|
Let's wonderful life
「やっぱり人間なんだ」
と、その男は残念そうに呟いた。
◇
それはまだ、春の終わりの穏やかな日の事だった。
梅雨を前に紫陽花が睦み、近くの公園の藤棚にはチラホラと藤の花が開き始めた頃。築年数不明の戦争体験者。ちょっと指で弾けばあっという間に倒れるんじゃないかというような木造のおんぼろアパート――永楽荘の前で俺、シャナン・トレーズは何十年か前までは赤かったらしい郵便受けを開けた。
薄青い封筒の透明な小窓の部分から赤い紙が透けて見える。
これが噂の赤紙――召集令状というやつか。
あて先の名前が自分だけである事に、俺はもう一度郵便受けの中を覗いてみた。
「何故、皓の分はないのだ?」
俺は不機嫌に眉を顰めた。
皓とは、俺の部屋の同居人、姫川皓の事だ。肩書きは【自称】国際弁護士――といえば金を持っていそうだが、こんな貧乏安アパートなんかに住んでいる。しかも俺の部屋に居座って。自称と付いてはいるが一応資格はもっているらしい。付き合いは長いが、奴が弁護士業をしているのを俺は一度も見た事がない。やる気があるのかないのか。おかげで俺はいつもじり貧の生活を強いられている。役に立たん奴だ。
皓が居てくれて助かることがあるとすれば、たまに滞納中の家賃を払ってくれることと、料理がうまいぐらいの事だろうか。
まぁ、だからおいてやっているんだが。
ちっ、と俺は舌打ちをしながら郵便受けの蓋を八つ当たり気味に閉めた。
「くそっ、俺にだけくるとは……年齢制限にでもひっかかったのか」
皓はまだ18歳。未成年者の勝利というやつなのかもしれない。
だが、だからといって納得がいく筈もなく、俺は憤然としながら永楽荘の今にも錆びて落ちそうな階段をのぼった。
薄暗い廊下の奥に、鍵などなくても誰も盗みに入りそうにない、見るからに貧困そうな扉がある。俺はポケットから鍵を取り出し鍵穴にそれを入れようとして手を止めた。
鍵が開いていたからだ。
永楽荘はバス・トイレ付きの6畳一間。ちなみに都内で月5000円の物件である。永久に楽できる荘。この名前だけで選んだようなアパートだったが、今のところはジリ貧。
扉を開けると畳敷きの真ん中に置かれた、近くのゴミ置き場から拾ってきたちゃぶ台の上で、やっぱりゴミ置き場から拾ってきたカセットコンロを乗せて、同じく拾ってきたフライパンを使って皓がなにやら調理中だった。
台所はあるが、ガスがきていないせいもあってかちゃぶ台の上なんて場所でやっているのだ。
「おかえりー」
なんて呑気に言ってる皓に向かって俺は、手に持っていたれいの赤紙を奴の目の前に突き出してみせた。
「しょーしゅーれーじょーが、きた」
厳かにそう言うと、皓は猫だましでもくらったかのような顔できょとんと俺を見上げて、目の前の封筒を見やった。
「はぁ?」
「この経済危機にどこと戦争するんだ……」
ぶつぶつと。俺はちゃぶ台の上にそれを投げ置くと、上着を脱いで、隣の家の庭から風で飛ばされてきたらしい、道端に半分顔を出していたので拾ってきたハンガーにかけて鴨居に引っ掛ける。
「さぁ? あ、でも! これでお前、食うの困んないじゃねーの? 入軍したら3食出るだろうし、頑張ってこいよ」
皓に言われて俺はふむと考えた。なるほど、そういう考え方もあるのか。腹が減っては戦は出来ないからな。昼寝はつかないまでも3食は約束されたようなもんだろう。
それに俺はこれでも一応免許を持ってる医者だからな。
まぁ、俺の職業は闇医者って事になっている。なんとなく語感がかっこよかったからだそういうことにした。だが、これが意外に儲からない。皓の言葉を借りるなら『知名度が足りない』という事になるらしいが、奴にだけは言われたくないセリフだ。
と、それはさておき、医者なら最前線で戦闘ではなく後方の野戦病院で兵隊たちの傷の手当てってとこだろう。ま、自分で言うのもなんだが体力・気力・反射神経ともにかけらもない人間に、傭兵の真似事をさせようなんて事自体がチャレンジャーだからな。
「っつーわけで、この目玉焼きは俺んだな」
皓が、どうやら目玉焼きを作っていたらしいフライパンの上のそれを、フライ返しでつつきながら言った。
これから3食が約束されてるんだから、と言わんげだ。まだ入軍もしていないのに。
「それとこれとは話しが別だ!」
俺は慌てて懐からマイお箸を取り出すと、フライパンの目玉焼きをつまんだ。まだ半熟気味の黄身を零さないよう優しく白身で包む。
危うく皓の口車に乗せられるところだった。
「普段は運動神経が繋がってるかも危ういくらいなのに、こういう時だけは早いよな」
皓が呆れたように言いいながらカセットコンロの火を止めた。
うるさい。黙れ。
大体、この卵は俺が毎朝近所の小学校の鶏小屋に通い、忍び入っては何度も鶏に感謝の気持ちを述べながら頂いてくる、貴重な蛋白源なんだぞ。
もし俺が、今日は早めに帰ってこなければ、この目玉焼きはお前の腹の中におさまっていたかもしれないじゃないか。恐ろしい奴め。全く油断も隙もあったもんじゃない。これからはもう少し隠し場所を考えた方がいいかもな。
などと、俺が目玉焼きを口の中に頬張りながら考えていると、皓が疲れたようにフライ返しを投げ出して、ちゃぶ台の上の赤紙を手に取った。
「ん? 何だよ、これ。水道局からじゃん」
「水道局?」
俺は皓の手の中にある封筒を覗き込む。水道局が召集令状とはどういう事だ。
皓はビリビリ封を破って中から赤い紙を取り出した。
「今週中に払わないと来週から水止まるってさ」
「そうか」
なんだ、督促状だったのか。
俺は何となく気が抜けて畳の上に腰を下ろした。
今更この程度の督促状でびびる事はない。電話はおろか、電気もガスも既に止まっているのだ。
というより――。
水は止まらないのだ!!
だから、そんな事よりも、3食昼寝つき――もとい、昼寝は付かないかもしれないが衣食住が約束された召集令状ではなかった事が、ちょっぴり残念でならなかった。
◇
『 水道は 滞納しても 止まらない 』 by シャナン・トレーズ
それは俺の長い人生経験に於ける持論だった。
これまで何度か金欠病におかされ、已む無く水道代を滞納した事があったが、止まったことは一度もないのだ。
人間は水がなくなると生命活動の危機に瀕する。水と塩さえあれば多少は生きてゆけるが、それがなくなると死んでしまうのだ。よって、督促状はきても水だけは決して止まることはない、という結論に達したわけである。
証拠ならある。
あれは梅が咲いたか桜はまだかという暦の上では春だったが、まだ肌寒い日の続く頃だった。そう。4ヶ月前にも、水道局からこのような督促状は届いたのである。
その時は薄青い紙で、来週中に払わないと、再来週から水を止めるとか、そんなような内容だった。
俺は自分が勝ち得た持論を展開し、慌てふためく皓を宥めすかしてやった。
「安心するがいい。決して水が止まる事はないのだ」
「本当かよ」
皓は最後まで不審そうな顔をしていたが、結局、その時は奴も俺も払える金がなかったので払わなかった。
そして運命の日。2週間経っても水は蛇口から、じゃんじゃか溢れ出続けたのである。
やはり水は止まらないのだ。
更にその二ヵ月後、2度目の督促状が届いた。封筒に付いている小さな窓から黄色い紙が見えた。2度目の督促状は黄色だった。もしかしたら、電気やガスもそうなのかもしれない。こちらは基本料金を払うのが勿体無くて、一度目の督促状で止められた後、すぐに解約してしまったのでもらった事がないのだ。
とにもかくにも、俺も皓も金がなかったので見なかった事にした。
だから運命の日がいつだったのかはわからないが、2ヶ月経った今もこうして水は出ている。
かくして、『やっぱり水は止まらない』事が証明されたのであった。
◇
赤い督促状は3度目である。
今までも止まらなかったのだから今回も止められる事はあるまい。
もし止めて、その住人が干からびてミイラにでもなったら、途端に叩かれるのは水道局に違いないのだ。たとえ法が許したとしても人が許すまい。時に法の道と人の道は違うものなのである。
皓が水道局の封筒をゴミ箱に投げ入れるのを横目に見ながら立ち上がると、俺はさっそく、やかんに水を入れ、フライパンをどけてカセットコンロにかけた。水を湯水にして使うためだ。
近所のゴミ置き場から拾ってきた急須に、公園で摘んできたよもぎを入れて皓にハーブティーを淹れてもらい人心地。
こんな風にして、いつもと変わらない2週間はあっという間に過ぎていった。
結局、Xデーを過ぎても水は止まらなかった。
赤い督促状は最後通告ではなかったのか。
季節はやがて梅雨に入り、水は相変わらず蛇口からじゃんじゃか溢れた。
今年は節水とは縁がなさそうだ。
そして梅雨が開け、赤い督促状が届いてから2ヶ月後。
ポストに1通の封筒が入っていた。
俺は封筒を手にボロアパートの自分の部屋へ戻る。
皓は台所で、群生している野菜――畑の野菜ともいう――を、口八丁手八丁でタダ同然みたいな値段で買い叩いて、それでサラダを作っていた。殆ど犯罪まがいみたいな金額で買い叩いてくるが、奴は「法には触れてないよ」と笑顔で豪語している。弁護士が言うのだから、まぁ本当なのだろうが。
「おかえりー……あれ? 何それ?」
皓が俺の持っている封筒に気付く。
「水道局からだ」
答えた俺に皓は興味津々だ。
「今度は何色?」
督促状だろうという事はすぐに想像がつく。これまで、薄青色、黄色、赤色ときたのだ。今度の督促状は黒色だろうか、とうとうブラックリスト入りなのか、そんな顔で聞いてくる。
俺は持っていた封筒を皓に向けた。
小窓から透けて見えるのは薄青色だ。
「勝訴」
俺が言い放つと皓は、菜ばしを手に、封筒をよく見ようと俺に近づいてきた。
「すげぇ、戻った」
薄青色から黄色、赤へと変色し、再び薄青色に戻る。そしてきっと、これを繰り返すのだ。
「うむ」
俺は頷いてそれをちゃぶ台の上に置いた。
「本当に水って止まんないんだな。よし。今日はパーティーにしようぜ。っつってもサラダの、だけどな」
「肉はないのか?」
「金が無いからな」
「……止む終えん」
俺は妥協した。思えばどれくらい肉を食っていないだろう。どうせなら、野菜だけでなく肉も買い叩いてくればいいものを。全くもって役に立たん奴だ。
結局、その日は2人で採れたて新鮮野菜サラダで慎ましやかにパーティーをした。
水も湯水のように、湯水にして使った。近くの公園で採ってきた、怪しげな草で淹れたハーブティーは、雑草の味がした。
相変わらず宵越しの金はない。
残さず使い切って明日の事は考えない。というか、そもそも使いきる金もない事は、この際忘れる。明日の事は明日考えればいい。明日は明日の風が吹く。
そうして俺も皓もすっかり督促状の事など忘れてしまった。
◇
その日は今年一番の記録的な猛暑だった。
勿論、クーラーどころか扇風機といった贅沢品のない――電気が通っていないのであっても仕方がない――部屋で、俺と皓は殆ど寝付けずに、何度も寝返りをうった末、朝は寝不足に起き上がることすら出来なかった。
陽が昇り、差し込む陽光に部屋の気温は更に上昇を続けていく。
うだるような暑さに俺は耐え切れず目を開けた。
全身の水分が抜け切ってしまったかの如く、もはや汗は殆ど出ていない。
喉もからからだったが、全身も塩を噴きそうな勢いだった。
このままでは脱水症状か熱中症になる。
俺は寝不足の体を引きずって、台所まで這っていった。
アイスなどと贅沢は言わない。とりあえず、水だ。
水道の蛇口の下に頭を突っ込んで上を向いて粘つく口を開ける。
そして蛇口を捻った。
静かだった。
「…………」
蛇口を捻った。
皓も限界に達したのだろう、床を這うような衣擦れの音がしていた。
「…………」
蛇口を――。
「…………」
皓が言った。
「止まって……る?」
「…………」
俺は、全開にしたにもかかわらず水1滴出さない蛇口をぼんやり見つめていた。
皓の床を這う音と、その後に紙を破く音が続く。
「……今日って8月2日?」
皓が尋ねた。たぶん、水道局の督促状を開いたんだろう。
「…………」
喋ったら粘つく唾液に更に喉が渇きそうで、俺は無言を返した。
「お前……絶対水は止まらないって言ったよな?」
皓が言った。いつになく声が低い。地を這うような声音だ。これは怒ってる……。
「…………」
「どーんだよ! 水なくて、このままだと俺たち確実にミイラだぞ!!」
安心しろ。言われなくても、既にミイラ一歩手前だ。
「…………」
「人間、塩と水だけでも生きてけるとか言ってたが、水なくなったらどうなんだよ!」
言い募る皓に俺はキレた。
「煩い! だったら、皓が水道代毎月きちっと払ってれば良かったんだろうが!!」
「何が勝訴だ!! 力いっぱい敗訴じゃないか!!」
「何を! 貴様だってパーティーだのと喜んでおったではないか!!」
――数分後。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
俺は息を切らして膝をついていた。それは皓も同じのようで肩で息をしている。
無駄なことに体力を使い果たしてしまった。今更こんなところで怒鳴りあったからといって水が出てくるわけでもないのに。
水。水。水。
俺は考えた。
水。
このままでは、2人ともミイラだ。
それから俺はふと思い当たってふらりと立ち上がった。皓も何か思い当たるものがあったらしい。
俺たちはのろのろと重い足を引き摺って、同じ方へ歩き出していた。
近所にある森林公園。
きっとこの公園の水呑場に行けば、冷たい水が無尽蔵に湧いて出てくる筈だった。
しかしこの日は何度も言うが記録的な猛暑で、太陽の光が無駄に燦々と照り付け、俺の意識は朦朧とし始めた。
視界の片隅に、水呑場が見える。
しかしそれはまるで蜃気楼の如く、歪んでいた。
「…………」
手を伸ばす。
届かない。
それは果てしなく遠かった。
俺の足が止まる。
俺はそこでぱったりと頽れた。
「み…水……」
ミミズ? というベタなボケは残念ながら返ってはこなかった。目だけで皓を探したら、すぐ傍にやっぱり力尽きたように倒れていた。
この役立たずが……俺に水を運んでくるくらいの余力はないのか根性なしめ。
内心で毒づいてみたが、どうにもならない。
朦朧してくる意識の中で、俺は地面に呪詛をこめて書き記した。
ミーン…ミーン……ミーン………。
蝉がやかましいほど鳴いていた。
◇
「やっぱり人間なんだ」
と、その男は残念そうに呟いた。
完全に手離していた意識が、顔にかけられた冷たい水によって覚まされる。視界の向こうに、くたびれたスーツ姿のひょろりと背の高い男が濡れたタオルをもって立っていた。
何だと思ってたんだ、と聞こうと思ったが口がかすかに動くだけで渇いた喉は何も音を紡がなかった。
と、思った瞬間、口許に水が突然溢れた。
「!? ……っ…ごほっ……げほっ」
いきなり、何の予告も前触れもなく水を注ぎこまれて、気管に水が入る。俺は上体を起こして咳き込んだ。
口の中に水を入れたのは、俺より先に、この男に助けられたらしい皓の仕業だった。
「き〜さ〜ま〜」
「悪ぃ、悪ぃ。サンキュー。お前のこれのおかげで助かった」
「これ?」
俺は、皓が指差す地面を見た。
そこには俺が死の間際に書き記したダイイングメーッセージ。水道局のマスコットキャラクター『水滴くん』が描かれていた。どうやら、これを見た、この男が、俺たちが水を求めてることに気付いて水をかけてくれたらしい。
とりあえず、助かった。
俺は人の良さそうなその男に軽く頭をさげると、水呑み場まで急行して呑めるだけの水を飲んだ。
人心地ついて向き直る。
皓の話しで、この男が日部伸二郎というオカルト専門のライターである事を知った。雑誌に体験談をもとにした取材記「オカルト紀行」を連載していて、巷では徐々に人気が出始めてきているところらしいが、雑誌など読む機会もない俺にはどうでもいい話しだった。
ただ、どうやらこの男、俺たちを、幽霊かお化けか妖怪か何か、だと勘違いしたのではなく、だったらいいなぁ、と思って声をかけたらしい。
で、冒頭のセリフに繋がるというわけだ。
そんな事、残念そうに言われても困るのだが。
「で、君達、水道代はどれだけ滞納しているんだい?」
日部氏が聞いてきた。愛想のいい笑顔を、俺は胡散臭そうに見返した。
そんな事を聞いてどうするというのだろう。俺たちの代わりに水道代でも払ってくれるのだろうか。世の中そんなに甘くない事など、俺は痛いほどよく知っている。返答に迷っていると、皓がにこにこしながら答えた。
「半年分……いくらぐらいだ、シャナン?」
知るわけがない。
最近届けられる督促状は、中も開かずにゴミ箱行きか放置だったのだ。それに、最後通告の封筒を開けてみたのは、皓の方である。
「半年分か……僕の仕事を手伝ってくれるなら、肩代わりしてあげても構わないよ」
「なに!?」
日部氏は、やっぱり愛想のいい顔をして言った。
まだ、夏は始まったばかり。公園までくれば水にありつけるとはいえ、このまま水が復活する日を待っていては、再び干からびてしまう可能性もある。
今すぐ、立て替えてもらって、仕事を手伝うか。
しかし人生そんなに甘くはない。
「…………」
俺はしばらく考えた。
考えた末に1つの結論を導き出す。
俺は日部氏の耳元に口寄せると、口許を手で隠し、皓には聞こえないような小さな声で囁いた。
「わかった。労働力として皓を差し出そう」
かくて、商談は成立した。
と、思っていたのは実は俺だけだったとこの先俺が知ることになるかどうかは神のみぞ知る未来。
一先ず今日のところは。
『捨てる神――水道局――あれば、拾う神――日部氏――あり』 by シャナン・トレーズ。
■大団円■
|
|
|