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とまるべき宿をば月にあくがれて
夕餉の支度はとっくに済んでいた。
啓斗は長四角いテーブルを前にどっかりと胡坐をかいて座り、腕組みなどもして、憮然とした面持ちで襖の向こうを睨み遣っている。
茄子と大根を入れた味噌汁も、南瓜の煮物も、小鉢に盛り付けたひじきも、もうとっくに冷めている。
大仰なため息を一つ吐き出して、啓斗はふつりと視線だけを動かし、台所の側へと寄せた。
鯵は、まだ焼いていない。焼き魚は食す直前に焼いて出すのが美味いのだ。脂ののった背に、たっぷりの大根おろしと生姜を添えて。
「……あいつめ」
呟き、よいせとばかりに腰を持ち上げる。
「近頃、時々帰りが遅い。……あいつめ、まさか不良にでもなったつもりか」
不良という単語が既に死語に近いものである事になど気付きもせずに、一人ごちて、それから部屋を後にする。
壁にかけた時計は、もう夜の八時を過ぎていた。
時計の針と、窓の向こうに広がる夜の闇とを見比べて、それからテーブルの上のメニューを確かめる。
啓斗は、小さな舌打ちを一つつくと、小鉢や深皿にラップをかけて、誰の気配も感じられない家の中を歩き進めた。
玄関をくぐり抜け、人気の途絶えた路上の上に立つ。
待ち人が上って来るであろう、なだらかな坂道を下った先に目を向ける。
「……しかし、どうしたものか」
再び腕組みなどしてみるが、――いつ帰ってくるとも知れない相手を延々とここで待っているというのもどんなものだろうか。
ふと、視線を上へと持ち上げる。
夜の空に広がる星座群は、夏のそれを示していた。耳を寄せれば、どこから聴こえてくるものか、蛙の合唱が遠く近く響いているのが判る。
啓斗は再び、今度は小さな息を吐き出して、なだらかな下り坂の上へと一歩を寄せた。
ひゅう、とも、ひょう、ともつかない風の音が耳を撫ぜた。
僅かな瞬きの後、啓斗は歩み出しかけた片足をひたりと止めて、辺りに広がっていた夜の薄闇へと視線を向ける。
なだらかな下り坂は、いつの間にか木造の大きな橋へと姿を変えていた。
今しがた啓斗が下ったそれは、自宅前の路上に続く坂道ではなく、
「四つ辻か」
呟き、周りの景色を確かめる。
啓斗の周りに広がっているのは、啓斗の住む自宅周辺とは明らかに異なる景観を持った風景だった。
さくりと足を踏み出せば、夜の、しっとりとした風が啓斗の髪を梳いていく。
見上げれば、そこには先ほどまで広がっていたはずの夏の星座群は欠片もない。月もなく、街灯の一つですらもない。
夜目に慣れた目に映りこむのは、旧い都のそれを思わせる路面。舗装等といったものが成されていないその両脇に立つ柳やら松やらといった木立ちを横目に、啓斗はゆっくりと歩き出した。
四つ辻に足を踏み入れたのは、何も今回が初めてというわけではない。
歩き進める内に路はやがて大きな十字路――四つ辻へとぶつかる。辻の向こう角へと目を遣れば、そこには鄙びた棟が建っているのだ。
「もう、すっかり葉桜だな……」
ごちながら、あずまやの隣に並ぶ桜の木立ちに指を伸ばす。
啓斗が前回四つ辻を訪れた時には、桜は見事な花を咲かせていた。あれからもう数ヶ月も経ったのかと、啓斗はしばし目を細ませた。
さわさわと流れる夜風が、あずまやの中から漏れ聴こえる愉しげな唄や噺やらといった声を運び来る。
ちらと視線を寄せていると、中に居る者の何れかが啓斗の気配を察してか、ガタガタと音をたてて入り口の木戸が開かれた。
「おんやァ、あんたはこのあいだのォ」
開かれた木戸から顔を覗かせたのは、啓斗が前回四つ辻に来た折に会った妖怪の内の一人、河童だった。
「……こんばんは」
ぺこりと頭を下げて河童を見ると、河童の声に引かれたものか、「なんだなんだ」とばかりに次々と妖怪達が顔を覗かせていた。
「おや、啓斗クン」
最後に顔を出したのは四つ辻の主であるらしい壮年の男、侘助だった。
「こんばんは。……あの、うちのやつがお邪魔していませんか」
訊ねると、侘助はあずまや――茶屋の中を覗き見た後にかぶりを振る。
「確かにいらしていましたが、つい今しがた帰られたみたいですね。おや、どこかで会いませんでしたか?」
「いや、会わなかったな」
侘助に問われ、啓斗は辺りの暗闇を確かめる。
そこにはあるのは、やはり啓斗と侘助、そして闇に紛れて蠢く気の善い妖怪達の気配のみ。
「おや? そうですか。うーん、現世との行き来は同じ橋でしか出来ませんから、否が応でもすれ違うはずなんですけれどもねェ」
おかしいですねえと続けつつ、侘助は軽く腕組みをした。
「それはそうと、啓斗クン。啓斗クンもどうですか、中でお茶でも一杯」
そう続けて表情を綻ばせた侘助に、啓斗はしばし小さな唸り声をあげてからかぶりを振った。
「夕飯の支度を済ませてあるから、今回は結構です」
「そうですか」
頷き、侘助は微笑みながら茶屋を出て辺り一面に広がる薄闇へと視線を走らせる。
「うーん、橋ですれ違わなかったって事は、どこぞで道草でもしてんのかもしれませんねェ」
「大将、このボウズ以外にも、なにやら人間の気配ァしてますがねイ」
不意に声を挟みいれてきたのは大きな猫の姿をした妖怪だった。
「ふぅむ。啓斗クン、どうやらきみが捜している相手は、まだ四つ辻の何所かにいるようですねエ」
「……そうですか」
頷きをもって返し、啓斗は小さなため息を一つ吐く。
「ちょっと探しに行って来ます。……全く、あいつは」
そう告げてから丁寧に礼を述べ、啓斗は侘助達の居る茶屋を後にした。
再び踏み入れた夜の薄闇は、確かにそこかしこに蠢く妖の気配は漂わせているものの、茶屋の近辺に広がっていたような賑わいは感じられないものとなった。
さわりさわりと流れる風と、どこかから聞こえる水の音。時々、思い出したように唐突に姿を見せる紫陽花や合歓の木等が視界に映る。
気付けば、我知らずに足を止めて花に見入っている自分がいた。
啓斗はそういった自分に気付くと、ふつりと息を落として首を傾げるのだった。
「……寄り道する気持ちも、まあ、分からなくもないか」
小さくかぶりを振ってから再び歩みを進め、四つ辻の何れかにいるらしい捜し人を捜す。
と、猫の鳴き声が聞こえ、未だ立ち入っていない大路の向こうから一匹の仔猫が姿を見せた。
「猫か」
呟き、何はともなしに片膝をつく。
猫は真っ直ぐに啓斗の傍まですり寄り、ごろごろと小さく喉を鳴らした。
「随分と人懐こい。……しかし、四つ辻という場所に、普通の猫がいるとは」
言いかけて、ふと口を噤む。
仔猫の尾に、覚えのあるリボンが結ばれていた。
「おまえ、このリボンは誰に貰ったんだ?」
問いかけながらリボンに触れる。
リボンは、昨日の夜、街中で偶然に会った黒衣のパティシエ・田辺聖人がくれたケーキの箱についていたものだった。
猫が小さな鳴き声をあげた。
風が吹き合歓の木立ちをさわりと揺らす。
啓斗はふと顔を持ち上げて、薄闇の向こうに目を向けた。
かえっていったァよゥ
たったいまむこうにわたったよゥ
さわりと揺れる風に紛れ、闇の中に潜む妖達がさわりと唄う。
猫は啓斗の足をすり抜けて薄闇の向こう側へと姿を消した。
啓斗は数度ばかり目をしばたかせ、ふと小さなため息を漏らす。
「……まったく」
ぼやきつつ立ち上がり、現世へと繋がっている橋を目指して歩みを進めた。
帰ったら魚を焼かなくてはいけない。
味噌汁を温めなおし、煮物をレンジに入れて。――ああ、そうこうしている内に夜中になってしまう。
「皿洗いと風呂の支度はあいつにやらせてやる」
うんと大きく頷くと、啓斗の姿もまた四つ辻の闇の中へと消えて行った。
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0554 / 守崎・啓斗 / 男性 / 17歳 / 高校生(忍)】
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ライター通信
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いつもお世話様です。
このたびは四つ辻でのゲームノベルへのご参加、まことにありがとうございました。
四つ辻での鬼ごっこはいかがでしたでしょうか。
四つ辻は案外と狭く、また広い場所でありますので、あっちこっちと捜し回るにはうってつけの場所かもしれません。
書き手としてはとても楽しく書かせていただけましたが、啓斗様にはいかがでしたでしょうか。
少しでもお楽しみいただけていればと思います。
それでは、またご縁をいただけますようにと祈りつつ。
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