彦が禁煙をするとは考えられない。零が片付けたにしては灰皿は汚い。ならばどうして吸殻が少ないのか。
 とりあえず、奥の部屋で寝ている武彦が起きたら聞いてみればいい。シュラインは自分のデスクへとバッグを置くと、事務関係の書類を整理しようとデスクの引き出しを開けようとしたが、その手が止まった。
 デスクの上に、見慣れない小袋が置いてある。
 何かしら、とそれを手に取り手のひらに中身を出した途端、シュラインの瞳が大きく見開かれた。

 それはシルバー製のひとつの指輪であった。シュラインはそれをまじまじと見つめながら考えていた。いきなり煙草の量が減った武彦。シルバーの指輪。セオリーか、と呟いた彼。
 もしかして彼は、自分にこれを贈るために、煙草を我慢していたのかもしれない。
 シュラインが手のひらからそっと指輪をつまみ、左の薬指に嵌めてみる。するとそれは寸分の狂いもなく、指の付け根にぴったりと収まった。
 シュラインはしばし指輪の嵌められた左手を見つめていたが、やがて指に顔を近づけ、指輪にそっとキスをした。



<-- end -->






□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【整理番号:PC名/性別/年齢/職業】

【0086:シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1166:ササキビ・クミノ(ささきび・くみの)/女性/13歳/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】
【2675:草摩・色(そうま・しき)/男性/15歳/中学生】
【2778:黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)/女性/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒】
【3356:シオン・レ・ハイ(しおん・れ・はい)/男性/42歳/紳士きどりの内職人+高校生?+α】
【3359:リオン・ベルティーニ(りおん・べるてぃーに)/男性/24歳/喫茶店店主兼国連配下暗殺者】
【6205:三葉・トヨミチ(みつば・とよみち)/男性/27歳/脚本・演出家+たまに役者】
【6330:紫東・暁空(しとう・あきら)/男性/26歳/便利屋】



□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

お世話になっております、こんにちは。
執筆を担当させていただきました、祥野名生(よしの・なお)と申します。
ウェブゲーム 草間興信所『求む、ファンタジスタ』にご参加いただきまして、ありがとうございます。

まず最初に、納期を大幅に過ぎてのお届けとなってしまいましたこと、誠に申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。
また、分量もありえないくらい多くなってしまいました。長すぎて一度に最後まで読みきるのは難しいかと思いますので、お暇な時間にでもちょこちょこ、と読んでいただけたらと思います。

全体の見直しや誤字のチェックは一通りいたしましたが、分量が分量だけに見逃してしまっている個所もあるかもしれません… もし明らかな矛盾点等ございましたら、納品後約一ヶ月はリテイク可能ですので、いつでもお申し付けくださいませ。
オフィシャルの指示があり次第、即時修正させていただきます。

ともあれ、今作が皆様にとって、いっときの楽しみになれば、幸いです。

もしご意見、ご感想などございましたら、お気軽にお寄せくださいませ。
またの機会がありましたら、どうぞ宜しくお願い致します(礼)



2006.08.23 祥野名生