コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


隠レタ月



 蟻に似ている――。
 黒い巨躯。角張った細い脚は胴体に、まるで接着剤でつけられているかのようにどこか危なっかしい。
 頭の部分にあるのは口だけだ。その口も、並んでいる尖った歯が目立ち、あふれ出る涎が地べたに跡を作っていた。
 かさかさと路地裏に入って行くソレは、追われていた。
 背後から追って来る気配はまだ遠い。
 ソレは焦っていた。
 退治されてしまう。殺されてしまう。命が奪われてしまう。
 そんなのはイヤだ。
 イヤ、だ。
 道を駆け抜け、そしてそこにいた娘に…………。



 守永里堵。
 彼女は幼い頃から戦ってきた。中学にあがった頃あたりから、彼女は普通の人間とは違う道を進み始めたのだ。
 義務教育である中学には通ってはいたが、里堵は……ズレをいつも感じていた。
 周りの、同い年の少女たちはテレビ番組やドラマ、それによく読む雑誌の話で盛り上がっていた。
 無論、里堵にわかるはずもない。
 里堵は狩人。一般人のような娯楽など、理解できるはずもなかった。いや……理解することが『できなかった』のだ。
 彼女は19の時に一人前と認められ、それからこうして常に夜の闇に身を置くようになった。
 闇は居心地がいい。昼間は苦手だ。
 里堵は長い髪をなびかせて疾走していた。
 今宵、彼女が追っていた獲物は逃げた。危険を察知して逃げるとは、なかなかに勘がいい。
(……逃がすものか)
 まだまだ自分は未熟だ。認められてまだ一年……短い。
 一つの仕事も、手を抜くわけにはいかない。未熟というのは理由にならない。これからもこの仕事を続けていくには、一つ一つの仕事を着実にこなしていかねばならないのだ。
 裏道を走り、細い路地を走り。
 里堵は怪訝そうにした。
 何かおかしい。
(もう追いついてもいい頃だ。なんだ……?)
 彼女はぎくっとしたように一瞬でそこから後ろに跳躍する。ずざっと音をたてて着地すると、周囲を見回した。
(……攻撃された? どこから?)
 里堵は姿勢を正し、それから目を見開いた。
 目の前に娘が立っている。だがそれは、里堵も見知った顔だった。
 中学一年の頃――同じ班になって優しくしてくれた、クラスメート……。面影がはっきり残っている。
 二年になってからは顔を合わせることもなかった彼女と、こうして七年ぶりの再会。
 どうして。と思った。
 里堵にとっては学校など、あまり記憶にない。彼女にとっては戦闘技術を叩き込まれることが全てだった。
 世間に妙に思われないように学校にだけは通わされた。それだけのこと。
 しかし、あの遠足でのこと。同じ班になった彼女。
 慣れない親切にぶっきらぼうにしか対応できなかった自分。
「ど、どうして……?」
 尋ねると、娘は小さく笑った。七年も経っているためか、彼女は化粧もしている。
 その姿に里堵は胸の奥に妙なざわめきが走ったのに気づいた。
(今の……?)
 不思議になるが、彼女の声に意識が逸れた。
「久しぶりね、守永さん」
「お、憶えて……」
 信じられない。自分にとって印象が強くても、相手にとって自分は些細な存在だと思っていたのだが。
「昔とちっとも変わってないのね。飾り気もないし、無表情だし……。何考えてんだか、わかりゃしない」
「……あなたは『誰』だ?」
「知ってるでしょ? とは言っても中学でたった一度だけ同じクラスになった……それだけ」
「知っているし、憶えている。だが……違う」
 なにより、この薄暗さだけではない顔色。まるで雨蛙のようだ。黒緑色の肌は、里堵の勘違いではないし、見間違いでもないだろう。
「何かに憑かれたのか?」
「…………」
 彼女は目を細めた。白けた表情で里堵を見ている。
「どうしてそう思うわけ?」
「顔色が悪い」
 里堵の言葉に相手はきょとんとしてから、げらげらと笑い声をたてた。
「なにそれぇ! ふふっ、あはははは!」
「笑い事ではない。鏡で顔を見ればわかる。自覚症状がないのか?」
 憑かれていると気づいていないのかもしれない。
 だがどうやって引き剥がせばいい?
(私は……戦うだけだ。相手を滅する存在だ)
 愕然と、した。
 なぜ今まで気づかなかった?
(私には『戦う術』しかない。彼女を救う方法を知らない……)
 普通に攻撃したのでは、彼女の肉体を貫いてしまう。それでは殺すことになる。
「どうしたの? わたしを攻撃しないの?」
 にたりと笑う娘に、里堵は押し黙る。
 視線を落とした時にハッとした。
 ストッキングが伝線……いや、足そのものに線が走っているのだ。そこから覗くのは黒いモノ。
(あれは……私が追いかけていた魔物の脚!)
 では目の前のいる彼女は……。
(もう――死んでいるのか?)
 脳を喰らって記憶を奪ったのか。そして皮を被り、こうして目の前に?
「…………」
 きゅ、と里堵は唇を引き締めた。
「その姿でいれば、私が手も足も出ないと思っていたのか?」
「え?」
「昔の知り合いだったのはおまえには幸いした……。おまえは、誰でも良かったんだろうが」
 里堵は右腕を擦る。ぼう、と腕が光りを帯びた。
 光っているのは彼女の腕に描かれた幾何学模様だ。それらが里堵の命令に呼応している。
「もう死んでいるならば……ためらいなど」
 ありはしない。



 人垣ができている。
 噂し合う人々。
 警察は黄色いテープを張って、一般人を入れないようにしている。
 細い路地の出口。大通りに出るそこには、おびただしい血と、ハンドバッグが……落ちていた。
 ハンドバッグの中身は散乱し、血の海に浮かんでいる。
「見かけた人は、蟻みたいなものがOLをさらっていったとか」
「やあね。それ、見間違いでしょ?」
「ここで胸をズバーっと貫かれたんだって! くそっ。突然すぎて携帯構える暇もなかったぜ〜」
 などと……人々が口々に言っている。
 それを遠くで見ていた里堵は、救急車のサイレンの音を聞きながら重い足取りで歩き出した。
 戦い、魔を狩ることはいいことだと思っていた。いや、それしか自分にはないのだ。いいも悪いもないだろう。
(私は……)
 自分の姿を見下ろす。
 不審に思われないように黒のパンツスーツ姿だが、化粧もしていない。
 同い年のあの娘の華やかな姿。
(……どうして)
 私は、ああなってはいけないんだろう?
 ただ戦うだけで。何一つ。
(救えなかった……。今回はたまたま相手が死んでいたから良かっただけだ)
 風が吹く。
 里堵の長い髪が揺れた。
 空を見上げると月が在る。
(……私は生涯、このまま戦いに身を投じていく事になるのだろうか?)
 里堵の胸をざわめかせたもの……それは『憧れ』だった。
 昔のクラスメートは綺麗になった。綺麗な服を着て、楽しそうに街を歩く。
 だが私は?
 どうしてこんなに違うんだろう。里堵は沈んだような表情をする。だが本人はそんな表情を浮かべたつもりはない。
 戦うことは嫌いではない。自分にはそれしかないのだ。
 だが……戦った、その先には何があるのだろう?
(何もないのでは……?)
 里堵は何かを求めてこの仕事をしているわけではない。
 里堵にはこの生き方しかわからないだけだ。
 月が、雲に隠れてしまう。「あ」と里堵は小さく呟いた。
 目を細めた彼女は視線を前に戻し、歩き出す。闇に紛れるように、足音もなく――――。
(これから先……私は変わることなどありえるのだろうか……)
 里堵は細い路地に入り、そのまま闇に溶け込むように歩き去ってしまった。
 しかしいまだ、雲は月を隠したまま……。晴れる様子は今のところ、ない。