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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


ある夏の日の戯れ



 七月。
 夏とは云え、未だ蝉も鳴かない時期であるというにも関わらず、東京という街を充たす空気の熱たるや、尋常たるものとは思い難い。まして、肌にまとわりつく、不快なまでの湿度といったら!

 シリューナ・リュクテイアは、艶を帯びた長い黒髪を団扇で扇ぎつつ、恨めしげに窓の向こうに視線を向けた。
 梅雨明けも宣言されていないというのに、空は朝から澄み渡った蒼を満たしている。じりじりと焦げつくような陽光が容赦なく降り注ぐ中で、シリューナはグラスに残るアイスティーの、融けかけた氷を口中に放りやって頬杖をつく。
 ――しかし。
 シリューナは頬杖をつきながら、心中で大仰なため息を吐く。
 ――こうも暑くっちゃ、客足なんか遠ざかってくばかりだね。
 腹の底で毒づきながら、シリューナは再び澄み渡る蒼穹を睨みあげた。
 が、退屈にため息を吐いている時間は、さほどに長いものではなかった。
 店内に、来客を知らせる軽やかな鈴の音色が響き渡る。
「おっじゃましま〜す! おっ師匠さま、いらっしゃいますか〜!?」
 それはシリューナの教え子でもあるファルス・ティレイラの声だった。
 シリューナの頬がゆらりと緩み、その赤い双眸が悪戯めいた微笑みを宿す。
「やっと来たのね、ティレ。暑かったでしょう? まずは冷たい飲み物でも飲んで涼んだらいいわ」
 座っていた椅子をがたりと鳴らし、シリューナは満面の笑みと共にファルスを出迎えた。
 ティレイラはわずかに小首を傾げ、上目にシリューナの美しい横顔に目を向ける。
 自分がシリューナの元を訪れるのは、まったくもって何ら通達のない事だった。つまり、事前に確認をいれたわけでも、予定が入っていたわけでもなく。だからこそ、愛する師匠を驚かせてやろうと、それこそ胸をドキドキさせながらやって来たのだったが。
 しかし、そこはそれ。
 ティレイラはシリューナの腕にしがみつくようにして抱きつき、大きな赤い双眸にキラキラと輝きを宿し、愛する師匠であるシリューナの顔を見上げて口を開けた。
「お師匠さまっ、私、お師匠さまをびっくりさせようって思って、今日、なんの約束もしていなかったのに来ちゃったんです!」
「ああ、分かってるよ」
 よく冷えたアイスティーをグラスに注ぎながら、シリューナは眼差しをゆらりと細めてティレイラを見遣る。
「てへへ」
 返された返事にぺろりと舌を出して肩を竦めると、ティレイラは差し出されたアイスティーで渇いた喉を潤した。
 かすかにハーブの味が感じられるアイスティーは、暑気に晒されて火照った身体を一息にクールダウンさせていく。
 嬉しそうに頬を染め、グラスを口に運び続けているティレイラに、シリューナは笑みを浮べたままで語りかける。
「ねえ、ティレ。最近少しおまえの事を構ってあげられていなかったわよね」
 小さく頷くティレイラに、シリューナはさらに言葉を続けた。
「だからね、今日は少しおまえと遊んであげようかって思うんだけど――どう?」
 どうかと訊かれれば、首を横に振るようなティレイラではない。返事は、むろん、決まりきっていた。
「ホントですか、お師匠さま! 私、嬉しいっ!」
 キラキラと輝いていた目がことさらに輝きを増した。
 シリューナは腕組みをしたままで目を細め、「可愛いわね、ティレ」と呟いて首を傾けるのだった。

 ティレイラがシリューナの元を訪れてくるというのは、確かに事前確認のあったものではなかった。
 しかし、ティレイラの行動は、シリューナにとり、それこそ手にとるように容易く想像のつくものなのだ。が、多分、それを口にすれば、ティレイラはきっと大きな目を瞬きさせて不思議がるだろう。だから、シリューナはあえてその理由を口にしない。ティレイラも特に訊ねてこない。
 ともかくも、シリューナはティレイラの訪問を察知していた。だからこそ。

「ほら、このドアの向こう。おまえのために、特別に遊び場をこしらえてみたのよ」
 やんわりと微笑みながら、シリューナは店の奥にあるドアのノブへと手をかける。
 それは常であればシリューナがプライベートを過ごすための部屋へと続くドアであり、また、その事はティレイラもよく知っている事でもあった。
「お師匠さまのお部屋にですか!?」
 声を弾ませてシリューナの傍へと歩み寄るティレイラの頭を、シリューナはふわりと優しく撫で付ける。
「いいえ、ティレ。おまえのために特別にこしらえた、」
 言いながらドアを押し開ける。
 そこに広がっていたのは、真白な――目が痛くなる程の白一色きりで塗りこめられた、奇妙な空間が広がっていた。
 壁も床も、仰ぎ見る天井も、全てが白く塗られてある世界。
 ティレイラの目が、瞬きすらも忘れてぼうやりと部屋を一望する。
「おまえのためだけの世界よ」
 シリューナの声がわずかに弾みを持つ。
 振り向けば、ティレイラの目に、愉しげに微笑む師匠の顔が映りこんだことだろう。
 が、ティレイラは眼前に広がる空間が放つ空気に魅入り、両手を胸の前で組んで満開の笑顔を浮べるばかりだった。
「お師匠さまぁ……ここって」
「さあ、入って、ティレ」
 シリューナの手が、トンと軽くティレイラの背を押す。と、ティレイラの足は、押されたはずみで真白な部屋の中に踏み込んでいた。
「わ! もう、びっくりしました。お師匠さま〜?」
 くるりと振り向き、そこにいるはずのシリューナの姿を求める。が、ティレイラの目に映りこんだのは、いっそ目が痛くなってくるほどの白、ただ一色きりだった。
 シリューナの姿どころか、自分が入ってきたはずのドアも、元々この部屋(であったはずの)にあったはずの窓も見当たらない。
 全くの密室が、そこにあった。
 突如沸き起こってきた不安に、ティレイラは声を震わせて部屋のあちこちに目を向ける。
 真白な机と椅子。真白なクローゼット。真白な花瓶に真白な花が一輪。真白なベッド。真白なクローゼットを開ければ、そこにあるのは真白なドレスやワンピース。
 ――音も無い。
「お師匠さま〜?」
 再度呼びかけてみるが、応えは無い。
 聴こえてくるのは、自分が歩くごとに響く衣擦れの音。ただ、それだけ。
「……お師匠さま〜……」
 ストンと腰を落とし、その場にしゃがみこむ。
 
 白、白、白。
 天地がどちらであったのかさえも分からなくなってしまうような、白い密室。シリューナが創りあげたのは、常人であればさほど時間をかけずに狂気に陥ってしまうであろう、完全な絶望が充ちた空間だ。
 膝を抱え、体を出来る限りに小さく丸め、ティレイラはそれでも師匠の名前を口にする。

「……お師匠さま〜!」

「いいこと、ティレ」
 
 不意に響いたのは、紛れもなくシリューナの声だった。
 ティレイラはがばりと立ち上がり、首が千切れんばかりにぐるぐると辺りを見渡して、
「お師匠さま!」
 希望に満ちた声でそう叫んだ。
 どこから聴こえてくるものか、シリューナの声はクスクスと小さな笑みを漏らし、さらに言葉を続ける。
「いいこと、ティレ。その部屋は、私がおまえのために創った特別な世界なの。その部屋――空間は、おまえが思っているよりも、きっと広い世界になってるわ。その所々にトラップを仕掛けてあるから、それを潜り抜けて、私が隠したあるものを見つけてほしいのよ」
「……あるもの、ですか?」
 声がする方向に目をやって、ティレイラはわずかに首を傾げた。
「紫色のリボンよ。どこかに隠してあるから、それを見つけて。そしたらその場所から出してあげる」
「はいっ! がんばります!」
 こくこくと何度も頷いて微笑むティレイラに、シリューナの声が小さな笑みを零した。
「命に係わるようなトラップは仕掛けてないわ。――でもくれぐれも気をつけてね、ティレ。再び私の元へ戻って来たいのなら」
「……え? どういう意味ですか? お師匠さま」
 訊ねるが、シリューナの声ティレイラの問いかけには応じない。
「お師匠さま〜?」
 ゆっくりと立ち上がって、先ほどまでシリューナの声が聴こえていた方へと足を向ける。
 ――瞬間。
 ぞぶん!
 鈍く、大きな音が、ティレイラ立ち位置のすぐ目の前で足元を貫いた。
 反射的に身を強張らせ、足元へと目を落とす。
「お、おおおお師匠さま〜!」
 足元に突き刺さっていた数本のクファンジャルを確かめて、ティレイラの声が自然と震えた。
 応えは無い。
 部屋の中をぐるりと見渡してみるが、少なくとも、目に見える範囲にはクファンジャルはむろんの事ながら、およそ武器になりえるようなものは見当たらない。
 
 その所々にトラップが仕掛けてあるから

 シリューナの言葉が脳裏を巡る。
  
「……お師匠さまぁ……」
 頼りなさげな呟きを落とし、しかし、ティレイラはすっくと立ち上がって周りを見据えた。
「ううん、私、きっとがんばってみせますっ」
 呟きながら拳を握り締め、自らを奮い立たせるように大きく頷く。
 真白な空間の中にあるのは机と椅子、クローゼット、花瓶に一輪の花。ベッド。そしてクローゼットの中に並ぶ数着の洋服。
 リボンを隠せるような場所は極めて少ない、はずだ。
 目の端に滲んでいた雫を指先で払い落とすと、ティレイラは駆け足に机の方へと向かって行った。

 シリューナは二杯目のアイスティーをグラスに注ぎいれ、それを口に運びつつ、水晶球に映りこんでいるティレイラの動向に目を細ませていた。
 水晶球の中、ティレイラは机の引き出しを開け、その中から飛び出した得体の知れない獣に襲われたりしていた。
 椅子に座れば電流がほとばしり、ベッドに腰掛ければ、シーツの下から恐ろしい地獄の魍魎が這い出て来たりもした。
 洋服がしまわれてあるはずのクローゼットを開ければ、その中から現れたのは身を切り裂く暴風であったりもした。
 全てがシリューナの仕掛けた魔法トラップによるものだった。
 シリューナは水晶球を指先で突きながら、ティレイラがあわあわと慌てふためき、復活し、そして再びあわあわと驚愕したりしているのを眺めて微笑んでいた。
「……さて、と」
 アイスティーの残りを一息に干し、シリューナはゆっくりと片手を持ち上げて水晶球の上へとかざす。
「もうそろそろ限界かねえ」

 リボンが隠されていそうな場所は、一通り全てを捜してみたはずだった。
 机の引き出しも開けたし、椅子も引っくり返してみたりしたし、クローゼットもベッドも調べてみた。
 それでも、シリューナが隠したという紫色のリボンは見つからなかった。
 数度の空間移動――移動するごとにトラップが発動するようなものだったから、なるべくそれを避けようとして、自分に鞭打って使った能力だった――などの影響もあってか、今や、ティレイラの体力も気力も底をついていた。
 ボロボロになった体を引きずって、ティレイラは再びストンと腰を落とし、うずくまる。
 涙が頬を伝い、真白な空間の中へと吸い込まれていく。
「お師匠さまぁ……」
 ぼそりと呟きを落として目をしばたかせた。
 ――と、ふわりと鼻先をかすめたのは、真白な花瓶に挿された真白な一輪の花の香り。
「……いいにおい」
 ふと顔を持ち上げて花の方へと目を向けた。
 そして。
「――あ……」
 何事かを思いつき、ティレイラは床を這うようにして花の傍へと近寄った。
 花は真白な百合によく似たものだった。
 ゆっくりと手を伸ばし、花へと指をかける。
 不思議と、花にはトラップは仕掛けられていないようだった。
 すらりと花を抜き取って、それを顔の前へと持ってくる。
 茎の部分までもが真白な色をしている花だったが、この空間の中で、唯一の色を持ってもいた。
「お」
 歓喜に震え、シリューナの名前を口にしようとした、その瞬間。

 ぱちん

 シャボン玉が割れる音にも似た、小さな音が響き渡った。
 気付けば、ティレイラは見慣れた部屋――シリューナのプライベートルームの床の上で寝転がっていたのだ。

「頑張ったわね、ティレ」
 声と共に顔を覗かせたのは、満面の笑顔を浮かべたシリューナだった。
「お、お、お師匠さまぁ」
 こみあげてくる涙は、シリューナの名を口に出すのと同時に、次から次へと流れ落ちてくる。
「わ、私、これを」
 見つけましたと続けようとしたが、言葉は喉の奥に詰まったままで形を成す事はなかった。
 
 真白な空間はなくなった。
 真白な机と椅子も、クローゼットも、ベッドも。そしてそこかしこから現れ出た恐ろしい獣共も、全てが消え失せていた。
 だが、今、ティレイラの手の中には、一輪の百合が握られてある。
 それは、茎の根の方に幅の狭いリボンが結ばれてある、一輪の花。

 シリューナは腰に両手をあてがって小さな息を吐き出し、自らも膝をおってティレイラの頭の傍へと顔を寄せた。
 くしゃりとティレイラの髪を撫で付けて、その頭を自分の膝の上へと持って来る。
「えらいわ、ティレ。――おまえが動けなくなったら私の勝ちっていうルールにしようかって思ってたのよ。でも見事にクリアしたわね」
 微笑むシリューナの赤い双眸に、泣きじゃくるティレイラの顔が映りこんでいた。
「う、う、うええぇぇえっ」
 ティレイラはシリューナの胸に抱きついて精一杯に泣いた。
 怖かったし、寂しかったし、辛かった。
 でも、この笑顔があれば、そんな事など一瞬で払拭出来てしまうのだ。
「思う存分泣いたら、お茶にしようね、ティレ。おまえが持ってきてくれたこの花を飾って」
 優しい言葉と共に、シリューナが満面の笑みでそう囁いた。

 ティレイラが飲んだアイスティーのグラスの中、融け残っていた氷が、カラリと小さな音を立てて崩れていった。



 ―― 了 ――