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鮮やかな色彩の雨に打たれて
「うわぁああ!!」
ものすごい悲鳴と音と埃が、部屋中に響いた。
何を思ったのか、大量に積んであった本を整理しようと、手をつけたのが間違いだった。
これだけの量の本の、真ん中辺りを引き抜いた自分の責任だ。
見事に脚立から床に落ち、頭に本をかぶりながら、花房翠(はなぶさ・すい)は腰をさすった。
「いってぇ…」
つぶやく台詞は、もうもうたる埃の嵐の中にかき消されていく。
だが、不意に閃く鮮やかな「色」に、翠はいつものように心を澄ませた。
(何だ?染物…?)
とても鮮烈な五色の布地。
こんなに鮮やか過ぎる色は、日本の四季が出す色ではない。
そう、その「四季」から微妙に外れたところにあるはずだ。
翠は、頭に乗っかっていた本をおもむろに手に取った。
「びんがた?」
聞き慣れない音だった。
だが、そこに載っていた色とりどりの色彩は、まるで生きているかのようで、瞬く間に魅せられる。
「沖縄か…」
そう、それは琉球の染物、「紅型(ビンガタ)」だった。
最近、人形師にとらばーゆを考えている身としては、他の人と同じ「色」には興味がない。
華やかで、鮮やかで、どこか内に生を秘めたその染物を、翠は手に入れたいとそう思った。
ちょうど、長々とお世話になっている取材先に手土産のひとつでも、と思っていたところだ。
沖縄なら、面白いものもたくさんあるだろう。
何かの拍子に、「紅型」を習える工房が見つかるかも知れない。
それに、どこぞの誰かが、バームクーヘンをご所望だったような気がする。そう、どこぞの誰かとは、翠に「おやつ係」やら「雑用係」やらを拝命した人物だ。
(帰りに長崎に寄って、見つけて来るか…)
「よっしゃ!行くぜ!」
善は急げ、である。
翠は愛車のヘルメットを軽快に横抱きにして、外へと飛び出した。
一路、有明埠頭を目指し、そこから沖縄行きのフェリーに乗る。
バイクと一緒に移動するなら、これくらいは常識だ。
さすがに船内でゴロ寝は遠慮したいので、二等寝台にする。
丸一日かけて、沖縄に到着し、翠は常夏の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
まだ夏には早い季節だが、ここはちがった。
何もかもが色濃く生々しく見えて、まるで原色の世界にいるようだ。
花も木も、命が感じられる。
「見事だよなー」
感心するようにそうつぶやいて、翠はバイクのエンジンをふかした。
そのまま、道沿いに走る。
那覇から北へ、58号線を走ると、浦添市を経て宜野湾市に入る。
そこで、翠は小さな工房を見つけた。
「体験コーナーか…」
体験、という簡単なものではなく、本格的な染物を教わりたい翠にとっては、少々不満が残る。
だが、こういう開かれた門戸を持つ工房ならば、他の場所よりは融通も利くかも知れない。
「すいませーん…」
翠は極彩色に染め抜かれた暖簾をくぐって、中に声をかけた。
出て来たのは、赤銅色の腕をした、屈強際まりない大男だった。
「何だ、紅型の体験の客か?」
愛想のかけらもないその返答に、閑古鳥が鳴いている理由も分かりそうなものだった。
だが、持ち前の冴えた第六感が、翠に何かを告げていた。
「体験っていうんじゃなくて、本格的な紅型の染色を教えてもらえませんか?」
男はじろりと翠を一瞥した。
「おまえ、何者だ?」
翠は簡潔に自己紹介をした。
男は黙って話を聞いていたが、やや太い眉を寄せると、片手を振った。
「駄目だ、帰れ」
「どうしてですか?!」
「…遊び半分の人間に、この土地の伝統を伝えてやる訳にはいかねぇ」
「遊び半分かどうかは、あんたが試してくれりゃいいじゃねぇか!」
こっちの真剣な思いを、と思わず翠は激昂する。
「俺はこの染物に一目ぼれしてここまで来たんだ、『ハイ、そうですか』なんて帰れるかよ!」
「…」
男は沈黙した。
怒っているようにも見えたが、やや笑っているようにも見える。
しばらく熱い静寂が流れ、それから男は工房の奥へと引き返した。
怒りのやり場を失って立ち尽くす翠の元に、男はすぐに戻って来て、「手を出せ」と言った。
翠の差し出した右手に、さらさらと砂のようなものがこぼれる。
真っ赤な、太陽の粉だ。
「これが何だかわかったら、教えてやってもいいぞ。紅型にはなくてはならんもんだ」
翠はその粉を反対の手の指でつまんでみた。
見事なくらいの緋に染まる。
(何だ、こりゃ…)
「わかった。絶対に突き止めてくるぜ!」
翠はヘルメットをかぶり直して、その粉を自分のハンカチに包んだ。
それを見て、男はにやりと笑った。
「風に飛ばすんじゃねぇぞ。高価なものなんだからな」
「わかってる!」
愛車に飛び乗り、翠は全速力で国道を駆け抜ける。
他の工房に飛び込んで、教えてもらうつもりだった。
だが、どこの工房に行っても、笑うだけで教えてはくれない。
もしかしたら、と翠は思った。
「あのオヤジ、口止めしやがったな…!」
こうなったら仕方ない、ヒントだけでも、とそこかしこで食い下がり、何度も頭を下げ、とうとうその真摯さに打たれたある工房のおばさんが、その染料を扱っている場所を教えてくれた。
一目散に向かうと、そこは小さな貿易会社だった。
「ホントにここなのか…?」
疑心暗鬼でドアチャイムを鳴らすと、小柄な男性が出て来た。
「何か用かい?」
「あの…」
翠は勢い込んで、染料を見せ、事の次第を説明した。
暑いので中へ、と言われ、男性と翠は応接室に入る。
「ちょっと待っていなさい」
男性は奥へと行って、あるものを持って戻ってきた。
そこには、茶色に近い紫をした、粒のようなものがあった。
「何ですか、これ…」
「君が持っている赤い粉の正体だよ」
よく見てごらん、と男性はシャーレごと、翠に渡した。
「こ、これ…虫?!」
「ああ、虫だ。『コチニール』と言ってね、南米が原産で、ペルーでは80%を生産している。これが、紅型の鮮やかな色を生み出すんだ」
「じゃあ、あの粉は…」
「そう、このコチニールを粉にしたものだよ」
翠はまじまじとシャーレを見つめた。
これが、紅型にとってなくてはならない、染料なのだ。
どこまでも作り物ではない、命の色。
翠は立ち上がって、男性に御礼を言った。
出て来た時と同じくらい素早く、バイクに乗ると、来た道を急いで引き返した。
もう西の空は紅く染まっている。
夜の訪れは、もうすぐだ。
工房にたどり着いた翠を迎えた、先の大男は、豪快に笑って翠の肩を叩いた。
それから、宿は取ってあるのか、飯はまだか、と質問攻めにして、ゆっくり休むよう言い置いた。
明日、紅型の行程を見せてくれると約束して。
翠はその工房に一月ほど滞在した。
紅型の行程はとても繊細で緻密、時間のかかるものであった。
だが、そのひとつひとつを一生懸命、翠は根気よくこなした。
無論、そんな短い間では習得できるものでは決してなかったが、一枚の小さな布が出来上がった時、翠はそこに、悠久の歴史を感じた。
「その布を、どうするんだ?」
今では師匠となった大男に、翠はうれしそうに告げた。
「俺の作った人形に着せたいんだ」と。
布の完成した翌日、翠は何度も何度も礼を言ってから、その地を後にした。
沖縄にいる間は、天気はとてもよかった。
だが、九州に渡った途端、ひどく道がぬかるみ、バイクで走るのが困難極まりない状態になっていた。
「何だよ、昨日、大雨だったのか?!」
まさか他の県の天気予報まで見るはずもない翠に、容赦なく悪路が広がっている。
どこまでも、どこまでも----どこまでも?
「げっ…」
思わず、翠はそうつぶやいてしまった。
つぶやかずにはいられなかった。
悪路だけなら、これでも一流の腕の持ち主だ、何とか超えて行けるだろう。
だが、しかし。
「通れねえよ、これじゃ…!!」
道の真ん中に、大きな岩が転がっていた。
左の山を見やると、一部落石防止の網が破れている。あそこから落下したのだろう。
だからと言って、今更引き返す訳にもいかない。何しろ、目的地にはこの道だけで、他は大きく遠回りになるのだ。
周りを見回しても、山、山、山で、とても人が通りそうな気配もない。
それでもいろいろと思案して、地図とも相談してみたのだが、やはりこの道を抜けていくのが一番いいという結論に達してしまった。
どうにもこうにも、方法がない。
「あ、そうだ…」
翠は不意に、あることを思いついた。
しばらくぶりに、「彼」にお願いをしてみたらどうか、と。
「最近、めっきり姿を見なかったからな…」
そうつぶやいて、翠は天を仰いだ。
空は見事なまでの曇天、彼の守り神には似合わない色だった。
だが、少しそう願っただけで、その神聖な姿が、空気に透けるようにして彼のすぐ上空に現れたのだった。
『またも久方ぶりだな…』
「私事で悪いが手伝ってくれるか?誰も通りそうにないし、人気もない山なんでな」
翠は両手を合わせて、拝む仕草をしてみせた。
「久々に呼び出したかと思ったら、こんなことで悪い!」
『困っているのであろう?そのような時ほど、我のような者が役に立つ時だ』
竜神は微笑した。
これくらいは何でもない、と暗に告げて、彼は翠とバイクに右手をかざした。
すると、彼らの周りを光が覆い、玉となってふわりと宙に浮いた。
「浮いてる?!」
『心配せずとも、落ちはせぬ』
鈴が転がるような笑いを閃かせて、竜神は言った。
翠とバイクを包んだ玉は、岩をゆっくりと越えて、向こう側の道路に降りた。
「俺はてっきり、岩を壊すんだと思ってたぜ」
『そのようなことはせぬ。この岩とて、自然の造物。精霊とておろう』
「そうか、そうだな…」
翠はうなずいた。
竜神を見上げ、彼は笑顔で言った。
「あのさ」
『何だ?』
「いつも助けられてばっかりだからさ、何かまた困ったことがあったら、言ってくれよな。いつでも、どこでも、駆けつけるからさ」
『…その心だけで十分だ、翠』
翠は驚いて目を見開いた。
「今…?」
竜神は、静かに目を伏せた。
そうして、穏やかに笑って、徐々に空気に姿を溶け込ませる。
『会えぬことの方が、そなたにとっては平穏無事な証拠となる。我らはこれで良いのかも知れぬな…』
そう、言い残して。
消えてしまった竜神のいた場所を呆然と見つめ、翠はひとりつぶやいた。
「今、俺の名前を呼んだ、よな…?」
それは、永い永い時を渡って来た神にとっては、珍しいことなのではないだろうか。
短い時を星の瞬きのように走り去る人間を、ひとつの存在として認めること自体が。
翠は、晴れやかな気持ちでいっぱいだった。
今日のような天気のひとつやふたつ、気合で吹き飛ばせそうな気がした。
「また、近いうちに会おうな、竜神…」
翠はそう、天に呼びかけ、また走り出した。
行き先は長崎、ただただ、お土産のために。
こうして、バームクーヘンを無事届け終えた翠は、まるで泥のように眠った。
枕元には、鮮やかな紅型の布地が、いとおしそうに、そっと、置かれていた。
≪ライターより≫
こんにちは、藤沢麗です。
かなりご無沙汰しております。
いつもいつも、ご愛顧、誠にありがとうございます!
前回は北海道だったので、
今回は真逆の沖縄にしてみました。
日本の着物らしからぬ、
色彩鮮やかで、型もはっきりした模様の紅型ですが、
とても琉球王国の風情が出ていて綺麗なものです。
そんな着物を着ている人形はめったにいないと思いますよ(笑)。
ある意味、特殊技能になりそうですね!
それとも伝統工芸家でしょうか?
花房翠さんのおかげ(!)で、
近いうちに竜神からの依頼がどこかに出て来るかも知れません。
その時にまたお会いできれば幸いです。
このたびは、ご依頼、本当にありがとうございました!
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