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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


霊鬼兵の恋/後編


■オープニング

 恋した相手は霊鬼兵。
 それも…虚無の境界の。

 零が当の相手――ノインにその事実を告げられてから、今はもう数日が過ぎている。あの日、皆が零とノインの様子を確認した日、それ以来零の様子は…また、元に戻っていたように見えた。
 …それは普段通りに、ではなくそれよりもっと前――草間武彦の元に来てすぐの頃のように。

 話し掛けると笑顔を見せてはくれる。
 …けれどそれは何処か、作り物めいた表情でもあって。
 普段通り優しい言葉遣いを、態度を見せてはくれる。
 …けれど本気で行動しているが故に出てくるぎこちなさや不器用さ素直さ――好ましく微笑ましく思える姿が全然見えなくなった。
 そしてその代わり、一つ一つの行動が何処か、無機的に冷めているようにも見え。

 ――…他者の命令によってだけ、動いていた頃のように。

 あれから、ノインは。
 あれ以上――自分の素性以外の説明を何もしないまま、ただ別れを告げ、エヴァ・ペルマネントと共に当の公園から姿を消していた。
 以来、公園にも何処にも、零どころか興信所の面子の目の届くところに姿を見せてはいない。
 …きっと皆に知られたから、なのだろう。
 それは零との事、だけでは無く。
 同時に、他の事――恐らくは、霊鬼兵と言う素性の自分がそこに居た事それ自体を。
 …エヴァが出て来た事も、大きい。
 彼女がその場に現れるのなら、余計に懸念は深くなる。

 ――…ユーの仕事は姉さんと接触する事じゃなかった筈よ!?

 エヴァはノインに向けてそう言っていた。
 ノインがその場所に居る事自体に、エヴァは不審も疑問も抱いていなかった。
 ただ一つ、その傍に居た零の姿を見て目を険しくした。態度が変わった。
 そして、この科白。
 …それは、裏を返せばノインは何か『仕事』があってこの場所に居た、と言う事にはならないか。

 何か、虚無の境界製の霊鬼兵がすべき仕事を。





 今日もまた本を広げている。少年とも青年とも付かない年齢の若者に見える量産型霊鬼兵。ノイン。本を広げているのはいつも通りではあるが、彼が今居るこの場所の方はいつも通りではない。変わっている。零と逢っていた公園のベンチではなく、また別の場所――とある喫茶店。あの逢瀬がエヴァや零の関係者にバレてから、ノインが『担当』すべき場所は変更された。どうもエヴァが上に捻じ込んだらしいが…知られてしまったなら仕方の無い事だろうとノインは初めから諦めてもいた。零と逢えなくなるのが寂しくとも、元々言葉を交わす程度しか出来なかった訳で。そしてそれ以上は端から許されていない立場な訳で。
 さすがに草間興信所と関わり合うのは問題がある。虚無の境界があの場所に集う者を警戒しているのは知っている。彼女が――零が、その要注意人物に含まれている事も。
 けれど、ノインは彼女に嘘を吐きたくはなかった訳で。
 すぐに本当の事を言い出す事は出来なくとも。

 ただ、この間のその一件で。
 少し気になる事が出来た。
 エヴァの反応が、妙だった事。
 零の事を姉さんと言っていた。
 ノインは自分の処分についても変だと思う。自分は最後に零に――彼女と彼女に関わりのあるだろう草間興信所の人間に自分の素性を聞かせた。それについて何のお咎めもなかったのは何故か。…エヴァが上に言わなかった、それしか有り得ない。それで配置変えを捻じ込んだ――つまりはエヴァがノインを庇ったと言う事になる。
 何から。
 何故。
 彼女が僕を庇う必要は無い筈だ。
 彼女以上に組織に優先される霊鬼兵はいない。
 同情だろうか?
 僕如き一介の量産型に?
 と。
 そこまで考えたところで、ノインはどくんと自分の心臓が大きく脈打ったような気がした。
 違う、のだが。
 わかっていても、その感覚は――そう形容したくなる。
 同時に、悪寒。
 人間であるなら、恐らく冷汗の粒が額にびっしり浮かんでいるだろう、感覚。
 堪らず、目を閉じる。
 …落ち着いてくれ。まだ、大丈夫だ。大丈夫。まだ僕は、ここに居られる…君たちと――貴方たちと共に。
 その腕を包む服の袖。じわりと内側から黒く染まる。
 黒く染まったのが何故かの見当はついている。
 ――…腕にある、肉体の継ぎ目の一つ。
 青黒く変色した――廃油か汚泥かと見紛うような液体がそこから。
 感触でわかる。咄嗟にそこを、袖の上から、ぎゅ、ときつく押さえる。それで、黒い液体の流出は止まる。
 …怖くない。大丈夫。まだ僕は生きていられますから。大丈夫。言い聞かせるような微かな呟き。自分に何か言い聞かせていると言うより――それは自分以外の何かに向けて、励ましているような深い力のある呟き。
 そんな呟きが、何度も何度もノインの口から紡がれている。
 …この場を借りる為便宜上頼んでおいたもの。自分の着いたテーブルの前、氷はほぼ溶けておりまだ中身のある結露したグラス。濡れるのも構わずノインはその腕を――黒く染まり掛けた部位をそのグラスにさりげなく押し付けた。
 まるでこうなる事がわかっていて――そしてその為に、その良く冷えた飲み物を頼んでいたように。





 草間興信所の面子の総意として。
 …さすがに、放っておく訳には行かないと思う。 
 零の事。
 今の彼女はきっと、理性の部分だけで、今まで兄の武彦はじめ興信所の皆に教わってきた事を踏まえて――自分自身に平常通りでいるよう『命令』を出している。
 だから、何事も無かったように普通に行動してはいる。
 けれどだからこそ、その行動に――彼女の本心からの感情が、全く見えない。
 まるで昔に戻ってしまったような印象を与える、姿。
 側に居る者ならその変化は、すぐにわかってしまう。

 …ここまでショックを受けているとは。
 ノインが虚無の境界の霊鬼兵であった事がか。
 勝手に別れを告げられ、姿を消してしまった事がか。
 エヴァと共に行ってしまった事が、か。
 敵であると初めから知っていて、それら隠して話していた事を裏切られたと思ったか。
 …それら全てか。

 それから。
 …あんな場所で虚無の境界が、何をしていた?
 ここのところ、付近で目立つ行動は何も無かった筈だ。
 ノインの仕事とは、入念な上に慎重な、何かの下見か――仕込みだったのだろうか。
 その、懸念もある。

 ――…ならばこれから、どう動く?



■草間興信所

 …草間興信所、この場所には人が絶える事が殆ど無い。
 それはいつもの事でもあるが、今の場合は――少し違う理由もある。…零の事が心配で。ノインの事やその行動について。エヴァの存在。虚無の境界。
 零の様子が普段と違う、恋でもしたのでは無いか――初めはそんなたった一つの微笑ましい心配だった筈なのに、その相手がわかるなり、いきなり切実な心配が増えてしまっている。
「話が拗れてしまいましたね…」
「全く。これは妙な展開になって参りましたね」
 と、計らずも殆ど同時に小さく溜息を吐いていたのは――相変わらずの無表情ながらも機嫌が頗る悪そうな黒榊魅月姫と、やれやれ…と力無く頭を振っている玲焔麒の二人。
 現在、興信所内の面子に出されているのは珈琲と紅茶が半々。供される側の好みに応じて零が淹れたもの。それら、不味いと言い切れる程悪い味と言う訳ではないが…味気無いと言うか何と言うか、普段の零が淹れたものならいつでも残り香のように感じられる筈の工夫や心遣いのようなものは何処にも無く、有り触れた廉価な市販品そのままの味しかしない。
 思わず言葉を漏らした魅月姫と焔麒の二人に、黙っていたままのセレスティ・カーニンガムとエル・レイの二人がそれぞれ、ちらと目を上げる。魅月姫や焔麒もそれに気付く。誰からとも無く目が合うと、少し辛い感のある苦笑が浮かんでしまう――但し、苦くとも笑みの形になるのは魅月姫以外と注釈は付くが。ともあれソファに座る四人とも、考えているのは同じ事。供された飲み物の――紅茶の味。そこから、今の零の心情が少なからず読み取れて。
 四人以外のそこに居る者。零から渡されたカップの中身を見詰めているCASLL・TOもまた、沈鬱そうな表情で黙り込んでいる。それは武彦から話を聞いた当初の「零さんが悪い男に引っ掛かったのでは」と言う悪い予感が的中した――と言うのとは、少々違う意味になり。何故なら判明した相手側、ノインの方もまた――直談判した興信所の身内二人や密かに黒冥月の操る影の中から様子を窺っていた皆の話を聞くに、のっぴきならない事情がありそうで…簡単に相手は悪者だった、と割り切れる話とは思えなくなっているから。
 ならば零の望むように、したいようにさせてあげたい。そうは思っても――今の零は…それは他の誰に命令された訳でも無いのだろうが、それでも『本当の意味』で自分のしたいようにしているとは思えない。今のままでは、それは本人はもっとずっとなのだろうが――見ているだけでも、とても辛い。
 零の事が気になり興信所に来訪していた風宮駿も、そんなCASLL同様皆から事情を聞きながらも黙ったまま――気遣うように零の様子を目で追っている。時々彼女自身から渡されたカップを傾けもするが、零の姿をずっと見ていると、中身の味が酷く苦く感じてしまう。本来、苦い訳ではないのに。
 今の零はちょうど、皆に飲み物を運んで来たお盆を持ったまま部屋の隅にひっそりと佇んでいる。おもてなしが一段落ついたところでさて次は何をしようかと考えている風。時々聞こえてくる、集まっている皆が気遣わしげにしている話自体――この間の出来事の事、ノインの事――は極力耳に入れないように、耳に入ってしまったなら敢えて無視するようにしているところがある。
 零のその肩には、蒼王海浬の連れている聖獣…龍の如き姿に紅毛を持つソールがちょこりと乗っている。どうやら零が心配なようで、主人から離れて今はここに居るらしい。それで首を傾げて零の顔を覗き込んだり、遠慮がちに擦り寄ってみたり、と気遣わしげに纏わり付きつつ零の様子をじっと窺っている。
 ちなみにこのソールの主人――海浬の方は今は不在。虚無の境界に於いてのノインの『仕事』と言うのは何なのか。そこが気になる…らしい事をソールを置いて興信所から離れる時に言っていたようだったが、取り敢えずは外向きで何か動くつもりのよう。詳しい事は言い残していない。
 零の目がふと時計に向く。けれど時を示す針を追うその表情もあくまで事務的。単に時間を確認した、それだけで。買い物のついでにノインとの逢瀬を楽しみにし、そわそわと時間を気にしていたあの時を知っている身にすると…その態度の違いが、また痛い。折しも今この時、時計の針が差していた時間は――少し前まで零が頻りに気にしていたその時と同じ時間帯。
 白い子犬が零の足許にてけてけと歩み寄っている――零の顔をじーっと見上げている。どうやらCASLLの連れているこちらの子犬も、ソール同様零の事が心配であるよう。そんな自らの連れの姿も見、やはり動物は敏感ですとばかりにCASLLは重々しく頷く。…何でもないように振る舞う零が痛々しく見えてしょうがない。
 それら常連組とは少し違う態度で、黒冥月もまたこの場に居る。彼女が居るのは普段草間武彦の座るデスク定位置の後方、窓際に当たるか。そこで、まるで自らの扱う影そのもののように静かに佇んでいる。何を考えているのか、黙したまま目を閉じ無表情。動きはと言えば時折カップを傾けている程度で、それ以上の反応は他の皆のようには見せていない。

「…虚無の目的の一つを現況と取るのも可能」
 そんな中、ふと、ぽつりと口を開いていたのはレイベル・ラブ。…彼女もまた興信所に来ている。来客用ソファに座ってはおらず、ソファの後方に回りそこから背凭れの上に肘を置き思案げに寄り掛かっている。…彼女が零から渡されたカップは現在テーブルの上。
「…どうもあのノインとやら、虚無の境界の霊鬼兵としては些か変わっているように見受けられた。明らかに虚無の命令とは別の位置に自我がありそれを充分に自覚しながらも、その事を承知の上で命令をこなそうとしているような。…別の道がある事を知っていながら、それでも敢えて今の道を選んでいるような、な」
 兵器としての霊鬼兵ならば、選ぶ選ばない以前に別の道はまず知らなくて当然だ。…大日本帝国の幻に使役されていた過去の零のようにな。
 なのに奴の場合は、そうでないような節がある。
 別の道を知りつつも、自らが今の道に在る事を同時に望んでいるような。
 ならば…あれらの組織には絶対にわかる筈の無い、零やこの場に集う者たちの絶対的とも言える強さの秘密と、恐らく奴らには解析不能だろうノインのその性質――私の見立てでは能力の方にもそれに見合った特殊な何かがあるような気がするが――理解できずともそれらに相似を見、近い環境へ置いてみただけなのかもしれない。
 実験として、な。
 まぁ、結果として実験と言うよりも零にとって大層効果的な「攻撃」だったと言える訳だが。
 そこまで言って、レイベルはテーブルの側にまで回り込み、割り当て分のカップを取り上げると悠然と傾け中身に口を付ける。そのタイミングと同じ頃、零がまた部屋の奥へと引っ込んでいる。何か用事を思い出したのか――はたまた話を聞いていたくないと思ったか。零は嫌そうな顔はしていない。憔悴もしていない。無表情な訳でもない。浮かべられているのは何事も無いような静かな笑顔。だがそんな顔をしていても――内心はわからない。自覚は無くとも、皆に分析されている事それ自体を心の底では厭っているのかもしれない。
 そんな零の背を見送って、見ていられませんよとばかりに焔麒がまた肩を落として溜息。
「私は虚無がいかな組織なのか知りませんが…皆さんの反応からして宜しくないものなのでしょうね」
 と。
「宜しくない…どころじゃない」
 そんな焔麒の科白に答える形で、押し殺したような低い声が響く。…零と入れ替わるように応接間に戻って来たのは、席を外していた草間武彦。いつぞやの零では無いが、先程から興信所の中あちこちを忙しなく動いており、各所に分けて置いてあるらしい何かを探し掻き集めている様子ではあったのだが。
 武彦が持っていたのは、分厚く膨れた書類封筒にファイルが数冊、レポート用紙の束数枚。ぱっと見では興信所で使用している調査報告書等と変わらないように見えるが――内、やけに古めかしい紙や、色褪せた写真のコピーらしきものまで数枚混じっている。
 …テーブル上に乱暴に投げ出されてから、皆、その事に気が付いた。
 常ならぬ荒っぽい所作の武彦に、皆の視線が集中する。
「…草間さん」
「中ノ鳥島、誰もいない街、虚無の境界…他、過去に零が狙われたと思しき件についてや…霊鬼兵の名が出た件、霊鬼兵が絡んでいると想定された件…IO2側に出された霊鬼兵に関するレポートも俺の手で捻じ込んで取れるだけは取ってある。
 うちに置いてある霊鬼兵関連の資料とレポートはこれで全部だ」
「随分…お調べになっているんですね…」
 封筒を手に取り、その分厚さを手に感じた時点で感嘆するセレスティ。武彦は当然だと続け、改めてセレスティが手に取ったのとはまた別の封筒を取り上げると、中身を取り出しテーブルにざっと並べるよう置き直す。
 零を家族として迎え入れた以上、彼女が霊鬼兵と言う素性であり人間とはどう違うのか――知りたくなくとも、見たくなくとも――結局、それでは済まされない事になる。けれど何も無い限り極力気にしたくない事である上に、曲りなりとも心霊的な裏の世界のトップシークレットに関わる事でもあるから――関連書類は日常の業務で使う書類棚には置いておらず、適当に分けて隠して置いてあると言う事らしい。…武彦は殆どの場合で表には出していないが、零を迎え入れて以降、新しく『霊鬼兵』のキーワードを見掛けたらどれ程些細な事であっても即チェックを入れている。その成果がこの書類。
「虚無の境界の霊鬼兵と来るなら、これらの情報も何かの足しになるかもしれない――確かレイベルはあの中ノ鳥島にも行ってたな。この書類の中身――俺やシュラインで気付かなかった事知らなかった事、足りない事があるようだったら情報の補填を頼む。情報に相違があったらその確認も」
「…承知した」
 と。
 レイベルが武彦の要請に頷いたその時、ふと気付いたようにCASLLが顔を上げた。
「そういえば…こんな時なのにシュラインさんの姿をお見掛けしませんが…?」
「…。シュラインは…」
 武彦はそこまで言い掛け、止める。
 何か言い掛けようとしたところで別の何かに思い至ったのか、黙り込んだまま、何も言葉を続けない。
「…やはり、零嬢の様子が見ていられないと言う事なのでしょうか」
 気遣わしげに、セレスティ。
 が、佇む影――冥月が静かにそれを否定した。
「いや。それだけで顔を出さないでいる程あの女は甘ったれじゃないだろう。それよりむしろ…何か思い付いて独自に調査に赴いてでもいそうな気がするが」
 それも、この場の者に知らせたくない――はっきり言えば草間に知らせたくない側面から、な。
 そこまでは冥月も口には出さない。けれど――自然とまた武彦に皆の視線が集まる。零の大事となればシュライン――シュライン・エマの方が彼女を放置でいるとは到底思えない。そして同時に、武彦の態度もまた気になるものがあり。
「…。シュラインの事は、暫く放っておいてやりたい。…今回は俺が迷惑掛け過ぎた」
「ほう? 自覚はあるのか」
「皮肉な話だがノインの口から虚無の境界と霊鬼兵の名詞が出た時点で思考能力が幾らか戻った。…まだ本調子とは言えないと思うが。それでも、な」
 今シュラインが考えているだろう事は、わかる気がする。
 それが許せるか許せないかは、俺にもまだ判断が付けられないが。
 武彦はそう告げたっきり、また黙り込む。

「…拝見します」
 丁寧に断ってから、魅月姫がファイルを手に取り、捲る。武彦たちが中ノ鳥島からどさくさ(?)で持ち帰った資料、その時居合わせた数名から色々聴取したメモ等のレポート。虚無の境界の存在が表面化した『誰もいない街』の事件――エヴァが初めて関連各調査機関の面子の前に姿を見せた時のレポート。…量産型霊鬼兵の存在もその時に複数体確認されている。他、草間興信所や関連各調査機関で関わった事件で霊鬼兵が絡むもの。零が妹となった経緯を知るアトラスの碇麗香からも、霊鬼兵関連の情報に限ってだけは商売さて置き随時情報提供を受けているらしく、アトラスの原稿や取材メモのコピーも含まれていた。
 それと、少し角度が違うが――いつ頃からか草間興信所に顔を出すようになったバチカンの『聖霊騎士』なる存在についても簡単にメモが残されている。よく来訪すると言うその聖霊騎士の固有名詞はブルーノ・M。…彼は言わば――素性を辿れば零の『弟』と言うか『従弟』とでも言うべき存在に当たる為、同じファイルに放り込まれているとの事。…曰く、このブルーノは霊鬼兵と同様心霊兵器の技術を使われ、別の形に発展応用、作成されている個体だと言うのだから。
「…彼の事まで調べていたんですね」
 こちらも魅月姫同様、セレスティは軽く断りを入れてから資料やレポートを一枚一枚手に取り、確かめる。そこで、一応自分も面識のあるブルーノの件もレポートに含まれている事に気付き、ぽつり。
「…当人や向こうの関係者から聞いた世間話程度の情報だがな」
 武彦がそう答える通り、確かに内容はそれ程深くない。ほぼブルーノの自己紹介に過ぎない。…二次大戦後半の日本とドイツから、時の北イタリア政権が心霊兵器の技術供与を受け研究、対極となる力を持つ兵器の作成を試みた成果であるとの事。聖霊機の作成、カトリック教会の聖人遺骸複数体培養が平行して行われ、造られたのがブルーノの素体。が、結局完成はせぬまま終戦に至り、それをバチカンが引き取り凍結。が、昨今の状況を鑑み、聖霊機を心臓として埋め込み聖霊騎士として完成させ、日本に派遣した事…等々。
 …とは言えさすがに、話した方も相手がここまで細かに記憶し資料として残しているとは思うまい。…それは深く関係はするが、零の心配故に霊鬼兵の情報を集めている身にすれば…特に直結してどうこうなると言う情報でもないのだから。それでも僅かでも関わる話が出ればもう無視ができない辺り、今の零は武彦らの『本当の家族』になっている事が見て取れる。
 魅月姫はそれとはまた別のファイルを捲り熟読しつつ、頭の中で情報を噛み砕いている。
「…霊鬼兵と言われる存在…本来は心霊兵器と言った方が良いんでしょうか。…まぁ、言い方なんてどちらでも良いですが。詰まるところ…霊鬼兵とは霊力の強い人間を核にして、人間や動物、機械を部品とし繋ぎ合わせて造られる、霊的な能力を備えた人造人間、と言う訳ですね」
 そしてその始まりは――二次大戦中、怨霊――タタリの力さえも兵器にしようと考えた二つの帝国の狂気から。その只中に開発する事ができてしまった有効な心霊兵器の技術。恣意的にタタリを発生させる為の装置――兵器である怨霊機。霊鬼兵はそれを守る為造られた強力な兵士。…それら心霊兵器研究の舞台が、中ノ鳥島。
「人間が造り出した――造り出せてしまった闇の眷族、ってところな訳か」
 魅月姫の見ているファイルを横から覗き、エルがぽつり。今まであんまり零ちゃんの素性について深く気にした事なかったけど、『人の手で』造られてそうなっちゃうってのは…ねぇ。嘆息混じりのその呟きに、魅月姫は目を細めゆっくりと頷く。
「世界を巻き込むあの大戦の頃には…私でさえ驚いてしまうような、様々な形の人の狂気が現実になったと聞き及んでいます。人が我らの――闇の領域に本当の意味で自覚的に手を出せた事実もまた然り。…普段はか弱い人間ですが、追い詰められれば何を成し遂げてしまうかわからないのも確か…。霊鬼兵――これもまたそんな中の一つになるのでしょう」
 述懐しながら魅月姫はファイルをぱたんと閉じる。
「…それを考えれば今の零さんの境遇は奇跡に見えますね」
 そんな風に造られたものが、人の中で平穏に過ごす事が叶っている事それ自体が。
 …それと、あのノインと言う方も、金髪の彼女――エヴァ・ペルマネントと仰るあの方も。
 兵器として作られながら、信じられないような個性が人格が感じられる。
 エヴァの能力の片鱗についても、武彦が出して来たレポートの中には収められている。彼女は虚無の境界の霊鬼兵として名が売れている為、その筋から見るなら露出も多い…それで構わないだけの力もあるとそう言う事だろう。その能力は零と互角――否、エヴァの場合はどうやら扱う怨霊個々のエネルギー値もやたらと高く、一時に扱える数も桁外れに多いらしい。恐らくは零と比較しても。
 ノインの事を考える――量産型霊鬼兵についてのレポートも武彦の出して来た中に幾つか含まれている。だがそれらは、傍で見ている限りは零やエヴァと何も変わらないように見える能力を持つとしか記載が無い。他、量産型霊鬼兵はゲシュペンスト・イェーガーと呼ばれる事もある…と言う他言語での呼称以外には、零やエヴァと何処がどう違うのか、の詳細は不明のまま。
 …但し、量産型、と言う事は、その存在を生み出すに当たり、零やエヴァと比べて――『何か』を切り捨て、能力も低い位置で妥協して造られているのだとは思えるが。

 焔麒もテーブル上に広げられた霊鬼兵に関するレポートや資料を手に取り目を通している。見ながら皆の話を聞いている。たまたま、その時焔麒が手に取っていたのは古めかしい写真のコピー。何処から入手したのか、生前の桜木礼子――零の核となった少女と、同じく生前の佐伯数馬――零が中ノ鳥島で守っていた怨霊機の核となった、桜木礼子の恋人だったと言う軍人の写真。それぞれ裏に名前が書いてある。
 それらを見ながら、焔麒はふと思い出したように口を開く。
「ところで気のせいかもしれませんが、型は違えど同じ霊鬼兵…ノイン君からは死臭めいた臭いがしましたね。…人にわかるレベルかは判断しかねますが」
「ああ…それなら私も気が付いた。だが虚無の境界の手になる者であるなら…真っ当な人間や動物のみならず人外の肉体も繋いで造り能力の強化をしている事も考えられる…元々そんな臭いのしそうな肉体が利用されている可能性も否定できない。まだノインの容態をしかと判断するには材料が足りない」
 と、レイベルに同意されつつもまた無難な別の可能性も提示されてしまい、焔麒はふと沈思。レイベルの発言も然り。…そもそも彼女は相当広範な意味での医者である上に、中ノ鳥島にも居合わせ、霊鬼兵と言う存在にもそれなりに詳しい方であるらしい。確かに、一理ある。
 が。
 焔麒がノインから感じたのは肉体そのものの死臭、と言う訳でもなく。
 …気のせい、と前置いてある通り――上手く言い表せないが、焔麒はレイベルの言う『それ』とは少し違う意味でノインから死臭めいたものを感じていた訳で。元々、常々他者に知らせている程嫌いなものに関しては――誰であろうと他者より敏感になりがちなものではなかろうかとも思えるし。それは勿論、自分も例外ではなく。
 …自分は病院と言う場所を嫌っている。何故か。その理由を辿ってみれば――死臭がこびり付いているから。そこに至るので。
 「…焔麒?」
 武彦から訝しげな声が掛けられる。どうかされましたか、とCASLLからも心配げに声が掛けられる。
 それらの声を受け――焔麒は暫し黙り込んだ後、自分を見ている者を安心させるよう宥めるよう、にこり。
「いえ、ここでこうしていても私はあまりお役に立てないかと思いまして。霊鬼兵についても虚無についても殆ど今初めて知ったようなもの。私はその辺の至極平凡な一介の薬剤師ですので」
 ですから…エマさんや蒼王さんではないですが、何か別の角度から調査する事を考えた方が、私でもまだ何か零さんの力になれる事があるか、と思いまして。
 言いながら焔麒はソファから立ち上がる。取り敢えず今はおいとま致します。何か進展がありましたらこちらにも連絡を入れたいと。そう残し、焔麒は興信所からひとまず辞する。
 それを見送ってから、皆は再び武彦の出して来た資料やレポートに戻る。…とは言え、その場に居る者でそれら情報を知っておくべきだと判じた者はそろそろ粗方見終えたところ。武彦から情報の補填を求められたレイベルは、特に情報の相違は無いとの発言をしている。足りないところについては――霊鬼兵の体組織の構成成分やその化学式、回復の速度、活動による霊力値の移行等の専門的な話を今ここで披露しても意味はあるまい、との発言が成された。…つまりは医者の観点で見た時の専門的なデータ以上は、レイベルの知っている分と考え合わせてもこの情報で特に足りない事は無いと言う事になる。
 そこまで話したところで、零がまた応接間に姿を見せた。カップの中身を空にした人に対し、おかわりは如何ですかと聞いている。
 零が聞いて回っているそこで、魅月姫は自分に割り当てられたカップの中身を干した。零はそれを見、おかわり淹れますねと微笑んでカップを取り上げようとするが――いえ、必要ありません、御馳走様でした、と魅月姫はやんわりと断る。
 そして。
「焔麒さんではないですが、私も少し…ここ以外で調べてみる事にします」
 零さんの事は、エルや皆さんにお任せしたいと思います。エルから武彦、そして零へと視線を流して頷き、それだけを残すと――魅月姫はその場で不意に姿を消した。…自らの足許から膨らんだ黒い影に飲み込まれるような形で、唐突に。
 魅月姫の姿を飲み込んだ影は跡形も無く消えている。それで、何処かへ移動したらしく。

 と。
 …そんな魅月姫の行動の直後、偶然ながら興信所の玄関ドアが控え目にノックされる。その音で来訪に気付き、中からはいと受け答えられたところで、一般的な碧眼とは異なる群青の瞳が印象的な可愛らしい姿が――失礼しますとドアを開けていた。そしてすかさずぺこりと一礼、こんにちは皆さん、とにっこり笑顔を向けている。
 そこに居た来訪者は、先程偶然ながら簡単な素性をレポートの上で皆が見せてもらってもいた相手。赤色の十字をあしらった純白の騎士服――と言うより修道服を纏った、人間で言うならば中学生程度の年頃になるだろう少年、聖霊騎士のブルーノ・M。彼の手には御土産らしき包みが下げられている。曰く、法王庁に定例の御報告に行って来たとの事。その帰りに修道院で作っている手作りジャムを草間興信所に持参した、と言う事らしく。
 ブルーノは零の姿を見付けると、朗らかな笑顔で歩み寄り元気に挨拶。零の肩にちょこんと乗っている紅き聖獣ソールにも続けて声を掛けてみた。そして御土産の手作りジャムを零に渡す――が。
 受け取る零に、何故か、微妙な違和感が。
 ブルーノは思わず目を瞬かせ、零のその顔を見る。と、零の側でもブルーノのその態度を見、何処か不思議そうに小首を傾げていて。
 それでもすぐに、優しい笑みを浮かべてブルーノに礼を言う。
「有難う御座います。大事に食べさせて頂きますね」
「…是非。喜んで頂ければ幸いです…。…。…あの!」
「? どうしました?」
「あの…零さん、何か具合でも…?」
 恐る恐る、訊いてみる。
 が。
「…何でもありませんよ?」
 あっさりとそう言って、零はブルーノに微笑み掛ける。…それは先程浮かべた優しい笑みと不自然なくらい全く同じ表情で。零の肩に乗るソールがブルーノに何かを訴えるように頭を横にぶんぶんと振っている。
 が、ソールの意図は通じない。変わらない笑顔に、気付かない。
 ブルーノは零の答えを信じ、安心してしまう。
「そうですか。それなら良かったです!」
 そして今度こそ満面の笑みを受かべ、ブルーノはこくりと元気に頷く。それを受けてから、零はお茶をお持ちしますねと残してまた部屋の奥――台所へと引っ込む。
 と。
 零が応接間から引っ込むなり、ブルーノ君、とセレスティが彼を手招き、テーブルに呼び付けている。静かな声。けれど普段のセレスティのように柔らかさを感じさせる声と言うより、何処か厳しさを孕んだ真摯な声であり。そしてテーブルの側まで行くと――駿に背を押されCASLLに促されレイベルに手を引かれ殆ど無理矢理ソファに座らされ、耳打ちするように皆から囲まれ話を聞かされる。ブルーノはいったい何事かと思いつつ素直に皆にされるがままになってはみるが――零が想いを寄せる相手が出来たと言う話を聞かされた時点で、ええっ! 零さんにっ! とブルーノは大声を上げてしまう。声がでかいと即座に武彦から口を塞がれる。静かにと皆からジェスチャーで示される。
 そして、それだけならまだ良かった、と話の続きに移る。ブルーノにそう言った武彦に対し、皆から意外極まりないような視線が集中するが…まぁそれはさて置き。その相手――ノインがあろう事か虚無の境界の霊鬼兵、それも現在、何か作戦の最中だと思しき様子だと判明した事も伝える。そこでまた――虚無の境界の霊鬼兵ですって!? とブルーノはパニックを起こし大声。今度は武彦では無くCASLLに、声が大きいですっ、と口を塞がれつつ、再び小声で皆さんから叱られる。それでもブルーノにしてみればそう簡単には落ち着いていられる話では無い。…見るからに極悪顔、落ち着いたいつも通りのブルーノなら視認しただけで反射的に警戒態勢に入ってしまいそうなCASLLの威圧的な容姿にさえも意識が行かない。
 …虚無の境界の霊鬼兵。ただ、そうは言っても――ノインもノインで零への気持ちについては本気であったのか、自分のその正体を知らせるなり、零に別れを告げても来たと言う事。それから――零の妹に当たる虚無の境界の霊鬼兵、エヴァまで姿を現した事。また、そこで彼女が現れたからこそ、ノインは零に自分の正体を打ち明け、別れを告げたようでもあり。
 それで、ノインに別れを告げられ姿を消された後が今。零は一見普段通りに戻ったように見えるが、その実自分を殺しているようにしか見えない態度を取っていると言う事…等々。言われてみればブルーノが違和感を感じたのは零の笑顔だったのかもしれない。迎えてくれた笑顔、喜んでくれた時の笑顔、親愛故の笑顔。それは笑顔と一言で言っても、皆違っている表情であるのがいつもの事であり自然な事で。なのに今日ここに来てブルーノに向けられた笑顔は、全て同一。
 …零が常に同じ笑顔でいたのは、笑っていろと命令されていた過去の時。
 そこまで話される内、ブルーノの頭にも漸く落ち着きが戻ってくる。とは言え、先程まで零に向けていたような元気な笑顔までは戻らない。
 今の事情を粗方知ると、辛そうな顔になり、俯く。
「零さん…」
「――…あの時の公園で、零嬢だけでは無く、ひょっとしたらエヴァ嬢も、ノイン君の事は何か特別と思っている様子がありました。ですが…だからこそ私は、想いの種類が違うと言う可能性もあるように思えるのです。三人が三人とも霊鬼兵…恋心と言うよりは、分かり合える同士、のようなものなのかもしれないと」
「…」
「ブルーノ君はどう思われます?」
 霊鬼兵とは対極の能力を持つものとして、同じ心霊兵器の技術で造られた聖霊騎士――彼らと似た境遇であると見込んで、伺いますが。セレスティにそう言われ、ブルーノは真剣に考えてみる。
「どうでしょう…わかりません。でも、分かり合える同士、と言うのも…あるのかもしれません。僕も、お姉様に――零さんに初めて逢えた時、凄く嬉しかったから…」
 ノインさんと言うその方…どんな方であるのか、僕も知りたい気はします。
 …零さんがお慕いになったと言うのなら、きっと、良い方なのだとは思います。
 なのに、どうして虚無の境界なんて…。
「…彼らが何か企んでいるのなら、僕は戦わなければなりません」
「ブルーノ君」
「零さんは悲しむでしょうね…でも、それが本来の僕の務めですから…」
 と。
 辛そうなまま、搾り出すように告げたところで。
「…ブルーノさん、どうぞ、紅茶です」
 いきなり、零の声が間近で届く。いつから応接間に戻って来ていたのか、やはり先程同様の優しい微笑みを浮かべたまま――カップとソーサーをブルーノに差し出している。…まず間違い無く今の話は聞こえてしまっていたタイミング。なのに、目立った反応を返さない。それどころか、先程と同じ態度に表情で。
 そんな零を見、ブルーノは思わず唇を噛み締めた。
 直後。

「――…他人を好きになる気持ちを殺しちゃ駄目だ!」

 居た堪れず叫んだ――そんな大声が室内に響き渡った。
 何処が元だか瞬間的にわからない。
 だが、声の主は初めからここに居た。駿。
 いきなり発された大声に、駿は皆から注目を浴びる。が、そんな事はどうでもいい。
 それより、今は零。
「周囲の皆に心配を掛けないように気遣う事だって大事かもしれない、けど自分に素直になる事だって大事な事なんだ。一緒に彼を探しに行こう!」
 駿は真剣な顔で零を見、その手を取って訴える。…零が持っていたお盆が落ちる。彼女がブルーノの為に持ってきたティーカップも床に落ち、かしゃんと形を無くす音が響いた。
 目を瞬かせ、零は駿を見ている。
 …綺麗好きないつもの零なら真っ先に気にするだろう、落ちて割れたティーカップ、零れた紅茶の事に意識が行っていない。
 零にとってそれ以上に心を揺さ振る事が今はある。
「そうですよ! 探しに行きましょう!」
 ここぞとばかりに駿に同意するCASLL。CASLLの同意を受け、零に力強く頷いて見せる駿。惑う零の瞳。…ほんの僅かではあるが久々に表に出て来た、本来の、普段の零の素直な反応。そんな彼女の肩の上で、聖獣ソールもまた、そうしようよ、とばかりに零の頬に擦り寄り、ぺろり。
「…でも」
 と。
 零が躊躇いつつも抗弁しようとしたそこで、じりりりんと電話の呼出音が鳴る。その音を聞き、助かったとばかりにやんわりと駿らを抑え、零は黒電話に歩み寄る。受話器を外し、草間興信所ですと日常の電話応対を。
 するが。
 その時点でまた、零が黙り込んだ。
 少しして、通話相手の話を受け、ぽつりぽつりと話し出す。
「…はい。でも綾和泉さん…私は…――。…。はい。…わかりました。兄さんに代わります」
 そう言い残すと、零は受話器を耳から離し、送話口を手で押さえる。
「綾和泉汐耶さんです。兄さんに代わって欲しいと」
「…。…ああ」
「…。…風宮さんやCASLLさん、ソールさんにだけじゃなくて…綾和泉さんにも、言われてしまいました」
 本当の意味で好きなようにしないと――悔いの残らないように動くだけ動かないと、他の誰でもない、零ちゃんの心が可哀想、と。
「…そうか」
「…」
 妹から兄に、受話器が渡される。
 武彦はそれ以上何も言わない。いつもの定位置デスクに戻ると一度だけ零を見る。気のせいかと思えるくらい僅かな間だけ向けられた、眼鏡の奥の何とも形容し難い優しい瞳――諦めたような悟ったような、慈しむような突き放すようなその表情。
 ただ、僅かな間それを向けたっきり、武彦の意識は電話の方に移動している。
 受話器を兄に渡してから――武彦のその目を見てから、何処か呆然と、所在なげに佇む零。そんな姿の手を引き、行こうと駿が促す。少し躊躇ってから、ぎこちなく頷く零。そんな零を見、CASLLもそのごつい手にしては信じられないくらいの優しさで零のその肩を叩き、勇気を与えようと頷き返す。わう、とCASLLの相棒な白い仔犬さんも同意するよう吠えている。
 そして、玄関ドアに向かうが――そんな三人+二匹の前に立ちはだかるようブルーノが回り込んで来た。
 唇を噛み締めている。
 駿とCASLLは咄嗟に零を庇うように前に出た。
「…邪魔をしないで下さいブルーノさん!」
「そうです! もしどうしてもと言うなら、私が…!」
「虚無の境界に所属する者である彼らが何か悪事を、テロを企んでいるのなら僕の仕事は決まっています! でも…でも、何とかノインさんと零さんがお話できれば…! 戦いを避けられれば!」
 そこまで彼らの真正面で言い切ると、ブルーノは思い切るよう後ろを振り返り力強く玄関のドアを開ける。そして零たちを促すよう、自分は横に退き彼らの前の道を開ける。目を丸くする零。ブルーノのその行動に、安堵したよう、ふ、と笑う駿。その通りですとばかりにうんうんと頷くCASLL。
 …ブルーノのその行動は、聖霊騎士本来の役目とは、反する――可能性もある事。けれど皆の幸せの為にこそ戦いたいブルーノ。その優しく善良な心がある事も確かで。問答無用は好まないのも、確かで。ブルーノがそうする意味も、零にはわかる。立場が逆なら、恐らく自分でも同じ事をする。
 行きましょう! 最後に零たちをこう促し後に続いたのは――ブルーノで。

 …他方、大事な妹と駿にCASLL、ブルーノが飛び出して行ったにも拘らず、武彦は何も言わず、動じない。
 それは今の零――駿とCASLLに言われて僅かながらも元の通りの素直な反応を取り戻した零の心を、守ってやりたいと思ったからだろうか。汐耶の言うように――それから恐らく、今ここに姿の無いシュラインの考えているだろう通りに。
 …それとも。
 電話の向こう、汐耶から――独自に調べた情報が伝えられていたから、だろうか。

 ――…虚無の境界型・量産型霊鬼兵についての――そして特にノインについての、聞き逃せない情報を。



■ならば最早虚無には非ず

 …零を促し草間興信所から飛び出して。
 飛び出したは良いが、まず皆を先導する風宮駿が何処に向かっているかがわからない。問うように零が駿の顔を見る。駿はこくりと頷いた。
「ノインがあの公園に居たのは『仕事』だとエヴァさんが言っていた。だったら、彼が居なくとも交代要員が公園付近に居る可能性がある」
 まだ何らかの手掛かりがあるかもしれない。
 そうですね、と同意するCASLL。確かに駿の言う通り、交代要員が見付かれば話は聞ける。…但し、それもそれでちょっとした懸念もある。
「…ですが交代要員の方が居たとして…私たちにそうとわかるでしょうか」
 何故なら――事前の状況を考えて。…この件が、零に惚れた相手が出来たのでは、との懸念だけだった頃。その時はまず間違い無くノインがその公園に居たと言うのに、誰から見ても特に虚無の境界が暗躍している気配は無かった――と言う事実。…強いて言うなら時々その筋では有名人なエヴァ・ペルマネントが時折姿を見せているくらいなもの――それも特に剣呑な行動は一切見せておらず、あくまで当人の知名度故に見る方の知識によっては目立つだけの事。ただ彼女の場合虚無の境界に属する者であるとは言え――プライベート(?)でも基本的に堂々としている為、結構あちこちで見掛けられる。…つまりは姿が見えた=直結で危険、ともならない。
 公園に配置されていたノイン当人の、虚無の境界らしく無さもある。例えば交代要員として同じような人材が配置されているとなれば…まず見た目や立ち居振舞いでも捜すのは難しい。その上、今時では異能者か人外かと言った分け方で簡単に括る訳にも行かない。普通に静かに平穏に暮らしている異能者や人外の方々も多いのだから――魔力・霊力的な観点からでもやっぱり捜すのは難しい。
 つまり今回の件では虚無の境界は、そのくらい目立たない密やかな動きをしている訳で。
「…公園に居る異能者や人外の方々に――いえそうでない方でも、片っ端から聞いてみればわかりますよ!」
「…素直に答えて頂けるでしょうか」
「…」
 確かに。
 誠心誠意話してみればきっと。言ってはみるが、それはやっぱり希望的観測で。
 公園に向かいながらも、皆でうーんと考える。
「霊鬼兵の能力を――その威力を最大に発揮するのは、多数の怨霊を呼び寄せる場所の筈です」
 ぽつりとブルーノ。
 公園の近くに、そんな場所があるのでしょうか。
 …その為にこの公園と言う場所が選ばれたのであるなら、交代要員である方もきっと霊鬼兵の筈。だったら僕や零さんなら、きっとすぐに誰が交代要員なのだかわかります!
「…でも零さんとノインさんが会っていた事が向こうに知られているとしたら…逆に霊鬼兵に察知されない性質の人員を投入しているかも…――」
「…」
「――…いえ、こんな事を言っていても始まりませんね。とにかく当たってみるべきでしょう!」
「はい!」
 やってみなければ、何も言えない。
 ブルーノも思い直してのCASLLの科白に、強く返事をして見せる。…心配し過ぎ。それは予め悪い方に考えておいた方が色々と無難であるかも知れないが、ここは零の為にも前向きに行かなければ、と言う場面でもある。
 そんなこんな話し込んでいる内に、皆は公園に到着した。…零が買い出しの際に立ち寄るくらいの位置関係、それ程遠い訳で無い。
 と。

「………………そこまでユーたちにバレてるならわざわざやる意味なんて何処にも無いじゃないっ!!!」

 公園に到着するなり、聞き覚えのある声の――叫び声が聞こえた。
 今公園に訪れた一同は思わず顔を見合わせる。
「! 今のは――!」
「エヴァさんの声です!」





 零を連れ、風宮駿やCASLL・TO、ブルーノ・Mが公園の奥――声の聞こえた方向に駆けて行くと、まず先に見えたのは蒼王海浬と黒榊魅月姫の姿だった。草間興信所側の面子。海浬は零の肩に乗っている聖獣ソールの主人であり、魅月姫は先程ブルーノが来る直前まで当の興信所に居た。何処に行ったのかと思っていたら、この公園を調べに来ていたか。…零たち後発組とその目的まで同じかどうかはわからないけれど。
 黒服が数名遠巻きにしている。どうも様子を見るにエヴァと軽く一戦やらかしたようで、海浬と魅月姫がそれを止めに入った、と言うところだろうか。
 そこで何か話をし、先程の叫びに至る。…そこまでユーたちにバレてるならわざわざやる意味なんて何処にも無いじゃない。
 …これは――誰かが何かを、言い当てた。

「どういう事ですか」
 その場に来て早々、真っ直ぐに問うブルーノ。群青の瞳がエヴァをじっと見ている。
「…『わざわざやる意味なんて何処にも』。そう仰られるのでしたらエヴァ姉様も――望んでいない事なのではないですか。何か…ノインさんも関わる、これから行われようとしている虚無の境界の企みは――」
 必死な声で言い募る。
 だが。
 自分に対し姉様と言ったブルーノの姿を見るなり、エヴァはすぅと目を細めた。その姿を名を知らずとも既に感覚でわかる事。自分と同様――否、同じではないが酷く近しい者、そして同時に対極にある宿敵。常に虚無の境界の、特に霊鬼兵の邪魔をする者――それを役目とする者。
 バチカンに存在するとは聞いた事がある。…発した言葉の意味など関係無い。
 虚無の境界の敵。そして同時に――自分を脅かす、『強い』者。
「…その服。赤の十字。深い青の瞳――バチカンの聖霊騎士、『大西洋の騎士』――!」
 言った、途端。
 エヴァの足が地を蹴るのと彼女を囲む形に瘴気が膨らむのがほぼ同時。次の瞬間エヴァの手の中に生まれていたのは数多の怨霊で造られただろう実体不確かな不吉なプラズマ纏う鞭。それが振るわれた先――標的はブルーノ。だがブルーノも黙ってやられる訳でもない。エヴァが地を蹴り動き出した時には既に戦闘態勢に切り換わっている――己が使い慣れた聖なる武器・十字架型の精霊砲を具現化させ鞭に捕らわれぬ位置に振るう事を狙いつつ、殆ど不意打ちの形で襲い来るエヴァにそれでも真正面から立ち向かおうとする。
 が。
 対峙する二人のその前に、影が割り込むのが先だった。
 刹那。
 エヴァの前に立ちはだかった方の影が、彼女の鞭に強か打たれて派手に吹っ飛んでいる。直前、瞬間的に見えた姿は確か風宮駿のもの。けれど吹っ飛ばされた先に倒れていたのは――赤色を基調とした有機的な、昆虫めいた異装――ソニックライダーと呼ばれている姿で。
 もう一つの影ことCASLL・TOはその巨躯を盾にしブルーノの前に出ている。エヴァに反撃しようと振り被る精霊砲の砲身を掴み押さえ付けている。…実際に言葉を発するまでには行かなかったが、止めて下さいとばかりに何度もぶんぶんと頭を振りつつ。
 本来狙ったのではない相手に直撃した攻撃。しかもあまりにも簡単に吹っ飛んでしまった駿――ソニックライダーの姿に、エヴァは思わず手を止め我に返る。ブルーノを見て、虚無の境界に仇なす敵。倒す必要――殆ど反射的に身体がそう動いてしまった。
 だが実際に攻撃を受けたのは駿。…それは今割って入った駿が簡単に吹っ飛ばされてしまったのは、弱かったり能力が足りなかったと言うよりも――咄嗟の事でソニックライダーに変身し切れていなかったからになるのだが。今の間に完全に変身し割って入る事など無理にも等しく、エヴァの攻撃を殆ど生身の無防備な状態で受けてしまったから。
 …けれどそうであったからこそ今の場面に間に合い、更には弱者を甚振る事を嫌うエヴァの攻撃の手を止められたのも確かで。

 俄かに停止する場に、今度は可愛らしくも冷たい声が割って入る。
「まだ続けられるようなら今度は私が出ますが…今の貴方はそれどころではないのでは?」
 魅月姫。
 何とか立ち上がろうとする駿の姿――間一髪でソニックライダーへの変身が間に合っていたのか、ダメージは幾らか抑えられたらしい――をそれとなく確認しつつ、真っ直ぐにエヴァを見て。先程の叫びを聞いてしまっている以上、彼女に確かめるべき事――そして彼女に確かめられそうな事はまだあるから。
 と。
「…ノインさんの、事なの?」
 …わざわざやる意味なんて何処にも無いじゃない。貴方がそんな声で言う程の事。
 ぽつりと。
 静かな声が、響く。
 零。
「あの時と貴方の態度が違う。凄く辛そう。…何が、あったの」
 ノインと共に去った、あの時。
 私の姿を確認する直前までは――ノインさんの名を呼んだ時の貴方は、凄く安らいでいるようだった。幸せそうだった。…私の知っている貴方じゃないみたいに。
 なのに今の貴方は、何か――思い詰めてる。
 …ノインさんから私を引き離す事が出来たのに。
「――。うるさいっ! 姉さんには何も言う必要は無いわ!」
「…なら、私じゃない人になら話してくれる?」
「…え」
「だったら私は姿を消してる。何も聞かない。だから黒榊さんや蒼王さん、風宮さん、CASLLさん、ブルーノさん…他の人に話して――助けてもらって」
 私がしてもらった、みたいに。
 …貴方一人じゃ、どうしようもない事なのでしょう?
「――」
 エヴァは瞠目する。
 どうしようもない事なのでしょう。
 助けてもらって。
 …自分を狙う一番の敵にそんな言い方を、するのか?
 絶句するエヴァを見、海浬がふと口を開く。
「零の気持ちも察してやれ。彼女はノインが無事ならそれで良いんだ――例え彼が君を選ぼうと自分は側に居られなかろうと」
 …ノインがここに居た理由――少なくともノインが自覚していた理由についてはもうわかってる。とある術式を構成する要素の一つとして、その為に置くべき幾つかの要の一つとして配置された事。術式が発動されるのはまだ暫く後の事。ノインの役目は誰からも不自然を感じさせないくらいこの場所に馴染む事。その上で、術式発動の連絡が入ったら周囲の怨霊を出来るだけ多く自分の元に集める事。少なくともノインには――その時の君にもそう伝えられていたみたいだが。
「…その伝えられていた作戦と本来の作戦が、違っていた…そうじゃないのか?」
 ついでのように続けられた海浬の指摘に、エヴァは弾かれたように顔を上げる。

 …その頑なさが、ついに解けた。





 エヴァが躊躇いながらもぽつりぽつりと話し始める。海浬の、そして黒服たちの主人――セレスティ・カーニンガムの言う通りだと。今回の作戦。初めは怨霊を出来るだけ多く集めると言う命令しか聞いていなかった。けれど今になって、配置された霊鬼兵を破壊する旨であると聞いてしまった。
 そして霊鬼兵の残骸を用いその場の負への転換を成す――何の曰く因縁由来も無い場所であっても無理矢理そこを霊的な『場』に変えそこで一気に本来の目的である術式を施行、自然の状態の場の善し悪しに左右されないで効果的に呪的破壊を齎す事こそが本当の作戦。術式の補佐として霊鬼兵が配置された本当の狙い。…準備の準備に当たる段階。

 ――…殺す必要があるなんて聞いて居なかった。ノインをそんな役に持ってくるなんて思わなかった。あいつのバランスは元々無茶苦茶で、もう今は心だけで生きているようなもの――身体は死んでいるも同然。旧式の量産型がわたしや姉さん並の怨霊使役を行い続ければ――肉体の方が負荷に耐え切れなくなって来るのは必然なの。素体の処置が荒過ぎるからどれだけ霊力を使おうと核の細胞が賦活・再生する事もない。
「…もしわたしがあいつだったらとっくに死んでる! なのにあいつは、まだ充分過ぎるくらい強いの。戦えるの。…何故か生きていられるの。どう考えても普通にそこに居るだけで――ただ普通に立ち上がる事さえ歩く事さえ、話す事だけでももう無茶な状態なのに。なのに――僕の中の『皆』の為にも生きていなきゃならないって、笑うの!」
 そんな奴をわざわざ殺す必要は何処にもないでしょう!? 既にそこまで気付かれているのなら、尚更この作戦の意味なんかないわよ!!!
 聞いているのが零や草間興信所の者である事も忘れて、エヴァは叫ぶ。
 そんな姿を見、また静かに口を開く海浬。
「…だからこそ選ばれた、って事は無いか?」
「…え?」
「位置関係を見れば良い。草間興信所が近いだろう」
 そんな場所で為されているこれだけ密やかな仕込み。その術式とやらの本来の標的が草間興信所である可能性もある。身体より心が勝っている――それだけ人間的な霊鬼兵であるならば、何らかの形で零を引き込める可能性も想定されているかもしれない――例えば彼女が共に居る時にノインを殺したとすれば、この場所を霊的な『場』にするにはより効果的にならないだろうか。そうする意図はなくとも零は悲しむだろう。彼女は霊鬼兵だ。その悲しみに数多の怨霊が呼ばれてしまう事もあるかもしれない、もしくは…彼女自身が滅びる事を望んでしまうかもしれない。どちらに転んでも作戦を立てた側にすれば好都合だ――更に、そうなったなら草間興信所の大きな戦力が一つ減るとも言える。ノインが例え有効な戦力であったとしても、草間興信所となら相討ちに持ち込もうとする可能性があるし虚無の境界ならその価値もあると考えるだろう。…むしろ安価いと思うかもな。
「そんな…」
「…幾ら何でも酷いです! そんな訳…」
 思わず反論しようとする駿とブルーノ。が、虚無の境界ならこのくらい冷酷な事はすぐに考え付きそうなものだろう、とあっさり海浬。…それは全くその通りで、それが酷い事であるから止めるべきと話が通じるようなら――虚無の境界は初めからテロなど行っていない。
「そうですね。…草間興信所を狙うならそのくらい念入りに練って然るべき…でしょう」
 そんな酷い事を考え実行する人がいるなんて、考えたくもありませんけれど。
 唇を噛み締め、CASLL。
 エヴァは黙って話を聞いている。
 零もまた、同様で。
 駿は、どちらの事も心配そうに見守っている。

 自分たちよりずっと早い内から周囲の状況を調べていると見、海浬がセレスティの部下の黒服に改めて聞いてみる。…また別の場所に霊鬼兵が居る可能性・そして霊的磁場が高い場所云々の具体的な件は不明。だがこの公園にノインが居た事を鑑み、草間興信所を標的、もしくは何らかの呪術の有効範囲に含むと考えこれと同じような事――霊鬼兵のような存在がただ居られる事――が可能な場所を幾つかピックアップ、監視していると告げられた。
 …可能性として、虚無の境界が草間興信所狙いで呪的魔法陣でも描こうとしている事を元々考えていたと。それなら何らかの形でその一角を壊す事が出来れば取り敢えず術式は不完全になる筈だから、それを狙い。
 それらの事をエヴァの前で改めて言わせ、虚無の境界の企みが殆どバレている事を――続けても無意味である事を見せ付けるようにする。
 その上で。
 エヴァは――虚無の境界の霊鬼兵としてじゃない、彼女自身はどうしたいのか。
 改めて、訊く。
 けれど――エヴァは沈黙したまま。
 動かない。
 そこに。
 魅月姫が静かに畳み掛けた。

「教えては頂けませんか。
 ――…彼の、今の居場所を」

 彼を、殺させたくないのなら。



■Wish or Hope

 シュライン・エマから草間武彦への電話。
 零ちゃんに伝言を。
 …今、シュラインが零を呼ぶ。それはつまりは――ノインしか理由が思い当たらない。見付けた訳か。それとも何か別の。色々考えはするが、ひとまず今ここに――草間興信所に零が居ない事だけは確実で。風宮駿にCASLL・TO、ブルーノ・Mに連れられ促され、ノインを捜しに外に飛び出して行ってしまいそれっきり。…それはまだ、然程遠くに行っているとは思えないが…取り敢えずシュラインに今零が不在である事を言いそびれた。
 シュラインは綾和泉汐耶が入手した真咲誠名の話を知っている。…ノインの昔を僅かではあるが直に知っていた人物のその話。虚無の境界らしからぬその心の在りよう、故の強さ。大切なのは自分を構成する素材たち、その為だけに生きている。奴が自分から死ぬ事は有り得ない。
 電話の後、結局草間興信所に合流した汐耶はその件はシュラインにも伝えてあると言っていた。…ただ、汐耶と話したその時はまだ、電話口での様子からしてノインと遇っていた訳ではなさそうで。それで武彦の元に来た、ノインを見付けたのだろう電話。その時間的タイミング――ならばあれから、すぐの事。
 皆で零たちとの――零との速やかな合流を思考する。武彦に依頼の形とわざわざ言わせ、既に影での探索を始めている――と思しき黒冥月。…そうは言っても表立って見える行動としてはただ今まで通りに黙して佇んでいるだけなのだが。
 同じ時にセレスティ・カーニンガムが何かに気付いたような顔をする。…ノインの居た公園付近に、虚無の境界が暗躍しているようならその端緒を捕捉せよと放っていた部下たちの一グループ。彼らへと電話を掛ける。理由はと言えば、彼らの体内の血流からして、そのグループの居るその場所で、何か騒ぎが起きていると見た為。
 ふ、と唐突に実体不確かな闇の化身がエル・レイの側に現れ、甘えるように何事か耳打ちをしている。露出の多い魅力的な肢体の女性――それは、黒榊魅月姫の使役する夢魔であり。
 静かに冥月が口を開く。…応接間内の様々な動きを鑑み、久々に目を開け武彦をちらと見る。
「…依頼の必要も無かったかもしれんな」
「?」
「かもしれん。皆の様子からしてな…そろそろ行こうか?」
 訝しげに冥月を見返す武彦。それを余所に、レイベル・ラブが何故か当然のように冥月に同意。一同を促すように見渡し、自身もソファから立ち上がる。





 人気の殆ど無い喫茶店――それは常ならそうなのだが。
 今日この時だけはそうでも無かった。…一つのテーブルにノインと零が差し向かいで座っている。その側に、零に仕える騎士宜しく駿にCASLLにブルーノの三人が立っている。合流以前にノインと話していたシュラインと玲焔麒、後から来訪した武彦と魅月姫とレイベルは、隣に当たるテーブルに着いている。
 大所帯で失礼致します。入店してすぐ、テーブルに着く前に店主に断りを入れていたセレスティと汐耶。少し遅れて、こちらはやや離れた位置に陣取っているエルに冥月と同じテーブルに着く。

 ノインが見付かり、零が居る――舞台は整った。
 が。
 二人は黙りこくったままでいる。
 他の皆は、そんな姿を気遣わしげに見ている――もしくは邪魔にならぬようと考えたか敢えて無視するように離れ、外をこそ警戒している。零さん、と促す駿。やっと逢えたのだから、話し掛けなきゃ。想いをぶつけなきゃ駄目だ。思いながらノインの事も見る。
 ノインはまだ躊躇しているのか、瞳が揺らいでいるようだった。紅い色。零と同じ――エヴァとも同じ。
「…ごめんなさい」
 ぽつりと、零。
 ノインの目に、驚いたような光が浮かぶ。
「…ノインさんの仰る通りなんだろうなって、もう逢わない方が良かったんだろうって。わかってました」
 ノインさんと私では、居場所が違う事。
 あのままで居たら、いずれ私が辛くなると思って下さったからこそ。
 だから別れを告げて来たのだと。
 …初めから、裏切られたとは思っていない。
 兄さんたちには、心配懸けてしまいましたけど。
「ノインさんがそう判断したんですから。そのお気持ち、尊重したいと思っていました。…でも」
 …やっぱり、逢いたかったです。
 そこまで言うと、零は俯く。
 ノインは何も言わない――言えない、のか。
 酷いと承知で一方的に言った事、なのに本当に、その意図を汲んでいた零。
 弁解も何も出来ない。
 だからと言って、翻す事もまた。…自分の立場が――居場所が何か変わった訳でもない。
 が。
「君も零さんの事が好きなんだろ!」
 それら全てを吹き飛ばす檄が飛んで来る。…駿。
「人と人がお互いに好きになれるなんて事は奇跡みたいな事なんだ! だから…その気持ちは大事にしなくちゃ!」
 言われた途端、ノインは痛みを堪えるような顔になる。
 と。
「違うのですか?」
 …風宮さんが、仰る事。
 静かにそう続ける、魅月姫。
「どうぞ、本意を聞かせて下さい。…零さんの事を、どう思っているのか」
 その声に。
 答えるのはまた沈黙で。ただ、その沈黙は――先程までのように敢えて押し黙っていると言うより、何か言おうとして、けれど言葉が出て来ないような印象で。
 ノインはちらりとシュラインに目を遣る。…何処か縋るようにも見えたその瞳。それを見、受けて頷くシュライン。…それで良いの。貴方が貴方としてそこに在る事に責任を感じるのも仕方無いかもしれない。けれどそれだけじゃなくて良いの。貴方は貴方自身を認めて良いの。…彼らを動かしているのは心だもの。それで普通なの。そうでなければ…それが無ければ。本当に兵器になってしまう。
 シュラインの視線が武彦に移動する。武彦は煙草も喫わず腕組みし目を閉じている。感情が見えない顔。黙ったままで何も言わない。けれどそこに居て何も言わない時点で、わかってくれているのだとも、言える訳で。

「…羨ましかったんです」
 初めは。
 ノインがぽつりぽつりと話し始める。
 零に初めて声を掛けた時。その理由。
 零君が、草間興信所の――草間零である事は初めから知っていた。
 けれど、そんな知識とは別に。
 殆ど衝動で。
 その姿を偶然目の当たりにして、彼女が現在、幸せである事が、もう感覚的にわかってしまったから。
 羨ましくて眩しくて。
 思わず、声を掛けていた。
 受け答えてくれた事も、嬉しかった。
 それで、もっと話していたいと、思ってしまったんです。
 …零君も、そう思ってくれていたみたいで。
 毎日のように来てくれました。
 だけどこのままじゃ駄目だって、理性の部分ではずっとわかっていました。
 自分は何の為にあの場所に居たのかを考えれば。
 ですが、自分こそが――あのままで居たいと、ずるずると引き摺ってしまって。
 エヴァや…零君の身内である方々に知られた時点で、漸く踏ん切りが付けられた。
 でも。

「僕も、何事も無いまま貴方にもう一度逢えたら。ずっと思っていました」
 それが、好きと言う感情表現で表して良い気持ちなのかは、わかりませんけれど。
 苦く笑みつつ、ノイン。
 零は、そんなノインの言葉に、こくりと頷いている。少し、嬉しそうにも見えたか。零は頷いたそのまま俯いて、顔を上げない。
 暫くして。
 零が顔を上げる。嬉しいですとぽつり。ノインが告げた言葉の、自分の受け取り方が間違って無かった事――それと今言ってくれた事。同じ想いだった事。
 けれど、そこまで言ったところで。
 零はふと窓の外に目を向けた。屋外。道路を挟んだ向こう。
 何となく零のその視線を追って、ノインは硬直した。

 ――…道路の向こうに佇んでこちらを見詰めていたのは、エヴァ。





 ノインが気付いた。そう知った途端――エヴァの身体が翻される。
 逃げるように、その姿は消えていた。
 前後して、草間さん、と鋭く呼ぶ声が飛ぶ――汐耶の声。何事かと武彦が目を開け確認する。汐耶とセレスティ、そして冥月とエルの四人が着いていたテーブルを見る。
 …冥月の姿が無い。

 ノインと零の視線が一度絡む。微かに頷く零。それを確認するなり――ノインは席から立ち、店から飛び出した。ノインの身体の状態は皆それぞれ少なからず聞いている――もしくは直接診て識っている。…それでも目の当たりにした正常に稼動する霊鬼兵に匹敵する――並以上の運動機能に呆気に取られたか。
 ゆっくりと零が立ち上がる。そして、私も追いますと皆に冷静に断りを。

 …『妹』の事、放って置けませんから、と。





 …喫茶店の窓。ノインと『姉さん』から――他の連中が座っていたところから見える位置。
 そこから目が届かなくなるところまで歩いて来て、立ち止まり小さく息を吐く。
 労るような声を掛けられた。
「…後悔しているか?」
 それは覚えのある声。先程、公園に訪れた皆に――零たちにノインの居場所を教えた際、そちらと合流せずにこちらに残った――蒼王海浬。
「…うるさいわね。後悔なんかしてないわよ」
 少し怒った調子で返すエヴァ。
 それは、後悔はしていないが――あの場に居るのが『姉さん』である以上、エヴァにとってはあまり好ましくない事であるのも確かで。
 ただ、零の周りに居る人たちの方が――今のノインの状態を良い方向に持って行ってくれる可能性はあるように思ったから。
 だからエヴァは身を引いている。

 …本当は、それだけの理由でも無いのだけれど。
 今はノインに逢いたくない。
 出来るなら、これからも。
 だから自分は、あの喫茶店に入る事はしなかった。
 けれどノインの姿が見たくて。
 姉さんがこちらを見たから、気付かれてしまった。
 何で。
 わざわざ。
 …私を見たのよ。姉さん。

 と。

 思ったそこで、地面を蹴る音が、足音が近くまで来る。走って来る音。自分の背後、すぐそこで、近い位置で足を止める。立ち止まる。…ほんの僅かも荒くなった息遣いに聞こえない。そんな存在。
 息を呑んだ。
 ここに走って来たのが誰だか、わかったから。
 ノイン。
「――…何で来るのよ!!」
「君が悲しそうな顔をしていたから」
「――!」
 言われた、途端。
 ばっと振り返り、凄い目でエヴァはノインを見る。こめられた激情――その正体は一つではなく。妬みもあるか憧れもあるか。けれどそれ以上に――それとは別に。何かとんでもない理不尽を憤るような。今にも泣きそうな。その感情に合わせぶわりと周辺に湧く瘴気、黒く染まる意識――エヴァに喚ばれ強力な呪縛を受け、使役された数多のエネルギー体…方向性の定まらない怨霊たちが――ノインに襲い掛かる。
 が。
 その瞬間――直前、ノインの影が広く大きく伸び上がり、その爆発的なエネルギー全てを何事も無かったように吸い込んでいる。何が起きたか――少し前、一人で自分の前に来、『影』と名乗り去った女性…冥月の技。ノインはすぐ気付く。
「言ったろう? 直接周辺に害が及ぶようなら邪魔をすると」
 声だけが先に来る。
 いつの間にか、そこに居た。
 冥月。
「…エヴァと言ったな。そこまで虚無に忠誠を誓うか」
「…?」
 静かに問われた冥月のその言葉に、ノインはすぅと目を細める。そして物問いたげにエヴァを見る。
 エヴァの答えは――殆ど絶叫だった。
「何で来るの! ユーは死にたい訳!? 違うわよね!? …今回の作戦は本当は違うのよ! 後から違う命令があったの! 私たちが元々命令されてたみたいに怨霊を集めれば良いんじゃないの! 本当は、本当は――ユーを!!」
 そこまでぶちまけると、エヴァは立っていられなくなったかその場で崩れ落ちる。がくりと膝を突く。
 彼女の告げたその科白。続きになるだろう言葉は、すぐに察しが付いて。
 ――…つまりはノインを殺せと言う命令が、エヴァにこそ下されていたのだ、と。
「…それでか」
 君が急に僕の前に姿を見せなくなった――僕を避けていた理由。
 ノインは寂しげに笑うと、視線の位置を合わせるようにエヴァの前で屈む。立ち上がる助けにとエヴァに手を伸ばす。
「――」
 エヴァは瞠目したまま、ノインを見詰め、動かない。そんなエヴァの手を、ノインは躊躇いなく取る。
 殆ど、同じ時。
 力無くくずおれたその肩に、そっと手が置かれた。今度はノインの手では無く、別の。
「それが嫌だったから…止めて欲しかったから、ノインさんの事を私たちに教えてくれたのね」
 零。
 いつの間に追い付いて来ていたのか、零もまたその姿を見守っている。直に触れては急消耗する事がわかっているからか手は出さないが、ブルーノもまたエヴァ姉様、と心配そうに声を掛けていた。
 喫茶店に居た面子が少しずつ追い付いてくる。…それは確かに、ノインと零が出て言ってしまえばその場所に当面用は無い訳で。虚無の境界側からの新たな手出しがある事を考えても、今は実は――この場所にノインが居る事を聞いて己が主人に確認してから、セレスティの部下たちが『他以上に確実な標的とされる場所』として確りと見張っている。こちらが注視しているのとは別の変わった動きがあれば、連絡はすぐに入るようになっている。そちらの心配は無い。
 駿とCASLLが霊鬼兵三人――いや心霊兵器四人の様子を見、感極まったかぐすんと鼻を鳴らしている。エヴァを気遣うノインと零の様子に――草間興信所の『人間の兄と姉』に似たものを感じ、自然と武彦とシュラインに目を向け笑い掛けてしまう汐耶とエル。そんな二人に対し、安堵にも似た意味の笑顔を返すシュライン。一方の武彦は軽く眉間に皺を寄せている。…まぁそうは言っても、本気で不機嫌と言う訳では無く、何となく意固地になっているだけのような。そんな雰囲気。
 元々この場に居た海浬、それと一番最後に追い付いたセレスティは――今の幾つかの動きを全て予測していたのか、黙って見ている。セレスティどころか――海浬にまで僅かに微笑みらしきものが見え。

 …ただ。
 虚無の境界の思惑の通りに殺されなくとも、ノインの存在に先が無い事も、確かな事で。
 例え表面的には、何事も無いように動けていると言えども。
 エヴァの助力にと伸ばされた手からもそれはわかる。左腕――ノインの利き手は右である。より力が入るのも、本来右。けれどノインは――まずそんな右腕を伸ばそうとしていたが途中で思い直し、それから左腕に変えていた。
 右腕を包む服の袖が、少しだが汚れている。…茶の混じった青黒い不吉の色。先程まではそれ程汚れてはいなかったのに――今、また。
「…少し動いただけで」
 これ程なのですね、もう。
 目敏く気付き、嘆息する焔麒。その呟きで皆も気付く――ノインの腕の事。
「もう、無理だと思いますか?」
 生きるのは。
 焔麒の呟きを受け、静かに問うノイン。彼に渡された薬の――匂袋の効果は上々、気を紛らわす役には立つ。それが根本治療にならずとも、言葉通り幾分楽にはなった。手持ちの物を目の前で調合したそれだけで、そこまでの効果を齎せる者なら。そう思い、自分の容態を聞いてみる。
 …根本治療にならずとも。それは――ノインの場合、肉体だけで見るなら既に死んでいる――完全に手遅れである訳で、根本治療が、不可能であると言う事でもあって。霊鬼兵と言う呪術的な存在であるからこそ、一個人として活動する為の無理が利いている、それだけで。
 ノイン本人も、その事は――もう、本能的に知っている。

 と。
「…霊鬼兵の枠から外れる覚悟はありますか?」
 不意に、魅月姫。
「それで良ければ――それでも、更に生きる望みを持たれるのなら」
 私の血の力を与えても。…真祖の吸血鬼の、その力を。
「!」
 驚く。
 その提案は――今のノインにしてみれば、願っても無い事。
 ただ。
 願っても無い事ではあるがそれでも、一つだけ引っ掛かる事がある。
 肝心な事。
 だからすぐにその話を受ける事はせず、立ち止まって『それ』を確かめる。
「…貴方の血の力を頂いた場合――僕を構成する数多の霊や魂は、どうなりますか」
「…。それは――貴方と共に運命を辿る事になると思います」
 霊鬼兵を眷族にした事はありませんから、はっきりとは言えませんが。ですが私の血の力では――貴方のその身をそのまま、別の存在へと変換する事になる訳ですからね。
 魅月姫は淡々とそう告げる。
 でしたら、とノインは目を伏せた。
「…お気持ちはとても有難いのですが――辞退したいと」
 僕の中の皆に――今在る以上の業は、背負わせたくありませんので。
 僕だけを言うなら、僕だけと考えるなら。…僕は初めから不自然な存在なのですから――とても有難いお話なんです。ですが『皆』は、そうじゃない。きっと本来行くべき場所がある。それがいつになるかわからなくとも――『皆』には、いずれ救われて欲しいので。
 僕の事情で縛り付けてしまいたくはないんです。
「ですか。…そう仰る気はしてました」
 貴方のお話を聞いていると。魅月姫はノインにそう告げ、小さく息を吐く。
 それらを聞きつつ、ふむ、と難しい顔になるレイベル。
 重々しく頷いてから、じゃあ、とノインに次の提案を出した。
「どうせなら死んではみないか?」
 途端。
 ぴくりと。
 零とエヴァがその言葉の意味に、震えた。
 ノインがどういう事かとレイベルの顔を見る。
 死んではみないか。そうは言っても――ただ死ねと言う訳では無いような、言い方。
「そう。死別と言う最期の突撃敢行を要請する。…そんな顔をするな。まぁつまりは、零への責任を取れと言うと同時に、霊鬼兵の身上から別存在へ転移しないかとの誘いだ」
 黒榊が可能なようにそのまま存在を継続した上で変換、とは行かんが――どうも貴方の場合はそうは行かない方が良いのだろう。霊鬼兵を構成する下地となる数多の霊や魂はそれぞれ本来の行き場に送るのが一番いいだろうし今の言い分からして貴方もそれを望んでいるのだろう。…それ程難しい事ではない。なぁブルーノ? レイベルはいきなりそう振る。振られたブルーノはきょとんと自分を指す。当然のように頷くレイベル。…本来の行き場、それはつまりは。気付くと慌ててブルーノも頷いた。はい、迷える魂を主の御許に送るお手伝いなら僕が、と。
 それを聞き、またレイベルは頷く。更に続けられたのは別存在への転移に当たっての具体的な手段。インフォームドコンセントとでも言うつもりか、指折り、その例を挙げて行く。
 ――…貴方のその人造魂を輪廻の回に乗せる、再会を期して一部別の象でここに残る、霊魂サイバー化…手段は様々だが、私の手で事を成すなら一時の別れをしなくてはならないのは変わらない。虚無に利用されぬ形になる為には。
「…どうだろうか?」
「…」
「もし受けると言うのなら――せめてそれが素晴らしき別れでありますようにと、そう願う」
 私は常に恋する者たちの味方であり、あらゆる意味で医者なのだ。
 別に人魚でなくともまことの涙は真珠だよ。
 これからもこうして世界は変曲を重ねて行く、帰昔線然り、幻の島然り。…そう、映画版のラストが原作無視の、愛が地球を救う展開だったように。
「…?」
「…。…まぁ、細かい事は気にするな。とにかく、悪いようにはしない」
 何だか別方向に行きそうだったと見たか咳払いをしつつ、取り直してレイベルがエヴァを見る。
「それに、エヴァはノインを殺せと命令を受けているのだろう? ならばその通りにしてやればいい。その後、私が何をしようとそこは貴方に出された命令に関係無い筈だ」
 …とは言え。
 そう簡単に割り切れる事でも無いだろう。エヴァがノインを殺すのが嫌だと言うのは、感情だ。無理にやらせては――傷が付く。
 と。
 あっさりとそう翻した、途端。
 また『影』が、動いた。
 …先程エヴァの攻撃から音も無くノインを庇った、その影が。
 今度は逆に。
 その場にくずおれ、へたり込んでいるエヴァ、その身を支え起こそうとしている零。
 その、目の前で。
 …ノイン自身の、その『影』が。
 鋭い針のように、伸び上がり。
 ノインの右腕を――肉体の繋ぎ目、その奥、霊鬼兵の霊力の源――『核』に当たるその位置を。
 貫いた。
 殆ど刹那の事。
 誰も何も言えず、ただ見ていてしまった、だけ。
 使われたのが影である事からして、手を下した可能性は居合わせた中では二人だけ。
 それも、間隙を縫うその、やり方が。
 深淵の魔女では無く、元暗殺者――魅月姫では無く、冥月の方と知れていた。

 …『核』が破壊され、ノインの身体が傾ぐ。
 スローモーションのような中、酷く冷たい声の筈なのに――何故か柔らかく優しくも聞こえたアルトが静かに響く。

「後は任せて楽になれ」
 …見てはいられんよ、もう。
 もっとずっと前の時点。まだ誰もノインに辿り着いていない、その時点で。真っ先に捜し、見付けていた。影の走査で身体も診た。身体は死んでいる、それでも動いている。どれだけの負担になっている事やらと、驚いた。
 皆が調べる中で明らかになって行く事柄。そこから、無茶の理由が見えて来る。
 手を下すだけ下すと冥月は後は頼むとでも言いたげに、レイベルへと視線を流す。承知したとばかりに、目で頷くレイベル。
 それから、冥月はまたノインへと目を遣った。その場で倒れるどころか――体組織が崩れ始めている。今度はエヴァが零と共にノインを支えている。やだと泣きじゃくるエヴァに、泣くのを堪えているような零の顔。他の皆も目を見張り、思わず駆け寄る。急過ぎたから、事態に付いて行けない。問題無いと静かにレイベルが駆け寄る皆を制す。それで周囲も、少しだけ、落ち付く。
 が。
「やはり別れは自分で言え」
 …まだ、その余裕くらいはあるだろう。
 あれだけの生き方をしていられるくらいなら、まだ。
 そう知っているから、冥月は手を貸す事もせず、敢えて突き放すように告げる。
 エヴァがそんな冥月をきっ、と睨む。殆ど反射的に――その感情に喚ばれた怨霊が攻撃の為のエネルギーとして形を成して来る――が。
 そんなエヴァの腕を、力無くノインが引いている。制止するように。
 はっとして、エヴァはノインを見た。途端、波が引くように喚ばれた怨霊が消えていく。
 堪え切れなくなったか、零の目からも涙が一粒零れた。
 ノインはそれをそっと指先で拭ってから冥月を見、ゆっくりと頭を振る。
「…いえ。貴方に頼んだ言葉は――もう必要ありません」
「ほう? 何も遺さないか」
「違います」
 …遺したいのは永別の言葉ではなく、いつかまたと再会の約束を。
 その言葉を聞くと、冥月は何も言わずに目を閉じた。もう自分の出番は済んだとばかりに一人踵を返し、その場から離れていく。
「…冥月」
 思わず。そんな風に自分を呼び止めた武彦の声に、冥月は足を止める。が、それは僅かな間の事で。
 冥月はすぐにそのまま、姿を消す。

 ノインの力が、尽きて行く。
 皆に見守られる中――それぞれ意味は違えど、二人の大切な人に見守られる中。
 最期の力で呟くように、告げた。
 待っていて欲しいと。

 ――…またいつか、悲しみの涙を介さずにお逢い出来るその日まで、と。


【了】


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    登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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 ■整理番号/PC名
 性別/年齢/職業

 ■2778/黒・冥月(ヘイ・ミンユェ)
 女/20歳/元暗殺者・現アルバイト探偵&用心棒

 ■2980/風宮・駿(かざみや・しゅん)
 男/23歳/記憶喪失中 ソニックライダー(?)

 ■4345/蒼王・海浬(そうおう・かいり)
 男/25歳/マネージャー 来訪者

 ■1449/綾和泉・汐耶(あやいずみ・せきや)
 女/23歳/都立図書館司書

 ■3948/ブルーノ・M(-・えむ)
 男/2歳/聖霊騎士

 ■4682/黒榊・魅月姫(くろさかき・みづき)
 女/999歳/吸血鬼(真祖)/深淵の魔女

 ■1883/セレスティ・カーニンガム
 男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い

 ■6169/玲・焔麒(れい・えんき)
 男/999歳/薬剤師

 ■0606/レイベル・ラブ
 女/395歳/ストリートドクター

 ■0086/シュライン・エマ
 女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員

 ■3453/CASLL・TO(キャスル・テイオウ)
 男/36歳/悪役俳優

 ※表記は発注の順番になってます

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 …以下、登場NPC(□→公式/■→手前)

 □草間・零(初期型霊鬼兵・零)/主人公(え)。中ノ鳥島出身。素体の名は桜木礼子。
 ■ノイン(虚無の境界製・量産型霊鬼兵・No.9)/どうやら零ちゃんの本命であるらしい青年。量産型のタイプとしては旧型から新型への過渡期に製造されている。なお、9がドイツ語読みneunとはなっているが核となった素体は日本人。その名前は「刑部和弥(おさかべ・かずや)」。
 □エヴァ・ペルマネント(虚無の境界製・最新型霊鬼兵・Ω)/零の妹。素体は中ノ鳥島製。なお、その素体の名前は不明。

 □草間・武彦/探偵と言うより今回は零の兄…(もしくは父…?)
 ■真咲・御言/御指名あったが故に登場、情報担当。現バーテンダー、元IO2捜査官。
 ■真咲・誠名/御指名あったが故に登場、情報担当。現怪奇系始末屋(副業的裏稼業が)、元IO2捜査官。
 ■エル・レイ/御指名あったが故に登場、魅月姫さんと旧知の女吸血鬼。

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           業務連絡?
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 いまだかつてした事のない日数の遅延を今回はやらかしてしまいました。
 黒冥月様、風宮駿様、蒼王海浬様、綾和泉汐耶様、ブルーノ・M様…五名様分、大幅に納期が過ぎております。お渡しが遅れまして大変申し訳ありません(謝)。大変お待たせ致しました。

 …何かPC様の行動・発言・性格・思考等でこれは有り得ない等の引っ掛かりがあるようでしたら御気軽にリテイク御声掛け下さいまし。他に何かありましたらその際にも。出来る限り善処致します。

 ※ちょいと落ち着いてからこちらの部屋に今回のライター通信相当記載する予定(今回遅れた理由やら本文中に於けるPC様のプレイング外の行動についての言い訳もどき等々)
 http://omc.terranetz.jp/creators_room/room_view.cgi?ROOMID=162