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月夏夢想
虫の音が響く。此の時期特有の少し湿った空気の間を、夜気に冷やされた風が通り抜けていく。
月明かりに照らされた庭園はぼんやりと淡く光り、篝火の揺れる朱が更に其れを趣深くしていた。
其の好ましい静寂に陸玖・翠が身を預けていると、近くに牛車の音を聞いた。
「……来たか、」
翠は開いていた扇をぱちん、と閉じて式を喚んだ。
奥から音も無く現れた式に凛と告げる。
「出迎えと、月見酒の準備だ。」
了承を仕草で示して、無言で散っていく式を見送って、翠はふいと空を見上げた。
東から、丸い月が昇り始めている。
翠の屋敷に近附く人間は少なかった。
其れは彼女が持つ強大な力だとか、人魚の肉を口にした所為での不老だとかを噂立てられて居たからだろう。
そして亦、翠自身も自分が周囲から如何見られているかを理解していたから。
――畏怖の存在、人為らざる者、化け物……。
実際面と向かって云われる事は無いけども、噂を流れ聞いたり、偶に出会う視線が如実にそう語って居た。
然し翠は、其れ等に対して何の行動も起こさなかった。
仕方の無い事か、と何処か他人事の様に捉えていたし、弁明等、する事自体面倒だった。
第一噂の内容も多少誇張されてはいるモノの、大筋は間違って無いと思っている。
だからか。
自分の素性を知って尚、親友という立場で居続ける水端・蒼司と云う此の存在が、翠には特異に見えた。
翠よりも遙か位の高い蒼司が態々、斯うして杯を交わしに忍んで来るのも不思議だった。
蒼司程の位が有れば、交友関係等選び放題で、屹度放って置いても相手から頭を垂れてでも遣って来るだろう。
其れとも、私と云う特異な存在を見て愉しんでいるのだろうか。
そんな、何処かズレた思考を頭中で広げつつ、翠は向かいで杯を傾けている蒼司を見遣った。
傍らで式が空いた器を下げている。
翠も自身の杯を傾けて、少し温まった酒を口内に含んだ。
そして、「良い月だ、」と空を見上げていた蒼司の横顔にぽつりと云って寄越した。
「私みたいな存在と良く酒が飲めるな。」
其の声音に含まれた感情は何だろう。
――疑問、呆れ、興味……唯の、独白か、
「何だ、突然。」
翠の声に振り返った蒼司が、眼を丸くしていた。
其の顔が面白かったので翠は小さく笑った。
「否、不図思ったんだ。」
――気にするな。
そう云って視線を杯に落とそうとした時。
「当たり前だろ。」
蒼司の声が心地良く響く。
翠は勢い良く視線を上げ、蒼司を見た。
真顔の蒼司と視線がかち合う。
「御前がどんな存在であろうと俺の親友に変わりは無いよ。」
蒼司はそう、きっぱりと云い切り、今度は翠が少し眼を見開いた。
其れを見て蒼司は表情を緩ませると、亦空の月を見上げる。
「俺が死んで……五百年経って、千年経って。御互い解らなくなっても亦、斯うやって酒が飲めると良いなぁ。」
蒼司は眼を細めて、しみじみと呟いた。
其の声音に、表情に。
――翠を大切な友として想う気持ちが何れ程込められていただろう。
動けない侭、結果蒼司の横顔を眺めていた翠の頬に僅か朱が差していた。
其れは屹度、酒の所為では無いだろう。
蒼司は其の様子に気附き乍も、からかう事はせず柔らかに笑った。
「さて、虫の音だけでは少し淋しいな。」
そう云って蒼司は懐から笛を取り出した。
「何か希望は、」
笛を構えて翠を見遣る。
「……否、御前の気分で吹いて呉れ。」
漸く落ち着いて、表情を元に戻した翠は緩く首を振って返した。
其れを聞いて蒼司は微笑み、頷いた。
――虫の音に馴染む様に、笛の音が響き渡る。
* * *
笛の音……否、其れを掻き消す程、いっそ煩い位に鳴き始めた虫の音に翠はハッとなる。
傍らに、膝から落ちたのか不自然な格好で本が開かれていた。
縁側を吹き抜けていく風に、ぱらぱらと頁がはためく。
「…………、」
寝ていたのか、と柱に凭れていた躯を起こす。
此亦不自然な格好だった為か、背中やら腰やらが僅かに痛んで眉を顰めた。
書見の時に飲んでいた茶が、冷えて其の侭茶飲みに残っているのを見て一気に呷った。
こと、と其れを置くと手を叩いた。
すると部屋の奥から盆を持った式が音も無く寄ってくる。
翠は差し出された杯を受け取り、茶飲みを下げて行く式を見送った。
二三度手の中で杯を揺らして遊ぶと、南天に昇り始めている月へと掲げる。
「懐かしい夢だった、な。」
口の端を微かに上げて呟く。
そしてちびりちびりと杯に口を附けた。
――さぁ、アレからもう千年は経っただろうか……、
夢で見た彼の科白が蘇る。
『……五百年経って、千年経って。御互い解らなくなっても亦……、』
杯に月が映り込み、揺れる。
彼の日もこんな月夜だったか……。
翠はフイと眼を細め、少し淋しげに微笑んだ。
自分は御前と亦酒を飲み交わせる日を待っていると云うのに。
――彼奴は今頃何に成って何をしているのかねぇ。
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