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<東京怪談ウェブゲーム ゴーストネットOFF>


当たるな、八卦



■序■


  スレイマン:水に気をつけなさい。
  ゆーいち:み、水ですか。

 翌日、占われた青年は溺死した。

  スレイマン:恋敵が現れるかもしれません。
  やっこりん:ぇぇッ!? まU〃τ〃すヵゝ!!!!
  スレイマン:でも、大丈夫。すぐにあなたや彼氏さんの前からいなくなるでしょう。

 翌日、占われた少女の恋敵が轢死した。



 ネットカフェに行けば、ほぼ毎日、オカルトサイト『ゴーストネットOFF』管理人と会うことができる。そしてまれに、彼女――瀬名雫と親しげに話している初老の男も見ることができるはずだ。べつに彼は雫とよからぬ関係を育んでいるわけではない。物見鷲悟――彼もまた、瀬名雫と同様、『怪奇の類』に魅了された人物なのだ。
 その日も、瀬名雫が通いつめるネットカフェには物見がいて、話しこんでいるところだった。
「商売敵の情報はすぐに入ってくる。私が有料占いサイトを運営しているのは知っているだろう」
「うん。5万HITおめでとー」
「……ありがとう。『ソロモンズ・キー』というチャット占いサイトがあるのは知っているかな」
「あ。BBSにスレッド立ってた気がするんだけど」
 雫は一台のパソコンに飛びつくと、ゴーストネットOFFに飛び、数あるスレッド式BBSへのリンクをひとつ、クリックした。
 多数のスレッドの中に、無数と言っていい書き込みがある。どれも、怪奇体験や都市伝説、心霊スポットを話題を中心にしたものばかりだ。
 雫はそのすべてを把握している。物見が言った占いサイトの噂を、容易く見つけだした。

『ソロモンズ・キー』というサイトの占いは当たりすぎる。
 昨日知人が占い師の言うとおりの番号でナンバーくじを買い、大当たりした。
 占い師が言ったとおりの新しい恋人ができた。

 占い師が言ったとおりに、人が、死んだ。

 殺された。
 事故死した。
 友人が通り魔に刺されて死んだ。占い師に、「夜道に気をつけろ」と言われた翌日に。明日通夜だ。
 死んでしまった。
 死ぬのだ。
 この占い師は、死を予言するのが得意らしい。


「へえ」
「常連をひとり取られてしまった」
 あまり悔しくなさそうな口ぶりと表情で、物見が言う。
「だがその常連が今朝私にメールで相談してきた。『ソロモンズ・キー』の占い師に、刃物に気をつけろ、と言われたと。……占い師は、どんなにはっきりと依頼人の『死』の未来が見えても、『死』という言葉を口にしてはいけないという暗黙の掟があるのだよ」
「じゃあ……もし、その人が死ぬかも、って結果が出たら――なんて言ってあげるの?」
「『気をつけろ』、と言えばいい」
 物見の静かな視線を受けて、雫がこくりと生唾を飲む。その目には、少し不謹慎だが、好奇心が呼ぶ輝きが宿っているのだった。

『ソロモンズ・キー』の管理人兼占い師は、スレイマンというようだ。それ以外はなにもサイトに記載されていない。チャットのログは第三者が閲覧できないように設定されているようだが、物見に相談した客は、ログを保存していた。しかしそのログからも、スレイマンに関する情報は引き出せない。男なのか女なのか、若いのか老いているのかもわからない。
 スレイマンの占いは当たる――特に、死や、傷に関するものごとは。
 ゴーストネットOFF及び帝都非科学研究所は、スレイマンの調査をオフラインで依頼した。



■塔とソードの10■


 雫と物見が調査を依頼した数時間後には、ネットカフェにいったん調査員が集まった。
 藍原和馬、光月羽澄、新座・クレイボーン、ササキビ・クミノ、マリオン・バーガンディ、風見真希。結果として、この6人がスレイマンを追うことになった。
「例によって報酬は出せないのだが」
「なんだ、タダ働きか。いや、マイナス働きだ。俺はコレをあんたにあげるわけだから」
 和馬は笑っているのか顔をしかめているのかはっきりとはわからない、複雑な表情だ。彼は物見にイチゴジャムの瓶を投げ渡した。物見は受け取り損ね、未開封の重い瓶は彼の額に激突した。
「あ、悪い」「ちょっ」「おッ」「……」「あっ」「痛そ!」「あー」「いや、大丈夫だ」
 物見は黒縁の眼鏡を直し、まるで痛がる素振りも見せず、膝の上に落ちたジャムを手に取った。
「そーだった。こいつ投げても盾にしてもへーきなんだった」
「謝って損したなア」
「心配して損した」
「もう、みんな、そんなこと言って。普通の人だったら今ごろ血を見てるわ」
 羽澄は呑気な新座と薄情な和馬にしかめっ面を見せ、物見に向き直った。
「物見さん、その常連さんを占ってみてもらえませんか? 本当に、『刃物に注意』って出るのか、ちょっと気になって」
「……しゅーちゃんが占うの? どーせろくな結果出ないと思うよ。スレイマンの占いとかぶるんじゃない? いっつも『塔』のカード出るじゃん」
 真希は正直だ。思ったことと知っていることをそのまま口にした。物見は何も言わない。しかし、羽澄の意見には従った。鞄を探ってタロットを取り出したのだ。
「ふーむ。本人目の前にいないのに占えるもんかねェ?」
「正確な生年月日と本名があれば、占えないこともない。藍原君の言うとおり、本人が目の前にいたほうが確実だが」
「……確実な未来を伝えて、何になるのかしら」
 そのとき――長らく口を閉ざしていたクミノが、ぽつりと呟いた。空気が、きいんと高鳴ったように思えるほど、重い言葉だった。
「死んだり、傷ついたり。人は、そういう未来を回避するために占ってもらうはず。それなら、占いというものは本来、『当たるべきものではない』わ」
「……クミノさんは、占いを信じないのですか?」
 マリオンが金眼をしばたいた。クミノは表情を変えない。
「少なくとも、スレイマンの占いは信用しない」
 物見はパソコンの前に、タロットカードを展開していた。使いこまれたタロットだ。78枚、大アルカナと小アルカナの両方を使っている。新座は手品でも見ているような、ぽかんとした表情だ。物見が最後の1枚をめくった。
「「「うわ」」」
 羽澄と和馬とマリオンが、蛙を踏んだときに上げるような声で、眉をひそめた。
「痛そーな絵だなー」
「……『ソードの10』」
 ウェイト版のベーシックなデザインのタロットカード。擦り切れた絵。物見が最後にめくった1枚の中では、男が倒れていて、その背に10本の剣が突き刺さっていた。
「刃物に注意だな」
『ソードの10』とは、『塔』に並ぶ不吉なカードだ。なるべく出ないほうがいいカード。タロットについての知識がまったくなかった新座は、羽澄やマリオンからひととおり説明を受けた。おかげで新座も、漠然とした危機感を抱くことができた。
「じゃあ、その『常連さん』を見てたほうがいいわけだ」
「物見さんの研究所で保護するのはどうですか?」
「さて……ネットでやり取りしているだけの仲だからな。来てほしい、と言って素直に来てくれるだろうか」
「説得してくれよ、物見サン。いろいろ聞きたいこともあるからさ」
「物見さんには、不安になって相談してきているのです。案外素直に来てもらえるかもしれないのですよ。私が迎えに行けば、すぐに移動できるのです」
「わかった」
 物見がパソコンに向かい、羽澄が席を立つ。
「じゃ、私はちょっと用意するものがあるから、一度お店に戻るわ。物見さんの研究所で落ち合いましょう」
「気をつけてねー」
 相変わらず椅子でリラックスしている真希が、ひらひらと羽澄に手を振った。


 まだ外は明るい。夏は日が長い。物見の常連、相川華奈は無事に、素直に、ネットカフェにやってきた。マリオンが迎えに行くまでもなかった。彼女は刃物に気をつけながら、明るい道を選んでここまで来たのだ。東京住まいだったのは幸運だったかもしれない。
 華奈は見かけはごく普通の短大生だったが、オカルトには強い関心を持っていて、調査員の指示には素直に従うことを約束した。
「でもさ、オカルトと噂話が好きなら、スレイマンの危ない噂も知ってたんじゃないのー?」
「そうそ。どういういきさつでそいつと知り合ったんだ?」
「スレイマンの噂は聞いていました。だからこそ、なのかもしれないです。きっと、最近になってから占ってもらっている人は、みんな同じような理由でスレイマンに占いを依頼しているはずです。料金もそんなに高くないし……、『ソロモンズ・キー』も、占い情報サイトのリンクを辿っていったら、普通に見つかりました」
「普通に?」
「うーん……」
 後ろでスクリーンショットをプリントしながら、マリオンが唸った。プリンタから吐き出されているのは、スレイマンと華奈のチャットログだ。チャットは30分ほどで終わっている。
「占いという設定を借りての、殺人予告なのかと思っていたのですが……」
 スレイマンと華奈(チャットルームでのハンドルネームは、『哀河ショウ』だった)のチャットログには、一見、何のほころびもないようだった。確かに最後、スレイマンは華奈に「刃物に気をつけてください」と忠告している。その前にも、占いらしいことをやっているのだ。
「違うのかもしれないのです……」
 わからない。ネットは無機質だ。ドットが現しているだけの文字からは、感情が伝わってこない。
「何をする気?」
「え?」
 安物のインクジェットプリンタが描いたものだとしても、マリオンがそれを絵だと思えば、これは絵だ。じっと絵を見つめるマリオンに、クミノがするどく囁いた。
「ちょっと、行ってくるのです」
「相手のデータがまだ充分に揃っていないわ。単独行動は危険よ」
「ご心配、恐縮なのです……が、大丈夫なのです。私にできることは限られています。私はそれを自覚しているのですよ」
 無理はしない、と彼は言った。クミノは小さな、異質の光を見た気がした。ひらり、と1枚の薄い絵画が宙を舞い、マリオンの姿はかき消えていた。彼は、絵画の中へ――チャットログの世界の中に入っていったのだ。
「マリオンさんが行動を開始した」
 クミノの一言で、マリオンの姿が消えたことに気づかされ、物見と調査員たちははたと口をつぐんだ。その沈黙は、そう長くは続かなかったが。
「……明るいうちに、暴れられそーなとこに行ったほうがいいんじゃないか?」
 頬杖をついて夕暮れを見つめながら、新座が呟いたのだ。ブラインドの縞模様の向こう側、東京の街は、そろそろ遅い夜を迎えようとしている。
「護衛いっぱいいるから大丈夫だと思うけどさ」
「わっかんないよー、異次元からいきなり刃物が降ってきたりしちゃうかも」
「物見サンあたりが盾になりゃいいでしょーが」
 余裕があるのは、調査員と物見だけだ。無邪気に結果報告を待つという雫に見送られ、ネットカフェを出る――相川華奈だけは、ひどく不安な目を空に向けていた。
 刃物が降ってくるかもしれない空に。



■素直な囮と無防備な相手■


 歩いている。空や物陰からの刃に気をつけながら、皆が歩いていた。帝都非科学研究所まではまだ距離がある。夕暮れ時の賑わいを見せる商店街を通り抜けている間も、一行はほとんどなにも話さなかった。

 スレイマン。
 ソロモン王のことだ。サイト名も『ソロモンズ・キー』なのだから、くだんの占い師がオカルトに多少知識があるのは間違いない。
 スレイマン、という名の人物が絡んでいると聞いたから、和馬は数枚呪符を持参していた。一枚だけ真言系の札が紛れ込んでいたが、残りはすべて西洋魔術の流れをくんだものだ。
 ――人間だけじゃない。生きモンってのは普通、いつだって死と隣り合わせだ。でも、スレイマンに占われたやつらは、『死んだ』ンじゃなくて……『殺された』みたいな感じじゃねエか。
 平成の日本に、ソロモン王がいるはずはない。だが――、このご時世だからこそ、スレイマンは容易に現れるのかもしれないのだ。いかがわしいオカルト本やインターネット。少し興味を持って調べるだけで、ソロモン王が駆使したとされる術に辿り着くことができる。
 和馬が見る限り、現在出版されている本や、サイトに載っている呪術のほとんどは、幼稚なインチキだ。しかし――偶然というのは、たまにとんでもないいたずらをする。本に間違って載っている呪文をさらに間違えて唱えたら、実はそれが本当の呪文であったということもあるのだ。
「スレイマン、ね……」
「聞いたことある名前なんだよなあ」
 和馬の隣の新座が呟いた。彼の頭に、ずしり、と直線を組み合わせたようなデザインのメカ恐竜が乗っている。じたばたしている。新座の包帯がほどけそうだ。
「予言かー。昔と今と未来のこと聞くなら、悪魔が手っ取り早いよな。魂渡して、かわりに悪魔に占ってもらってんのか?」
「そのわりには、行動が地味すぎる。スレイマンは自分が何をしているのか、自分で把握していない可能性もあるわ。スレイマンにかたちがあるものなのかどうかもわからない。――未来と、同じ。今の段階では、漠然としすぎている」
 クミノが口を閉ざし、足を止めた。前を行く物見と真希が、一軒の古びた雑居ビルの前で立ち止まったためだ。
「はいはい、とうちゃーく。しゅーちゃん、お茶よろしくー」
 真希に背中を叩かれ、無言で物見がビルに入っていく。
 ここが、帝都非科学研究所だった。
 光月羽澄は、大きなバッグを抱え、程なくして研究所に入ってきた。彼女が来た頃には、研究所の中に紅茶の香りが漂っていた。


 ササキビ・クミノがやってもいい、と言ったのだが、多数決で物見鷲悟が生贄になった。
 とどのつまり、羽澄が用意してきたノートブックで『ソロモンズ・キー』にアクセスし、スレイマンに占ってもらうという役割だ。
「そのPCには架空のIPを割り当ててます。物見さんは〈ザ・タワー〉以外のハンドルでスレイマンと接触してもらえますか? ……私はこっちのPCでスレイマンの居場所を探りますから」
「へー、すげーな、すうぱあハッカーだ。おれそういうの全然わかんないからさー、すげーな、ほんとにそう思う」
「ねー、すごいよねー。あたしハッキングとクラッキングの違いしかわかんなーい」
 新座と真希が目をきらきらと輝かせ、小さなノートブックを開く羽澄に憧れと羨望の眼差しを送った。う、と羽澄は言葉に詰まる。
「……プロなのかしら。手慣れているわね。あなたに任せる」
「や、やぁね、ササキビさんまで。私は知り合いの真似してるだけだから!」
 羽澄が苦し紛れにごまかすと、クミノがにやりと笑ったような気がした。……気がしただけだ。実際のクミノはぴくりとも頬を動かしていなかった。
「……ところで、ハンドルは何にしたらいいだろうか。藍原君」
「あんたそんなところで詰まってる場合かア!? テキトーでいいんだよんなモン」
「〈モノミン〉に一票! 〈しゅーちゃん〉でも可!」
「では〈カザミン〉で行こう」
「ちょっ、しゅーちゃん!?」
 そして、物見――もとい、カザミンがネットにログインした。
 しかし。
「ん?」
 スレイマンの占いサイト――『ソロモンズ・キー』にアクセスした物見が、わずかに眉をひそめる。小さな液晶ディスプレイを覗きこむ調査員たちも、一様に、
「あれ」「あらら」「お?」
 声を上げて、目を点にした。

   すいませんがチャット占いはしばらく休止します

 黒い背景色に、ショッキングピンクの大文字とボールド指定。チャットへのリンクは外されている。
「感づかれた?」
「どうかなー。さっきネカフェで見たときはまだ商売してたよね」
「……この言葉遣いと色遣い……もしかしたら、スレイマンは――」
 クミノがぽつりと呟いた。
「とても、若いのかもしれない」

 不意だった。
 降りた沈黙の中、新座の頭の上のメカ恐竜が首をもたげる。真希が、羽澄が、気配を察知できるものが、同様に、ふと顔を上げた。帝都非科学研究所の、埃で汚れた古い天井が見えた。
 光の扉も見えたのだった。



■昨夜の出来事■


 マリオンは『ソロモンズ・キー』のチャットルームにいた。見えない電子の中の部屋。マリオンが開けた扉は、不可視の世界へとつづいていた。

  哀河ショウ:あと、全体的な運勢を教えてもらえませんか。最近ツイてなくて。
  スレイマン:そうですね。
  スレイマン:刃物に気をつけたほうがいいでしょう。

(刃物だ。あれはきらめく死。ソードの10。おまえは嘘をついていない。女は死ぬぞ、光るソードの10によって)

 この、陰鬱な声は?
 マリオンは扉を開けた。物質の世界が見えた。スレイマン。たったひとりでパソコンに向かっている。青と黒ばかりのシックな家具とインテリア。真新しいパソコン。陰鬱な言葉をオブラートに包んで、依頼主にチャットでアドバイスを与えている。その背中は――マリオンの見かけよりもはるかに若い、ほんの少女だった。
(おまえは嘘をついていない――)
 しかし、少女の背中には、およそ人間とは思えない大きな影が覆いかぶさっていた。影はぼろぼろの手帳をめくっていた。どのページも、ヘブライ語で埋まっている。並んでいる言葉は刻々と内容を変えていた。少女の背中の影が、ミイラのように乾いた指である文面をなぞる。すると、かれがなぞった行の言葉は、それきり変化を止めていた。
(未来はこれで定まったのだから)
 少女はその声が聞こえているだけなのか。いや、その声さえも音やかたちを持たず、ただ少女の無意識下にだけ届いているだけなのかもしれない。少女は言葉に相槌も打たず、無言でチャットをつづけている。姿も気配も、少女が感知するところではないのだろう。
 マリオンは光の中から、すばやく手を伸ばした。影が持っていた手帳を奪い取る。影は振り返った。はっとしたような、驚いた素振りだった。だが顔は笑っていた。角と牙、金色の瞳、墨のような黒色の肌。
(来たか! 貴様! マリオン・バーガンディ、貴様がここに来ることは定められていたか! それを返せ!)
 影の、曖昧だった姿がはっきりとした色彩を帯びた。かぶっているフードとぼろぼろなマントは、血のような赤だ。赤の下に翼があった。ばさばさに毛羽立った、漆黒の翼だ。もとは純白で、神々しいものだったにちがいない。
 影は紛れもない、悪魔だった。

 マリオンは手帳を握りしめ、扉を開けた。一度行ったことがある、帝都非科学研究所。調査員に囲まれた物見がいるはずだ。きっといるはずだ。マリオンは未来の世界に飛び込んだ。
 背徳的な怒号を上げて、赤い悪魔はマリオンを追った。その、体温を持たない指が、マリオンのジャケットを掴んだ。扉は閉ざされ、スレイマンが振り返る――。
 色白の、まだあどけなささえ残る顔。不安げな色を浮かべる彼女には、しかし、何も見えてはいなかった。



■刃物に気をつける時間■


 帝都非科学研究所の天井から、彼は降ってきた。
「マリオン!」
「わ!」
「危ない!」
 誰よりも早く、和馬が動いた。虚空から落ちてきたマリオンを受け止め、
「なんか来た!」
 新座の警鐘を受けて、床に転がった。マリオンの、仕立てのいいジャケットが大きく裂けた。虚空からあらわれたのはマリオンだけではなく、血の色のマントを身につけた、地獄の住人も堕ちてきた。
 黒い眼球に金の瞳孔。明らかに人間ではなかったし、激しい怒りに燃えているらしいことも確かだった。悲鳴を上げたのは、素人の華奈ただひとりだった。
(貴様! 儂の手帳を返せ! それは叛逆戦のまえから、儂のものなのだぞ!)
 影のような者はマリオンをするどく指差した。マリオンに怪我はない――それを確認した和馬は、マリオンが古びた手帳を握りしめていることに気がついた。
「それ、物見サンに渡せ!」
 マリオンは返事をするよりも先に、手帳を放り投げた。急に飛んできた手帳を、物見は受け取り損ねた。手帳は物見の頭に激突し、床に落ちた。
「ああッ!」「バカッ!」「ドジッ!」「役立たず!」
 ごうごうたる非難の中、物見はできる限りすばやく手帳を拾い上げた。うつむいたその頭に、堕天使の乾いた指が伸びた。指には黒く鋭く長い爪が――まるで柳刃のような爪があらわれていた。物見の頭蓋をその爪で貫くつもりだったのだろう。しかし、爪は物見の白髪すら傷つけることはなかった。
 赤いマントの天使が物見に襲いかかっている間、その背中は無防備だった。
 クミノが相川華奈の前に立つ。羽澄はノートブックを抱えて一旦戦線から離脱した。 和馬と新座は咆哮し、赤い背中に躍りかかる。真希は跳んでいた。マリオンは机の下。

 新座の頭に乗っていたメカ恐竜が、赤い堕天使の右の翼を。和馬の黒い獣の腕が左の翼を。天使が振り向いたときには、凄惨な音が上がり、翼はもがれた。獣のような呻き声と叫び声が同時に上がった。赤黒い血が飛び散り、白いものも灰のものも何もかも、ほんの数秒グロテスクな色合いで彩った。天使の血は瘴気を放ちながら蒸発し、あとには何も残らなかった。和馬の手とメカ恐竜の顎にあった翼も、ばらばらと崩れていく。
 跳んでいた真希は、虚空を蹴った。堕天使は振り向いていたからだ。空気を蹴って、彼女は赤い背中に回りこんでいた。
 いつも相手を煙に巻くような、茶化した台詞は吐かなかった。彼女は無言だった。彼女が。真希は白刃を抜いていた。退魔の力を帯びた刀は、赤いフードの根元にめり込んだ。首筋の腱と血管が断ち切られ、ぶつり、と鈍い音がした。瘴気を放つ血は噴いて、真希の顔に振りかかる。うえっ、と真希が顔をしかめた。
 首から血を噴出させても、翼を失っても、赤の天使は堕ちなかった。両手でマントの端を掴み、ばさん、と音高くひらめかせた。ぼろぼろのマントの裾は赤い刃だった。和馬は黒いジャケットを脱ぎ捨て、完全に黒い獣人になっていたが――赤い刃は、彼の黒い剛毛を引き裂き、肉に食い込んだ。新座の大切な友達が、刃に薙ぎ払われて胴を分断された。白い恐竜は叫び、足がばたばたと空をかく。
『クソ!』
「おまえぇ!」
 和馬と新座の怒りの声、
「気をつけて!」
 羽澄の警告。それはクミノと華奈に向けられたものだった。刃物に気をつけろ。
 しかし、華奈の前に立ちはだかるクミノの身体を目指した赤い刃は、奇妙な音を立てて跳ね返った。クミノの手にデザートイーグルがあらわれた。両手でマグナムを構えたクミノは、顔をわずかに歪めて膝をつく。赤い刃は直接攻撃だったが、相手はこの世のものではなかった。服の上からはわかるはずもないが、刃を受けたクミノの胸には、赤い痣ができていた。
 真希は跳んで、背面跳びのフォームで刃を避けた。お気に入りのシャツが切れ、バックプリントが台無しになったが、危ういところで負傷をまぬがれた。しかし、体勢を立て直す余裕はなく、彼女は背中から落ち、頭を打った。ポニーテールがクッションになったおかげで、強打したわけではなかったが、真希は頭を抱えてうつ伏せに転がった。
(ほんの小娘の召致と言えど)
 ししししし、と蛇の呼気を孕んだ声で、赤の悪魔は囁いた。囁きはすべてのものの意識下に響く。
(儂は願いを聞き届けただけだ。そしてその手帳は儂のものだ。盗みは罪だぞ)
「スレイマンに召喚されたの?」
 羽澄の問いかけに、悪魔の目が動く。
(その通りだ。かの小娘は確たる未来を知る力を望んだ。儂はそれを与えただけだ)
「それだけ? あなたがしたことは本当にそれだけなの?」
(……)
 にや、り。
 何も言わない天使は、黒と金の目を見開き、牙を剥いて嗤ってみせた――。

 羽澄はその目を睨みつけながら、携帯電話を取り出した。電話をかけた先は、スレイマンと名乗る少女だ。
 ハッカーは血と刃の中でネットを渡っていた。物見とスレイマンのチャットが適わなかったから、ほんの少しだけ遠回りをすることになったが、彼女は見つけた。スレイマンの携帯電話の番号を。
 今では、個人情報などすでに個人だけのものではない。



■彼女を殺してしまうのは、■


「もしもし?」
『もしもし、スレイマンね』
「え……、どうして……」
『それはあとで説明するわ。お願いがあるの』
「え、……え?」
『「帰れ」と言って!』
「……、『帰れ』」



■返却■


 帰れ。

 戸惑いがちの声が、電波を超える。

 赤い悪魔は呻き声のようなものを上げた。さまざまな感情が、そこで渦巻いていた。かれは勢いよく振り向き、手帳を抱える物見に襲いかかった。マントの刃が、机や椅子、壁と天井を切り裂きながら物見に迫った。しかし、刃は物見をすり抜けた。或いは跳ね返した。その動きは精彩を欠いていた。焦りがそうさせているらしい。
 どういうわけか、風が吹いてきていた。窓は閉め切られている。だが、まるでこの研究所の空気がどこかに吸い込まれているかのような風は、確かにあらわれ、赤い刃のマントと、それに身を包んだ悪魔の身体をぐいぐい後ろに押している。
(手帳を返せ! それは儂のものだ!)
 物見は非力だった。和馬とは違うし、真希のような運もない。腕を掴まれ、手帳がもぎ取られた。
 だが、乾いた手が破裂した。手首が吹き飛び、手帳は宙を舞った。その前に、野太い銃声があった。クミノのデザートイーグルだ。男でも扱いに手を焼くマグナムを、クミノは容易く操っていた。
 くるくると宙を舞いつづける手帳を、新座が受け止めた。
 彼は手帳を掴んだ一瞬後には、堕天使に後ろ蹴りを食らわせていた。風はいよいよ強くなっていたが、誰も――悪魔の目の前にいた新座も、デスクの上の書類も、羽澄の長い髪も、クミノのリボンも、何も揺れてはいないのだ。ただ、彼らの肌は確かな風を感じ、赤いマントは狂ったようにはためいていた。新座の蹴りで大きく後ろに飛んだ赤の天使は、そのまま強風に吹き飛ばされた。
(おのれ! おのれえッ、それは――儂の――)
 悪魔は最後まで抵抗していた。刃は研究所の内部を切り刻んだ。風に飛ばされた悪魔は、ごおう、という風の唸りとともにかき消える。かれは、牢獄に戻ったらしい。
 しかし、安堵するのはまだ早かった。マリオンがデスクの下から這い出す。彼は天井を指差していた。
「刃物、なのです!!」

 そう。
 相川華奈の真上。
 叩き切られた蛍光管と、その反射笠が落ちる。古びた笠は、アルミニウム製だった。この世のものではない刃で切られた笠の切り口は、斜めになっている。
 あれは刃だ、アルミニウムの槍。
 悪意のない運命だ。

 真希が刀の鞘を投げた。笠に命中したが、落下コースがわずかに外れただけだった。獣化した和馬でも、華奈を突き飛ばすには余裕がなかった。だが彼の目の前に、物見がいた。和馬は物見を渾身の力で突き飛ばした。常人ならきっと背骨が折れていた。だが物見は、怪我をしない身体だったので――ただ、木っ端のように吹っ飛んだ。物見はアルミニウムの刃を巻き込んで、資料棚に激突した。棚が倒れた。轟音に思わず肩をすくめた新座の手から、手帳がすべり落ちた。
 ぼろぼろの手帳が開いて、床に膝をついたマリオンの目の前に落ちる。
 マリオンの目が、びっしりとページに記されたヘブライ語を走った。
「なんだ……これ? なに書いてあるんだ?」
 新座が隻眼を細める。無理もなかった。とても読めない。記述は一部をのぞいて、刻々と変化しつづけていた。動かない言葉は――人の名前、だけだ。
「『運命』なのです」
 マリオンが息を呑んだ。
「人の『運命』が――ここに、全部……」
 そして、マリオンは見つけた。相川華奈。ちょうど開いたページに、彼女のたどる運命が記されている。他の人物の運命は刻々と変化しているのに、彼女の運命だけは変わっていなかった。
 20歳の7月、刃物で、死ぬ。
 その運命が動かない。固定されている。
「ペンを!」
「ほーい!」
 真希が、偶然目の前にあった万年筆を、マリオンに投げよこす。マリオンはその万年筆で、ヘブライ語の運命に二重線を引いた。いや三重線。四重線。最終的には塗りつぶした。マリオンが塗りつぶした記述の横に、たちまち、新たな運命が書きこまれた。マリオンが書きこんだのではない。大いなる見えざる手が書いている。書いては消し、書いては消し……、相川華奈の、定まらない運命が再開した。
 人の姿に戻った和馬が、目を細めた。マリオンも、真希も、目を細める。華奈は呆然と、クミノと羽澄は何も言わず、その、光を見ていた。
 手帳が光り輝いていた。
 悪魔は言っていた。叛逆する前から、これは自分のものであると。ならばそれは、もともと地獄ではなく、天にあったものに違いない。手帳は金とも白ともつかない光に包まれ、
 羽ばたいた。
 鳥になっていた。
 割れてしまった研究所の窓から、光の鳥は飛んでいく。何百年ぶりなのか、何千年ぶりなのか――ともかく手帳は、帰っていった。



■それは、悪いことだったのかしら■


『スレイマン。なにか……、その、魔術とか呪術をした?』
「本にのってた召喚術を試したの」
『悪魔を呼んだの?』
「呼ぼうとまでは……。ただ、占い師になりたかったから、そういう力がついたら素敵だなって、思っただけ……」
『術は成功した?』
「きっと……たぶん……そう。悪魔は、出てこなかったけど。でも、カンがよくなって。人がケガしたり、死んだりするタイミングとか、そういうことばっかりが……なんとなく、わかるようになったの」
『……そう』
「でも、急に、昨日の夜から……そのカンがにぶっちゃって……それに、なんだか寝つけないの。いつイヤなことが起きるかわからないのって、すごく、不安になる」
『……そうね』
「ねえ。あたし、とり憑かれたのかな。死んじゃうのかな……」
『それは、誰にもわからないことよ』
「……」
『もう、占いはしないの?』
「つづけたいけど……、もう、無理っぽい。ごめんなさい。お騒がせして……」
『スレイマン、』
「あたし、水地マリヤっていいます。ごめんなさい。ありがとう」



■支払いのときは来る■


 名前のわからない堕天使は帰ってしまったが、地獄の輩はちゃっかりしている。スレイマンを名乗った水地マリヤという少女の魂の行方を思うと、誰もがため息をついた。
「探せばよかったのです」
 万年筆をもてあそびながら、マリオンが呟いた。
「水地マリヤさんの運命も、きっと塗りつぶせたのです」
「でもさ、決まったわけじゃないじゃん」
 鞘を拾って刀を納め、真希が前向きなことを言って微笑んだ。
「それに、神や悪魔の領域に人が踏み込むものではない」
 クミノはまだ、光の鳥が行った空を眺めている。割れたガラスの、するどい刃越しの空だ。殺伐としているように見えた。暗闇が降りてきている。だからこそ、さきの光は恐ろしくまぶしく感じられた。
「結局、この件もこれまでの統計どおりだった。当たりすぎる占いや予知は、フェイクかマッチポンプ」
 そんなもんだ、と和馬が小さく同意した。けれども、彼は占いや魔術のすべてを否定するつもりはない。
 和馬がシャツの中に入れていた呪符は、何枚かが崩れて、砂になっていた。悪魔のマントがどれも和馬の急所をそれたのは、呪符が身代わりになってくれたからだ。和馬はそう信じることした。面白いことに、一枚だけ混じっていた真言系の札の崩れ方がいちばん激しかった。
 そう、面白い。
 のめりこめば、帰れなくなってしまう世界だ。
「物見さん、大丈夫ですか?」
「心配してくれるのは君だけだ、光月君」
「あァ! そこ歩くなよう、ぎゃおの部品置いてあるんだから!」
「悪い」
 新座はぶつぶつ言いながら、メカ恐竜の修理を試みていた。すっかり髪も乱れ、眼鏡もなくした物見が、そのすぐ横を歩く。彼は細めた目で、ひどい有り様になった自分の研究所を見回した。そして、ため息をつきながら、はっきりと肩を落とした。
「……私の今日の運勢は、大凶だったかな。占ってもらっていたら、そう言われただろうか」
「大丈夫ですよ。藍原さんは親切だし、片づけ手伝ってくれます」
「俺かい!」
 わいわいと片づけが始まった横で、クミノが青褪めた華奈に声をかけた。
「ひとりで帰られる?」
「……私、これから、なにに気をつけたらいいのかな?」
 その目に、大きな不安と小さな安堵があった。
「……なんて書いてあったんですか? 私の運命」
 その目が、マリオンに向けられる。マリオン・バーガンディは、ほんの少し微笑んで、静かにかぶりを振っただけだった。彼は、嘘をついていない。
 ヘブライ語は読めたが、なにが書いてあるのか、わからなかった。
 相川華奈の刃難の相が消えたかどうかはわからない。

 誰がいつ、どこで、何によって死ぬのかも、わからないままだった。




〈了〉


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 登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない。】
【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1533/藍原・和馬/男/920/フリーター(何でも屋)】
【3060/新座・クレイボーン/男/14/ユニサス(神馬)・競馬予想師・艦隊所属】
【3995/風見・真希/女/23/大学生・稀に闇狩り】
【4164/マリオン・バーガンディ/男/275/元キュレーター・研究者・研究所所長】

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               ライター通信
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 依頼ではお久しぶりです。モロクっちです。『当たるな、八卦』をお届けします。依頼をお休みしているうちになんか本出たり年が明けたりオリンピック終わったりW杯が終わったりしてしまいました。季節は夏になっています。そして、正確にはどれくらいぶりの製作になるのでしょうか、通常単発依頼……。またこうして皆さんと一緒にお話を作ることができて、嬉しかったです。「スレイマンに物見を占ってもらう」というプレイングが多数あったのには笑いました。なので、「多数決で生贄が物見に決まった」ことになっています。
 登場した悪魔は最初ソロモンの72柱のひとりにしようと思ってたのですが、人の運命を固定できるほどの力を持った者がいないようなので、名もないオリジナルになりました。偶然大悪魔を召喚してしまったスレイマンの未来を考えると、ちょっとモヤモヤする結果にはなりましたが、皆さんお疲れ様でした。

 それでは、また、機会がございましたら、よろしくです。