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隠レタ月
蟻に似ている――。
黒い巨躯。角張った細い脚は胴体に、まるで接着剤でつけられているかのようにどこか危なっかしい。
頭の部分にあるのは口だけだ。その口も、並んでいる尖った歯が目立ち、あふれ出る涎が地べたに跡を作っていた。
かさかさと路地裏に入って行くソレは、追われていた。
背後から追って来る気配はまだ遠い。
ソレは焦っていた。
退治されてしまう。殺されてしまう。命が奪われてしまう。
そんなのはイヤだ。
イヤ、だ。
道を駆け抜け、そしてそこにいた娘に…………。
*
守永里堵。
彼女は幼い頃から戦ってきた。中学にあがった頃あたりから、彼女は普通の人間とは違う道を進み始めたのだ。
義務教育である中学には通ってはいたが、里堵は……ズレをいつも感じていた。
周りの、同い年の少女たちはテレビ番組やドラマ、それによく読む雑誌の話で盛り上がっていた。
無論、里堵にわかるはずもない。
里堵は狩人。一般人のような娯楽など、理解できるはずもなかった。いや……理解することが『できなかった』のだ。
彼女は19の時に一人前と認められ、それからこうして常に夜の闇に身を置くようになった。
闇は居心地がいい。昼間は苦手だ。
里堵は長い髪をなびかせて疾走していた。
今宵、彼女が追っていた獲物は逃げた。危険を察知して逃げるとは、なかなかに勘がいい。
(……逃がすものか)
まだまだ自分は未熟だ。認められてまだ一年……短い。
一つの仕事も、手を抜くわけにはいかない。未熟というのは理由にならない。これからもこの仕事を続けていくには、一つ一つの仕事を着実にこなしていかねばならないのだ。
裏道を走り、細い路地を走り。
里堵は怪訝そうにした。
何かおかしい。
(もう追いついてもいい頃だ。なんだ……?)
彼女はぎくっとしたように一瞬でそこから後ろに跳躍する。ずざっと音をたてて着地すると、周囲を見回した。
(……攻撃された? どこから?)
里堵は姿勢を正し、それから目を見開いた。
目の前に娘が立っている。だがそれは、里堵も見知った顔だった。
中学一年の頃――同じ班になって優しくしてくれた、クラスメート……。面影がはっきり残っている。
二年になってからは顔を合わせることもなかった彼女と、こうして七年ぶりの再会。
どうして。と思った。
里堵にとっては学校など、あまり記憶にない。彼女にとっては戦闘技術を叩き込まれることが全てだった。
世間に妙に思われないように学校にだけは通わされた。それだけのこと。
しかし、あの遠足でのこと。同じ班になった彼女。
慣れない親切にぶっきらぼうにしか対応できなかった自分。
「ど、どうして……?」
尋ねると、娘は小さく笑った。七年も経っているためか、彼女は化粧もしている。
その姿に里堵は胸の奥に妙なざわめきが走ったのに気づいた。
(今の……?)
不思議になるが、彼女の声に意識が逸れた。
「久しぶりね、守永さん」
「お、憶えて……」
信じられない。自分にとって印象が強くても、相手にとって自分は些細な存在だと思っていたのだが。
「昔とちっとも変わってないのね。飾り気もないし、無表情だし……。何考えてんだか、わかりゃしない」
「……あなたは『誰』だ?」
「知ってるでしょ? とは言っても中学でたった一度だけ同じクラスになった……それだけ」
「知っているし、憶えている。だが……違う」
なにより、この薄暗さだけではない顔色。まるで雨蛙のようだ。黒緑色の肌は、里堵の勘違いではないし、見間違いでもないだろう。
「何かに憑かれたのか?」
「…………」
彼女は目を細めた。白けた表情で里堵を見ている。
「どうしてそう思うわけ?」
「顔色が悪い」
里堵の言葉に相手はきょとんとしてから、げらげらと笑い声をたてた。
「なにそれぇ! ふふっ、あはははは!」
「笑い事ではない。鏡で顔を見ればわかる。自覚症状がないのか?」
憑かれていると気づいていないのかもしれない。
だがどうやって引き剥がせばいい?
(私は……戦うだけだ。相手を滅する存在だ)
愕然と、した。
なぜ今まで気づかなかった?
(私には『戦う術』しかない。彼女を救う方法を知らない……)
普通に攻撃したのでは、彼女の肉体を貫いてしまう。それでは殺すことになる。
「どうしたの? わたしを攻撃しないの?」
にたりと笑う娘に、里堵は押し黙る。
視線を落とした時にハッとした。
ストッキングが伝線……いや、足そのものに線が走っているのだ。そこから覗くのは黒いモノ。
(あれは……私が追いかけていた魔物の脚!)
では目の前のいる彼女は……。
(もう――死んでいるのか?)
脳を喰らって記憶を奪ったのか。そして皮を被り、こうして目の前に?
「…………」
きゅ、と里堵は唇を引き締めた。
「その姿でいれば、私が手も足も出ないと思っていたのか?」
「え?」
「昔の知り合いだったのはおまえには幸いした……。おまえは、誰でも良かったんだろうが」
里堵は右腕を擦る。ぼう、と腕が光りを帯びた。
光っているのは彼女の腕に描かれた幾何学模様だ。それらが里堵の命令に呼応している。
「もう死んでいるならば……ためらいなど」
ありはしない。
*
人垣ができている。
噂し合う人々。
警察は黄色いテープを張って、一般人を入れないようにしている。
細い路地の出口。大通りに出るそこには、おびただしい血と、ハンドバッグが……落ちていた。
ハンドバッグの中身は散乱し、血の海に浮かんでいる。
「見かけた人は、蟻みたいなものがOLをさらっていったとか」
「やあね。それ、見間違いでしょ?」
「ここで胸をズバーっと貫かれたんだって! くそっ。突然すぎて携帯構える暇もなかったぜ〜」
などと……人々が口々に言っている。
それを遠くで見ていた里堵は、救急車のサイレンの音を聞きながら重い足取りで歩き出した。
戦い、魔を狩ることはいいことだと思っていた。いや、それしか自分にはないのだ。いいも悪いもないだろう。
(私は……)
自分の姿を見下ろす。
不審に思われないように黒のパンツスーツ姿だが、化粧もしていない。
同い年のあの娘の華やかな姿。
(……どうして)
私は、ああなってはいけないんだろう?
ただ戦うだけで。何一つ。
(救えなかった……。今回はたまたま相手が死んでいたから良かっただけだ)
風が吹く。
里堵の長い髪が揺れた。
空を見上げると月が在る。
(……私は生涯、このまま戦いに身を投じていく事になるのだろうか?)
里堵の胸をざわめかせたもの……それは『憧れ』だった。
昔のクラスメートは綺麗になった。綺麗な服を着て、楽しそうに街を歩く。
だが私は?
どうしてこんなに違うんだろう。里堵は沈んだような表情をする。だが本人はそんな表情を浮かべたつもりはない。
戦うことは嫌いではない。自分にはそれしかないのだ。
だが……戦った、その先には何があるのだろう?
(何もないのでは……?)
里堵は何かを求めてこの仕事をしているわけではない。
里堵にはこの生き方しかわからないだけだ。
月が、雲に隠れてしまう。「あ」と里堵は小さく呟いた。
目を細めた彼女は視線を前に戻し、歩き出す。闇に紛れるように、足音もなく――――。
(これから先……私は変わることなどありえるのだろうか……)
里堵は細い路地に入り、そのまま闇に溶け込むように歩き去ってしまった。
しかしいまだ、雲は月を隠したまま……。晴れる様子は今のところ、ない。
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